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社会主義から資本主義への移行と本源的蓄積過程-香川大学学術情報リポジトリ

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香 川 大 学 経 済 論 首 長 第 65巻 第 4号 1993年3月 27-50

社会主義から資本主義への移行と

本源的蓄積過程

安 井 修

1.課題設定 ここ数年の聞に,旧社会主義国(東欧や旧ソ連)は明確な方向に向かつて走 りだした。それはもはや社会主義の改革ではなく,資本主義への移行という方 向である。それがその国民の選択であれば,われわれがそれに特別に異論を唱 える必要はない。しかし,学問研究者としては,そうした方向をそのまま受け 入れるわけにはいかない。私は,マルクス経済学を研究してきたものとして, 二つのことが必要であると考えている。一つは,たとえ旧社会主義国が社会主 義を放棄して,資本主義へ移行するとしても,それが望ましい選択であるかど うかを学問的に論ずる必要があるということである。自己批判的な表現でいえ ば,社会主義を人類史上意味があるものと説明してきたものとして,そうした 立場がそもそも正しかったのかどうか,正しいとしても,現実の社会主義がこ れを実現できなかったとすれば,いかなる社会主義がその正しさを実現できる のか,といった問題である(;)それがきちんと明らかになれば,旧来の社会主義 ※ 本 稿 は 平 成4年度香川大学経済学部経済学科プロジェクト費」の援助に基づく研究報告 である。 (1) 最近,よく聞かれるのが次のような主張である。即ち,旧社会主義は社会主義と呼べる ものではなかった,したがってこの崩嬢をもって社会主義の崩壊とする必要はない,と。 いうまでもなく,一部の研究者を除いてほとんど誰もが,旧社会主義が理想的な社会主義 を実現したものであるとは考えていなかったといってよい。したがって,自分が理想的で あると考える社会を基準にして発言することができるなら,誰でも,あれは社会主義に値 しなかったということができる。しかし,日本のマルクス経済学では,重大な欠陥がある ことは認めつつも,ロシア革命以降の社会を人類史上初めて実現した社会主義と捉え,そ

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とは異なった新たな社会主義を提起することとなるから(私にとってそれは市 場社会主義しかないが),資本主義への移行をめざす動きに対するオー/レタナ ティブを提起することとなろう。この問題についての私の立場は,拙稿(I

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でその序説を述べたが,課題自身が大きなテーマであるから,別稿において今 後順次展開する予定である。もう一つ必要なことは, (いま多くの国で選択され つつある)資本主義への移行の過程を客観的に分析することである。つまり, そうした選択を是認するかどうかを離れて,まず,その過程を科学的に分析す る必要がある。本稿では,この後者の問題を取り扱うことにする。 現在行われている「社会主義から資本主義への移行」を客観的に分析する場 合の視座は,いうまでもなく『資本論』である。『資本論』の構成では,まず第

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巻 第

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編 で , 商 品 貨 幣 資 本 の 流 通 諸 形 態 が 扱 わ れ て い る 。 そ し て , 続 く 第3編では,第1

2編の流通諸形態の展開をうけて,資本主義的な生産 過程一価値増殖過程を取り扱うこととなる。そこでは,すでに資本主義社会を 構成する三大階級の成立は前提されている。もちろん,土地所有者階級の形成 は別としても,労働者階級や資本家階級の形成は容易なことではなく,数世紀 にわたって繰り広げられた歴史の産物である。したがって,その歴史的過程は, 第

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巻 第

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編の最後で「本源的蓄積過程」として取り扱われており,そこでの 展開を前提として,第1巻第3編の説明が行われるという構成になっている。 こうした『資本論』の構成がまず参照されねばならないのであり,それを参照 しつつ,

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末の資本主義形成史がいま論じられねばならないのである。 れをより理想的な社会に近づけるためにはどうしたらよいのかを真撃に議論してきたの ではなかったか。歴史の激変をきちんと受けとめるという姿勢がなくては,次に来るべき 理想的な社会を構想することは到底できないであろう。 (2 ) いま社会主義にも市場経済を導入するとすれば,この商品一貨幣ー資本の流通諸形態 は,査本主義』とも毛ろじ元在会圭轟止も来通止£そ止ま毛虫通形惑ということになる。社 会主義自体が放棄されつつある現在,かかる位置づけは若干空虚に聞こえるかもしれな いが,資本主義への移行とは異なる道を提起したいわれわれとしては,いま一度このこと を確認しておきたい。拍著[14)参照。 ( 3) その窓味では,岩田(1)が主張しているように,いま必要なのはまさにマルクス経済 学そのものなのである。もちろん,近代経済学が不要なのではない。個別的な課題へ対応 するには,近代経済学的な分析手法は必要不可欠である。しかし,本源的蓄積過程のよう な長期的な歴史の流れを理解するには,まず『資本論』を最初に読むべきであろう。

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515 社会主義から資本主義への移行と本源的蓄積過程 -29-しかしながら,いま起こっていることは,封建制社会から資本制担会への移 行ではなしあくまでも社会主義担会から資本制社会への移行である。したがっ て,まず第ーに,解体されるべきものが,即ち歴史的な前提条件が全く異なっ ている。全く異なっているだけでなしこれは歴史上初めての経験でもある。 第二に,この過程自体も異なるものとならざるをえない。社会主義社会の解体 が共産党の一党独裁体制の崩壊をもたらし,民主主義的な社会の形成を伴って いる以上 r聞い込み運動」や「労働立法」といった暴力的な装置を使って,こ の過程を実現していくわけにはいかないからである。また,かつて行われた「社 会主義的本源的蓄積過程」のように,農民からの暴力的な収奪の上に,上から の工業化を行うわけにもいかないからである。第三に,最終的に達成されるべ き資本主義社会の姿も異なったものとなろう。現在は

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の資本主義ではな い。レギュラシオン理論の最近の表現を借りれば,アフター・フォーデイズム なお, I自社会主義国の変容過程は,日本の研究者によって,かなり早いスピードで(社 会主義研究者ではない)われわれにも伝えられている。しかし,それらを読む限りでは, さまざまな事実を包括的な論理で捉えるという視点がないように思われる。本稿は,この 過程をマルクスの本源的蓄積過程論から捉えなおしたらうまく整理できるのではない か,という視点から叙述されている。したがって,本稿には,変容過程そのものについて いえば,新たな内容の報告があるわけではない。 (4 ) もし日本の歴史と対比させながら考えるとすれば,旧社会主義がいま直面している問 題は,戦後の復興過程で行われたドッジ・ラインの問題というより,むしろ明治維新以降 の日本資本主義の形成期の問題である。遅れて資本主義化した国々は,同じように本源的 蓄積過程を実現しながら,その中身は決してイギリスのやり方そのものではなかったの であるが,そのことがいま視野に入ってこなければならない。 (5 ) とりあえず,このような表現を使うが,私は,レギュラシオン理論の表現を使うことに ついては実は釈然としないものを感じている。即ち,マルクス経済学の学会状況をきちん とフォローすれば,レギュラシオン理論が与えたような戦後資本主義についての位置づ けは,同じような時期に馬場宏二や加藤栄ーによって提起されていたことがわかるはず であるからである。しかも,馬場の「富裕化」論は,大内国独資論への批判(同権化論を 踏まえた福祉国家論)と「国独資=停滞」論への批判(耐久消費財を軸とする大衆消費社 会論)から成り立っており,その意味では従来の論争を踏まえた上での(即ち,現代資本 主義をすべて危機論で片付けるという学会状況に対する)大胆な問題提起であった。馬場 は,そこでは「フォーデイズム」という言葉は使用していないが,事実上同じような規定 をすでに与えていたのである。福祉国家論や大衆消費社会論や最近のコーポラティズム 論を結び付けていけば,フォーデイズム論とほぼ重なってくることは誰にでもわかるは ずである。ただ,宇野理論では商品過剰説的な議論を極端に排除するため r戦前では大 量生産されたものが大衆の消費とうまく結び、つかなかったが,戦後は生産と消費の好循

