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<論文>学習する組織におけるユーモア性質 利用統計を見る

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著者

斎藤 弘行

著者別名

Saito Hiroyuki

雑誌名

経営論集

51

ページ

217-235

発行年

2000-03-15

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00005575/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

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学習する組織におけるユーモア性質

斎 藤 弘 行 ・はじめに ・組織学習の基礎的知識 ・組織化と学習について ・学習する組織促進としてのユーモア ・経営組織における応用としてのユーモア ・おわりに はじめに  経営組織論において組織学習もしくは学習する組織という用語が使用されている。これについて の陳述は多く存在しているが、学習とユーモア(もしくはジョーク)との結びつきを述べるものは 少ない。ましてや、経営学、とくにわが国の経営学ではユーモアがテーマになるとは考えられない ように見える。こうした事情のなかで、ユーモアを再びとりあげることになるが、組織学習との関 係のなかでとりあげられることになる。その際に、ユーモア(ないしはジョーク、エスプリ、笑い など)の本質には深入りしないで説明が進行する。我々の目的は当面、ユーモアがどのようにして、 また何故に経営事象と結びつけられることができるかについての経緯をいくらかでも知ることであ るためである。だからといって、その目的が果たされないであろうが、少なくとも、経営学ないし は経営組織論において、ユーモアが課題にされてもよいという認識がつくられれば十分だと我々は 考えている。  さらにユーモアを扱うときに組織そのものの理解のしかたが再び提出されねばならないし、ユー モアは偏に文化的事象であることも改めて考える必要に迫まられているのに気づいている。逆に組 織文化(および企業文化)を扱うと必然的にユーモアの方へと考えが拡大されるから、突如として ユーモアが我々の題材として出現したのでないこともわかる。また組織学習における学習が一種の 語法の矛盾(オキシモーロン)を含んでいることも話題になるけれど、その克服のための方策とし てユーモアがあげられるようになるといった説明方法もとられるであろう。  このような背景のもとに経営組織論においてユーモアの取扱いの正当性をやや強引ではあるが主 張しようとするのがこの小稿の狙いである。

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組織学習の基礎的知識  組織学習(もしくは学習する組織)そのもの本格的討議を避けて、極く基本的な知識を獲得する ことから始める。そのことはさらに組織の意味の把握にも役立つと我々は予測するからである。ど うした説明が基本的なのかはっきりしないが、組織論のテキストからランダムにいくつか示す試み をする。  用語上の事柄として、(a)組織学習という用語と、学習する組織という用語があって、その区別 がはっきりしないことをあげる。これはどちらの定義をとるかという事柄ではなくて、学習という 言葉をからませて使用するときに、どちらの用語が好まれるかという点に注目しようということに なる(もちろんそのためには用語使用の傾向を調べる必要がでてくるが)。(b)単に学習という独立 した用語使用は、個人の行動の説明のために用いられることが多く、それは心理学や社会心理学に おける説明内容と同じか、というよりもそうした学問領域からの知識に基づいているとみられる。 (c)学習という用語を採用しなくても、知識にもとづく組織(または知識組織)という使用方法も ある。  上記の3点についていちいち解答を出すことはしないが、こうした問題点を背景にして組織学習 と学習する組織を並列的に単純にとりあげて、すべてを含む概念としておく。従って組織学習と いったり、学習する組織といったりすることになる。1)  今日の新しい組織を表示するものとして学習する組織がよく用いられるのでそのことから出発す る。2)組織をより能率的にしようとする試みはW.テイラーのときからあったということ、なかんず く学習結果を多くの作業者に移転できるものにしようとするのが大きな目的であったのは誰も異論 を唱えないであろう。そうした意味では既にほぼ100年前に組織は学習する組織であったことにな る。  ところが今日用いられる学習する組織の意味づけはアージリスとその仲間の研究をもとにしてい ると指摘される。3) それは(a)シングルループ学習と(b)ダブルループ学習の区別であり、後者が学 習する組織のもとをなすとする。  (a)においては、既によくわかっている目標を達成するために組織の能力を向上することである。 日常的に学習し、行動のしかたを学習することである。組織の基本的な前提条件を大きく変えるこ となしに学習がなされる(ということは組織が単に学習するという意味)。  (b)において、組織目標の本質とそれに関する価値や信念(もしくは考え方)を再検討すること である。それは組織(=企業)文化の変化を含むとする。学習のしかたを組織が学習するというよ うに説明される。  通常の生活ではシングルループで十分のことが多い。子供がものを習うこともそうだし、組織に

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おけるメンバーが単純に、かつ単純な職務を果すとすれば、シングルループ学習をしてさえいれば よいということになる。例えば、適応、習慣形成、それを低下させること、反応的学習、進化的学 習、開拓と利用などといった学習行為が代表的である。しかしさらにこを超えた生活事情も想像さ れるが、それがダブルループ学習を要求するとみられる。これは、例えば発見、探検、順向的学習、 革命的学習といった種類の学習行為が特色とされる。4)  学習する組織における学習の区別を適応的学習と生成的学習にするものもある。前者は比較的単 純な学習とされ、学習する組織の第1段階とみなされている。例えば環境変化への適応といったこ とがあげられる。企業はしかし現実にはそう簡単に適応できないのであって、文化の違い、基礎的 な前提(文化と同じとみることもできるが)、組織構造が障害になっていることに気づきはじめて いる。後者は創造と革新を含む、そして単なる適応を超えようとすることである。このプロセスは 組織の経験の全体的な枠組再構成と、そのプロセスから学習することである。そして学習する組織 の本質はもちろん後者のなかにある。「それは人々がたゆみなく能力を伸ばし、心から望む結果を 実現しうる組織、革新的で発展的な思考パターンが育まれる組織、共通の目標に向かって自由には ばたく組織、共同して学ぶ方法をたえず学びつづける組織である」という。5)  学習する組織をつくるに必要な5つの要素があげられている。6)それについて少しばかり触れて みる。  (1) システム思考:これは全体のパターンをはっきりさせて、有効にするための考え方の枠組と みなされる。ビジネスおよび人間のあらゆる営みもシステムとみなされる。  (2) 自己マスタリー:「個人の視野を明瞭にし、深めていくこと、エネルギーを集中し、忍耐力 を養い、現実を客観的にとられる」こととして説明されている。  (3) メンタル・モデルの克服:メンタルモデルは一種の既成概念のことである。例えばある名詞 について人々がもつ意味や考えは異なっていて、それぞれの人に固有なイメージとして固定してい ることが多く、それにより人々の行動が規定されるようになっている。そうしたイメージはよりよ く自己の内心を見つめて、それを堀り起さないと自分もよくわからない。そのことにより自己の思 考と行動の変化を起させるきっかけをつかむようにする。  (4) 共有ビジョンの構成:ビジョンは、「組織(=企業)およびそのプロセス並びに手続につい て、こうあって欲しいという未来像のことであり、ある特定の時間内で、現在のことと、期待され ている未来のこととをまとめ上げる役目をするもの」7)というように決めるとして、そのビジョン が経営者個人のもとにあるだけでなく、組織におけるすべての人々に浸透していることである。共 通のビジョンは心からの参加と献身をつくり出すようにする内容のあるものだというが、果たして そういうのがあるかどうかはっきりしない。しかし、現実に成功している企業は共有したビジョン

