欧米制度の移植と日本型会計制度
久 保 田 秀 樹 著
滋賀大学経済学部研究叢書第41号
欧米制度の移植と日本型会計制度
久 保 田 秀 樹 著
近年の会計基準の改訂・新設、いわゆる会計ピックパンの契機のーっとして、 クゃローパリゼーションが挙げられているが、日本の会計制度は、その近代化のプ ロセスにおいて常に欧米の動向を摂取する形で進められてきた。例えば、 1930年 (昭和
5
年)に公表された商工省「標準貸借対照表jに対して、既にアメリカ会 計士協会 (AIA)の特別委員会の貸借対照表に関するモデル・ステートメント「財 務諸表の検証J
“V(erification of Financial Statements")が大きな影響を与え たという(黒津 1990、207頁)。また、 1934年の商工省「財務諸表準則」に対して、 最も大きい影響を及ぼしたものは、 1917年4月、アメリカ連邦準備局によって公 表された「決算表作成の標準手続J
“Approved Method f( or the Preparation of Balance-Sheet Statement")であった(黒津 1990、447頁)。 財務諸表様式の統一については、結局、商工省「財務諸表準則」は任意適用に 留まり、その後、強制適用を目指した企画院準則草案は結局法的基礎を得るには 至らなかった。しかし、原価計算制度の統一については、「原価計算規則J
別冊「製 造工業原価計算要綱」によって1942年(昭和17年)に実現した。 1939年1月16日にドイツでは、経済性増進と物資増産のための経営会計制度の 統一化を目的として「原価計算総則J
“A(llgemeine Grundsatze der Kostenrech -nung")が公布された。「原価計算総則J
は、日本の原価計算制度の確立に重要な 影響を及ぽした。「原価計算規則」別冊「製造工業原価計算要綱J
の草案であった 企画院「製造工業原価計算要綱草案」の成立について、黒津清は、後に次のよう に述べている。 「中西寅雄を中心として、鍋島達、杉本秋男および私は、企画院原価計算要綱 の作成に関する作業に従うとともに、入手し得る限りの欧米の原価計算制度に関 する文献を渉猟し、精読した。…(略)…、特に注目したのは、 ドイツのそれで・ あった。何といっても原価計算統一基準に関するドイツ文献の中心は、 1939年1 月16日に、いわゆる経済性告示に基づいて制定きれた『原価計算総則』であった0 . (略)・ 後年人々は、 1940年の日本の原価計算時代をドイツのそれの模倣であるかのように批評しているようであるが、そんな生やきしいものではなかった。外国文献 の研究は、われわれ個人の頭脳の充電には役だったかも知れないが、日本の原価 計算制度は、日本の産業、日本のすべての会社の原価計算実践の産物であり、わ れわれ自身の経営固有の原理の展開であった。
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(黒津1
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前著『日本型会計成立史J
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年税務経理協会刊)は、日本の会計近代化の烏 敵図を得ることに目的があった。前著を書き終えた段階では、1
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年代以降の日 本型会計の成熟期について研究を進めるつもりでいた。しかし、その後、日本型 会計成立について、戦前期におけるドイツの影響と戦後占領期におけるアメリカ の影響、及びそれらの「日本化」を詳細に検討する必要があると,思った。また、 日本型会計の成立に関するエフアート氏の著作(
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)
が存在すること、 またその書評の中で木下教授が次のように述べておられることを前著公刊後に 知った。 「明治期以降、一世紀以上にわたって国家の主導のもとで制度設計されてきた 日本会計をいかに歴史認識するかということが日本会計のピックパンの現代を 分析するうえで重要なテーマであると筆者は考える。J
(木下2
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、9
2
頁) 上記書物の内容は拙著のそれと異なるが、共通の問題意識を持っておられるこ とを心強く思う。 第1
章では、 ドイツと日本の価格統制の経緯を取り上げる。日本の経理統制の 発展は価格統制の一環として理解することができる。ドイツの価格統制は、当時、 相当研究され、参考にされている。外来のものを制度として確立するについては、 異なる土壌に移植する以上、何らかの「改造J
が必要となる。すなわち、欧米制 度の移植のフ。ロセスにおいて日本の事情が織り込まれることになるはずである。 それは必ずしも欧米制度からの議離として非難きれるべきものではなく、制度の 日本化として評価するべきであろう。しかし一方で、、既にドイツの制度との黍離 が、意識され、 ドイツの制度との比較による日本の制度の不十分性が批判されて いる。当時の批判により、日本の制度の特徴が明らかになる。 第2
章では、「会社経理統制令J
前史としての陸軍の経理統制を取り上げる。陸場事業場原価計算要綱」をはじめとする会計・監査基準は、膨大なものであり、 その全貌を扱うことは出来なかった。陸軍や海軍による経理統制の研究は、ごく 一部の特殊な企業の研究を意味するように想像されがちであるが、当時の産業界 における軍需産業の重要性とその裾野の広さからいっと、特殊ではあっても、決 して狭い範囲の問題とはいえない。また「会社経理統制令」は、陸軍や海軍によ る経理統制を一般会社にも広げるといっ意味を持っていたため、「会社経理統制 令jの研究には陸軍や海軍による経理統制の研究を必要とする。なお、本書では 入手資料の関係で、もっぱら陸軍の経理統制を取り上げる。 第3章では、企画院「製造工業原価計算要綱草案
J
と「製造工業財務諸表準則 草案J
(両者を総称して企画院「製造工業財務諸準則草案」と呼ぶ。)及び大蔵省 「財産評価準則草案J
とを取り上げる。戦後の証券取引法会計の所轄官庁は大蔵 省であり、その主導の下に整備されたこと等、戦中期の「会社経理統制令j下の 体制の継続とみなしうる点がある。もちろん、それらは戦前からの外部監査必要 論の延長線上に実現したのではなく、戦後改革の一環として、証券取引法を根拠 として成立した。しかし、戦時下の経理統制は、少なくとも第2次大戦後の証券 取引法会計における、会計基準の整備や、財務諸表の様式化等にとって、規制当 局サイド及ぴ企業サイドにおける経験の蓄積となったと考えられる。また、現代 の会計制度、特に用語に対する、当該時期の影響が思いのほか大きい。 第4章では、戦後占領期の会計基準として、物価庁「製造工業原価計算要綱」、 「工業会社及ビ商事会社ノ財務諸表作成ニ関スル指示書J
(以下では「指示書」と 略称する。)、「会計基準法草案J
そして「企業会計原則j を取り上げる。 物価庁「製造工業原価計算要綱J
は、戦後の混乱期の中、戦中期の「原価計算規 則J
別冊「製造工業原価計算要綱jの部分的な変更の後、公布され、戦中期に制度 化きれた原価計算基準が戦後も暫らくの問、生き続けた。 「指示書J
自体は総司令部の占領政策の一環として、「制限会社」のみに適用さ れた特殊な会計基準であった。しかし、「指示書」がそれまでの非アメリカ型の日 本の財務諸表様式をアメリカ型の財務諸表に変換する経験を一部の会社にもたら し、証券取引委員会規則第1
8
号による財務諸表の様式統ーが、アメリカの制度を モデルとして成立したことを勘案するならば、「指示書J
は、少なくともその地盤作りに貢献したという点で、日本の財務諸表様式統ーのプロセスの一端に位置づ けることができょう。 「企業会計原則」については、その一般原則確定の経緯を中心に取り上げる。 それは構想に終わった「会計基準法j の
5
原則を継承する一方で、、欧米の会計原 則と日本の事情とを織り込んで成立している。 なお、引用文および各雛型については、法令の条文も含めて片仮名混じり文は、 平仮名混じり文に、また表記も現代仮名遣いに改め、句読点を追加している。 会計史の研究は、故小島男佐夫先生のゼミに所属したのが出発点である。大学 院以降は、武田隆二先生のご指導の下、会計理論と会計制度の研究に携わってき た。昭和会計史の研究は、両先生の薫陶の賜である。両先生の学恩にあらためて 感謝いたします。 戦前の黒津清先生、山下勝治先生の著作を随分読ませていただいた。両先生に お目にかかかる機会を得ることはできなかったが、小島先生や武田先生から伺っ た両先生にまつわるお話を通じて、単なる資料以上の思いで御著書に親しむこと ができた。また、その他にも著名な先生方の著書・論文を多数読ませていただき、 引用させていただいた。今回も彦根高商以来の充実した会計・経営関係の書籍お よび資料類によって本著をまとめることができた。山下先生と松本雅男先生をは じめ、諸先生の築かれてきた財産を継承できたことを光栄に思う。2
