• 検索結果がありません。

「両・分・朱」の世界から「円・銭・厘」の世界へ

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "「両・分・朱」の世界から「円・銭・厘」の世界へ"

Copied!
36
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)〔特集 〕 日本金融史への招待. 「両・分・朱」の世界から「円・銭・厘」の世界へ. 鹿 野 嘉 昭. 題にはならなかった。このように貸し手、借り手双方に利. 付けることで劣化や腐敗を防ぐととともに価値を維持する. 穫した米をすべて食べられる。国司等も貯蔵した米を貸し. 行われていた。農民からみた場合、出挙を利用すれば、収. 種籾を借りて秋に米で返すという米の貸借取引が古代から. ら実施されている。例えば、「出挙 (すいこ) 」という春に. 日本における金融取引は、歴史関連の書籍で議論される ことは非常に少ないが、欧米諸国に比肩するほど、古くか. 銭と呼ばれる銅銭が中国から輸入され、その後約五〇〇年. うしたなか、平清盛が栄華を誇った平安時代末期には渡来. 信頼がなくなり、一〇世紀半ばには鋳造停止となった。そ. 総称されているが、政府の力の衰退とともに貨幣としての. 発行された。これらの銅銭は和同開珎を含め皇朝十二銭と. りに奈良時代から平安時代にかけて合計十二種類の銅銭が. お金ないし貨幣に目を転じても、和銅元 (七〇八)年に 律令政府がわが国初の銅貨、和同開珎を鋳造したのを皮切. 益があったため、出挙は広く利用されていた。. ことができる。利息は年利三割から一〇割と高いが、一粒. にわたって交換手段として広く利用されていた。また、鎌. はじめに. の種籾から一〇〇倍以上の米が生産されるため、大きな問. 83. 2.

(2) 時代の大坂では両替商という金融業者が高度に発展し、商. のように物品を担保にお金を貸す金融業者も現れた。江戸. 示される素材価値の一定化にとどまらず、様式やデザイン. で貨幣として認識できることを狙いとして、品位、重量で. 交換手段としての利便性向上すなわち誰もが一瞥しただけ. および価値貯蔵手段として機能する。また、貨幣の場合、. 人や大名にお金を貸したり、預かった預金で資金決済をし. の統一に加え額面金額の定額化が図られているところに特. 倉・室町時代には、土倉 (どそう)と呼ばれる現在の質屋. たりするなど、銀行に類似した業務を営んでいた。. るところについて簡単に振り返った後、日本銀行調査局編. に管理通貨制度へと移行するまでの間、世界各国は金銀貨. われわれは今、政府が発行する不換紙幣が貨幣として流 通する管理通貨制度の世界にいる。しかし、二〇世紀前半. 色がある。. の『図録日本の貨幣』第二・三・四・七巻および筆者が日. などが流通する商品貨幣 ( commodity money )制度の下に. このように日本では貨幣や金融取引が古くから広く利用 されている。本稿では貨幣、貨幣供給や貨幣制度の意味す. 本銀行金融研究所の名前で一九九六年九月から翌九七年一. 貨幣の供給量は一国における貨幣素材の流通ストックに依. あった。金本位制を典型的な例とする商品貨幣制度の場合、. 「貨幣の散歩道」を援用しつつ、江戸時代から明治一〇年. 存する。この貨幣素材のストックは国内における金銀銅鉱. 〇月にかけて週一回のペースで日経金融新聞に連載した. 代半ばまでの二八〇年余にわたる日本の金融の歴史を概観. 山の産出量、海外からの金銀銅の輸入量や貿易収支などに. た価値にしたがって流通する計数貨幣 ( money by tale )に. 商品貨幣制度の下で発行される貨幣は、素材価値そのも の で 流 通 す る 秤 量 貨 幣 ( money by weight )と 政 府 が 定 め. 与したといえる。. 況にあり、それがまた供給面から商品貨幣の価値安定に寄. より規定され、政府による能動的コントロールが困難な状. することにしたい。. 一 貨幣、貨幣供給と貨幣制度 最初は貨幣の定義である。貨幣とは誰もが喜んで受け取 るという一般受容性を持った価値の移転手段のことをいい、 その受け渡しをもって支払いが完了する。貨幣は通常、政 府により発行され、一国経済における価値基準、交換手段. 84.

(3) ることができる。. れていたことも欧州諸国と比較した際の特色として指摘す. の伝統のうえに立って、古くから小額貨幣が潤沢に供給さ. 。加えて、日本の場合、渡来銭 量貨幣として流通していた). ていたところに特徴があるとされることが多い (銀貨は秤. 態であり、江戸時代に金貨、銅貨が計数貨幣として流通し. が国の場合、近世までの間、秤量貨幣が一般的な貨幣の形. が貨幣の一般的な形態と認識されていた。これに対し、わ. シャ・ローマ時代からの伝統のうえに立って計数貨幣こそ. 国 に お い て 流 通 し て い た 貨 幣 は 計 数 貨 幣 で あ り、 ギ リ. 大別される。この分類区分にしたがうと、中近世の欧州諸. という価値が付与された。また、商品流通面にも配慮のう. いう五種類の金銀貨からなっていた。金貨は「両」を単位. 徳川家康が発行した慶長金銀貨は大判、小判、一分金と いう計数金貨および定位の秤量銀貨である丁銀、豆板銀と. 行時の元号を冠した名称で呼ばれている。. 造されたが、それらはいずれも慶長金銀貨というように発. 江戸時代を通じて品位や量目の異なる数種類の金銀貨が鋳. 江戸時代二七〇年にわたる幣制の基礎が築かれた。その後、. 以来、実に約六五〇年振りのことであった。ここにおいて. 統一貨幣を発行したのは、九五八年に鋳造された乾元大宝. 乗り出した。日本の政権が貨幣発行 (鋳造)権を行使して. に、全国通用の金銀貨幣の発行を媒介として幣制の統一に. (. こうした貨幣および貨幣制度 (幣制)に関する理解を前 提として、江戸時代以降における貨幣や金融の歴史につい. え、一分金という小判の四分の一の価値を有する小額金貨. とし、標準的な金貨である小判には一両、大判には一〇両. (. て概観することにしたい。. も発行された。これら三種類の慶長金貨のうち大判は恩賞、. ( ) 江戸期幣制の成立. 、量目 (重 また、金貨の場合、形状、品位 (金の含有率) さ)が統一された定位・定量・定型の貨幣として鋳造され. 的な交換手段として位置づけられ、広く流通していた。. 儀礼等の特殊な用途に利用され、小判および一分金が一般. 慶長五 (一六〇〇)年の関ヶ原の戦に勝利し、天下をほ ぼ掌中に収めた徳川家康は翌六 (一六〇一)年、政治機構. たところに特徴がある。たとえば、慶長小判の場合、その. 二 江戸期幣制の成立とその特徴. (. の整備に先立って各地の鉱山を幕府の直轄領にするととも. 85. 1.

(4) 率が公定された。もっとも、実際の交換比率は市場実勢に. 〇匁=銭四貫文 (一〇〇〇文)という金銀銭貨間の交換比. た。そして、慶長一三 (一六〇八)年には、金一両=銀五. う価値単位を有する独自の貨幣として無制限に流通してい. 豆板銀が用いられた。小額貨幣である銭貨も、「文」とい. 端数となった重量の調整には一〇匁以下の銀の小片である. る。実際、ナマコ形をした丁銀の重さは四〇匁前後であり、. たことを除けば、引き続き地金のまま通用していたのであ. 銀貨として鋳造された。銀貨の場合、品位が規定されてい. 丁銀および豆板銀 (まめいたぎん)と称される定位の秤量. これに対し、銀貨に関しては、当時の流通実態を踏まえ、. 、品位は八四・二九%に維持されていた。 三・ 七 六 グ ラ ム ). 三 (一六三六)年になってからであり、この年、寛永通宝. 貨の統一作業に着手したのは開府後三〇年余を経た寛永一. の発行にはなかなか踏み切れなかったのである。幕府が銭. 面から動揺するおそれがあったため、幕府としても新銭貨. 象となった場合、天下統一間もない幕府の権力基盤が経済. そうしたなか、仮に徳川幕府が鋳造した新銭貨が撰銭の対. して戦国時代以来、織田信長などの施政者を悩ましていた。. 加えて、割れたり、欠けたりした渡来銭の受け取りを忌 避・排除する撰銭 (えりぜに)が銭貨流通上の一大問題と. ならなかったからである。. するには莫大な量の銭貨を短期間のうちに鋳造しなければ. 金銀貨以上に困難な作業であった。渡来銭を新銭貨で代替. 銭が一般庶民や武士の間で広く流通していたこともあって、. の交換手段として欠くことのできない銭貨の統一は、渡来. よって決められ、日々変動していた。. 宝の鋳造および渡来銭との引き替えは急ピッチで進み、寛. 形 状 は 打 ち 目 の あ る 楕 円 形、 重 量 は 四・ 七 六 匁 ( 一 匁 は. 慶長金銀貨は、幕府による財政支払いのほか、領国貨幣 や渡来銭との引き替えで発行された。その一方で、当初の. 文期 (一六六〇年代)には銭貨の供給体制も整ったとされ (. (. と称される銅一文銭の鋳造が開始された。その後、寛永通. 発行高がさほど多くはなかったことに加え、各地の大名領. 国においては銀を主体とした領国貨幣が流通していたため、 ている。 これらを代替して慶長金銀貨が全国に広く流通するまでに はかなりの年月を要する状況にあった。一方、日常生活上. このように江戸時代の幣制は金銀貨を中心に構成される が、金銀銭貨という三貨による幣制の統一が完了したのは. (. 86.