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があるといった説明のしかたをしている。従って個別の具体的な企業を見るよりほかに仕様がない ということになるかもしれない。  (5) チーム学習:わざわざチームという言葉が用いられるけれど、集団が共通の目標をもつとか、 メンバーが身近にいるといったような関係をしていてまとまっている、2人以上の人間の集まりで あるというように解することができる。チームは、それぞれのメンバーが最適の成功および目標達 成を経験したいとすれば、その人たちは集団的な協力に頼らなくてはならないのであり、このよう な人たちの集合したものである。8)そこにおける成功と目標実現を願望するとした局面がチームの 本質をより示す。チーム学習は対話ではじまるが、意味が集団のなかを自由に流れることだとして る。現代の組織の基本はチームだとする考えがある。  学習する組織の土台をなす考えはシステム思考にあるといわれるが、そこまで我々はさかのぼっ て考えていない。そのような考えは学習する組織それ自体の説明をする過程で次第に感知できるこ とである。すると、組織行動といっても個々の人を対象としてみるときに適応的に学習する組織と、 生成的に学習する組織との対比のなかで、我々は学習する組織を考える方向をとる。前者の組織は、 日常的、標準的反応をもつて環境変化に個々の従業員が反応し、その結果、ただ短期的解決だけを 生み出すことになるとする。反対に、後者の組織は継続的な実験作業とフィードバックをして、従 業員が問題設定と解決をする方法に直接に影響する。従業員は自己の意思決定の効果を検討し、必 要とされる行動変化をする方法を学習するようになっている。どのような企業がどちらの種類の組 織であるかは実際にあらゆる組織にあたってみないことには明言できない。  また学習する組織が人間指向的な文化的価値 によって特色づけられる点にも言及されている。9) (a)組織におけるあらゆる人は有用なアイデアの資源であり、そういう人は、価値あるとみられる 情報が手に入るようにしてやらねばならない。(b)問題に最も近くにいる人はその解決に関する最 もよい考えをもつのが普通であるから、組織構造のなかにエンパワメントが促進されねばならない。 (c)学習はヒエラルヒーを上下するものであるから、従業員もマネジャーもそこから得することが できる。(d)新しい考えが重要であって、それにたいする報酬がなされるべきである。(e)誤りは学 習の機会とみなされるべきである。こうした5つの点は組織が規則化もしくは制度化されるとすぐ に実現するのではなくて、組織文化の形成に依るところが大きく、特に(e)については組織の文化 的視点をはっきり見せるものとしてよくとりあげられるのを我々は知っている。  およそ学習という考えを組織理解のなかに入れるとこれまでの組織理解の代表的なものとしての、 社会および社会技術的システムという組織概念と結びつけられるという指摘にも我々は関心をもつ。 それは単なる心理学的組織理解や、組織サイバネティクスといった見地から我々をそらせるもので ある。それでは学習とは(とくに経営組織においてと限定しなくてもよいが)どのように理解され

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たらよいのだろうか。それは広狭の2つの学習があることを我々に気づかせる。以下においてこれ について若干触れる。10)  広義における学習は(企業の組織においては)ひとつのシステムの改革もしくは目標設定の再評 価として行われる。さらに学習は組織一成員の構成における量的および質的修正をひき起すとされ る。そうした広く解された学習はしかしまた、環境関係、つまりシステムのオープン性質、動態性、 資源などをこれまでとは異なった評価づけをすることの中に表現される。これに対して狭義での学 習は、問題解決行為における修正にだけに関係する。情報の入手および利用の変更がなされたり、 現実の姿を描写するに当って修正をほどこしたりする。組織は学習を通して自己のために内外の情 況にかんする適切な姿を手に入れることができる。  従って学習は単に何かを獲得したり、知ったりするということではなくて、組織論においては、 「行為の能率条件づけられた変更」として理解されることになる。それはただ学習が行われ、その ことで何らかの結果が出なければ学習ではないことを示唆する。企業運営においては活動プロセス の効率が向上してはじめて学習したのである。その上に、学習は組織が学習する能力を備えていな ければならないことも含めて考えるべきである。このことは、創造的な企業はいかにしてできるか という質問のなかで、革新指向、学習能力およびテクノロジー利用のなかの1つとして学習があげ られている事実に示される。「企業の創造性の維持および促進のために必要な風土は学習能力のあ る組織にある。動態性は学習指向的組織構造と組織過程の形成により維持されることができる」と いう。11)しかしこのような説明に入っていくと、組織が予め学習能力をもたないなら学習ができな いということになり、組織の性質を事前にそのように規定してしまうことはよいのかどうかはっき りしない。学習は、学習能力があって可能なことはわかっているが、その能力は学習によって獲得 できるのかどうかという議論に移って行き、我々の課題範囲を超えることなので、ここではそこま で言及しない。 組織化と学習について  学習についての若干の知識を手に入れたとしても、我々は直ちにユーモア性質の登場に移ること はできない。その前に組織化と学習は基本的には正反対のプロセスであり、組織学習というフレー ズはオキシモーロンだという説明を中心にしたことを題材にしなければならない。12)  組織および組織化という用語はマネジメント論においてはマネジメント機能およびプロセスを示 すものともなされていて、それ以外のことは含まれていないものとされていた。組織(化)を他の 機能表示用語(例えば計画化、指揮指導、統制)と共に用いるならば特にその使用について異論の さしはさむ余地はない。13)ところが組織(化)を単独にとると、その用語使用を超えた何ものかが