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のあり方が問題となっているような社会である。他方では,グローパリゼーショ ンが進行しているから,いかなる社会に転化するにせよ,周りの体制との深い 関わり抜きには転化は考えられないが,まさにその周りが一変しているのであ る。もちろん,資本主義への移行である限りは,資本主義の基本的な性格は実 現していくことになろうが,同時に様々なバリエーションを含んでいなければ ならないということになる。宇野理論流にいえば,原理論と段階論を区別した 上で,両方とも用意することが必要なのである。したがってまた,この達成さ れる資本主義のあり方が,上で述べた第二の移行過程のあり方をも規定してい くこととなるだろう。 なお,佐藤[

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)は,資本主義への移行ではなく r再資本主義イ七」であると している。「もともとこれらの諸国は,それぞれ発展段階を異にしていたけれど も,資本主義による経済社会の近代化・工業化の途上にあった。それがロシア では

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年に,中・東欧諸国では

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年前後にソ連型『社会主義』の導入に よって『中断』された(この場合にはソ連の軍事的プレゼ、ンスが大きく物を言っ た)のであるから,その枠組みが崩壊したら,資本主義発展が『再開』される のは別に不思議でも何でもないJ

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頁)。しかしながら,

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年から

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年 までに資本主義的なるものは完全に壊された。だからこそ,旧ソ連では,チェ コ等と比較して資本主義化への道がきわめて困難であるといわれているではな いか。とすれば,連続性が断ち切れたものを,あえて「再開」と呼ぶ必要はな いであろう。佐藤(6 )があえて「再開」と呼ぶのは,おそらく資本主義への 環が生まれ,それが資本主義の高度成長を実現していった」という論点(レギュラシオン 理論の最も重要な点)が希薄となっている。しかし,それは根本的な相違点とはいえない。 馬場の「会社主義」とレギュラシオン理論の「トヨテイズム」の関係についても,同様で ある。馬場の説明は,宇野理論特有の用語を使用していて,理解が容易とは決していえな い(かつてプロゼ、ミナールのテキストとして読んだことがあるが,その説明のほとんどが あの難解な宇野の解釈から始まっているため,研究者でもない学生にそのことを説明す るのに非常に苦労したことがある)。しかしいずれにせよ,外国からの輸入学問によって, 学会全体が共有していたパラダイムが初めて変化していくという状況は,いまの「経済理 論学会」を象徴しているように思われる。「外来説なるが故に身近な説より低水準なのに (,低水準」という表現は留保したい一安井一)尊重するのでは欧米崇拝にほかなるまい」 (馬場(10) 188頁)。

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517 社会主義から資本主義への移行と本源的蓄積過程 -31ー 移行を正当化するという意図があるからであろう。 II.歴史的前提条件 まず,解体されつつある旧来の柾会主義の現実を概括することから始めよう。 ここでは,旧ソ連や東欧の現実を参考にしつつ,ある程度抽象的なモデルを考 察することとしよう。 1 計画経済 資本主義社会の解剖(~資本論~)で、は,社会的分業の編成様式である「商品・ 貨幣」論を踏まえて,資本主義的生産関係が与えられていた。社会主義社会の 解剖でも,まず社会的分業の編成様式である「計画経済」論を与え,それを踏 まえて,世会主義的生産関係を与えるということにしてみよう。更に

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資本論』 を参考にして,社会主義的生産関係を,生産過程と流通過程に分けて考察する ことにしてみよう。 社会主義社会の第一の前提は,社会的分業関係を編成するのは,市場経済関 係が中心ではなく,中央計画当局による計画が中心であるということである。 中央計画当局が決定するものは,すべての価格と生産量であるとする。生産量 の決定は,必然的にその生産に必要な生産手段の配分と労働力の配分も中央計 画当局が決定することとなる。そこには追加生産手段と追加労働力部分も含ま (6 ) このように,旧来の社会主義システムを資本主義分析の書である『資本論』の構成と対 比させながら理解するという手法は,教科書的には正しくないかもしれない。ただ,さま ざまな解説:古から社会主義経済のモデルを構成しよう(本源的蓄積過程を考えるには,そ の前の社会の定式化が不可欠でーある)と考えた時,このようにすると(マルクス経済学の 原論を専門分野としてきた者としては)わかりやすかったというだけのことである。 なお『経済学教科書』では r社 会 主 義 的 生 産 様 式 第 二 社会主義の経済制度」の冒 頭 に 第 二 二 章 生産手段の社会主義的所有。社会主義の生産関係の性格」が設定され, 社会主義論の説明は,社会的所有のこつの形態の意義から始まっていた。これに対して, ツァゴロフ編(8)では資本論』を意識した構成が採用されている。「マルクスが資本 主義の端初的生産関係と基本的生産関係とを区別したように,社会主義的生産諸関係の 体系にあってもその端初的生産関係と基本的生産関係とを区別しなければならない。 一商品形態は資本主義の端初的形態である。社会主義の場合の最も単純な端初的 関係としてあらわれるのは,計画性をもった協力の諸関係,直接社会化された生産の諸関 係であって,これらは社会的発展の計画性にあらわされるJ(32~33 頁)。したがって,社 会主義論の最初に「社会主義的生産の計画性」が設定されている。

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れるから,投資決定も中央計画当局が行うこととなる。 中央計画当局が決定する命令・ノルマをうけて,生産活動を営むのが企業で ある。計画組織は垂直型になっており,多くの場合,中央計画当局と企業の聞 に,中間的な管理機構が形成されることとなる。そして,そこで働く人々が膨 大な官僚機構を形成することとなる。しかし,ここでは単純化のため,中央計 画当局と企業の関係だけに純化して考えることとする。

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生産関係 まず,社会主義的生産過程について。社会主義生産過程の分析では,所有関 係の分析から始めることが多い。企業における所有関係のうち,法律的な部分 は社会的一国家的所有を前提する。したがって,企業を構成する人々には,企 業それ自体の設立や廃止の決定権限はなしそれらはすべて国家に属するとす る。 しかし,所有関係の基本は法律的な関係ではなく,生産に関する決定を誰が 行うかである。企業を構成するのは,経営者と労働者である。しかし,経営者 にも労働者にも,生産に関する最終的な決定権は与えられていない。価格と生 産量と投資の大きさが中央計画当局によって決められているからである。この ように,生産関係の基軸となる部分に,中央計画当局=国家が入ってきて,国 家と企業との関係が中心軸となる。旧来の社会主義を「国家社会主義」と呼ぶ のもこうした理由からであろう。したがって,国家がいかなる性格をもつかに よって,国家と(経営者と労働者を含む)企業との関係が決まってくる。国家 が共産党権力と一体化し,共産党権力が個人によって支配されると,一党独裁 や個人崇拝が成立し,その下で労働者=人民が抑圧されるという事態も発生す る。それは,資本主義的な支配関係(資本家による労働者への絶対的支配関係) と同様に(あるいはそれ以上に)否定されるべきものである。ただ r国家社会 主義」と呼ばれるシステムが必ずそうなるというものでもないだろう。国家を 担う主体が,真の意味での社会主義精神を全うするということもありうるから である。そして,社会主義の歴史上,そのような正当な評価が与えられるべき 国家と時代と指導者も存在したのではないだろうか。もちろん,一党独裁や個