(5) 一が名実ともに完成したということができる。. の通用が停止され、ここにおいて徳川幕府による幣制の統. なった。さらに、元禄八 (一六九五)年に至って領国貨幣. 国各地に普及し、領国金銀貨も幕府の統制を受けることに. その後、寛文一一 (一六七一)年になると公鋳貨がほぼ全. ど の 場 合、 秤 量 銀 貨 )の 存 在 を 容 認 せ ざ る を え な か っ た。. 的供給のためにも地域的に流通していた領国貨幣 (ほとん. おいては、金銀貨の鋳造が進展するまでの間、貨幣の安定. 一六七〇年前後とされることが多い。したがって、幕府に. よる貨幣供給政策などを与件として、市場において解決策. については、各地方あるいは商品ごとの取引慣行や幕府に. 利用するかという問題に直面することになった。この問題. ずれの貨幣を価値尺度、交換手段あるいは貯蔵手段として. いた。したがって、江戸時代の人々は、金銀銭貨のうちい. 幣単位にしたがって交換手段や価値尺度として利用されて. 位置づけられるとともに、両、匁、文というそれぞれの貨. 行された金銀銭貨はいずれもが政府が発行した法貨として. 段および貯蔵手段という三つの機能をもつ。江戸時代に発. が見出されていた。. いてもユニークな存在」(三上〔一九九六〕、一一八頁)とそ. て広く受け入れられており、一部には「世界貨幣史上にお. 三貨制が江戸期幣制の特色であるという捉え方は通説とし. のことにちなんで江戸期幣制は通常、三貨制と呼ばれる。. 貨という三種類の鋳貨が貨幣として広く流通していた。こ. 以上のとおり、江戸時代においては、渡来銭という銭貨 が単一の貨幣として流通していた中世とは異なり、金銀銭. して利用されるなど銀遣いがすでに支配的となっていた、. ていたが、西日本では古くから銀が中国貿易の決済手段と. は、徳川家康は幣制の統一に際し金貨体系の確立を目指し. の利用は地域的に異なっていたのである。この背景として. 本では銀貨建て・銀貨支払いが大部分を占めるなど、貨幣. 日本では金貨建て・金貨支払いが主流であった一方、西日. 額貨幣として全国で広く利用されていた銭貨を除けば、東. 実際、江戸時代における貨幣流通面での特徴を示す言葉 に、「東国の金遣い、西国の銀遣い」がある。つまり、小. の独自性を強調する論者も存在する。. といった事情が挙げられることが多い。. ( ) 江戸期幣制の特徴. 先に指摘したように、貨幣は一般に、価値尺度、交換手 . 87. 2.

(6) 世界にあった。江戸時代の商人の才覚には驚くばかりであ. 記帳されるなど、江戸、大坂とも現代でいう多通貨会計の. 貨別に作成され、商品の仕入れや販売は各通貨に仕分けて. として営む両替屋が多数あった。加えて、商人の帳簿は通. 機能していた。そのため、江戸では、金銀銭貨の交換を業. 銀銭貨という三貨すべてが価値基準および交換手段として. なる貨幣は異なっていた。このように、江戸においては金. どは銀目で計算されるなど、商品、階層ごとに支払手段と. れる一方で、江戸での町入用 (地方税)や土地の評価額な. で表示されていた。加えて、武士には金貨で扶持が支払わ. 財物の価格表示も商品ごとに異なっており、金遣いの江 戸においても大坂から輸送されたものは、原則として銀目. うにして一七世紀後半、大坂を中心とした全国市場が成立. 発化し、市場経済も大きく進展することになった。このよ. 瑞賢により東回り航路が開発され、物資の流通がさらに活. 坂に成立した。さらに、寛文一一 (一六七一)年には河村. 大坂が商品流通の中心地として発展し、米の全国市場が大. こうした室町時代以来の産業間の地域分業や年貢米の売 却需要の高まりなどを背景として、水運の要衝地であった. のであった。. 取得し、次いでその貨幣をもって畿内の諸物資を購入した. 名の多くは年貢米の余剰分を大坂に廻送・売却して貨幣を. 辺に集中することになった。事実、徳川幕府および領国大. 費市場が生まれるとともに、全国の特産物が畿内とその周. その結果、非農業人口比率の高い五畿内に年貢米の一大消. る。. れるようになったのである。大坂は「天下の台所」と称さ. し、日本経済は初めて国民経済として各種の経済現象を語. このような江戸時代における貨幣の流通はまた、一七世 紀後半に完成した、大坂を中心とする全国市場の登場によ. 大坂という大都市を抱えた近畿地方が繊維・織物業、手工. 貨を鋳造する銀座を置いて大量の銀貨を供給した。これが. も大坂での各種の商業取引円滑化を狙いとして、京都に銀. り支えられていた。すなわち、当時の日本においては京都、 れるように経済運営上重要な地位を占めていたため、幕府. 業、美術・工芸品といった加工業を中心としてほとんどあ. また、「東国の金遣い、西国の銀遣い」を貨幣供給面から (. らゆる生産物を生産していた一方で、地方は主として原料. 支えることになった。. (. の供給基地および米の生産地として位置づけられていた。. (. 88.

(7) 景としていた。それゆえ、幕府としても藩札の発行を容認. いては通貨不足が大きな経済問題として浮上したことを背. 府貨幣に関する需給バランスが崩れるなか、地方領国にお. いた。藩札の普及はまた、あとで詳しく述べるように、幕. の許可が必要とされ、各藩とも許可を得て藩札を発行して. うが一般的であった。ただし、藩札の発行に際しては幕府. 地方の大名領国においては金銀遣いよりも「札遣い」のほ. な通貨が交換手段として広く利用されるなど、江戸時代、. 外の地域においては、藩札という藩政府が発行した地域的. 江戸、大坂、京都といった幕府の直轄地においては、金 銀貨が支払手段として広く流通していた。しかし、それ以. ( ) 地域的な通貨不足の解消を目的に発行された藩札. 規則が定められていたのであった。. する、⑤年貢等藩政府への支払いは藩札で行う、といった. ④藩士への禄、給料 (現金支給分)等はすべて藩札で支給. 札から正貨への引き替えは藩外支払目的を除き禁止する、. 、 ② 個 人 間 の 正 貨・ 藩 札 引 替 取 引 の 禁 止、 ③ 藩 引を除く). お け る 正 貨 の 流 通 禁 止 ( た だ し、 例 え ば 銀 二 分 以 下 の 小 額 取. ね、次のような条項からなっていた。すなわち、①領内に. て類似していた。藩札発行にかかわる基本的なルールは概. に公示していた。このため、各藩の藩札運用規則はきわめ. 藩札の発行に際し各藩では、隣接する藩あるいは親密藩 の事例を参考にしつつ、詳細な通用仕法を制定のうえ領民. てきわめて重要な役割を果たしていた。. ( (. せざるをえなかったのである。. その一方で、藩札の流通実態は、各藩のおかれていたそ の時々の経済状況や藩当局の財政運営態度の相違などを背. 諸藩の約八割が藩札を発行するなど、藩札は地方貨幣とし. の廃藩置県時には二四四藩・一四代官所・九旗本領、全国. 各地で途絶えることなく発行された。ちなみに、明治四年. 時的に発行禁止とされたが、明治期に至るまでの間、全国. 享保一五 (一七三〇)年までの二〇余年間、幕府により一. 藩札の発行は寛文元 (一六六一)年、越前福井藩におい て始まったとされる。その後、宝永四 (一七〇七)年から. 藩当局による節度ある財政運営が円滑な藩札流通の基礎を. 落や札騒動という一種の取り付けが発生した。その意味で、. ていた。しかし、藩札が濫発された藩では、藩札価値の急. 藩札に対する信認が高かった藩では、藩札は円滑に流通し. の確保、有力な商人の信用の利用などにより、領民からの. 景として、藩ごとに大きく異なっていた。十分な兌換準備. 89. (. 3.

