大正期 における自由主義
体育思想の研究
(I)
保健 体育科教育教室は
じ
め
に
己 主 に大正期 において展 開 され,「新 体育=自
由主 義体育Jと
呼 ばれ る思 想 とその運 動 は,大
正 自由 教 育運動 に支 えられた体 育 の改造運動 で あった。 教 育 において は,先
進 的 な欧米 の 自由主義 的教育思 想 の移 入 とその屈 折 を媒 介 に,教
育勅 語 に象 徴 され る絶 対主義的 な画一 的注入教授 と形式主義的訓練 に対 して近 代教 育 の原則 に もとづ く教育方 法 の確立 が自覚 されて い った。 体 育 において も,子
ど もの「個性」,「自発」 等 といった,近
代教 育 の理 念 を基 調 と した体 育方法 の改革 が意識 され る とともに,そ
の立場 か ら,伝
統 的 な形式主義 的,精
神 主義 的 な体 育理 念 とその 内容,方
法 が批判 され,わ
が国 の体育思想史 に特異 な時 代 を刻F「す る こ とに なった。 ところで,こ
の 自由主義体 育思 想 は,
日露戦争前後 および第一次世 界大戦前後 にお ける 日本 資本 主 義の全般的 な危機 を背景 と した体 育 の近代化政策 を客観 的基盤 と し,明
治30年代 か ら昭和5年
前 後 の約30年 間 にか けて成立 し,展
開 され た。 本稿 で は,体
育政 策 との関連 にお いて 日露戦 争前後 の,い
わゆ る「 新体 育」 論の検討 とともに,自由主義体育思想の成立過程とその思想的特質を明らかにしたい∫
体育 の近代化 政策 と「新体育」理念の提起
(1)「
体操遊 戯取 調 委 員 会」 の性格 ご く一般 的 には,近
代 国 家 にお ける政 策 的領域 と しての「 体 育」 の成 立 とその近代 化 の過程 は, 産業革命期 に特徴 的で あ るよ うに,個
別 資本 による徹底 した労Tell力の喰潰 と磨 滅 の進 行 す ることが 近 代国家の維 持 と存続 に とって決定的 に不利で ある,
とい う歴史 的 な認識 が成立 し,軍
事 的 にも, 産業 的 にも,「体 力Jの
保/1Xと再 生産 が要 求 され る時 点 において は じめて契機づ け られ ると云 える。 しか し,わ
が国 の よ うに労働 人口が都市 人 口 と して再生産 され る度 合 が少 な く,労
働 力の殆 ん ど が農村 か らの「 出稼 労Tall」 に求 め られ,
さらに前近代的 な工場 労働 と競合 して「結核 女工=帰
村女 工」―→ 「農村結核」 ―→ 「壮 丁体位 一国民体 力の低 下」 とい う相対 的 関係 が支配 した天皇 制絶対 主義 国家 においては,体
育 の近 代化 は抑止 され,前
近 代的,半
封建 的 な体 質 を色濃 くもつ ことにな った。 そのため に,体
育 の近 代 化 は,軍
事 的・ 経済 的危 機意識 を背景 に「 壮 丁体位 一 国 民体 力の低 下」 の防止 と体 力の合理 的再生産 の方法 をめ ぐる問題 と して,は
じめ て国家政策 の そ上 にのぼ るこ 克 江 入入江克 己:大正期 における自由主義体育思想の研究 (I) とを特徴 としている。 日露戦争前後 および第‐次大戦前後 は
,ま
さにそ うした時代で あった♂ 日清,日
露の両戦争 を契機 に,
日本資本主義 は,過
早 な帝国主義段階 に移行 した。欧米の帝国主 義諸国 との市場一領土分割競争 が激化す るなかで,日
本の帝国主義的進出 を積極的,か