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2
年度の経済学部学術後援基金の援助で訪れた会計史国際学会でのウォー ウィック教授(
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.Warwick)
をはじめとする各国の研究者との意見交換は、 本書執筆に多くの示唆を与えてくれた。また、 ドイツ経済監査士の歴史について は、日本学術振興会およびドイツ学術交流会(
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r Akademisher A
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の援助により訪れた、 ドイツ経済監査士協会(
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の理事グロス博士(D
r.Gernhard G
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との ディスカッション、及ぴ同協会の付属図書室の資料による詳細な研究が基礎と なっている。それぞれの援助に感謝する。2
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年9
月初日久 保 田 秀 樹
はじめに 第1章 日独の価格統制の経緯....・H ・-…・ 1 ドイツの価格統制の経緯…・・ 2 日本の価格統制の経緯…・・…・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・9
3
陸軍の経理統制.
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4 ドイツ 1937年株式法と経済監査士…・・…・…...・H ・...・H ・...・H ・H ・H ・-…....・H ・20 5r
会社経理統制令J
・・H・H ・...・H ・...…....・H ・-…...・H ・...………H ・H ・.22 6 統制会社および軍需会社…………...・H ・..…・………...・H ・...・H ・....28 〈資料>1937年株式法(第 131条)における株式会社貸借対照表雛形………33 第2
章 「会社経理統制令J
前史としての陸軍の経理統制....・H ・-……H ・H ・-…・・3
5
1
商工省「製造原価計算準則」………...・H ・..…...・H ・-……..,・H ・..…………3
5
2 陸軍軍需品工場事業場原価計算要綱…H ・H ・-………H・H ・-…...・H ・-…....・H ・413
陸軍軍需品工場事業場財務諸表準則・…・…H ・H・...・H ・....・H・-…H ・H ・...・H ・"
5
1
4
陸軍適正利潤率算定要領....・H ・-………...・H ・...・H・-……H・H ・H ・H ・-…....・H・6
4
5
経理監査と能率監査....・H ・....…・…....・H ・-…...・H ・H ・H ・...・H ・...・H ・...…7
0
6 陸軍の会計監督の機構と運用の実態....・H ・...・H ・……...・H ・..…...・H ・..…・83 〈資料〉陸軍軍需品工場事業場財務諸表準則(1940年)による貸借対照表 および損益計算書雛形・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8
9
第3章 「会社経理統制令J
と企画院「製造工業財務輯準則草案J
…...・H ・-….971
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会社経理統制令jの会計的意義....・H ・-…...・H ・....・H ・...・H ・....・H ・-…'972
企画院「製造工業原価計算要綱草案」と別冊「製造工業原価計算要綱」 ...101 3 企 画 院 財 務 諸 表 準 則 草 案 …...1094 商工省「資産評価準則」から大蔵省「財産評価準則案」まで....・H ・-…118
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I
会社経理統制令」と経理検査…・……...・H・...・H ・...・H ・...・H ・...……1
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8
〈資料〉貸借対照表雛形、財産目録雛形および損益計算書雛形...・H ・H ・H・.
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3
第4
章戦後占領期の会計基準...・H ・-……...・H・H ・H ・...・H ・..…………...・H ・.
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l 物価庁「製造工業原価計算要綱J
...・H ・...・H ・-…・…H ・H ・...・H ・....・H ・.
1
3
7
2I
工業会社及ビ商事会社ノ財務諸表作成ニ関スル指示書」…....・H・-……140 3I
未払込資本金」借方計上問題と昭和23年商法改正…....・H ・...・H ・...・H ・.1444
I
会計基準法草案」と「企業会計原則」…...・H ・...・H ・...・H ・...・H ・..150 〈資料>I
指示書」財務諸表雛形.
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結び…...・H ・.
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主要引用文献………...・H ・..……...・H・...・H ・..………...・H ・...・H ・H ・H ・...・H ・.
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1
7
3
第
1
章
日独の価格統制の経緯
1
ドイツの価格統制の経緯 1930年代の世界恐慌期から満州事変期を通じて、日本の産業統制は、徐々に形 成されていたが、 1937年の日中戦争の勃発以後、本格的なものになっていく。日 中戦争の勃発後の最初の統制措置は価格統制であった。以下ではまず、日本の価 格統制に強い影響を及ぼした、ドイツにおける価格統制について概観する。なお、 ドイツでは第1次大戦開始から広義の価格統制が始まっているが、以下では 1936 年の第二次四年計画以後の動きを中心に見ていきたい。a
間接的価格統制 経理統制は、統制経済における会計の機能に照応した目的によって、次の2つ に区分される。 (a) 原価比較による経済性の管理目的(間接的経理統制) (b) 公定価格決定目的(直接的経理統制) 1921年にドイツにおいて工業手工業経済合理局が設立され、 1925年に経済合理 局(
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;以下ではRKW
と略称する。) と名称変更された。一方、 1933年以来、第一次4年計画が実施され、政策の主力 が、公共土木工事、軍備産業等の工業生産力の増大による失業者の吸収、そして 農業の復興に住がれた。当計画の実施により生産財関係産業の復興が実現し、失 業者救済、経営収益増大に顕著な効果が上がった。 しかし生産能力の回復は、原価逓増化を伴い、物価騰貴を招いた。物価引き下 げと原価号│き下げを求める機運が醸成される中、 1936年秋より始まった第二次4
年計画において、当時のドイツの経済政策の基調をなすものとして、「経済性命令」 が周年11月12日より施行された。「経済性命令」は、経済性増進と物資増産を目的 とするものであり、そのための具体的方策の1
っとして経営会計制度の統一化を2 要求した。この要求を受けて、
1
9
3
7
年には、 RKW内部に経営経済委員会(Reichs -ausschuss fur Betriebswirtschaft)が設置され、その研究結果に基づいて、同年 11月11日に「簿記組織準則」が「経済性命令」の追録として公布された。「簿記組 織準則」の構成は以下のとおりであった。 1.会計制度の根本的課題1
1
.
