個人所有權の問題--ハンス・リチュル教授の構想を中心に---香川大学学術情報リポジトリ

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(1)

田 男 始 住

l こ の 間 魔 性

所有機不可侵の原則 − 十八世紀的個人主義の要請仁一云の原則の功罪 − 所有機制 限傾向の檜大と個人的絶封僅へ.の懐疑 − 斬有機の相封性といふこと ー佃人所有機 の攣容とその鬱屈的統脚的把握の問返 近代淡の根本原則中、最も護嬰なるものゝ叫は﹃所有権不可盤の原則﹄︵亡n扁r−e邑ich群星d認Eig昌言ms︶ である。わが関においても、このことをいひ表はすために、怒淡には﹁日本偏民ハ其ノ所有権ヲ優サル、コーナ

シ﹂︵臓雛諾七︶として、﹁琴慧警″要撃芳桝二禦ご稽︶べき㌢明かにせられて

をり、また、民法には﹁所有者ハ法令ノ制限内二於テ白由二典所有物ノ佼川、牧益及ヒ魔分ヲ焉ス権利ヲ有ス﹂ ︵崇鯛二︶と雷られてゐる。牒この痕則は、フランス革命の人種宣音︵P来D註a許d認dr。i言 −ゴOnlmeetdu citO嵩n︶に由来し、権力がすべてを解決した中世の曙累時代に判する反動として生まれたもの 高松電算蔵王辟絞紀元二千六青年記念論文集

個人所有権の問題

・− ハンス・リチエル数授の構想を中心に−− l八六

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ヽ 天賦の標利として財貨の享有を許されてゐるのだと主張しだ、いはゆる冒H我の魔配﹄の常然の勢求であつた。 であるJそれは、園豪と問民とを封立的な庵のとして考へ、周民は囲衣と猫立しで 、−、−− ヽ︳ヽ︳ヽ それは、すべての財貨を偶人の絶対的支配に鍔属せしやて、偶人の日牽的創意を令盈しっ∼1これが日向なる利 用を許容するのでなければ、人聞生活に進歩と蟹展とを期待しうるものでないとされたところに、その横様があ っに。きうして、近代文明靭家は、多少の程度の苧しむあれ、悉くこの思想を承臓して、﹃紹封にして自内なる﹄ 桝有構を、最も重要なる制度の言して、図法をもつて儀述する態度をとつたので、所有樽不可鬱の原則婆一ゝ に中国にる地盤においで、現代財産淡の指導精神たj地位を獲得するに至ったのである。 ︵1︶ 憲法第二革は第二七備に和いて、猫り所有機忙のみその不可侵性を紘傑件の下叱典へてゐる¢憲法制軍曹初の趣旨 から論ずるときは、溝律が所有惜に封し公轟卜の制限を規定するは、むしろ、例外のととであらう◇故に制限の最 少限度忙止まるべきととが、憲法の精碑とするところと解せられる。 今‖、なほ、普通∽民蓮教科書が、所有謄は法令の制限内においで、全面的・義的に物ぉ菜配しうる構利で ぁると説明し、その支配の内容に閲して、また、支配の方法に紺して、ともに無制限指封なることが、所有機の 基本的性格である鮎蕊琶て、板紙において、依然にる十八世紀的偶人、善哉思想を離れえないのも、き﹂とに、 珊山なきことではないのである○ しかし、制度の其本的性格が、このやうなものとしで規定されたところに、驚は、多くの問題が句赦せられた 個人朋有他の問題

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山八八 高松高等清栄撃校紐元二千六百年記念論文塊 のであつた。われわれは、近代における資本主義の賛建といふことを間近とするとき、常に、その洪律上の棍墟 としての、所有醸の巌封と契約の自由︵宕旨ags許i訂it︶といふことを想起するのであるが、これらは、個人的 利益のために白山な溝助舞基を捉供する朗以だとうれキ嘗初の理想に邁ひ、よく資本主義釈済機構の・形成蟄展を 合理化し、朽腰に萌した封姪御庶を破壊して、人類文化の軍達に寄興した功精は没すべからざるものである。 けれども、われわれは、このやうなめぎましい成果のうらに、その陰影として生じた敢食間顆の伏在を看過し てはなら甘い。何故に個人主義的・資本量義的祀倉が、畢覚、融合問題を穿き起さゞるをえなかったかの論理 は、別に難癖単文は配合単に遜らねばならぬが、要するに、近代洪律思想の根幹において、すべでの佃人は平等 の地位で、白由に協定をなしうるものとしたことが、常初から現驚性をもたぬ観念形態にすぎなかつたのであ る。さうしで、個人所有権の絶封件と自由性とをあまりに強調した結凝は、資本としで作用する所有楷を少数者 の手に集中せしめて 想に侍り、ひいては、文化の敬達を阻恕するやうな事態を、随所に惹起すること七月ったのである。資本主義の 獲展爛熟とゝもに、次鎗に秋格を暴露したこの財産制度が、すでに弼占経済の段階において、著しく攣質せしめ られ経ったのも悲し蕊然であ ︵2︶ 有権絶封の原則乃至は私有財躇制度が、喧しく論議せらるゝことになつたのである。 ︵2︶ 国民生括の改普又は改革を論議する撃者思想家は、財産制度忙着眼せぎるはなく、今、この鮎において拳説を紹介

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するあ嬰を見ない。

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字a莞2SC000ロSe邑ni−訂R恥ぎrme de︼辞H㌫gisla許n Oiくi一e一望∬