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519 社会主義から資本主義への移行と本源的蓄積過程 -33-人崇拝が成立するようなシステムはシステムとして否定されるべきではある が,歴史的な評価はシステムの一般的な評価から離れて客観的に行われるべき である。 さて,以上の関係の下で,経営者は,国家から命令されて,その仕事を遂行 することとなる。そして経営者は,ノルマとしての生産量を実現し,その上で, ノルマの超過達成を目標にして行動する。超過達成した場合には,一定のボー ナスが得られる。また労働者は,国家によって決められた賃金体系(そこには 職種や熟練度による賃金格差が存在する)に基づいて,労働時間に応じた賃金 が支払われる。超過勤務やより密度の高い労働によって,ノルマが超過達成さ れると,経営者と同様に,一定のボーナスが支払われる。経営者と労働者の聞 には,労働者自主管理のようにお互いをチェックするシステムは本来的に機能 しない。労働者が,企業経営者に経営のあり方や労働条件について異議申し立 てをしようとしても,経営者自体にそれを根本的に解決する手段が与えられて いないから,意味がないのである。そのような問題は,生産に関する決定が分 権化し,国家が生産関係の基軸から離れた場合に初めて発生するものである。 次に,社会主義的流通過程について。生産のあり方が流通のあり方を規定す るのであるから,流通過程でも,計画経済的な処理が貫徹し,その担い手とし て基軸となるのは中央計画当局=国家である。即ち,生産手段の流通は,市場 経済のように企業相互の横の関係で処理されるのではなしあくまでも中央計 画当局一国家と企業との縦の関係で処理される。そして企業相互間を連結する のは,純粋に生産物の移動・保管のみを担当する運輸・保管部門ということに なる。これに対して消費手段は,現物支給ではない以上,一応市場での処理と いう形をとる。但し,市場といっても,生産した企業と消費者が供給者と需要 者として向かい合うのではなしあくまでも(中央計画当局=国家を代理する) 公的流通機構と消費者が向かい合うという形をとる。しかも,供給が消費者の 需要に適合していなくて,滞貨が発生したとしても,それが供給者=国家にとっ て(市場における供給者のように)致命傷となるわけではない。その意味では, 向かい合うといっても,市場での向かい合いとは全く異なったものである。こ

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こでも,生産物の移動・保管を担当する運輸・保管部門が必要となる。 最後に,生産過程と流通過程の統ーとしての社会的生産全体の連関バランス を考察すれば,全体の総括ができるということになる。

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システムの{動き 以下の担会主義システムの機能分析では

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資本論』第3巻の構成を念頭にお いている。といっても,生産価格論のような価格体系から始めてはいない。社 会主義体制における価格設定には,一義的な経済法則性はないように思われる からである。 第一に,このシステムは,軍需部門とか宇宙開発とかいった特定の分野を優 先的に発展させるという場合には有効に作用する。したがって,そうしたこと が強く要請される戦時体制下では,充分な効果を発揮してきた。しかし,それ はあくまでも特定の分野や特定の時代であって,一般的な産業分野での効率的 な働きを保証するものではない。 第二に,一般的な産業分野でのシステムの働きは次のようになる。個々の企 業は,中央計画当局によって決められた種類の生産物を生産するから,消費者 =需要者に対応した生産物の種類や生産量の変化は(中央計画当局の命令の変 化がない限り),企業側からは発生しない。したがって,中央計画当局が需要の 変化を的確に読みとる意志と手段をもっていないと,供給が需要の変化に対応 しきれないことになる。 また,生産物の品質をチェックするのは,市場経済であれば,消費者(生産 手段の消費者は企業)である。消費者の行うことはきわめて簡単で,ただ買わ なければよいというだけである。ところが,このシステムは命令によって動い ているので,チェックするのは,最終消費者ではなく,基本的には命令を与え たもの,即ち中央計画当局ということとなる。しかし,中央計画当局がそのよ うな品質チェックを細かく行えるわけがない。とすると,粗悪品が企業相互や (7) たとえば,山口 (16)では『資本論」第 3巻に相当する部分を「競争論」とし,そこで は機能分析に中心点を置いている。拙著 (14)も,同じ視点から「資本論』を再編成して いる。かかる視点から,社会主義経済の機能分析を試みてみようというわけである。

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521 社会主義から資本主義への移行と本源的苦言積過程 35 消 費 者 に 流 れ て い く こ と と な る 。 こ う し て , 国 際 競 争 力 を 持 た な い 生 産 物 が 流 通 し , 最 終 消 費 者 が 購 入 し な く な れ ば 倉 庫 に 滞 貨 し て い く こ と ( 資 源 の 浪 費 ) となる。 し た が っ て , 一 般 的 な 産 業 分 野 で の シ ス テ ム の 働 き と し て は , 市 場 経 済 シ ス テムには到底及ばないこととなる。 第三に,このシステムの下での企業行動は次のような特徴をもつこととなる。 価 格 は 決 め ら れ て い る か ら , コ ス ト が 生 産 物 価 格 よ り 高 け れ ば , 赤 字 と な る 。 し か し 生 産 物 の 種 類 の 変 化 は で き な い し , 価 格 も 変 え ら れ な い か ら , こ の 赤 字 は 個 別 企 業 に 責 任 は な い こ と と な り , 結 局 国 家 の 補 助 金 に よ っ て 埋 め 合 わ さ れ ることとなる。ここに,コノレナイのいう「ソフトな予算制約」が作用すること となる。 また,中央計画当局と個別企業の聞には,たえず情報が流れることとなるが, 企 業 側 は た え ず ノ ノ レ マ が 楽 に 達 成 で き る よ う な 情 報 を 流 す こ と と な る 。 し た が っ て , 決 め ら れ た 生 産 量 を 達 成 す る に 必 要 な 生 産 手 段 や 労 働 量 に つ い て , い つ も 多 め に 報 告 す る こ と と な る 。 そ の 上 , 市 場 が な い の で , い つ も 必 要 な 財 の (8 ) したがって,企業から報告されるコストに基づいて計算される価格体系はどうしても ~意的なものとならざるをえない。怒意的であることは逆に,社会主義的な目的のために 価格を任意に設定することが可能であるし,事実そのように運営されてきた。先に,社会 主義体制における価格設定には,一義的な経済法則性はないように思われると書いたの は,そのような理由からである。 もちろん,企業からの報告が正しいコスト計算を反映したものであり,価格体系が怒意 的なものでないとしても(1E!しその場合でも,価格はコスト+利潤であるから,利潤をい かなる原理に基づいて計算するかという問題は残っているが),そうして決まる価格体系 が,市場経済における価格と同じ機能を発揮するわけではない。マルクスの価値形態論が 明らかにしたように,市場経済の価格決定においてもっとも重要なことは rどの商品と でも交換可能」という特権を与えられた貨幣によって,その商品が購入され,その時価格 が社会的な評価として決定されるというところにある。肝心なのは命がけの飛躍」を 相手(貨幣所有者)に握られているところにあり,自分以外の商品については,自分もそ の特権を行使でき,こうして(同感の原理と類似した)社会的な評価機構が成立するとこ ろにある。そのために,商品生産者は,品質にせよコストにせよ最大限の努力を議剰き孔 るのである。「命がけの飛躍」もなく,価格も決まっているなら,努力は特別に必要では ない。したがって,単に生産量ノルマだけでなしさまきまを寅/'tg)を);i..'-7を舟砂崩え元