つ合理的 に 遂行す る能 力をもった活動的 な新 しい「大国民」 が,次
第に要求 されるよ うになった。 この要求 は,従
来の「臣民」教育 から「国民」 的で あると同時 に,「世界」 的 な「公民」教育 とい う,い
わば国民教育理念の転換 となってあらわれ,体
育 にPD・いては膨張 しつつ ある大 日本帝国の要 求す る「大国民」 の形成,実
業戦争 と軍事的戦争 に勝利 を得 る,
とい う立場 か ら「身体機能」 の近 代的,合
理的陶冶 が意識 され,「国民体育の振興」,「体格 の改善」,「衛生の重視」 等が基本理念 とし て提起 されていったので ある。 その結果,帝
国主義的競争 に耐えうる人材の育成 と「体力」 の近代 的,合
理的形成の観点か ら,従
来の伝統的 な注入教授 と形式的,画
一的 な普通体操,兵
式体操中心 の体育理念 ならびに,そ
の内容,方
法 が部分的にではあれ政策決定の側 によって も批判 されること になった。 この傾 向は,す
で に日清戦争 中の明治27年 に丼上毅 によって公布 された「体育及衛生 に 関す る訓令」 のなかにみ られる。 同訓令 は,そ
の第一条 において「体育 は及ぶだけ活発 なる運動 を課するを要すべ く,普
通体操 に 於 いても兵式体操 と同 じく,手
足 及全身筋 力の運動 を活発 に し,気
血 の代謝 を促 す と同時 に生徒 自 個 に於 て意気快活 を覚 ゆるの効果 あ らしむべ し。 体操 の弊は死法 に流 れ態勢 を整へ正 すが為 に許 多の時間を費 し却て生徒 を して厭俗 の気 を生ぜ し むるに至 る。此の如 きは却 て体操 の精イ申を失ふ ものな り」 と「活発」,「意気」,「快活」 といった観 点から形 式主 義 を批判 せ ざるを え ない状況で あった。1)そ して,明
治33年の「小学校令」 の改正 と 「同施行規則」,明治37年の「体操遊戯取調委員会」一― 以下「取調委員会」― ― の設置は,そ
うし た政策的転換 の具体化で あった。 小学校令 は,「小学校ハ児童身体 ノ発達 二留意 ンテ道徳教育及国民教育 ノ基礎並其 ノ生活二必須ナ ル普通 ラ焔議残能 ヲ授 クルヲ以テ本 旨 トス」〕(第一条)と
教育 を規定 し,同
施行規則 において も次 のよ うに述べている。 「道徳教育及国民教育二関連セル事項ハ何 レノ教科 ロニ於テモ常二留意 ンテ教授セ ンコ トヲ要 ス 知識技能ハ常二生活二必須ナル事項 ヲ選 ビテ之 ヲ教授 シ反覆練習ニシテ応南 自をチううテシヨ ト う努 ムベ ラ」』 ここには,国
家主義的 イデオロギー と同時 に,実
用主義的な原理 によって各教科 内容 を再編 しよ うとす る意図が示 されてお り,「体操科」 の規定 にもこの立場 は,反
映 されている。同施行規貝Jは, 特 に実用主義の観点から,尋
常小学校で は兵式体操 を省 き,遊
戯 を採用すべ きことを規定 している。 「体操ハ身体 ノ各部 ヲ均斉二発達セ シメ四肢 ノ動作 ヲ機敏ナラシメ以テ全身 ノ健康 ヲ保護増進 シ 精神 ヲ快活ニ ンテ剛毅 ナ ラシメ兼 ネテ規律 ヲ守 り協同 ヲ尚ブノ習慣 ヲ養 フヲ以テ本旨 トス 尋常小学校二於テハ初ハ適宜 二遊戯 ヲナサ シメ漸 ク普通体操 ヲ加へ授 クベ シ 高等小学校 二於 テハ普通体操 ヲ授 ケマ タ遊戯 ヲナサ シメ男児ニハ兵式体操 ヲ授 クベ シ」D この旧来の体育 を合理的,実
用的 に再編 す る全般的 な方向は,「取調委員会」 において確認 される ことになった。同委員会は,