鳩山碑士﹁財産法改正阻底概論﹂民法研究第一巻 大正山四年○ しからば、これらの論議は、近代立法における所有権思想にいかなる影建を輿へたか。今は、比較法制史的に各 法制下における所有樵概念や、その攣遽の跡をたどるべき場合ではないが、二言にしてつくすならば、かつて劇七 八九年フランスの人権宜冨は﹁所有樵ハ紳艶不可磁ノ権利ナリ﹂︵忘−prOpriかteundrOilinま。−邑e温sacrご としにのに封して、一九一八年ドイツのワイマール態淡は﹁所有梧ハ義務ヲ仲フ﹂︵Eig昌tum扁rpf−icぎ箪︶と 宣言した。両者のこの態囁jそあたかも十九世紀から二十世紀への進展における、所有権思想の推移を物語るも ︵3︶ のであるといへるであらう。 ︵3︶ 葛○−弟Reic訂詔月評壁l義und Ei駕亘毒耳一得∽い 嵩ede冒呂n−崇e句Or訂旨ritte des祭主詔註訂i琶回申J旨邑Fヨdeき∵肖−・一巴〇.S・悼Nひ声 すでに世界大戦前から、現蜜の要求に基づく修正をうけて、昔‖の絶剖性に破綻の翳をきざした個人用有権 ︵買邑恩邑um︶ば、大戦の勃教とゝもに急激なる融合雛溶的欒化や閣防止の必要から、益々制限を加へられ、 殊に、ドイツにおいては、大戦常時の戦時統制立法を経てワイマール憲法に至るや、果然、右の革倫的宣言によ ︵4︶ って、所有権の祀禽的統制は著しく根太となり、進んで今日、ナチスの所有権思想において、その極致に達した 個人所有機の問題

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ものといはねばならぬ。

︵4︶ この鮎につい七は、我妻教授﹁ナチスの所有機理論﹂牧野教授澄暦祝賀法慧㈹彗大壷、昭和〓ニ年。

さらに、わが闘においでも、今、拳固﹂致の原理は、すべての物と人とを挙げて、囲豪のために動見せねばな ′

らぬことになつた。かの国家級動員洪以下非常時宜淡として、われわれは、数へ切れぬ多くの淡律をもつことに

なつた。いはゆる統制主義の洪制がそれである。さうして、成文の法規が公放として、所有権に勤し漸次に強大

な統制を加へること∼なり、その制限は愈々多きを加へつ∼あることは注目すべき現象であるQ人は、もはや、

所有権は私法上の制度に非ゃして、公法上のものであるとさへいふ。

姦∵﹂のことは、そ冤不質において不可侵的であり、鵡封的であるとされた倦統的個人桝有櫨の規定のもと

においては、いかなる意味に理解してよいであらうか。

ゎが牧野博士はこの鮎について﹁わが憲淡は明かに﹃公藍の﹃法律﹄が所有権を制限することを承認し、民

法はまさしく﹃法令の制限﹄が所有権の冒巾﹄を拘束し得べきものとしてゐるところに、その﹃不可侵﹄的な

所有樺がその本来の性質において相封的なものであり、其の量目由に﹄人を行動ゼしむべき所有樵がそれ自身に

︵5︶ ぉいて富然に内森的な制限に服してゐるものであ.る﹂と述べられ、桝有権に内在するこの相封性から、新たに番

を理解せんとせられるが如くである。ユまさにあるべ牒所有碓は、このーやうな把鹿において新たに規制せらるべき

でもあらうか。極めて含蓄深き示唆として昧はふべきである。きしとに、﹁われわれは、今、すべての個人が飼家

高松高等商業築校紀元二千六百年記念論文集

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を預定することに因つてのみ、個人として存在し得るものであることを適切に意慈しっゝあるのであり、同時に、 すべての椿利は、図表に奉仕することに囚つでのみ、その意義を争っするものであることを理解しっゝあるので ぁる、﹂とせらるゝ今日においてほ、所有機も決して軋昏共同の生活を脅かしてまでも、偶人の立場を保護する総 封的な内容彦有するものとせらるペきではなく、契約自由の原則とゝもに、問家例・赦愈的立場を基礎として、 相射的に考察されねばならぬこと極めで常然であらう。 言J 牧野博士﹁所有機の革高慢と相劉性﹂鱒待時報第十啓発二輩四六貫。 このやう一にして、国家的・政令的統制の檜天するところ、桝有権の相封的性格は愈々前面に押出されぎる官見 ない。さうしで、所有機はそれ自身に内水的なるこの配合的粕封性の故に、今や、日々にその欒容を飴儀なくさ れて、その本来的なる個人的絶封牲を喪失しっ∼あるでもあらう。しかし、清々としてこの奔流の赴くところ、 われわれの生活に所有権が全く藤城せしめられるといふことは、果して想像しぇらる\ものであらうか。 おもふに∵所有権が所有稽として虞に意味をもつのは、その本質に依然としてある限度の不可俊的なるものを 湛へ、他人に対する㈹係においT物を排他的・澗占的に支配しうる範固を保有することに因つてしかりとされる のではあるまいか。換言すれば、いはゆる﹁所有楢の相封性﹂には、ノーの限界が測されてあるのではあるまいか。 何となれば、所有樺がその相封性を自己みづからに具有し、自己みづからに内在する道命のまゝに、制限づけら れてゐるのだとして、この日己制限的・相封的仲格こそ所有梯の本質であると考へる立場にたつ限り、われわれ 個人別有様の.間魁

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高埜偽称商薬袋校ぬ元二千六百年記念論文集 ︼九二 は、制限傾向の究極するところ終に所有権の全面的崩壊さへも、これを肯定せざる考えないのが論理必然の膵結 である。しかし﹂かくのごときは、如底われわれの容認しえないところである。内容において賽虚な、葦なる観 念としての桝有槽ならば、もはや、その名に低ひする何ものでもないからである.。われわれの人格活動の場とし て、頭に所有槽といふことが保障せられてある限りは、たとひ、自己制限的な相封的性格の存在はこれを認めざ るぉえないとしても、なほ、所有権は何程かの範固においで、最高不可俊なるものを保持して、背鰭的なる内容 を失ふべきではないと考へられねばならぬ。所有格の眞相は、むしろ、端的に、これをその絶封性と相劉件との 二重稲造において把捉することによつて、はじめて開明せらるゝのでなからうか。このやうな問題の抄出から、 わたくしは、朗有椎の絶封性といふことが干なほ、そのいかなる部分について、いかなる根擦に基き、いかに永 遠の螢求をもつて、それみづからを貰徹するかを挑めてみたい。 しかも、いふまでもなく、国家的配合的統制にち拘らサ、不可俊的なるものとして残るべき所有権の資質が、 そのまゝ、性格において、永遠不欒なるものとして春潰するとは考へられない。何故なら、統制淡規によつて、 所有権の中から仙定範園のものが、制限され取除かれてゆく場合には、残された本釆的な範囲のものも、亦、必 ずや、これによつて影響掌っけ、欒容を袋らぎるをえないからである。しかし、その性格をいかなるものとして 把起するかは、自らまた別簡の問題に威することである。今日、侍統的個人的所有樺に対して、新たに陪食的所 有能といふこと ー それは例外的に規定せられる統制的規定によつて、思想が、原則洪に封する例外洪を包容し

