一
梅の回廊
菅原道真研究ノート
2
東
茂
美
一
梅をうたう
道真の梅について語ろう。 盈城溢郭幾梅花 城 あづち に 盈 み ち 郭 くるわ に 溢 あふ れて 幾ばくの梅花ぞ 猶是風光早歳華 なほしこれ 風 ふう 光 くわう の 早 さう 歳 さい の華 雁足黏将疑繋帛 雁 かり の足に 黏 ねやか り 将 ゐ ては 帛 きぬ を 繋 か けたるかと疑ふ 烏頭點著思帰家 烏 からす の 頭 かしら に 點 さ し 著 つ きては 家に帰らむことを思ふ (「謫居の春雪」 ) 延喜三年(九〇三)正月、配所の筑紫にも春は訪れる。春の到来を告げるのは梅の花である。いにしえの中国で は、長安からはるか遠くウイグル地方あたりまで派遣された 防 さきもり 人 たちが、しきりに梅花をうたっている。きびしい 冬を越し、 なごり雪の降る辺境の駐屯地で、 春いちばんに咲くこの花に望郷の想いをよせ た (( ( 。道真もまた西国にあっ て、都をなつかしみながら梅花をうたうのである。二 宣風坊北新栽処 宣 せん 風 ぷう 坊 ばう の北 新 あらた に 栽 う ゑたる 処 ところ 仁寿殿西内宴時 仁 じ 寿 じゆう 殿 でん の西 内宴の時 人是同人梅異樹 人は是れ同じき人 梅は異なる樹 知花独笑我多悲 知 し んぬ 花のみ独り 笑 ゑ みて 我は悲しびの多きことを こ れ は「 梅 花 」 と 題 さ れ た 一 作。 「 宣 風 坊 の 北 」 は 五 条 坊 門 西 洞 院、 道 真 の 邸 宅 が あ っ た。 そ の 書 斎 山 陰 亭 の 梅 樹をいう。 「書斎記」に「戸前近き 側 かたはら に一株の梅有り」と記される、それ。 「仁寿殿」は、公事がおこなわれる紫宸 殿 の 北 に 連 な り、 呉 竹 の 坪 庭 を へ だ て て、 西 の 清 涼 殿 と 相 対 し て い た。 こ こ に は 紅 梅 が 植 え ら れ て い た。 「 内 宴 」 なら正月の中旬。山陰亭にいたのも仁寿殿にいたのも、そしてこうして南館にいるのもわたし。しかし眺めている のは自宅でも宮廷でもなく、宰府の梅の花である。梅の花は昔にかわらず春を迎えて、ひとり 笑 え みほころんでいる のに、このわたしといえば、昨年とはうってかわって悲しみにくれるばかりである、と。
二
あの梅この梅
道真に梅花をうたう作品は数多く、菊花とほぼ二分しているといってよいだろう。書斎の梅花をうたえば、こう である (「書斎にして雨ふる日、独り梅花に 対 むか ふ」 )。 点検窓頭数箇梅 点検す 窓 さうとう 頭 数箇の 梅 むめ を 花時不記幾年開 花の時 記さず 幾 いく ばくの年か 開 さ きたる 宮門雪映春遊後 宮 きゆう 門 もん 雪は映ず 春遊の 後 のち三 相府風粧夜飲来 相 さう 府 ふ 風は 粧 よそほ ふ 夜 や 飲 いむ したるより 紙障猶卑依樹立 紙 し 障 しやう なほし 卑 ひき くして 樹 き に 依 よ りて立つ 蘆簾暫撥引香廻 蘆 ろ 簾 れん 暫 しばら く 撥 かか げて香を引きて 廻 めぐら す 書斎対雨閑無事 書斎 雨に 対 むか へば 閑 しづか にして事なし 兵部侍郎興猶催 兵部 侍 し 郎 らう 興なほし催す 道真が兵部侍郎(兵部少輔)を拝命したのは貞観一六年(八七四)一月一五日、二月二九日には民部少輔に転じ ているので、この間の作だろう。書斎の窓からながめて、花の咲き具合をしらべてみるが、考えてみると、さてこ の梅樹にはいつ頃から花がつくようになったのだろうか、と。庭の梅はどれも咲き 初 そ めで、まだ花は数えるほどで あり、咲き誇るといった体ではないらしい。 こうして菅家廊下の梅をめでながら、宮中の内宴を思い出す。いわば回廊のように、あの梅この梅と、道真の詩 心は、 めぐっていくのである。内宴では 「春雪早梅に映ず」 と題して詩を賦した。その後、 右大臣邸にも招かれて 「東 風梅を 粧 よそほ ふ」を詠じたが、はたして宮中の春雪は梅に映ってうつくしく、大臣の官舎の梅も東風が化粧して咲かせ たように、これまたうつくしかった。つづけて、にわかに宮中や大臣家での梅をうたい込んで、意味がやや明らか ではないのに気づいたらしく、次のような割注をほどこしている。 今 年 内 な い え ん 宴 に 勅 みことのり 有 り。 「 春 雪 早 梅 に 映 ず 」 と い ふ こ と を 賦 ふ す。 内 宴 の 後 こ う て う 朝 、 右 う 丞 じよう 相 しやう 、 詩 し 客 かく 五 いつたりむたり 六 人 を 招 き、 「 東 風梅を粧ふ」といふことを賦す。 余 わ れ 不 ふ 才 さい なれども、 此 こ の両宴に 侍 はべ り、 故 かるがゆゑ に云ふ。 「丞相」は唐名で、右大臣の意である。藤原基経が内宴の後朝に、文才のある者を招いて詩宴を催したのだろう。 そこでも自作を披露したというのである。 『菅家文草』には「早春、 宴に仁寿殿に侍りて、 同じく『春雪早梅に映ず』
四 といふことを賦す、製に 応 こた へまつる」と「早春に、右丞相の東斎に 陪 はべ りて、同じく『東風梅を粧はしむ』といふこ とを賦す、 各一字を分つ。探りて迎字を得たり」の両作がならんでい る (( ( 。「早春侍宴仁寿殿、 同賦春雪映早梅、 応製」 を引いてみよう。 雪片花顔時一般 雪 せつへん 片 花 くわ 顔 がん 時に一般 上番梅 楥 待追歓 上 じやう 番 ばん の 梅 ばいゑん 楥 追 つい 歓 くわん を待つ 氷紈寸截軽粧混 氷 ひよう 紈 ぐわん 寸 すん に 截 き りて軽き 粧 よそほ ひ 混 ひたた けたり 玉屑添来軟色寛 玉 ぎよく 屑 せつ 添 そ へ来りて 軟 なごやか なる 色 いろ 寛 ゆたか なり 鶏舌纔因風力散 鶏 けい 舌 ぜつ 纔 わづか に風力に因りて散ず 鶴毛独向夕陽寒 鶴 くわく 毛 ぼう 独り 夕 せきやう 陽 に向ひて寒し 明王若可分真偽 明王 若 も し真偽を 分 わか つ 可 べ くは 願使宮人子細看 願はくは 宮 きゆうじん 人 をして 子 し 細 さい に 看 み しめよ 右は仁寿殿で催された内宴で、詔に応えて披露した一首。梅花の小景だが、雪がうたわれているとはいえ、澟然 とした冬のきびしさというよりも、どこかしらあえかな趣きがある。ひらひらと降ってくる雪と梅のほころんだ花 びらとが、まるでひとつで、見分けがつかない。梅樹を支えているそえ木は、あわ雪をかぶった梅を見て、やがて 春 た け て ほ ん も の の 花 が 咲 き 出 す の を 楽 し み に 待 っ て い る、 と う た う。 「 氷 紈 」 も「 玉 屑 」 も 雪 を た と え た も の。 氷でできた白い絹を一寸ごとに断ったようなあわ雪が、咲きはじめた梅の花にふわりと落ちて入りまじる。天の仙 郷から降りかかる玉のような雪に、 繊細な梅花のなまめかしさがますます引き立つ。 「鶏舌」 は淡紅梅のはなびらを、 「鶴毛」は春雪をたとえたもの。 「鶏舌」も「鶴毛」も道真のオリジナルな表現ではないが、読者にあたえるインパ
