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生活綴方における言語活動 : アクティブ・ラーニングの視点から: 沖縄地域学リポジトリ

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Academic year: 2021

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Title

生活綴方における言語活動 : アクティブ・ラーニングの

視点から

Author(s)

梶村, 光郎

Citation

沖縄大学人文学部こども文化学科紀要(4): 1-12

Issue Date

2017-10

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/22006

Rights

沖縄大学人文学部こども文化学科

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【論文】

生活綴方における言語活動

-アクティブ・ラーニングの視点から- 梶村光郎

The language activityies in Seikatu-Tuzurikata

From the point of view of the active learning Mitsuro Kajimura 要約 現行の学習指導要領の告示以来、思考能力・判断能力・表現能力等を育む言語活動の充実が 課題となってきた。2017 年3月に告示された新しい学習指導要領では、「言語活動の充実」と いう言葉が消えた。「主体的・対話的で深い学び」を実現するためには、「言語活動の充実」を 無視することはできない。しかし、そこでこの課題への示唆を得るために、生活綴方実践を例 に、生活を表現し、それを読み合うという言語活動の意味などを検討した。 その結果、書き言葉によって生活表現することは、生活を意味化し、他者にそのことを解釈 できるようにすること。読みあうことは、作品世界の意味化をめぐって解釈を交流することで あり、生活や表現に対して学び合うという意味があること。また体験学習における深い学びを 成立させる言語活動を有効にするためには、体験に真摯に向き合う事前の取組が必要であるこ とを明らかにした。 キーワード:生活綴方 言語活動の充実 対話 アクティブ・ラーニング

Keywords:seikatsu-tudurikata,the substantiality of language activityies,dialogue active learning はじめに 2011 年度から小学校教育における学習指導要領が完全実施された。現行のこの指導要領の改 訂・実施の背景には、知識基盤社会の進展という状況があり、思考力、判断力、表現力等を育 むことが求められた。しかも、国語科での言語活動に関する指導に限定せずに、他の教科等の 指導においても「言語活動の充実」を図ることとなった。この課題に対応するものとして、文 部科学省側より「単元を貫く言語活動」が喧伝された。しかし、2017 年3月末に告示された新 学習指導要領では、特定の指導方式に偏るのはよくないとの理由で「単元を貫く言語活動」と いう言葉が消え、代わりに「アクテイブ・ラーニング」を念頭においた「主体的・対話的で深 い学び」が打ち出された。今後教育現場では、この問題にどう対応するかが課題となるだろう。 しかし、この課題については、教師主体の講義型の授業に対する改善を志向する教育実践の なかでこれまでも追求されてきている。だから、これまでの教育実践の成果や課題を振り返え るならば、「主体的・対話的で深い学び」を成立させるための示唆を得ることができるだろう。 とりわけ、生活綴方は、子ども達に生活のなかで強く心が動いたことを題材にとりあげること

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を促し、その生活を想起させながら、したことや見たこと、聞いたことや感じたこと、考えた ことなどを、時間の順序に即して、率直に表現させて、生活認識を深める実践を行ってきた。 また、文集を作成したり、作品を授業等で読み合い、生活のしぶりや表現のしぶりの良さにつ いて学び合う学習を重視してきた。さらに、観察・調査・実験を伴う日記や記録の指導、体験 学習の記録の作成、聞き書きの指導等、多種多様な書くことの教育と書くことによる教育を展 開してきた。そこで小論では、生活綴方における文章表現活動の充実をより一層図るためには どうしたらよいか、「主体的・対話的で深い学び」の視点と関わらせて考察する。 考察に際しては、まず生活綴方において書くことと作品を読み合うこととはどういうものか、 具体的に作品を例にして検討する。ついで生活綴方は、国語科の枠組みを越え、他教科等にお ける体験学習でも活用されているので、その際における問題点を指摘し、それらの学習が「主 体的・対話的で深い学び」になるようにするにはどうしたらよいか考察していく。 1.綴方を書くことの意義 生活綴方の教育実践においては、まず生活を表現することが基本となっている。ここで「書 き言葉」によってと言わないのは、子どもが話したことを聞き取り、文字を使用して文章表現 をする口頭作文という場合や、絵と言葉を添えた絵日記の指導という場合が考えられるからで ある。 口頭作文において、子どもは自分が話した内容が文字で表記されたことに興味や関心を示し、 文字や書き言葉の学習に意欲的になり、「先生あのね」という形で、生活のなかで発見したり・ 心を動かしたりしたことを、覚えた書き言葉を用いて日記に書いてきたりするようになる。 書き言葉で日記が書けるようになると、生活のなかで心が動いたことを題材にして、題をつ けて、心が動いたことをよく思い出して、したこと、見たこと、感じたこと、考えたことなど を、時間の順序にしたがって、ありのままに表現するよう促していく。その際、過去に指導し た子どもの作品や、各地で作成された年間文詩集のなかの作品を参考作品として提示して、値 打ちのある生活とはどういうものか、生活や実感に即した表現のしぶりのよさとはどのような ものか、を学び合う。また、そのような学習を経て書かれた子どもの日記や綴方のなかから、 指導目標(表現指導面と生活指導の両面から)に合致した作品を選び、学級で読み合ったり、 文集に掲載してその作品を親子ともども読み合えるようにしたりする。このようなことをする なかで、子どもの表現意欲が高まったり、子ども同士の相互理解が深まったりして、人間関係 が作られていく。この点については、後述するが、作品を読み合うことを契機として、筆者に 対する共感と励ましが広がり、何でも言えるような教室が作られていく。そのことで、より生 活の真実を表現する日記や綴方が主体的に書かれるのである。次の作品は、そうした実践のな かから生まれたものの一つである。 自然のおきて 小四 はるみ お母さんが、/「かいものにいってくる―。」といって、げんかんから外にでました。そして、 お母さんが、すぐに家に入りました。/「クロネコが何かくわえていって、はじめはザリガニ がくわれたかと思ったけど、ツバメの親がおいかけてた!」/とお母さんがいったので、家にツ バメのすがあるからいきました。そしたら、血がおちていてツバメがいませんでした。すごく かなしかったです。/何年かまえにもツバメがすをつくりました。でも、そのツバメは、「カラ スに食べられた。」/とおばあちゃんがいってました。だから今年はせいこうしてほしかったで