簿記組織統ーの要請 III.原価計算及び統計の基礎としての勘定組織図 「簿記組織準則」では、製造企業の標準勘定 (Kontenplan)の例示として、以 下の勘定クラス分類が示きれていた。 クラス0 静止勘定ないし固定資産・資本勘定 クラス1 財務勘定 クラス2
中性勘定 クラス3 原料・補助材料・経営材料の勘定 クラス 4 原価種類の勘定 クラス5 計算勘定(または原価場所勘定) クラス6 自由勘定(または原価場所勘定) クラス7 半製品・製品の勘定 クラス8 収益ないし商品販売勘定 クラス9 決算勘定 クラス5とクラス6について、原価場所計算が勘定において行なわれる場合に は、この両クラスが原価場所勘定となった。しかし、原価場所計算が表によって 行なわれる場合には、クラス5だけが、表による原価場所計算の結果を総括的に 示す計算勘定となり、クラス6
は自由勘定となった(安平1
9
7
1
、3
3
-
3
4
頁)。 工業分野での業種別コンテンラーメンの作成に当たっては、「簿記組織準則」に 含まれた製造経営の標準勘定をそのまま参考にすることができたが、手工業や商 業の分野では、強制コンテンラーメンに従いつつ、その分野の特殊性に応じた統 一的コンテンラーメンが作成きれねばならなかった(安平1
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1
、3
5
頁)。一部の業種では1938年に業種別の標準勘定が適用され、 1939年1月 1日には商工業の外、 銀行・保険業を含む、全業種で適用が開始きれた(久保田 1940a、30頁)0
1
簿記 組織準則」は、後に、第2章で詳述する「陸軍軍需品工場事業場原価計算要綱j に影響を及ぽす。 業種別の標準勘定の全業種で適用を前提に、 1939年1月16日に「原価計算総則J
(以下では、 AGKと略称する。)が公布された。 AGKは、第3章で詳述する企 画院「製造工業原価計算要綱草案」の確立に重要な影響を及ぼすことになる。「簿 記組織準則」と AGKについては、注記に掲げるように当時翻訳が行われている。 AGKの構成は以下のとおりであった。 1.総則の目的1
1
.
原価計算の本質と課題 III.原価計算の構成A.
一般原則 B.原価計算基本形式 C.原価の把握D.
原価の算定 E.原価種類計算、原価場所計算、原価負担者計算 1.原価種類計算2
.
原価場所計算 3.原価負担者計算F
.
原価計算における操業度の考慮G.
統一的な原価図表I
V
.
原価計算の効益1
1.総則の目的」では、 AGKの目的について以下のように規定していた。 「原価計算総則の目的は、経済における原価計算の正しい形成と適用とに基づ き、給付生産の経済性を高めることにある。それは、商工経済組織の同業組合 (Wirtschaftsgruppe)の行う原価計算規程 (Kostenrechnungsrichtlinien)の基4 礎となる。(傍点筆者)J AGKは、比較的簡潔なものであったが、その理由は、業種別・品種別・等級別 同業組合に、原価計算規程の立案が予定されていたので、細則規定の必要がなかっ たためである(久保田 1940a, 37頁)。同業組合によって原価計算規程を定める のは、生産性向上という目的実現のためには効果的であり且つ迅速な対応が期待 されたためであった(久保田 1940b 、37頁)。 IIII.原価計算の構成」の IB.原価計算基本形式
J
においては、原価計算の 基本形態として次の3つが挙げられていた。 原価種類計算 (Kostenarten-Rechnung) 原価場所計算 (Kostenstellen-Rechnung) 原価負担者計算 (Kostentraeger-Rechnung) このうち、原価場所計算については、以下のように説明していた (III. E)。 (1)全経営を計算単位(例えば経営部門や課)に分け、計算的には原価を発生場 所において把握し、その後原価場所に賦課する。 (2) 原価場所は、責任区分に役立ち、しかも原価による経営過程の継続的監査を 可能とする。(傍点筆者) (3) 原価場所は、計算技術的、場所的ないしその他の観点を考慮して設定する。 AGKは、間接的経理統制のために制定され、物資の増産を図るために各企業経 営に正しい原価計算法を運用させるのが目的であった(久保田 1941a (2)、44頁)。 すなわち、原価構成の経済性を実現すべ〈、正確にして比較できる原価を算定し、 それによって物資増産と物資消費合理化を図ろうとするものであった。 AGKの目的実現の手段としては統一簿記で把握した結果が比較計算されたた め、計算形態は後計算 (Nachkalkulation)となることが多かった(久保田 1941 a(2)、36頁)。すなわち、 AGKは、経済性向上の方策として原価比較を目的とし たため、実際値による計算が中心であった。したがって、その計算は事後的なも のとならざるを得なかったのである。なお、 AGKでは、利子は原価構成要素とされていた。 その後1942年 3月24日(同年 3月 7日付)には、 AGKの基本部分についての注 釈として「工業原価計算一般規則」が公表された。続いて、同年6月12日(周年 3月7日付で認可)には、最初の業種別原価計算規程として「鉄金属加工業原価 計算規程jが公表された。当準則は、電気、自動車、航空産業、精密機械、光学 機械、機械製造を適用業種とした(平林訳 1967、155頁)。 b 直接的価格統制 「経済性命令j施行の2週間後の 1936年 11月26日には、「価格停止令」が公布さ れ、各種財貨及び用役の価格引き上げが周年10月26日に遡って禁止された。しか し、「価格停止令」は、市場価格の存在する商品については有効であるが、市場価 格が存在しないため価格を公定できない財貨及び用役については別の方策が必要 となる。その典型は、公的注文品や土木建築工事である。そこで、それらの分野 での価格算定を目的として、 AGK発令の 2ヶ月前に当たる 1938年11月15日に「公 的注文品価格計算準出
J
(以下では RPO と略称する。)及び同準則に基づく「公 的注文品価格計算要謝J
(以下では LSO と略称する。)が公表された。また 1940 年5月25日には「土木建築工事価格計算要綱J
が公表された。これらについても、 注記に掲げるように当時翻訳が行われている。 RPOの構成は以下のとおりであった。 1.一般価格形成規定1
1
.