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ぞ£毛。質的なノJレマを 実現したら報酬が得られるということと命がけの飛躍」に失敗したらいずれ倒産する かもしれないという弱肉強食の戦いとでは,およそ比較にならないからである。だからこ

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確保ができるわけではない。そこで,企業はたえず過剰在庫をもつこととなり, 過剰在庫をもっても,-ソフトな予算制約」の下では過剰在庫に基づくコスト上 昇をチェックするメカニズムが働かないこととなる。ここから,資本主義(あ るいは市場経済) とは全く逆に,恒常的な品不足が発生することとなる。 第四に, このシステムの下での労働者の立場をみてみよう。まず,-ソフトな 予算制約」の下では,-コスト節約のための首切り」等が発動しないこととなり, 雇用面に限定すれば, このシステムは,労イ動者にとっての「楽園」 となる側面 をもっている。 また,労働者は賃金として貨幣を受け取るが, これを支出する 時は,消費財を公定価格で購入することとなる。国家が重視する基本的消費財 については,労働者は公的流通機構で購入することができ, こうして最低生活 は保証できることとなる。 これは,旧来の社会主義がもっていたメリットであ り,生産力の発展が低い段階では, このメリットはきわめて大きな意味をもつ しかし,需要の高い消費財(高級消費財)については,公定価格で販 ていた。 売される公的流通機構では品不足一行列が発生することとなる。 第五に,生産財市場にせよ消費財市場にせよ,品不足が発生すると,それを 埋め合わすヤミ市場が発生し,生産物の横流しを通して,ヤミ市場が発展する こととなる。そして,ヤミ市場での価格は公定価格より高いこととなり, そこ なら行列なしで生産物が購入できることとなる。 ヤミ市場の発展は, そこを根 城にするヤミ商人やそこに横流しして利益を稼ぐ官僚機構を発展させ,社会的 な不平等を作り出す。社会主義における「階級対立」を作り出すこととなる。 III.新しい本源的蓄積過程 以上のように旧来の社会主義モデルを定式化したとすれば, ここから資本主 義的生産関係へ移行する過程が,-本源的蓄積過程」である。われわれは,-宇土 会主義から資本主義への移行」における「キーワード」は, インフレーション そ,コンビュータが発展しさえすれば,舟率白金計画経済が可能であるかのような主張 は,所詮幻想でしかないのである。なお,この点については,経済計算論争の再検討とい う観点から別稿でより詳しく言及したいと考えている。

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523 社会主義から資本主義への移行と本源的蓄積過程 37 であると考える。資本主義的生産関係の基本は,資本家階級と労働者階級の形 成である。特に,国営企業のなかで,ノルマをこなすことを目標に行動してき た労働者階級を,資本主義的な労働者階級に作り替えていく過程がここでの焦 点である。しかし,

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末の現在では,もはや暴力装置は使えないので,新た な道具が必要となる。これがインフレーションである。そして,われわれは, このインフレーションを通した過程は,事実上暴力的な過程となると考えてい る。 1.. 営業活動の自由化 まず,小営業活動の自由化が出発点となる。最初は,セカンド・エコノミー として,自宅で野菜等を栽培して市場に出荷したり,勤務後に更に労働したり するという形をとる。次が,商業部門やサービス部門(生産手段があまり必要 ではなく,労働それ自体が大部分を占める産業分野である)の営業活動の自由 化である。このうち,商業部門の営業活動の自由化は,公的流通機構とヤミ市 場という従来の流通機構の上に,まったく新しい流通機構が登場することとな り,計画経済システムを変容させる出発点となろう。 このなかから,労働者を雇う関係が発生するかもしれないが,対象となる分 野の特性からいって,大規模な雇用関係が成立することはないだろう。いずれ も旧社会主義国では抑制されてきたから,こうした自由化はそれだけで国全体 の経済活動をかなり活発化する。それはかつてのハンガリーでみられ,最近の 中国で報告されている事実である。こうした過程を通して,かつて存在しなかっ た所得の格差が発生するようになる。 営業活動の自由化によって登場する生産者を,拙稿(l

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では,社会主義の 活性化のために利用する場合には,いわば「生きた化石」のようなものである と位置づけた。しかし,ここではまさに資本主義への移行の過程で登場してく るし,このなかから,資本家階級に上昇転化していく者もあるであろう。した がって,これは,まさにかつてのイギリスでいえば「独立自営農民」の登場の ようなものである。

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市場化と所有の変革

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香川大学経済論叢 524 営業活動の自由化に続いて,新しい型の「本源的蓄積過程」では,一方では 市場経済化を押し進め,他方では所有の変革,即ち,旧社会主義の生産の大部 分を担っていた国有企業の民営化が実行されることとなる。それは,まさに旧 来の社会主義モデルを構成していたこつの条件(計画経済と生産関係=所有関 係のあり方)の変革であり,解体である。かつてのイギリスの「本源的蓄積過 程」なら,領主一農奴関係の解体や都市におけるギノレド規制の解体が下から始 まるというところであるが,ここで、は, (歴史的条件が異なるから)まったく別 のものの解体が上から(本当に成功するには,下からの動きが伴わなければな らないが)始まることとなる。こうして,労働者階級や資本家階級が活動する 土俵作りが始まることとなる。 まず市場化では,全面的な市場化が進展しなければならない。即ち,生産物 (消費財・生産財)市場だけでなく,労働市場,資本市場, (短期的な)金融市 場も展開されなければならない。しかし,土俵作りの中心は所有の変革である。 所有とは一体何か。先にも述べたように,それは単なる法律的な形態の問題で はない。日本における所有論争では,所有とは「生産に関する決定を誰が握る か」という問題であると結論づけたはずである。したがって,固有セクターそ れ自身が問題であるのではない。たとえ法律的には固有セクターのままである にしても(この点については後に言及する),重要なことは,誰が生産に関する 決定を握っているかであり,それがどの程度まで分権化されているかである。 分権化とは決定権限が下に降りるというだけでなく,それに伴う責任・義務も 発生するということであり rソフトな予算制約」から一転して,倒産等のリス クも下に降りることとなる。そして,下の組織(企業)に責任・義務が発生し, (9 ) 但し,いまの混乱した社会的な状況の下では,固有企業形態での倒産は社会的な影響力 が強く,なかなか実現できない。そうした下で,決定権限の分権化を進めていくと,独占 的な国有企業は,価格のつり上げから独占利潤の獲得という行動に走り,経済全体として はマイナス商だけが浮かび、上がってくる(たとえば山村 (18)参照)。そこで,国有企業 にそうした自主決定権を付与するのは危険であり,むしろ国家によるコントロールの下 で安楽死をさせた方がよい,というのがコルナイの主張であるようだ。 リスク(倒産も含む)を伴わない分権化が危険であることはその通りである。しかし, コルナイが予定するようには民営部門の発展が進行しないとすれば,危険を承知の上で,