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︵6︶

っゝ、新たに蟹展的。疏品に理解さるべぎものーが議越に上るとき、われわれは、このやうな所有植の性格

︵7︶

を、いかに把捉したらよいであらうか。今、敢てご訂すれば、個人所有権における﹃超法規的絶封性﹄といふやう

なごとこそ、改めて論ぜらるべきではあるまいか、。たゞ、この語の生硬未熟なる、甚だ意をつくさないものがあ

︳ヽ るが、いふところの意味は、相封と抽象的に封立する絶対ではなく、かへつて、柄封と絶封との統言しでの虞 ヽ.ヽ

の絶封なるものを桝有権の本質の中に感定し、これに封して〓り概念空音試みんとする意腐にすぎない。しか

しゴ先の概念は、事葦を詮明して、その鐸納化抽象化であるばかりでなく、避に、その偲低を明かにし、その

理念を論じて、思想に展細性を輿へるものでなければ電らぬ。﹂われわれは、甥代決神輿における〓崇望準ぢる課

題を、このやうな鮎に預想してゐるものである。

︵6︶ 牧野博士﹁民法の基本問題﹂第四巻 昭和叫こ年三五≡貫以下。 ︵フ︶ この間讐閲聯しては、所有機の穿−︷s2i諒と買e冨i−eと晶らか募別して票せんとする彗1−Orの態 度が注目に隠する。磨L誉iぎN還k=字音琶d2S屠entumエロ句es−schrlへt誉A・賢已tNe二軍. 本稿に於いては、しかし、一わづかに問塩への竺歩としr、所有檎のこのやうな図豪的・祀脅的統制傾向の傍

題にも拘らず、統制淡規は行政嘉の行動を無制約ならしむべきものではなく一首、かへつて、所有橙の敢合化

の故にこそ、萱に、国家赦愈の本質的な翠求として、個人所有格はある精勤的な限度において常然に持輯すべ

く、また、その凝固にお/いて新たに強調せらるべきだといふ蒜を探究せんとするものである。資し・問題は行 個人所有機の問題

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政官憲への攻撃や干渉に摘してぁるのではなく、やがで招釆せらるべき理想世界と十九牡紀の硯驚とめ間に介在 対立して、この基本的な攣化こそ盛大だからゼある。さうして、今日、偶人所有碓の開放は、新たな硯覚から改 めてこれを確認すべき時期に迫られてゐると信ぜられるからである。 〓 個人所有植の囲家的。敢骨的基礎 個人所有機を闘家紋昏の本質から是認ザる試みー・文化的道義的基礎・−企鰭と偶人 との笹本閑倹 − 個人析番櫨の三機能 − 共産車哉的河合における偵鹿の諸現象 − 民族政策的・軍旗経済的革嘩−1民族亀倉櫨の舶胞咤豪放である−・家父の桝窮概 − 国民経済的基礎蔓−人間の創造的能力の問題 従来、佃人所有横を是認する立場は、徹底的に個人主義的な挙鎗に淵源した。このことは、単史的回顧 の容易 に謹明するところであるが、さらに、金牌主義的な諾鰭系においても、人は、個人別有権を是認せんがために は、なほ偶人から蟹施して寄を給ぜざる牢見ないセゐる℃ 瀕してさうだとすれば、個人の立場を離れ七閥家政禽の本質から、直接に、個人所有礁の制度を詮明し、これ ︵8︶ を軍鱒づける試みは不町髄に属することであらうか。われわれは、あるべき桝有樵は、まさに、このや㌢な問題 の解決拉伐って、はじめて制度の根掠と態容とを明らかになしうるものと侶じてゐる。しかし、それは猫り挟撃 廿同松高等商業撃校紀元二千六昔年記念論文集 一九四

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者のみの、よく究やっるところではないであらう。こ∼では、問題の最も基底的な鮎上っいて、バーゼル大挙ハン ︵9︶ ス・リチエル教授の論述に嬢つて、その構想 ︵8︶朗有機の競合叫性質を弘調する思想の粛芽は、醜化握酒的自由主義の克郎者とも云ふべ尊蛋農畢派の理論のうちに 存在したといはれるひしかし、所有機の配管的性質を認めつゝ而かも結論において紳済的個人主義K到達した妥農 学娯の矛盾忙ついては、井上慧岨教授の指摘せらるゝが如くである。非←数誓﹁私所有機の個人的及び配合的機 能﹂鱒撃討死解†鱒巻上動、九九鬼。定に▼、所有機の慧品性質を強調した撃誠として、冒guitの論述があること は周知の如くである。彼忙よれば併有櫨は櫨利ではなく、それば言放倉的機能︵ぎeど⋮OCi已2︶である。彼の 生抜の出費鮎は機利の否定にあり、従ってその個人所有機への感度も自ら明白である。Dugui蒜説は、牧野博士に ょって、夙に紹介批列せられて︵現代の文化と法律−大空ハ年︶以東、博士の所有機を論ぜらるゝやこの問題に 及ばれぎることなしといつてよいであらう。 ︵9︶ P邑Dl・詳n昌i蔓ユ・bas言2芝草2∵訂J賢卜賢e巧芽旨iO邑旨きm12u已哲芝i註k、芦一ム∞二琵、本 稿忙於ては以下Egentnlゴと略科す㌣ 数段によれば、仙人所有椿は、竺に、文化的遣義的基礎︵de;u−−ur已−乳已1chのGrundde昌ig邑uH諾し においてその草笛牲を獲得すノるっさうしで、このことは、偶人的に考へられた偶々の人格の本質から導かれるの ではなく、共同軋倉と個人との蓋本的鯛係から鐘紡せらるゝところである。 ︵10︶ ﹁仝醍としての軋昏は翰埋的に部分に兜行する。われわれは、政令のヰに、正確には、北ハ何赦脅の中に生れ、そ 個人所有地の聞損

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こに生活し、その中において、また、その中から、われわれの言語、直覚、陶冶、教養、思想を承けとる。しか