(8) 形成していたということができる。. ( ) 財政赤字補填を狙いとして実行された元禄・宝永の改鋳. 上納金銀の縮小に加え、五代将軍綱吉による豪奢な生活や. 各地で発生した大火・風水害などを主因に支出が急膨張し. たためであった。こうした事態への対応を狙いとして元禄. そ う し た な か、 元 禄 期 ( 一 六 八 八 ~ 一 七 〇 四 )に 入 る と 御金蔵に蓄えられていた金銀ストックも払底するなど、幕. 足が日本でも深刻な経済問題として浮上してきた。. 貨幣制度ではしばしばみられる金銀貨の不足ないし通貨不. をめぐる環境の変化とともに一七世紀後半になると、商品. ともに貨幣に対する需要がさらに高まった。こうした貨幣. ペースで流出した。その一方で、国内経済の成長・発展と. 四 )年 の 金 輸 出 解 禁 に 伴 い、 銀 貨 に 加 え 金 貨 も か な り の. 銀 の 産 出 高 は 大 き く 減 少 し た。 加 え て、 寛 文 四 ( 一 六 六. 全国に広く浸透した寛文期 (一六六〇年代)ごろから、金. は数百万両の金銀が蓄蔵されていた。しかし、幕府貨幣が. ととして上納金銀について余剰が生じ、江戸城の御金蔵に. もに幕府に上納され、これが幕府財政を支えた。当然のこ. たほか、銀貨の品位も八〇%から六四%に落とされた。元. この改鋳により発行された元禄小判の品位は約五七%と 慶長小判 (八四~八七%)の三分の二にまで引き下げられ. 将軍綱吉に提案したのであった。. 銀貨の品位・重量の引き下げを側用人の柳沢吉保を通じて. もいい」という当時としては斬新な貨幣思想に基づき、金. まえ、「幕府が信用を与えさえすれば、貨幣は瓦でも石で. 対し小判の吹き直し提案が寄せられた。彼はこの提案を踏. るようになっていた。そうしたなか、両替商からは幕府に. り切れ金、軽目金と称される品質が劣化した小判がみられ. に入る前後から慶長小判においては長年にわたる使用によ. したのは勘定奉行の職にあった荻原重秀であった。元禄期. た。これを元禄の改鋳という。その際、重要な役割を果た. すなわち、幕府は元禄八 (一六九五)年、貨幣供給量の 拡大および貨幣発行益の獲得を目的として改鋳に踏み切っ. (. 府財政は危機的な状況に陥った。金銀産出高の減少による. 野や石見の銀山からは毎年、巨額の金銀が採掘されるとと. 期以降、金銀貨の品位や量目を引き下げる貨幣の改鋳が幾 一六世紀から一七世紀にかけて日本の金銀産出量は一時、 ( ( 度となく実施されることになった。 世界でも有数の規模を誇っていた。実際、佐渡の金山、生. 4. 90.

(9) が元禄小判をさらに下回る宝永小判が発行された。これら. 一方で量目が約二分の一にとどめられた結果、純金含有量. 永七 (一七一〇)年以降、品位が八四%に引き上げられた. 銀貨の三分の一にまで引き下げられた。金貨については宝. 一一)年に鋳造が始まった四ツ宝銀の品位は二〇%と元禄. 以降、銀貨の改鋳を四度にわたって断行し、正徳元 (一七. 幕府は六代将軍家宣の判断に基づき宝永三 (一七〇六)年. 財政支出を強いられることになった。事態に対処するべく. さらに悪いことに元禄・宝永期には大地震に見舞われた ほか、京都では大火が発生し、幕府は再建のために巨額の. 般物価も上昇したのである。. 退蔵され、つれて銀貨の対金貨相場が高騰するとともに一. 悪影響が及んだ。品位引き下げが小幅にとどまった銀貨が. 下げが均衡を欠いていたため、金銀貨の流通や一般物価に. を達成するまで進んだ。その一方で、金銀貨間の品位引き. 金が二〇両に引き上げられた結果、引き替えも何とか目標. たため、引き替えは順調に進展しなかった。その後、割増. し当初は一〇〇両につき一両の割増金しか支払われなかっ. 禄小判の場合、品位の低さに加え、慶長小判との交換に際. て品位が引き下げられ、最も劣悪な四ツ宝丁銀の場合、品. 貨 に 関 し て は、 宝 永 期 (一七〇四~一一)に 四 度 に わ た っ. 金銀貨の品位や量目を落とす改鋳を実施した。とりわけ銀. ため、先に指摘したように幕府では元禄・宝永期にかけて. 外に流出した。その一方で、国内での銀産出量が激減した. 七年間に、慶長丁銀一一〇万貫という莫大な量の銀貨が海. 生糸輸入の交易品 (支払手段)には銀貨が利用され、慶 長 六 ( 一 六 〇 一 )年 か ら 宝 永 五 ( 一 七 〇 八 )年 ま で の 一 〇. 生糸の輸入は対馬藩ルートに一本化されたのであった。. 崎経由の生糸輸入ルートが閉鎖されて以降、良質の中国産. 朝鮮からは対馬藩経由で中国産の生糸や人参などが輸入さ. 本は朝鮮および琉球の二か国との間で外交関係を維持し、. この間、元禄・宝永の改鋳は、海外との間で軋轢を生ん だことにも留意する必要がある。すなわち、江戸時代、日. 逃すことはできない。. 評判が悪いが、通貨不足の緩和に寄与したという事実を見. することになった。このため、元禄・宝永の改鋳は非常に. もあって品位低下により物価が急騰し、庶民の生活は困窮. い圏においては銀貨が主に支払手段に利用されていたこと. (. (. れていた。寛文八 (一六六八)年の銀輸出禁止によって長. 一連の改鋳により幕府財政の再建は大きく進んだが、銀遣. 91. (.

(10) ) 正徳・享保の改鋳と元文の改鋳. 元 (一七三六)年の改鋳により銀貨の品位が引き下げられ. 引き上げられるに及んで鋳造停止となった。その後、元文. 造されたが、正徳四 (一七一四)年の改鋳で銀貨の品位が. ではほとんど現存していない。人参代往古銀は約五年間鋳. 渡され、そのまま対馬に輸送された。このため、日本国内. 銀は、京都の銀座で鋳造された後、対馬藩京都屋敷に引き. 質銀貨 (品位八〇%)を鋳造したのであった。人参代往古. 銀 (にんじんだいおうこぎん)と称される朝鮮貿易専用の良. 七一〇)年、朝鮮人参輸入のためという名目で人参代往古. こ と に な っ た。 事 態 の 打 開 を 狙 い と し て 幕 府 は 宝 永 七 ( 一. 通用性を欠くとして朝鮮から丁銀の受け取りを拒否される. 改鋳により品位が五〇%を割り込むと、国際商品としての. 幕府では、対馬藩経由の朝鮮貿易の交易品にも品位の引 き下げられた丁銀を引き続き利用した。しかし、度重なる. 民や武士の生活に深刻な影響を及ぼした。. に陥れた。とりわけ米価の著しい下落は、米に依存する農. 貨の流通量減少と相まって、日本経済を深刻なデフレ状態. (品位八七%)が発行された。この財政デフレ政策は、金銀. いで翌五 (一七一五)年には慶長小判と同品位の享保小判. 禄・宝永小判二両に相当する品位八四%の正徳小判が、次. 貨 の 品 位 を 慶 長 金 貨 に ま で 引 き 上 げ る 改 鋳 が 行 わ れ、 元. 引き上げを決定した。そして、正徳四 (一七一四)年、金. 儒学者、新井白石の建議に基づき、金銀貨の品位・量目の. よう」という徳川家康の言葉を忠実に遵守するべきという. そうしたなか、「貨幣は尊敬すべき材料により吹きたてる. すとともに財政についても緊縮措置を採用するに至った。. べく、五代将軍綱吉以来の奢侈・華美・贅沢な支出を見直. 話を国内に戻そう。宝永の改鋳により物価が大きく上昇 するなか、六代将軍家宣は、事態の立て直しを早急に図る. (. たのを契機に再び鋳造されたが、生糸や朝鮮人参など主要. 位は二〇%にまで低下した。. 輸入物資の国内自給体制が確立した一八世紀後半に至り、 人参代往古銀はその役割を終え、鋳造停止となった。. 進行し、経済は悪化の一途をたどった。とくに「諸色高の. 政を堅持していた。しかし、それとともにデフレがさらに. こうした厳しい経済状況のなかで登場したのが八代将軍 吉宗であった。吉宗は当初、財政立て直しのために緊縮財. 5. 92.