原価算定に基づく価格協定 III.原価価格計算の監査I
V
.
特別の場合の取扱V
.
付加利潤 上記1
1
の「第7
号 原価を考慮しての価格決定」では次のように規定していた。 「上記規定に基つ、き価格が決定できない場合、もしくは上記第5条による法律 上の価格が不当に高〈現れるか、あるいは拘束価格が引き下げられる場合には、 1938年11月15日付公用品発注者に対する給付原価基準価格算定要綱 (LSO) の規6 定に従い価格決定を行うべきものとする。」
LSO
の構成は以下のとおりであった。 1.序1
1
.
原価計算価格の構成A.
原材料B
.
作業賃金C.
共通費(間接)費C
a
.
製造共通費C
b
.
管理及び販売(共通費) 設備減価償却費D
.
区別して明示すべき価格原価計算上の原価種類(特別費) a)仕上り品、受入部品 b) 外注品供給者の賃仕事 c) 特別経営手段 d) 予定外製造費 e) 特殊の改良費及ぴ設計費 f)特許権使用料 g)代理人手数料 h) 特別発送費 i )取引税 j )特殊危険k
)
その他特別費E
.
計算利潤L
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第9
号 原価計算」の構成では、原価は以下の項目から構成きれていた。A
原材料 B 作業賃金C 1
作業共通費C2
管理費及び販売(共通)費 D 特別費 E 計算上の付加利潤B+C1
作業費A+B+C1
作業原価C=C1+C2
共通費(間接費)A+B+C+D
原価A+B+C+D+E
原価計算価格 上記の算式を図で整理すると以下のようになる。 ←一一一作業原価一一一→ A 原価 同 ‘ 原価計算価格 祖" 上記のように、LSO
は、原価計算基準だけでなく、「計算利潤J
についての規 定を含んでいた。それはLSO
が、原価計算に基づく価格決定を目的とする以上、 当然のことであった。 その他、AGK
とLSO
の主要な相違として以下のものがあった(久保田1
9
4
0
a,3
3
-
3
7
頁)。(
1
)
AGK
については、同業組合による規程が作成きれ、各企業が直接、AGK
に従って計算を行うものではなかった。これに対して、LSO
は、直接企業に 適用され、価格決定資料ときれたので細則規定を含んで、いた。(
2
)
AGK
については、各種原価比較のため、原価種類計算、原価場所計算、原8 価負担者計算がそれぞれ重視された。一方、 LSOは製品原価の算定のための 原価負担者計算が重視された。 (3) AGKは、原価ヲ│き下げの手段として比較計算を用いるため、計算形態は後 計算中心であった。一方、 LSOは、製品原価の計算方法を統ーして価格計算 の基礎とするため前計算中心であった。 以上、 LSOは、「経済性命令」に基づく AGKとは直接関係はないが、 2ヶ月 先行した LSOの内容をある程度引き継いでいた。従って、 AGKは、「簿記組織 準則」によって、実施基盤が整備され、さらに LSOによる原価計算統一化の経 験の後に出された。すなわち、 AGKは、運用のための形式的かっ実質的な準備の もとに発布されたのであった。
1) Erlass des Reichs-und Preussischen Wirtschaftsministers vom 12. November 1936. 2) Richtlinien zur Organization der BuchfUhrung. (翻訳は山下 1942に所収)。 3 ) Allgemeine Grundsatze der Kostenrechnung (AGK). (原文は Weigmann1939 に所収。翻訳としては山下訳 1941がある。) 4 ) Allgemeine Regeln zur industriellen Kostenrechnung. 5) Kostenrechnungrichtlinien der eisen-und metallverarbeitenden industriellen Kostenrechnung.
6) Verordnung uber das Verbot von die Preiserhohungen vom 26. November 1936. 7) Richtlinien fur die Preisbildung bei offentlichen Auftragen (RPO) vom 15.
November 1938. (原文は Weigmann1939に所収。翻訳は山下 1942に所収。) 8 ) Leitsatze fur die Preisermittlung auf der Grund der Selbstkosten bei Leistungen
fur δffentliche Auftraggeber (LSO) vom 15. November 1938. (原文は Weigmann 1939に所収。翻訳は山下 1942に所収、また松本訳1939もある。)
9) Leitsatze fur die Preisermittlung auf der Grund der Selbstkosten bei Bauleis -tungen fur δffentliche Auftraggeber (LSBO). (翻訳は山下 1942に所収。)
2 日本の価格統制の経緯 以下では、日中戦争勃発から太平洋戦争開戦までの時期を下記の前後期に区分 し、日本の直接的価格統制の経緯を概観する。
a
日中戦争前期(1937年7月-1939年10月) b 日中戦争後期 (1939年10月-1941年12月)a
日中戦争前期 1917年(大正6年)に制定きれた「暴利ヲ目的トスル売買ノ取締ニ関スル件J
(いわゆる「暴利取締令J)が1937年8月3日に全文改正され、取締対象品目が8 品目から26品目に拡大された。これは、主として軍需の急増によって生じる売り 惜しみ、買い占め等の取締がねらいであった(通産省編 1964、149頁)。すなわち、 価格の釣り上げによって商人が暴利を貧るのを阻止しようとするものであった。 1938年4月22日、物価対策の強力な推進を図るため「物価委員会令」に基づく 物価委員会が発足した。これは、1915年9月に「価格審査所法J
(PreisprUfungsstel -lenverordnung)によってドイツに設置された価格審査所(PreisprUfungsstellen) にならったものであった。物価委員会は中央物価委員会と地方物価委員会とに分 かれ、物価に関する重要事項を調査・審議することを目的とするものであった。 これによって商工大臣及び地方長官は、中央物価委員会、地方物価委員会および 物資別物価専門委員会の協力の下に公定価格を公定し、全国の経済警察網を動員 して公定価格の遵守、暴利の取締りにあたることになった。 当委員会発足後、最初に行われた価格統制の強化策として、 1938年5月20日、 政府は「輸出入品等臨時措置法」に基づき「綿糸販売価格取締規則」を公布し、 同月22日に施行した。これにより、罰則に裏付けられた公定価格制度が採られる ことになった。同年7月には、「輸出入品等臨時措置法」第2条第2項に基づき「物 品販売価格取締規則」を公布施行し、公定価格制を枢軸とする一般的な価格統制 法規を持つに至った。