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す。/おばあちゃんが、/「ツバメのなきごえきこえたけど、まだなんびきかいるのかな?」 /といいました。なのでいきました。おばあちゃんがツバメのすの下あたりをそうじして物を どけました。そしたら一ぴき死んでいて、一ぴきは生きていました。だからおじいちゃんは手 ぶくろをはめてすへもどしました。死んでいたほうは土の中にうめました。親のツバメはさい ごの一ぴきをみはっていました。/次の日、ツバメのすを見ると、親のツバメもあかちゃんも いませんでした。お母さんとお父さんに、/「かなしい。」/といったら、「ブタとか魚とかこ ろしているやろ?」/と言われました。/「自然のおきてやからしかたがない。」/と言われま した。 この綴方は、2010 年5月 22 日に近江八幡市で開催された作文の研究会で、滋賀県の早久間 学教諭が「つながりの中で子どもは育つ」と題する実践報告を行った際に提出されたものであ る。 この綴方は、家に巣を作っていたツバメの子が黒猫に殺され、さらに生き残ったもう1 羽も 翌日いなくなって悲しかったできごとを思い出し、「自然のおきて」という題で、したことや見 たこと、聞いたことや感じたことなどを時間の順序にしたがってありのままに書いたものであ る。「自然のおきて」という題を決めて書いていることで、書く内容が一つに絞られ、材料の精 選がなされ、テーマに添った表現になっている。このような表現をひとまとまりの文章と言う が、この「自然のおきて」の筆者は、ひとまとまりの文章を書くということがどういうことか、 実際に綴方を書くことで証明している。そのことに関係して言えば、早久間氏は週一時間「書 く」時間を保障して、子ども達に生活をありのままに書かせているという。自主的に提出され た、この綴方は、そうした「書く」時間のなかで行われた言語活動の積み重ねのなかから生ま れたものである。 次に、この綴方を読み分析してみよう。 この綴方は、近所にいる黒猫に家のツバメの巣が襲われてツバメの赤ちゃんが殺されてしま った悲しみを「自然のおきて」という題で、筆者が体験したことを思い出して、ありのままに 書いたものである。筆者は、黒猫に襲われて死んでいたツバメの子を土に埋めてやったり、生 き残ったツバメの赤ちゃんの様子を気にかけたりする行動もありのままに表現している。だか ら、様子が分かるその表現からは、筆者の優しさが伝わってくる。そのために担任の早久間教 諭は、「その作品を読んだとき、この子の教室では見せないやさしい姿が浮かんできて、心を動 かされました。これをきっかけに、私のはるみさんを見る目が変わりました (1)」と述べている。 この言葉からは、綴方をとおして、今まで見えていなかった子どもの生活や成長の様子及び その子の良さを発見したことが窺われる。そして、そうした子どもの発見が、生活をありのま まに表現した綴方にはあることを教えてくれている。さらに、そのことが、教師にとって何も のにも代え難い喜びであることも教えてくれている。 冒頭の部分では、買い物に出かけようとしてすぐ戻ってきたお母さんから黒猫がツバメをく わえていったという話を聞いて、すぐにツバメの巣を確認して、ツバメがいなくて血を発見し、 悲しいと思った場面の様子が、ありのままに描写されている。続けて、カラスにツバメの子が 食べられたという祖母の話を思い出し、それ以降の数年間筆者の家にツバメが戻ってこなかっ た事実と、今回生き残っていたツバメの子が親と一緒に翌日巣から消えていたという事実を書 き、ツバメが子孫を残すために警戒してそのような行動をとっていたことに、想いをめぐらせ ている。「だから今年はせいこうしてほしかったです。」とか、「親のツバメはさいごの一ぴきを みはっていました。/次の日、ツバメのすを見ると、親のツバメもあかちゃんもいませんでし