日露戦争後の体育経営 にかかわって新たに要求 される軍事的・産業的 身体機能の陶冶 につ いての合理 的方策 をさぐることを目的 として設置 されたので あるが,欧
米の先 進的体育思想の紹介者で あ り,明
治体育の改革論者で もあった高島平二郎,坪
井玄道,可
児徳,井
口め ぐり,川
瀬元九郎等で構成 された「取調委員会」 による「科学」 的,「合理」 的なスエーデ ン体鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第18巻 第1号 操 へ の移 行
,遊
戯 教 材 の大 幅 な採用 は,身
体機能 の「 科学」 的形成 とともに,従
来 の「 静」 的身体 機能 か ら「応 用 自在」 な「 動J的
身体機能 へ の要求 に応 じた もので あったぎ さらに,遊
戯 教材 が「 児童の活動 的衝 動 を満足 せ しめ運動 の 自由 と快感 とによ りて体操科 の 目的 を達 し特 に個 性 及 自冶心 あ発進 に資 す る」 とい う観 点 か ら導入 された ことにみ られ るよ うに,体
育 を「 自由」,「個 性」,「自治」 といった リベ ラル な理 念の もとに とらえよ うとす る,従
来 には ない, 新 しい近 代的 な方向 をみて とることがで きるゴ) 「取調委員 会」 の こ うした一定 の近代的 な体 質 に対 して,陸
軍 歩兵操典 あるいは体操 教範 にもと づ き体 育 を軍事 的 に再編 しよ うとす る軍部 の圧 力 によって設置 された「文部陸軍合同調査 会」(明治 40年設置 ― 一 以下 「合 同調査会」lは
,軍
事型 身体機能 の形成 を要求す ることによって「取 調 委員 会」 の 自由化政策 を国防=内
治 的見地 か ら抑制 す ることにその意図 がおかれて いた。 この こと は,同
時 に,軍
部 の ま きか え し工作 を意味 す るもので あった。 こ うして,明
治30年 代以降 において 体 育 の近代 化 と軍事化政策 は,根
本 的 には相 互 に対立 し,矛
盾 す る こ とは なかった が,大
正 期 にお いて民本主義思想 と自由教育運 動 の影響 化 におかれ ることによ り,互
いに錯綜 しなが ら展 開 され る こ とになる。 その意味 にrO・いて「取 調委員会」 は,改
正 小 学校令 以後 の全般 的 な近代化傾 向 を基礎 づ ける契機 となった。(2)樋
国 の「 活動主義」,「自学主義」 と体育思想 先述 した よ うに,改
正 小 学校令,取
調 委員 会 による体育の近代化政策 を客観 的条件 と しなが ら, 伝 統 的 な「臣 民」 的教 育の理念 にも とづ いた,体
育方法 の弊害 が指摘 され るよ うになった。 た と え ば,寺
田勇吉 は,兵
式体操 があま りに形 式 には しりす ぎ,「器械」 的 に兵キ を「管理 」す るかの ごと くで あ る。 その結果,「生徒 ハ其規律 ノ煩細 ナルニ堪 ヘ ズ ンテ内心不平 ヲ抱 キ機 ヲ得 テ不平 ヲ洩 サ ン トスルニ至 ルJ状
態 で あ り,そ
の こ とが,「我 邦諸学校 ノー大病 弊」 で ある学校騒 動 の主 た る原 因 と なって い る, と批半Jして い るF
こ こで,明
治公教 育 の教授理論 に大 きな位 置 を しめ,体
育 におけ る形式主義,画
―主義 的教授 の 根 源 となったヘ ルバ ル ト派教 育学 につ いて若千ふ れて お く必要 があ る。 ツ ィラー,
ライ ンに代 表 され るヘ ルバ ル ト派教 育学 は,明
治20年代 にハ ウス クネ ヒ ト,谷
