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揖斐高著『江戸幕府と儒学者 : 林羅山・鵞峰・鳳岡三代の闘い』

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Academic year: 2021

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― 72 ― マーク・ボーラ 揖斐高著 『江戸幕府と儒学者――林羅山・鵞峰・鳳岡三代の闘い』

揖斐高著



  

『江戸幕府と儒学者



  

   

―― 林羅山・鵞峰・鳳岡三代の闘い



  江戸初期に儒者林羅山が幕府に仕えるようになってから、儒学の 一派である朱子学は幕府の教学として思想・教育の基礎となった。 以後、林家の司る官学が幕末まで何百年も続き、江戸時代の安定し た平和社会に大きく寄与した。しかし、朱子学及び林家は人の個性 を否定する封建的な思想として評価されるなど、一方的にマイナス 面が指摘される傾向にある。本書は朱子学と林家三代を公正に再評 価しようとした試みである。著者揖斐先生が特に興味持たれている のは「歴史の表面に表れている思想史的な、あるいは政治的な出来 事 の 背 後 に 隠 さ れ て い る、 時 代 状 況 や 権 利 と 拮 抗 す る 人 間 ド ラ マ 」 で あ り、 「 隠 さ れ た 人 間 ド ラ マ を 明 ら か に し、 そ の こ と に よ っ て 江 戸期朱子学と林家の再評価」を行うことが本書の趣旨である。   まず序章「方広寺鐘銘事件 ― 林羅山評価の試金石」では、豊臣家 の 滅 亡 を も た ら し た 大 坂 の 陣 で の 林 羅 山 の 関 与 は ど の よ う な も の だったのかを再考察する。羅山の役割は実際には限定的なものであ り、従来の評価が見直されるべきだと著者は指摘する。儒学的思想 と政治的圧力の狭間に置かれた羅山の行動の裏には一種の現実主義 があった。著者はマックス・ウエーバーの「目的合理的行為」とい う概念を踏まえながら羅山に始まる林家三代の行動指針を論じる。   第一章「朱子学者羅山の誕生」は、羅山の天正十一年京都での出 生から儒学への目覚め、二十五歳で幕府に召し抱えられるようにな るまでの出来事を取り上げ、儒者としての成長過程における羅山の 「 目 的 合 理 的 行 為 」 の あ り 方 を 描 き 出 そ う と し て い る。 続 く 第 二 章 「御儒者の仕事」 、第三章「時代のなかの朱子学」においては、儒者 羅山の幕府における役割が大きくなっていったことが描かれる。外 交文書の作成、公文書の草案、書物の編纂が御儒者の主な役割であ り、これらの大事な仕事を幕府は羅山に命じるようになっていく。 そして羅山としてもう一つの大事な仕事は教育であり、念願の林家 塾が寛永七年に幕府の援助で不忍池畔に建てられた。   「 現 実 主 義 者 」 と し て の 羅 山 は、 思 想 家 と い う よ り は 啓 蒙 的 な 儒 者であったことが特徴の一つである。生涯実際の政治に儒学を適応 しようとする志が見え、著者が描写する「目的合理性」を行動原理 とした羅山像が興味深い。   若いころから詩文を好んだ羅山が、必ずしも学問だけに没頭した わけではなかったことは、第四章「読書家羅山と文学」で明らかに されている。朱子学においては調和させることが難しいとされる文 学と道徳との関係をどう考えるべきかという問題について、風雅論 的な文学観を持つようになった羅山は、道徳と文学の共存を唱えた。 本章で紹介される石川丈山の詩仙堂に飾る詩人選定を巡る書簡のや り 取 り で は、 詩 人 は そ の 人 間 性 に よ っ て で は な く、 詩 そ の も の に よって評価されるべきという羅山のスタンスがよく窺える。

 