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含まれるという指摘に出合う。実は、「組織することは多様性を忘れ去り、そしてそれを低下させ ることである」が「学習することは多様性を破壊しかつ増加させること」だというのである。従っ て、学習する組織や組織学習はオキシモーロンであるというようになってしまう。  この相違を知らないと学習する組織の理解が正しくできないという指摘は、学習と組織の理解を 上記のようにすればもっともなことである。ただここで我々は組織の本質について十分な知識を もっていないので(学習について先に若干の知識を手に入れたとしても)そのままいま受入れるこ とはできない。英語圏のビジネスオーガニゼーションのテキストを見る限りで、確かに組織および 組織行動についての叙述が組織の統一性と有効性をもたらすような方向ずけにあることは否定でき ない。ただそのことが多様性(バライエテイ)をできるだけ少なくすることが組織の本質なのかど うか、我々は判断できない。まして我々はここで組織の本質論を行うつもりはない。  組織はできるだけ非能率や非合理性を排除するためにあるのはひとつの真理であって、そうした 立場にあれば多様性を無視して、物事がすっきりした型になることを求めるとしてもよいかもしれ ない。14)我々の乏しい知識範囲のなかで、組織がバライエテイの減少を狙うとした考えは他に見ら れない。そしてこのことが我々の方向づけを左右するほど重大なことなのかどうかもよくわからな い。ただ類似の考えとしては、「パラダイムとしての組織」がある。その場合、パラダイムとは、 原因結果関係と実践並びに行動の標準についての考え方を含めて、組織がどのようにして事を為す かについて組立てるテクノロジーのことだとする。このパラダイムの使い方はクーンのそれとほぼ 同じであり、その意味が組織理解に用いられたと思われる。そしてパラダイムの共有をうながすも のは、公式的組織のなかで生じることなのだと主張される。管理とかマネジメントという決定的に 重要な仕事は組織のパラダイムを明確に示すことなのだという。15)  組織とマネジメントという言葉の区別をかなり曖昧にしてしまえば、我々はマネジメントそれ自 体の意味を問うことに、この課題が展開するものと考えられる。その場合に古典的原理にたいする 評価およびそれに対する新しい考えの提出もしくは存在問題がテーマになるように思われる。もち ろん我々はそのことを扱うのでなくて、組織の含む統一化並びに多様性低減化の傾向がマネジメン トおよびマネジメント論の本質を問題とするようになるのだと指摘しておきたいだけである。古い かたちの組織観(もしくはマネジメント観とみてみい)にたいする批判と評価のコメントは盡きる ことはないが、それについての討議を並べるのでなく、マネジメント原理討議における主たる源泉 を示すにとどめる。16)第1のことは定義に関することである。原理(または原則)という言葉はど のように理解されるかということである。普遍的な科学的法則のことなのかそれとも一般的な経験 に基づく法則のことなのかということが問題となっている。第2に、どんなことが経験的に存在す る問題かということがあげられる。マネジメントの原理は現実に存在するのかどうかにかかわりな

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く存在しているのかまたは存在することができるのかという質問が代表的である。第3は妥当性な いしは有効性の問題である。どんな基準に基づいて原理は真実であると主張されるのかといった質 問があげられる。いうまでもなくこの3つの質問は別々に出されるのではない。第1の質問につい て賛成でないとすれば、第2と第3についても賛成しないことになる。当然ながら、現実にはその ようにはならない。このような順序で質問して賛成反対を得るのでなくて、こうした問題を同時に 考えようとするのがよい。このようにして我々はマネジメントと組織の統一化性質を再考すべき余 地を残しているのだということを認識するきっかけをもつに至ったのである。  我々の陳述はかなり主題からそれてしまった。我々の課題は組織の多様性低減化と学習の破壊性 並びに多様性増加化のことである。そして次に学習について言及する余地がある。組織における合 理的選択という前提に代るものとして学習の考え方が出ているとするのが学習の存在理由である。 経験的に組織行動や組織プロセスの知識を獲得する努力があって、それは人間の合理的行為者の前 提に反する事実をもとにしている。この事実によると、一方で厳格な理論を形成しようとする要請 があり、これは合理性前提にもとづくものである。他方でこの前提を否定する経験的作業があると いう事実も確かにあり、このことは特にこれまでとは異なる。それに代る理論形成を積極的に進め るものではない。それ故に学習を課題とすることは一種の知的な精神分裂を発生させていることに なる。だが、それは組織の現実をはっきりさせる現象であり、学習が組織を壊すという物理的事象 をいうのではない。  むしろこのような分裂状態を示す言葉としての学習する組織というオキシモーロンがより大きな テーマを我々に与えていることを知るべきである。それは文化と制度化というテーマへと我々をい ざなうのである。もちろん我々はそこまでは行かないが、実は学習と組織(=合理的選択)には親 近性があることを知るチャンスが与えられていることを確認したいのである。だが今は我々は学習 する組織が文化的サブシステムにおいての学習を特色とすることにおいて、この親近性を知ろうと する。秩序と混乱はいわば社会的空間として認識されていて、こういうところにこそ文化的次元が はっきり現れているのである。学習はそういう場(?)において可能であり、そうでなければ学習 など不必要なのである。秩序と混乱が並列および並置されるということは、何かのきっかけを生み 出すのである。17)そのひとつがユーモア、ジョーク、笑いといったものであり、そこに組織文化へ の接近がなされることになる。 学習する組織促進としてのユーモア  学習する組織の意味とその存在が確認された後に、そうした組織が何らかの変化のモメントを求 めていること、そのこと自体が学習であることがわかってくる。さらに学習はすべてを混乱におと