本富, 湯原 元一 等 によって移入,紹
介 され,明
治30年 代 に定着 をみた。 ヘ ルバ ル ト派教育学 にあっては,教
育方 法 を「 管理」,「教拘 ,「訓 育」 の三領域 に分 け,子
ども の意志,感
情 にTalJき か け,教
授 され る知識 と一 致 した意 志の形成 を目的 と した「 訓育」 に重 要 な価 値 を与 えた が,本
質的 には,品
性 の陶冶 に有効 な知識 を与 える「教授」 が教育の中心 的地位 を しめ た。 その ため,体
育 は,子
どもの欲望,行
動 を抑 え,秩
序 を保 つ こ とを目的 と した,教
授 の前段 階 と しての「管理」領域 に位 置づ け られ ることになった。 しかも,ツ
ィラー,ラ
イ ンは,「民族 共 同 体 」 の形成 を基 本原 理 と して教育 目的,内
容 を決 定 し,
その 教 授 過 程 は,予
備,提
示,比
較,統
轄, 応 用 の形式的段 階 をとる,と
したので ある。 この教授 理 論 は,ヘ
ルバ ル ト自体 がペ ス タロッチの「直観 か ら概 念へ」 とい う教授理 論 を継承 し, 「興 味 の 多面性」 を認識主体 (子ど も)と
認識 対 象 (文化,教
材)の
統 一 的概 念 と して と らえ,主
体 の解放 を志 向 した教授理 論 とは異 質の もので あった。 その結果,「教授 は所与 の内容 の価値 を失 っ た段 階へ の適 用 の技術」ηへ と変質 し,近
代 の教 育理 念 におけ る主体形成 は失 われ るこ とになった。 この特徴 をもつヘルバ ル ト派教 育理論 は,わ
が国 の絶 対主義的 な公教育体制 において教 師 中心 の 形式化 した教授観 の確 固 た る基礎 をお くことになった。 ところで,そ
うしたヘ ルバ ル ト派 教 育理 論入江克 己:大正期 における自由主義体育思 想の研究 (1) における形式 的
,注
入教授 に批判 を加 えたの が,東
京 師範 学校付属 小 学校 訓 導 の樋 口勘次郎で あっ た。樋 回は,「明治維 新以来教育 ノ運 日進 月歩 ス ト称 ス レ ドモ道 義ハ益 々地 ヲ払 イ知識 ハ拡張 シ芸術 ハ発達 シタルニ相違 ナキモ人々益 々意志薄弱 ノ軽操 漢 トナ レルモ無用 ノ学者 ノ輩 出スル無頼 ノ書生 ノ続 出スルモ教育 力身体 ヲ薄弱 ニスルヤ ウニ見ユ ルモ皆広 キ意味 二於 テ教 育 二統一 ナキニ原 因 ス ル コ ト多 シ」81と 批判 す る一方,「教授 スル諸種 ノ教科 ヲ成 ルベ ク関連 セ ンメ」91る必要 があると「統 合主 義」 を提唱 した。 そ して,ヘ
ルバ ル ト派教育学 にID・け る「管理」 に対 し,次
の よ うな批半」を加 えた ので ある。 「 ヘ ルバ ル ト派 教 育学 にて は,教
授 の予備 を して管理 の大 に必要 な るこ とを説 くけれ ども予 は反 対 の意 見 を有 す る な り。ヘ ルバ ル ト派 の唱 うるが如 き管理 は,小
学校 に於 て は,真
に必要 な きのみ な らず,却
て誤解 を来 して害 毒 を流 す もの た るこ とを恐 るな り。教授 を施 さん とす るには, まず教 場 に於 て一 定 の秩序 を立 て,注
意 を一点 に向 わ しめ ざるべ か らず。児童の我儘,例
えば教室 にあ り て種 々 なる手 いたず らをな し,或
は故意 に靴 音 を高 くして以 て 自 ら快 と し,甚
だ しきは喧嘩 をなす が如 き,之
を抑 うるに命令 を以 て し,之