五 クトのあることばだ。 「鶏舌香」は香辛料のひとつで、フトモモ科の常緑高木である 丁 ちよう 字 じ 香の唐名である。白や淡紅色の筒状の花をつ ける。つぼみや果実を乾燥させふたつに割ると、鶏の舌に似ているところから、こうした名称がついたようだ。八 世紀頃、香辛料や生薬として舶来し、後代はもっぱら媚薬としての効能を期待された。 さ ら に「 鶴 毛 」 だ が、 か の 白 楽 天 が 雪 景 を う た っ て 元 げ ん し ん 稹 に 寄 せ た、 次 の 一 作 に 見 え る こ と ば で あ る( 「 雪 中 即 事 微之に寄す」部分) 。 連夜江雲黄惨澹 連夜の 江 かう 雲 うん 黄 き にして 惨 さん 澹 たん 平明山雪白糢糊 平 へいめい 明 の 山 さん 雪 せつ は白くして 糢 も こ 糊 銀河沙漲三千里 銀河 沙 いさご 漲 みなぎ る三千里 梅嶺花排一万株 梅 ばい 嶺 れい 花 はな 排 はい す一万 株 しゆ 北市風生飄散麪 北 ほく 市 し 風生じて 散 さんめん 麪 を 飄 ひるがへ し 東楼日出照凝酥 東 とうろう 楼 日出でて 凝 ぎよう 酥 そ を照す ……… 舞鶴庭前毛稍定 舞 ぶ 鶴 かく 庭 ていぜん 前 毛 稍 やや 定まり 擣衣碪上練新鋪 擣 たう 衣 い 碪 ちん 上 じやう 練 れん 新 あらた に 鋪 し く 戯団稚女呵紅手 戯 ぎ 団 だん の稚女 紅 こう 手 しゆ を 呵 か し 愁坐衰翁対白鬚 愁 しう 坐 ざ の 衰 すゐ 翁 をう 白 はく 鬚 しゆ に対す 一晩中、天には黄色い雲がはびこっていたが、夜が明けてみると、ほの白く山には雪が降っている。三〇〇〇里
六 かなたの天の川に白砂があふれたようであり、 梅 ばい 嶺 れい の 一 万株の花がいっせいに開いたようにもみえる。あるいはま た、北のバザールで風が起こってうどん粉を吹き散らしたようでもあり、東の楼閣に日が昇ってバターを照らして いるようでもある。 また庭といえば、鶴が舞いその白い 和 にこ 毛 げ が落ちているようでもあり、 砧 きぬた のうえに 練 ねりぎぬ 絹 を敷いているようにも見え るではないか。 手 て 鞠 まり で遊んでいる女の子は、寒くて赤くなった手にハアッと息をかけて温め、憂いて坐ったままの 爺さんは白い鬚をなでたり 捻 ひね ったり。ここでは白い世界にたったひとつ、 少女のてのひらの赤さだけが印象ぶかい。 一万株の梅花も前庭に積もった舞鶴の毛も、もちろん雪の比喩である。 道真の作品にもどろう。道真は右に見てきたような唐風の表現を大いに取り入れることによって、風韻ゆたかな 宮廷詩を創作する。 「明王」は聖明な天子の意。もし天子が紅梅と「鶏舌」 、春雪と「鶴毛」の真偽を弁別したいと お望みなら、宮女らに細かく観察させていただきたい、と。 春の雪が梅の花に降りかかっている光景に、さらに宮廷につかえる女房たちの 賑 にぎ わいをそえて一作のとじめとし ている。過剰な典故が優美な情緒をかたどらせて、流麗な作品となっている。そして自宅にいてさえ、こうした宮 廷の梅花の景と共鳴しあうように、創作は重ねられていくのである。 「書斎雨日、 独対梅花」 では、 つづけて私邸の梅花が描かれる。 「紙障」 は屏風やついたての類、 「蘆簾」 は 簾 すだれ の類。 「 蘆 簾」といえば、白楽天にも「 蘆 簾」の例があり、 「来春 更 さら に 東 とう 廂 しやう の 屋 をく を 葺 ふ き 紙 し 閣 かく 蘆 簾 孟 まう 光 くわう を 著 つ けん」 (「 香 かう 爐 ろ 峯 ほう 下 か 、 新に山居を 卜 ぼく し、草堂初めて成る、 偶 たまたま 偶 、東壁に題す」 )とうたっている。香爐峯のふもとに草堂が落成したので、 そこで東側の壁に題した詩。同じ草堂をうたうものでことに有名なのは、同題でさらに重ねて創作された四首中の 一首だろう。
七 日高睡足猶慵起 日高く 睡 ねむり 足りて 猶 なほ 起くるに 慵 ものう し 小閣重裘不怕寒 小 せう 閣 かく 裘 きう を重ねて 寒 かん を 怕 おそ れず 遺愛寺鐘欹枕聴 遺 ゐ 愛 あい 寺 じ の 鐘 かね は枕を 欹 そばだ てて 聴 き き 香爐峯雪撥簾看 香 かう 爐 ろ 峯 ほう の雪は 簾 れん を 撥 かか げて 看 み る 匡廬便是逃名地 匡 きやう 廬 ろ 便 すなは ち 是 こ れ名を 逃 のが るるの地 司馬仍為送老官 司 し ば 馬 仍 なほ 老 らう を送るの官と 為 な す 心泰身寧是帰処 心 泰 ゆたか に身 寧 やす きは是れ 帰 き 処 しよ 故郷何独在長安 故郷何ぞ 独 ひと り長安に 在 あ るのみならんや 陽はもはや高く昇った。睡眠は十分とったはずなのに、それでも起きるのが大儀で、こじんまりした草堂で夜着 を重ねて寝ていると、どんな寒さも平気の 平 へい 左 ざ 。遺愛寺の鐘は枕をそばだてて聞いているし、香爐峯の雪は簾をか かげて眺めている。なんとも詩趣にかなった住まいではない か (( ( 。 「匡廬」は 廬 ろ 山 ざん の別称、 匡 きよう 山 ざん ともいう。この山は、 周の時代に、 匡氏の七兄弟が世俗を離れて 庵 いおり を結び、 仙人になっ たところである。当時、楽天が江州司 馬 (( ( だったことから、司馬は閑職であって老いた身にはちょうどよい。この廬 山は世間の名利を避けのがれるところとして適当な地であって、心身が安泰なら身をよせるにはふさわしいところ で、かならずしも長安だけが故郷とかぎったことではないのだ、と。 こうして楽天は 簾 すだれ をかかげて、 香 こう 爐 ろ 峯 ほう の雪を見るのであり、道真もまた、楽天よろしく簾をあげて梅の花を眺め つつ、うたうのである。思えば楽天は「司馬」を閑職とうたうのであったが、道真もまた「兵部侍郎」 (兵部少輔) を閑職とみなして、 「書斎 雨に対へば閑にして事なし」と楽天と同じポーズをとっている。
八 もう一首、道真の宮廷詩から、梅の花をうたった作品を紹介しよう。 花顔片片咲来多 花の 顔 かむばせ の片片として 咲 ゑ み 来 きた ること多し 冒雨馨香不奈何 雨を 冒 をか せる 馨 けい 香 かう 奈 い か 何 にせざらむや 羅袖猶欺霑舞汗 羅 ら 袖 しう なほし 欺 あざむ く 舞ひの汗に 霑 うる ふかと 花袍自怪沐恩波 花 くわ 袍 はう 自らに怪しぶ 恩 めぐ みの波に 沐 あらは るるかと 驚看麝剤添春沢 驚き 看 み る 麝 じや 剤 ざい の 春 しゆん 沢 たく に添ふことを 労問鶯児失晩窠 労 ねぎら ひ問ふ 鶯 あう 児 じ の晩窠を失ふことを 五出莫誇承渥潤 五出 誇ること 莫 な かれ 渥 あく 潤 じゆん を 承 う くることを 一天下喜有滂沱 一天の下喜ぶ 滂沱有ることを 「早春に、 内宴に侍りて、 同じく『雨の中の花』といふことを賦す、 製に応へまつる」と題する七言詩。 『菅家文草』 では元慶三年(八七九)作の「元慶三年孟冬八日、大極殿成り畢りて、王公 会 つど ひ 賀 よろこ べる詩」と元慶六年作の「博士 難 古 調 」 と の 間 に あ る と こ ろ か ら、 こ の 時 期 の 創 作 か (( ( 。「 花 顔 」 は こ こ で は 梅 の 花。 花 び ら を 散 ら す さ ま が ま る で美人がこちらに笑みかけているようであり、雨にうたれてほんのりただようその香りに、さてどうふるまえばよ いものやら。内宴で女楽を舞った舞妓たちのうすものの袖が、汗でしっとりと濡れているのではないかと、だまさ れそうなほどに香っている。 「花袍」 は内宴に参加した近臣たちの、 それ。天子の恩徳の波に浴して、 しっとりと潤っ ているのではないかと、疑われる。宮女や近臣たちのさまは、ともに雨に濡れながら咲いている宮中の梅を擬人化 してうたったものである。 「 麝 剤 」 は 麝 じや 香 こう 、 ジ ャ コ ウ ジ カ の 雄 か ら と れ る。 漢 方 と し て は「 当 門 子 」 や「 臍 さい 香 こう 」 の 別 称 も あ る。 わ ず か し か