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し入れたり、崩壊させたりすることでもないし、混雑になることでもないことを我々は知った。学 習と組織の結合は正にオキシモーロンであるが、それで我々の理解できる意味を含んでいる。既に そういう点に触れることは組織文化の次元に我々が入っていることも含められる。  我々の生活が秩序と混乱、多様性減少性と多様性増大化の局面を同列的に有することは経験の教 えるところであるが、学習が後者に関連することは前に何度も語られた。そこでこの多様性増大化 もしくは(混乱とまで言わないまでも)変化、創造、改革を生み出すきっかけを与えるのがユーモ アであることが指摘されていて、それについて語るのが課題となる。学習を促すものの本質はどこ にあるかを問うことであり、それがユーモアであり、ジョークであるというのである。18)  そこで先ずひとつのエピソードを引用することから出発する。それはパワーと記憶の間の関係を 示すものである。すなわち、ある大国の民衆抑圧行動がなされ、そこで多数の犠牲者が発生した事 件があったとする。そこでは政府(独裁者)側と民衆の側とどちらが正当かは問われないとしても、 世界の世論においては政府側のとった手段について、また民衆側の主義・主張について支持される (例えば民主化を求める民衆側の主張)といった事情があるとする(ということは現実にいくつか の国であったことだが特定しない)。政府側はそういう犠牲者はなかったと主張し続けていて、や がてある年月が経過する。するといつの間にかその事件について人々が口にしなくなる。これが 「社会的に組織化された忘却」が形成されたことを示す。そうした出来事は次第に増大して行く傾 向にある。それはあたかも、世の中の事象の書き換えがなされているようなものである。というこ とは社会の変化を求めようとすれば、そうした方策ないしは手続きが好都合だということを暗示す る。19)  パワーの側にあるものは自己の行ったこと、自己の犯した罰あるいは悪事を否定し続けるのがよ いということになり、その行為についての評価は正しいか違りかについてを離れて、その行為自体 が忘れ去られるのを待つのがよいということを我々は知る。これはパワーと記憶の関係の内容で あって、殊に絶対的権力は、そのようにして、(大衆の側が)何事かを学習するのを阻止してしまう のである。具体的には厳しいタブー、専制政治、おべっか使い、インプレッションマネジメント、20) 傲慢と結合した手段をとり入れることであろう。  このようなエピソードが我々の経営組織における行動にどのようにあてはまるかは容易に想像が つく。組織の場において上下関係は必ず存在することを前提にすれば、多かれ少なかれそこにはパ ワーが発生するし、それがなければ組織が存在しえない。こうした事情のなかでパワーの側は自己 に有利になるような行為をとると共に、組織的忘却に努力する。それは悪くすると、組織にとって 不都合なことを永遠にしまいこんでしまうことになり、将来そのことが原因で組織のためにならな いようになっても、もはや手後れとなるかもしれない。そのような事象が起らないようにするのが

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何かという質問に応じようとするのが、ユーモアである。つまり「組織の忘却性質にたいする闘 争」において、ユーモアが貴重な用具だということになる。  組織が本質的に、殊に組織中枢においてパワー維持に努力し、多様性、変化性、およびその他類 似の変化・変更次元の事象を遅けようとすることは前に触れたがそれが何故にそうなのかの追究は なかった。ここでもその問題には立入らないで、ユーモアがそのようなパワー維持に立ち向うこと、 例えば上例の充却努力に歯止めをかけることといったことについて語ることへと方向づけをとる。 そのことはユーモアが学習を準備しかつ与えてくれるものだということになる。もちろんここでは 我々は学習する組織という意味での学習を想定しているのであって、単なる学習=変化と破壊と いった図式ではなく、学習と組織(化)の並列的存在というオキシモーロンを支持することは前に 語られた通りである。そのことを促進させるのがユーモアである。「ユーモアは行為と熟考( リ フ レクション)、感情と合理性、秩序と混乱の並列を準備し、学習として認識されるエネルギーの解 放というかたちのなかで、行為と同調するものとする」とみるのである。  このあたりになって我々はようやくユーモアの用語の使用を始めたことになる。それが「制度化 された実践活動にかける非礼な光沢」をもっているからこそ、学習する組織のなかで目立つのであ る。我々はそこで若干、ユーモアとそれに関する言葉の意味を手に入れておかねばならない。  エスカルピによると、21)ユーモアは歴史的にきちんとした定義がなされていないこと、例えば 「大英百科辞典」の初版本(1771年)においても、「流体」と「機知」を見るようにという指示が なされているいきさつを語っている。もちろん誰もが定義しなかったというのではなくて、この言 葉が定義し難いことを示すひとつの例としてみてよいであろう。さらにこの言葉の本質を探ろうと すれば、英語圏やフランス語圏における事情を歴史的に、さらに文学的および美学的に知らなけれ ば不可能であることを我々は知る。ユーモアの理解のためにウイットを引用して、それとの関係で ユーモアを知ろうとする手順も用いられている。そこで「真のユーモアとは、相手を当惑させるよ うな議論、つまり悪意を拒否する1つの機知の形式なのである。こういう好意が、ユーモアの実体 の特徴であるかどうかは、議論の余地がある。が、その好意が、この言葉のイギリスでの用法に結 びついていることは否定できないのである。しかし、感情的もしくは道徳的色彩のない、純粋に知 的なものであるウイットにかんしては、ユーモアとは事情が異なるのである」と我々は引用する。22) この引用文はユーモアが「ウイット」と「快活」の息子であることを背景にしている。どのように 見ようとも、ウイットが16世紀中頃から17世紀中頃にかけてヨーロッパに出現した知的もしくは実 現的な探求の精神をイギリス風に表現したものであるとする指摘をもとにする。そして最後に次の ような文章の引用をもってユーモアの理解とする。「機知(ウイット)はユーモアの父親であって、 ユーモアとは機知プラス何かであるということを心に留めておこう」と。23)

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 ユーモアを知るには文学や美学の知識がなくてはならない点につき前に触れた。またそれぞれの 文化圏において異なって解釈されることについても言及した。特にイギリス文学、フランス文学、 ドイツにおける美学などの知識がないことには何も語れないこともわかってくる。わが国において も英文学の知識のある人たちがユーモアについて語っているものが紹介されている。またイギリス のユーモア、フランスのエスプリ(機知)といった視点で説明することもある。24)これらをいちい ちあげるのは我々の役目ではなく、学習する組織との関連がありそうな部分を探し出すことが必要 のように思われる。  主として我々が土台とするユーモアはイングリッユ・ユーモアである。それはユーモアがイギリ スを原産地であり、それが世界中に広まったという説明を聞くためである。イギリス人のユーモア 感覚の構成要素を示す試みがあるが、(1)親切、(2)感傷性と哀感、(3)常識と伝統の共通の基盤、 (4)空想力、(5)人間的価値のゆがみに対する特別の敏感さ、(6)妥協と和解の愛好、(7)子供っぽさ、 (8)自己防禦、(9)知的努力の節約、(10)知的、精神的気楽さを願うこと、愉快な気持ちを願うこと とされている。25)  これら構成要素のいくつかについてコメントがなされているがそれを紹介する。(a)子供っぽさ のなかに、あどけなさが含まれる。大人の立場から突然に子供の立場に移るようなシチュエーショ ンに人は偶然かもしくは故意にか置かれることがあるが、そのとき笑いが起り、悦びが発生する。 社会はある意味では大人向きに構成されているから、これを回避したがる傾向のなかに示される。  (b)自己防御について、人は何か自分のとつて無知(未知)なもの、こわいもの、誰かに笑われ るのではないかと恐れること、他人のほうが勝れていることに対する苦痛にたいしユーモアのなか に逃げこむか、ユーモアによりまぎらはせるかする。しかしそうした事象のなかに含まれる重大な 事柄が無視されたり、気づかれなかったりして、不利な立場に立たされる危険もないことはない。  (c)知的努力の節約は知的怠惰だとされている(が我々はそのようには考えていない)。その内容 は、頭を使うことに悦びを見出さないで、いつもそうした努力を惜しもうとすることにあるとする。 そこにユーモアの姿があるとみてよいので、悦びの努力をしていたのでは人はたまらないであろう。 従って怠惰というといくらかの誤解を生じるかもしれない。知的な努力はこうしてプレーになって いて、このなかにユーモア感覚があると思われる。なかんずく、理解のために(多かれ少なかれ) 知的努力をしなければならないこと、またはその事情が生じるとして、そうしたものを取るに足り ないものとしてしまうことも一種の怠惰なのである。加えて言えば、ある難しいことに直面したと きに、それを笑いの種にしてしまうことも怠惰と言えないこともない。新しいもの(革新的なこと も含めて)、実証から離れた観念的に出合うときに、それを跳ね返そうとすることもユーモアの特 色ということができる。さらにこれが増幅されると、ナンセンスを好むといった現象が生じる。そ

