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肖柏・実隆の源氏物語本文と『弄花抄』

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(1)

室町時代の中期以降、 連歌師の定家崇拝が源氏物語研究の隆盛 をもたらし、 青表紙本の復興期が 到来した。宗祇・肖柏・三条西 実隆の三人は、 師匠の一条兼良の読みを継承じ、 多くの注釈魯と 青表紙本系統の本文を残した。宗祇所持の本文は今に伝わってい ないが、 肖柏筆の所謂肖柏本(r大成校異篤」採録)、 実隆筆の 害陵部蔵育表紙証本、 そ して実隆・公条・公順筆の三条西家証本 (r大成校異篇』採録)の三本は、戦前までテキストとして広く 行われたr湖月抄』や『首薔源氏物語』の載せる本文と性格を密 注ー にしており、 その性格・成立 過程を究明することは意味のないこ とではない。 嘗て山脇毅氏は、 『実隆公記」の記述を具さに検討して、 三条 注2 西家の育表紙証本が肖柏 所持の本文を借覧 することで成立したと 推定され、 また岡野道夫氏は 先の三条西家にゆかりの三本を詳細 注3 に調査した結果、 その緊密性・流動性を指摘されたのであった。 本稿は、 このような二氏の研究の到達点に 、 兼 良・宗祇・肖柏. 実隆四人の注釈の大成であり 三条西家の源氏学の出発点でもあっ

はじめに

肖柏・実隆の源氏物語本文と

『弄花抄』

た『弄花抄』という注釈書を加えろことによって、 三本の成立過 程•本文の揺れ動く様相を具体的に見ようとする ものである。 部分と部分の類似に重きを置いた諸伝本の分類の過程で、手つ かずの状態のままそ こ に取り残された問題 点、 即ち一伝本に固有 な異文が、 いかにして出現するに至ったかを明らかにし得るのは、 唯一筆者の説みそのものなのであり、 古注等に窺われる読みの継 承を辿って行くことによって、 我々は本文伝流の歴史を遡ること ができるのではないだろうか。 紅梅巻の「左大臣」 源氏物語の所謂第三部世界始発に位醤する匂宮三帖は、 内部に 重大な矛盾を抱えて、 果ては偽作説まで出現し、 いまだ首肯し得 ろ解決案をみない。 紅梅巻で、薫は夕霧右大臣や紅梅大納営に「源 中納宮」と呼ばれていろ。 それだけなら問題はない。 ところが竹 河巻を見ると 、 薫 が 中納宮になると同時に、 夕霧右大臣は左大臣 に、 紅梅大納言は右大臣にそれぞれ昇進する 記事がある。何故紅 梅巻で夕霧・紅梅大納宮は左大臣・右大臣と呼ばれていないのか。

(2)

この問題に関して、 兼良はこう述ぺていろ。 此の巻に薫を源中納言とい へろは あやまり也。 (中略)夕霧 を右大臣とかき、 紅梅ノおとどを按察使大納言と筍侍れば、 昇進の前の軍也。 注4 (r源氏物語年立』 .享徳二年) それからおよそ二十年の後、 『花烏余情』を著した兼良は、年 立上、.正編世界では光源氏の年齢・官位を、 続編世界では滋の年 齢 .. 官位を基準とすろという原則に従い、 「源中納言」を尊誼、 紅梅巻を匂宮巻の竪 の並 びと捉え、 竹河巻を二巻に対して竪横の 並びとして、 紅梅巻の夕窮右大臣・紅梅大納言の問題を保留した。 この兼良の新説の欠陥部分を補ったのが弟子の宗祇であろ。 おなしきときの転任のうへは夕霧は左大臣紅梅大納言は右府 たろへきを夕霧を右の おとヽとかき藤大納言をそのまま大納 言といへ るはすきにし方 よひならひたろ故也 注5 (r稲宝編次抄」 ・文明七年) 宗祇は「源中納宮」を諄重する立場を継承 し、 紅梅巻の夕霧. 藤大納言はそれぞれ前官名で呼び通されていろに過ぎないと考え たのであろ。 兼良・宗祇の解釈では、 紅梅巻と竹河巻との巻序が 逆でもよいということになり、 後世には二巻の巻序が逆ではない かとする解釈も生まれたのであった。 文明八年(一四七六)及び長享三年(-四八九)の二度にわた ●て宗祇の講釈を聞き、 他日には兼良の講釈をも聴聞した肖柏は、 本「右」 (左 )」 その他の諸本(右)'(r大成校異篇』採緑の 講義録r聞魯』を成した。実隆は永正元年(-五0四)、 これを 借り受けて第一次本の r弄花抄』を成し、 次いで永正七年、 今日 注6 一般に流布すろ第二次本『弄花抄」(七冊本)が出来あがった。 注7 そのr弄花抄」にはこうあろ。 二 紅梅(一四五一・12)右ノヲト、ナン此世ノ ①夕霧ノコトニャ左ニナヲスヘシ ®私此篠如何 ③左ナルヘシ ①の注記は肖柏が、 講釈で宗祇の説いた所を策録したものであ ろう。 ③もそうなのかも知れないが、 ①で得た考え方で肖柏また は実陸が記したものなのかも知れない。 ®が誰の書き込みなのか は今のところ判然としないが、 『弄花抄」以後の三条西家関係の 注釈笞は「左ナルペシ」とする解釈を踏襲することになろのであ る 。 二箇所における諸本の異同を見てみよう。 (一四五一・12)肖柏本「 左」.笞陵部本「左」・三条西家 本「右」 ものに限る) (一四五六•7)肖柏本「左」・宙陵部本「左」・三条西家 紅梅(-四五六•7)右ノヲトヽワレラカ