九 とれないところから牛黄とともに高貴薬といわれ、一〇〇倍散ほどにうすめて処方する。ただしここではジャコウ ジ カ そ の も の。 「 鶯 児 」 は ウ グ イ ス の こ と。 「 窠 」 は 巣 の 意。 や や 難 解 だ が、 以 下 の よ う な 内 容 と み て よ い だ ろ う。 雨のなかの梅花を、ジャコウジカが芳香をただよわせながら春の沢をあゆんでいくようだと、驚いて見、このまま 雨にうたれて散ってしまえば、ウグイスの今宵泊まる宿が失われてしまうと、梅花の労をねぎらう。 「五出」 は五片の花弁のある梅のこと。 『韓詩外 伝 (( ( 』に 「凡そ草木は皆五出、 雪花ひとり六出。 雪花を 霙 みぞれ と 曰 い ふ」 とあっ て、 『初学記』 『白孔六帖』な ど (( ( 、さまざまな書物に引用されている。 王 おうぼつ 勃 (六五〇~六七 六 )、 盧 ろ 照 しよう 鄰 りん (六三 五 ? ~六八九?) 、 駱 らく 賓 ひん 王 おう (生没年未詳)らとともに、初唐四傑とされる 楊 ようけい 炯 (?~六九 二 )に、 「梅花落」と題する五 言詩があって 「 窗 さう 外 ぐわい 一 株 しゆ の梅 寒 かん 花 くわ 五出開く … …」 ともある。道真がどこで学んだか確実なところはわからないが、 「五出」でもって梅花を表す、エキゾチックな表現だ。 梅花はたっぷりと雨の恵みをうけている。だからといって、 驕 おご りたかぶってはならない。恵みをうけているのは 花だけではなく、この広い天下のことごとくがたっぷりと慈雨をうけて、喜んでいるのだから。宮廷の官僚や宮女 たちを梅花に譬えた道真は、その雨(天子の恩徳)が、あまねく天下を潤していることをうたい、天子の徳業を讃 美して作品のとじめとしている。
三
讃岐国にて
仁 和 二 年( 八 八 六 ) 一 月 一 六 日 を も っ て、 讃 岐 国 守 に 任 じ ら れ た( 道 真 四 二 歳 )。 国 守 時 代 の 道 真 に つ い て は、 別稿にゆだね、ここでは梅花をうたう「駅楼の壁に題す」の一作だけを紹介しよう。一〇 離家四日自傷春 家を離れて四日 自 おのづから に春を 傷 いた ぶ 梅柳何因触処新 梅柳 何に 因 よ りてか触るる処に新なる 為問去来行客報 為 かるがゆゑ に 去 きよらい 来 する 行 たびびと 客 の 報 つ ぐることを問ふ 讃州刺史本詩人 讃 さんしう 州 刺 し 史 し 本 もと 詩人 割注に「 州 くに に帰る 次 ついで 、播州の明石駅に到りぬ。此れより以下の八十首は、京より 更 あらた めて州に向へるときの作」と 記している。道真は在任中、仁和三年の秋に一旦帰京している。年を越して帰任したようだ。京都の家を離れて四 日、明石の駅家でうたった。 春の景物もおのずと感傷的になりがちで、梅や柳を見ても何ともセンチメンタルな気分に責められる。そこで駅 亭を往来する人びとに、 あなたがたもそうかと問うてみたが、 梅や柳など大して気にもとめないようだ。すると「讃 岐国守」という行政マンである道真は、どうやら本来詩人だということによるらしい。道真はどこまでも詩人であ ることにこだわるのである。 だから、 讃岐にもどって晩春がおとずれても、 政庁の役務がおわるやいなや、 花や鳥やと浮かれ出てしまう。 「春 日独り遊ぶ三首」から二首を引用する。 ・ 放衙一日惜残春 衙 が を放たれて一日 残 のこ んの春を惜しむ 水畔花前独立身 水の 畔 ほとり 花の前にして 独り立てる身 唯有時時東北望 ただ時時東北のかたを望むことあらくのみ 同僚指目白癡人 同僚 指 ゆびさ し 目 め つく 白 はく 癡 ち の人なりと ・花凋鳥散冷春情 花 凋 しぼ み鳥 散 さん じて春の 情 こころ ぞ 冷 すさま しき
一一 詩興催来試出行 詩 し 興 きよう 催 もよほ され来りて 試 こころみ に 出 い でて 行 あり く 昏夜不帰高嘯立 昏 くら き夜も帰らずして高く 嘯 うそぶ きて立てれば 州民謂我一狂生 州 くに の民は我を 一 ひとり の 狂 たぶれを 生 なりと 謂 い はめ と、うたうのである。 「衙」は「御」に通じ、 「守り防ぐ」の字義をもつ。警固の兵隊が行ったり来たりしながら守るところから、役所 を意味する。ここでは讃岐の国庁。去りゆく春を惜しみ、 綾川の土手にひとり出て花を愛でている。どうかすると、 都のある東北の方角を眺めてばかりいる。官僚たちはわたしを指さし眉間にしわをよせて、ほれ 白 う つ け 痴 の 守 かみ が今日も 突っ立ってござる、と。 花は 凋 しぼ み鳥たちもどこかへいってしまった晩春なのに、それでもなお、そのさびしさがかえってわたしの詩興を 催したてるので、今日もすこし散策してみる。ところが夜がおとずれて暗くなっても帰る気になれず、詩を口にし ながらほっつき歩くものだから、讃岐の民百姓たちは、 狂 きじるし 人 だといいもしよう。 「 狂 生 」 は、 酔 っ て 水 中 の 月 を と ろ う と し て お ぼ れ 死 ん だ 詩 仙 の 李 白( 七 〇 一 ~ 七 六 二 ) に も 用 例 が 見 ら れ る の だ が( 「梁甫吟 相和歌辞」 )、本邦では、いにしえ天平の詩人藤原万里(麻呂)が、 僕 われ は 聖 せ い だ い 代 の 狂 きやう 生 せい ぞ。 直 ただ に 風 ふ う げ つ 月 を 以 ち て 情 こころ と 為 な し、 魚 ぎよ 鳥 てう を 翫 もてあそびもの と 為 す。 名 を 貪 むさぼ り 利 かが を 狥 もと む る こ と は、 未 いま だ 冲 ちゆう 襟 きん に 適 かな はず。酒に 対 む かひて 当 まさ に歌ふべきことは、 是 こ れ 私 し 願 ぐわん に 諧 かな ふ……。 と述べている。自分は天子の徳によって治まる御代の 狂 う つ け 生 だ。ただひたすら風や月を自分の心とし、風流を楽しむ ことを本性として、魚や鳥を相手に暮らしを楽しむ。名声をもとめ私利私欲をむさぼるのは、かたよらないわたし の心にはピタリとこない。酒を片手にうたうことこそわたしの願いだ。大方の内容は、こうしたところだろう。