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525 社会主義から資本主義への移行と本源的蓄積過程 -39-倒産等のリスクも生ずるということは,その下でも生産活動を担える経営主体 が形成されるということでなければならない。その意味では,所有の変革とは 単に株式会社制度を導入するというようなことではなしその下で,主体的に 行動できる経営主体が形成されるということでなければならない。(資本家階級 一経営主体の形成過程については後に述べる)。いうまでもなく,市場化を進展 させるためには,所有の変革が必要不可欠である。というのは,市場は,自ら の判断と責任で行動する経営主体を作り出さないことには,完全には機能しな いからである。また逆に,経営主体が自らの判断と責任で行動するためには, 市場化の進展が必要不可欠である。その意味では,市場化と所有の変革とは一 体のものであり,それは,計画経済と旧来の所有関係が一体のものであったこ とと対応している。 しかしながら問題は,上述のような意味での市場化と所有の変革が短期間 で実現するものではなしかなり長期の期間が必要であるということである。 即ち,一方の市場化は「ショック療法」という形での対応が実際に試みられ, 場合によっては一時的に劇的な・変化を生むこともある。しかし,他方の「所有 の変革」には明らかに長い期聞がかかる。そうすると,市場化自体も,一時的 な効果は別とすると I所有の変革」が伴わない以上,結局はかえって事態を悪 化させる役割だけを果たすことになっているようである。今日観察される諸現 象はそのようなものであろう。しかし,府余曲折はあるにせよ,方向は決まっ ているのであるから,いず、れ市場化と所有の変革は実現していくこととなろう。 今日観察される諸現象が永久に続くものでは決してない。 3 労働者階級の形成 国有企業の分権化を押し進めなければならない。その際,競争条件が国内的に整備されな いなら,国際的な競争関係を導入することとなるのではないか。いま中国で意識的に進め られている開放路線が目指すものは,まさにこれであろう。もちろんこれが可能なのは, 香港・台湾・韓国といった近隣諸国との地域的なつながりがあるからではあるが。 (10) もちろん,これだけでも簡単ではない。というのは,計画経済の下で膨大な官僚層が形 成されており,この隠は,決定の分権化によって,かれらの権力基盤を喪失することにな るからであり,経済改革が予定通り進まない最大の理由がここにあるように思われるか らである(メンシコフ(13)参照)。

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上で述べた土俵作りにどの位の時間が経過するかわからないけれども,そう した土俵作りと同時に,土俵で活動する主体の形成が進行しなければならない。 まずは,労働者階級の形成である。これが実現しないことには,資本主義への 移行も成立しないであろう。 ここでは,小営業活動の自由化を通して,所得の格差が発生していることが 前提となっている。そうした環境の下で,第ーになすべきことは,国営企業に 勤める労働者の賃金を凍結することである。第二に,賃金を凍結しておいて, ある程度のインフレーションを容認することである。「貨幣賃金率を動かすこと なし実質賃金率を下げていく」というケインズ的政策がここで採用されるこ ととなり,それは

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末の「本源的蓄積過程」にふさわしい手段ということと なる。インフレーションの容認の出発点が,価格の全面的な自由化である。価 格を自由化すれば,従来抑圧されてきた需要が一挙に吹き出すから,当然価格 は上昇する。ただ,インプレーションがスパイラノレに上昇すると,合理的な経 済計算が不可能になるから,あくまでもその上昇率はある範囲内に制限される 必要がある。

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プログラムという名の改革案は,インフレーションの抑圧,財政均衡の 達成,国際収支の均衡の達成等が目標とされている。

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プログラムの立案者

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なお,本稿執筆時の

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月中旬に,ロシアが

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プログラムから離れることを 決定したという報道がなされた。急激なインプレーションが遂行する下で,賃金を凍結す ることも容易なことではないし,企業への補助金をカットすることも同様に容易なこと ではない。その上,生産がマイナス成長を記録している。資本主義への移行である限り, 変化の中身が基本的に変わるわけではないであろうが,いかなる政策を取るかによって, 「本源的蓄積過程」の進行速度は大きく変化すふるであろう。本稿で叙述した形態でそのま ま進行するか,急進的な方針が取れず物価と賃金の悪循環を続けるかのこつを両極端と し,その聞にさまざまなバリエーションが発生することとなろう。 なお本稿は,現在の変化を「本源的蓄積過程」という観点から捉えているが,経済改革 全般についてみれば,この点は経済改革には

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流のショック・セピラー(急進的 改革)J, rハンガリー型グラジュアリズム(段階的改革)Jの二種類J(深町

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54頁) があり,その聞にさまざまなバリエーションがあるということになる。深町

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によれ ば,日本では,急進的改革を支持する研究者はいないということであるが,たとえ段階的 改革を支持するとしても,いまやその段階的改革が作り出すシステムが資本主義そのも のであることを忘れてはならない。もちろん,社会主義研究者といえどもその当時の社会 主義を賛美していたわけではなしむしろ多くは批判者であった。しかしそれでも,そう した欠陥のある社会主義を資本主義に変えるべきだと考えていたわけではあるまい。「ソ

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527 社会主義から資本主義への移行と本源的蓄積過程 -41-であるサックスのプログラムの理論的支柱は,コルナイであるといわれている。 深町 (11)参照。コルナイ(5 )は,資本主義への道はまずインフレーション を抑えることから始めるべきであるといっているが,もしそのインフレーシヨ ンが現在のドイツや日本の物価水準を前提にして語っているとすれば,資本主 義への移行を考えるコノレナイ路線にとっては,単なる回り道でしかないであろ う。むしろ制御されたインプレーションこそがこの「本源的蓄積過程」のキー ワードであるからである。 このように,賃金が抑圧され,インフレーションが進行すると,労働者は従 来の生活水準がそのままでは維持できなくなる。そこから,労働者はそのまま 国営企業に残るか,やめて自営業を始めるか(そのためには小営業活動の自由 化が保証されていなければならない)という選択を迫られることとなる。これ が,インプレーションを通した労働者排出機構である。「出るのも残るのも地獄 である」が,選択の「自由」は個人に任されている。こうした流出入を通して, 労働市場が発達し,そのなかで慣常的な失業者(マルクス流にいえば産業予備 軍)が作り出される。失業者の存在は,当然,社会的な不安定要因であり,現 代はあくまでも

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であるから,失業保険等の社会保障体制の整備がこれに {半って進行しなければならない。かつては,都市に流出してきた者は r労働立 法」によって労働者階級への道に導かれていったが,

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末の「本源的蓄積」 では,社会保障を充実し,あくまでも個々人の自由な判断から選び取らせる余 裕が必要なのである。 インフレーションは,他方で,旧来の社会主義の資産を事実上無価値にして いくこととなる。年金生活者等の社会的弱者の切り捨てになることはいうまで もないが,それ以外にも旧来の社会主義的な価値を,暴力を伴わず,しかも事 連型も,ユーゴ型もだめで,どうもハンガリー型もだめであるJ(スラプ研究センター (12) 166頁の西村発言)からといって,社会主義そのものを放棄することに直結するわけでは ない。注(1)で述べたように,一方では旧社会主義は社会主義と呼べるものではなかったと して歴史の激変を切り捨てる立場があれば,他方では,多くの社会主義研究者がそうであ るように,現実の変化を無批判的にそのまま受け取る立場もあるようだ。いずれに対しで も,私は,少なくとも学問を志す者の倫理として,過去の立脚点を忘れてはならない,と 考える。

