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歴史的世界と人倫の問題 : 存在の探究(その2)

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Academic year: 2021

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(1)Title. 歴史的世界と人倫の問題 : 存在の探究(その2). Author(s). 上岡, 宏. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. A, 人文科学編, 41(2): *1-16. Issue Date. 1991-03. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/4220. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 第 一部A)第四 一巻 第二号 平成三年三月 北海道教育大学紀要 (. 歴史的世界と人倫の問題. 岡. 宏. 遡 ってそ の雛 形 を調 べる必要 があ ると述 べた。 そし て事物 と人間 を. 先 の論文 で我々は、現実世界 の存在構造を解明するには過去 へ. ば、我々が先の論文で再構成を試みた青銅器時代の構造連関 の展開. 時間 は、 それ以前 の三万年 余 り の時 間 に比 べて、 まだ継 続中 だ と考. 験 し てな いのだ とす れば 、農耕 方式 に入 ってから の 一万年 足 らず の. , ーー, 存 在 の探 究 ( そ の 2)ー ー・. 上. れが新し い連 関構 造 にと って代ら れ るま での期間 と いう も のは、 想. 像 以上 の長 さだ と いわ なけ れば なら な いだ ろう。食 糧 に関 す る限 り、. 貫く連 関構 造 を、比較 的 見易 い太古 の時 代 に ついて追究 し よう と試 みた。 石 器時 代 や最古 の文明 は、史料 が少 な いだけ に却 って本質 的. と完 結 は、農 耕 型 用 具連 関 と いう大 枠 の中 の最 初 の 一区切 り にすぎ. はじ め に. な面が露出 し て いる場合 があ り、論 理的 に考 え る こと で或 る程度自. ず、 紀前 六世紀前 後 から始 ま った新 ら し い時代 は、 次 の小 区分 を な. 人類はまだ狩猟採集方式の獲得手段と農耕方式のそれの二つしか経. 由 に隙 間 を 埋 め る こと が 可能 だ と思 わ れ た から であ る。 そ の結 果. す構 造連 関 な のだ と考 えざ るを えな くな るだ ろう。. こう した観点 に立 つと、 現実 世 界 の構造 の研究 が、も はや過 去 に. える方が ここ では妥当 な捉 え方 だ と思 われ てく る のであ る。 とす れ. 我 々は、 あ る特 定 の用 具連 関 は、 それ自 体 の展開 可能 性 によ って現 実 世界 の構造 に転換 を も たらし、 一つの完 結 に達 す るま で至 る所 に. 年 単位 で数 えら れ る時 間 を必要 とした。 つまり農 耕 が本格 化 し て か. 年数 を要 し た石 器時代 は別 とし て、農 耕 が始 ま ってから少 く とも千. こう した連関 構 造 の展開 と完結 は、 先 の考察 によれば 、 万単位 の. が って いる。例 えば古 代ギ リ シ ャのアテナ イ におけ る政 治的 スキ ャ. は我 々 にと って無 縁 であ るど ころ か、 むし ろ我 々 の未 来 に直 接 つな. 圏 に属 し ており、 いわば 歴史 的現在 を構成 し て いる。 ここでは過 去. るま で の二千 五百年 は、 我 々 のこ の現在 におけ る過去 と未 来 の問題. 遡 って雛 形 を調 べるよう な段 階 でな いこと は明白 であ る。 現代 に至. ら青銅器文明が芽生え、 古代神権王朝が成立して終霧を迎えるまで、. 波 及 す ることを確 認 した のであ った。. 少 く とも 五千年 の時間 を要 した のであ る。 こう し た時 間 の長 さを考. ンダ ルや金 権 政 治 は、我 々 の今 日 の姿 であ り 明 日 の存 亡 にも つな が って いるのであ る。従 って、 そ こに見 ら れ る連 関構 造 は、本 質 的. え てみると、 一つの構造 が展開 を始 め て完結 す るま で、あ る いは そ.

(3) . . 宏. 上 岡. 条 件 が変 ら ぬ限 り、今 日 にも あ ては ま ると い った ことも起 ってく る. の神 権 的 王朝 は、後 進 国 を除 けば ど こ にも 見 ら れな く な った のが こ. た。 そ の ペルシ ャも 一世 紀後 には亡び てし まう。 も はや青 銅 器時 代. 二. だ ろう。. のはす でに完結 し、 と って代 ら れ つつあ る のかと いう 問題 であ る。. の 二千 五百年前 に始 ま った構 造連関 の展開 は現代 でも続 いて いる の か、 それとも産業 革命 の頃 から新 し い展開 が始 ま って いて、 今 ま で. す る のが今 回 の目標 であ る。 我 々 にと って、 今 回興味 があ る のは こ. 展開 の中 で、 旧時 代 に代 るも のと し て何 が登場 し影響 し た かを追 及. て進 めら れ ること にな る。 農 耕 と いう青 銅 器時 代 と同 じ食 糧 的 用具 連関 に立 って、余 剰食糧 と非 農 耕 民 の輩出 と都 市 国家 の形成 と いう. 文字 と パ ピ ル スあ る いは竹簡 のよう な紙 の先 駆を な し た 用具 の方 で. とす る こと に寄 与 し たと い ってよ い。精神 面 に影響 し た のは む し ろ. 的安 価 な ことと、 研げ ば 輝 く がすぐ錆び る性 質が、 鉄 を端 的 な道 具. あ ったが、青 銅 器 のよう に王権 の象 徴 とな るよう な精神 面 への影響. な か った よ う であ る。 も ち ろ ん性 能 とし て の道 具 的 価 値 は 抜 群 で. の農 具 と武 器 が まず 挙げ ら れ るが、 これは青 銅器 ほど の波 及効 果 は. の時 代 だ った の であ る。. 本 論 文 の枠 内 では そ の答 はまだ出 せな いと思う が、 これ に答 え る に. あ った。 周知 のよう に文字 の起 源 は非常 に古 いが、 それ は大 て い国. かく て今 回 の論 考 は、 先 の論 文 で捉 え ら れ た雛 形的連 関 を ふま え. は歴史 時代 の展開 を前 回 よ りは少 し詳 しく考察 す ることがどう し て. 盛 り こめたが、表 音文 字 だ と それも望 めな い。 それが青 銅 器時 代 の. あ ると同時 に表 意 文字 でもあ る こと で、 金 石文 でも かな り の内 容 が. る でな か った のであ る。 それ でも中 国 の場 合 は、漢字 が表 音 文字 で. でき る文字数 も大 き さも限 ら れ る から、 余計 な ことを書 く余 地 が ま. 象 は最 も手軽 な場合 でも粘 土板 であ り、 岩 石 や青 銅 器 とな ると記 入. 力を持 つことは、 先進 文 明圏 では殆 ど な か った。 原料 が豊富 で比較. と ころ で用具存 在 の上 から いう と、 こ の時 代 の新 し いも のは鉄製. も必 要 であ る。 それ故 、 こ こ では完 結 よ り は発生 と展開 の方 に的 を. 家 財 政 の記録 と か王 の事蹟 を刻 むと い った公的 なも のに限 ら れ て い て、 考 え た ことを書 く為 のも の ではな か った。 な にし ろ刻 ま れ る対. 新 たな構造 と展 開 の問題. 絞 って、過去 を追 究 す る こと にし よう。. H. 世界史 を年 表 など で眺 め て いると、 同 じ頃 に同 じ よう な人物 や同. が ほぼ こ の時期 に入 る のも そう だ し、書 物 の原型 が登 場 す る のも大. 生没年 に異説 もあ るが、釈 迦 と孔 子 と ソク ラ テ スと旧約聖書 の成立. よくあ るが、紀前 五世 紀前 後 の時 代 はそ の中 でも特 に目立 って いる。. 表音 文字 を作 った のは前 八世紀 前 後 ら し いが、 エジプ ト産 のパ ピ ル. って リ シ ャであ る。 ギ リ シ ャ人 が フ ェニキ ア文字 の導 入 と改良 によ,. し か る にそ の限 界 が突破 さ れ る時 が来 る。特 に顕著 だ った のがギ. 限界 であ った。. 体 こ の前後 であ る。 鉄 器 が 一般 に普 及し、 町 に鍛 冶 屋 が珍 ら しく な. スが 交 易 によ ってあ る程 度 ま と ま って輸 入 さ れ る六 世 紀 頃 にな る ^ 2) と、 次第 に書 物 が作 ら れ るよう にな った。 ただし、 パ ピ ル スが大 量. じよう な事 件 が現 われ て いる こと に気 が ついて不思議 に思 う ことが. くな る のも先進 文明圏 では共 通 し て いた。 そし て、 ペ ルシ ャ帝 国 の. に出 回 る のは ア レキ サ ンドリ ア時 代 以後 であ って最初 は貴 重 品 だ っ. ( 1). 支配 圏 を除 けば 、中 国 も イ ンドもギ リ シ ャも都市 国家 が群 立 し て い.