(11) 鋳とは異なり、新貨の流通促進に重点がおかれ、改鋳差益. ある。元文の改鋳では、品位を引き下げた元禄・宝永の改. 位の引き下げという貨幣の改鋳を断行した。元文の改鋳で. そうしたなか、徳川吉宗は元文元 (一七三六)年、緊縮 策に代えてリフレ策を採用することを決断するとともに品. ばれることもある。. 来、米価安に悩まされ、このことにちなんで米将軍とも呼. 生活に深刻な影響が及んだ。このように吉宗は将軍就任以. 米価安」と称されるように、米価の下落が著しく、武士の. となっている。. 済に好影響をもたらしたと積極的に評価されるのが一般的. あって大きく改善した。このため、元文の改鋳は、日本経. 貨幣流通量増加の一部が改鋳差益として流入したことも. 安定的に流通した。一方、幕府財政は、米価上昇のほか、. とおりの物価上昇がみられた。それとともに経済情勢も好. までの五年間で二倍にまで騰貴するなど、幕府の企図した. えた。例えば大坂の米価は改鋳直後の元文元年から同五年. レ下にあった日本経済に「干天の慈雨」のような恵みを与. (. (. ) 財政赤字ファイナンスを目的とした一八世紀半ば以降の 貨幣改鋳. も、増歩のえられる新金貨に交換のうえ利用するほうがは. にとっては、旧貨をそのまま交換手段として利用するより. 両に替える」(金二朱は八分の一両)との文言が打刻されて. 貨を発行した。この銀貨の表面には「八枚をもって小判一. 徳川幕府は明和九 (一七七二)年、銀貨の金貨体系への 包摂を狙いとして明和南鐐二朱銀という金貨単位の計数銀. (. 転し、元文期に制定された金銀貨は、その後八〇年もの間、. の収得が犠牲にされた。すなわち、元文小判一枚の金含有 量は享保小判の半分程度に引き下げられたが、新旧貨幣の 交換に際しては旧小判一両=新小判一・六五両というかた ちで増歩 (ましぶ)交換を行う一方で、新古金銀は一対一. るかに有利となった。. の等価通用とされたのであった。その結果、旧金貨保有者. (. く流通することになった。それとともに、銀貨は金貨の補. この増歩交換が功を奏し、新旧金貨の交換が急速に進み、 いた。明和南鐐二朱銀の発行は増大し、金貨を使い慣れた 貨幣流通量は改鋳前との比較において約四〇%増大した。 江戸のみならず、秤量銀貨を常用していた近畿地方でも広 貨幣供給量の増加は物価の急上昇をもたらし、深刻なデフ. 93. 6.

(12) を目的として一朱金という小額金貨が初めて発行されたが、. えられたのであった。その一方で、金貨での改鋳差益獲得. か、一朱銀の場合は、七分と二朱銀の半分以下の量目に抑. の場合、量目が二匁七分から二匁へと二六%減じられたほ. き下げが六六%から五六%にとどまったのに対し、二朱銀. 貨の量目引き下げが著しかった。すなわち、小判の品位引. 引き下げられた。とりわけ、二朱銀・一朱銀という計数銀. 文 政 元 ( 一 八 一 八 )年 か ら 三 ( 一 八 二 〇 )年 に か け て 実 施された文政の改鋳により金銀貨の品位・量目はいずれも. 二度にわたって実施した。. 八~四四)に、改鋳差益の獲得を狙いとして貨幣の改鋳を. そうした事態に対処するべく幕府は文政・天保期 (一八一. る方向で作用し、財政危機は時間を経るにつれ深刻化した。. にまで低下した。この物価の下落は再び幕府財政を圧迫す. 落に転じ、宝暦三 (一七五三)年には元文改鋳以前の水準. 以上のとおり、江戸時代の幣制は一八世紀初頭以降、事 実上、徳川幕府が発行する全国通用の金銀貨と、地方通貨. に形成されたのであった。. 一対六程度にまで上昇し、開港に伴う金流出の素地がここ. 銀比価は逆に当時の国際相場 (一対一五)を大きく上回る. 材価値とは独立して定められたため、計数銀貨ベースの金. 一方、計数銀貨の価値は一分銀四枚で一両というように素. 財政補填を目的として計数銀貨を中心に改鋳が実施された。. 四割引き下げられた。このように文政・天保期においては、. された。そして、金銀貨の改鋳は丁銀や一分銀を中心に行. 小額貨幣は一分判、一分銀および二朱金の三種類に単純化. 狙いとし、二朱銀、一朱金、二分判、一朱銀が廃止され、. 改鋳は文政の改鋳で濫造された小額金銀貨の整理・統合も. 八 (一八三七)年、金銀貨の全面改鋳を実施した。天保の. 的状況に陥れた。こうした事態に対処するべく幕府は天保. 八三〇年代に発生した天保の飢饉は、幕府財政を再び危機. この金貨は品位一二%というようにほとんど銀貨に近い金. としての藩札という二種類の通貨により構成されることに. 助貨幣へと変質を遂げた。その後、一般物価、米価とも下. 貨であったため、評判はきわめて悪かった。. 価値から離れた額面価値で通用する表象貨幣への道を歩ん. なった。そして、幕府金銀貨は度重なる改鋳とともに素材. われ、例えば天保一分銀の銀量は文政二朱銀との比較で約. 文政の改鋳とともに五五〇万両を超える改鋳差益を手に した結果、徳川幕府の財政は大きく改善した。しかし、一. 94.

(13) たということができる。. るなど、江戸時代の幣制は名目主義への傾斜を強めていっ. だほか、藩札も事実上の不換紙幣としての性格を色濃くす. とされることが多い。. ドスミス)銀行に匹敵する初期的銀行の域に到達していた. 業者とは大きく異なり、一七世紀イギリスの金匠 (ゴール. 両替商は、三井両替店、鴻池善右衛門といった最も有力 な豪商から一般庶民を相手に両替業務を営む零細経営の銭. の交換が必要欠くべからざるものとなっていた。この金銀. 江戸時代においては、先に指摘したとおり、金銀銭貨と いう三種類の貨幣が支払手段として流通するなか、三貨間. 商であった。本両替は財力に富んだ有力商人が営むべき業. における信用制度を担っていたのは本両替と呼ばれる両替. から構成されていた。これら両替商のなかでも、江戸時代. 屋に至るまで、資産規模や業務内容の面で多種多様な業者. 銭貨の交換や鑑定を業として行っていた商人を一般に両替. 務 と 観 念 さ れ て お り、 天 保 期 (一八三〇~四四)の 大 坂 に. ( ) 両替商の発展. 商 と い う。 ち な み に、 両 替 商 の「 両 替 」 と い う 名 称 は (. あっては鴻池善右衛門など大手両替商の純資産は銀二七万. (. 「 『両』(金貨)を他の貨幣に『替える』」ことに由来する。. る領国大名向けの貸出を多数行い、大名財政を資金面から. とりわけ、大坂所在の大手両替商の多くは大名貸と呼ばれ. 組み・決済など各種の金融業務を広く営むようになった。. け入れ、手形の発行・決済、金銭の貸し付け、為替の取り. 広がり、商人や大名などを主たる取引相手として預金の受. 用力を有する者が一定金額の金貨もしくは一定重量の銀貨. した手数や費用負担を減らすため、有力両替商など高い信. 定に際しては別途手数料を負担しなければならない。そう. る。これには手間暇がかかるほか、真贋の鑑定や量目の測. のほか、枚数あるいは量目 (重さ)の確認作業が必要とな. やや脇道に逸れるかもしれないが、小判、丁銀といった 金銀貨を大口の決済手段として利用する場合、真贋の鑑定. 貫 (金四〇万両)を上回っていた。. 支えていた。その意味で、両替商は、金銭の貸付、隔地間. を和紙でひとまとめに包んで封をしたものが、大口決済手. このように江戸時代の両替商は金銀銭貨の交換ニーズを 背景として登場したが、その後、彼らの業務内容は大きく. (. の為替の取り扱いに特化した土倉、問丸という中世の金融. 95. 7.