(3)

-2-桐壺(-九•6)世人モ 世ノ人モト続云々 〔異同〕肖柏本・聾陵部本・三条西家本「世の人も」 その他の諸本「世人も 」 室町時代以降、 源氏物語の講釈が様々な湯で盛んに行われてい ろ。 講師が物語や注釈香を抱えて行って、 聴聞客の前で物語を朗 読しながら講釈を加えていくのであろ から、 漢字と漢字との間に 「の」を入れて読むか否かが、 当時においては重要な問題であっ たのであろう。 r弄花抄』の中には、 或ろ箇所を消音で院むか潤 音で読むかの注記もかなり見受けられ ろ。 「和抄」とあるのは兼 良のr涼氏和秘抄」のことで、 「世人」を「世の人」と読むぺ< 説いた兼良の説を宗祇以後踏襲し、 肖柏・実隆は師の統み方を本 和抄 その他の諸本「右」 肖拍本と昏陵部本とがいかに接近していろか、 いかに宗祇の説 に忠実であろかを顧著に窺い得ろ例で あろと思う。一方の「右」 はミセケチにして「左」に改め、 他方のはそのまま「右」 に止め、 躊躇すろ三条西家本の在り方にも注意した い。 肖柏本・掛陵部本 . は 紅梅巻に限らず、 宇治の物語に登場すろ夕霧右大臣の呼称のほ とんどを「左」に改作して いるが 、三条西家本は再びこれらを「右 」 に戻していろのであろ。 . 並良・宗祇の読みが、 三本に影響を与えている例をいま少し掲 げておこ う。 文上に受け継いだのである。 蓬生(五三O·3)兵部卵宮の御女ヨリ外ニ 式部卿トアル本モ有欺 掛誤ナルヘ シ乙女巻二式部卿トハ成給ヘル也 〔異同〕肖柏本「兵部卿宮」・祖陵部本「却(兵)」・三条 西家本「式(兵)」 . その他の諸本「式」 物語の構想論・成立論の立場から様々な形で採り上げられた問 題の箇所である。特に兼良の説であるという記載もないから、•こ れは肖柏が 宗 祇に聞いたままを記載したのであろう。 . 肖柏は師説 を素直に受け入れて「兵」とした。実隆は、 笞陵部本の段階では、 「式」こそ諸本に共通の記述と知ってか知らずか、 これを`くセケ チの形でのこしたまま「兵」を傍記し、 三条西家本段階では、 師 の読みを多少意識して、 「式」の横に「兵」を並記するに止めた。 ここには、 数十年にわたって様々な伝本を通過した実隆の読みの 変化と、 三条西家本の流動性を見て 取ることが出来 る。 肖柏の無批判な本文改作を資め るのではなく、 宗祇の、 定家以 来の青表紙本復興に際して、 不審の点はこ れを悉く解消しようと した熱意をこそ想うぺきであろう。 これまで一 i 一条西家の胄表紙 証本に 影堀を与えたという こ と で肖 柏本が注視されて来たのであったが、 今や肖柏本そのものが、mk 紫上ノ享