を成 す に成厳 を以 て し,盲
目的 に服 従 せ しむ るに あ らず ば いかに して か教授 をなす こ とを得 ん といい。之同派 の主張 す るところの学 説 な り。此説 は多 くの教 育者 に信 ぜ られ,盲
目的服 従 は至 る所 の学校 に強行 せ らる。 か くて児童 の活 動 は,厳
に剋 制 せ られ,児童は何故にさまざまの規則 を守 らざるべからざるかを解することなく
,従
いて自己の内′
いより出
でたる自治心 によりて謹慎するにあらず して教師の威嚇又は懲罰を恐 るるが故に
,殆
ど偶像同様 に
萎縮 し終れり。ゴ
0 そ して,「大人 にす ら堪 えがたかるべ き姿勢動作 を幼童 に強 いて其の身体活動 を抑 え,児
童の心理 に合せず,た
だ教 師の論理 によ りて組織 したる教案の範囲 を脱 し,秩
序 に反す る疑間は一切拒絶 し て其の研究心 を殺 し」nて しま う教授法 に対 して,「生徒 の 自発活動 によ り教授せ ざるべか らず。」 「児童 を して喜 びて学 ば しめよ。学問は遊戯的 になさしめよ。愉快 を感 じつつ,内
部 よ り起 ると ころの活動 は強 く,随
って発達 も亦著 しけれt苅りと活動主義 にもとづ く教授の原則 を主張 した。 こうした近代的 な教育思想 をもつ に至 った樋 口にとって絶対主義的 な体育は,当
然の ことなが ら 批半」されなければならなかった。彼 は,森
有礼の思想 に象徴 される精ネ申主義的,形
式主義的 な兵式 体操,睦
軍体操 を「圧制主義」,「器械的訓練」主義で あり,「為 に児童の一吸一笑 も,規
律 を乱す も の として,可
責叱叱す るに至 り,果
ては児童 を して学校 にあ りては,又
特 に体操の時間 に於 ては、 自己の身体 を処理す る権能 な く― に教師の号令 に服従すべ き者の如 くに思 は しむるに至た り。放縦 なる児童豊嫌悪の情 を起 さ ゞらむや」°と指摘 した。 この批判 を通 して,樋
回は,体
育 における大筋主義の誤 りを指摘す ると同時 に,近
代的 な体育観 を明 らかに している。 「通常所謂体育 とは身体諸筋肉 を発達せ しむることのみ用 ひて,更
に脳 及神経系統 に関係せ ざれ ども,脳
及び神経系統 も亦身体 の重要部分 なれば,之
を発達せ しむることも一種の重要 なる体育 な るべ きは明 らかなり。之 を発達せ しめるためには,種
々 なる現象 を感覚或 は知覚せ しめ,知
識 とな し,感
情 を起 し,意
志 を生ぜ しめ,而
して之 を発達せ しむにあ り。」動 樋 口は,「活動主義」,「統合主義」教育論 と近代的 な体育観 を背景 にしなが ら,従
来の「管理」 的, 「訓練」的性格 をもたされていた「遠足」 を実物教授 と実践的教育の場 として とらえなお し,自
由 遊戯 などを内容化 した「飛鳥山遠足」実践す ることによって,そ
の教育的価値 を自ら明 らかに した。 一般 に,学
校行事 としての遠足 は,明
治初期 においては単 なる慰安的 な性格の行事で あったが,鳥取 大学教育学部研究報告 教育科学 第18巻 第1号 明治10年 代以降 には
,兵
式体 操 を模倣 した「 行軍」 と体操 を行 な う運動 会 をかねた校 外行事 に変容 して い き,次
第 に軍隊方 式 によ る「精神 訓緋も の手段 と しての意味 あいを もつ よ うになった。特 に, 森 有礼 によ り国家 の祝 祭 日の儀 式 と体 育,行
事 が結 びつ け られ,管