も、このやうな配禽は虞基的存在ではなく、歴史的な力と運命的な結合とをもつに、組囲や民族の硯驚乃至活動

としで、われわれに迫ってくる。

︵10︶ 個人主義の原則があらゆる方面において行詰っ衷今日、仝鰭主義への罪曇忙答へた第山人者ほシふバンである。シ

ュバンの ごde巧Wphl・e St$tへ.の上梓された叫九二−年忙、リチふル教授もおなじく個人史義打破の二腎として、

こT︸−20r訂d21Stpまswir宮Fa声;sp巴er au品eb巴−〓n d三日 出lle訂ご¢emeinまユschp2弓み町aこ邑is巾is旨2已arkT

ノ一身tschさこ小一芳一・を世忙迭った。なほシュバン軍規の批列を試みたものとして、OttO C〇n苫d のミ亡eり G⊇Ild・

訂h12巧del Leぎe O臣m鴛 Spgnsニ、商工経済研究兎二審掴餌以下拙終。シュバン研究文献としては、阿部源W

﹁シュバン融合・鐸漕撃説鰹系﹂附鉦鼓照。 ﹁われわれは、このやうな赦愈に・おいて、あたかも、仝腰における部分としての存在を宥する。それは、生きた 身惜における手足の跡係にも比すべきちのであるが、決して、死鰭におけるその構成分子の如きものとしで考へ られてはならぬ。さうして、まさにその故に、このやうな共同酷禽は、その部分の中に、従って、われわれみづ からの小に生きるものでぁり、われわれを招いて、他の場所に共同祀合が在るのではない。さうして、配合は共 同生活と個人生活との、この二光性の教果的な緊張︵管しdukti孟S七an呂n的︶の申に展開をつヾけてゆくのであ るが、しかも、この二光性は、あらゆる創造的瞬間における最後約分裂ではなく、かへつで、金鰻と部分との統 ㌻智同時に驚現しっゝあるものとして理解せられる。悲し、しからざれば、,共同敢命は死滅で㊦り、混沌乱脈の 高聡高等商斐撃校紀元土千六百年記念論文集 一九六

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釈態に陥らざるをえないからである。 ﹁けれとも、仝鰻の内部では、必然的に ー われわれは、元来、各個別々の有機的驚在であるから 一個人としての 固有の生活が欠はれない。それは∵断乎たる正義の要求をもつて、意味探き造形と秩序との中に、人格的・文化 的・道義的生命の苦りを顔示せねばやまない。仝膿と個人との閥係は、目的と手段の範噛では到底理解しうるも のでなく、樹家は、個人主義挙訟が構成したやうな、個人の目的のための手段ではないが、何人も亦、困家の日 ︵〓︶ 的のための革なる手段としてつきるものではない。個人的生命はそれみづからにおいて自己目的であゎ.、このこ とは人相の道義的固有債倍︵si邑ic訂Ei笥nWertdの†Pe邑已ichk軋t︶から鐸結.せられる。重機のためにこの生 命が犠牲とされるのは、それが、たゞ、最高の道義的献身の意味で、理想のために行はれる場合に、はじめで探 き意味をもつのである。﹂︵Eigentum︶S.栗鼠−票∽︶ ︹11︶ 個人を単に手段としてみることは個人を人間としては菅定することである。個人はあくまでも目的として見ねばな らぬ。しかし、個人を臼的として見ることは決して金牌を車扱として見ることではない。個人を目的として見るこ とを直に仝駿を手段として見ることゝなすのは古い立場である。かゝる立寄は捨てられなければならぬ。新しい鰍 筋は個人と全鰻とを共に目的と見る立場でなければならぬ。この鮎に関しては肖∃NLlldiノ畠un︼2邑Gemeins各a㌢ b2im芦づhOm認言nAql]in●一器∽︸S・∽0芦 このやうな前線から、問題は、右のやうな自怨の有機的葦在としての、よた、人間的共同饅の痕分としでの、 われわれが、その生命を昂揚持拡せしめんがためには、必然的に、幾多の財貨を要求せざるをえないといふ瓢に 個人併有他の問題 一九七

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移ってゆく。食物に閲し、衣服に開し、さらにまた、位屈に関して、われわれの欲求は鵜野的であ一る。所有とは 常にこのやうな目的のために廃埋しうる可能性であり、財貨こそは、われわれの所有確を構成する驚愕である。 こ\において、リサユル教挺は﹁一の財貨のせ界︵ei莞eigene G資e⊇e−t︶が北ハ同配合と個人との、この両生盾 両に対する生活資料としで配分装備せらるゝ場合に、それは、この両者の基本的開係に封廃してなされねばなら ぬ。﹂とされ、従ってコ方において共同配合はその直接目的のために、叫の共同控臍︵Gemein一計tsc訂昔︶を導 く、さうして、ある租の財貨世界は共同赦倉に魔せしゆられ、財貨はこゝでは、共同所有格︵Gem針莞品entu呈 として存在するのであるが、他方においても、同様にある櫨の財貨飯森は偶人に威せしめられ、共同酢禽は、何 人に財貨の所有者たることを認め、且つ軍賞に獲得された財貨を∵かれの生活のために魔分しうべきことを承認 する﹂︵Ei駕nt曇ヂ∽・雷の︶と説く。さうして、教授は∵このやケな洞窟した財蔑世界を個人に割常て、個人に所 有塵を設癒することによつて、次の三機能が充されるとせられるのである。 ⊥二︶′道東的式任と人格の自由とは、たゞ・、こゝにのみ澄明しえられる。 ︵二︶ 文化的・遭量的慣佑は、たゞ、このやうな所有槽lニおいてのみ創造せられる。J人間の物質からの猫立は、 こゝでは、物質の道義的支配、道義的形成へと攣する。 ∴三︶ 人格の宏規界は、このやうな所有槽甘界において存存し、このやうな所有機の承認の中に、人格防衛の 外盛が横たはる。 需松高藤商染掛校紀元二千六膏年記念論文集 一九八