(14) 段として利用されていた。これを包み金銀という。包み金 銀の利用は一七世紀前半、大黒常是が徳川幕府に銀貨を上. 両替屋の起源は必ずしも明らかではないが、大坂の商人、 天王寺屋五兵衛が始めた金銭の売買に始まるとされている。. おりの金銀が入っていない場合の損失は開封者が負担する. 領者が封を破ることには何ら問題はない。ただし、額面ど. 罪になったのは顧客の金を横領したからであり、正当な受. れは封印切りが死罪であることを意味しない。忠兵衛が死. に充てたことが発覚して死罪となったのだ。もっとも、こ. 客から預かった包み金三〇〇両の包みを破って身請け資金. る。遊女梅川に入れ揚げた大坂の金飛脚、亀屋忠兵衛は顧. で封印切りが最大の見せ場となっていることからも窺われ. もっていたことは、近松門左衛門の浄瑠璃「冥土の飛脚」. 〇 〇 匁 包 み が 一 般 的 で あ っ た。 包 み 金 銀 が 高 い 信 用 力 を. 包 み 金 銀 の 場 合、 そ の ま ま 開 封 さ れ る こ と な く 市 中 を 転々流通していた。金貨では小判五〇両包みが、銀貨は五. み金であり、実際には紙で包まれていた。. りを賄賂として渡す場面がみられる。あの白い固まりが包. 時代劇では悪徳商人が幕府の役人などに、白い小判の固ま. を行うことは絶えてなかった。家格の異なる両替商との取. 下関係にある両替商同士が対等の立場に立って相対で取引. 間の取引は同格の両替商を相手方とする取引に限られ、上. キーは両替商間の業務においても厳格に遵守され、両替商. 統制監督するという組織構造を有していた。このヒエラル. という最大手の両替商が幕命にしたがって傘下の本両替を. る商業の発展を支えた。そして大坂の両替商は、十人両替. この株仲間形成とともに両替屋は徳川幕府公認の業種と なり、幕府による取り締まりの下で金融面から大坂におけ. 締結命令において初めて両替屋という言葉が登場する。. 二)年の大坂町奉行・石丸定次による両替屋仲間取り決め. という名称を名乗ってはおらず、史料上は寛文二 (一六六. の 発 展 と と も に 成 長 を 遂 げ、 寛 文 期 (一六六一~七三)に. し、両替商の基礎を築き、その後、大坂における商業取引. にしたがって預金の受け入れおよび手形の取り扱いを開始. 納するとき、銀貨を紙に包んだことに始まるとされている。 そして、天王寺屋五兵衛は寛永五 (一六二八)年から故知. ことになっていたため、開封は通常、両替商の店頭で行わ. 引はすべて、親両替と称される系列のなかでひとつ上に位. 至ってほぼ完成をみたとされる。もっとも、彼らは両替屋. れた。. 96.

(15) 日 (節季という)に代金が支払われた。その際、決済手段. 帳に基づき信用で売買された後、商品ごとに定められた期. 再出荷されていた。そうした取引のほとんどは判取帳や通. また、天下の台所、大坂では全国各地から集まった諸産 物が問屋、仲買の手により売買され、江戸や地方に向けて. 貨幣」として流通していたとされることが多い。しかし、. は第三者への譲渡が容認されていたことから、 「事実上の. て広く受け入れられたとされる。また、預り手形について. 支払人となった両替商の高い信用力に基づき支払手段とし. 保管証であり、現代の預金小切手に相当する。預り手形は. 置する両替商を経由して行われていた。. として利用されたのが銀目手形であり、銀目手形は個々の. 最近では、預り手形は両替商に当座預金をもてない中小あ. 銀目手形は、預り手形と振り手形に大別される。預り手 形とは両替商が預金者に発行した預金証書あるいは銀貨の. 商人が両替商に設けた預金に対する支払指図として振り出. るいは信用度の劣る商人を主たる対象として、両替商が正. 切手に相当する。振り手形の場合、券面の右下に「何某殿. され、両替商が協力して構築した支払決済機構を通じて決. 銀目手形が大坂においてとくに発達した背景としては、 次のような事情が挙げられることが多い。第一に、大坂で. へ」という受取人を示す妻書が入れられており、手形の受. 貨との引き替えで発行した自己宛の預金小切手として捉え. の支払手段であった秤量銀貨の場合、鑑定・秤量コストが. 領者はこれを取引先両替商に設けた預金口座に入金のうえ. 済されていた。その結果、「百中ノ九十九迄ハ手形ニシテ. 高く、商人間の大口取引の決済には不向きであった。第二. 券面金額の支払いを受け取ることができた。振り手形の日. る見方が有力となりつつある。. に、 明 和 期 (一七六四~七二)以 降、 徳 川 幕 府 に よ り 銀 貨. 付は振出日とするのが一般的であったが、振出人の都合に. 正金取引ハ僅少ナリ」といわれるように、大坂における商. の金貨単位の計数貨幣化が進められるなかにあって銀目の. よっては先日付で振り出されることもあった。これをとく. 取引のほとんどは銀目手形で決済されていた。. 商慣習を維持するべく、大坂商人により正貨によらない決. に延手形 (のべてがた)という。延手形は、今日の先日付. 一方、預金者が自らの預金を引き当てに両替商宛てに振 り出した支払指図を振り手形という。振り手形は今日の小. 済手段として手形取引が選択された。. 97.

(16) 借 振 替 指 図 書 で あ り、 振 出 当 日 の 夜 九 ツ 時 ( 午 後 一 二 時 ). のための債務移管証文、親両替に預けてある当座預金の貸. 支払われることはなかった。振差紙は両替商間の資金決済. 人である両替商に正金銀の支払いを請求しても、正金銀が. 通用する特殊な銀目手形であり、その所持人が手形の名宛. がみ)と呼んでいた。振差紙は原則として両替商間でのみ. 大坂においては両替商相互間の資金決済にも銀目手形が 用 い ら れ て お り、 そ う し た 手 形 を と く に 振 差 紙 ( ふ り さ し. 現金化を図るのが一般的となっていた。. した。. を大きく上回る一対六程度 (計数銀貨ベース)にまで上昇. 日本における金銀比価は逆に当時の国際相場 (一対一五). 朱銀 (二一・一匁)の四三%にまで低下した。その結果、. め、天保一分銀の金一両当たりの銀量は九・一匁と南鐐二. 鋳差益の獲得を狙いとして銀高方向で大きく修正されたた. 文政・天保の改鋳においてはこの金貨・計数銀貨比率が改. の交換については素材価値とは独立した比率が適用された。. 部分を占めるようになった。その一方で、天保一分銀四枚. 小切手に相当し、受取人は満期日当日に両替商に預け入れ、 保期 (一八三〇~四四)には計数銀貨が銀貨流通残高の大. までに決済を完了させる必要があった。. 国際相場から大きく乖離した金銀比価は、鎖国による内 外金融市場の遮断によって支えられていた。しかし、安政. は小判一枚に等しいと定められるなど、計数銀貨と金貨と. こうした銀目手形はすべて、手形交換所という手形の集 中交換決済制度が整備されていないなかで、親子関係に代. 表される両替商間のネットワークを通じて決済されていた。 六 (一八五九)年六月の神奈川・長崎・函館の三港開港と. ともに、そうした金銀比価の内外不均衡が一挙に顕現し、. (. この間、手形取引に伴い発生した両替商間の債権債務につ. 大規模な金流出・銀流入が発生した。すなわち、海外では. (. だ金銀貨の裁定取引が活発に展開されたのであった。この. 国際相場の約三倍過大評価されていたため、国境をまたい. 日本に持ち込むと、補助貨とされた計数銀貨の金貨価値が. 素 材 価 値 で 流 通 し て い た 銀 貨 ( メ キ シ コ・ ド ル、 洋 銀 )を. (. いては、月に一・二度、正貨の受け渡しにより決済された。. ( ) 開港と金流出. 明和九 (一七七二)年の南鐐二朱銀発行を契機として銀 貨は秤量貨幣から金貨単位の計数貨幣へと変容を遂げ、天. 8. 98.