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実上暴力的に無価値にしていくこととなる。インプレーションは誰にも均等に 作用するようにみえるが,新しいシステムのなかで,価値増殖のチャンスを見 いだしたもののみは,こうした作用を帳消しすることができるという意味で, 決して均等的に作用するものではない。 4, 資本家階級の形成 まず,商業部門やサービス部門では,営業活動の自由化とともに,資本家階 級の形成がすぐ開始されるだろう。そこには,コーペラティフ企業の経営者も 含めてもよい。特に,公的流通機構は,商業部門の営業活動の自由化とともに, 解体か民営化=資本家階級の形成かを余儀なくされていくこととなろう。しか し,問題の焦点、は,多くの設備と労働者が必要な産業分野での資本家階級の形 成である。もちろんそこでも,自主的な発展が全く不可能ではない。かつて, 「中産的生産者層」が長い歴史のなかで資本家階級に成長転化していったよう に,いま,営業活動の自由化のなかで小企業→中堅企業→大企業に成長転化し ていくケースが全くないわけではないだろう。たとえばコルナイ(5 )は,こ うした形での民営部門の発展に過大な期待を寄せているようにみえる。しかし, いま資本家階級形成に残された時聞はそれほど長くないのである。そのような 状況の下では,例外的なサクセス・ストーリーを描いて,それが誰にも可能な 道であるかのような幻想、を与えることはフェアではない。ここでは,あくまで も生産活動が圧倒的に固有企業によって担われているところから出発すべきで ある。したがって中心は,固有企業の民営化のなかから,資本家階級が形成さ れなければならない。 いま民営化の手段として始められているのが,一方では,固有企業を分割し て売却したり,賃貸しする方向であり,他方では, (分割等が不可能な固有企業 については)国民のほとんどにクーポン券を配布し,これで固有企業を株式会 社化する方向である。いずれの方向も,株式を初めとする証券市場の発展を促 進する。このうち前者の方向は,上に述べた「資本家階級の自生的な発展には 時聞がかかりすぎる」という欠陥を補うこととなろう。というのは,分割され た企業を購入する資金は,ヤミ商人や汚職で稼いで、きた特権的官僚層以外には

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529 社会主義から資本主義への移行と本源的蓄積過程 -43-存在しないから,ここでは,不正に稼いできた金が事実上公的に認可されると いうプロセスが作用し,そのなかから,資本家階級が容易に生成してくること になるからである(メンシコフ (13)参照)。ここでも,かつての資本主義形成 と同様に,資本家階級の出生の汚れをぬぐい去ることができないでmあろう。後 者のクーポン券を配布する方向は,一見すると,国民総株主となって,いかに も民主的な企業社会が作られるようにみえるが,実態はそのようにはならぬで あろう。いま所得格差が前提されていると,当然株式は株式市場での売買を通 して急速に集中化され,そのなかから支配株主がみえてくることだろう。かつ て r中産的生産者層」が価値法則の作用によって両極分解を遂げていった過程 が,ここでは, 20 C末にふさわしい新たな手段を用いて繰り返されることとな り,ここから, (分割が不可能な)巨大企業の資本家階級→支配株主が形成され ることとなろう。 所有と経営の分離がどのような形で始まるかわからないが,株式所得から分 (12) 山村 (18) によれば今回の提案で最も目新しい点は,ヴアウチャーの自由売買を認 めたことだった。つまり以前の構想では『記名口座1 I記名小切手』とされていたものを 改め,無記名の譲渡可能なものとすることにしたのである。その狙いは,ヴァウチャーの 自由売買によって,多くの国民が株式取得権を他人に譲り渡し,その結果,株保有の分散 化が防げるだろう,というものだった。企業への効果的なコントロールは,いずれにせよ 大株主によってのみおこなわれる,というのがチュパイスら政府資任者の考えだった」 (54頁)。実施後の報道では,クーポン券(民営化小切手)を生活のために販売するとい う人達が多くいるようである。 (13) 国家的所有が解体された後に展開されていくのは,歴史的には少し時聞がかかるかも しれないが,日本であれば「法人資本主義」といわれる形態であり,そこでは法人株主が 経営者を直接的に支配することはない形態であろう。株式所有は, (たまには大株主会が 株式所有権を行使することはあるが,そうした場合は非常事態の時であり),通常はむし ろ形骸化しており,経営者支配が貫徹しているというのが現実である。日本資本主義が もっとも進んだ資本主義というかどうかは別として,このような傾向はある意味では先 進資本主義国に共通する現象である。そうすると,国有センターの所有者が,国家から民 間に移っても,新たな株式所有者(支配株主は法人である)が何らかの支配権が発動する わけではないということになる。したがって,その場合は法律的形態としての国有セク ターと私的セクターという区別自体がもはや本質的な問題ではないということになる。 日本の例でいえば,NTTは上場されているが,JRの上場は現在のところまだ実現してい ない。しかしそうであるとしても,両方とも,決定権限とそれに伴うリスクが分権化され, その意味で民営化されていることに変わりはないのである。 もちろん,民営化プログラムから,すぐさま先進資本主義国に共通するような株式所有 形態が生まれるものではない。時間がかかるであろう。しかし,行き着く先はやはり先進

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離していく経営者には,自由化された価格水準に対応したコスト節約が求めら れる。あるいはそれを実現できるものが経営者に転化していくこととなる。コ スト節約はいかに可能となるか。このテーマは,すでに「本源的蓄積」過程の テーマというより,-本源的蓄積」過程を経て成立した資本主義的蓄積過程のあ り方についてのテーマになっているが,若干言及することにしよう。まず,生 産方法については,周りの資本主義からの技術輸入によって,ある程度急速な キャッチ・アップも可能で、あろう。また,経営管理のさまざまな手法(たとえ ば,生産管理や財務管理,それに簿記会計のさまざまな手法)も導入されるだ ろう。したがって,最終的に問題となるのは,労働者への資本主義的な管理が いかに可能となるかである。ここでは,やはり古典的な方法に基本的に頼る以 外にない。それは失業の恐怖をてことして,労働者の賃金を抑圧し,高い労働 強度を強制していくことである。そのためには,上述した労働者排出機構が機 能し,恒常的な失業者が存在していなければならない。幸いにして(?),周り の資本主義には,新自由主義=新保守主義が花盛りである。失業の恐怖をてこ として締め付けても,特に非難されることもないで、あろう。 資本主義諸国が到達した形態ではないだろうか。コルナイ C5 )は同じ歴史をもう一度繰 り返したらよいといっているようにみえるが,一国の歴史といえども各国間の相互作用 のなかにあるから,全く同じ繰り返しが発生するということはありえない。それが,経済 史でわれわれが学んだことである。 (14) 歴史上,ソ連・東欧圏ではさまざまな経済改革が試みられてきた。それは, 1960年代後 半のソ連・ハンガリー・チェコスロヴァキアであり,独自の道を一貫して歩んできたユー ゴスラヴィアであった。そして,この改革の中身については,日本の社会主義研究者に よって詳細な紹介がなされてきたので,われわれも容易に知ることができた。たとえば, 物質的な刺激を与えるために,企業利潤のうち企業に残るフォンドを拡大し,そのフォン ドを経営者の報酬や労働者の賃金とリンクさせるという試みが(各国毎にさまざまなバ リエーションを含みながら)展開されてきた。これは,資本主義的企業の利益処分(たと えば損益計算書)と←箇では似ているが,他面では社会主義的な特徴を兼ね備えたもので あった。その点は,企業利潤のかなりの部分が依然として国家によって徴収されるという 点にも示されているが,フォンドからの経営者と労働者への分配が,資本主義的企業のよ うに資本家階級の専決事項ではなく,国家による(または労働者自身による)決定として 行われるというところにもっとも端的に示されている。 ところが, 1980年代の後半からの激動によって,事態は社会主義の改革から,資本主義 への移行と流れが大きく変わってしまった。したがって,今日の状況では,上述のような 問題は,ただ資本主義的な会計手法を導入すればよいというだけの問題となってしまっ ている。