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特殊所有碓のこの三機能を、文化の基礎として承けとる∴とによつて、そこに、個人所有椎是認の第劇の根接 が見川され、しかもそれが、共同政禽と偶人上の基本的な紺係からの紆結だとされるところに、∴リチユル教授の 尭張があるのである。如ち、所有樺が人間の形成力︵Ges邑t喜唱粁ra訂des芝e琵Ch昌︶を自在にし、やがてそれ が、人格の一義硯となる。しかし、このことは、個人的な特殊の柴持とか、ある階盾の習俗の表現といつたやうな 意味においで、さうだといふのではなく、聾に、朋有樟が様相︵S喜の其礎となつて、表現があればあるほど、品 々不安定な何人主義か失はれ、愈々確固たる慣習と規律とが共同敢禽に畿生するといふのである。慣習、風俗、 生活株式、さうして兢後には、蟄術的様相をもつた最高の表現が、共同生活と金義務的何人錬活との数英的な緊 張の坤から、換言すれば、責任と自由との中から成長し釆るといふのである。 以上のことは、もし、われわれが、山元論的秩序の此ハ型たる共産主義的眈令状態を想像するならば、十暦明白 に劉比せられるでもあらう。共床赦禽では平等主義のために、すべでの個人は同樵であり、平等ド無樺利であり そこには、いかなる桝有椎も存在すべきではないとせられる。偶人所有標にこそ不平等篭呈の危険を看取した彼 等主義者は、寓人に羨望にみらた平等魚の目由を保障するためには、萬人を赦愈の奴隷たらしゆねばやまなかっ た。そこでは、財貨は、それが直接消費に向けられる限りにおいて、さうして、精々消費によつてその財貨が滅 失する瞳間において、はじめて偶人のものに魔せしめられるであらう。しかし、これは、事薔上回有横の磨止で なければならぬ。 個人所有機の問題

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高松高車南光難攻紀・光二千六官年記念論文集 二〇〇 しかるに、驚は、他人の所有権を尊重することの中に﹁人間不可讐︵ぎ邑astbarkeitdesP慧On︶の承認 があり、人は、所有権寄濃によつて、人格の魯魚すべきを敬へられる。所有攣しそ人格防衛の第山根であり、こ のやうな外的保亀を破壊して共産主義を密現せんとしても、この試みが人間に直面して、ぐらつかざる学兄ない のは、決して偶然のことではないのである。 さらに﹁人格の外亀としでの所有機﹂︵Eigenどm繋ぎa蕗00a訂eine∽Aussenwau¢∽d雫Pe邑n−icF打eit︶の 磨止は、他人からの人格無税と同じ必然性をもつて、性的無制限を督すでもあらう。かつて、史家グレスペック ︵ほ︶ Gra乳2Ckほ﹁すべてが共有となるところ、結掛図も亦、女子霊ハ有となす﹂と報告したが、現に、われわれ ︵13︶ は、。シヤから同株に借間したのである。所有椿の破発とゝもに、青年は怜的混乱に格り、文化的家庭的なる固 有生活の無税せらる、ところ、勢ひ、自然主義的号生存が求められるのほかGいでもあらう0さうしでJ祀食卓 麓史上∵過激なる財貨共有の要求と女孟ハ有の要求とは執拗に追随して、鐸骨にも、﹁個別賂臍の揚寒を家族︵Fa・ mi吉の揚発から分別しぅるものでないことは白明である﹂とさへ極言せらる∼に莞た。jjとに、共産主義 は全文化、全文明の基礎を破壊するものである。ロシヤでは、家族の急激なる衰滅の結凝は、飢餓に瀕した孤児 の郡を戴千となく園内に彷往せし砂、性病は蔓延し、出産は減少した。このやうな豪放の衰減を支へんがたゆに は、放漫ながら、掃び、裏表制が国家的立場から合田的々なるものとして、絶直されねばならなかつた。蓋 し、かつて、児富の蕃育は国家みづからの手で、軽蔑にこれを括首すべきだとした敢骨壷義的暫観念が、すでに

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根本的に崩壊に節したからである。

︵ほ︶ 讃l・司・Ri宮已もie舛Om書ned2rW監e孟u野inぎns−2r這○−昌一買W−S.芦 ︵13︶田中︵刹︶将士、自然法的婚姻及び離婚論、家族制度全集、史論篇、第壷、霊芝下に、ロシヤ品するとの郡

の託通がある。

次ぎに、いはゆる﹁平等なる個人﹂の無組織なる畳として敢禽を眺める個人主義者の態度をすで∼、硯蟹的多 椋冥一計k詳訂Man身ぎigkei−︶の中に共同敢昏を観察するとき、所有権は、さらに忘、意味探きものとな