(4)

花抄』の 注釈及び収抄本文(それは兼良・宗祗の源氏研究の成果 でもあろが)から、 青表紙本の立場で言えば、弊害を被っている という事実に注目しなければなるまい。 至璽(七三五.9)う月のひとへめく物 ひとへ云々 .〔異同〕肖柏本「

ii

(のし)ひとへ」.苔陵部本「う月 ののしひとへ」 三条西家本「う月のひとへ」 青表紙諸本「う月のひとへ」 注記に「花烏」とあるのはr花烏余情」、 「一勘」とあろのは 文明十二年(-四八0 ) 肖拍が不審の点を直接兼良に尋ねて得た 返答注妃である。 r花烏』の説を 宗祇 に聞き、再び茉良に尋ねて 後、 胄表紙本系統の証でもあろ本文を河内本系統の本文に属すろ 形に改めたの であろう。 同じような例はまだい くらもある。 ①蛍(八ーニ・13 ) すそこの木丁 肖柏本「みき丁」 脊表紙諸本「みき丁」 ®若菜下(―-三三・14)右大将大納宮に成給テ例ノ左ニウッ 0 0 0 0 リ給ヌ ↓肖柏本「右大将の君大納口に成給ひてれ 0 0 . . 0 0 0 いの左にうつり給ぬ」 青表紙諸本「右大将の君大納言になり給ぬ」 或はのしひとへと有 見花烏 一勘 うすきぬの事 如此のしをかけたる 花宴巻の「コナクサマニハクル物力」 ®総角(一六0八・11)さる心しけろにやと

る心しける」 青表紙諸本「心しける」 ①では「み」が消されてr弄花 抄』収抄本文との共通異文に、 ®では「給ひて」以下が補入されて別本系統の本文 に、 ③におい ても「さる」が補入されて河内本 ・別本系続の本文へと改変され ていろのであろ。 いずれもそうすぺきだとい う注記はない箇所で あるが、 先に掲げた例から、 兼良や宗祇の説に従ったものと見て よいのではないだろうか。 以上、 紙幅の都合上あまり多くの例 を掲 げることはできなかっ たが、 三条西家ゆかりの本文が、 定家の育表紙本に 最も 近いと言 われろ諸本(例えば大島本など)とは異質の本文を有するに至っ た経路をr弄花抄』を通して見てきた。兼良・宗祇の読みを反映 して、 今日に伝わろ肖柏本よりもより育表紙本的であったであろ う肖柏所持の本が、 河内本・別本的性格の色濃いものに変化して いった。 召陵部本は これ にかなり接近しているが、 書写年代の下 三条西家本は、 逆にこれらを離 れるかたらで、 正統な冑表紙本 に近づいて来ろのであろ。 岡野氏は、 肖柏本に 非常に接近しているの が書陵部本で、 誉陵 部本と三条西家本では同じ三条西家の証本でも随分距離が在って、

肖柏本「さ

(5)

-4-ミツノ位卜可読ニャ ミツノ位トアリ 和秘抄二正一二位ノ事成云々 r大成校異篇』でこの箇所の異同を見ろ と、 御物本のみが「お ほきみつのくらい」とする本文を有し ている。 しかしこれは「和 秘抄」、 即ら兼良のr諒氏和椒ザ」が収抄する本文でもあって、 宗祗や肖拍らがこの臭 文を見たのはr和秘抄』において であった と推察される。 r弄花抄』の採録する異文のほとんどの典拠は、 先行する注釈誓に求めることができるようであろ。 r河洒抄』 . r和秘抄」 . r花烏余情』等の収抄本文並びに注 或本ニハヲホキ 条西家本の方がより現行の育表紙本に近いとさわた。r弄花抄」 を通して見ても氏の御論に反す る所はない。 三本 のうら最も早く 成ったのが肖柏本、 次いで書陵部本・三条西家本という順である。 このうち三条西家本(実隆·公条・公順班)の書写年代は享禄四 年(一五三一)とわかっている が、 肖柏本・書陵部本の書 年代 は判明していない。 岡野氏は書陵部本(実隆筆)の書写を延徳四