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た。」とか、書いているのである。 また、この綴方には、ツバメの死に関わる母の言動やツバメのことを気にかけている祖母の 言動、人間のにおいがつかないように手ぶくろをはめて巣へ生き残ったツバメの子を戻した祖 父の行動なども書かれている。これらの言動からは、それぞれの家族の優しさが窺える。しか し、作者はまだそのことに気づいていない。このことは、自分の書いた綴方の中に表現されて いる、気づいていない意味(たとえば、食物連鎖や、家族のやさしさ、手袋の意味)を読み取 り、形象化された対象(ヒト、モノ、こと)世界のなかに、豊かな意味を見いだせる可能性が あることを示唆している。だから、家族とともにこの作文を読み合えば、それぞれの言動の意 味がよりはっきりし、ツバメの子の死が家族にとってもつ意味が深められるだろう。さらに、 ネコ以外にカラスもツバメにとって天敵であることや、手袋をしてツバメの子を巣に戻したこ となどの意味も、筆者は理解することができるようになるだろう。また、家族も、この綴方を 読むことで、筆者が考えていたことやツバメに対する彼女のやさしい気持ちを知るだろう。そ して、彼女の成長を実感し、より愛しく思い、家族の絆を強めるのではないだろうか。学級で 子ども達が互いの経験を交流しながら綴方と対話することの意味は、文章表現の技術の指導= 書くことの教育という点だけでなく、相互に相手の生活や気持ちを理解し、自らの生き方をし っかりとしたものにしながら、人間的なつながりを強めるという点にもあると考えられる。 さらに付け加えて言えば、生き残ったツバメの子が親共々いなくなって悲しいと言っている 筆者に、両親が「ブタとか魚とかころしているやろ?」、「自然のおきてやからしかたがない。」 と慰めてくれたことや、何年か前にツバメが「カラスに食べられた。」という祖母の話も、この 綴方では書かれている。両親の話と祖母の話は、話された時期が異なるが、それぞれが語るツ バメの子が殺された理由が想起され、そのことが彼女のなかで結びつき、食べるものと食べら れるものという関係が自然界にあることが理解されて、この文章が書かれたと見ることができ る。 筆者にとってこの綴方を書くことは、ツバメの死に関わる対象世界を部分的にかつ全体的に 見直し、ものやことを関係づけ、意味化することだったと言えるだろう。つまり、生活の事実 を見つめ、その意味を考えることで、その事実に対する認識がより深まったのである。同時に、 「自然のおきて」という言葉の意味が、ツバメの子が黒猫やカラスに食べられたという事実と そのことが悔しさや悲しさという感情と結びつく形で言語化され内面化されていったのである。 書き言葉で生活を表現することは、生活の事実や感情を反映する言葉の獲得という意味をも有 することがこの綴方の例からも言えるだろう。 2.綴方を読み合うことの意義 次に、生活綴方で重視している読み合いの学習とは、どのようなものか検討してみよう。 大阪の馬場義伸教諭は、学級で綴方を読むことの意味について、次のように発言(2)している。 「子ども達が、作文を読んでもらうのを喜ぶのは、作文を読むと友だちのことが分かって楽 しいし、そして自分の作文を読んでもらうことで、自分のことが分かってもらえたと感じるか らです。作文を読むことで、知り合うことつながりあうことの醍醐味を感じるからではないで しょうか。」 ここには、学級で子どもの綴方を読むと、子ども同士が相互に理解し合えて楽しくなれるし、 自分のことを分かってもらえるという満足感が得られるからだということが述べられている。 鹿児島市の村末勇介教諭の実践にも同様のことが見られる。 村末教諭の実践は、「私の教科実践と言語活動 となりに座っている友からの学び、友との学