るであらう。リチニ教授は、この鮎に、個人所有権是認の第二の根接を、その民族政筍的、家族麿臍的基礎

︵註ks凰iti賢e。deH訂mi甘nwirtscFa買c訂nG⊇ロdedeひ由ig邑ums︶において把擬すべしとせらるゝ。

説明するまでもなく、敢愈には男女あり、老若あり、しかも、かれらは力畳、才能において全く相異り、また

相互に孤立して生活することなく、家族として緊密に結合す毛しかるに、十八世紀の配合単数は、この明白な

る事葦にも拘らや、全く抽象迂遠にすぎで、これらの鮎を看過した。今、教授に従へば﹁個人でなく家族こそ囲

家政昏の細胞である。さうして、所有腰はその赦禽的制約に従って、個人にではなく家族に奉仕する。故に、家

︵14︶ 父に期する所有樽は、安子哲保護、養育すべき道義的責任と∼もに典へられる﹂︵Eigen−um﹀S.票00︶ことにな

るのである。

︵14︶牧野博吉、イエーリングの言葉毯引かれて、古口ーマkおねる家父械の昆相を指摘せらるゝ。﹁家は、家長のか 個人併有嘩の問返 二〇仙

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高空同等商簡単校紀・乃二千六百年記念論文集 二〇二 やうな雄大なる憾カの下忙、袈は仙秤の教育的施設であつたのである。さうして、併有墟ほ、所有濱の悌やうな無 限な聴力の下忙、いはゞ一種の国家的制度であつたのである﹂と。なほ、詳細は﹁原子的人格と創造的人格﹂漆律 時報、昭和十朱隼九月畢、五凹茸参照。 このやうな養育義務を配合に過爵に負荷することは、自然の創造秩序への†渉反逆でもあらう。何故なら、子 供達は祀鼻から生れるのではなく﹂結婚即ち男女の結合から生れ、そわ故にこそ、男女はこの新仁な人間の生命 について安に任ぜねばならぬ。さらにこの烹任のために、かれらには臓彼的な筋合たる結婚が認められねばなら ぬ。子供を母の蛮骨から奪ひ去って、自然の創造秩序に背くことなき牢っるであらうか。母性愛こそは他のなに ものによつても代償せられないであらう。その子の心の琴線に爛れて、よくこれを奏でるものは母のみである。 配合主義的批評家は、この天恵を兢ることなく、たゞ物質文化の中に噴出する蚕鹿の諸現象を紬象化し、誇張す るめみであつた。 近時∵所有権概念中に義紡を導入して、これを理解しまぅとする論議において、常に、公的酢禽的義務のみが問 題として取扱はれてゐるが、こゝにも斯有権の道義的安住が、家族に銅して看過せられてゐるといふべきである○ われわれは、最期に述べた所有櫓の文化的遺志的基礎に開加して、さらに、右のやうな藤褒右骨定することに ょって、こゝに、個人所有権の走認の第二の根接に導かれるわけである。﹁家族こそ民族生命鱈の細胞として、そ の使命達成のために、ある同有の財貨世界を装備せらるべきものであり、﹂さうして.そこに所有樺の民族政策的、

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家族的経臍基礎が論ぜられねばならぬとせちれる閉息のものを珊解せねば茂らぬ。 このやうにしで、教授は、所有権の中にこ宣、女権を形域し道義を詐明する素材がひそむのだとせられたが、 ゎれわれは、さらに森閑的安住の儲について、いか宣給ぜられるかを聴かねばならぬ。一倍、上に取故はれた斯 宥聯の基鱒づけは、本質的にはい国民各個に閉有せらる∴ぺ牒ものとしての﹁消費財﹂︵宕骨a宍訂g許r︶﹁利川 財﹂︵ぎt昌n閃∽g㌃訂r︶に由してゞあつたが、教授は∵さらに大多数欄﹁生歳事段﹂︵守OdnktiOnSmi芳in︶につい ても、亦、、個人期有樵が承認しえらるゝものとしで、個人所有柊是認の第三の根城は、この鮎を論じて、その闊 民経済的基礎︵邑kswirtschaぎicheGrundd2SE常n冒ヨS︶においてこれを把挺するところに存するとせらる 、。即ち、﹁有能俊秀なる人間の創造的精神は、常に、生産手段の豊餞なる結合において、靭はにされ概評せられ る七上ろである。葉柄生活にあうて.は、創造的能力を柊増すべき自由なる創意に封して、常に、活動の天地が輿 へノられ、ウイれが完全に槍供され、保障されねばならぬ、﹂のであ名。生床手段への個人所有樵の要求ほ、まさにこ の飢から導かれ、さうして、このやうギ所有藤の輯民経済的基礎は、﹁地方分横的秩序を有する分業的市場雛 臍︵dのN邑ra−istisc両1ge。rdn苫nar貫tstei−ig昌Markt一計t采ha許︶において、生産力の最上の配分と弊働力の最 ︵15︶ キの緊張との、この二機能の中に見出される﹂︵Eigent仁m﹀S︶のヨ︶とせらる∼。この鮎についでは、さらに観 察するところがあるであら▼フ。 ︵15︶ ノ、gl・dp≡ei義筈endeり声望t讐h√Ge莞i毒ir訂ch昌u已訂pit已賢sc訂已警kt已誌ehaヂ一g一︸S.念1寧 個人所有権の問題 こ〇三

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三 個人所有権配分の不卒等ビ相績横 捉慶事段についての特別所有機と相鰭概−共同眈愈の本質と人間の不平等性ざ家 族は文化的小経済的教展の推進力である ー相紐機是認の板凄−女化的・民族政策 的基礎と国民緒洒的基礎1純分的分化カと職分姻家の堺請 − 併有械秩序に附著す る社食的妖隈の問題 上述の如く、生産手段についても、特別併有としての所有樺が承認せらるゝ場合、その結英としての所有碓の 配分︵Eig琶tumS喜tei︻ung︶には不平等を生せざる努見ないであらう。かつて、両派の敢倉皇毒牙は、所得の配 分︵Ei︸lk。mmenS完已乱ナ⋮g︶について不平等論に左祖しにが、それは弊働力開恐のために煽動を必穿とするとい ふ埋億によるものであつた。ロシヤでは、レーニンの均等理論︵G訂icFmac訂rei︶にも拘らず∵契約賃銀が認め られたけれども、財産についての所有穫不平等は否定せられ、各個人の財産形成︵宕rm茸ensbiEu義︶は改築せ られた。また、初期社食主義は、不ヤ等を永遠ならしめる相摸礁︵E許諾Cht︶を仇敵硯したのであらに。絶じて これらのことは、政令観の個人主義的出牽鮎からして、必然的に辟托せらるゝところであみ0 これに封して、リチエル敬疫は、公憤から闇渡するならば、共同配合の股分的多様性︵g蚤ederte欝nnig誓ig・ keit︶たる本質上、物的平等の要求は決して生じえないとして、次の如くに論ぜらるゝ。﹁全人類が尿に平等であむ となすことは、生活をかけ離れた抽象的露明としでは仰の意味をもつでもあらうが、驚際において、人はその天稟 高松高等南米蟄校紀元二千六甘牢記念論文集 二〇四