年(一四九二)頃と推定さ たが、今r弄花抄』を以て更に遡ろ ことが可能なのではないかと忌う。 r弄花抄」中には、 異文 に関すろ注記が多数掲げられていて、 液良・宗祇・肖柏・実隆の学統 が、 当時いかなる本文を目にして いたかを知る上で厖朕な資料と成り得ろ。 桐壺(10·8)三位ノクライ 釈にすでに載る異文・異文 注記を差し引いても『弄花抄」独自の 異文注記がいくつも残ろ。 例えば、 若紫(一六五・13)さしくみに 是も源の歌にやと云々 何如 一本佃部とあり可然歎 「さしくみに」の歌を詠んだのは涼氏であったか、 僧都であっ たか。 「花」即 ちr花烏余情』の兼良の説では「源」の歌だとす るが、 宗祇・肖拍は合点がゆかない。 「一本」に「冊都」と あろ からである。 r大成校異篇』採録の諸本及び書陵部本を見ろと、 御物本・肖拍本・三条西家本にのみ「そうつさしくみに」とある。

注"

異文の出所は肖拍本であろと考えるのが 妥当であろ う。r弄花抄』 の収抄本文と肖拍本・召陵部本・三条西家本は非常に接近しては いるが、 いずれも同一ではないのであるか ら、 三本とも異文の典 注12 拠と成り得るはずである。 花宴(二七一•9)コナタサマニハクル物カ 異本ニハノ字ナシャスラカナリ r大成校異篇』に採録されていろ諸本で、 「コナタサマニハ」 の「ハ」を表記しない伝本は一本もない。ところが書陵部 本は「こ なたさまに」で「は」を欠くのであろ。現在我々が目にすろこと の出来ろいかなろ預料にもまして、 r弄花抄』が 「ャスラカナリ」 と判断すろ根拠となっ たこの異文の出所が、 世陵部本であろ可能 性は高い。

(6)

r弄花抄」の基本的資料であろ肖柏のr聞害』 は、 桐壺巻から 注 13 松風巻までの残欠本の形で現在に伝わっており、 『弄花抄』の桐 壺巻から花宴巻までに賊ろ異文注記は、 既にr聞魯』の内に在る。 実隆苔写の帯 陵部本にしか見ろこと のできない異文が、肖柏のr聞 笞』の段階で既に存在すろとはどういうことであろか。 先にも述ぺたように点閲轡」は、 文明八年(-四七六) •長享 三年(一四八九)の一一度に及ぶ宗祇の講釈 と、 他日の兼良の謂釈 とを聞いて肖柏がま とめた ものであろが、 永正元年頃実隆の手に 渡りr弄花抄』に成艮すろ一方 で、 r聞得」自体も成長していっ 注 14 たであろうことも考えておく必要があろ。 「毀本ニハノシナシャ スラカナリ」が文明八年から長享三年までの間に『問書』に記さ れたのか、 それ以後であろのか。 後者の場合岡野氏の推定に無理 はないが、 前者の場合苔唆部本の野写年代はもっと早くなろ公算 が大きい。 r実隆公記」の文明十五年(-四八一 1 l)から文明十七年までの 間には、 実隆が宇治十帖の巻々を宙写した由の記事が散見し、 明十七年困三月二十一日には、 源氏物語五十四帖を害写し終えた とあろ。 そして、 同月の二十八日からは宗祇・肖柏を招いて葵巻 から講釈を開始し、 一年と一ニケ月を要して読了していろ。 岡野氏 の推定された延徳四年はこれよりおよそ四年後であろが、 柑陵部 本の害写が宗祇・肖柏の講釈終了後さらに四年を経過して行われ たと考えろには、 その内部に校訂の痕跡が多過ぎはしまいか。 息所」 鈴虫(-――lO二• 4)故御息所ノ 『聞田』がr弄花抄』へと成長すろ過程で 隆の自説も多少 加わるが、 これらすぺてがそうだとは言えまい。得陵部本は、r聞 街』所収の本文(即ら兼良・宗祗の読み)に迎合すぺく受けた校 訂の跡をそのまま残し過ぎているのである。 文明七年に宗祇の『梱玉編次抄」が成り、 文明八年に肖柏は第 一回の 宗祇の講釈を聴聞する。 紅梅巻や宇治十帖に登場する夕霧 右大臣が全て「左大臣 l と改作されている肖柏本の得写年代はこ の人人 藤袴(九三O• 2)心モテ日影ニ 引(け)」 藤斑莱(九九八・11)今日ノ御法ノエヲモ

...