(17) 換し、これを天保小判に両替して海外へ持ち出すとともに. イギリスにおいては、洋銀を日本に持ち込んで一分銀と交. 枚=一分銀三一一枚と定められた。この結果、アメリカや. 交換比率は「同種同量の原則」に基づき一ドル銀貨一〇〇. れに押し切られるかたちで日本が譲歩し、洋銀と銀貨との. 売買するという「同種同量の原則」を強硬に主張した。こ. 機会を目の前にして、アメリカは重量基準により金銀貨を. 慣行を熟知していた。しかし、巨額の利益が得られる裁定. リカも、金銀貨は地金銀価値で売買されるという国際取引. 種同品位の原則」にしたがって行うべきと主張した。アメ. 徳川幕府では、金銀比価の内外不均衡に起因する金貨の 大量流出を予知し、金銀貨の交換は品位を基準とした「同. る。. 大きくはなかったという研究も報告され、支持を集めてい. 十万両前後にとどまるなど、当初の想定と比較してさほど. 点に関連して近年、英国商人の資料に基づき金貨流出額は. 横浜港からは三〇万両内外)ぐらいに引き下げられた。この. もられたこともあったが、その後、四〇~五〇万両 (うち. 金貨の流出額については一〇〇万両にものぼる巨額に見積. に旧貨と増分交換されたため、国内的には金貨の流通量が. 二分金など品位劣悪な万延金貨が大量に鋳造されるととも. されることもある。しかし、その一方で、万延小判や万延. 幕末から明治初年にかけての幣制は万延二分金体制と揶揄. 改鋳差益の獲得を狙いとして大量に鋳造された。その結果、. この万延の改鋳で発行された万延二分金は銀が四分の三 を占めるなど、素材的には銀に近い劣悪な金貨であったが、. 貨の海外流出に歯止めがかかった。. た。この結果、国内の金銀比価はほぼ海外並みとなり、金. たりの金量を約三分の一に引き下げる金貨の悪鋳を断行し. 発出した。そして、万延元 (一八六〇)年四月には一両当. 値を約三倍に引き上げる「直増 (ちょくぞう)通用令」を. の金貨が海外へと流出していった。これに対し幕府では安. 国からの強い反発にあって中止に追い込まれ、相当な金額. 価を実現しようとした。しかし、安政二朱銀の鋳造は諸外. 分に落とした安政二朱銀を新鋳のうえ、海外並みの金銀比. ( 一 八 五 九 )年 五 月、 量 目・ 品 位 を 高 め つ つ 額 面 価 値 を 半. 金貨の大量流出を懸念した徳川幕府は開港直前の安政六. しに多額の利益を得ることができたのである。. 政七 (一八六〇)年二月、天保・安政小判の対銀貨通用価. 鋳潰して地金とした後、再び洋銀と交換すれば、リスクな. 99.

(18) フレの海を漂うことになり、そうしたなかで明治維新を迎. として実施された万延の改鋳の対価として日本経済はイン. 著増するとともに物価が急騰した。金貨の流出抑制を狙い. たり、偽造金貨・紙幣の発行が横行したりするなど、明治. 系は非常に複雑なものとなった。加えて、藩札が濫発され. なった価格で流通することを意味し、それとともに通貨体. ま た、 江 戸 時 代 に 鋳 造 さ れ た 金 銀 貨 す べ て が そ れ ぞ れ 異. (. 札のほか、それまで通用停止となっていた古金銀貨の通用. 旧幣制の踏襲が宣言され、当時流通していた幕府貨幣や藩. ゆとりはなかった。このため、慶応四 (一八六八)年二月、. た。それまでの間、政府には幣制の整備・統一に着手する. 辰戦争が終結した明治二 (一八六九)年五月のことであっ. 羽・伏見の戦いに始まり、一年五か月にわたって続いた戊. のぼっていたからである。. 表示には銀目が利用されていたほか、銀目の貸借が巨額に. が貨幣として卓越した地位を占め、慣行として商品の価値. が多い。大阪では「西国の銀遣い」と称されるように銀貨. 働いて大阪の経済金融界をパニックに陥れたとされること. 貨単位への書き替えを求めるものであったが、恐慌心理が. 銀目廃止は、銀貨の廃止ではなく、秤量銀貨を価値基準 とした銀目取引の廃止および銀目による既往貸借契約の金. して同年五月に実施された銀目廃止であった。. (. 第一歩となったのが、金貨による貨幣単位の統一を目的と. を狙いとして各種の施策を講じていった。この幣制改革の. と称された。そうしたなか、維新政府では貨幣制度の統一. 初年における通貨の流通はきわめて混乱し、 「通貨錯乱」. えたのであった。. 三 明治維新と幣制改革 ( ) 銀目廃止と大阪経済界の動揺. 慶応三 (一八六七)年一二月、明治天皇は王政復古を宣 言し、ここにおいて天皇を中心とする新政府が誕生した。. が認められた。維新政府も二分金、一分銀など旧幕府貨幣. ると解して正貨との交換を求めて殺到した (取り付けの発. とほぼ同じ形式で両単位の貨幣を自ら発行した。 次いで慶応四 (一八六八)年四月、万延二分金の純分量 を基準として幕府金銀貨の交換価値が公定された。それは. そうした状況下、両替商を支払人として振り出された銀 目手形所持人の多くが、銀目廃止とともに手形が無効にな. しかし、維新政府が日本全国を政治的に掌握したのは、鳥. (1. 1. 100.

(19) 生)ため、大多数の両替商が支払不能、閉店に追い込まれ. ) 太政官札の発行. の商人間での資金決済に利用されていた振り手形ではない。. すなわち、銀目の廃止で取り付けの対象となったのは大 阪の両替商が引受人となった小額の両替手形であり、大阪. 微であったという捉え方が支持されつつある。. 影響はさほど深刻なものではなかった、あるいは比較的軽. 目廃止は大阪の経済金融界を混乱に陥らせたものの、その. とが多かった。しかしながら、最近では、次のとおり、銀. いう不換紙幣を発行した。太政官札はわずか一年半余の間. や民間へ貸し出す殖産興業資金の調達を目的に太政官札と. ( 一 八 六 八 )年 五 月、 国 庫 の 窮 乏 を 補 填 す る と と も に 各 藩. し富豪から御用金として調達した三〇〇万両を軍用金に充. なっていた。そうした状況下、維新政府では戊辰戦争に際. の確立が幣制の統一と並ぶ重要な経済面での政策課題と. 一方、明治維新政府においては、徳川幕府からの財政引 き継ぎもなく無一文から出発したこともあって、財政基盤. (. 確かに銀目廃止の意味するところが誤解されてパニック的. に大量発行され、発行高は四八〇〇万両にも達した。その. るなど、大阪の信用組織は根本的に破壊されたとされるこ. に取り付け騒動が発生するなど、一時的には大きく混乱し. 結果、太政官札の流通価値は国民の新政府に対する信用不. (. た。しかし、最終的に閉店を余儀なくされた両替商は三四. 足もあって額面金額を大きく下回り、正金一〇〇両に対し (. (. た商家は大きな損失を蒙った。しかし、それ以外の商家で. 両替商を資金決済機関に利用して多額の金銀貨を預けてい. ものではなかった。確かに、取り付け騒動により閉店した. 縮するとともに、三年後の五 (一八七二)年には新たに発. これに対し政府では明治二 (一八六九)年五月、太政官 札の流通性改善を目指して通用期間を一三年から五年に短. 歩が求められた。. (. は混乱のなかで資金の入金が遅れるといった影響を受けた. 行される貨幣 (金貨)との交換を約束した布告を発出した。. (. が、取り付け自体、短期間で終息したため、深刻な影響が. 金貨による裏付けをえた太政官札は流通性を漸次回復し、. (1. (. 五軒 (明治一七年)のうち三〇~四〇軒にとどまるなど、. 太政官札一六〇両というように正貨との交換に際しては打. 当 し た ほ か、 旧 福 井 藩 士 三 岡 八 郎 の 建 議 に 基 づ き 慶 応 四. 「まったくの麻痺状態に陥った」と強調されるほど深刻な. 2. あったとは考え難いという捉え方が広まりつつある。. 101. (1. (1.

(20) 代金として太政官札を受け取ったことから、太政官札の価. この間、当時の日本は幕末以来の外交政策として対外開 放政策を堅持していたため、日本在住の外国商人も商品の. れた。. かけて金二分、金一分といった小額面の民部省札が発行さ. 幣であったため、小額貨幣不足を補うべく二年から三年に. 太政官札は、その過半を一〇両札、五両札が占める高額紙. その後は交換手段として安定的に流通するようになった。. るために導入されたということもできる。. は太政官札の兌換紙幣化という海外からの強い要求に応え. で捉えると、五 (一八七二)年に公布された国立銀行条例. した。しかし、外国政府はそうした弥縫策には満足せず、. 発行する金貨と交換することを外国人や外国政府にも公約. 府は二 (一八六九)年五月、五年までに太政官札を新たに. 腹に太政官札の価値下落に拍車をかけた。そうしたなか政. しかし、それらの施策は濫発と相俟って当初の期待とは裏. (. ) 円の誕生. 政府に太政官札の金兌換の履行を迫った。この文脈のなか. 値下落とともに海外との軋轢や摩擦が生じることになった。 維新政府は外国商人による公課納付に際し対外準備の確保 を狙いとして金銀貨での支払いを求め、太政官札による支. 先に指摘したように明治初年における貨幣流通は、金銀 銭貨という幕府貨幣、藩札・私札や幕末の開港とともに大. 払いを拒否したほか、金銀貨との交換要求にも一切応じな かった。その結果、外国商人は太政官札の流通価値下落に. 量に流入した洋銀に加え、太政官札、民部省札など、さま. これに対し政府は明治元 (一八六八)年一二月、太政官 札の時価通用の容認などにより事態の打開を図ろうとした。. たのである。. 太政官札の通用価値下落は外交問題を惹起することになっ. 太政官札の正貨兌換を求めて政府に激しく抗議するなど、. そうした状況下、政府はイギリスなどと協議のうえ明治 三 (一八七〇)年一一月、一円銀貨を本位貨幣とする銀本. 政府にとって喫緊の課題となった。. ことが、戊辰戦争終結後、近代国家の基盤整備を急ぐ維新. た。こうした混乱を正すとともに統一的な幣制を確立する. る。そうしたなか、彼らは明治元年 (一八六八)半ば以降、 ざまな貨幣が時価で通用するなど、極端な混乱状態にあっ. 伴う大幅なキャピタル・ロスを被ることになったからであ. 3. 102.