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れは秩序だった考えが権威となってのしかかってくることに反撥するものである。26)  そこで上記のユーモアの解明のまとめとして次のように引用することができる。「……ユーモア 感覚はきわめて活動的な知性のしるしではないかもしれないが、最も気持のよい性質の指標である ことは確かである。それはどちらかといえば子供っぽい、自己防禦的な、怠惰な性質のものかもし れないが、確かに情けぶかい、融和的な、親切なものである。それは常に必ずしもきわめて明確に 理解されるとは限らない策略や詭計に訴えるかもしれないが神経のバランスを確保するジャイロス コープを人々に供給するものである……」と。27) 経営組織における応用としてのユーモア  ユーモアが学習する組織における主役となりうることについて前項の説明から知ることができる が、我々はさらに、組織における事情を考慮に加えることにより、組織とユーモア(つまり組織と 多様性の拡大もしくは混乱化)について語ることにする。それは学習と組織の組合わせがオキシ モーロンであることの具体的例示をすることであり、学習にはユーモアが必要であることを改めて 強調することでもある。28)  学習が組織のいわば反対概念的性質を含むことに触れたが、それを可能にしているのがユーモア であることも同時に我々は知った。そのときユーモアはアナーキー、混沌などの意味を含んでいる とする指摘もある。明らかに、学習するにつれて前の知識は古くなり、それまで整然としていたも のが通用しなくなったり、壊われたりするのである。そのときユーモアの活動する余地がある。 ユーモアは混乱や乱雑さをつくるとしても、これまで何といってよいか表現しえなかったものに名 称をつけてやる。しかし同時に常識とナンセンスの垣根を失くし、きちんとした思考システムの混 乱を創り出す。ということは既にその場合ユーモアの何らかの創造性が含まれることを暗に含んで いる。ユーモアはそのとき、芸術と狂気の組合わさったものとして認識されているとみる人もある。 この場合の混乱とか狂気、ナンセンスは決して不必要ではなく、さらにその先にある新しきものの 創立のための準備であるということができる。  この関係をみると、先ずあるユーモアを発する(ジョークをとばす)のが第1次元で、その情報 内容は表面に出ているが、別の内容も様々なかたちで存在していて、それは背景の中に暗に含めら れている。そのジョークのポイントへと達するときに、突然この背景となっている材料が注目され るようになり、パラドクスが発射される。そこで矛盾する考え方の回路が完結することになる。 従って、この完成した回路は、図がら地づら関係29)の解消と再構築と同じであって、ユーモアの使 用とはそういうことなのである。それ故にユーモアは自分であるものを、つまりこれまであったも のを破って、新しいものを創り出すことも同時に含んでいるのであるが、それが同一の地盤でなさ

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れるのである。30)ただユーモアは創造における、発見もしくは芸術(美)とは異なり、ユーモアは 無意識なものが発現されるのが抑えられている状態およびその発現の許可が出されている状態のこ とである。従って正確にはユーモアは創造といっても建設と破壊の関係だけを言うのではないし、 意識と無意識のどっちつかずの状態というのでもないし、さらにそれがすっかり混り合っていると いうのでもない。ということは並列もしくは配列があるとしかいいようがないことを意味する。  組織は学習がなければいつまでもそのままの状態にとどまっていて何事もなかったかのような様 相を保っているに違いない。しかし組織は規則性への方向と、過去の事実の忘却傾向とを持つよう になることも先に触れたが、それを克服しようとするのが無意識的にせよ学習である。そこで学習 する組織とは、「継続的に学習し、組織そのものを変革していく組織である」31) とすれば、これを促 進するもの、もしくは学習のモメントとしてのユーモアがあるとみることができる。そしてこれま でのユーモアの説明が学習のモメントになっていることを証明しているのである。例えばおよそナ ンセンスの全く喪失した(もしくはナンセンスを全く排除し、整理された)組織を思い浮かべるだ けでぞっとするに違いない。また組織がそのとき、アナーキーの方向に向くとしても、それをつく り出すユーモアが悪いのではなくて、組織と学習の並列のバランスがよろしくないことがあると いったことに原因を求め、ユーモアの効用は、たとえアナーキーをつくるとしても、過度にはなら ないのだという認識をつくり出すことにある。それは学習を促進するのはユーモアばかりでなく、 他方で組織が正しい枠組をつくるのであり、ユーモアがうち壊した厳格性をとりもどして、より変 化した厳格性、正確性へともたらすことを含んでいるからである。そこに諄いようだが学習と組織 のオキシモーロンの支持される基盤を見ることができる。  ユーモア(やジョーク)がさらに心理的な組織変化作用を促すことについて、もうひとつの説明 を加えることにする。32) その場合ユーモアに代りジョークが用いられるが、我々は同じものとして みると、このことは「言葉もしくは思考を用いて精神的近道をすること」だという。やたらに言葉 を費し、考えをめぐらせて、長たらしい説明形式に陥ってしまわないようにするのがユーモアなの である。だが、そうした近道、あるいは簡略化は圧縮、統合、修正といった手段を採用する(この ことは最終的には変化のための前提のひとつであることには変りはないが)ことにより、意味の重 複化を創り出す。  そうした過程のなかでいまだ知られなかったものが浮上して来て、そのものの名前をつける操作 が加わってくる。またこれまで別々になっていたものを結びつける作用をするのがユーモアにおけ る作用である。そのことにより以前とは異なる新しいものが創られるというのである。そこに興味 あるたとえ話が示される。つまり「ジョークをすることは、あらゆるカップルを結婚させてしまう。 変装した牧師である」というのであり、「あるカップルが結びつくのを親類がどうもと顔をしかめ

