ばっくとぅざぱすと その二十二
近世のある女性旅行者の人生
―鎌掛共有文書から―(一)
今回は、約150 年前の近江を訪れた、ある女性旅行者をめぐる顛末についてお話しましょう。舞台と なるのは、近江国蒲生郡鎌掛村(現、滋賀県日野町鎌掛)という村です。鎌掛村は近江国内を通過す る街道のひとつである御代参街道の宿駅でした。この街道は、神崎郡小幡(現、東近江市五個荘小幡 町)で中山道と分岐したあと、土山宿(現、甲賀市土山町)で東海道と合流するのですが、伊勢神宮と 近江の多賀大社の間を短距離でつなぐ道として、かつては参詣者や巡礼が多く通行していました。 鎌掛村に伝わった古文書は、「鎌掛共有文書」として史料館に寄託されているのですが、そこには右 のような往来手形が含まれています。(以下、引用する史料中の文章は、すべて読み下し文に改めて います) 往来手形の事 大草太郎左衛門御代官所 駿河国益津郡城腰北新田村 吉郎兵衛(印) 娘 ゑん(印) 丑廿九歳 同人抱育 幼 ゑい(印) 丑四歳 右は、此もの共儀、多病にて、心願により御座候に、諸国神社・ 仏閣拝礼仕りたき段願いに付き、御届け済み、これに依り罷り 越し申し候の間、所々御禁所御教え遊ばされ成し下され候て、 差し支え御座無く候の様、御慈悲の段、御願い申し上げ奉り 候、自然病気に取り合い候か、あるいは変事等出来仕り候共、 其御所の御作法次第、御取り仕舞い成し下され候て、此方へ 御沙汰に及び申さず候、其のため往来一札、よってくだんの如し嘉永六丑年二月 右村 組頭 久七(印) 名主 利助(印) 国々 御役所 海陸渡船所 宿々村々 御役人衆中 往来手形とは、旅行者が旅先で身元を証明するとともに、この旅が領主の許可を得たものであるこ とを示すのに必要な、いわば近世における国内パスポートであって、地元の村役人や旦那寺を通じて 発行されました。たとえば関所を通行する時にも、旅行者はこの往来手形を改められました。また、旅 先で病気になったり、あるいは事故に遭遇するなどして、万が一死亡してしまった時にも、往来手形で 身元が判明する者については、現地できちんと埋葬などの手当てをしてもらえることになっていまし た。 この往来手形は、もともと駿河国益津郡城腰北新田村(現、静岡県焼津市北浜通)の吉郎兵衛の娘 である「ゑん」という名前の女性が携帯していたものでした。嘉永六年(1853)、彼女は四歳になる「ゑい」 という幼い女の子を連れて、諸国の神社・仏閣を参詣して回る旅に出たようです。(ゑいについては「抱 育」とありますが、この時のゑんの年齢からすれば、ゑんが夫と死別あるいは離別後に、自分で育てて いる娘という可能性があります)。往来手形の文面によれば、ゑんもゑいも多病なので、その回復を神 仏に祈願するために諸国の寺社をめぐる旅に出たとされていますが、あるいは一種の「厄介払い」のよ うなかっこうで、強制的に家から旅に出されたのかもしれません。 ところで、ある村に伝わる古文書の中に、他所の者が携帯していた往来手形が残されているという ことは、その者が同村まで行き着いた時点で、何らかの理由によって旅が終了したことを示しています。 旅が終わった理由としてまず考えられるのは、その者が同村で行き倒れ、死亡してしまったことです。 最初は私も、やはりゑんは鎌掛村で死亡したのではないか、と考えていました。しかし、鎌掛共有文書 を調査しなおしてみたところ、本当の理由が判明しました。実は、ゑんは確かに鎌掛村で病に倒れたの ですが、その後は鎌掛村在住の男性と結婚して、そのままゑいと共に居住することになったのです。 (以下、次号に続く) (附属史料館 青柳周一)