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び」(『作文と教育』2011 年5月号)という実践報告のなかで紹介されているものである。それ によれば、村末教諭の学校では、6月の開校記念日に毎年意見発表会が開催されている。子ど も達は、この発表会に向けて、全員が意見文を書き、そのなかから学年の代表が2名選出され、 皆の前で発表することになっている。学校全体で言語活動の充実を図る取り組みがなされてい るのである。 四年生の村末教諭のクラスの桃百香さんは、発達障がいをもっている弟と弟を取り囲む家族 の生活をしっかりと見つめ、姉としてその現実を受け止めた上で、これからの願いや決意を率 直に書いている(3)。 大人になって弟を助けたい 桃百香 (前略)/弟は、見た目はわたしたちと全く同じなので、まわりの人たちからなかなかりか いしてもらえません。そのため、ちょっと人とちがうことをすると、「ぎょうぎがわるい」と か「親のしつけがわるい」としかられることが多いのです。けれども、ちがいます。原いん はわかりませんが、たまたま発達しょうがいを持って生まれてきただけなのです。/人間は、 わざと他の人をきづつけようとしたり、ごまかしたりしようとすることができますが、弟は ほかの人をにくんだり、うらんだりできない、きれいな心の持ち主です。だから、けんかを することができません。わたしは、これまで弟と一度もけんかをしたことがありません。/ また、自分の思い通りにならないことがあると、ゆかに頭をゴンゴンとうちつけて、パニッ クになることがあります。弟がないている時は、何をしてあげたらいいのかわからなくて、 わたしたち家族はいつもこまってしまいます。こんな時は、たいてい母が泣きながら、弟を ギュっとだきしめています。わたしは、頭をなでてあげたり、せなかをさすってあげたりし ます。三十分ぐらい泣き続けることもありますが、こうしてあげると三分ぐらいで泣きやむ ことも有ります。弟が泣きやむと、わたしも母もほっとします。/発達しょうがいを持つ人 は、できることとできないことのさがありすぎるので、生きていきにくいのだそうです。こ ういうことを、まわりの人たちがりかいしてあげないといけないと母から教えてもらいまし た。/弟は、四才をすぎてやっと言葉が少ししゃべれるようになりました。今では、おなか がすいたときに、「クリームパンください。」とか言えます。自分のほしいものを伝えられる ようになって、弟は大分楽に生きていけるようになったと思います。/(中略)/わたしが、 これからやってみたいことがあります。それは、弟を助けてあげることです。弟の人生をい い人生にできるようにしてあげたいです。弟は、世界中で一番大切な家族だと思います。み なさんにも発達しょうがいとともに生きている人のことを知ってもらえたら、わたしはうれ しいです。 村末教諭は、「桃百香の経験していることを、子どもたち自身に意味づけさせなくては、ほん ものの学びにはならない。……子どもたちの学びは、そのままでは『個人的世界』に留まりや すいからである。綴り、読み合うことで、共感的な世界につないでいきたい。」(4)と考え、百香 さんの綴方への感想を日記に書くよう求める。そして、学級の子ども達は「かわいそうだ」と 綴った子どももいたが、次のような日記(5)を書いてきた子達もいたという。 弥生

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今日ももかさんの作文をみんなに読みました。それは、ももかさんが大人になって発達し ょうがいの弟を助けたい思いが、ぎっしりつまっていました。わたしのいとこも発達しょう がいを持っています。言葉はしゃべれますが、字や絵が思い通りにかけません。/ももかさ んの作文を聞いて、わたしも一人、このいとこをたすけたいと思いました。 響希 ぼくは、ももかさんの作文を聞いた時、とてもびっくりしました。なぜなら、ももかさん の弟が発達しょうがいということをしらなかったからです。/でも、ももかさんは、とって もえらいと思いました。弟が、発達しょうがいという現実にたち向かって、弟を助けたいと 言っていたからです。/ぼくも、同じように助けられるような人間になりたいと思いました。 菜泉 ももかさんへ。すごいですね。わたしの兄も、のうせいまひで歩けなくて、あんまり言葉 がはなせないしょうがい者です。/わたしも、兄のお世話が大へんです。ももかさんと、わ たし、すこし同じでにているのかもしれません。おたがい、がんばりましょう。 これらの日記を読むと、発達障がいの弟を助けている桃百香さんのことや家族の方のことを 知って心が揺さぶられたり、彼女も自分と同じ境遇であることを知って共感したり元気をもら ったりしている子ども達がいることがわかる。村末教諭は、学級の子ども達が桃百香さんの綴 方について書いてきた日記を桃百香さんに読ませ、その感想を書かせている。次の文章は、そ の時桃百香さんが書いた感想(6)である。 桃百香 今日、弟のことをみんな日記に書いてきてくれました。わたしが、いんしょうにのこった ことばは、「かわいそう」と「これからも助けてあげてください」の二つです。/わたしも、 もちろんかわいそうだと思います。でもわたしの力でど力して助けてあげたいと思います。 わたしだけではありません。家族の力でです。わたしは、この家族全員で、たすけあいたい なあと思います。わたしの弟のことがわかってくれて、ありがとうございました。 村末教諭の実践は、開校記念日に毎年開催される意見発表会に向けて学級の子ども達全員に 綴方を書かせ、代表となって綴方を発表した子どもの頑張っている生活や気持ちの優しさ、決 意などから学ばせるという「協働的学び」(村末)の実践である。この実践の根底には、「友の なかに自分を、自分のなかに友を見出す学びは、人の本来のやさしさやたくましさに気づかせ てくれる。わたしは、こうした場を丁寧に紡ぎながら、子どもたちのつながりをつよいものに していきたい。」(7)という強い思いがある。このような思いをもち、村末さんは綴方と日記を媒 介にしながら、子ども達の言語的な応答関係を学びとして組織し、子ども達の人間的なつなが りを強めていく実践を展開しているのである。 この実践の中で子ども達は、桃百香さんが発達しょうがいをもつ弟と弟をとり囲む家族の生 活をしっかり見つめ、その現実を受け止めながら家族とともに「弟の人生をいい人生にできる ようにしてあげたいです。」と決意を表明していることに共感している。響希君の日記に書かれ た「ぼくも、同じように助けられるような人間になりたいと思いました。」という一文は、その ことを裏付けるものである。と同時にそれは、「みなさんにも発達しょうがいとともに生きてい