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― 73 ― 成蹊國文 第四十八号 (2015)   また、漢詩文のほかに羅山は和文学にも強い関心を持っていた。 「 儒 者 で あ り な が ら も 和 文 古 典 へ の 目 配 り も 忘 れ な い と い う 羅 山 の こうして姿勢は、林家一門においては羅山以後も受け継がれていき ( 中 略 ) 林 家 の 学 問 の 特 色 の 一 つ に な っ て い く の で あ る 」 と 著 者 は 記している。   明暦三年に江戸で大火が起き、その時羅山は途中まで読み進んだ 史書『梁書』を抱えながら籠に乗り別邸へ避難する。しかし屋敷も 書庫も全焼してしまい、大の本好きの羅山は家財とともに蔵書をす べて焼失したショックから立ち直れなくなってしまい、大火の数日 後七十五歳で没した。   こうして父羅山を失くした二代林鵞峰は家業を継ぐことになる。 羅山が築き上げた幕府御儒者としての林家の存続発展が、若いころ から弟とともに父の編纂作業を手伝っていた鵞峰の使命となり、ラ イ フ ワ ー ク と な る。 そ の な か で 大 き な 実 績 と な っ た の が、 第 六 章 「『 本 朝 通 鑑 』 の 編 纂 」 で 取 り 上 げ ら れ る「 命 懸 け の 大 事 業 」、 つ ま り大スケールの歴史書の編纂である。何年も続いた編纂作業中、さ まざまな紆余曲折があり、鵞峰にとっては正真正銘の闘いであった。 編纂の難航、儒学者としての歴史観の捉え方についての葛藤があっ たのみならず、作業の途中に多才で有望な長男梅洞が急逝してしま う。鵞峰は落胆し暫く編纂事業を中止することもあったが、結局七 年かけて寛文十年に完成する。   期待していた息子を亡くした悲しみに加え、鵞峰は林家の家業の 存続自体にも危機感を覚えた。鵞峰の苦悩は「一能子伝」と題した 問答体托伝に込められており、第七章「鵞峰の自画像「一能子伝」 」 において鵞峰の人間ドラマが描き出される。この自伝の中に「我、 才 無 く、 唯 だ 一 能 有 る の み 」 と あ る。 「 一 能 」 と は、 鵞 峰 本 人 に は 儒者としての能力を具えている自負心があったものの、幕府におい て は そ れ に 相 当 す る 待 遇 が な か っ た こ と を 意 味 す る。 し か し、 「 胸 中の相克を超えて、御儒者として為すべきことを為そうとする鵞峰 の決意の表明であった」と著者は分析している。   『 本 朝 通 鑑 』 完 成 後、 編 纂 作 業 の 場 と し て 使 わ れ た 国 史 館 の 建 物 と九十五人扶持の費用を、幕府は林家に門人育成料として下賜する。 こうして林家の家塾は整えられていった。その家塾の先進的な教育 システム、具体的なカリキュラムが第八章「林家塾の教育体制」の 内容となる。   二代林鵞峰は延宝八年五月六十三歳で没し、嫡子鳳岡が林家を相 続する。家業を受け継いだ三代林鳳岡は病気で没した梅洞の一歳下 の弟である。第九章「三代林鳳岡の憂鬱」では、優秀だった兄の陰 に隠れた鳳岡が不安と「憂鬱」と闘いながら、儒者の仕事をつらぬ く こ と を 決 心 し、 儒 学 を 好 ん だ 五 代 将 軍 綱 吉 に 寵 用 さ れ る よ う に なっていったドラマが描き出される。しだいに将軍の信頼を得るよ うになった鳳岡は、四十八歳の元禄四年に、聖堂の湯島への移転を 命ぜられた。学舎や講堂も建てられ、これが昌平黌となる。また、 同元禄四年に鳳岡は従五位下・大学頭に叙任、蓄髪を命ぜられるこ とになる。これらの出来事について、著者は「この年になって大学 頭という儒者としての職に初めて鳳岡が任ぜられ、蓄髪がゆるされ 成蹊国文48(紹介マーク).indd 73 2015/02/13 9:51:44

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― 74 ― マーク・ボーラ 揖斐高著 『江戸幕府と儒学者――林羅山・鵞峰・鳳岡三代の闘い』 たことは、林家が名実ともに幕府の教学を司る御儒者になったこと を意味した」と、これが幕府御儒者としての林家にとって、大きな 意義持つものであったことを指摘する。   第十章「赤穂事件」では、江戸時代における一大事件と林家との 関 わ り を 取 り 上 げ、 鳳 岡 の「 私 言 と 公 言 」 の 区 別 に 言 及 し、 林 家 代々の現実主義のあり方をさらに考察する。続く十一章「新井白石 との確執」では、六代・七代将軍の林家に対する冷遇や対抗的な朱 子学者との権力争いについて述べる。八代将軍吉宗に交代すると林 家一門の復権が叶うものの、次第に昌平黌での講釈の聴衆は減り、 林家に対する評判も低下していった。鳳岡は八十歳になった享保八 年に嫡子信充へ家業を継がせたが、その時には鳳岡は林家の将来に ついて不安を多く抱えるようになっていた。真面目で物静かな鳳岡 は、若くして没した兄ほどの才能を具えていないことを自覚しなが ら、家業を継いで発展させなくてはならないという辛い状況におか れた。その中で努力と気力で役割を果たした鳳岡は、享保十七年に 八 十 九 歳 で 没 し た。 本 書 の「 林 家 凋 落 の 萌 し 」 と 題 し た 終 章 に、 「 鳳 岡 は 林 家 の 当 主 と し て 学 才 の 乏 し さ を 自 覚 し な が ら も、 努 力 と 忍耐によって林家を維持発展させようと必死になった。しかし、そ の生涯のうちには、将軍の交代にともなって大きな浮沈を経験し、 晩年に至っては嫡子信充ともども将軍の信頼を損なうような不名誉 な失態を演じることもあった。そのような林家三代目の鳳岡にとっ て、もっとも気がかりなのは林家の将来であった」とあるように、 鳳岡は不安を抱えながらもなお子孫に期待していたが、そのように は行かず、林家はしだいに衰え、持ち直すことになるのは八代述斎 の時代になってからである。   本書の題名に「闘い」とあるが、これは実に林家三代の人間ドラ マにおける政治的な闘い、公私の区別に纏わる闘い、御儒者として の仕事との闘い、対抗的な他儒者との闘い、運命との闘いであり、 そして広い意味では後世の評価との闘いとも言えよう。著者は林家 の再評価を、三十年以上かけて膨大な未整理の史料を少しずつまと めながら進められてきた。本書は林家三代の真の姿を描く集大成で ある。   私は二十年ほど前に、留学生として近世の漢詩文を研究する意思 をもって揖斐先生を訪ねた。当時米国の文学研究界においては、文 学理論偏重の研究方法が流行しており、自由に研究することがなか なか難しいという状況があった。そのなかで一つの観点に囚われな い視野の広い揖斐先生の教えに触れることができ、非常にありがた く思ったことがあった。今回紹介させていただいた本書も、ニュー トラルな立場から研究の対象と向き合う先生らしい書物になってい る。林家にとどまらず、先生が引き続きこのような研究成果を公に されることを願っている。 ( 二 〇 一 四 年 六 月 二 五 日 発 行   二 七 二 頁   八 六 〇 円 + 税   中 央 公 論 新社) (まーく・ぼーら   平成十二年度大学院博士後期課程修了    現、中村化成工業代表取締役) 成蹊国文48(紹介マーク).indd 74 2015/02/24 9:50:44

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