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531 社会主義から資本主義への移行と本源的蓄積過程 -45-しかし,失業の恐怖をてことした古典的な労働者管理は,それだけでは今日 では完壁なものとはいえない。失業の恐怖が支配の究極的な基礎にあることは 事実であるが(これこそ,資本主義の資本主義たる所以である),それだけでは 周りの資本主義に対抗していくことはできないであろう。ここでもレギュラシ オン理論の議論を借りるなら,フォーデイズムの危機のなかで,アメリカ・イ ギリス型のネオ・フォーデイズム路線に対して,スウェーデン・ドイツ・日本 のポスト・フォーデイズム路線の優位が実証されてきたからである(山田

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12頁参照)。日本のトヨテイズムも,本質的には資本の論理から演J揮されたもの であり,決して資本主義の論理を止揚したものではないが,それでも参加意欲 (会社主義)を引き出し,結果として高い生産性を実現したことは事実である。 これこそ,

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末にふさわしい労働者への支配形態である。メンシコフ

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がスウェーデンをモデルとし,中国が日本をモデ/レとするのも,こうしたこと をすでに意識しているからであろう。

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オーノレタナティブとしての市場社会主義 以上のように,社会主義から資本主義への移行を 特徴づけるとすれば,最後 にそれとは異なる道としての市場社会主義の特徴をもう一度確認して,本稿を 終えることとしたい。 コノレナイは,市場社会主義を「国家的所有+市場的調整」と限定した上で, 市場社会主義論はすでに崩壊したと宣言している。即ち r固有単位があたかも 私的所有の単位であるかのように振る舞い,市場志向の主体であるかのように 自発的に行動すると期待するのは,無駄なことであるJ (コルナイ (5

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48頁)。 (15) 塩川(7)によれば,ペレストロイカには少なくとも最初は「社会主義の改良」という 志向性があったようである。それが何故変節していったかを考えると,悲しい現実だが, 軍隊の導入によって民主化運動を叩きつぶした中国 (r開発独裁」型)の方が懸命であっ たようにみえてくる。といっても,いまの中国の改革・開放路線が,社会主義をどのよう に維持しようとしているのかは不明確であるが。旧ソ連では,いまや, I日体制を中心的に 支えてきた官僚機構の一部や旧社会のヤミ市場を生きてきたマフィアが着々と資本家階 級の道を歩みつつあり,旧体制の犠牲者とか社会主義の精神に奉仕してきた(決して甘い 汁を吸ってきたのではない)人々がむしろ落ちぶれて,新しい社会の隷属階級に転化しつ つあるようである。

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したがって,固有セクターは安楽死させる必要があり,その代わり,私的セク ターを創出させるべきであるということになる。これが,コルナイのFree Economyへの道,即ち資本主義への道である。佐藤もスラブ研究センター(12) で,市場社会主義は,一党制支配とパブゃリック・センターと市場機構の3点セッ トであるが,パブリック・セクターが支配的である状態は市場機構の機能とな じまない(162頁)から,市場社会主義は「今となっては“wishingthinking"以 外の何物でもないであろうJ

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頁)としている。 もし,われわれが社会主義を最終的に放棄しないとすれば,それがいかなる ものであるかをきちんと定式化しなければならない。われわれも,社会主義と いっても市場機構を全面的に作用させたものとして考えているから,市場社会 主義ということになるが,それをもはやコノレナイや佐藤がいうような「国家的 所有+市場的調整」という定義で与えることはできない。ヌッティ(

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)も, 市場社会主義の定義をコルナイから離れて,自由経済+社会主義的目的と価値 への絶えざるコミットメント」と定義している。問題は,社会主義的な目的と 価値とは何かである。ヌッティが念頭に置くのは,拙稿 (15)で検討したグラ ンド・エスツリン(4

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に近いものである。ヌッティは,市場社会主義の一つ の要素として,たとえばネオ・コーポラテイズムが必要となるとする (26頁)。 即ち,組織化された利益集団は相互に対立するが,そうしたコンフリクトは市 場では制御できないから,社会の安定化のためには社会的協定が必要となる, と。しかし,そのような要素は現代資本主義がすでに多かれ少なかれ取り入れ ているものであり,この事実を踏まえて,資本主義は,社会主義的な要素を取 り入れることによって,体制の維持・繁栄を築いてきた」といわれるのであり, だからこそ

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年以降の激動を,単に託会主義の敗北・資本主義の勝利と位 置づけるわけにはいかない」ともいわれているのである。したがって,ヌッティ が主張するような市場社会主義であれば,今日改めて主張されるようなもので はなし現代資本主義をどのように定義するかという問題でしかない。またス ラブ研究センター (12)で,佐藤は,先にみたように市場社会主義を否定して いるが,他方では,社会主義は「経済システムとしては全く“workable"でな

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533 社会主義から資本主義への移行と本源的蓄積過程 -47ー かったことが立証されたと考えているが思想、』としての社会主義の意味を否 定しているわけではない。むしろ,市場経済が普遍的になればなるほど,それ を『制御』する『思想、』としての社会主義の意味は高まるとすら考えている」 (180頁)としている。しかしこの場合の社会主義とは I市場経済の普遍性を 認めるということは,システムとしての資本主義を認めるということで,問題 は,それをコントロールするマクロ経済政策のクオリティに移動する。社会民 主主義的社会主義観といってよいJ (176頁)といっているから,ヌッティと同 様の見解である。 これに対して,われわれがネ士会主義的な目的と価値として主張している点は, 『資本論』を踏まえて資本の論理をどう止揚していくかという視点である(?こ の点について,拙稿(15) では,市場社会主義の構築のためには,一方では市 (16) 佐藤は,スラブ研究センター (12Jで, 1980年代に所有の変革がなし崩し的に進行して いたことをきちんと評価すべきであったという発言をしている。しかし社会主義社会 で商品・貨幣関係を利用しようとすれば,それは必然的に資本形式の展開を許容せざるを えないし,さもないと,商品・貨幣関係(市場機構)の利用自体が中途半端なものに終わっ てしまうJ(拙稿[15]140頁)。ここでいう資本形式とは,国有セクターか私的セクター かを問わず,市場機構のなかでさまざまな利殖を求めて行動する資本の運動形式のこと である。われわれとしては,市場経済の導入は資本形式の導入をもたらし,それが結果と して従来の国有セクターを解体させたとしても特別に驚くことではない。むしろ,われわ れが提起する市場社会主義では,最初から(株式会社制度も含めた)資本形式の全面的な 展開を前提していた。その意味でも,最近の所有の変化(国有セクターの解体)から,す ぐさま市場社会主義論を否定するという議論は納得できない。 (17) 中国は,第 14回共産党大会で宇土会主義市場経済」といった概念を提起している。こ の概念のうち,市場経済の導入は明らかであるが,社会主義的要素がいかに組み込まれる のかは不透明である。ある程度の公有制を維持することが社会主義を意味すると考えて いるとすれば,国有セクターの維持が社会主義かどうかを分けるものではないことはす でに強調してきたことであるし,しかもその国有セクターが従来のままの形態であれば, (コルナイや佐藤が強調するように)それは市場経済と矛盾し,いずれ維持できなくなる であろう。また,共産党支配が貫徹することカま社会主義の中身であるとすれば,あまりに も時代錯誤の概念であり,決して長続きしない概念であるということになろう。 蛇足であるが,いま日本の大学・大学院に中国からの留学生が非常に多くやってきてい る。香川大学もその例外ではない。かれらは,私のマルクス経済学の講義を聴講すると, 必ず「自分の国で穂諮ーしたマルクス経済学(政治経済学)とまるで違っている」というの である。学問であるから,どちらが正しいかは一義的にはいえない。しかし,政治的な理 由で上から押し付けられた学問は,政治的な状況が異なれば簡単に放棄されることとな る。そこからは新しい政治状況に対して,学問としてのマルクスの思想、にたちかえる」 という発想は決して生まれないことであろう。