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る人のことを知ってもらえたら、わたしはうれしいです。」という桃百香さんの願いに応答する 言葉でもあるだろう。こうした応答の言葉などが書かれた日記を読み、桃百香さん自身も元気 づけられたという。 この実践について村末教諭は、「桃百香の発信に対する、子ども達の返信は、もちろん彼女自 身にも元気を与えた。つながりはエネルギーを生み出すのだ。あらためて、子どもたち同士の 『協働的学び』の大切さを実感している。」(8)と総括している。この総括のなかの「つながりは エネルギーを生み出すのだ。」という言葉に着目して言えば、村末教諭の実践は、子ども同士の 応答への意欲をかき立て、つながりを組織しながら、それは同時に安心できる居場所づくりとな り、言語活動の活発化を促す実践であるとも言える。生活綴方が、アクテイブ・ラーニングを 通じて言語活動の充実に貢献する一つの事例と言えるだろう。そして、生活をありのままに書 き、それを学級で読み合い、考えや生活などを交流していくことの大切さを、村末実践から改 めて確認できるであろう。 この村末教諭の実践や馬場教諭の見解及び「自然のおきて」という綴方の内容も踏まえて言 えば、綴方をありのままに書くことやそれを読み合うことは、対象世界(作品に描かれた世界 の意味)との対話、他者との対話(考えの交流)、自己内対話(自己及び自己の考え・理解の省 察)を促すものであると言えよう。そしてこのことは、「主体的・対話的で深い学び」の一例と なると考えられる。 3.体験とありのままの言語表現の質 「自然のおきて」は、対象世界の意味化をめぐって豊かな学びが成立する学習材であった。 その理由は、ツバメの死とそれに関わる家族の様子がありのままに表現されていたからである。 それでは生活などがありのままに表現されていれば、何も問題はないのだろうか。鳥山敏子教 諭が中心となって実践した「にわとりを殺して食べる」という体験学習のなかで書かれた感想 文を手がかりにしてそのことを考えてみたい。 鳥山教諭の実践は、1980 年 10 月の最後の日曜日に、90 人以上の参加で行われた。授業のね らいは、次のようなものであった。 「自分の手ではっきりと他のいのちを奪い、それを口にしたことがないということが、ほん とうのいのちの尊さをわかりにくくしているのだ。殺されていくものが、どんな苦しみかたを しているのか、あるいは、どんなにあっさりとそのいのちを投げだすか、それを体験すること。 ここから自分のいのち、人のいのち、いきもののいのちの尊さに気づかせてみよう。」(9) つまり、鳥山実践のねらいは、自分の手でにわとりを殺して食べることや、その過程でにわ とりが苦しんだりあっさりといのちを投げだしたりすることを体験させて、その意味(命の尊 さにつながる)を考えさせるところにあった。しかし、感想文を読んで鳥山教諭の期待は裏切 られたという。そのことを彼女は、次のように述べている。 「『原爆から原発へ、生命を考える』の原稿をまとめはじめて、とても気がかりになっていた ことがあった。それは『にはとりを殺して食べる』(八ページ)のなかに、子どもたちひとりひ とりが、いま自分が生きている現実を超えるために、“殺して食べる”という行為に直面したの だということを、なにひとつ描けていなかったことである。これでは伝えられないなあ、と思 ったのだった。」(10) ここで鳥山教諭が問題にしているのは、後藤有理子さんの「にわとり狩り」という以下の感 想文(11)である。