しかし、物品の種類が多〈、その価格の動きや価格形成の 事情が複雑なため、これらの機関のみでは資料の収集、公定価格の監視が不充分 となったため、同年8月に公布された「物価調査員令」によって、全国で約3,00010 人の物価調査員が各地方長官により選任された(通産省編 1964、288頁)。 周年7月14日には「暴利取締令」の三回目の改正が行われた。これは、販売価 格を公知させることによって公定価格違反を防止し、または公定価格のない物品 についてもその値上げを牽制することを目指したもので、公定価格制度と共に一 般物価引上げ抑制の布石をなすものであった(通産省編 1964、292頁)。 以上の価格抑制措置によって、価格騰貴はある程度鈍化したが、 1938年末から 1939年にかけて物価上昇の気配が再び高まった。その原因は、この時期の価格統 制が、以下に示すような物価を日中戦争前の水準に引下げることを目標にした、 応急的措置であったことによるものであった(通産省編 1964、293頁)。 (1) 公定価格を設定された品目は多くが消費財であって、生産財の数は少な カミった。 (2) 騰貴の甚しい商品についてのみ公定価格を設定したため、公定価格品は市 場から姿を消し、非公定価格品のみが市場に出回ることとなった。また規格 を統一して公定価格を設定しなかったため、品質を落とすことによって容易 に物価統制の網をくぐることができた。 (3) 公定価格を決定するための資料収集が困難で、あり、企業経理と原価計算の 制度も未発達であった(傍点筆者)。また、取締りにあたる経済警察も未熟で、 あった。 価格統制の更なる強化策として、 1939年3月 1日に、物価委員会が改組きれて 中央物価委員会に整備拡充された。改正後の中央物価委員会は、従来商工大臣が あたっていたものを改め、商工大臣の奏請により内閣において任命されることに なり、新会長に池田成彬が就任した(通産省編 1964、293頁)。同委員会は、周年
4
月2
7
日に「物価統制ノ大綱」を政府に答申し、総合的物価対策が確立された。 これは、物価自体を直接統制しようとするものであった。これに応じて、同年6 月に商工省の機構が改革され、物価局が外局として設置された。 この「物価統制ノ大綱」は、同年8月30日に「物価統制実施要綱」として、よ り具体化され、国際的物価水準を目標にした広範な公定価格制度が実施されよう とした。「物価統制ノ大綱」と「物価統制実施要綱」が意図した目的は、以下のようにまとめられる(通産省編 1964、305頁)。
(
1
)
それまでの価格統制の目標が漠然と日中戦争前の水準への物価引き下げで あったのに対し、輸出増進・外貨獲得・必需物資の輸入確保の可能な限度、 つまり国際物価を水準とした。 (2) 従来の部局的な価格公定制から、広範かっ普遍的な公定価格制度に移行し た。 (3) それまで、市場価格を追認し、限界生産費の商品の価格がそのまま公定価 格となる傾向があったのを改め、「中庸生産費j主義を原則とする原価計算に よって適正価格を形成しようとした(傍点筆者)。(
4
)
価格要素、つまり賃金・利潤・家賃地代・運賃にまで立ち入って総合対策 を樹立しようとした。 (5)r
中庸生産費」主義の強行による生産減退を防止するためプール平準価格 制を採用し、さらにやむをえない場合には補助金の交付によることとした。 (6) 需要調整の手段として貯蓄・増税等の方法で購買力を吸収し、また配給上 の障害を除去することを狙った。 この場合の公定価格については、民需産業の原価計算によって算定された各企 業の個別原価から統計的に平均原価 (r物価統制ノ大綱」では「中庸生産費」と呼 んでいる。)を求め、これに適正利潤率を加味したものをもって最高価格とし、そ の限度内において適正価格が決定されるものとされた(黒津 1990、432頁)。 上記(3)に関して「物価統制ノ大綱j には、次のような規定が含まれていた。r
3
戦時適正価格の決定(
1
)
戦時適正価格の決定に付いては、原価計算に依るを原則とし(傍点筆者)、 其の計算方法並ぴに運用手続を定むること。(以下省略)(
2
)
原価計算に当たりでは、中庸生産費主義を以て原則とするも、特殊の場 合に於いては適当なる調整を加うること。J
(第二価格の公定) 「物価統制ノ大綱」は、原価計算に基づく適正な価格形成(公定価格)の必要、 配給統制の必要を強調したにとどまり、公定価格制度については、主要物資の価12 格を公定するに当たっては、中庸生産費を基礎として適正利潤を計上することを 指示していたが、中庸生産費をいかにして算定し、いかにして適正利潤率を適用 するかに関しては、具体的な施策を表明したものではなかった。 b 日中戦争後期 1939年(昭和14年) 8月30日の「物価統制実施要綱」の答申の数日後、第二次 ヨーロッパ大戦が勃発し、諸物価が高騰した。この新たな情勢は、低物価の目標 を国際物価水準への引下げに置くという「物価統制ノ大綱
J
および同実施要綱の 基本方向に重大な修正を強いることになった(通産省編 1964、331頁)。このよう な状況下で、 1939年10月18日に「価格等統制令J
(勅令第703号)が公布きれた。 「価格等統制令jの主な内容は以下の通りであった(通産省編 1964、334-337 頁)。(
1
)
当令の対象は、第一条で「価格、運送費、保管料、損害保険料、賃貸料又 は加工賃」とあり、これを一括して「価格等j と称している。したがって、 賃金・俸給・サービス料・手間賃・広告料などは含まれなかった。 (2) 当令によって統制を受けるのは営利を目的として契約をなす者であり、営 利を目的としない者、つまり一般消費者には適用きれなかった(第13条)。 (3) 価格等は、昭和14年 9月18日(指定期日)の価額をこえて、(対契約ができ ず、(イ)当令施行前の契約にもとづく支払いができず、(ウ)当令施行前の契約に もとづく受領ができなかった(第2条第1項)。(
4
)
指定期日における価格は、価格等の受領者(つまり商品販売者等)につい ての価額であって、受領者別に決まった。そしてそれは、指定期日において 契約があった場合はその契約額、閉じ事情のもとで数種の契約があった場合 はその最高額、契約がなかった場合は契約をなしたるべき価額とされた(第 2条第 2項)。きらに 9月18日における価額がないときは、閣令 (f価格等統 制令施行規則J
)
第3条で次の三つの場合が定められていた。 (対 季節品については、最近の季節の市場価格またはこれに準ずるものに一 般物価の変動を参酌したもの。 (イ) 新製品については、これに類似する物の指定期日における市場価格またはこれに準ずるものに原価の差異を参酌したもの。 (ウ) その他のもの、たとえば新規に開業する者の価格とか、すでに営業して いる者がはじめて取扱う物品についての価格等については、指定期日にお ける市場価格またはこれに準ずるもの。
(
5
)
この9
・1
8
価格を修正することができるのは、次の4
つの場合であった。 (対価格等の支払者または受領者が行政官庁の許可を受けた場合(第2
条第 1項ただし書)。この例外規定を申請できるのは、閤令r
c
価格等統制令施 行規則J)第1
条て"(a)輸出されることが明らかなものを売買するとき、 (b)輸 入価格の昂騰がとくに著しい輸入品を売買するとき、 (c)その他やむをえな い事情があるとき、の三つの場合に限られていた。 (イ) 商工業者の組合等の団体が指定期日の価額に代る価額を定めて行政官庁 の許可を受けた場合(第3条第1項)。なお、この協定価格は、同じ地区内 のアウトサイダーにも適用することができた(同条第2