理 ・教授 。訓育の相 互 が有機的 な関連 をもちなが ら,全
体 と して理 性 を超 越 した天皇=国
家 に対 す る絶 対 帰― の忠誠 的心情 を拡 大 再生産 す るとい う天皇 制思 想 の教化 的機 能 を果 す こ とになった。 その行 事 において子 どもの 自主的, 主体 的 な学習活動 が保証 され えなか ったの は,自
然 の な りゆ きで あつた。 彼 は,遠
足 の この一般 的 な性格 に対 し,そ
の教育的意義 を対置 させ たので ある。 「世 界 を大学校 と し,穀
難 を良教 師 と観 た る先 賢 を許 さば,余
を して郊 外 は良教場 な り,遠
足 は 良体操 な りとい うを得 しめ よ。 山 を攀 じ,野
を走 り,新
鮮 の空 気 を呼吸 し,四
肢 を快 活 に運 動 す, 是堂 体操 にあ らず や。蒼天 の屋,山
林 の壁,青
草 の席,岩
石 の床,自
然 を書 と し,自
然 を筆 と し, 自然 を自紙 と し,自
然 を硯 と し,耳
に きき目によま しむ。良豊教室 な らず や。」D
この樋 回の「活動主義」 的教 育理 念 の立場 か ら展 開 された近代的 な体 育論 は,何
をその意 図 と し て提起 されたので あろ うか。彼 の究極 的 なね らいは,国
家社会主 義 の観 点 か ら隊米 の帝国主 義 諸国 に伍 して 日本 の海 外進 出 を実現 しうる「大国民」 と機能的身体 の形成 にこそあつたので ある。 「 今後若 し,か
ゝる教育法 の久 しく継続せ らるることあらば,進
取 の気 象 日に月 に消磨 し,国
民 の元気 は年々歳 々温 喪 して,東
洋 の先進 国 を以 て 自任 す る日本 も,遂
に他 国 の凌 駕 を忍 ば ざるに至 らむ」いが故 に,教
育方法 の改 革 が さ し迫 った課題 と して意識 された か らにほ か な らなかった。(3)谷
本富 の国家主義 と「 自学主 義」 的体 育論 明治20年 代 にヘ ルバ ル ト派教 育学 の5段
教授 法 の普 及 に大 きな役割 を果 した谷本富 は,明
治31年 1こ「将 来 の教 育学 ― 一名国家的教育学卑見」 を著 し,自
ら国家的教育学へ と転 換 して いった。 彼 の国家 的教育学 とは,(1)児 童 に国家 の将来 を伝 え,「国民」 と して形成 す る こ と,(2)「 国 民」 と い う資格 をもった者 を「国家」 とい う「機 関」 において適 当 な位 置 を与 え,国
家 に服従 させ る こと, を目的 と した もので あった。彼 は,大
日本 帝国の発展 を支 える精神 を養 い,絶
対 帰― の意識 に結 ば れた「 国民」 の形成 を根 本理 念 として,ヘ
ルバ ル ト学派 の心理学,倫
理 学 力Ч国人主義 的で ある と批 判 す る とともに,体
育 を「管理」 領域 に位 置づ け,そ
の教育的機能 を否定 したヘ ルバ ル ト派理 論 に 対 し,体
育 を「教 育」 の範疇 において と らえるべ きで あると した。 「今 の小 学校令 の第一条 には『児童 身体 の発達 に留意 し』 と書 いて あるが,あ
れは体 育で はない。 児童 身体 の発達 に留 意 す るだ けで は意味 が きわめて薄 いゆ え,小
学校 は体 育 を施 す を一番 手 にも って行 きたい。 自分 は會 てヘ ルバ ル ト教育学説 を鼓 吹 した ことがあるので それ を知 って い る諸君 は 自分 が昔主張 した ことと参 言ふ ことが著 しく違 って いると言 われ るかも知 れ ない。如何 にも論理上 か ら言 えば体 育 はあるひは教 育で は ない と云 はれ るで あ らうが,今