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にわとり狩り 後藤有理子 とても、ざんこくでした。/にわとりを殺しました。わたしは殺せませんでした。殺し方 ……というので、先生が見せてくれました。まっ赤な血がぴゅーっととびちりました。あた り一面がまっ赤にそまりました。わたしのすきなにわとりも、殺されました。/「もう、や めてっ、やめてったらー」/女子は泣きさけびました。にわとりをだきながら、泣いている 人もいました。男子がナイフをもって、おいかけてきました。/「バカバカバカっ、れい血 人間―」/なんどもなんどもさけびました。でも、もうだめでした。ほとんど殺されていま した。おおきい柱の後ろで、声もださないで泣きました。/「も、もう、わたし、なんにも 食べない!」/そう、わたしは言いました。でも、ほんとうはとってもとってもおなかがす いていました。さっき、わたしがいったようなことをいった人も、しまいには、/「わたし、 鳥の肉だけ食べない」/といっています。なんだか、なさけない気持ちです。わたしも、ソ ーセージを二本、たべました。 この後藤さんの感想文を見ると、「とても、ざんこくでした。/わたしは殺せませんでした。」 という記述があり、自分の手でにわとりを殺す体験をしていない。また、鳥山教諭が屠蓄の場 面を観察するように指示したことについては、「殺し方……というので、先生が見せてくれまし た。」としか書かれていない。すきなにわとりが殺される悲しさのせいで屠蓄の場面を書けなか ったことが感想文から窺えるが、このような内容の感想文ならば、屠蓄の体験をとおして自分 のいのち、人のいのち、いきもののいのちの尊さに気づかせようという教師の意図は「これで は伝えられないなあ、と思ったのだった。」と、鳥山教諭が言うのも当然だと思われる。なぜな ら後藤さんは、「にわとりを殺して食べる」という体験を残酷だという理由で拒否した上に、観 察した屠蓄の場面を思い出して様子をしっかりと書こうとしなかったからである。 同様の例が、石川三樹さんの以下の感想文(12)である。 (感想文) 石川 三樹 鶏を殺した。私はとてもざんこくで殺せなかった。/いこまさんや望美さんは、鶏をだい てないていた。それなのに男子は、望美さんやいこまさんのあとをおいかけ、鶏をつかまえ ようとする。のぞみさんたちは、とってもいやがっているのに、男子たちはナイフをもって おいかけて来る。坂内さんは、はらがたったみたいで、/「あんたたち、命のことを考えな いで、殺すことばかり考えて、鶏だって命があるんだから」と、顔をまっかにさせて言った。 /鶏を殺すところでは、もうたくさんの鶏が殺されていた。川は血でいっぱいだった。男子 達が殺していた鶏をちらっと見たら、口ばしから血がポタポタたれていた。男子が、/「女 子たち、鶏をだいて、かしてくれない」と、いっしょに来たおばさんや先生に言っていた。 最後の最後まで鶏をだいていたんだけど、とうとう鶏は、つれていかれた。生駒さんがもっ ていた鶏が先生に殺される。先生は、/「鶏から目をそらすな」と言った。だいぶみていた けど、がまんできなくなって目をそらした。/首をきったけど、まだ生きていた。はねをば たばたさせ、首からは血がポタポタたれている。/ねっとうに入れると、赤いとさかが黄色 くなって、目もとじて、ただでさえ白い鶏がもっと白くかんじた。そのしゅんかん私は、体

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のなかのなみだがぜんぶ出そうだった。/女子では中島さん一人が鶏を殺していた。生駒さ んたちは、/「お肉食べない」と言っていた。けどほんとうは、ものすごくおなかがすいて いたんだろうと思う。/「私は鶏を殺してしまったんだから食べなくてはだめだ」と想い、 けっきょく少し食べた。 この石川さんの感想文は、「単純に綴方として見れば、『にわとり狩り』『にわとり殺し』(鳥 山)の様子と感情が生き生きと綴られていると見ることができるだろう。」と評価(13)されるよ うに、臨場感あふれたものである。しかし、彼女も鶏を殺す体験をしていないし、観察した屠 蓄の場面の描写が見られる点が後藤さんの感想文と異なっているだけで、授業のねらいに沿っ た感想文を書けていないという点では共通している。と同時に、そのことは、何のために屠蓄 等の体験活動を準備し、その感想を書くという言語活動を行うのかという教育的意義を分から なくさせているように思われる。それでは、石川さん達に、授業のねらいに沿った感想文を書 いてもらうためにはどうすればよかったのだろうか。それは、体験を拒否している原因となっ ている「ざんこく」だと感じている、その感情をくだくことが必要だったのではないかという ことが考えられる。この「感情くだき」(小川太郎)をどのように進めるかということについて は、鳥山教諭と同様「にわとりを殺して食べる」授業を実践した、金森俊朗教諭のやり方が参 考になるだろう。 金森教諭の実践は、鳥山教諭の場合と同様に、命を考える授業を積み上げながら、親の理解 を得ることと「子ども自身の学びの必然性、目的意識」の形成を丁寧に行っている点に特徴が ある。(13) 学級や家庭で、さらに父親たちに集まってもらい、懸命に話し合ったり、学級通信で意見や 体験を交流させたりしたのである。当然子ども達は、学級通信を読み、自分たちも「にわとり を殺して食べる」ことの意味を考えるようになっていく。そうしたなかで、コーチとして招い た屠蓄の専門家に、愛情をもって冷静に屠蓄することや、屠蓄の方法等について話してもらう 授業も行われたのである。(14)その結果、「にわとりを殺して食べる」という体験とその意味を、 時間の経過に沿ってありのままに生き生きと表現した綴方が書かれたのである。その一例とし て、一部省略されているが、真佑花さんの「生きるってむずかしい」という綴方(15)を紹介する。 生きるってむずかしい 真佑花 「もくとうをささげてください」/金森先生がいった。目をつぶった。両手をあわせる。 じっと考える。/「ありがとう。にわとりは私たちのために、屠蓄になってくれて本当に本 当にありがとう。感謝しなければいけない。でも感謝だけで終わっちゃあいけない。だって、 にわとり七羽の命をもらったから。だからこの七羽を愛情をもって解体したい。」/私はそう 思った。/いよいよ解体に近づいた。にわとりを熱い熱湯につけた。/「早く羽を抜こう」 /誰かがさけんだ。どうぬけるか。なんだか心ぞうの音が早くなったようです。にわとりの おなかにふれてみた。するとすぐ羽がぬけた。熱い熱湯に入れてにわとりの羽をぬくとすご くとれやすいということが分かった。ぬき続けていった。全部羽をぬき終わると、にわとり のはだはぶつぶつがいっぱいだった。だから「とりはだ」というのかなあと思った。体の大 きさを見ると、予想とぜんぜんちがって、すごく小さかった。羽が全部ついている時を思い うかべてみると、やっぱりすごく小さくなっていた。(中略)/かんぞうは人間の肺の形とに