(4) . 歴史的世界と人倫の問題. れ るよう にな る。 いず れも音 声 言 語 が先 行 し、 書 く こと は要 す る に. が広 が ると、 以前 から上演 さ れ てき た古 典 劇 や重 要 な演説 が筆 記 さ. 一に書 かれ る の は 昔 から 口調 さ れ てき た神 話 や 英 雄 伝 説 の類 であ り、或 いは農事 暦 の役 目 を す る言 い伝 え であ った。 や が て少 し範 囲. た から、 そこ に書 かれ て然 る べきも の には当然 優 先 順位 があ る。第. 王を超 人 だな ど と考 え る人 は誰 も いなく な った わけ であ る。 かく て. 力を折 にふれ ては皮 肉 を こめ て引 きあ いに出 し て いるが、 まじ め に. がな く な ってし まう。 ギ リ シ ャの知識 人 は、 ペ ルシ ャ大 王 の富 と権. んな状況 にな ると、青 銅 器時 代 の神 人 君主 など は全く登 場 す る余 地. け は極 め て合 理 的 であ る から、 いま だ に神 話 伝 説 の流 れ の中 に つ. 今 や政治と道徳 と いった広義 の人倫 の問題が知識人 の関心事 とな. か って いる民衆 に対 し ては啓 蒙 の役 割 を充分 に果 し た のであ る。 こ. 口述筆 記だ った わ け であ る。 し かしながら 、文字 と音声 言 語 の逆転 はも ち ろん始 ま って いた。. され ると いう順序 が むし ろ普 通 にな る。 ヘロド ト ス の史 書 など はま さ に読 まれ るだ け の書 物 であ り、 そ の点 では先 駆的 であ った。プ ラ. て新作 コンクー ルを す るよう にな ると、 まず 脚本 が書 かれ次 に上演. たも のではな い。 孔 子 の時 代 には、 す で にそ こから周 王朝時 代 の歴. 歴史 を かな り復 元 でき る。 ギ リ シ ャと違 って、 文字 は昨 日今 日出 来. 中 国 でも、 同 じ頃 に同 じ ことが起 って いた。 先述 のよう に、 漢字. り、 改 め て国家 統 治 の理念 が浮 上 し てく ること にな る。. ト ン の対 話 篤 の方 が ま だ し も 脚 本 ・上 演 の可 能 性 を残 し た 形式 を. 歴史 の父 ヘロド ト スを筆 頭 に、 新 し い悲 劇 作家 や喜 劇 作者 が登場 し. と って いるだ け保 守的 だ った のであ る。 ただ しプ ラ ト ンの場合 は、. 史 を編年 的 に構成 す る作 業 が行 われ て いた のであ る。 同時 にそ れは 国家 統 治 の理念 を模 索 す る最初 の試 みでもあ った。 孔子 の 「 春秋」 から司馬遷 の 「 史 記」 ま での四世紀程 の間 に、 中 国 人 の歴史 に即し. で は イ ン ド で は ど う だ った ろ う か 。 こ こ で は 、 ギ リ シ ャや 中 国 と. 3) (. は字 数 が少 く ても多 く のことが読 みとれ るから、 金 石文 でも過 去 の. と いう彼 の態度 にも関 係 が あ るだ ろう。だ が 一般 には、 プ ラト ンの. て人倫 を論ず る伝統 は抜 きが た いも の にな ってゆく のであ る。. 哲学 の真 髄 は語 ら れ る言 葉 の方 にあ り、書 物 は そ の写 像 にすぎ な い 著作 です ら書物 とし て流 布 し て い った。富 裕 な読書 階 級 のた め に、 奴 隷 を使 って転 写 も しく は 口述筆 記 し た本 が販売 さ れ、 それ と共 に. ると急 に輝 きを失 い始 め る のは、前 後 の矛盾 や誇 張 が読者 に気 付 か れ ると、読者 の目が そ っち に向 ってしまう から であ る。こう な ると、. と読 む に耐 えな い話 は いく ら でもあ る。神話 伝 説 の類が文字化 され. 説 明 できな いも のを排 斥 す る。 聞 いて いると面白 いが、 文字 にす る. めるま でも な いだ ろう。文字 に立脚 し た思考 は合 理的 か つ整合 的 に. こうし た傾向 が人 々 の精 神 面 にどんな波 及効 果 を 及 ぼす かは確 か. 中 で、 そ の戦士階 級 に属 す る王族 の中 から釈迦 が登場 し てく る ので. ると、 それ に対抗 できな く な って いた。 そう した思想状 況 の流 れ の. な っており、 一階 級 下 の戦 士 階級 から イ ンド哲学 の奥義 書 が出 てく. し つづけ る内 に、 人間 精神 へ響 きわ た るような思想 の鼓 が打 てなく. る形 にな った から であ る。 バラ モン階級 は祭簾、 供犠 の儀 式 に専 心. 間 を かけ て文字 にされ てく る に つれ て、却 ってそ の権 威 を低 下 さ せ. 彼らが中心に置 いた神々 への讃歌や神々を祭る儀礼 の詳細が長 い時. は異質 の展開 があ ったよう であ る。長 い間 のバラ モン階 級 の君臨 は、. 哲学的思考などの場合は合理性 一本やりでたちまち唯物論的で無神. あ る。 文字 の持 った波 及効 果 と いう点だ け から いえば 、 イ ンド にも. 市 民 の間 で教養 が重 視 され るよう にな ってゆく のであ る。. 論的 な自 然観 の方 へ走 り出 す。 ソ フィ スト の相 対真 理説 な ども見 か. 三.

(5) . . 宏. 上 岡. 神話 の後 退 と理論哲 学 の浮 上 が見ら れ るが、 そ の展開 が さし当 り国. な展開 は、高 すぎ る生産 力 の地 域 でも な ければ 、低 すぎ も し な い所. 併 用し て、全体 と し て の水準 はそれ に近 付 いて いた であ ろう 。新 た. 四. 家 理念 と は無 関係 だ った点 はイ ンド の特 異性 と いう べき であ ろう。. から始 ま った の であ る。 それは新 石器 から金 石併 用時 代 にかけ て の. . さ て、 我 々の時 代 とも いう べき歴史 時代 は このよう にし て始 ま っ. アー ル) 百 キ ロを越 え る収 量 があ れば 、 単位労 働 力当 り の可耕 面積. でそれを く り かえす必 要 はな いだ ろう。米 でも麦 でも 反当 り ( 約十. あ れば 都市 国家 誕生 に つな が る かを シ ュミ レートし て みたが、 こ こ. 先 の論 文 で我 々は、家 族 単位 に換 算 し てど の程度 の農 業 生産 力 が. ベ ルに達 し た時 点 から、新 時代 の展開 が始 ま った のだ から であ る。. 偶 然 ではな い。 旧支 配階 級 の衰 え によ る新 知識層 の拾頭 と いう イ ン ド の特殊 な ケ ー スを除 けば 、ギ リ シ ャも中 国 も農業 生産 力 が或 る レ. 銅 器時 代 の残津 を か かえたま ま殆 ど 眠 って いた のであ る。 そ の意 味 では、我 々 の歴史 時 代がギ リ シ ャ ・イ ンド ・中 国 から始 ま った のも. は同 じだ った。 イ スラ ム教 の登場 ま では、 こ の地域 の連 関 構造 は青. いもあ って、 そ れが ロー マ人 や パ ルテ ィア人 の支 配 に変 っても事態. る新 王朝 が ペルシア の次 にギ リ シ ャ人 のそれ と いう 形 で相 次 いだ せ. のま ま であ った。特 に エジプ トや メ ソポ タ ミア では、 征服 民族 によ. でに前時代から充分な余剰生産力があ った低緯度地方では、旧時代. ギ リ シ ャな ど中緯 度 地方 の都市 国家 に農業 立 国をもた ら したが、 す. 漸 増 した程度 で、 基本的 な変 化 はな か った。 そ の波 及効 果 は中 国や. 圏では単位労働力の可耕面積が拡大したことによ って余剰生産力が. た中 高緯 度 の森 林 地帯 の開 墾 を 可能 にした こと であ るが、 先進文 明. る道 具 ではな か った。鉄 器 が果 した役 割 は これま で農 耕 が困難 だ っ. 商 業 国 が有 利 な商 品を 見 つけ るとた ちま ち逆転 し た。 そし て こ の辺. 家 にと って何 よ り の安 全保障 だ から であ る。 と ころが こ の関 係 は、. と い っても最初 は有利 だ った ろう。自 立自 存 が可能 であ る こと は国. 捌 け る商 品 を作 り、 それ によ って他 国 の余 剰食 糧 を買 い付 け る必 要 があ った。 この 二 つの方向 は、食 糧 生産力 のあ る農 業 国家 の方 が何. いく つもあ った はず であ る。 そ こ では、 人 々はどう し ても何 かよく. と いう のが そ の目的 だ った。し かし、そ れが 不可能 な土地 も当然 あ っ た。自給 自 足 も手 一杯 で人 口が増 え れば食 糧 不足 の心配 があ る国 は. を確 保 し、 そ の余 剰食 糧 で職 人 を呼び よ せ、 必要 な品物 を 入手 す る. 方 途 はまず 農 業 生産力 の増 大 であ った。 つまり、 まず 自 国 民 の食 糧. 想 され る。 国家 統治者 はど こでも 国 の発 展 を願 った が、 そ の可能 な. ど の国 も最初 は自給自 足体制 を目ざ し ただ ろう と いう ことが当 然 予. と ころ で、 これら の都 市国家 を農業 生 産力 の観 点 から眺 め ると、. るよう に、 新時 代 の展開 は全 く新 し い場所 で行 わ れた のであ った。. ミケーネ文 明 の王城 が埋 も れた遺跡 とし て発掘 された例 が示 し て い. た所 に城 下町 が す で にあ ったと いう場合 もあ るが、ギ リ シ ャでは、. と いう 順序 を改 め て踏 襲 し始 めた わけ であ る。 も ち ろん中 国 のよう に、 周 王朝時 代 の名 残 り でそ の血筋 の者 が地方 の王 とし て封ぜ ら れ. そ の周 辺 に集 ま り出 し て、 いく つか の集 落 の中 間 地点 に町が出 来 て. エジ プ ト や メ ソポ タ ミ アと殆 ど 同 じ論 理的 展 開 だ った と い ってよ い。 つまり まず 農 民 の集 落が出来 て、余 剰食 糧 を求 め る職 人階 級 が. たのであるが、新登場 の鉄器も文字も農耕的連関構造 の根底を変え. と の積 で、自 家 消 費分 の 一 ・五倍 の生産 量 が可能 だ と いう ことがす. り から、青 銅 器時 代 と少 し異 った構 造 の展開 が始 ま り出 す のであ る。. こう した展開 は、 青銅器時 代 を雛 形 と し て見 れば 、 シ ュメー ルや. で に分 って いるから であ る。 春 秋 時 代 の中 国 はそ の水 準 に達 し て い た。 ギ リ シ ャは難 かし か ったが、 ブ ド ウや オリ ーブ の作 付 と牧 畜 を.