(21) 本位制に移行するべきと主張したのであった。金本位制の. へと移行するのを目の前にして、日本も歩調を合わせて金. を直接的な契機としていた。伊藤は、欧米諸国が金本位制. 度調査のため渡米していた大蔵官僚の伊藤博文からの建議. とすることが定められた。この唐突な方針転換は、金融制. 議会で審議中の一ドル金貨に相当する一円金貨を本位貨幣. しかし、明治四 (一八七一)年五月に公布された新貨条 例では銀本位制に代えて金本位制が採用され、アメリカの. が進められたのであった。. ドルとほぼ同一の品位・量目を有する一円銀貨の鋳造準備. そして、事実上の国際貨幣として当時機能していた洋銀一. 銀がわが国に大量に流入したといった事情が挙げられる。. や、西洋諸国が金本位制を志向するなかで価値の下落した. 地域における貿易決済には洋銀が広く利用されていたこと. としては「東洋多銀少金之土地」と称されるようにアジア. 「円」による幣制の統一を内定した。銀本位制採用の背景. ミルにちなんで百分の一円が銭 (セン) 、十分の一銭は厘. また、円の表示単位も計算面での利便性に配慮のうえ四 進法に代えて十進法に改められたほか、アメリカのセント、. 限って金貨と同様に無制限に通用するとされた。. 銀貨は貿易銀と呼ばれるとともに、開港地における取引に. て明治三 (一八七一)年一一月から鋳造が開始された一円. ると定めたのである。この間、銀本位制への移行を想定し. は金本位制を採択し、一円金貨一枚は洋銀一枚と等価であ. ある。そうした新旧貨幣の摩擦なき交換を重視するととも. 新貨幣体系への移行をスムーズに行うことができたからで. いう新旧通貨単位を読み替えるだけで一円=一ドルという. を鋳造すれば、一ドル=一円=旧貨一両となって円・両と. 二 分 金 二 枚 と ほ ぼ 同 価 値 の 一 円 金 貨 ( 純 金 一・ 五 グ ラ ム ). アメリカ・ドル金貨一ドルとほぼ等価であった。それゆえ、. れた万延二分金であり、この二分金は二枚すなわち一両で. というのも、先に指摘したように、当時の日本における 主たる流通通貨は幕末の金流出を契機として大量に発行さ. 位 制 の 採 用 お よ び 貨 幣 単 位 の 十 進 法 へ の 変 更、 さ ら に は. 採用は新政府の若きリーダーたちによるナショナリズムの. ( リ ン )と 命 名 さ れ た。 な お、 西 洋 貨 幣 で は 元 首 の 肖 像 を. 103. に江戸時代以来の金貨主体の貨幣慣行を維持するべく政府. 発露とも考えられるが、それはまた、江戸期幣制との連続 (. 図柄に用いる事例が多いが、一円金貨の場合、元首である. (. 性に深く配慮した選択でもあった。. (1.

(22) 同重量の銀貨を製造することとした関係から、香港銀貨の. 称である「洋円」を継承したため、③香港銀貨と同品位、. ①新貨のかたちが円形に統一されたため、②洋銀の中国別. 新しい貨幣の呼称には「円」が採用された。その背景に ついては史料面での制約もあって明確になっていないが、. 天皇の肖像に代えて中国で天子を象徴する竜が採用された。. 兌換した証券を廃棄せずに再び発行して歳出に充当したた. 二割が兌換回収された。しかし、政府は財政上の理由から. 求が多額にのぼり、発行開始後わずか五か月で総発行高の. たため、流通力がきわめて高かったが、開港場では兌換請. れ ら の 紙 幣 は 正 貨 (ただし、二分金)兌 換 が 保 証 さ れ て い. く為換 (かわせ)座三井組の名義で大蔵省兌換証券、開拓. して広く通用させたいという政府の願望が込められていた. 両に代わる通貨単位としての円には日本貨幣を国際通貨と. 済に利用されていた銀貨の呼称であった点を考慮すると、. されている。いずれにしても「円」が東南アジア貿易の決. 社会を建設するためには、紙幣についても貨幣と同様に速. 引き続き大量に流通していた。したがって、近代的な経済. このように新貨条例の公布後も、太政官札、藩札に加え て、大蔵省兌換証券が発行されるなど、多種多様な紙幣が. め、その流通残高が大きく減少することはなかった。. 使兌換証券というわが国最初の円単位紙幣を発行した。こ. 「壱圓」(洋円一個の意味)にちなむ、といった仮説が提示. 可能性は否定できない。. やかに統一を図ることが求められた。そこで政府では明治. 五 (一八七二)年四月、太政官札など藩札の製造技法を踏. と交換されることになっていた。しかし、財政基盤が脆弱. 明治維新直後に発行された太政官札は、明治五 (一八七 二)年中には新貨条例に基づき発行された新貨幣 (金貨). 紙幣と呼ばれた。. こうした事情もあって、新紙幣はゲルマン紙幣とかドイツ. 委託した西洋式の新紙幣 (明治通宝)の発行を開始した。. 襲した和式紙幣に代えて、ドイツのドンドルフ社に印刷を. な明治政府には、そうした余裕はまったくといっていいほ. ( ) 政府紙幣の発行と旧貨幣の整理. どなかった。さらに財政窮迫や新貨幣不足が著しかったこ ともあって政府は四 (一八七一)年一〇月、急場を凌ぐべ. そして政府では、明治通宝札と太政官札・旧藩札との交 換を進める一方で、新紙幣を不換紙幣として発行した。そ. 4. 104.

(23) 版を取り寄せ、国内ですべての印刷が行われるようになっ. 生したため、明治一〇 (一八七七)年以降はドイツから原. しかし、ドイツ製の紙幣は紙質がよくなく、損傷が多数発. 明治通宝札は当初、ドイツで印刷された紙幣を輸入し、 日本で「明治通宝」の文言や官印などを補って完成された。. された。. 明治一一 (一八七八)年には政府紙幣は明治通宝札に統一. 券等から新紙幣への交換回収は比較的スムーズに進捗し、. 盤の安定化もあって太政官札・旧藩札および大蔵省兌換証. された。それにもかかわらず、地租改正による政府財政基. め、九州や東北地方の一部では昭和初期でも小額貨幣とし. 二八 (一九五三)年まで法貨として位置づけられていたた. 位に読み替えのうえ通用させられた。なお、旧銭貨は昭和. ため、一文銭一〇枚で一銭などといったかたちで新貨幣単. に交換された。寛永通宝など銅製の旧銭貨は、銅貨不足の. 換された。藩札、府県札は、廃藩置県時の発行高、引替準. ど両単位の政府紙幣は金一両=一円で新紙幣にそれぞれ交. 量目を基準に定められた引替価格で新貨幣に、太政官札な. かたちで新貨幣に順次交換された。まず古金銀貨は品位・. 円単位貨幣の普及とともに江戸時代から明治初年に発行 された貨幣は明治七 (一八七四)年以降、概ね次のような. の結果、太政官札と金貨との交換という政府公約は反故に. た。もっとも、明治通宝札の場合、額面金額の如何にかか. て利用されていた。. ) 為替会社と為替会社紙幣. 政府は明治二 (一八六九)年六月以降、内外商業の振興 を目的に設立された通商司の下部組織として、通商会社と. (. 備高に基づき定められた引替価格で新紙幣および小額貨幣. わらず同一のデザインが採用されていたため、低額面券を 高額面券に偽造できるという欠陥があった。このため、一 四 (一八八一)年二月以降、防贋対策を施した改造紙幣に. 入り、かつ女性肖像入りの紙幣であり、俗に神功皇后札と. 為替会社を東京・大阪・京都・横浜・神戸・大津・新潟・. 改 刷 さ れ た。 こ の 政 府 紙 幣 は わ が 国 初 の 人 像 ( 神 功 皇 后 ). 呼ばれた。神功皇后肖像の原版は紙幣寮の技術者であった. 敦賀の全国八都市に各一社ずつ設立した。通商会社・為替. (. イタリア人彫刻家のキヨソネが作成したため、その風貌は. 会社が全国に設けられたのは、当時の日本においては国民. (. 外国女性風となっていた。. 105. 5. (1.