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ていました。心ぞうは思っていたより小さかった。内部には、人間みたいにたくさんぐちょ ぐちょにいろんな物が入っているので、人間からみたら、にわとりは小さいのにすごいなあ と思った。/つまり、人間はよくばりすぎだと思います。にわとりだって、人間のようにも っと長い間生きていたいのに動物と人間どうしでそんなに差があるのかなと思いました。生 きているってすごく大変だなあ。だって、生きている人は、生きるために生きている物もの をうばって生きなければならない。生きるってすごくむずかしいなと思いました。 この綴方には、「とりはだ」という言葉の由来や羽を抜かれた鶏の身体が予想に反して小さか ったこと等、解体されていく鶏を見て思ったことや発見したこと等が、ありのままに書かれて いる。ここには、「とりはだ」という言葉の意味と、この言葉が有する語感の形成がなされてい ることが窺われる。それは、実際に「とりはだ」の様子が書かれ、その様子を「とりはだ」と いう言葉を選択して書いているからである。生活綴方では、様子が分かるように生活の事実を ありのままに表現することが大事にされているが、真佑花さんのこの綴方が示しているように、 解体される鶏の様子をしっかり観察して描写しているため、ブツブツしている鶏の肌の様子と 「とりはだ」という言葉の一致が見られるのである。このことは、実感のこもった言葉の獲得、 つまり自分が安心して使用できる自分の言葉の獲得にも繋がっていると言えるだろう。また彼 女は、屠蓄と解体の体験をとおして「生きてる人は、生きるために生きてる物ものを奪って生 きなければならない。生きるってすごくむずかしいなあと思いました。」と考えたことを書いて いる。「生きてる人は、生きるために生きてる物ものを奪って生きなければならない。」という 認識については、後藤さん達の感想文からも窺える。しかし、真佑花さんの綴方と後藤さん達 の感想文に示されている認識には、結論は同じでも違いがあるのではないか。その違いは何か。 後藤さん達は、鶏狩りをする以前に「東京大空襲」、「日中戦争」、「原爆」を写真や物語を使用 して学んでいる。(16)その成果が、石川さんの「あんたたち、命のことを考えないで、殺すこと ばかり考えて、鶏だって命があるんだから」(17)という怒りの言葉に表れている。その点で言え ば、「生きてる人は、生きるために生きてる物ものを奪って生きなければならない。」というこ とを、真佑花さんと同じように認識しているように思われる。しかし、金森学級の大貴君の「一 羽だけの命ではない」という綴方(18)を媒介にすると、後藤さんや石川さんと真佑花さんの認識 の違いが見えてくる。 一羽だけの命ではない 大貴 (前略)「あっ、すげえ~。なんやこれ、黄色い物体や~。気持ち悪い~。うまそう~。た べれる?」/みんなから大声が上がった。よ~く見てみると、大きいのやら小さいのやら、 米つぶくらいの小さいのもあった。ぼくは「これや、これや」と思った。じゅんばんについ て、栄養たっぷりのきみは待っていた。ぼくは思わずさわってしまった。ぷにゃぷにゃでふ つうのたまごのきみと変わらない。/ぼくたちは前までただ一つのにわとりの命をうばって いた、もらっていたと思っていた。だけど、ちがった。メスのにわとりをとちくするという ことは、とってもたくさんの命をうばっているということが分かった。だからただ一羽だけ の命ではなく、とってもおおぜいのにわとりを背負って生きているんだ‼/ぼくは何十羽の命 をあずかっている。そう考えると、今、ぼくのおなかの中にはとってもいろいろな命が生き ていると思う。前までは食べ物に命があるということもぜんぜん分からなかったぼく。でも、