(6) . 歴史的世界と人倫の問題. る農 村 地 帯 を そ の基盤 とし て いた。 ただ前 述 のよう に土地 が や せ て. 初 はも ち ろん農業 立国 を めざ し て いた し、 ア ッテ ィカ地方 と呼ば れ. り易 いから であ る。古典古 代 の頃 は商業 都 市 だ った ア テナイ も、最. 形 とし て 一般化 す る には多 少 特殊 な要素 も あ るが、 最初 は比較 的分. てく る。我 々は そ の典 型 を、 ここ では アテナイ で考 え て みよう。雛. ちが って、 今度 は経済 的要 因 と か大義 名 分 と い ったも のが表 面 に出. の仕事 はあ ったが、市 民権 を得 た解 放 奴 隷 のみな らず 、食 と職 を求. 外港 ペイ ライ エウ スに集 まり、 失業 者 も増 え始 め て いる。海 運 関 係. 量 に出 ま わ って いた。 し かも戦 時中 に膨 張 した人 口は、 ア テナ イ の. 時 は金 に銀を混ぜ た貨幣だ った と いう が、今 や銀貨 が中 心 にな り大. 的 な意 味 で の貨幣 も登場 し て いた。 最 初 イ オ ニア地方 で発行 さ れ た. 者 は相 場 の変 動 に悩 ま されるよう にな った から であ る。 す で に今 日. 輸 入穀物 は国内 の穀 類 の値段 を 下げ てし まう結 果 にな り、農業 生産. し かし なが ら、 こ の繁 栄 も い いことづ く め ではな か った。 大 量 の. び拠 出金 の管 理運営 を委 せた頃 から、 アテナ イ は空前 の繁 栄 を 迎 え. いるため、麦 とブ ド ウと オリ ーブ は生産 す るも の の、仲 々余 剰 生産. め てや って来 る流 入人 口は相変 らず だ った のであ る。 こ のた め、 ア. エジプ ト と同 じ様 に、 いず れ は戦 争 によ って統 一国家 へ辿 り つく性. 力 が上 ら な か った。 ア テナ イ の転進 は商 品生産 し かな か った わけ で. テナイ の指導者 は ア ッティカ農 民 は置 き去 り にし て、 こう した 港 町. る の で あ る。. あ る。 売 れ る商 品 を見 つけ た ことが そ の転 身 を 可能 にし た のであ っ た。 よく知 ら れ て いるギ リ シ ャの露 が そ れ であ る。. の職人 や商 工業者 の方 に政治 の主 力 を注 がざ るを えなく な った。 パ. 質 のも の であ るが、 耕地 を奪 う ことが 国家 の富 を意味 した前 時代 と. ギ リ シ ャ陶 器 は最初 は コリ ント スが進 ん で いた ら し いが、前 六世. る異国人 が増 大 す る。前 六世 紀末 から 三度 にわた って襲来 した ペル. アテナ イ には穀 物 があ ふれ、奴 隷 人 口のみな らず 職 を求 め て流 入す. 縮 まら な い。 かな り の奴 隷 さ え輸 入 された のであ る。 こう な ると、. 次 いで船舶 用 の木材 や亜麻布 など であ るが、 そ の程度 では黒字中 は. 様化 し、当 然貿 易 黒字 にな った。ギ リ シ ャ人 が欲 し いのはまず 穀物、. あ るし、 ワイ ンや オリ ーブ 油 を喜 ぶ土地 も あ る ので、輸 出 品 目も多. なる。 販路 が広 が ると鉄 器 そ の他 の金 属 製 品を欲 し が る後進地 域 も. れた絵 皿や壷が地中海沿岸各地や黒海沿岸 にまで輸出されるように. ます失 業 対策 的 性格 が は っき りす る。 問題 は、 それが終 った時 であ. ピ ラミ ッド 工事 と同様 、 一見浪費 に見 え る大事業 は永続 す る程 ま す. ゆ る職 業 が動 員 された から であ る。 先 の論 文 で言 及 した エジプ ト の. いう点 から いう と、 こ の企 ては抜 群 のアイデ アであ った。実 にあ ら. こま で通 った か興味 深 いと ころ であ る。 し かし大衆 に職 を与 え る と. た にちが いな い。 全ギ リ シ ャ人 のた め の神 殿 だ と いう大義 名分 が ど. それ自 体 はや はり 一種 の横 領行 為 であ ろう。 当然道義 的 非 難 も起 っ. ペ ルシ ャ襲来 の危 険 が遠 の いた から と いう のが そ の理由 であ るが、. アテナイが そ の資金 に充 てた のはデ ロス同 盟 の拠出 金 であ った。. ルテ ノ ン神 殿 の建 設 はそ の時 に企 てら れた のであ る。. シ ャの大 軍 を何 と かし の いだ のも、こう し た人 々 に市 民権 を与 え て、. る。 次 の浪費 対象 を見 つけな いと、 再 び失 業 人 口が増 え る。 そ の挙 句 の果 てが戦 争 であ った。. 紀頃 から アテナ イ のデ ザ イ ンや色 彩 が珍 重 され出 し、 芸 術的 にも優. 例 えば 軍船 の漕ぎ 手 な ど に動 員 できた から であ った。前 五世紀 に入 ると、 ア テナ イ は そ の流 れが 一層拡 大 す る。 特 にペ ルシ ャの再来 に. 雛 形 とし て眺 め る場合、 アテナイ におけ る神殿建 設 な ど は特 殊 な. ( 5). 備 え て作 ら れたデ ロス同 盟 と いう 軍事機 構 が、 ア テナイを盟主 に選. 五.