(24) 為替会社という名称は「バンク」の訳語として考案され たものであり、英語ではエクスチェンジバンクと名乗って. て広く機能させることを狙いとしていた。. 換券である為替会社紙幣を太政官札に代わる支払手段とし. 力の劣っていた太政官札の流通性を向上させることや、兌. たが、実態的には為替会社による貸し付けを経由して信用. 会社と為替会社はともに表面上は商業振興を目的としてい. 巨額の太政官札が為替会社に貸与された。このように通商. 替の引き受けを行っていた。政府からは貸し下げ金として. 原資に、通商会社やその傘下の商社に対する貸し付けや為. 金や兌換券 (為替会社紙幣)の発行などで調達した資金を. 為替会社は、商業取引の円滑化を任務とする通商会社に 対する金融面からの支援を目的とし、政府からの貸し下げ. 株式会社とはいえない共同企業であった。. り、出資者の有限責任制が確立されたりしていないなど、. 織として設立されたが、経営者の指名には政府が関与した. は三井、小野といった各地の富商が出資した一種の会社組. 強かったという事情を背景とする。そして、これらの機関. 経済の統合が十分進んでおらず、地域経済の独自性がなお. えて、政府による民間金融機関育成策も、為替会社からア. 替会社の業績はその後、急速な悪化を余儀なくされた。加. 貸し付けのかなりの部分を占めていた旧士族向けがなく. た。しかし、明治四 (一八七一)年七月の廃藩置県に伴い. 為替会社紙幣の増発は当初、利鞘の大きかった旧大名や 藩士など旧士族向けの救済融資の実行により支えられてい. を義務づけた。. には正貨による兌換を確実なものとするべく一〇〇%準備. その兌換性に危惧の念を抱き、明治三 (一八七〇)年七月. このような為替会社紙幣の過剰発行を前にして政府では、. たないうちに五〇〇万両を超えるなど巨額な規模に達した。. ずに紙幣の増発に走ったことから、その発行高は一年も経. 関しては特段の規定はなかった。このため、各社とも通貨. た為替会社紙幣はすべて兌換券とされたが、兌換準備高に. 銀行の嚆矢とされることが多い。為替会社により発行され. 両替などの金融業務を営んでおり、その意味でわが国近代. を発行していた。為替会社はこのほか、預金、貸出、為替、. 換銀行券的性格の強い金券などに加え、ドル表示の洋銀券. なった一方で、紙幣発行に制限が課されたこともあって為. 発行益の獲得を狙いとして兌換準備のことはとくに気にせ. いた。為替会社は政府から紙幣の発行権限を賦与され、兌. 106.

(25) なった。そして、為替会社の解社に際し為替会社紙幣や預. 転換した横浜為替会社を除く七社すべてが解散することに. が義務づけられたからである。そうしたなか、国立銀行に. 止され、為替会社紙幣は流通停止のうえ正貨との引き替え. 立銀行条例により国立銀行以外の機関による紙幣発行が禁. 会社の命運もきわまることとなった。新たに制定された国. ( 一 八 七 二 )年 一 一 月 の 国 立 銀 行 条 例 の 公 布 と と も に 為 替. メ リ カ 流 の 国 立 銀 行 制 度 の 創 設 へ と 次 第 に シ フ ト し、 五. 織の金融機関として位置づけられ、預金・貸出の取り扱い. ここにおいて、わが国における近代銀行制度の礎が築か れた。実際、国立銀行は民間が出資・経営する株式会社組. 券の発行が始まった。. 条例を制定した。そして、国立銀行四行が設立され、銀行. 入することとし、明治五 (一八七二)年一一月、国立銀行. カのナショナル・バンク制度にならった発券銀行制度を導. 興業の推進および太政官札の償却促進を狙いとしてアメリ. なった。政府では大蔵少輔伊藤博文の建議に基づき、殖産. (. 金の支払いは政府が全額補償し、一両=一円の割合で新紙. に加えて、法貨と同様の決済手段として流通する兌換銀行. (. 幣に交換回収された。. 券を発行することが認められた。兌換銀行券の発行に際し. ては資本金の六割に相当する金額の太政官札を大蔵省に納. 各社が一斉に紙幣の増発に走ったため、政府の目論見は大. たこともあって、通貨発行益の獲得を狙いとして為替会社. た。しかし、兌換準備高に関しては明確な規定を欠いてい. の回収・消却および兌換券による紙幣の統一を図ろうとし. 先に指摘したように、明治政府では当初、為替会社によ る兌換紙幣の発行を媒介として、不換紙幣である太政官札. こうした銀行券発行に関する独特の仕組みをもつ国立銀 行の創設に際しては明治四 (一八七一)年、銀行制度のあ. た。. 銀行券の兌換準備に充てることを基本的な仕組みとしてい. 受け取る一方で、資本金の四割を正金で払い込み、これを. け取った後、それを再び大蔵省に納付して同額の銀行券を. 付し、その代わりに交付される国債 (金札引換国債)を受. きく崩れることになった。そうしたなか、新しい発券制度. り方をめぐってともに大蔵官僚であった伊藤博文と吉田清. ( ) 国立銀行の創設. (1. の確立あるいは発券銀行の設立が強く求められるように. 107. 6.

(26) (. た。吉田は語学力やアメリカの銀行・保険会社での勤務経. で主として外交畑で活躍し、最終的には枢密顧問官を務め. 制度の整備に奔走していた。一方、吉田は薩摩出身の官僚. 治の元勲の一人であり、当時は大蔵官僚として貨幣・金融. うち伊藤は長州出身の政治家で、初代総理大臣を務めた明. 成との間で激しい論争があったことが知られている。この. 本位貨幣で払い込んだ資本金四〇%を兌換準備として銀行. 国立銀行は、資本金の六〇%を太政官札などの政府紙幣 で政府に納入し、その見返りに同額の銀行券の下付を受け、. 業開始に至る前に解散の憂き目にあったからである。. 立される予定にあったが、第一回の株主総会が紛糾し、営. 替商であった鴻池善右衛門などからの出資をえて大阪に設. 立銀行は存在しない。第三国立銀行は、江戸時代の大手両. (. 験を買われて四 (一八七一)年二月に大蔵省に出仕した。. もあって、初期の国立銀行券はアメリカの印刷会社に委託. 券を発行した。国立銀行が発行した銀行券は政府から下付. たのはイギリス流の正金銀行であった。. 色彩などはアメリカのナショナル・バンク紙幣に酷似して. この明治四年の銀行論争と呼ばれる論争については同年一. 国立銀行という名称は、第一国立銀行の初代頭取となっ た 渋 沢 栄 一 に よ り ナ シ ョ ナ ル・ バ ン ク (連邦法に準拠して. おり、両者を見紛う人も多い。. されたという事情から、発行銀行の如何にかかわらず、そ. 設立された銀行)の訳語として作られたが、国立銀行は政. 国立銀行券は当初、順調に流通していたが、明治七 (一. 一月、大蔵大輔の職にあった井上馨が断を下し、伊藤が提. 府とは資本関係のない、純然たる民間の銀行であった。最. 八七四)年七月以降、流通高は急減し、九年六月にはほと. の形式は同一であり、発行銀行名のみが異なっていた。当. 初に設立された国立銀行は第一国立銀行、第二国立銀行、. んど流通界から姿を消した。国際的な金銀比価が国内で正. 案したアメリカ流の国法銀行制度を範とした国立銀行制度. 第四国立銀行および第五国立銀行の四行からなり、このう. 貨発行に際して設定された比価を大きく上回るなか、金価. 時の日本は西洋式の紙幣を印刷する技術を欠いていたこと. ち第二国立銀行は横浜為替会社からの転業であった。この. 格の高騰が国立銀行券の金兌換を促したからである。例え. (. (. して製造された。このため、国立銀行券の規格、デザイン、. ように国立銀行には内認可順に番号が付されたが、第三国. がわが国に導入されることになった。なお、吉田が提案し. (1. (1. 108.

参照

関連したドキュメント

[r]

(野中郁次郎・遠山亮子両氏との共著,東洋経済新報社,2010)である。本論

チ   モ   一   ル 三並 三六・七% 一〇丹ゑヅ蹄合殉一︑=一九一︑三二四入五・二%三五 パ ラ ジ ト 一  〃

︵原著三三験︶ 第ニや一懸  第九號  三一六

経済学の祖アダム ・ スミス (一七二三〜一七九〇年) の学問体系は、 人間の本質 (良心 ・ 幸福 ・ 倫理など)

人の生涯を助ける。だからすべてこれを「貨物」という。また貨幣というのは、三種類の銭があ

目について︑一九九四年︱二月二 0

[r]