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るのを結婚させるのが大好きな牧師」ともいう。こうしたユーモアの働きは、組織のなかの異物を 巧みに結びつけ、より新しいものを創り出す役目をすることにある。組織には相互に矛盾するファ クターが無数に存在し、それは力付くによって失くしていくのが従来のマネジメントのある方法 だったかもしれないが、そうした方法にたいして別の方式があることを教えるのがユーモアである。  ユーモアはまた一種の言葉の遊びかもしれないのであり、小さな子が言葉をきちんと使えない状 態にあるのと似ているとする説明方式もある。このことはあたかも我々がジョークやユーモアによ り退歩した状態に置かれたように思わせるが、そういうところにユーモアの源泉があることを知ら せるのである。子供はナンセンスを言っても不都合ではないとされる。文法を守らない言葉使いを してもどうということはない。そのことを大人は大目に見る。それだけを見るとユーモアは子供の 状態にあらゆることをもどしてしまうのだと即断しかねない。けれどもジョークに含まれるナンセ ンスは子供のそれとは違うのだということにも注意しなければならない。どのくらいのことが、ま た何がユーモアなのかは定義できないが、それぞれの人が置かれている、もしくは含められている 文化(状況)によって決ってくるものである。大人が子供の状態に入りこみ、しかもその言葉が許 されるのがユーモア性質なのであり、その認可は文化によって相違があるという意味である。従っ て職場において、人が子供っぽい言動をそのまま使用すればよいというものではない。組織におけ る成人のユーモアは、退歩といっても馬鹿げた言葉さえあればよいというのではない。それは無意 識的感じが意識的精神へと解き放されることをよしとする形式であり、例えば笑いが生じるときに 安堵と喜びの結びつきが形成されていなければユーモアとは言えない。子供が禁じられた行動が あっても罰せられずに逃げられるといった経験をするが、成人においてもそうしたことが認めさせ るのがユーモアである。  ユーモアが全く出鱈目の場において、また無秩序になされていないことも付け加えておかねばな らない。このことはユーモアがカオスのなかでの経験といったことと矛盾するが、少なくともユー モアが悪意や故意の謗りを免れるには何らかの形式があることを含める。つまりユーモア形式は秩 序をもってプレーし、その秩序を維持する。ユーモアが生じる場面を想像してみると、「はじめに ほんのしばらくの間、>厳格で、疲れを知らない、迷惑な女性家庭教師たる、理性<から逃避する が、しかこの楽しみを感じるために、彼女の継続した権威を認めなくてはならない」33)とする叙述 の中に知ることができる。組織のなかで、人は全く平等で上下関係のない場(そういうことは現実 にないが)にあるとすれば、多分ユーモアは生じないであろう。組織的理性、形式、権威といった ことが、その内容は異なるとしても、ユーモアを創り出す素地になっていて、しかも、そうした ルール(?)の中でなされているから残酷にならないのであり、怒りを和らげるのである。  上記に示したユーモアの意味が組織論的によりよく適用される基礎を与えるのが、社会学的およ

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び人類学的考察である。これまでの陳述と多少の重複があるかもしれないが、こうした背景のもと にユーモアを考えてみる。34)  あくまで文学上のことであるが、18世紀に入ってユーモアと、ユーモリストの言葉が広まり、そ こでは人が内在的に、その人に備っているユーモアと、人が生活的に創り出すユーモアがあるのだ という議論がなされたと伝えられる。我々の対象である組織論の領域ではどちらでもよいのだが、 後者の意味がよく用いられるようになったという。「ユーモアの人間は弱い滑稽な人間をうまく表 現できる人である。自分がその人物になりきることができるか、別の人間の中にそうした性質があ ると示す能力がある。その表現方法はほとんど抵抗なく受入れられるほど巧みであって、自己を含 めた対象たる人物の弱点ないしはおかしさをはっきり示すことができるほどになっている。これに たいしてユーモリストはその対象たる人物そのもののことであり、その人が創った特別な風変りな 特性をいつも見せるものと」される。35) こうして我々はユーモアが特にある国の人間 (イギリス 人)だけにあるということをしなくてもよいようになる(しかし、そうした議論はここでは特別に 対象としないで、他の次元で行うべきものと考える)。  文学的知識としてのユーモアを持つことがより以上に社会学的およびその他の領域における考察 のもとをなしていることを伝える。そしてこうした学問領域ではユーモアの本質よりも機能に注目 する。つまり人間間的関係のなかで(また個人内部の関係を含めて)、ユーモアがどのような役目 をしているかという側面を見る。すると、ユーモアが社会的識別を曖昧にしたり、そのことを支援 したり同時にやってしまうのだということができる。組織においてリーダーフォロワー関係は絶対 に存在し、それが社会的識別のひとつの例であるが、それにからむ種々な問題があることを我々は 経験的に知っている。そうした事情が好ましいかどうかは別にしてそのような関係に置かれている のだという意識を弱め、かつ消去してくれるのがユーモアであり、また、もしそうした意識が希薄 で、ぼんやり過すものがいるとすれば、その関係の存在があるのを明示するのもユーモアである。36)  ユーモアに関して、ジョーカーないし道化者の社会的役割についても語られる。この人物の社会 的役割がユーモアそのものかどうかはっきりしないが、少なくともある失敗的な行為を演じること により、人を笑わせて、そこに何らかの教訓(?)を残すことについては否定できない。道化師の 役目は媒介者であるといわれるが、その意味は人間の集団(ということは個人ではないというこ と)の無意識の中に抑えこまれ、忘れ去られていたものをみんなの前にさらす仲介役をすることで ある。そうしただけでは何の役にも立たないが、人はそれに気づくことにより、自己の意識の確認 がきちんとできて、社会をより前進させようとする気になってくる。もともと道化役は組織の中に きっちりと構成されているものを崩す機能をもち、それは組織に破滅やアナーキーをもたらす危険 を含む。しかし実際には大抵の場合、そうはならない。というのは道化役とユーモアを含める関係