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の資質、才能、徳性、精力、個性に願℃て眼力なく興ってゐる。さうして、この不平等は愈々高度に、あたかも、 われわれの経済機構が、今日、根本において依燃としてさうであるやうに、輝力ある秩序の中に所有横の配分を 規制するであらう。さらに、敢合をば静止し半裸繊と解さ先いで、刻々として活動し、間断なく更新しっゝ、頚 展をつゞける生きた北ハ同鰻と−しで眺めるなちば、われわれは、そこに、しはしなくも、家族こそこのやうな張展更 新の細胞であることを見出すであらう。家族の持続性の中に、その侍統の申に、.また、その不変なる根其の中に こそ、文化的張展の壕も重要なる基礎があるのである。文化の形式と精華とは、昔から受機がれた架焚があつて こそ﹂はじめて昂揚恐展せしめらるゝことが儲かれねば操らぬ。もしそれ、相輯槽を腰元しで裕福をば成り金の 特樵と化せしめる ︵16︶ 靡止は家族藩政の徳性を消滅せしめるのみで肯く、また、茸に、多くを傾けた人々を貼って浪費者たらしめるで もめらう。まことに、さうだとすれば、今日、個人桝得、殊に失脚得についで、貯蓄によ争闘民経済的資本形成 を専らなる課題とする固民経済的機能は、もはや、十分に満足せしめちれないであらう。﹂︵Eige5tum﹀S・篭宇⊥竜こ 国家の生命は、たゞに現在的であるばかりではなく∵永遠への要求をもつて、時とゝもに驚現し、貫徹する。こ や氷遠性留保障するものこそ家族である。教授はこめ観鮎から直税して﹁相絨埴は露人が家族の連鎖の中におい て、常に、単なるその二部にすぎない審蟹に封しで、意味のある表現となるものである﹂とされる。このことは、現 在いづれの国民性においても否定せられないであらう。こゝから、今日、遺幡生物塾的意味で普遍化しっゝある 個人別有機の問題 二〇五

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高松高等商築辟校野望千六百年記念論文集

二〇六

認識において、相綬槽も亦、新た甘理解と新たな強調とを先行せしめねばならぬこと、あまりにも明白である。

教授は相紆樺是認の讐の根接を、このやうな文化的、民族政策的基礎に求むべしとせられてゐる。

︵16︶井上讐義援、私所有機の自鱒鱒的基礎、両壁討究寛十三谷下掛七〇貰以下にも同趣旨の叙述がある0

さうして、これに匹敵する鋳二の論癌として、相彼椎の図民経済的基礎が間超となる。この鮎については﹁相

祷擢は、まづ∵図民経済的に盈螢機能とすべき経済指導者の選抜を保障し、ついで、この選抜が成功した場合に

は、企業の機船的殻展を保臆する。﹂ものであるとせらる∼。このことは、個人芸量的革訟の簡軍に近づき難いと ころであつた。即ち﹁かりに、人は議に賢明でぁるとしよう。よし1それが、ぎ目的な偶然の願興する天寮に

基くものだとしても、このやうな場合には、企薬家の息子が再び企発表としでの造兵をもち、職エの息子は滞び

職エとしての道具をもつべさだといふ如きは、到底、考へられないことである。しかるに、われわれは﹂今日、

紛れ・もなき才能は、歴々遭侍する審賛を知る。音楽家の家族や、単著の家族や、或はまに、軍人の家族を想起す

るがよい。そこでは、全くルソーのいはゆる﹃芦i是が盈夢な役割を演じてゐるのである。誕でも父の職場に 近く成kすれば、いつしか父の職菜へ根を下ろし、苧つしないものは淘汰されるであらう。﹂︵Eigen冒n㍍.篭−︶

こゝに、例へば、農場、中小工場についての相楯樵が、壷代から次世代へめ企業の持綺といふ意味をもつと考

へられる理由があるのである。また、この固においても、いかに多くの大企業が戴世代に普家族の手中に育成

せられ、語展せしめられにかは、周知の如くである。勿論、企業家の富がそれみづからの中に、息子達を飽食せ

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しめ戴柴な旦那暮らしに誘ふ危険性をもつことは、﹃初代は儲け、二代は守り、三代は欠ふ﹄とい.ふ有名な諺の示 す通りでもあらう。たゞ、このことは仙般的には通用しない。かりにさうだとしても、企業家の席は、新たに上 昇した力としての、有能なる経文配人に閉ざゝれてはゐ克いであらう。 しかしながら、所有樽配分についての不平等は、必す、資質や能力の不平等と相應比例すべしとすることは1 あまうに困難であらう。それを完全に果すべく、配合の完全合理的な秩序を望むのは、まさに、不可能を求める ことでもあらう。けれども、有能才幹の人物には、勿論、このやうな所有碓への新道が開かれねばならぬこと雷 然である。この鮎について、偶人主義祀愈革鎗は、個人から出張することによつて、常に、誤った要求をもつ た。従らに自由な遣を拓けば、かへつで、不.適格者をも登場せしめることゝなるであらう。故に﹁融合的向上の ノルマ,ルな形式は、牧蜜から常襲者に、また、エレベーターボーイから甲羅長瀞にといふロマンチックなもので はなく、寧ろ、二代二穂に亙って、よき相親祭質をもつた優秀なる家族としての上昇こそ望ましいものである。 従って、こゝでも問題は個人に関してあるのでなく、よき遺侍的財席をもつた家族が進出して、結局、生活のあ る領域に指導的地歩を占めるもので庖ければならぬ︺︵Eig眉tum︸S.笥沌︶といふこナになるのである。 さらに梢じて問題を眺めよう。八は、金牌的立場からしても、財務配分についての不平等を許容するであら ぅ。のみならす、さらに進んでこれ哲要求するでもあらう。われわれは、史上随所に﹃政令的分化力﹄︵sONia−e ︵17︶ Di詳renNierung︶といふことが、此愈的・文化的数展の基礎となり前提となつた事例を見出すものでぁるが、こ 個人併有桟の間艦

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二C八 高松高等商簗畢校紀元±手六百年記念論文集 の配合的分化ガは、輯民控臍の内部においでは、茶々多様化しっ∼ある労働配分︵Arbeitstei−巨g︶の中に見られ るところである。 ︵け︶ 穿て、試a舛Weberはこの鮎Kついて﹁北ぺ、レポネスの岬州に行はれた農民的所有の平等が、もし希脱全土忙行ほれ てゐたならば、あの輝か←い希脱文化は擁して存在しなかつたであらう﹂と云った。同梯な指摘はぎh宮lIe。忙お いても見られろ。Gr音dris笹deりa−1gemeinenノ1。音s召i誌。h乾邑ehre一得♪望・I S・会ご ﹁人は才能に膝じて或は選持により、或は運命のま∼に、粒々の労働に呼び寄せられる。これらの労働が、不 平等な変求をもち、興った債低を有することはいふまでもない。さうして、この慣値は、市場においては均しか らざる僻格や報酬となって表はされてゐる。殊に、われわれは、指導的労働、貰躇的労働、紙箱沖的労働、肉髄 的労働、紙礫械的労働に至るまでの差異脅認めうる。・さうして、さらに、赦禽は職柴慮に應じでその肢鰭を編成 し、階暦は、それが法律的に組織せられて職分観家︵St許d邑aat︶を呈し、その上に圃家の意思形成がなされて のみ、階修たりうるものであるとせらるゝとき、職莫階盾は、そこにおいて、各人がそれぞれの職分に應じた勤労 を図表に提供するための有機的血鰻的組織を意味する。従って、指導的労働は琶践的労働よりも上位におかれ、 霹家はペンキ職よトニ向き段階にあら、大臣は自動串運憾宇よト/も政愈的には高き意味のポストをもつ。しかも、 大臣はある生活標準を表現しなければならぬであらうし、またある精紳的な要求をもつでもあらう。それは、市 電軍箪や輯民革校教師の比ではないであらう。このやうに結論することは、敢静的に極端に過敏となつた今日に