「えILl(を)も」 鈴虫(一二九一• 8)カラノ百歩ノクヌエカウ 0 0 本・・9,:「百ふのくぬえかう」 鈴虫(-―一九二•7)行カウノ人々 藤袴(九二七•8)カクコンモトテ 左にその具体例を掲げる。 雷陵部本・・・・・・「故御 又ハ行道トアリ云々 害陵部本・・・・・・「行日(か)う

沓陵部 宵陵部本・・・ 害陵部本・・・・・・「ひか 或本カコトモトテ 安ク聞ユル欺 掛陵部本・・・・・・ 「かくこむ(と)をもとて」

(7)

-6-の近辺であったはずであり、

文明十二年に兼良から一勘を得て最

終的な校訂を受け、

現在のような形で伝わったのであろう。

r弄

花抄』が掲げる異文に、

肖柏本の倍の割合でよく一致する本文を

持つ書陵部本は、

肖柏本

とは距離のある或る本文を祖本として有

していたと考えられるが、

これ

と肖柏から借

り受けた本文•その

他の資料をもとに実隆が校合掛写した本文こそ召陵部本であり、

文明十七年阻三月二十一日に困写された源氏物語五十四帖だった

のではないだろうか。

宗祇・肖柏を自邸に招いた目的のーつは、

その校訂

を行うことであったのであり、

先の宙陵部本に兄える校

訂の痕跡がその当時の様子を如実に物話る黄重な資料であるとは

考えられないであろうか。

r実隆公記』の始まるのが文明六年(一四七四)、

実隆二十娯

の年か

らで、

文明八年八月十九日の条には「晩頭肖柏来話云々」

の記事が見える。

.

rEl!l�lJに記された「コナタサマニハ」の異文

「こなたさまに」を肖柏が目にし

得たのは、

打陵部本へと変貌を

遂げろ以前の或る本文においてで

あったと

思われる。

昏陵部本と

肖柏本との緊密な関係は、

例えば山脇氏の述ぺられた如く、肖柏

所持の本を実隆が借り受けて

校合に使用したというよう

な、

いわ

ば一.方通行的な関係であったとは考え難い。

文明八年の頃すでに

実隆の手元に在ったと想像される「或る本

文」は、

逆に肖柏本の

成立にも関与し得たのではないか。現

に、

山脇氏も指摘されてい

注15

るように、

『実隆公記」文明八年八月十九日の「晩頭・・・」の記述

の後には、

肖拍から拶浮橋巻の書写を依顧された由の記出が存在

するのである。

三条西家本が、

肖柏

本・書陵部本の二本に比べて、

より正統な

青表紙本の本文に接近しているという事実は、

r弄花抄』を通し

てみた場合にも確認される。.r弄花抄』が収抄する本文の中から

河内本系統に

のみ属する本文を抜き出して(38例)、

三本にどれ

だけ吸収されて

いろかを調査し、

肖拍本•34例、

宙陵部本・27例、

三条西家本・

11例という結果を得たのである。

しかし本稿は、

内本系統の本文

を訂正して育汲紙本に接近するという一ー一条西家本

の在り方には注目しない。

逆に、

宗祇や肖柏よりもずっと多くの

伝本を目にすることが可能であった実隆が

故もっと定家の背

表紙本の正統に接近することができなかったのかを考えてみたい

のである。

花烏二見ユ

軟応トアリ

一答云

裕ノヤウナル物二

高キ松ナト絵ニ

苔テ壁ニソヘテ引也

〔異同〕肖柏本fせんしゃう」.柑陵部本「せむしゃう」.

三条西家本「軟限」

他の育表紙諸本「せしゃう」•河内本

本「せん

須磨(四三五・1)センシャウ

東屋造の「かみの君のかたより」

(8)