項)。 (効指定期日における価額が著しく不当と認められる場合(第4
条)。例えば、 閉じ業種を営んでいる者の間に非常な差異があり、一方の者の額が特に高 いという場合などには、行政官庁は公定価格設定までの暫定措置として、 その価額を引下げさせることができた。 (エ)行政官庁が特に価格等の額を指定した場合(第7条)。これが、公定価格 に関する規定である。そもそも当令の価格「オール・ストップ」は、いわ ば公定価格が設定されるまでの暫定的措置であり、第2
条によって引上を 禁止したのち、至急この第7
条によって公定価格を設定し、漸次これに移 して行くというのが当令の建前であった。 (6) このような価格等の「オール・ストップ」についても、いくつかの例外が あった。すなわち、第5
条で「有価証券の価格及賃貸料、土地及建物の価格 その他閣令を以て定むる価格等」とされていた。すべての価格を9
月1
8
日の 水準に押えるという基本方針には変わりないが、これらの品目は機械的停止 の対象とするに適しないから、別途の方法による対策を講じようという趣旨 であった。なお、当令そのものの適用を受けないものとして、取引所または 米穀市場における売買取引の価格、輸出入取引の価格、運送費等があった。14
(
7
)
当令の制定によって、「物品販売価格取締規則」をはじめとする各種の価格 取締規則は廃止された。 「価格等統制令」は、価格統制の対象を個々の商品に限定せず、多少の例外を 除いて一応全商品に拡張するとともに、これらについて日中戦争以降1939年 9月 18日までの価格上昇は承認するが、その後における騰貴はこれを停止させ、この 基礎のうえに新たに圏内事情に根拠をおいた公定価格制度を整備拡充しようとし たものであった。それは、第二次ヨーロッパ大戦期における低物価政策の法的支 柱となった(通産省編 1964、337頁)。これは、いうまでもなく 3年前にドイツで 公布された「価格停止令」の日本版であった。 「価格等統制令」には以下の規定が含まれていた。 「主務大臣必要ありと認むるときは、閤令の定むる所に依り価格等の原価に関 し計算を為さしむることを得。(傍点筆者)J
(第10条) 「価格等統制令jの公布は、日本における価格統制に一つの時期を画したもの であった。これによって、すべての価格をあらためて吟味し、適正価格に基づく 公定価格制の実施が具体的に採られねばならないこととなったからである。しか し上記の「価格等統制令」の第10条にある原価計算に関する閤令は、 2年半後 の1942年 4月1日まで待たねばならなかった。しかもそれは、「会社経理統制令」 という別の勅令によって成立したものに便乗したに過ぎなかった。これについて は後述する。 なお、「価格等統制令jを補充するものとして、周年10月18日に以下の 3勅令が 公布・施行された。 「地代家賃統制令」、「賃金臨時措置令J
、「会社職員給与臨時措置令j 1940年 4月 1日、政府は中央物価委員会を解散させて、財政経済の総合的調査 審議を行う物価対策審議会と、価格形成を主とする価格形成委員会の二本立ての 体制を作り、価格統制の再生を図ろうとした。物価対策審議会は、内閣総理大臣 の監督に属し、その諮問に応じて物価に関する重要対策につき調査・審議することを任務とするものであった。会長の内閣総理大臣の下、委員は20人以内で、国 務大臣、内閣書記長官、法制局長官、企画院総裁および学識経験者の中から勅命 によって定められた。物価対策審議会は、物価対策を中心とした戦時経済政策の 最高方針を審議する権能をもち、価格と物資、労働、資金等との関係、あるいは 物の価格と賃金、運賃との関係その他の根本方針を議論した(通産省編 1964、 343-344頁)。 価格形成委員会は、物価対策審議会の方針に基づき、個々の物資の価格の決定 およびその維持励行について審議する機関であった。価格形成委員会は、価格形 成中央委員会と価格形成地方委員会とに分かれていた。中央委員会は、商工大臣 の監督に属し、商工省に置かれ、会長は商工大臣であった。中央委員会は、必要 により「部
J
を設けてその所掌事務を分担することができ、 1940年4月に以下の 9つの部会の設置が決定きれた(通産省編 1964、347頁)。 一般部会、繊維品部会、燃料部会、金属品部会、化学工業品部会、食料品部会、 農林水産品部会、雑品部会、 一般部会には原価計算および利潤率に関する専門委員会が設置されていたが、 同専門委員会は1941年2月、商工省の財務管理委員会と合同して研究を行うよう になった。そして、財務管理委員会と合同して企画院に設定きれた財務諸準則統 一協議会に参加した(通産省編 1964、348頁)。 その後、「価格等統制令J
は、数回にわたる改正によって対象の拡大と内容の強 化が行われ、また同令に基づいて設定された公定価格の数は、 1941年4月までに 中央におけるもの約48,000点、地方におけるもの43万点という膨大な数に達した (通産省編 1964、326頁)。3
陸軍の経理統制 上述の全般的価格統制策とは別に、日中戦争の勃発以後、軍需産業に対する陸 海軍の経理統制も本格的に開始された。すなわち、 1937年9月10日には、「軍需工 業動員法ノ適用ニ関スル法律案」が公布された。これは、 1918年(大正7年)に 制定された「軍需工業動員法」のうち戦時に関する規定を日中戦争に適用するこ16 とを明らかにしたものであった。「軍需工業動員法jは、戦時にあたって政府が軍 需工場を管理・使用・収容し、軍需品の需給を統制しうる道を予め聞いておく目 的で制定されたもので、第一次世界大戦の経験をふまえた戦時統制立法であった。 しかし、それまでは一部の平時における保護奨励の規定が発動されただけで、基 幹部分である戦時工業動員の規定は眠ったままになっていた(通産省編 1964、154 頁)。同法に基づきその施行勅令として、軍需工場の管理について1937年9月25日 に「工場事業場管理令」が公布施行された。 「軍需工業動員法」と「工場事業場管理令
J
は、 1937年中は実際の発動をみな かったが、 1938年1月17日になって発動され、一部の民間工場の管理が実施され た。陸軍は、 1938年1月14日に「陸軍軍需監督官令J
(以下では11938年監督官令」 と略す。)を制定し、陸軍が軍需品の製造又は修理を民間工場に注文し、あるいは 民間工場から軍需品を購入するときは、必要に応じて監督官・監督官補・会計監 督官・会計監督官補をおいて軍需工場の監督を行わせることになった。 しかし、実質的な会計監督はそれ以前に存在した。すなわち、 1931年(昭和6 年)の満州事変勃発に伴い航空兵器整備の増加要求が生じた。その生産を行った 民間工場には高利潤が発生したが、それを抑制し、その調達の適正と整備を目的 として1932年より陸軍航空本部において、軍需品工場に対する技術、経理、原価 の指導、調査及び監督が実施された。それが、その後1934年の陸普通達第1号「軍 需工場の監督に関する件jによる技術及び、会計の監督制度の創設につながったと いわれる(陸軍経理学校 1941、419頁)。つまり、会計監督官制度は、膨大化した 軍事予算の効果的使用と、軍需調達適正化のために発足した。それが、日中戦争 の開始や第 2次世界大戦参戦に至ってきらに高度化されていった。会計監督制度 の展開は、以下の3期に時代区分することができる(古)111944、79-82頁)。 会計監督第一期(1934年-1940年) 会計監督第二期 (1940年-1942年) 会計監督第三期 (1942年-1945年)a