(7) . . 宏. 上 岡. 大義 名 分が伴 えば戦 争 は当 然誘発 さ れ る。 だ から例 えば中 国 でも、. あう職種 が未 発達 だ ったり開店休業 にな った りす るた め で、 これ に. だ と い ってよ いだ ろう 。失業 人 口が増 え ると いう のも過 剰食 糧 に見. な す食 糧 に価格 の変 動 が起 ると いう のは、連 関 構 造 の必然的 な展開. 事例であ って 一般化 できな いが、商業化が進むと用具存在 の根幹を. あ る。 そし て世 界 国家 が誕生 す る。尤 も そ の世界 国家 も、 図式 的 に. にかけ て、今 回 の戦 乱 は東 西 とも に最終 勝者 が決 ま るま で続 く ので. 家 が戦争 を始 めた時期 と同 じ位 置 に当 るが、前 三世紀 から前 一世紀. た青 銅 器時代 の図式 から いう と、 ナ イ ル流域 や シ ュメー ルで都市 国. て戦乱 時 代 に突 入す る の であ る。 それ は雛 形 とし て我 々が使 ってき. 化 な どが同 じ時 代 に起 ると、 周王朝 時代 の政 治 を再 興 し よう と いう. 品化 、価格 変 動 によ る国家 間 の格 差 や貧富 の へただ り、農 民 の流 動. では戦 乱 から世界 国家 ま でを概 観 し つつ、 そ の新 し い要 素 の方 に注. 直接 つな が る要素 が色 々あら わ れ てき た から であ る。 それ故、 次節. いえば か って の エジ プ ト 王朝 や バビ ロン王朝 と同 じ位 置 にあ た る存 在 であ った。 た だ内 実 が大分違 って いる。 そ の展開 から は、 現代 に. これほど際立 った形 ではな いにせよ、農業 立 国 志向 から農 産物 の商. 名 分 と共 に戦争 が始 ま った のであ る。穀 物 のよう な基幹 的 な物 の値. 意 を向 け てみよう。. 起 った流 通経 済 型 の連 関 が、戦争 と いう 一つの ベンチ ャー ・ビジ ネ. には直 接 見聞 でき る広 がり の意 味 にな った り す るが、 存 在論的 には. 世界 と いう言 葉 は多義 的 で時 には宇宙 の意 味 ま で広 が ったり、時. 口 世界国家と理念 の問題. 打 ちは、 昔 は それ自 体 の価値 とし て決 って いた。 それが崩 れた のは 道徳的 政治 的 に人間 が堕落 した からだ と人 々が考 え た とし ても不思. 議はな い。春秋時代に孔子が政治体制 の理想を周王朝に見出したと いう のも、対 立抗 争 す る諸 国が周 王朝 から の正統 的 な引 き継ぎ であ. スを誘 って いること に対 す る或 る種 の弁 明 であ った。戦 争 を仕掛 け. かな りは っき りし た概 念 であ る。 と いう のも存在論 は、存 在 を問う. る こ と の認 知 を 求 め て大 義 名 分 論 を 唱 え た のも、 そ れ ぞ れ の国 に. る こ と にう し ろ め た さ を覚 え な が ら も、 そ の誘 惑 に抗 し き れ な く. 旧大陸 の東 西 で言 葉 も風習 も食習慣 も ちがう 人 々が、構造的 にはほ ぼ同 じ枠 内 で胎動 し て いた わけ であ る。 それ は 一見 不思議 な光景 で. こ で述 べら れ た殆 ど のことは大体前 五世紀 の前後 に集中 し て いる。. かく て歴史 時 代 の連 関構造 は以上 のよう な形 で展開 を始 める。 こ. の人類 全部 を含 む国家 ではな く て、 そ の時代 の人 々 にと っての地 平. う概 念 も、 これ と同じ性 質 を持 って いる。 つまり世 界 国家 と は地 上. 味 で の地 平線 も常 に視 界 に入 れ ており、世 界 の果 て のこと は論 じな. たす態 度 を根 本 に据 え て いる の で、 そ こ から先 は見 え な いと いう意. こ の自 分 を原点 と し て空 間 と時 間 の双方 に ついてそ の広 が りを見 わ. あ るが、偶 然 の 一致 でもな ければ 必 然 の結 果 でもな い。条 件 の問 題. 線まで支配する国家であ った。現代では地平線が拡張されて地球上. な った の で あ る 。. だ った から であ る。 日本 や西 ヨー ロッパは まだ そ の条件 が出 来 てな. いと いう構 え を と って いる から であ る。 そし て実 は、 世界 国家 と い. か った し 、 エジ プ ト や メ ソ ポ タ ミ ア は す で に そ れ を 失 って いた 。 そ. のす べて の地域 が視 界 に入 って いるが、 か ってはも っと限 ら れ て い た。例 えば中 国 では、 北 は山岳 と森 林 で区切 ら れ、 西 は砂 漠 と大 山 し て条 件 の揃 った都市 国家 群だ け が、 それぞ れ の世 界 で足 並 み揃 え.

(8) . 歴史的世界と人倫の問題. 偶然 的 で悪無 限的 であ るから、 最後 の勝者 が決 ま るま で平和 はや っ. し て衝突 にな る。昔 も今 も変 ら ぬ姿 であ った。 し かも戦 さ の勝敗 は. 国家 が互 いに繁栄 を競 い、友好 的 互恵関 係 によ って豊 かさを分 ち 、 あ えれば、 世 界 国家 など は無 用 の長物 な の であ るが 実 際 の状況 は 、 正反対 であ った。繁 栄 す る国 は却 って難問 を抱 え そ の打 開 の為 に 。 無 理難題 を吹 っかけ る。当然 相手 は自 衛 の為 に軍備 を強化 す る そ. わけ であ る。. 世界 国家 だ と いう こと にな り、戦 争 は内 乱 以外 にはありえ なく な る. 中 のす べて の民族 を 一つの国家 に併 呑 す る ことが出来 れば、 それが. ルシャ帝 国 の東 端 が世界 の果 てだ った のであ る。 従 ってそ の世 界 の. と北 ア フリ カ の地中海 沿岸域 ま でが 人間 の住 む世 界 であ り、 東 は ペ. れたジブ ラ ルタ ル海 峡 、北 は ア ルプ スと黒海 沿岸、南 は ナイ ル流域. であ った。 ギ リ シ ャ人 の場合 も そう で、 西 は ヘラ ク レスの柱 と呼ば. 流域 と長江 の間 の 一帯 を中 心 にそれら の境 界 ま で広 が る人間 の空 間. 比 べれば 陸送 のメリ ットが大 き いので、 通行関 税 そ の他 の莫 大 な利. 運河 が出来 て いるが、 コリ ント地峡 は半島 を迂 回す る航路 の危 険 に. の権 益 だ った のだ ろう と いう学者 も いる。 今 は山 を裂 くよう に深 い. 関 心 が集 ま って いるが、本当 のねら いは コリ ント スが領有 す る地峡. 強 硬 に進 言 す る。 農奴 の反乱 など で国内 治安 に忙 し いスパ ルタ とし. 同 じド ーリ ア系 ギ リ シ ャ人 の スパ ルタ に窮状 を訴 え、 コリ ント スが. の商 取引関 係 から完 全 に閉 め出 す為 の条 令 発布 であ った。 メガ ラ は. 状打開 が出来 な い。 直 接 のき っかけは隣 国 メガ ラ の商 人 を ア テナ イ. 。 スパ ルタを盟主 とす る ペ ロポ ンネ ソ ス同盟 の間 で始 ま った ア テナ 、 イ は神殿 建築 後 の余 剰 人 口 に悩 ま され て いて 何 か仕掛 けな いと現. ら追 って みよう。 周知 のよう にギ リ シ ャのポ リ ス戦争 は アテナ イ と. 大帝 国が出 現 し、 人 々 の意 識 に世界 国家 のイ メージ が形成 され る機 縁 とな った。 そ こ で我 々はまず 、 そ こま で のギ リ シ ャ世界 の動 き か. れ て いる 。. アテナイが何 故 ゴ リ押 し に近 い条 令 を出 した か に ついては学者 の. 接間接 に何 ら かの関係 があ る ので、 ここ では例 証的 に地 中海 世界 の. の展開 に同じ位 の時 間 を要 し て いるが、 歴史 時代 の展開 は我 々 に直. かし戦 争 そ のも の にも大 きな メリ ットが あ った のであ る。近 代 の消. イ のライ バ ルであ った。 恐 らくそ の辺 が妥 当 な理由 であ ろうが. ( 6). 方 で、 そ の実態 を概 観 し てみよう。 統 一世 界 と いう も のは、青銅 器. 耗戦 と異 な り、 勝利者 側 には相手 国 の財産 を奪 い取 る メリ ットがあ る。 断続 的 なが ら戦 争 が 二十 八年 も続 いた のは、 それ によ って神 殿. 脈、東 は海 、南 は猛暑 の熱帯林 で遮 ら れ て いた から、世界 と は黄河. て来ない。地中海世界も中華 の世界も、都市国家の争 いから最終勝. 益 が上 った。 スパ ルタ は農業 国だが、 コリ ント スは商 業 国 で ア テナ 、し. ては気 のすす ま ぬ戦 さ であ ったが、 や むな く重 い腰 をあげ た と いわ. 者 の決 定 ま で実 に五百年近 く かか った のであ る。青 銅器時 代 も同様. 時代 の神 人 君主 のよう に何 ら かの統 治 理念 を伴 う も のでなけ れば な. も盛 んだ ったと いうが、 こ の大遠征 軍 が全滅 し てよう やく ア テナ イ. 建築 後 の過剰 人 口を養 え ると いう見返 りがあ った から であ る。 こ の. 側 が受身 にまわ った のであ った。 ちな み にソクラ テ スは この期 間 中. らな いが、 それが ど のよう に芽 生 え てきた かを追 及 する のが、本節 さ て、地 中 海 世 界 の都 市 国家間 の戦 争 はギ リ シ ャで本 格 的 に始. に三度 、 市 民 の義 務 とし て参 戦 し て いる。. 戦争 の後半 の端 緒 とな った シ シリ ー島 遠征 の時 は商 人達 の投 資 意 欲. ま った。 そし て最終 的 な決着 は、 同 じ都市 国家 とし て後 発 し た ロー. の目標 だ から であ る。. マによ って つけら れ る。 しかし途 中 で短期 間 ながら ア レキサ ンダ ー. 七.