一二 道真は酒をあまりたしなまなかったから、右の一文からそのくだりを省けば、万里の言はそのまま道真のそれを 代 弁 し て い る と い っ て よ い。 花 鳥 風 月 に 遊 び、 風 狂 に 殉 じ よ う と す る の で あ る。 梅 花 の 景 は、 〈 狂 き じ る し 生 〉 道 真 が こ こ ろゆくまで魂をゆだねることのできる世界だった。 とはいえ、 真に〈狂生〉であるものが、 自らを〈狂生〉であると自認して形容した例は、 古今東西、 ありえない。 だから、 道真もまた、 日も経たぬうちに次のようにうたってしまう。 「四年三月廿六日作」と題された題詞には、 「任 に到りてより三年なり」の短い自注がほどこされている。この三月末で讃岐の田舎暮らしも三年目に入るという。 我情多少与誰談 我が 情 こころ の 多 いく 少 ばく を 誰 たれ とともにか 談 かた らむ 况換風雲感不堪 况 いは むや風雲を 換 か へて感に 堪 た へざらむや 計四年春残日四 四年の春を 計 はか りみるに 残る日は 四 よか 逢三月尽客居三 三月 尽 じん に 逢 あ ひて 客 かく 居 きよ すること三たび 生衣欲待家人著 生 すずしの 衣 きぬ は 家 か 人 じん を待ちて 著 き むとす 宿醸当招邑老酣 宿 しゆく 醸 ぢやう は 邑 いふ 老 らう を招きて 酣 たけなは なるべし 好去鶯花今已後 好 よ し 去 さ れ 鶯と花と 今より 已 の ち 後 冷心一向勧農蚕 冷 すさま しき心もて 一 ひたぶる 向 に 農 のう 蚕 さむ を 勧 すす めむ 作品中の「風雲を換へて」とは、遠く都をはなれこの 鄙 ひな 暮らしをしているわが身には、の意だろう。田舎ではわ が心のうちを語り合うものもいないと嘆くのである。 「生衣は……宿醸は……」は、藤原 公 きん 任 とう の『和漢朗詠集』 (上 巻、夏・更衣)に、源重之の「花の色に染めしたもとの 惜 を しければ衣 替 か へうき今日にもあるかな」の一首とともに 編まれており、ことに有名な語句であ る (( ( 。
一三 軽くて薄い 生 す ず し 絹 の夏衣は、都の妻が仕立てて送ってくれるのを待つことにしよう、去年から 醸 かも しておいた酒は春 過ぎて熟してきたので、村の爺さんたちを招いていっしょに呑もう。都からの宅配便は 伝 つ て 手 をとおしてそれなりに 届 け ら れ て い た だ ろ う が、 詩 語「 生 衣 」 は、 楽 天 の「 炎 えん 涼 りやう 遷 うつ り 次 つ ぎ て 速 すみやか な る こ と 飛 ぶ が 如 ごと し 又 また 生 せい 衣 い を 脱 だつ し て 熟 じゆく 衣 い を 著 き る」 (「秋に感じて意を詠ず」 )に学んだことばだろう。 なによりここで注目すべきは、 「好し去れ」 以下の結びの二句だろうか。 「好去」 は唐代の俗語で 「さようなら」 「ご きげんよう」の意。ウグイスよ、花よ、ごきげんよう、さようなら。春に未練など残さないで、さっぱり風流韻事 の心を捨てさって、農耕や養蚕にはげむように部内の百姓たちを励まそう、という。良吏たろうとするのである。 ところが、である。ところがまだ大して季節もうつっていないのに、またまたこのように 吐 と ろ 露 してしまう道真が いる。七言「首夏に鶯を聞く」から――。 行蔵万物不蹉跎 行 かうざう 蔵 万物 蹉 さ た 跎 せず 四月鶯声聴甚訛 四月の鶯の声 聴き 甚 はなは だ 訛 なま れり 梁燕雛成争有舌 梁 はり の 燕 つばくらめ は 雛 ひな 成 な りて 争ひて舌あり 窓梅子結覚無窠 窓の梅は 子 み 結びて 窠 うつぼ なきことを 覚 し る 似移愛妾人前哭 愛を移されたる 妾 こなみ の 人の前に 哭 な くに似たり 同失時臣意外歌 時を失へる臣の 意 こころ の外に歌ふに同じ 鳥若逢春応滑語 鳥は 若 も し春に逢はば 滑 なめらか に語らふべし 臣愚妾老欲如何 臣 しん 愚 おろか に 妾 こなみ 老いにたらば 如 い か 何 にせむとかする 森羅万象、時のながれにしたがって、けっしてとどまることはない。春もとっくに過ぎさってしまい、うつくし
一四 い 囀 さえず りを聞かせてくれたウグイスも、シーズン・オフに鳴くので、すっかり 訛 なま ってぼけて聞こえる。 梁 はり に巣くって いるツバメは雛も生まれ、大きな口からは赤い舌がのぞいている。窓の外の梅は 花 はなびら 弁 を落としてすでに久しく、た くさんの青い果実をつぶつぶと実らせている。 時節おくれのウグイスの声たるや、ほかの女人に寵愛をうばわれ、人前をはばからず泣いている妾の声にそっく りだし、はたまた時運に乗りそこねて君主に棄てられた臣下が、その意外さを哀訴しているのに似ているではない か。それにしても、ウグイスは今年の時節におくれたって、来年の春がめぐってくると、またしきりに囀ることも できよう。けれど、 臣下が愚かだったり、 妾が老いてしまっていては、 もはや手のほどこしようがないではないか。 道 真 は、 天 子 の 恩 愛 を う し な い 長 ら く 南 海 道 の 一 国 に あ る わ が 身 を、 「 四 月 の 鶯 」 だ と い い「 愛 を 移 さ れ た る 妾 」 だというのである。 どこにあっても、梅花を見ると、次のような雅景にゆりもどされるのが、道真の常だったように思われる。寛平 六年(八九四)の初春の作「梅花を 翫 もてあそ ぶ 応製」 。 随処有梅惣可憐 処 ところ に 随 したが ひて梅あり 惣 す べて 憐 あは れぶべし 不如独立月明前 如 し かじ 独り月 明 あきらか なる前に立ちたらむには 香風豈啻花吹出 香 かうふう 風 あに 啻 ただ に花の吹き出すのみならむや 半是清凉殿裏煙 半ばこれ 清 せいりやうてん 凉殿 裏 り の 煙 けぶり 道真五〇歳。前年には二月一六日に参議となり、式部大輔を兼任。一週間ほどで、同じ月の二二日には左大弁に 転じている。 さらに三月にはいり一五日に勘解由長官を兼務、 四月一日には九歳で太子となる敦仁親王のもとにあっ て春宮亮を兼ねた。藤原時平は、寛平四年(八九一)三月一九日に二一歳の若さで参議となっていたが、いよいよ
一五 道真も参議となって、政治の中枢にポストをしめるようになったのである。参議任官を祝って時平から 玉 ごく 帯 たい を贈ら れたのも、この年だっ た (( ( 。 「 梅 花 を 翫 ぶ 」 は、 宇 多 天 皇 の 知 遇 を え て、 目 を み は る よ う な 出 世 を と げ た 道 真 が、 宇 多 の 御 製 に 応 こた え た 一 作 で ある。初春の候、さまざまなところで梅が開花する。その梅花はことごとく讃美されるのだが、なにより感動をお ぼえるのは、月明かりのもとただ一本の梅が月光をあつめて咲いている光景である、とうたう。宮廷に侍座する道 真をつつむのは、花から香りだす風だけではなく、じつは内宴が催されている清凉殿の奥からただよい出る気高い 香りも混じっているのであった。 寛平九年(八九七)正月一四日(二四日か) 、「早春、宴に侍りて、 同 ひと しく『殿前の梅花』といふことを賦す、製 に応へまつる」 があり、 そこでは 「 請 こ ふらくは 多く 憐 あは れぶことな 梅一樹 色青くして松竹 花の 傍 かたはら に立てり」 (そ れほど梅の一樹をあわれんで心配する必要はない。 翠 みどり 色もいきいきした松や竹が、梅の花の傍らには立ちそうてい るのだから)と、うたっている。清凉殿には松や竹もあるのだから、梅の一樹だけをいとおしみなさるな、という のだが、この 口 こうふん 吻 からは、逆に、道真がいかに梅への思い入れが強かったがうかがえそうである。 自宅の山陰邸にいても、讃岐国の公邸にいても、はるか流されて命をつなぐ大宰府の南館にいても、目のまえの 梅花をとおして道真の詩心がつながろうとするのは、いつも内宴の梅樹だったのかもしれない。