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は(なかんずく組織において)儀礼形式により統治されるからである。またユーモアの創り出すア ナーキーはある一定時間に制限されることが多いからである(儀式がなされる期間を決めておく措 置を考えてみるとよい)。  ユーモアは重大事件にまき込まれたり、危機に瀕しているときに同一性の確認として作用する。 組織から離脱しなければならない状況に追いこまれたとしても、それが自己の破滅にそのまま通じ るということを感じないようにさせる機能をする。敵対関係にある人々がむしろ親密な関係をつく るようにさせるのもユーモアの効果である。それは敵意と連帯が並列されているしるしである。  組織事象はただひとつの次元からのみ観察されるのではなくて、また、事象そのものは複雑であ ることもわかりきっているから、そのことを知らせるのがユーモアである。言いかえると、現実は いまの組織における事実が現実ではないということ、忘れられた真実の存在、異常な情報などが あって、それを組織の行動のなかに、破壊作用をしないようにして組込ませるきかけを与えるのが ユーモアである。このことは、「ユーモアは、傲慢の敵である一方で、権威の友人でもある」とい うセンテンスのなかによく表わされている。  このことはユーモアが批判と矛盾の表出手段になっているのを教えているのにほかならない。組 織的愚行は正当かつ正式に認められた活動の相当物なのである。そうした愚行がユーモアとして表 現されることにより、正当性や形式性の絶対性がはっきりしてくると共に、それが学習のモメント となっていることになる。その際にユーモア役をつとめる、道化役がいること、またそうした役割 そのものが自然的に組織に発生するのが望ましい。というのはこういう役柄が命令ではなかなかで きないからである。  ユーモアはそれだけでは存在しないで、「ユーモリストにおける思想と表現、内容と形式、霊感 と手法、感情と語調、外部から与えられた印象とそのあいだの不適合、不均衡のなかに横たわって いる」というのは正しい。「あるのはユーモリストだけである」ということになる。37) そのときユー モアがどこであろうと効果があるのは、タイミング、共同性、同所共存、幸運と結びつくときであ る。このことは特に組織活動にとって重要である。というのは、ただ創造的(および破壊的)活動 というのではなくて、多人数の物理的反応、すなわち笑いを生み出すのであり、その効果は同時に 物理的で社会的である。多数の人が組織のなかでユーモアを共有することにこそユーモアの意味が ある。そういう意味でユーモアはジャズのようなものだと指摘されるがもっともなことである。38) 終りに  学習する組織もしくは組織学習という言葉が組織論のなかで用いられるとき、どのようなことが 理解されるかを考察したのがこの小稿である。その際には学習と組織はオキシモーロンであるが、

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そのことがかえって、学習する組織をすすめるきっかけを与えるものの探索をさせることになった。 伝統的な組織の理解から離れる言葉として学習は大そう便利であるが、その内容は一定していない。 我々はその学習と組織をむしろプラスの意味で結びつけることにより、従来の組織観から一歩外に 出ようとする。こうした組織形式を促進させるのが、その場合ユーモアということを発見した。  経営学においてはユーモア、ジョーク、笑いといった用語はタブーであるが、それをとり入れる 可能性を探ったこともひとつの意味があると思われる。ユーモアはユーモアの人間と結びつかなく ては、特に組織においては無意味である。さらに、そうした人間とは一体何かという問題もある。 そのためには経営学の文献をいくら探索してもわからない。そのあたりがユーモアを考察する難し さと楽しみがある。文学者の語るユーモアが大いに役立つことになる。「ヒューモアとは人格の根 底から生ずる可笑味であるという事になりはせぬかと思ふ。外の言葉で云うと、ヒューモアのある 人の行為は、他から見ると可笑しいが、当人自身では他から可笑しがられる訳がないと思っている。 彼は真面目である。無意識に可笑味を演じつつある。もう一つ言い直すと、可笑味が当人の天性、 持って生れた木地から出る。従って取って付けた様に見えない。行雲流水の如く自然である。」(夏 目漱石『文学評論』)というのが我々が支持するユーモアの解釈である。  しかしこうしたユーモア性が組織のなかでどのように発揮され、どのような効果を出すかについ ては説明不足である。どちらにして学習する組織というオキシモーロンにおいて、ユーモアは、弾 力性、調整、洞察を、秩序の喪失なしに(また秩序のなかで)機能するかまたはさせることがよい のであり、そうした機能をもっているのである。ユーモアは、秩序のなかの無秩序を形成するもの であり、またそのもの自体であるということができる。  (注) 1)組織学習と学習する組織は厳格には区別することもあるし、互換的に使用することもある。しかしこの区 別も当然しておかねばならない。学習する組織は、特別な特性をもち、あるいは、理想の組織を表すメタ フアーをともなう、システムズレベルの概念である。システムズレベルの意味は、企業および個々の従業 員から成立するとしても、それが結合した部分になるように構造化されている(例えば種々の機能的部門 が形成される)ということである。またそれぞれの部分の集合体もしくはシステムとして相互作用をして 共有した、確認可能な結果、つまり利益あるいはシステムの実施活動を示す指標などをつくり出すように なっている。こうしてみると、一方のレベルでは個々の従業員がいて、他方のレベルでは部門と機能があ るというように認識されている。第3のレベルではこれが全体として活動するとみることである。このよ うなシステム思考背景のもとで組織を考察するならば学習のような特性をみようとすれば部分の活動を通 してものを見るほかにはしかたがない。そこで学習する組織はシステム思考のもとでは、組織行動を変化 させることによって環境における変化に適応しまた経験の教訓に応じる能力をもつものと特色づけられる。 これに対して組織学習は、若干の分析レベルにおいてもしくは組織的変化プロセスの部分として生じるか

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もしれない、あるタイプの活動あるいはプロセスを表すために用いられる言葉である。このようにみると 組織学習はあらゆる組織において行われる何かである。他方で学習する組織は組織それ自体の特定のタイ プまたは形式である。この2つの概念は互換的に使用されないとしても並列的に使用される。というのは 組織学習はいくつかの分析レベル、つまり個人が学習する、チームが学習する、会社が学習することに適 用されるからである。上記について、DiBella, A.J./Nevis, E.C, How Organizations Learn, San Francisco, Jossey-Bass, 1998, pp.6-7.

2)Luthans, F., Organizational Behavior, New York, McGraw-Hill, 1995, pp.41-45の内容を示す。

3)これについて、1990年および1978年の文献があげられるが我々はそれについて参照していない。

4)Weick, K.E./Westley, F, Organizational Learning : Affirming an Oxymoron, in : Clegg, S.R./Hardy, C./Nord, W.R.Ceds.), Handbook of Organization Studies, London, Sage, 1996, p.445.