(9) . アテナ イが降 伏 し た のは前 四〇 三年 であ るが、 一度 火 の ついた戦 争 のメカ ニズ ムは、こう な ると最 早止 まら な くな る。今 や全 ギ リ シ ャ の盟主 とな った スパ ルタ に対 し て、 アテナ イ の中 にも再 軍備 を画策 す る 一派 が いたし、新 興 の軍 人 国家 テー バイと手 を結 ん で立 ち上 ろ う とす る 一派も あ った。 テー バイ と スパ ルタ の戦 争 は前 四世紀前 半 期 に数 次 にわた って繰 り広 げ ら れた が、 やが て北 の マケド ニア軍 の 中 から ア レキ サ ンダ ー と いう 若 き 軍 事 的 天 才 児 が出 現 す る に及 ん. レキサ ンダ ー急 死 の報 に接 し て解放 軍 が組織 さ れ るま で、 マケド ニ ア の駐留 軍 の看 視 下 におかれ る。 そ れは独立自 治 を誇 ったポ リ ス国. で、ポ リ ス間 の戦争 は終 止符 を打 つ。テー バイ は マケド ニア軍 によ っ て破壊 し尽 され、親 マケド ニア的 だ った少 数 の市 民 を除 いて、 六千 人 が殺 霧 され、 三万人 が奴 隷 に売 ら れ て、 一挙 に廃 虚 とな ってし ま ( 7} う のであ る。 ア テナ イ の衝 撃 は深 刻 であ った。 以後 ア テナイ は、 ア 宏 家 の終蕎 を象徴 す る出来 事 であ った。 やが て、 そ の ア レキ サ ンダ ー の ペ ルシ ャ侵 入 が始 ま る。 軍事 問題. 岡 上. の奇妙 さは三万前 後 のギ リ シ ャ軍 が総 数 六十 万 と いう ペ ルシ ャ軍 に 連戦連 勝 し、 二十 万近 い ペ ルシ ャ大 王 の本 隊 を も 蹴散 ら し てし ま っ た こと であ る。追撃 と掃 討 によ って エジ プ ト、 小 アジ ア、 メソポ タ ミ アを制 圧 し、 イ ラ ンを ぬけ てイ ンダ ス河 ま で達 した時 、象 を率 い た イ ンド軍 と出 会 ってし ま っては、 マケドニ ア兵 たちも別 の世界 の 人類 と会 ったと いう実 感 から抜 け ら れな か った ことだ ろう 。兵 た ち の拒 否 に会 って、 や む なく ア レキ サ ンダ ー は引 返 す のであ る。 ただ ◆ し、彼 が そ こで兵 士 に向 って、 自 分 は世界 を支 配 す る為 に マケド ニ ア には帰 れな いから、 こ こ に取 り残 され る こと にな ると演 説 した話 は、 こ の際注意 し ておく価 値 があ るだ ろう。 世 界 と いう意 識 を持 つ と、 ギリ シ ャは少 く とも中 心 と いう には西 にかた よ って いると いう. r. 八. 実感 が彼 に湧 いた かも し れな いから であ る。彼 が ペ ル シ ャ風 の服装 に関 心 を持 ち、 国際結婚 を勧 め た話 は有 名 であ るが、 ギ リ シ ャに敢 え て帰 るう と せず に短 い生 涯 を終 えた事 は、 たんな る東 洋趣 味 では 決 し て な か った と 思 わ れ る 。. ア レキ サ ンダ ー の世 界 国 家 は花 火 のよう に 一瞬 の こ と であ った が、 一人 の王また は皇 帝 のも と に世界 が支 配 され ると いう事 実 は、 歴史 時 代 に入 ってから は これが最初 であ った。 そし て彼 が ペ ルシ ャ. 人 の前 では自 分 を神 の子だ と信じ て いるふりをし て、ギ リ シ ャ人 の. 前 では普 通 に振 舞 って いた と か、 ギ リ シ ャから来 た将 軍 の息 子が ペ ルシ ャ人 の東 洋 的 な平 伏 の仕 方 に笑 い出 し た のを 叱 り 飛 ば し た と い った エピ ソード は、 彼 が青 銅 器時代 とは異 る新 し い型 の統 治者 で あ る ことを物 語 って いた。 ただ、 当時 の世界 の人 々は、 神 々 の身 体. ( 8). に流れる澄んだ液体でなく、怪我すれば血が流れる人間が世界国家. を統 治 す る こと に、 いわば 慣 れ て いな か った。 ペルシ ャ大 王 は神 の. 子た りう るだ け の伝統 と組織 の裏 づけがあ ったが、 ア レキ サ ンダ ー にはな か った。 世界 国家 におけ る理念 の問題 と いう のは、 原初 的 に. は ここ に根 ざ し て いる の であ る。 それ は誰 が何 の権 限 で世 界 を統治 す る のが最 も 正当 であ るかと いう 原 理 の問題 であ った。 神 以外 には. それ にあ てはま る存在 がま だ見 つから ぬ時 代 であ る。. 地中 海 世界 は、 ア レキサ ンダ ー死後、再び分裂時代 に入 る。 そ こ へロー マが急 速 に拾 頭 し てく る のであ る。都 市 国家 ロー マは、 アテ. ナ イ な ど に比 べれば か な り の後 進 国 で、 歴史 時 代 に入 った のも 遅 か ったが、 周知 のよう に優 れた政治体 制 を作 り出 し た こと で、ギ リ. シ ャ ・ポリ スの衰 退 の間 隙を縫 ってのし上 ってく る。 ロー マ共和 制 と いう のは、 地主貴 族 階級 を基盤 とす る元老院 と商 工業 者 や庶 民 か ら成 る民会 と いう権 力 の 二元性 を軸 とし て いるが、 内 政 面 では対 立.

(10) . 歴史的世界と人倫の問題. ま で、 そ れ こ そ あ っと いう 間 で あ った 。 ク レ オ パ ト ラ が 自 害 し て 、. 人 を 一掃 し て から、ギ リ シ ャ ・ポ リ スと マケド ニア王家 を征服 す る. こ へ急速 に結 集 し た。 カ ルタゴを亡 ぼし て西地 中海 から フ ェニキ ア. も す る ので、 人材 登 用 によ って優 れた軍 人 が出 現す ると、 国力 が そ. しやす いこう し た 二重 構 造 は、外征 に向 う 限 り却 って補完 的な働 き. で捉 えな いと、 それを統 治 す る権 限 の問題 も浮上 し て こな い。 そ の. や言葉 のちが いを のり こえ、 こ の世界 国家 に属す る人 間を共 通 基盤. な か った。何 か人類 と いう よう な新 し い考 え方 があ ら わ れ て、 人種. 数 の民族 を抱 え込 むよう にな っても、 これ以 上 の理念 は用意 さ れ て. が、 それ が彼 ら の理念 の限界 であ った。支 配 圏 が世界 に広 が り、無. では、 そ の理念 はど こから現 われ てく る べきな のだ ろう か。雛 形. 意 味 では、 ロー マ帝 国 は市 民権 を持 つロー マ人 によ る ロー マ市 民 の. ア レキサ ンダ ー時代 の地 中海 世 界 と比 べると、 ロー マ帝 国 は東 端. とし て の青銅 器時 代 から推 論 す れば、最 早神 でも神 の子 でも な い統. 旧 ア レキサ ンダ ー帝 国領 の内 のセ レウ コス王国領 が パ ルテ ィア人 の. の部分を欠 いて いるが、 西 と北 へ支配圏 を広げ て いる ので、空 間 的. 治者 は、 神 の意 図 す ると ころを然 る べき神 官 や司祭 の助 言 を 通 し て. 為 の国家 でこそあ れ、 まだ 理念 を備 えた世 界 国家 に達 し て いな か っ. には ロー マはま さ に世 界 の中 心 であ った。 そし て シーザ ー の甥 が 三. 知 った ら、 それを地 上 に実 現 す る代 理人 の役 目を す る のだ と いう こ. 手 にわた った以外 は す べて ロー マの領土 にな った時 、 そ こにまさし. 頭政治 の対立 の中 から勝 ち残 り、 アウグ スト ゥ スと いう尊称 を贈 ら. とが まず 考 えら れるだ ろう。 し かし同時 に、 こ の時 代 では神 の意 図. た の であ る。. れ て実 質 的 な皇 帝 の地位 に就 いた時 、 ロー マは初 め て世界 を統 治 す. し戒 め ると ころは 一部 の神 宮 た ち に秘教 の形 で知 ら れ て いると いう. く世界 国家 が出 現 し た わけ であ る。. る最高 権 力者 を 眼前 にす ること にな る。 青 銅 器時 代 ならば 、彼 はま. 者 は初 め て代 理人 とし て の正統 性 が承認 さ れ る。 つま り、皇帝 も 民. 形 は通 用しな いだ ろう。神 の教 えは万人 に開 かれ て いな け れば 、 統. 衆 も 一つの同 じ人倫的規範 の中 で生 き るよう にな った時 、 や っと 理. さしく神 人 君主 の位 置 に擬 せら れた であ ろう が、 ロー マ市 民 は誰 も. 念 が出 現す る のであ る。. 治 さ れ る民衆 が承知 しな い。統 治者 に神 の代 理人 と いう地位 を与 え. し かしな がら、 我 々が追 究 し て いる観点 から いう と、 これ ではま. こ のよう に考 え てみると、 そう し た世 界 国家 の理念 が ど こから現. そう考 え な か った。彼 は名 誉 あ る ロー マ市 民 の第 一人者 とし て最初. だ連 関構 造 の展開 は未 完 成 だ と いわな ければ な らな いだ ろう。 誰 が. わ れた かはす で に明 ら か であ ろう。 ロー マ世界 では キリ スト教 が そ. う る には、民衆 の方 にそれだ け の素 地 がなけ れば な らな い。かく あ っ. 如何な る権 限 によ って世 界 を支配 す る かと いう のは理念 の問題 であ るが、青 銅 器時 代 のよう な単純 な神 人 思想 が そ の代 入項 た りえな く. れ であ り、 端的 に いえば 四世紀 に コンスタ ンチ ヌ ス帝 が キリ スト教. に記名 され る存 在 でこそあ れ、神 でも神 の子 でも な か った。 そ こが. な った か ら と い って 、 問 題 そ の も の が 消 え る わ け で は な い。 ロー マ. に帰 依 し た時 が、 構 造連 関 の展開 における完結 への最初 の ステ ップ. て然 る べし と民衆 が考 え るような 人倫的統 治 を行 った時 、 そ の統 治. 市 民たちは、 都 市 国家 時 代 の市 民 の権利 と義 務 と名 誉 の伝統 に立 っ て、自 分 た ち の選 ん だ第 一の市 民 に国家 の統 治 を委 ね、統 治者 も ま. だ った から であ る。 一つの世界国家 に属 す るす べて の民族 が 一つの. 新 し い点 であ る。. た市 民とし て の誇 り に基 づ いて ロー マ市 民 の付託 に応 えよう とす る. 九.