四
処女作
ふ り か え っ て み る と、 『 菅 家 文 草 』 の 巻 頭 を か ざ る 一 首 が「 月 の 夜 に 梅 花 を 見 る 」 で あ る の は、 道 真 の 詩 心 を 語一六 るうえで、すこぶる暗示的だといってよいだろう。 月輝如晴雪 月の 輝 かかや くは晴れたる雪の如し 梅花似照星 梅花は照れる星に似たり 可憐金鏡転 憐れぶべし 金 きむ 鏡 きやう の 転 かひろ きて 庭上玉房馨 庭上に玉房の 馨 かを れることを 題 詞 に 自 注 が ほ ど こ さ れ て い て、 「 時 に 年 十 一。 厳 君 田 でん 進 しん 士 じ を し て 試 み し め、 予 われ 始 め て 詩 を 言 へ り き。 か る が ゆ ゑに篇の 首 はじめ に 載 の するなり」という。斉衡二年(八五五)の作。 「厳君」は父是善、 「田進士」は父の門人で文章生の 島田忠臣。のちに道真は忠臣の娘で 宣 のぶ 来 き こ 子 と結婚するから、忠臣は岳父となる人物である。 月が 耿 こうこう 耿 と照ると、まるで晴れた日の雪のように明るいではないか。梅の花は空にピカピカ光る星のよう。なん ともすばらしい、 空では黄金の鏡のように月がかがやき、 地上の庭園では梅の花房から、 ほら芳しい香りがただよっ てくるよ。月の輝きを一面に降り敷いた雪や金で鍍金された鏡にたとえ、梅花を天空にまたたく星や白玉にたとえ ている。 こうしたたとえを「可憐」で結んでみただけの、平凡な作で、五言絶句らしいリズムの強弱も表現の起伏も、ほ とんど見てとれない。 海 彼 で は、 梁 の 簡 文 帝( 五 〇 三 ~ 五 五 一 ) に「 雪 裏 に 梅 花 を 覓 もと む 」、 梁 の 王 筠( 四 八 一 ~ 五 四 九 ) に「 孔 中 丞 の 雪 裏 梅 花 に 和 す 」、 陳 の 陰 い ん こ う 鏗 ( 生 没 年 未 詳 ) に「 雪 裏 梅 花 」 と い っ た 雪 中 梅 を モ チ ー フ に し た 作 品 が あ り、 こ と に 簡文帝には「月を望む」もあって、こうだ。 流輝入画堂 流輝 画堂に入り
一七 初照上梅梁 初照 梅梁に上る 形同七子鏡 形は七子鏡に同じ 影類九秋霜 影は九秋の霜に類す 桂花那不落 桂花は 那 な んぞ落ちず 団扇与誰粧 団扇は誰がための 粧 よそほ ひ 空聞北窓弾 空しく北窓の弾を聞き 未挙西園觴 いまだ西園の 觴 しやう を挙げず 「梅梁」は、 「梅杖」が梅樹の枝を意味するように、梅の枝の意か。あるいは「梅屋」と同じように梅をうえた屋 敷か。 「七子鏡」は七面の鏡で装った鏡台。 「九秋」は一年の九〇日が秋であるところから、秋。月には桂の木が生 え て い る と い う 伝 説 か ら、 団 扇 は 望 月 に 似 て い る と こ ろ か ら、 と も に 月 を う た っ た も の。 「 北 窓 」 は 書 斎、 「 西 園 」 はもともと上林苑をいうのだが、ここではそこまでの意味はあるまい。 月光が画堂までも入りこみ、梅を植えた建物の 梁 はり までも照らしている。月のかたちといえば、七子鏡にひとしい し、ふりそそぐ月明かりは秋の霜のよう。月の世界に生えているという桂の花は散ることなく、 円 まどか で月に似ている 扇は、だれのための粧いだろうか。むなしく書斎で演奏を聞き、いまもって西園のさかづきをあげることもない。 「可憐」も簡文帝の同題詩に「憐れぶべし遠近なし 光照 悉 ことごと く徘徊す」とあり、 「可憐」の表現は海彼では多用 される表現で、 梅の例にかぎれば、 梁の鮑泉(?~五五一?)に「憐れぶべし階下の梅 飄 へうたう 蕩 風に 逐 したが ひて 迴 めぐ る」 (「梅 花を詠む詩」 )の例がある。 道 真 は 一 七 歳 の と き に 創 作 し た 七 言 詩「 赤 虹 の 篇 を 賦 し 得 た り、 一 首 」 に、 「 七 言 十 韻、 此 れ よ り 以 下 四 首 は、
一八 進士の挙に応ずるに臨みて、家君日毎に試せり。数十首有りと雖も、其の 頗 やや 観つべきものを採りて留むるなり」と して 『菅家文草』 に四首を採っている。 「家君」 (父の是善) が文章生の試験対策のために毎日課題を出したらしい。 ここでは佳作だけを択ぶとしているので、相当量の試作が棄てられたことになろう。ことは一一歳の頃も同じだろ うから、師である忠臣を前に飽くことなく創作をつづける、まだ 初 ういこうぶり 冠 まえでみずらを結った童児道真のすがたがあ りありと浮かんでこよう。それにしても、なんと耽美的な一作だろうか。 しばしば人のいうように、 この「月の夜に梅花を見る」と延喜三年(九〇三)に絶筆となった「謫居の春雪」は、 ひとしく梅をうたうことをもって、 呼応しているとみるべきだろう。 『菅家後集』 は「五言 自詠」 から 「謫居の春雪」 にいたるまでの作品を集め、延喜三年正月のころ、死が近いことを知った道真自身が箱におさめ、紀長谷雄のとこ ろに送るよう遺言したという。 今日の流布本となっているのは、藤原広兼なる人物が天承元年(一一三一)に北野社に奉納したもので、すでに 道真が没して二〇〇年をこえる歳月を経ている。とはいえ、延長元年(九二三)四月二〇日には、はやくも本官に 復して右大臣となり、 正二位に叙され、 さらに左遷の詔勅も破棄されている。 また正暦四年 (九九三) 五月には左大臣、 正一位とし、 同じ年の閏一〇月には太政大臣となっており、 このあいだも道真の残した『菅家文草』と『菅家後集』 は丁重にあつかわれていただろうから、道真のまとめた一本と流布本とに大きな異同があるとは思われない。 もしそうなら、 「謫居の春雪」は意味ある一作というべきだろう。 「謫居の春雪」以前の作は、次のようにまとめ られている。題と作中の一句を列挙してみよう。 ・「官舎の幽趣」 秋の雨 庭を 湿 うるほ す 潮 うしほ の落つる 地 ところ ・「秋の 晩 ゆふべ に白菊に題す」 凉 りやう 秋 しう 月尽きて 早 さう 霜 さう の初め
一九 ・「晩に東山の遠山を望む」 秋月 閑 しづか に 反 はんせう 照 に 因 よ りて 看 み る ・「風雨」 偏 ひとへ に菊花の 残 そこなは れむことを 惜 をし む ・「燈滅ゆ 二絶」 秋天に雪あらず 地に 蛍 ほたる なし ・「秋の月に問ふ」 春を 度 わた り夏を度りて 只 ただいま 今 の秋 ・「月に代りて答ふ」 蓂 めい 発 ひら き桂 香 かぐは しくして 半 なかばまどか 円 ならむとす ・「九月尽」 今 こんにち 日 二年 九月尽 ・「偶作」 病 やま ひは 衰 すい 老 らう を追ひて 到 いた る すべての作品に、 季節をうかがわせる語句があるわけではないのだが、 「九月尽」までは秋の作であり、 「九月尽」 が延喜二年九月三〇日作であるのは明らかで、秋まではそれなりに創作がつづいている。直前の「偶作」はいつの ころの創作かははっきりしないものの、 病追衰老到 病 やま ひは 衰 すい 老 らう を追ひて 到 いた る 愁趁謫居来 愁へは 謫 たくきよ 居 を 趁 もと めて 来 きた る 此賊逃無処 此の 賊 あだ 逃 のが るるに 処 ところ なし 観音念一廻 観音 念ずること 一 いつ 廻 くわい と う た っ て い る。 こ の 一 作 は 隋 朝 の 智 ち ぎ 顗 が 講 じ た『 天 台 止 観 』( 摩 訶 止 観 ) に あ る「 四 山 合 来、 無 逃 避 処 」 を ふ ま えたもの。智顗は衰老病死の四苦を四つの山にたとえ、けっしてのがれるところはないと説いている。衰えと病い の山の賊がやって来たし、 謫居の暮らしがはじまると憂い悲しみの山賊が居場所をもとめるかのようにやって来た。 もはや死山の賊が襲っても、逃れるところなどないのだ。南無観世音、お救いください。