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ぉいでは、箪を用ひるさへ悍かられる桂であるが、しかも今日こそ愈々このやうに結論することの必嬰不可紋な

るを恩はねば℃らぬ。たゞし、これがためには、それぞれの職菜に問有の名尊を蹄属せしめ、公正なる弟務の運

行に相應する名啓は、これを将軍にも弊働者にも舵密に公平であるが如くに、虞蟄なる取叔ひを必要とすべきは

冷やるまでもない。さうして、このことは、すべての階盾が直接に紳に奉仕すること、別の語でいへば、すべで

︵18︶ の職業は直接に国家仝鱒に奉仕するもめであるといふ瓢に基礎をもつのである。﹂︵眉ent音㍍.当∽︶

要するに、∫リチニ教授は、このやうに考察せられるところから、祀愈的地位の菩別患是して、各人はその

場夙においで仝蠣に封する肢分として紳合は㌢るべしと渇望せら

れの固有生活たる自由の面と、道徳的人格としでの完全平等なる尊敬との、この二者が許容されねばならぬ。そ

の前者については活動力涌聾のために十分なる自由時間と、健康的な、しかも、満足なる任宅等に闘しての世話

が必要であり、その後者については各階衛は、直接、紳のために存在し、従って、各人も亦、さうだとされる所

以の噂解が大切である。﹂︵Eigentu阜∽.篭ふ︶ ︵18︶ この鮎においては、ワチチ禁教授はシュバンの ﹁支配段階の原則或は中間性の原則﹂ ︵訂21⋮2=斉家⋮g der 苧rs旨ぎderdeニ冒e−す賢卜反撃の立場にある。シ芸ンは階層の←下の秩序を段階的︵致命政治的︶な意

味で要求するが、その事本は明かにさ、スチッシュな政令の要である。いかなる仕事もその憤櫨は洒の前では平等

だといふ考へは、ルーテルによつて螢展せしめられ虫張され、それが苧がて特殊の静働倫理となつた。

個人併有構の問鼠 二〇九

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二皿○ 高聡高等商薬堪校紀光二千六官隼記念論文薙 以上.展開を甚しく冗漫ならしめたかを憤れるものであるが、畢党するに、リチユル教授の所論に従へば、朔 有権秩序の不平等性は、第一には文化的基礎において、共同祀倉の本質と人間の不平等性から是認せられ、さら ド、上述の敢禽的差異こそ政令的文化的蟹展の原理と君側さる∼ところから、こ∼にも亦、所有権秩序における 不平等性形成を肯定すべき根擁をえらるゝのである。しかしながら、塵制限に守っであるのでは甘く、常に、部 分が仝鰻に勤して意味のある肢分としてとゞまる限りにおいT論ぜらるべきことである。 さうして、さらに、所有権秩序の不平等性は、妨二には閣民控潜的諸機能から∵﹂れを肯定すべき根墟をえられ て、こゝから、個人所有権とその形成展開の自由なる形式を嘗現すべしとせらるゝ。さうしで、最後に、 僻して、、個人新宿漕はその地位を、財貨に封する経済人の完全なる白己安住において規烹すべきものなること、 さらに進んで、所有権秩序こそ眞の自由の保障であることが論ぜられるのであるが、今は深くこれに慣れない。 たゞ、個人所有植を文化的、人生的倍他ある祀禽秩序の基本範疇として是認するリチユル教授においても、そ のことのために、なほ依然としてこの制度に附着する多くの赦愈的快格が見失はれることがあつてはならない。 不断に完成せらるゝ赦禽秩序は、個人の遺徳的生活における完成と同じく、簡単には嘗現されえないであら,γし しかしながら、このことが、問題を眞剣に追及すべき安務を放乗せしめる理由とはならない。こ∼に、赦命にと っては、積極的な経済政策乃至赦禽政策によつて、害悪を除き、映格を斥け、国難を宥め、各人にかれのものを 分つべき辣通が設定せられるのである。

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ゎれわれは、以上において、リチ完教授の構想の、芸誉鮎につき、ほゞ、これを展開して、坪有樵の新理

論構成品家政愈の本労ら把捉せんとする教授の試み晶親した。苧つして、個人所有椎は閲読赦脅の進藤的

要求として、決して磯波に管しめらるべきでだといふ警、警の角度から、蒜的に、かつ、示唆的に指

摘せらる∼ところを挙んだ。今日、所有権に封する公法的釈別便向の進展するところ、個人所有槍の蹄趨いかん

造推移にも拘らず、本質的には所有構秩序が、従って、個人所有権が存続すると軋る鮎においては、全くわれわれ

と一致する。

しからばこのやうにして導かれた所有植の塾展と改造への結論乃革質求は、これを、いかにして、嘗際的適川

へ復辟せしむべきであるか∵しのやうにして金饉精神の中に制約せられた所有槍の機能と限界とは、これを、兵

鰭的には、いかなる態容のものとして淡的に構成すべきであるか、問題はご悠翳ってこの鮎に在るといはねばな

らぬ。しかし、このことたる、蒜の歴史と具餞的事情を無税して抽象的に決定せらるべき事柄ではなく・その

道は遠く唆しい。しかも、現代法律拳は、このやうな困難な詩境を発根することによつてのみ、前進しなければ

ならないであらう。

個人所有棲の間組 四 結

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参照

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