さう 「一答」 とは、 文明九年(-四七七)宗祗が不審の点を兼良に 尋ねて得た返答注記である。 r花鳥」にあ る説明で禍足できなか った宗紙は「センシャウ」がどんな物 か、 具体的に知りたかった のであろう。 ここ で注意したいのは、 三条西家本だけが一答の掲 げる「軟悶」の表記を採用しているということであ ろ。 続むとい う面では寧ろ有難いようなものではあるが、 本文を校合書写する 態度という観点からは見過としにできない例であろう。 · 項に掲げた「さしくみに」の箇所でへ「そうつさしくみに」 とする本文を有するの は肖柏本・三条西家本・御物本のみであっ た。 「そうつ」の経は、 おそらく「さしくみに」の歌の主を明示 する傍記の如きものであったのが、 肖柏本の段階で本文の中に組 み込まれてしまったのであろうと想像される。実 隆父子はどうし てこれを削除で きなかったのか. ・東屋(-八ニニ.5)かみの君のかたより 常陸守辺より也 ィ本かの君の 左少将の辺より也 中将の君は、 浮舟と一緒に中の君の邸に

g

をよせている。 匂宮 が、 后の宮を兄鍔うため邸を出ようという時、 御前に何候する人 々の中には浮舟との結吊を拒否した左近少将がいる 房の一人 16 は彼の噂ばなしを始める。 「力の岩の方より」聞いた と言うので

「かみのきみ」とする本文を有すろのは三条西家本だけである から、 『弄花抄」のこの収抄本文・注記は実隆が書き加えたもの であろう。 他の青表紙諸本のように「かの君」と するのでは、 さがない女房が、 左近 少将の噂を常陸守の縁者から聞き及んだの か、 左近少将の緑者から聞いたのかが曖昧になると考えた実隆は、 「かの君」に仮託する「左近少将の辺より也」の解釈を「イ本」 扱いとし、 自説「常陸守辺より也」に一本化すぺく、 本文を「か みのきみ」に改作し たのである。 三条西家の青表紙証本が書陵部本から三条西家本へと変容する 過程で、 硲かに多くの河内本・別本系杭の本文が訂正された。 かし、 はたして実陥の校合書写する態度に、 肖拍のそれと異なる ものを見いだすこと ができるであろうか。 右に掲げた例が、 かか る疑念を抱かさずにはおかないのである。 河内学派がその隆 盛を極めた時代、 諸本混合の末にできあがっ た本文は、 実に続みやすく不純な本文ではあったが、 r水原抄」 なる大部の注釈書の出現を可能にした。 青表紙本に依拠する源氏 研究にもそのよう な時代が到来した と言ってよ い。r花烏余情』 が世に出て鑑賞批評に力が注がれ、 宗祇からr聞書』へ‘r聞書』 からr弄花抄』へ、 r弄花抄」から、後世絶賛を博した『細流抄』 へと注釈が成長し、 本文とのOO係・物語の展開との関係を、 例え ばr河海抄』などは足元にも及ばないほど密にしていっ た。 そう した状況下で本文優位の原則が破 られ、 注釈書がこれに改変を強

8

(9)

-『弄花抄』を基軸に据えて、 肖柏本・密陵部本・――一条西家本の 成立と性格を見てきた。 育表紙本と河内本の区別が明瞭でなかづが当時の、 妓良・宗祇 の影鰈力には驚かざるをえな いが、 河内本系統の本文 によって源 氏物語の研究をおこなった兼良 と、 定家以来の背表紙本の復興に 努めた宗祗との接触こそは、 青表紙本の亜流ともいえる肖柏本の 出現を暗示するも のであったと言えよ う。 兼良・宗祇の読みの影 禦と肖柏本の影湿とを共に払拭することが可能であったろう実隆 が、 三条西家本を轡写すろ段階でそ うできなかった理由の―つに は、 自家の注釈書 r細流抄』へ の用意としてr弄花抄 」を完成さ せたことがある。 肖拍のr聞書』によって伝授された先の二人の 読みを欠いて、 『細流抄』の成立はあり得なかったのであり、ニ 人の読みを継承すろには、 本文上にr弄花抄」の収抄本文•河内