会計監督第一期 軍需工場に対する陸軍の監督については、上述のように1934年の「軍需工場の監督に関する件」により始まった。陸軍航空本部、陸軍兵器廠、陸軍造兵廠、陸 軍被服廠等において、軍需品を民間工場に製造させたり、そこから購入する場合、 予め当該工場主との聞の特約に基づき軍需品の製造、研究、工場の設備、機密保 持、原価の調査、経理に関する監督、購入品の検査及び下請工場の調査等、当該 工場の監督が行われた。 会計監督を担当する「経理官」の監督業務の内容は、「製造原価の調査」と「経 理に関する監督
J
とであった。因みに「経理」が意味する内容は、当時の解説に よればr
I
経理』とは私企業に於ける財務と略同義なるも、『財務』は法制上の語 として慣用せられざるため陸軍の用語たる『経理』とせられたるものJ
であった (陸軍経理学校研究部『軍需品工場ニ対スル会計監督業務上ノ参考』、 29頁)。 この制度においては、経理官の職域権限に関して法的権限はなく、陸軍部外に 対する監督権限の行使について強制力はなかった。したがって、その職能につい ては不徹底な存在であった(陸軍経理学校 1941、420頁)。 上述のように、 1918年に制定された「軍需工業動員法J
が実際に適用されたの は、日中戦争の勃発を契機とした1937年(昭和12年) 9月「軍需工業動員法ノ適 用ニ関スル法律」の公布施行によるものだった。翌1938年には、上述の 11938年 監督官令」により広義の軍需工業動員が開始された(古川 1944、p.34)o 11938年 監督官令」によって軍需工場に対する陸軍の監督が法制化きれ、「会計監督官」と いう名称の専任の官吏が正式に置かれることになった。 11938年監督官令」による 監督には技術監督と会計監督とがあり、前者を担当するのが監督官、後者を担当 するのが会計監督官であった。監督契約には、単に技術監督のみの場合、会計監 督のみの場合、そして両者を行う場合があった。 会計監督官の業務については、 11938年監督官令」第 6条において次のように規 定されており、その後、会計監督が第二期、第三期と強化されても、この規定は 生き続けることになる。1
軍需品の製造及び修理に関する原価調査、及び原価の経理上よりする調査 研究 2 工場の経営に関する経理上の調査及び監督18 これらは、前述の陸普通達第
1
号「軍需工場の監督に関する件J
による「経理 官jの監督業務の内容とほぼ一致するものだった。このうち「経理上の調査及ぴ 監督」については、軍需品工場は年度決算のための会計制度を実施しているため、 その資料は比較的容易に入手された。しかし「原価調査」については、多くの軍 需品工場において原価計算制度の整備は当時まだ充分ではなかった(古川 1944、 71頁)。したがって、主として財務上の調査監督が行われたにすぎず、その結果と して調弁価格(軍需品の納入価格)の低下が目論まれた。この段階の陸軍の監督 の性格は、財務諸帳簿の検査を主とする「会計検査院式監督」というものであっ た(古川 1944、80頁)。 また、その効果についても、供給者との契約に基づき実施する制度であったた め、「軍需工場の監督に関する件」による「経理官」の監督業務と比較し「概ね五 十歩百歩の聞を出でざるものJ
(陸軍経理学校 1941、421頁)というものであった。 その後、 1938年4月 1日には「国家総動員法J
により「軍需工業動員法」が廃 止きれ、それに伴い新規に「工場事業場管理令J
(以下では 11938年管理令」と略 す。)が同年5月に公布されたが、 11938年監督官令」については、前述のように、 そのまま存続した。 b 会計監督第二期 1939年(昭和14年)10月には、「国家総動員法J
第四条及び第31条の規定に基づ き、「軍需品工場事業場検査令J
(以下では 11939年検査令」と略称する。)が発せ られ、 1940年 7月から適用きれた。これは、 11938年監督官令」による原価調査及 び経理に関する調査監督が、法令に根拠を持つものでなかったため、その拡大強 化を図るものであった。 11939年検査令J
の第4条に、陸軍大臣又は海軍大臣は工場事業場の事業主に 対し、軍需品の原価に関する計算をなきしめることができる旨の規定があった。 この規定によって陸軍は1939年10月19日に、「軍需品工場事業場検査令施行規則」 (陸軍省令)を発布した。この「軍需品工場事業場検査令施行規則」の別冊とし て作成されたのが、「陸軍軍需品工場事業場原価計算要綱」であった。これによっ て法的根拠のもと、一部の工場事業場に統一的原価計算の実施が初めて強制きれることになった。その結果会計監督の業務内容が、財務監督より実質的に原価調 査に移行した。
1
9
4
0
年(昭和1
5
年)4
月には、「陸軍適正利潤率算定要領」が示達された(以下 では1
1
9
4
0
年算定要領j と略す)01
1
9
4
0
年算定要領」は、多数の要綱や準則の中 の不可分の要素として発表され、これによって「トン当たりいくら」といった前 近代的な方式から脱し、原価計算に基づく適正価格として軍需品の納入価格が算 定きれることになった。詳しくは第2
章で論じる。c
会計監督第三期1
9
4
2
年に「陸軍民間工場会計監督実施規程J
(陸亜普第9
4
号;以下では1
1
9
4
2
年 実施規程」と略称する。)が示達された。因みに、陸軍省発筒公文書は、下記の「陸 普第O
号」等の区分に従い、発筒番号を付して発筒された。 軍令陸乙第O
号 陸軍における秘密事項に関する軍令にして、公示しないも グ〉。 陸密第O
号 軍令陸乙以外の秘密事項に関する命令通牒等。 陸普第O
号 前号以外の普通事項に関する命令通牒等。 陸支密第O
号 日中戦争関係の陸密に該当する書類。 陸支普第O
号 日中戦争関係の陸普に該当する書類。1
1
9
4
2
年実施規程」は、当時の解説書では「会計監督官のなすべき業務内容を 定めたる憲法J
と位置づけてられていた(古川1
9
4
4
、8
2
頁)。1
1
9
4
2
年実施規程」においては、会計監督業務の実施内容として以下の4
つを 挙げていた。 (1) 原価調査 (2) 財務調査 (3) 資金調達の斡旋 (4) 工場経営の指導20 最後の「工場経営の指導jが挙げられている点が、会計監督第三期の特徴とい うことができる。 海軍では、「造船造兵監督官令」が、 1898年(明治31年)に発せられ、また、 11939 年検査令
J
の第4条の規定によって海軍は1940年1月16日に、「海軍軍需品工場事 業場検査令施行規則J