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この勉強をして食べ物の大切さがとっても分かるようにぼくの心は成長した。 この綴方に出てくる「ぼくたち」とは、金森学級のみんなということであり、真佑花さんも 当然含まれている。だから、真佑花さんも「ぼくたちは前までただ一つのにわとりの命をうば っていた、もらっていたと思っていた。だけど、ちがった。メスのにわとりをとちくするとい うことは、とってもたくさんの命をうばっているということが分かった。」という学級の仲間の 一人と考えられる。そのような立場を認識すると、「つまり、人間はよくばりすぎだと思います。 にわとりだって、人間のようにもっと長い間生きていたいのに動物と人間どうしでそんなに差 があるのかなと思いました。」という、真佑花さんの綴方にある唐突な表現の意味も見えてくる。 この表現の背景には、メスの体のなかにはたくさんの卵になるつぶ(きみ)が数珠つなぎにつ ながって生命を育まれており、メスの命を奪うことは誕生するであろう多くの命を奪うことで もあるという認識がある。だから真佑花さんは、鶏を解体して学んだそのような事実から、多 くの命を奪う「人間はよくばりすぎだと思います。」と表現せざるを得なかったのではないか。 さらに言えば、「にわとりだって、人間のようにもっと長い間生きていたいのに動物と人間どう しでそんなに差があるのかなと思いました。」という表現も、メスの体のなかにはたくさんの卵 になるつぶ(きみ)が数珠つなぎにつながっており、生命を産み落とす準備をしているという 事実に基づく判断があったから、そのように表現したのではないか。後藤さんや石川さんと真 佑花さんの認識の違いは、石川さん達の認識が概念的なのに対して、真佑花さんの場合は屠蓄・ 解体・料理して食べるという体験の事実に裏付けをもつ認識になっているということである。 別な言い方をすれば、体験の有無及び対象世界との能動的な関わりや対話の有無が、ありのま まに表現した場合、認識面での質的な違いとなって出てきているということである。このこと に関して言語活動の充実という点から言えば、真佑花さんや大貴君のように、体験したことや その体験の過程で行ったこと・感じたこと・考えたこと及び体験の意味化が率直にありのまま に書かれていれば、それらについての対話の中身も充実してくるということが考えられる。逆 に、それらのことが書かれていないならば、当然対話も不十分なものにしかならない。その結 果、作品を読み合う学びの質にも影響してくると思われる。その意味で、アクティブ・ラーニ ングの視点に基づいて体験から学ばせようと考えるならば、体験の意味が考えられるように、 まず体験学習について問題意識を持たせる必要があるだろう。そうしないと、鳥山実践のよう に、「にわとりを殺して食べる」という体験学習の前提である体験と向き合わない子どもも出て くるからである。そして、その子ども達は、鶏を殺して食べることを拒否したために、学習の テーマに迫るような綴方を書くことができないということになる。さらに言えば、体験の事実 が書けないということは、体験を相対化し、その意味を客観的に捉えさせることができないと いうことである。このことは、体験学習における言語活動の充実にとって克服されなければい けない課題である。そうできないならば、「主体的・対話的で深い学び」は実現されないだろう。 おわりに 生活綴方から言語活動の充実を考える場合、これまで行ってきたように、生活をありのまま に書くことを常態化し、書かれた作文や日記を学級で交流し、子ども達の相互理解とつながり を強めていくことが大事である。子ども達にとって、作文や日記を書くことが、教師や他の子 ども達に読まれるということが常態化すれば、そのことを想定して(相手意識をもちながら) 文章を書くようになるだろう。そして、そのことは、生活綴方に対して投げられた相手意識を もたない表現指導という誤解と批判を払拭することになる。また、書かれた綴方や日記を読む

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ことは、対話の学習材として機能し、書き手の生活や気持ちを理解したり、そのことのもつ意 味を考えたりしながら、応答することを促すことにつながる。そのことで、学級全体の言語活 動の充実に貢献することにもなるだろう。 体験学習のなかで体験したことをありのままに表現させることは、体験の持つ意味を深く理 解させたいからである。そのためには、該当する体験をしっかり体験させ、その体験を相対化 して意味化を図る必要がある。そのためには、体験した内容をありのままに表現しなければな らない。そのことで、表現主体にとっての主体的意味と客観的な意味とが解釈可能になるから である。それにより対話が可能となる。そのためには、体験すべき内容をしっかりと体験して もらえるように、目的意識をもって体験するという学習を積み上げていく必要がある。それが、 アクティブ・ラーニングの一環としての言語活動の充実につながる、書くことを伴う対話によ る深い学習を効果的にするであろう。 注 (1)早久間学『つながりの中で子どもは育つ』、2010 年5月、1~2頁。 (2) 馬場義伸「次は、ぼくの作文読んでや!―書いて読み合う日々、そして授業―」(第 60 回 全国作文教育研究大会レポート)、2011 年7月 29 日、1頁。 (3)~(8)村末勇介「私の教科実践と言語活動 となりに座っている友からの学び、友との学び」 『作文と教育』第 777 号、2011 年5月、68~71 頁。 (9 鳥山敏子『いのちに触れる』、太郎次郎社、1995 年 13 刷、18 頁。 (10)鳥山敏子、同上書、40 頁。 (11)後藤百合子「にわとり狩り」、『いのちに触れる』、8頁。 (12)石川三樹「感想文(無題)」、『いのちに触れる』、18~20 頁。 (13)~(14)金森敏朗「第8回 自分に引き寄せ、自分と関わらせて書く」『作文と教育』第 760 号、2009 年 12 月、39 頁。 (15)真佑花「生きるってむずかしい」『作文と教育』(金森敏朗「第7回 未知との遭遇体験を 書く」所収)第 759 号、2009 年 11 月、40~41 頁。 (16)鳥山敏子、前掲書、48 頁。 (17)石川三樹「感想文(無題)」、『いのちに触れる』、19 頁。 (18)大貴「一羽だけの命ではない」、『作文と教育』(金森敏朗「第7回 未知との遭遇体験を書 く」所収)第 759 号、2009 年 11 月、41 頁。

参照

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