(11) . . 宏. 上 岡. こ では イ エス ・キリ スト であ ると同時 に全 キリ スト教徒 でもあ る。. 帝 はそ の体 系 の中 で委 ねら れ て統 治 を行 う。 統 治 を委 ね た のは、 そ. 同 じ人倫 の規範 体系 と し て のイ エス ・キリ スト の教 え に帰 依 し、皇. 入 ったりし て、果 しなく続 いて いた とも いえ る のであ る。. はそれ に新 解 釈 を試 みる形 で続 けら れ て いたも のの、 や が て仏 教 が. 格化した世界統治理念 の模索は、 一方 で古典の註釈研究を、他方で. 鉄 器 に始 ま る我 々 の時 代 は、 かく し て都市 国家 の分 立時 代、戦 乱. 中 国 には目 前 の儒学 論議 があ ったが、 仏 教 は そ こ へも流 れ こ み、 日. 軸 は いうま でも なく、 西 でキリ スト教、東 では大乗 仏 教 であ った。. し かしな がら、 と にも かく にも、 我 々 の時 代 は こう し て紀 後 五世. と覇 権 争 いの時 代、 最後 の勝者 によ る統 一世界 国家 の出 現、 そし て. 本 へ渡 ってゆく。 し かも少 し遅 れ て、 青 銅文 明 の故郷 にはイ スラ ム. た とえ論 理的 な建前 だ け の形 であ った とし ても、 ここま で来 てよう. 統 治 理念 の成 立 と いう 段 階 を 経 て連 関 構 造 の形 成 を 終 る。 そ れ は. 教 が姿 をあ ら わす のであ る。 世 界宗 教 は、 統 一国家 の理念 の問題 と. 紀 頃 ま で には最初 の連関 形成 が完 了す る こと にな る。 そし て、 こ の. 我 々 の時 代 の原 理的 な構 造 形成 期 だ ったと い ってよ いだ ろう。 ほぼ. し ては ロー マに見ら れ るよう に後 発的 であ ったが、他 地 域 への波 及. やく、 王自 身 が神 もしく は神 の子 であ り地 上 の民 に幸 いと恵 みを施. 平行 し てす すんだ中 国 でも、 春 秋 ・戦 国 の時代 から秦 ・漢統 一国家. にお いてはむし ろ先導者 であ った。し かも、宗 教 それ自 体 とし ては、. 前 後 から日本 や西 ヨー ロッパな どが よう やく 歴史時 代 に仲 間 入り す. ま で、 貨 幣経済 にせよ軍事 問題 にせよ、 大同小異 の経過 があ った。. これ ら の淵 源 は前 五世紀前 後 に姿 を あ ら わしたも のであ る。 わ れわ. す と いう青 銅器時代 の連 関構 造 と類 比 でき る構造 が出 来 上 るわけ で. ギ リ シ ャ ・ロー マの場合 と大 きく 異 な る のは、中 国 では孔 子 の時 代. れ の時代 の歴史 は、 そ こから 展開 を始 め た わけ であ る。 す ると、宗. るわ け であ る。連 関 形成 の流 れ は当 然 こ の地 域 に波 及 す る。 そ の中. から早 く も統治 理念 の問題 が論議 され て いた点 だ け であ ろう。 ただ. 教 の問題 はどう し ても改 め て考察 す る必 要 があ るだ ろう。宗 教 とは. あ る。. そ こ にも推移 はあ った。 誰 が如 何 な る権 限 でと いう問 題 は、中 国 で. そも そも何 だ った のか。 それが次 の探 究 課題 でな ければ な らな い。. う大弾圧は、始皇帝 の反撃手段であ った。中国世界での理念 の問題. いわけ で儒学者 た ち の非 難 も苛 烈 にな った であ ろう。焚 書 杭儒 と い. 触 れ ぬよう気 を配 ると共 に、犠式 や祭 礼 の形 で、 そ の存 在 に対 す る. 的 な絶対 存 在 の持 つ偉 大な力 に畏怖 と感謝 の念 を抱 き、 そ の怒 り に. 一体、宗 教 と は何 であ ろう か。 定義 的 に説 明 す るとす れば、超 越. 宗教 と人倫 の問題. は、 上 天 と いう 一種 の包 括的超 越 者 によ る統 治委 任 の考 え方 や、 易. 人間 た ち の気 持 を表 明 す ると い った 一連 の思考 と行動 の連 関 が、 そ. 同. は孔 子 によ って周 王朝 の正統 な後 継者 も しく は正統的 な形 で統 治 を 委 ねら れ た者 にまず 焦点 が絞 ら れた が、戦 国期 にな ると周 王朝 と は. 無関係な異民族国家も拾頭した為、復古的な正統論議 には収まり切 れ なく な った。 し かも最後 の勝者 であ る秦 は、 周 王朝 の末 葡 であ る. 姓革命 のよう な統 治交 替 の必 然 性 思想 によ って極 め て複 雑 にな って. の全体 の枠 組 な のだ と でも いう と ころだ ろう か。 原初 的 な自然 信 仰. 王室 を 亡 ぼし てし ま った のであ る。 こうな ると、 正統 ど ころ ではな. いるが、 決定的 な形 は仲 々完成 しな か った。実 際、前 漢中 期 から本.

(12) . 歴史的世界と人倫の問題. 的 で即物 的 で、 殆ど肌 に感 じ るよう な確 かな実 感 を も って、 人 々は. 底 に横 たわ る不安 と深 く結 び ついて いた と いう べき であ ろう。感覚. が考 え るよ りも は る か に直 接 的 な感 情 にあ った のであ り、実 存 の根. の臨 在 を感 じ させた。宗 教 的 心情 の淵源 は、 そ の意味 では、 現代 人. てもすぐ眼 の前 に存 在 し た。自然 の偉大 な力 と高 貴 さは即物 的 であ り、 万年雪 の高峰 や大嵐 にび く とも しな い巨木 は、 そ のま ま で神 々. 自然 はまさ に怖 る べきも のであ り、稲妻、噴 火、地震 と、ど れを と っ. う問題 は、宗 教 と は全 く無関 係 だ っただ ろう と いう こと はすぐ分 る。. の場合 で考 え て みると、神 の存在 を信 じ るかと か証 明 でき る かと い. の華 や かさ のことではな く て、 むし ろ外見 は貧弱 で醜 悪 でさえ あ る. と いう点 で押 さえ て みよう か。 そし て輝 かし さ と いう のは、 見 かけ. う感覚 は、 ここではそ の人 の言動 が当時 の常 識 と かけ はな れ て いた. こ にあ てはま るだ ろう か。例 えば普 通 の人間 と はどう も ちがう と い. 和感 覚、 輝 かし さ、恩 恵者 、教 化 的 思想 の四 つであ るが、 果 し て こ. ば、 同 じ条 件 が ここでも使 え るだ ろう か。先 に挙げ た条 件 とは、 異. も不充分な感じである。我々は先の論文で、青銅器時代 に神人君主 が登場し得た条件を作業仮説 の形で四つ挙げ てみたが、ある種 の人. だ ろう か。 たし か にそれ はあ るだ ろう。 し かし、 それだ け では どう. 頃 の遺 跡 に接 す ると、 当時 の人 々が何 か輝 かし いも の に接 し た のだ. えば 中 国 の敦燈 に残 る千仏 洞 のよう に、仏 教 が 伝 わ って間 も なく の. 人 々が ど んな気 分 でそ れを迎 えた のか仲 々想 像 できな い。 ただ、例. 現代 の我 々は、仏 教 や キリ スト教 が姿をあ ら わし た時 に、 当時 の. 葉が今迄聞 いた ことも な い世 界 のイ メージ を伴 って、 人 々 にそ れ へ. 売 のあ れ これ に患 わ され て疲 れ切 って いる時、 そ の人 の眼差 し と言. う のは、人 々が病気 や 死 の不安 にさ いな まれた り、 政 治 や戦 争 や商. を見 せた と いう形 のそれだ と解 釈 し てみよう か。 す ると恩恵者 と い. 人物 が、 何 かの瞬間 に雲 の隙 間 から差 す 一条 の陽 光 のよう に気 高 さ. 間 が 俗 人 と異 な る特 別 な 存 在 と し て人 々 に受 け と め ら れ た と す れ. 自然 現象 の中 に神 々を見出 し て いた にちが いな いのであ る。. な と いう ことは、あ る程度 窺 う ことが でき る。 そ こ には感 動 と興奮. す で に述 べたよう に、前 五世 紀頃 の人 々は技 術文 明 の産物 には驚. の憧 れ と心 の平安 とよ ろ こび とをも た らした と いう意 味 で のそ れだ. 代 の神 人思想を分析 した時 の作業 仮説 に見ら れた よう な、金属的 な. の残津 が漂 って いると いう思 いが す るから であ る。 し かし、例 えば. 輝 かし さや巨大 建築 にも、宗 教 的 心情 に つな が るよう な感動 は覚 え. かなくな って いた。豊 かさ と華 や かさを享 受 し、ギ リ シ ャ人 のよ う に、 優 れ た肉体 にこそ高貴 な精 神 が宿 ると い った物 質的 なも の に比. と いう こと にな るだ ろう。 とす れば 、教化 的 思想 の内 容 はもう いう. なく な って いた であ ろう。 す で に彼 らは、自 然 研究 も し て いたし、. 重 の か か った 一元的価 値系 列 が 一般 化 し て いた にし ても、 そ の水 面. ま で も あ る ま い。. 技 術 の力 が何 を可能 にす るかも知 って いた。 そ の限 り では、何 にも. 下 には精神的 なも のに心惹 かれ る素 地 も出来 て いた。 そ の点 から い. 前 五世紀 頃 の人 々は、 現代 人 と同様 、狩 猟採 集 時代 の頃 のよう な自. 驚 かなくな って いた はず であ る。 にも かかわらず 、彼 ら は何 か に捉. えば 、 こ の時 期 にイ ンド と中 国 とギ リ シ ャでそ ろ って聖者 が登 場 し. 然 の威 力 にも それ ほど驚 かなくな って いたし、 先 の論 文 で青 銅 器時. えら れた。宗 教的心 情 の原点 が 即物 的 な直 接感 覚 にあ った とすれば、. なく て、 むし ろそうし た素地 を備 え た人 々が、庶 民 とは いわ ぬま で. た のは、何 も不思議 はな いと いう べきだ ろう。 問題 は彼 ら自 身 では. そ の レベ ルで何 かが彼 らを捉 え た にちが いな いのであ る。 では 一体 、 それは何 だ った のだ ろう か。 精神 的 な気高 さだ った の. 一一.