(海軍省令)を発布した。そして同施行規則の別冊として「海 軍軍需品工場事業場原価計算準則」が作成された。その他、「海軍軍需品工場事業 場財務諸表作成要領」等によって高度な経理統制が行われていた。 4 ドイツ1937年 株 式 法 と 経 済 監 査 士 19世紀末のドイツでは、経済不況における経営破綻を契機に監査主体としてド イツ米国信託会社 (DeutschAmerikanische Treuhand-Gesellschaft)をはじめ とする信託会社(TreuhandGesellschaften)や宣誓帳簿監査士(BeeideteBUcher -revisoren)が成立し、それぞれ団体を形成していた。 20世紀初頭の1907年にはライブチッヒ商科大学 (HandelshochschuleLeipzig) に学士帳簿監査士(Diplom-BUcherrevisoren)の養成課程が設置された。その後、 1920年代の度重なる経営破綻は、株式会社への強制監査導入の要求を高め、 1929 年のフランクフルト・アルゲマイネ保険会社 (Frankfurter Allgemeine V ersi -cherungsgesellschaft)等の経営破綻によって頂点に達した。 しかし、株式会社に対する強制監査導入の最大の問題は、監査主体、すなわち 誰が強制監査を行うのかという点にあった。そうした中、信託会社や学士宣誓帳 簿監査士の団体が、 1930年に監査・信託制度協会 (InstitutfUr das Revisons-und Treuhandwesen)を設立した。この協会設立によって、強制監査の導入と強制監 査の主体となりうる新たな資格制度について政府や産業界といった関係者との交 渉の御膳立てが揃った。 1931年4月11日にドイツのライヒ政府および各ラント政府は、資格試験制によ る経済監査士 (WirtschaftsprUfer)の任命に関するラント間協定 (Landerverein -barung)を締結した。この協定は、経済監査士の法的基礎となるものであったが、 それが布告されたのは、後述の1931年12月15日付の第一施行規則の附録となった 時点であった。その
3
ヶ月ほど前の1
9
3
1
年9
月1
6
日付の大統領緊急命令(
V
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1.)による株式法の一部改正により、会計・監査関 係については以下の2
点が規定された。 (1) 年度決算書(貸借対照表および損益計算書)並びに営業報告書について詳 細な規定が設けられた(第5
条)。なお、商工省「標準貸借対照表」には当規 定が参照されたという(沼田1
9
4
2
、2
頁)。 (2) 決算監査人による毎年の計算書類監査が義務づけられた(第6条)。但し、 強制監査については、資本金3
0
0
万ライヒスマルク以上の株式会社および株式 合資会社に限定された。 なお、この命令の施行期日は、一部を除き同年1
0
月1
日とされ、除外された一 部についても1
2
月1
5
日付の第一施行規則により即日施行された。この株式法の規 定 上 の 整 備 と 共 に 「 公 に 任 命 さ れ た 経 済 監 査 士J
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という監査主体の整備が実施された。それは、英米に比べて 立ち後れていた外部監査人について、英国の勅許会計士並の整備を図ることで あった。当時の解説にも以下のようなくだりがある。 「キ艮本において、経済監査士の新設によって英国の勅許会計士がドイツ向けに 創設されることになる。J
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)
その後、1
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年には資本額による制限が5
0
万ライヒスマルクに引き下げられ、 さらに1
9
3
4
年には資本額による制限か撤廃された。そして、1
9
3
7
年には株式法が 全面改正された。1
9
3
7
年株式法については、当時全文の翻訳が行われている(神 戸大学外国法研究会編1
9
3
9
)
。その第1
3
5
条の規定によって、すべての株式会社お よび株式合資会社について監査なしに確定された計算書類は無効とされた。そし て決算監査人は、経済監査士と経済監査会社に限定された(第1
3
7
条)。なお、1
9
3
7
年株式法第1
3
1
条における貸借対照表雛形を本章末尾に掲げている。 一方、当時の日本においては、1
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2
7
年(昭和2
年)に「計理士法jが制定きれ22 ていたが、計理士による監査は任意監査であった。
1
9
3
4
年(昭和9
年)に公表き れた「財務諸表準則」では、「計理士をして監査せしたるものは其の旨を附記すべ しJ
と規定されていた。その後、1
9
3
8
年(昭和1
3
年)に商法が改正きれ、「商法中 改正法律施行法」第4
9
条では、「株式会社の財産目録、貸借対照表および損益計算 書の記載方法、其の他の様式は命令を以て定むJ
と規定されていたが、当命令は 発せられないままであった。また、外部監査人による監査については何ら規定が なかった。5
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会社経理統制令J
1
9
3
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年1
0
月2
3
日には内閣に属する資源局と企画庁を吸収して企画院が設置され た。企画院は内閣総理大臣の管理に属し、「経済統制の参謀本部」として経済各省 にまさる権限を与えられ、軍部の力を背景として、数々の重要経済施策の立案推 進にあたった(通産省編1
9
6
4
、1
3
5
頁)。なお、「会社経理統制令j による闇令の 草案である「製造工業原価計算要綱草案」等を作成した財務諸基準統一協議会は、 企画院に置かれた。これについては、第3
章で詳述する。 当時の日本において「経理統制i
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J
については、必ずしも意味は明確でなかった。 すなわち、以下の2
つの用語法があったという(久保田1
9
4
0
a
,2
3
頁)。 (吟 原価、賃金、職員給与等の知き限られた特定の分野についての検査又は審 査を意味するもの。 (イ) 会計一般惹いては業務全般の検査又は統制を意味するもの。 日本の経理統制の発端ときれるのは、「国家総動員法」第11条の規定を根拠とす る、1
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3
9
年(昭和1
4
年)の勅令第1
7
9
号による「会社利益配当及資金融通令jであっ た。これは、上記の(討の意味での経理統制ということになる。「国家総動員法jの 第11条とは、以下のような規定であった。 「政府は戦時に際し、国家総動員上必要あるときは勅令の定むる所に依り会社 の設立、資本の増加、合併、目的変更、社債の募集若しくは第二回以後の株金 の払込みに付き、制限若しくは禁止を為し、会社の利益金の処分、償却、其の 他経理に関レ1
6
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、要なる命令を為し、又は銀行、信託会社、保険会社、其の他勅令を以て指定する者に対し資金の運用に関し必要なる命令を為すことを得。(傍 点筆者)J この「国家総動員法」第