二〇 創作時は不明ながら、先に七言詩「南館の 夜 よ に、都府の 礼 らい 仏 ぶち 懺 さん 悔 ぐゑ を聞く」があって、これは延喜元年一二月一九 日から二一日まで三日間にわたっておこなわれた礼仏懺悔の法会を背景とする作。次の「歳日の感懐」では「 新 しん 歳 せい 門 かど を突きて 来 きた る…… 合 かふ 掌 しやう して観音を念ずらくのみ 屠 と そ 蘇 盃を 把 と らせず」と、ここでも観音への 帰 き え 依 をうたってい る。 こうしてみると、 「偶作」も、 延喜二年の礼仏懺悔、 一万三千の仏名をとなえるはるかな声を聞きながらの作とも、 大晦日から元旦にかけての作とも想像されよう。とはいえ 「偶作」 では、 「 人 ひと は 地獄 幽 いう 冥 めい の 理 ことわり に 慚 は づ」 (「南館の夜に、 都府の礼仏懺悔を聞く」 )、 「故人 寺を 尋 たづ ねて 去 い ぬ」 (「歳日の感懐」 )といった他人への視線はまったくなく、ひた すら死を思い観世音の慈悲にすがる真情しかうたわれていないのに、注視すべきだろ う ((1 ( 。死山の賊はすでに道真の 命をうかがっていたのである。その後、道真は二か月あまり詩作の筆をとっていない。
五
絶筆、そして死
「謫居の春雪」を、煩をいとわず、もう一度読んでみよう。 盈城溢郭幾梅花 城 あづち に 盈 み ち 郭 くるわ に 溢 あふ れて 幾ばくの梅花ぞ 猶是風光早歳華 なほしこれ 風 ふう 光 くわう の 早 さう 歳 さい の華 雁足黏将疑繋帛 雁 かり の足に 黏 ねやか り 将 ゐ ては 帛 きぬ を 繋 か けたるかと疑ふ 烏頭點著思帰家 烏 からす の 頭 かしら に 點 さ し 著 つ きては 家に帰らむことを思ふ 延喜三年の春某日、筑紫の天空をおおっているのは、雪、雪、雪。それがまるで梅花がいっせいに咲き散ってい二一 る よ う で、 都 府 の 内 外 は 白 一 色 の 一 日 と な っ た。 「 風 光 」 と は、 風 に 吹 か れ て 動 く 草 や 木 が、 日 ざ し を あ び て 輝 く さまの意。 「早歳」とは歳の始めの意。新春の意を含みながら「早歳の華」と春を告げる梅の花をうたっている。 「風光」 はそれほど一般的なことばではなく、 どうやら道真は、 中国文学のアンソロジー 『文選』 にある謝朓 (四六四 ~ 四 九 九 ) の 作 品 あ た り に 学 ん だ ら し い ((( ( 。 謝 朓 は「 日 じ つ く わ 華 は 川 上 に 動 き 風 光 草 際 に 浮 ぶ 」( 「 徐 都 曹 に 和 す 一 首 」) 、 「歳華にして春に酒有れば 初服して郊扉に 偃 ふ しなん」 (「休沐して重ねて 還 かへ る道中一首」 )とうたう。これはたんに 語句を借りたというのではあるまい。前者は春ののどやかな風景に、官を退きたい思いをうたい、後者も休暇を終 えて公務にもどる道中、役職をしりぞき静かに暮らしたいというのが内容である。そのまま道真の心情に共通する ものがあるだろう。 この道真の作品で、 もっとも注目すべきは 「……雁足……烏頭……」 だろう。 「……雁足……」 はあまりにも有名な、 蘇武の雁信にかかわるエピソードである。蘇武(前一四〇~前六〇)が匈奴に 遣 つか いした。 単 ぜん 于 う は蘇武の漢への帰還 を惜しみ、匈奴に仕えるように迫ったが、蘇武はけっして節を曲げなかった。そのために一九年もの間、北海(バ イカル湖あたり)に幽閉され、苦境にたえることになるのである。昭帝のとき、上林苑の 遊 ゆう 猟 りよう で脚に帛書が結いつ けられた雁が射落とされた。結ばれていたのは匈奴にいる蘇武からの便りで、そのかわらぬ忠誠心を知った帝は遣 いをだして助け出したという。 「 …… 烏 頭 ……」 の 主 人 公 は、 燕 えん の 太 子 丹。 小 国 の 燕 に 生 れ た 丹 は、 幼 い こ ろ 趙 ちよう の 人 質 と な っ た。 同 じ 頃、 秦 か らも政(のちの始皇帝)が人質として送られてきており、 ふたりは親しんだ。その後、 丹は燕にもどり太子となり、 使者となって秦へ行き、昔なじみの政にあいさつをした。ところが、政のあつかいはたいそう冷たいものだった。 秦王は帰国を許さず、もし烏の頭が白くなり馬の頭に角が生えたら、その時は帰国させてやるという。丹が天を
二二 仰いで悲しむと、天がそれに応えたのだろう、烏の頭が白毛に変わり馬の頭にも角が生じたのである。そこで丹は 燕にもどることができた。これは 司馬貞(生没年未詳)が著す『史記索隠』所引の『燕丹子』にある 話。 道真は右のような蘇武と丹のエピソードをふまえながら、つのる帰京への思いをうたうのである。雁の脚に雪が 粘 り つ い て、 ま る で 白 絹 を 結 ゆ わ え て い る よ う で は な い か。 天 子 が 御 覧 に な れ ば、 き っ と 都 へ お 戻 し に な る だ ろ う。 あれ烏の頭に春の雪が点をうったようにのっかっているではないか。頭が白くなった烏、これでかならずや都へ帰 れるだろう。蘇武や燕丹がそうであったように……ああ、雪が降る、ああ、梅の白い 花 はなびら 弁 がちぢに舞う。無限の天 空から流れ来る雪は、はるか都にある山陰亭の北窓から見える梅樹を幻視させ、山陰亭の梅の幻はさらに、父是善 や師島田忠臣のもとで詩作にはげんでいた少年の日々へと、道真をいざなう。南館の梅から山陰亭の梅へ、山陰亭 の梅から華やぐ宮中の梅へ――。幻の梅の回廊をあゆむ、傷心の道真が彷彿とする。 もちろん賢明な道真だから、漢籍の次のようなくだりを知らなかったはずはな い ((1 ( 。匈奴に遠征し、蘇武と同様に 異 郷 に あ っ て、 帰 国 す る こ と な く つ い に そ こ に 骨 を う ず め た 李 陵 は、 帰 国 す る よ う う な が す 蘇 武 に 便 り し て い る。 道真も日頃、親しみ 諳 そら んじていただろう『文選』から 「蘇武に答ふる書」 (部分)を 一読する。 丁 ていねん 年 、 使ひを奉じて、 皓 かうしゆ 首 にして帰れば、 老母は堂に終り、 生妻は 帷 ゐ を去る。 此 こ れ天下の聞くこと 希 まれ なる所に して、 古今に未だ有らざる所なり。 蛮 ばんぱく 貊 の人も、 なほ 子 し の 節 せつ を 嘉 よみ す。 況 いはん や天下の 主 しゆ 為 た るをや。…… 子 し の帰るや、 賜 たまもの 二百万に過ぎず、 位 くらゐ は典属国に過ぎず。 あなたは、壮年にして匈奴へ使いし、白髪頭となって帰国した。老いた母親はもうこの世の人ではなく、年若い 妻はすでに再婚していた。こうしたことは世間にめったにないことだし、 古今にも例がない。蛮国の人びとでさえ、 あなたの節義をほめたたえている。天下の主である天子なら、なおさらではないか。