5)ピーター・M・センゲ『最強組織の法則』(守部信之訳)、徳間書店、1995年、9−10頁。 6)上掲書、14−21頁。

7)Cook, C.W./Hunsaker, P.L./Coffey, R.E., Management and Organizational Behavior, Chicago, et al., Irwin, 1997, p.43. 8)Gordon, J.R.et al., Organization and Management, Boston, Allyn and Bacon.1990, p.507 and p.522.

9)Luthans, op.cit., p.43.

10)Grochla, E.et al.(hrsgs.), Handwörterbuch der Organisation, Stuttgart, C.E.Poeschel, 1980, S.1216-1224.

また広狭の意味のほかに、学習は意思決定の領域において、代替案を修正して拡大するかもしくは制限す るかということ、これまでの選択過程の内容的および組織的変更、行動プログラムの新しい形式などのな かに示されるという。

11)Bullinger, H.-J., Management kreativer Unternehmen-Die Beherrschung von Strukturen und Prozessen lernender Organisation, in:Bullinger, H.-J.(hrsg.), Lernende Organisationen, Stuttgart, Schaffer Poeschell, 1996, S.18-28.besds., S.18.

12)以下については、Weick / Westley, op, cit., pp.440-441の内容を示す。

13)マネジメント・プロセスとして4つの機能を示すのが標準的方法である。これについて例えば、 Schermerhorn, J.R., Jr./Hunt, J.G./Osborn, R.N, Managing Organizational Behavior, New York et al., John Wiley & Sons, 1994, pp.19-20.

14)例えば Hall, R.H., Organizations : Structure and Process, Englewood Cliffs, Prentice-Hall, 1982, pp.32-33. 15)Pfeffer, J., Organizations and Organization Theory, London, Pitman, 1982, pp.226-253. ここでの意味におけるパラ

ダイムの形成は人々の相互コミュニケーションによる意味の共有化がもとをなしているようである。これ について次の指摘がある。 Sproull, L.S., Beliefs in Organizations, in Nystrom, P.C./Starbuck, W.H.(eds.), Handbook of Organizational Design, Vol.2, New York, Oxford University, 1981, pp.203-224.

16)Thomas, A.B., Controversies in Management, London / New York, Routledge, 1993, pp.180-181. 17)Weick / Westley, op.cit., pp.440-441.

18)ibid., pp.450-452.

19)ibid, p.451において、George Orwell の言葉が引用されている。「過去を支配するものも未来を支配する。現 在を支配するものは過去を支配する」と。

20)インプレッションマネジメントは幅広い組織現象のための説明モデルである。他人がある人についてもつ 印象を、その人が支配しようと試みる方法のことであり、この印象は行動、動機づけ、道徳性、能力や信

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頼性のような個人的特性、将来の潜在力のようなものについての印象を含む。また製品もしくは会社それ 自体のような個人以外の実体について他人がつくり上げている印象を、支配しようと試みるのもインプ レッションマネジメントである。その枠組は、社会的および組織的行動を叙述するために生活を劇場とし て、あるいは演劇論的メタフアーとして用いることである。人々は俳優であり、多くの役割を背負い、自 分の行為にたいする観客の反応に鋭く注意を払っている。こうして、ある俳優の行為は、それを見る観客 がもつイメージを自由に操り、かつ修正しようとする試みであり、また観客の道徳的、社会的および金銭 的支援を獲得しようとすることである……」これについて、 Nicholson, N.(ed.), Blckrwell Encyclopedic Dictionary of Organizational Behavior, Cambridge(Mass.), Blackwell, 1995, pp.225-227.さらに、「男性と女性とに かかわりなく、競争者のためには重要な戦術である。それはセルフプロモーションということができる」 と。これについて、Rudman, L.A., To Be or Not to Be(Self-Promoting), in : Kramer, R.M./Neale, M.A.(eds.), Power and Influence in Organizations, London, Sage, 1998, p.288.

21)ロベール・エスカルピ『ユーモア』(蜷川親善訳)、白水社、1982年、8頁。 22)前掲書、45−46頁。次のような説明は興味をひきおこす。「『真理』は家族の創始者であって、『良識』を 生んだ。『良識』は『ウイット』を生み、『ウイット』は『快活』という遠縁の婦人と結婚し、息子『ユー モア』が生まれたのである。そういうわけで『ユーモア』はこの有名な家族の最年少者である……」と。 23)前掲書、47頁。 24)河盛好蔵『エスプリとユーモア』岩波書店、1969年、2−39頁においてユーモアの種々な定義が引出され ている。それは、フエルナン・バルダンスペルジエの研究によるものだとしている。 25)前掲書、42および、62−63頁。 26)上記の3つの特色について、前掲書、71−74頁。 27)前掲書、76頁。

28)以下において、Weick / Westley, op, cit., pp.451-452の内容から多くのことをとる。

29)図がら地づらについて、例えば、Luthans, F., Organizational Behavior, New York, et al., McGraw-Hill, 1995, p.98. 30)この場合の創造とは、3つのスペクトルに配列されていて、そのうちのどれに当たるかを見る必要がある。 その3つとはユーモア、発見、芸術のことである。ユーモアは最終的には笑いになるような衝突もしくは くい違い、新しい知的体験になるような融合、美的体験に出会うことである。これについて Koestler (1964) の引用がなされているが、その内容については調べていない。 31)カレン・E・ワトキンス/ビクトリア・J・マーシック (神田良/岩崎尚人訳)『学習する組織をつく る』日本能率協会マネジメントセンター、1995年、32頁。

32)Weick / Westley, op.cit., p.451 ここではとくにフロイト(1905)の説明を引いているが、我々はその資料に ついては当っていない。

33)Weick / Westley, op.cit., p.452.

34)Weick / Westley, op.cit., p.452 の説明の主旨を示すのであるが、そこには、社会学的研究の成果があげられ ている。しかし我々はその原資料を手に入れることはできない。

35)エスカルピ、前掲書、42−43頁。

36)集団において個人が自我の不安を感じ、厳格な権限構造への服従を余儀なくされ、日常業務に自己を調整 しなければならないときのユーモア効果、またそういうときにユーモアが発現するということができる。

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これについて、Coser, R.L., Some Social Functions of Laughter, in : Human Relations, No.12.1959, pp.171-178. 37)河盛好蔵、前掲書、38頁

38)これについて、Weick / Westley, op, cit., p.452 は Douglas(1975)をあげているがその資料は未見である。 39)河盛好蔵、前掲書、2頁。

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