(13) . . 宏. 岡 上. し かす ると、 現代 よ りも高 い水 準 だ った かも し れな い程 であ る。 そ. これら の地 域 では、 人 々 の レ ベ ルは そ こま で達 し て いた。 そ れ はも. も、 かなり の広 がり を も つ階 層 を成 し て いた点 にあ るから であ る。. あ ったよう に、 そ の臨 在 が肌 に触 れ る感 じ で捉 えら れ、 そ の声 が聞. き る存在 であ り、 か って狩猟採 集 民 にと って の自 然 的神 々が そう で. び ついて いた。 恐 らく、 彼 ら にと って のヤ ハウ エ神 は現実 に感 得 で. 団 が誕生 す る のであ る。 彼 ら にと って、神 の言 葉 は存在 の事実 と結. :一. う す ると、 聖者 の名 は例 えば 釈 迦 や孔 子 でな く ても よ か った と いう. 変 の中 で養 わ れた とす れば 、 そう いう ことがあ っても 一つも 不思議. ( 9). こと にな るだ ろう。 実 際、 ゴ ー タ マ ・シ ッダ ルタ は、 そ の時 期 イ ン ド に輩出 し た苦行 者 の 一人 であ り、 同時 代 のジ ャイナ教 の創 始者 の. ではな いのであ る。. ら どう な るかと いう ことが、神 から 言葉 を委 ねら れ た者 から の忠 告. 世界 の始 ま り から説 き起 され、 どう す れば 祖 国 へ戻 れ るか、 そ れか. は聖書 そ のも のであ り、 そ こ には ユダ ヤ人 を かく あ らし め た過 去 が. 預言者は誰 一人 ユダヤ教 の教祖とは呼ばれな い存在であ った。教祖. そ の民族 の成 員 でなけ れば 感 得 でき な い精 神 世 界 であ り、 輩出 し た. の言葉 とな って旧約 聖書 の編纂 に結 び つく。 そ れ は極 め て特殊 な、. 居住 地 から そ っく り追 い出 さ れ ると いう前 代未 聞 の屈 辱 が、 預言者. ぼ され、 バビ ロニア に強制移住 さ せら れ て いた。 一つの民族 が そ の. に 一大 王国を築 いた にも かかわらず 、 こ の頃 には バビ ロン王朝 に亡. から逃 れ てイ スラ エルに定住 し た彼 ら は、ダ ビデ ・ソ ロモ ンの時 代. 誰 が そ の中心 に座 っても お かしく な か った と いう べきな の であ る。 そし て、 これよ りも っと極端 な のは ユダ ヤ民族 であ った。 エジプ ト. 貌 の持 ち主 であ った。中 国だ ってそ の通 り で、 数 あ る隠 士 の中 から. ルメ ニデ スは いう ま でも な いし、 スト ア のゼ ノ ンな ども そう し た風. 前 以後 に何 人も いた から であ る。 ピ タゴ ラ ス ・ヘラ ク レイ ト ス ・パ. 宗 教 が生 ま れ る にふさわし いよう な教祖 型 の哲 人 は、 ソ クラ テ ス以. 同 じ ことはギ リ シ ャに ついても いえ るだ ろう。 ギ リ シ ャから世 界. が出 て来 た のは、創 始者 たち のこう し た態度 と関係 が深 いと いえ る. 大 きな仏 教 が生 まれ、 ユダ ヤ教 から は逆 に極 め て峻烈 な キリ スト教. す る哲学 が、 ゴ ータ マ ・シ ッダ ルタ から は ふと ころ の深 い寛 容度 の. のか推 理す る こと は難 し いが、 ソ ク ラ テ スから は批判 的態度 を軸 と. 宗教と哲学という精神世界の二大領域が何故別れる形で展開した. 預言者 の方 が、 そ の点 では強 烈 な カリ ス マ的存 在 だ った であ ろう。. そ の言葉 通 り人 を見 て法 を説 く タ イプ の師 父 であ った。 ユダ ヤ教 の. ラ テ スは宗 教 家 でさえ な か った。 孔 子は むし ろ教師 であ り、 まさ に. 最 も自覚 的 であ り、何 も積 極 的 な教 説 を述 べな いと いう点 では ソク. 呼 べるよう な積極 的 な活動 と いう点 では、 ゴ ータ マ ・シ ッダ ルタ が. 地域 に出 かけ てゆく。 ただ し、 そ のやり方 は色 々 であ った。布 教 と. 自 分 の使 命 を自覚 し、 人 々 の求 め に応 じ て思う と ころを説 き、他 の. が次 第 にそ の周 辺 に集 ま って来 た。 やが て彼 ら は各自 、師 と仰 ぐ そ. な高 貴 な輝 きがあ り、 そ れ に感 動 し た人 々や それを伝え聞 いた人 々. われ る。 ただ彼 ら の言 動 には、 雲 の切 れ目 から注 が れ る陽光 のよう. 日想 像 さ れ るような強 烈 な カリ ス マ型 の教祖 ではな か った よう に思. と ころ で、 こ の最初 の時 期 にあ ら われ た聖者 た ちは、 いず れも今. こえ る存在 だ った にちが いな い。 それだ け の鋭 い感 受力 が民族 の転. 方 が後 世 の世界宗 教 の淵 源 とな っても 不思議 はな い位 な の であ る。. とし て記 録 され て いた。そし て予言 の通 り、や が て バビ ロンは亡 び、. かも し れな い。 ただ し、 そ の地域 の 一般 的 な精神 的風土 が、 それ ら. の人 の言行 を記録 し始 め る。 そし てそ の仰 が れた人 の方 も、 やが て. ペルシ ャ支 配 下 な がら彼 ら は祖 国 の地 に戻 る。 そ こ に ユダ ヤ教 の教.