二三 に も か か わ ら ず、 褒 ほう 賞 しよう は た か が 銭 二 〇 〇 万、 役 職 は「 典 属 国 」( 蛮 族 で 漢 に 降 伏 し た 人 び と を つ か さ ど る 役 人 ) にすぎず、わずかの封地も与えられはしなかった。帰国してみたところで、 惨 さんたん 憺 たるありさま。それでもわたしも 漢にもどれというのかい。李陵が蘇武にかけたことばは、そのまま道真にも強烈に響くだろう。 タトエ帰京ガ許サレテモ、 右大臣ノ地位ヲ奪ワレ、 家族ハ離散シ、 道真トイウ名サエ 剝 ハ ギ取ラレ、 今ヤ 鯨 ク ジ ラ 鯢 ト 呼バレテイルオ前ニ、昔日ノ栄華ガ戻ッテクルモノカ…… 別 に、 燕 丹 に ま つ わ る 烏 頭 変 毛 の エ ピ ソ ー ド に つ い て も、 こ う だ。 百 家 の 言 に 通 じ て 大 儒 に な っ た と い わ れ る、 後漢の思想家 王 おう 充 じゆう (二七~一〇一?)の 『論衡』 「感虚」 から引用しよう。 燕の太子丹は何人ぞ、 而 しか も 能 よ く天を動かすや。聖人の 拘 とら はるる、 天を動かす 能 あた はず。太子丹は賢者なるに、 何 ぞ能く此れを致さん。 夫 そ れ天能く太子を 祐 たす け、 諸 しよ 瑞 ずゐ を生じ以て其の身を免れしむるは、 則ち能く秦王の意を 和 やわら げ、 以て其の難を解けばなり。拘はるるの一事は 易 やす く、 瑞を生ずるの五事は難きに、 一事の易きを 舎 を き、 五事 の難きを 為 な すは、何ぞ天の労を 憚 はばか らざるや。 湯 とう 王は夏台に 囚 とら われたし、文王は 羑 ゆう 里 り に 拘 とら われ、孔子は 陳 ちん 蔡 さい の野で飢えた。これほどの聖人たちが苦しんでいる の に、 天 は 聖 人 た ち に 手 を 差 し 伸 べ よ う と は し な か っ た。 に も か か わ ら ず、 燕 丹 が ど れ ほ ど の 聖 人 だ と い う の か、 かつて湯王らでさえ天を動かせなかったのに、太子丹くらいで何ができようか。 もし仮に天が太子の嘆きに感じて味方したとしよう。それならわざわざ烏の頭を白くしたり、馬に角を生やした り、 門 の 木 像 の 脚 を 肉 足 に か え た り、 太 陽 を 二 度 に わ た っ て 南 中 さ せ た り、 空 か ら 籾 もみ を 降 ら せ た り、 そ れ ほ ど の 七 しちめんどう 面倒 臭 くさ いことを五つもしなくとも、ただ一つ、秦王の心を和ませるだけで、燕に帰れたはずだ。天はなんともご 苦労なことよ。燕丹のエピソードは「虚なり」 (まっかな嘘っぱち だ )。これが、 王充の主張するところなのである。
二四 孔子トイウ大聖人デサエ天ハマッタク動カナカッタモノヲ、タカガ燕丹ゴトキデ天ガ感応シナイダロウ…… その弁は説得力がある。後日談ながら、しばらくして燕丹は燕にもどれたが、秦王が送り込んだ軍隊によって殺 されている。 道真がこうした王充の弁を理解できなかったはずはない。 にもかかわらず、 それでもなお蘇武や太子丹のエピソー ドにわが身をよせていくのは、ふたりに対する天の 憐 れんびん 憫 を、道真もまた、どれほど渇望していたかの証左になるだ ろう。 かの李陵は、蘇武への便りのなかで、 上 かみ は老母の年に臨んで 戮 りく せらるるを 念 おも ふ。妻子は 辜 つみ 無くして並びに 鯨 げいげい 鯢 為 せ られ、 身は国恩に 負 そむ き、 世の悲しむ 所と 為 な る…… 命 めい や 如 いか 何 ん せん。 と述べている。李陵は、いう。思えば、母は年老いた身でありながら処刑され、妻や子は罪もないのにこごとく殺 され、 わたし自身は国の恩にそむいて、 世間の人びとから悲しまれた、 この運命はどうしようもありません、 と。 「鯨 鯢 」 は、 不 義 の 罪 人 と し て 殺 さ れ る の 意。 李 陵 は す べ て を「 命 」( 天 の 与 え た 運 命 ) と し て 甘 受 し た。 匈 奴 で 二 〇 年あまりを暮らし、そこで没したのである。 死をたまわったわけではなさそうだが、妻の 宣 のぶ 来 き 子 こ は前年(延喜二年)の冬一二月二五日、京の留守宅をけなげ に 切 り 盛 り す る 心 労 か ら か、 夫 よ り も 先 に 没 し て い る。 李 陵 と 同 じ よ う に 辺 土 に あ っ た 道 真 は、 「 鯨 鯢 」 と 呼 ば れ 京を追われて二年、延喜三年二月二五日、五九歳で生涯をとじたけれど、はたして李陵のように、この天涯の死を もって「命」と自得していただろうか。
二五 注 ( 1) こうした 辺 へん 塞 さい の詩歌は 「梅花落」 と呼ばれ、 時代がくだると創作詩の一ジャンルとなった。たとえば唐の 盧 照鄰の 「梅花落」 。 梅嶺花初発 梅嶺 花初めて 発 ひら き 天山雪未開 天山 雪いまだ 開 と けず 雪処疑花満 雪の 処 ところ 花 満 み つるかと疑ひ 花辺似雪回 花の 辺 あたり 雪に似て 回 まは る 因風入舞袖 風に 因 よ り入りて袖に舞ひ 雑粉向妝台 雑粉として 妝 しやう 台 だい に 向 むか ふ 匈奴幾万里 匈奴 幾万里 春至不知来 春至りて 来 きた るを知らず 前 半 は 男 の、 後 半 は 女 の、 そ れ ぞ れ の 心 情 が う た わ れ て い る。 梅 が は じ め て 咲 い た も の の、 天 山 は ま だ 雪 に お お わ れ 春 は ま だ 遠 く、 一 面 の 雪 景 色 は ま る で 梅 が 花 開 い た か と 疑 わ れ る、 と い う。 都 に い る 女 の 周 り は、 梅 が 花 は な び ら 弁 を し き り に 散 ら し、 ま る で 好 す い た 男 が 駐 留 し て い る 辺 境 の 雪 景 色 が 想 像 さ れ て く る。 風 に 運 ば れ て 袖 に 舞 い 込 み、 白 お し ろ い 粉 の よ う に 化 粧 台 に 散 り か か る。 な の に、 匈 奴 の 地 は 幾 万 里 も の 彼 方、 春 は 来 た の に 男 は 帰 っ て は 来 な い、 と。 「 梅 花 落 」 は、 辺 境 に あ っ て 望 郷 の 悲 し み を う たう歌辞である。 ( 2) た だ し「 早 春 侍 宴 仁 寿 殿、 同 賦 春 雪 映 早 梅、 応 製 」 は 貞 観 一 五 年 一 月 の 作 と も い わ れ て い る か ら、 二 作 の 創 作 年 と 注 の 内 容 に齟齬が生じてしまうが、今は注にしたがっておきたい。 ( 3) 清少納言は『枕草子』 (第二七八段)で、次のように書いている。 雪 の い と 高 く 降 り た る を、 例 な ら ず 御 格 子 ま ゐ ら せ て、 炭 す 櫃 びつ に 火 お こ し て、 物 語 な ど し て あ つ ま り 候 さぶら ふ に、 「 少 納 言 よ。 香 炉 峰 の 雪 は い か な ら む 」 と 仰 せ ら る れ ば、 御 格 子 上 げ さ せ て、 御 み す 簾 を 高 く 上 げ た れ ば、 笑 は せ た ま ふ。 人 び と も「 み な さる事は知り、歌などにさへうたへど、思ひこそよらざりつれ。なほこの宮の人にはさるべきなめり」と言ふ。 雪 が た い そ う 深 く 降 り 積 も っ て い る の を、 い つ も の よ う で も な く 格 子 を 降 ろ し 申 し あ げ て、 炭 櫃 に 火 を お こ し て、 わ た し た ち 女 房 が 話 な ど を し て 集 ま っ て お 仕 え し て い る と、 中 宮 さ ま が「 少 納 言 よ。 香 炉 峰 の 雪 は ど の よ う か し ら 」 と