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場経済を導入しながら,他方では,社会主義のエッセンスを次のように組み込 まなければならないとした。第一に,社会主義は資本主義的搾取を否定した社 会でなければならない。第二の点は,経済的な決定権を誰が握るかであり,労 働者自身が主人公になるべき社会主義では, その決定は労働者自身に委ねられ ねばならない。第三に,社会主義とは人聞が価値法則や資本の論理に翻弄され ることのない社会であり, そのためには競争の論理の無制限な発動をチェック する必要がある。チェックするのは,人と人とを結ぶ、紳,即ち共同体の論理以 外にありえない。共同体の論理は,企業と企業との聞にも必要で、あるし,企業 内の労働者相互の聞にも必要なものである。そして, この共同体の論理こそが 社会主義の究極的な根拠となると考えられる。もちろん,共同体の論理は,市 場化と所有の変革が実現する効率化と明らかに矛盾する要素を内在している カま, にもかかわらず競争の論理の無制限な発動をチェックできる共同体の論理 を構築しえた時始めて, われわれは市場社会主義を語ることができる, と考え ( 1曲 ている。 (18) 市場社会主義論についてのいくつかの議論をみておこう。 メンシコフ [13)は私は資本主義より劣るという理由で,原則として社会主義を拒 否することには反対するJ(304頁)と主張し,他方で,中央指令型経済に反対し,市場経 済を全面的に導入すべきであるとしている。したがって,概念的にはメンシコフの場合も 市場社会主義ということになろうが,社会主義の側面はただ「社会主義」と脅かれている だけで,具体的な内容はない。ただ,補章の「破局への分水嶺」という追加された章で, 次のように書いている。「ソ連における典型的な大企業は,原則として,また現実に, 3 つの別のクソレープの共同所有物であるということを指摘しておく。従業員,経営者(長期 契約にもとづいて雇用され,年次総会を通じる以外は政府に対しでも株主に対しでも直 接には寅任を負わない),そして政府(中央政府,共和国政府または地方政府)かその他 の株主という三者である。役員会には3グループすべてが平等な代表権を持ち,すべての 重要決定に対して完全な投票権を持つべきである l ゆ 従業員の共同所有形態は,きわ 立った社会主義的特質である。けド従業員の労働投入という事実から生ずるものである」 (345頁)。 ワイスコフ (19)も市場社会主義を明確に主張している。即ち,いままでの市場社会主 義へのさまざまな試みは,共産党支配によって歪曲されたものであり,その意味では本当 の実験が実施されたわけではないとする。その上で,経営の決定権や所得の分配権を,公 的企業が行う場合と労働者自主管理企業が行う場合とに分けて,さまざまな角度から分 析を行っている。そこでは,社会主義の精神である共同体や連帯を市場原理とどのように 調和させるかという視点が中心的な論点となっている。 最近の日本の分析では,スラブ研究センター (12)での田中の主張が,市場社会主義を 提起している数少ない例であり,拙稿 (15)と基本的に同じ立場である。但し,その討論

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535 社会主義から資本主義への移行と本源的蓄積過程 -49-到達すべき社会を,このような意味での市場社会主義として与えるとすれば, 次にそこに至る過程を考えねばならない。本稿で考察した過程が,旧社会主義 から資本主義への移行であったとすれば,それは旧社会主義から市場社会主義 への移行となる。共同体の論理が組み込まれる以上,本稿で考察した過程一現 在進行している過程とは自ずから異なったものとなろうが,市場化が組み込ま れる以上,社会の構成員に厳しい原則が課されることも事実であろう。「連帯を 求める」が,市場経済のなかで孤立しでもやっていける強さが個々人に要求さ れ,その意味では「孤立を恐れず、」という精神が必要とされるのである。社会 主義そのものが消滅しようとしている現在は,たぶん前者より後者を確立する ことが緊急の課題なのであろう。しかし,社会主義を人類史上意味のあるもの として説明してきたものとして,前者の精神を放棄することはできない。そし てその精神は,もし成立するとすれば,市場社会主義そのものを貫く精神とも 部分ではほとんど賛成意見が出ておらず,先にもみたように,日本では(佐藤・西村に代 表される)資本主義への移行を正当化する議論が主流となっているようにみえる。なお, 岩ト回(

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は,自分自身の研究に対する今日的総括を,それ故,自主管理社会主義の崩壊 を踏まえた今日的総括を行いつつ,次のように書いている。 n党社会主義時代の終駕』と いう確認は,自主管理社会主義が党社会主義から解放されたならば,市民社会の生きた思 想と現実の一要素になれる可能性を見捨てていないことに留意してほしいj(114頁)。も ちろん,ユーゴスラヴィアの自主管理社会主義は,市場経済でも計画経済でもなく協 議経済」と呼ばれるシステムとして運営されてきた。われわれの市場社会主義で市場経済 と共同体の論理を両立させるという場合には r協議経済」的な側面をもつこととなろう。 いずれにせよ,市場社会主義がその社会主義的精神(共同体の論理)を求めるとすれば, ユーゴスラヴ、ィア自主管理社会主義のさまざまな実験をその「ー要素」とすることとなる だろう。 最後に,コーポラテイズムも一定の役割を果たすかもしれないことを付け加えておき たい。たとえば,加藤(3 )は,コーポラテイズムを「連帯主義的」と「利益カルテル型」 とその中間の「混合型」に分けた上で,それらは1980年代に共通に限界に突き当たった が,多くが労働組合組織の弱体化で構造調整を行ったのに対し,スウェーデンの「連帯主 義的」だけがより高いコストを負担しでもその枠内での構造調整を行ったと説明してい る。「連帯主義的」とは自己の利益を実現する条件として,相互にその国民経済的効果 に留意するとともに,所得再配分や生活必需品サービスの社会化などを通じて他の社会 階層との社会的連帯を追求するような利益集約・調整システムj (95頁)のことである。 共同体の論理が一般論として存在するわけではないだろうから,この「連帯主義的」コー ポラテイズムも共同体の論理のー形態として考察する必要があるかもしれない。その場 合の問題は「社会的連帯」の中身は何かということになろうが,これらの問題は今後の検 討課題としたい。

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