(14) . 歴史的世界と人倫の問題. 分考慮 す る必要 があ るだ ろう。 世界宗 教 の草創 期 は、 むし ろ反対 に. 域 の精神 の受容 性 が それを規 定 し て いた と いう ことを、 こ こでは充. て る ど こ ろ か 、 む し ろ つ ぶ し て し ま った よ う に、 そ の時 期 の そ の地. リ シ ャ人 は、 カリ ス マ性 の強 烈 な ピ タゴ ラ スとそ の教 団 の流 れを育. を そう いう形 で受 け とめた と いう ことも勿論考 えら れる。例 えばギ. から いう と、突 然 民衆 の前 に神 の言葉 を語 る者 とし て現 わ れ、 民衆. りえ な か っただ ろう と いう ことは充 分考 え られ る。 ただ 、 そ の輝 き を如実 に見 せ てく れ るも のがな け れば なら な か った。 そう いう 観 点. ば 、 それ 以外 の人 々 にと って輝 き とな るも のは彼岸 のも のでし かあ. 族 あ る いは そ の庇 護 を う け た僧 侶 階 級 し かな か った と考 え て みれ. いて、 な お自 由 人 た る ことを誇 れ る のは ロー マ市民 か、 イ ンド の王. の常 識 と は かけ はな れた価値 観 と善悪 を語 り、 あ っと いう 間 に十 字. 地域 性、 特殊性 を帯び て いた と いう べき かも しれな いのであ る。 さて、 こう した発生 期 から約 五百年 を経 た時 代 、 すな わ ち紀 元 一. 架 にかか ってし ま ったイ エスのよう な人物 は、 後 から何 百 回思 いか え し て み ても、 あ れ は人 間 で は な か った のだ と信 じ こま せ る 力 が. と エピ ク ロ ス学 派 し か な か った し 、 イ ン ド で も ア レ キ サ ンダ ー の来. い つぐ破 壊 と掠奪 の中 で心 を平衡 に保 つ助 け にな る のは スト ア哲学. 世界 は戦 乱 の中 で霞憾 し て いた。 す でに述 べた地中 海世界 では、 あ. スそ の人 の存在 と十 字架 上 の死 に出 現 した こと こそ、 鉄 器 に始 ま る. ら れ ると いう古 来 の自 然信 仰 や神 人 君主 のパタJ ンが、 ま さ にイ エ. あ った。 神 とし か いいよう のな い存在 が現実 に目 の前 に出 現 し て い て、 そ のたし かさが実 感 とし てまず有 り、 教化 的説話 は後 から加 え. あ った と いえ る だ ろう。神 の言 葉 に人 間 理 性 の理由 づ け は 不 要 で. 世紀前後 の時代 にな ると、 これら が ついに万 人 の為 の宗 教 とし て改 め て登場 し てく る。 西 では ヤ ハウ エ神 こそ全 人類 の礼 拝 す べき唯 一 の神 だ とす る教 えが、東 では仏 の境 地 は万人 に開 かれ て いる のだ と. 襲を契機 に登場 した統 一王朝 が、 こ の期間中 に崩 壊 し て、 西北 イ ン. 我 々 の時 代 の、 人倫的連 関 の完 結 への最後 の ステ ップ だ った の であ る。 イ エスの布 教 活動中 は疑 問視 した人 々でも、後 にな って思 いか. 説く大乗 仏教 の教 えが、 登場 し てく る のであ る。 そ の五百年 の間、. ド にク シ ャン王朝 が生 ま れ、 デ カ ン高 原 にア ンド ラ王国が栄 え ると. では大 乗仏 教 にも、 そ のよう な輝 きを見 せ るも のがあ った のだ ろ. え せば あ れ は神 だ った のだ と考 えた方 が つじ つまがあう と い った こ. う か。残 念 なが ら、 人物 とし ては居 な いと いう べきだ ろう。 龍 樹 と. い った 盛 衰 を く り か え し て い た 。 ア シ ョカ 王 と か カ ニシ カ 王 の よ う. れども、 カ ニシカ王が遊牧 民族 の国 王 であ った ことが象徴 す るよう. いう僧 は大乗 教典 の編纂者 でこそあ れ、輝 く教祖 ではな か った。 し. と は ど こ で も 起 った に ち が い な い。. に、仏教 も イ ンド の土着 性 から脱却 し つつあ った。 土着 の宗 教 はむ. な熱 心な仏 教 信者 の庇 護 のお かげ で流 れが絶 え る ことはな か ったけ. し ろ バラ モンの伝統 を受 け継 ぐ ヒ ンズ ー教 の形 で生 ま れ かけ て いた. かし、 彼岸 を見 せ る何 かがな け れば 、 し かも即物 的 にそ こ に出 現 し. なけ れば 、宗 教 とし ては偉 力 が発揮 できな い。 そ こで我 々は、 それ. の で あ る。. と ころで こ の段階 ま で来 て みると、我 々はも う 一度 、 こ の時 期 の. よう 。仏像 制作 は最初 の仏 教 には存在 せず 、 西北 イ ンド でギ リ シ ャ. を可能 にした のは仏像 制作 だ った のだ と、 ここ では仮説 を立 て てみ. 人 々が そ の心を奪 われた世界宗 教 の輝 き と いう も の に思 いを馳 せ て みなけ れば な らな いだ ろう。前 五世紀 の頃 の人 々と ちが って、 この. 文化 と接触 し てから始 ま ったと いわれ て いるが、 最初 の頃 は釈 迦 と. 0) ( 1. 時 期 の人 々は戦 乱 と敗 北 によ る屈辱 と政治的 隷 属 の渦中 におかれ て. 一三.

(15) . . 宏. 上 岡. した思 いを自 分 で仏 像 制 作 の中 に具 象 化 す る所 ま で行 く はず であ り、仏像制 作 に全 霊 を う ち こむ こと自 体 が宗 教的実 践 そ のも の にも. た彫 像 によ って、釈 迦 の教 え を感 得 でき る と いう 点 にそ の比 重 が あ った のだ と考 え る べき であ ろう。従 って、 もう 一歩 すす めば 感得. た仏像を拝 む と いう よ り は、 むし ろそ こ に眼 に見 え る形 で現 わ さ れ. おけ る輝 き は、いわ ゆ る偶 像崇 拝 と いう 面もあ る にせよ、 他 人 が造 っ. を始 めとす る様 々な 理念 の仏像 化 へ展開 し て行 ったら し い。 仏 教 に. 築 の進 展 に伴 って、 宇 宙 そ のも の でもあ るよう な大 仏 (ルシ ャナ仏 ). その弟子を偲んで彫像化し拝めていたものが、大乗仏教 の理論的構. た 。 そ し て 、 コ ン ス タ ン チ ヌ ス帝 以 後 、 よ う や く ヨ ー ロ ッ パ 的 世 界. 教 養 と哲学 は、結 局 キリ スト教 に屈服 す る。それ は端 的 な敗北 であ っ. 者 た ち自身 の輝 き とな り、何 をも ってし ても消 す こと のできな い光. し た と いう 強烈 な実 感 に裏 打 ち された使徒 た ち の、 ま さ に彼 ら自身. のは当 然 であ った。 そ れ は神 を目 の前 に見 て、 共 に行 脚 し共 に食 事. 度 で地中 海 世界 を席 巻 す る。 す さまじ い緊 張 が ロー マにみなぎ った. 学 的教養 を激 しく叱責 し非 難 し、抹 殺 せず には お かな いと い った態. た から であ る。 と ころが キリ スト教 の方 は逆 であ った。 ギ リ シ ャ哲. 一四. なりえた であ ろう。初 期仏 教 の遺 跡 に漂 う熱 気 の残 津 は、 人 々を捉. 帝 国 に理念 の統 治 と いう 形 が成立 す るわけ であ る。. におけ る全宇 宙 の必然 的 展開 の支 配 者 は指導 理性 と呼ば れ、 す べて. でにおな じ み のも のであ り、 格別 珍 ら し く も な か った。 スト ア哲学. 統 を持 つ当地 の知識 人 たち には、 唯 一絶 対 の神 と い った考 え方 はす. あ った であ ろう 。 使徒 た ちがギ リ シ ャ文 化 の中 心 だ った アテナ イ や 世界 国家 の首 都 な る ロー マに入 って行 った時、 ギ リ シ ャ的教養 の伝. ると いう連鎖 作 用 を伴 って いた。 キリ スト教 でも、 そう いう こと は. そ の光 源 を求 め て西行 す る僧 侶自 体 が ま た し ても発 光体 のよう にな. 行 ったし、経典 を求 め て シ ルク ロードを辿 った中 国僧 の苦難 な ど は、. 世界宗 教 の広 が り の過 程 におけ る輝 き は、 こう し て人 々を捉 え て. 存在 が目 から姿 を 現 わし てく る時 はそれ にし っかり と目 を向 け る。. え ており、決 し て思弁 的 原 理 に頼 ってな いから であ る。存 在論 は、. れ ども、 存在 論 は現実 世 界 の構 造 的枠組 を す で にそれ自 体 とし て捉. 在論 とし ては これ でよ い。 悪名 高 い観念 論 的方法 とよく似 て いるけ. 的 原 理 によ って構成 す るや り方 に近 いと いえ るだ ろう。 し かし、存. 歴史 哲 学 とよく似 たやり方 であ り、 歴史 を事実 によ ってよ りは観念. 法 はも ち ろん歴史 学 の採 る方 法 ではな い。 むし ろそれ は観 念 論 的 な. て歴史 の展開 を統 制的 にそ こ へ関係 づ け た のであ る。 こ のよう な方. の勝利 ま で、我 々はそ の雛 形 にそ って予 め思考 の筋道 を つけ てお い. 勢力争 いから統 一国家 の出現、統治理念と人倫的規範としての宗教. る。我 々が ここ で用 いた雛 形 は、何 度 も述 べたよう に、青 銅 器時 代 の展開図式 であ った。 農 耕 生 産力 の増 大 から都市 国家 の成 立、 そ の. 鉄 器 に始 ま る歴史 時 代 の発 生 と 展 開 の図 式 は以 上 のと お り であ. とな る。 数 世紀 にわた る抵 抗 の後 、 ロー マ帝 国的世界 のギ リ シ ャ的. が発光体 とな った こと の強 烈 な輝 き であ った ろう。 やが てそ れは信. えた輝きが初 め は外 から や って来 た の に、 や が て制 作者自 身 が 発 光 体 のよう にな って い った こと の名残 り ではな いかと思 われ る のであ. を運命 づ け て いる存在 であ った から、 キリ スト教 は それ とよく似 た. だ から、存 在 の枠組 を まず 石 器時 代 の人 類 にお いて具象化 し、 それ. る。. 考 え方 を す ると い った程 度 のう け とめ方 を し た人 が多 か った のであ る。 そし て自 由 な 思索 を哲 学 の基本 ルー ルとす る伝統 の中 では、 誰. を雛 形 とし て青 銅 器時 代 の再構成 に向 った時 も、 神 人 君主 の出 現 の. nY (. も そ の布 教 をとが めよう と はしな か った であ ろう。 哲学 は寛 容 だ っ.

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