二六 仰 せ に な る の で、 格 子 を あ げ さ せ て 御 簾 を 高 く 巻 き あ げ た と こ ろ、 お 笑 い に な る。 ほ か の 人 た ち も「 み な そ れ は 知 っ て い て、 歌 な ど に も う た う の だ け れ ど、 思 い つ き も し な か っ た。 や は り 宮 に お 仕 え す る 人 と し て は、 う っ て つ け の 人 のようですね」という。 御簾を高く巻きあげたところが、清少納言の才智。 ( 4) 「司馬」は地方の第三等官で、実態はともかくも、一般的に閑職だとみられていたらしい。 ( 5) た だ し、 元 慶 五 年 に は 清 和 太 上 天 皇 が 崩 御 し て い る た め、 内 宴 は 中 止 さ れ て い る。 同 じ よ う に 元 慶 六、 七、 八 年 も ま た 中 止 さ れているので、元慶三年の作だろうか。創作年代はやや不審。 ( 6) 漢の 韓 かん 嬰 えい の撰。いろいろな古事や古語を集め、詩経の章句を用いて説明したもの。 ( 7) 『 初 学 記 』 は 唐 の 徐 堅 ら が 玄 宗 の 勅 に よ っ て 編 纂 し た も の で、 要 典 故 事 の ア ン ソ ロ ジ ー 、 開 元 一 六 年( 七 二 八 ) 撰 。『 白 はく 孔 こう 六 りく 帖 じよう 』は白楽天の六帖と宋の孔伝の続六帖を合わせたもので、故事成語が豊富。 ( 8) 『 和 漢 朗 詠 集 』 は 寛 弘 九 年( 一 〇 一 二 ) ご ろ に 成 立 し た。 白 楽 天・ 元 稹・ 菅 原 文 時・ 源 順 ら の 漢 詩 と 紀 貫 之・ 凡 河 内 躬 恒・ 柿 本 人 麻 呂 ら の 和 歌 を 組 み 合 わ せ、 四 季 と 雑 に 分 類 し て ま と め た も の。 重 之 歌 は『 拾 遺 和 歌 集 』 か ら 採 択 し た も の で、 「 冷 泉 院の東宮におはしましける時、百首歌たてまつれと仰せられければ」の詞書きがある。 ( 9) 「宰相に拝せらる、藤納言が 鄭 ていしう 州 の玉帯を賜へるを謝し奉る」とされた、次のような七言詩である。 身多撿束謝高才 身多く 撿 けむそく 束 して高才に謝す 賞賜分明玉不埃 賞 しやう 賜 し 分 ふんめい 明 にして玉も 埃 ほこり あらず 初自鄭州無脛至 初め鄭州より 脛 はぎ なくして至る 更従台閤有心来 更に 台 たいかふ 閤 より心ありて来る 雪慙廉潔随衣結 雪は 廉 れんけつ 潔 に 慙 は ぢて 衣 ころも に 随 したが ひて結ぶ 花譲栄華遂歩開 花は栄華に 譲 ゆづ りて 歩 あよ びに 遂 したが ひて開く 為向彫文相報道 為 かるがゆゑ に 彫 ゑ りたる 文 あや に向ひて 相 あひ 報 つ げて 道 い ふ 鑽堅功臣被誰催 鑽 さん 堅 けん の功臣 誰 たれ にか 催 もよほ さるると わ が 身 を 慎 つつし み、 す ぐ れ た 人 物 で あ る あ な た に 感 謝 し た い。 頂 戴 し た 帯 に ち り ば め ら れ た 玉 は、 一 点 の 曇 り な く 輝 い て い る。
二七 玉 帯 に 脚 は な い も の の、 は る ば る 中 国 の 鄭 州 か ら 本 朝 へ い た り、 さ ら に あ な た の と こ ろ か ら 厚 情 を も っ て わ た く し の と こ ろ へ や っ て き た。 雪 さ え も そ の 色 を 恥 る ほ ど に 清 せ い れ ん け つ ぱ く 廉 潔 白 な あ な た の 衣 を 飾 り、 桜 の 花 が そ の 華 や ぎ を 失 う ほ ど の あ な た の 栄 華・ 栄 達 に、 花 を そ え た こ の 玉 帯。 彫 ほ り こ ま れ て い る す ば ら し い 文 様 に、 は っ き り い え る の は、 学 問 に は げ ん で き た 結 果、 も し わ た しに手柄があるとしたら、誰の力ぞえによるのかということだろう。あなたが力づけてくれたことによるのだ、と。 「鄭州」は今日でいう河南省の州名で、 都は洛陽。実際、 玉帯が河南省あたりで作られたかどうかはともかくも、 舶来の帯だっ たのだろう。 「台」 は政治の最高職である三公の位を、 「閤」 はくぐり戸をいうが、 ここでは中納言である時平の邸宅を意味する。 「鑽堅」 は学問をする意。 『論語』 「子罕」 の顔淵が孔子の徳を讃えたことば、 「之を仰げば 弥 いよいよ 高く、 之を 鑽 き れば弥 堅 かた し」 によるが、 ここではその孔子が学問をもって弟子たちを導いたことから、学問そのものを意味するのだろう。 道 真 は「 分 憂 は 祖 おや よ り の 業 わざ に あ ら ぬ こ と 」( 「 北 堂 の 餞 はなむけ の 宴 」) で あ り、 あ く ま で 学 儒 で あ ろ う と し た。 こ の 一 首、 最 高 の 讃 美をもって時平への謝辞となっている。 ( 10) この二作の全容は次のとおりである。 ・人慚地獄幽冥理 人 ひと は 地獄 幽 いう 冥 めい の 理 ことわり に 慚 は づ 我泣天涯放逐辜 我は 天 てんがい 涯 放 はうちく 逐 の 辜 つみ に泣く 仏号遥聞知不得 仏 ぶつがう 号 遥 はるか に聞けども 知ること得ず 発心北向只南無 発 ほつしん 心 北に向ひてただ南無といふならくのみ ・故人尋寺去 故人 寺を 尋 たづ ねて 去 い ぬ 新歳突門来 新 しん 歳 せい 門 かど を突きて 来 きた る 鬢倍春初雪 鬢 びん は 春の初めの雪に 倍 まさ れり 心添蝋後灰 心は 蝋 らう の 後 のち の灰を 添 そ ふ 斎盤青葉菜 斎 さいばん 盤 に 青き葉の菜あり 香案白花梅 香案に 白き花の梅あり 合掌観音念 合 かふしやう 掌 して観音を念ずらくのみ 屠蘇不把盃 屠 と そ 蘇 盃を 把 と らせず。
二八 ( 11) 謝朓 (玄暉) は若くして学を好み、 その文章は清麗、 五言詩に長じた。群籍に通じていた 沈 しん 約 やく (四四一~五一三) をして、 「二百 年来、此の詩無し」といわしめたという。 ( 12) このあたりは、 「鯨鯢の出自―菅原道真 「自詠」 「開元の詔書を読む」 「謫居春雪」 から―」 でくわしく述べた (『比較文化』 第 13号) 。