むすび

.いるというような現象が起こるようになった。「本文 から読みへ」 の順序が「読みから本文へ」の順序へと逆転するという事態が生 ずるようになったのであろ。 実隆が、 自家の椛威にものをいわせ て、 貨所に眠る本文を悉く 披見し、 本文優位の原則にもっと忠実であったならば 典の大 衆化という現象は現出されなかったのかも知れないが、 近世の源 氏研究はより純粋なかたちで進展を遂げたはずである。 本・肖柏本より引き継いだものをいくらか残しておく必要があっ たのであろう。 先にも述ぺたように、 この 時代には 源氏の講釈が盛んに催され ており、 購師は物語を朗読し、 問題の箇所についてはこれに注釈 を加えなければならなかった。 当然のことながら聴衆を納得させ る注釈の体系が必要で却がし、 その注釈は物語の本文と うまく照 合するものでなければならなかったのであろ。 三条西家ゆかりの 本文の性格をr弄花抄」から捉えることができるのも、 実はその ような享受形態が存在した からであろ。 注1 工藤進思郎先生編r首啓源氏物語 窓生•関屋」(昭和 六二年 和泉書院)解説に詳しい。 2 r 源氏物語の文献学的研究』(昭和十九年 創元社)に 詳しい。 3 証本源氏物語の本文に ついて—ー特に肖柏本 との関係 について」(「語文」第二三輯 昭和四一年三月)。 4 増註源氏物語湖月抄』(昭和五七年 名著普及会)所 収のものによった。 5 野幸一氏顧、 源氏物語古註釈叢刊巻四(昭和五五年 武蔵苔院)所収の ものに よった。 6 井春樹氏著r源氏物語注釈史の研究」(昭和五五年 桜楓社)に詳しい。 岡山大学附属図杏館所蔵の池田家文庫本3邸氏物話聞書』 7

(10)

(七冊)を底本に採用した。

伊井氏の所製第二次本r弄花

抄』に属する善本である。

()内Icr源氏物語大成』校

異篇におけろ頁数・行数を示し、

諸本の異同の書式もこれ

に従

注3に同じ

3に

同じ

10

ートルダム清心女子大学古典叢害第一二期5r源氏和秘

J

(昭和五七年

福武書店)によった。

n

r

弄花抄』の収抄する本文と掲げる異文とが、

その他の

伝本に一致しないのに、

御物本と三条西家ゆかりの本文と

に等しく一致するという例がいくらかあろのは気になる現

象であるが、

ここでは言及

ない。

12

だし三条西家本については、

書写年代が『弄花抄』の

一応の完成以後であるから

、それ自体が異文の典拠である

というよりも、その校合む写に貢献した諸資料が典拠だと

考えたほうがよさそうである。

13

学院大学図嘗館蔵本で、伊井春樹氏網r弄花抄

付源

氏物栢聞瀞』

(昭和五八年

桜楓社)に翻刻されている。

14注6に同じ。

15注2に同じ。

16

本古典文学全集の記載で

全集は左近少将の縁者から

聞き及んだとする。

第二十八号

第二十四号

第十一号

第四号

r弄花抄』が異文と認めているものの中に、

河内本

・別

本系統に特有のものがあると等しく冑汲紙本系統

固有な

ものが存在することでもわかる。

18

際に講釈の場でr弄花抄」が活用されたであろうこと

は、

その各冊目録の巻々の名の辺りに「講絞日数二日」

「問一日」等の祖き込みがあるのでもわかる。

(岡山大学大学院研究生)

...

...

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.

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究室受贈図書雑誌目録

(昭和六十三年一月

十二月)

単行本・目録

聖徳太子の世界

(奈良国立文化財研究所)

挑園文庫目録

(東海大学附属図書館)中粒

雑誌•紀嬰

愛知淑痣大学国話閲文

愛知大学国文学

愛文(愛知大学)

百山語文

第十八サ

旭川因文

(北海道教育大学旭川分校)

鈷見学園短期大学紀要

第二十三集

、第二十四集

、第二十五集

魚津シンポジウム

(洗足学園魚津短期大学)

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第三号

参照

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「文字詞」の定義というわけにはゆかないとこ ろがあるわけである。いま,仮りに上記の如く

を軌道にのせることができた。最後の2年間 では,本学が他大学に比して遅々としていた

うのも、それは現物を直接に示すことによってしか説明できないタイプの概念である上に、その現物というのが、

噸狂歌の本質に基く視点としては小それが短歌形式をとる韻文であることが第一であるP三十一文字(原則として音節と対応する)を基本としへ内部が五七・五七七という文字(音節)数を持つ定形詩である。そ

Scival Topic Prominence

本論文での分析は、叙述関係の Subject であれば、 Predicate に対して分配される ことが可能というものである。そして o

としても極少数である︒そしてこのような区分は困難で相対的かつ不明確な区分となりがちである︒したがってその

の繰返しになるのでここでは省略する︒ 列記されている