日では体育 を教育の中 に入 れない 訳 には行 ない。 これ まで の説 は悪 かつた か ら今後 は止 め る。 兎 に角小 学校令 に流ては『体育 を施す』 と書 いて貰 ひたい。」η 谷本 の この主張 は,実
用 主 義 的教科 と して体育 を再評価 し,小
学校令 にお いて この性格 をよ リー 層 明確 に規 定 す べ きこ と に そ の意 図 がお かれて いた。 また,彼
は,ア
メ リカのサーチの「理 想の 学校」 をモ デ ル と して学校 改造 の10ケ 条 をあげ,そ
の1ケ
条 に「学校 は身体,智
力並 び に道徳 共 に 通 じて健 全 な らん こ とを促 進 す るを要 す」 べ きこ とをあげて い る。 そ して,彼
は,明
治教 育 に顕著 な(lI回性 を重 んぜ ざる事 ,(2)自 主 自重 の精 神 の 欠 如 を批 判 し,「自学輔 導」 を主「昌したので あった が,そ
の 自学主義 も,天
皇 制 国家 に盲 目的 に追従 す る「臣民」 で は な く,「自由の服従 を為 す所 の人入江克 己:大正期 における自由主義体育思想の研究 (I)
間」の育成とぃう前提がおかれていたず
谷本も樋口と同様に, 日露戦争後の帝国主義的競争に意欲的に参加 しうる身体を要求 したのにほ
かな らなかったが,高
島平 二郎 の思 想 も,そ
うした樋 口,谷
本 の思 想的系譜 に求 め るこ とがで きる。(4)高
島平 二郎 の「 人格主義 と」 「 自動主義」 高島平 二郎 は,そ
の主著「体 育原理J(明 治37年)に
お いて伝 統的 な体 育 とヘ ルバ ル ト派教 育理 論 の批判 を通 して,「自動主 義」,「活動主 義」 を理 念的背景 と しなが ら体 育の近代化論 を展 開 したぎ 彼 は,「維 新 以後 に行 はれた る体操 は其 の初 め何 れ も単純 に欧米 の方法 を模倣 せ しに過 ぎず して之 が実行亦甚 だ盛 な りと云ふ可 らず。況 んや其 の理論的研究の如 きは今 日に至 るまで殆 ん ど進歩 を見 ざるな り。然 れ ども今 や我 が国 民 は強大 なる生存 競争 の経験 を重 ねて身体 を教育す ることの必要 を 感 ず るこ と漸 く深 く運動 の実行 日に月 に盛 ん に実際 的体操書 の出版 せ らる ゝこと所牛汗牛 充棟 な ら ん とせ り」硼と して い るが,「世人 動 もす れば体 育 と体操 を混同 し,体
操 は即 ち体 育 な りと思惟 す るも の あ るは,大
なる誤解 な り」Dと体 育 の思 想 的 問題 を指摘 して いる。 高島 にとって,批
判 の対 象 とな らなけれ ばな らなかったのは,何
よ りもヘ ルバ ル ト派 教授理 論で あった。 「 ヘ ルバ ル ト派 の教育 に於 て は,体
育 は学校教 育以外 の もの な りとす るが故 に,特
に運動教科 の 教授法 に論及 す るもの甚だ少 な く,他
の教科 の教授法 の盛 ん に研究 せ られて,著
る しく進歩 し,教
授 の如 き細徴 の点 に至 るまで 明 らめ られた るに拘 らず,運
動教科 の教授法 は,依
然 と して非科 学 的, 不 自然 的 た ること免 れ ざ りき。」20し か も ,「ヘルバル ト・ ライ ン等の立 てた る教授 を直 ちに運動教科 に 適 用 せ ん こ とは,殆
ん ど不可能 なるのみ な らず,仮
令 形式上強 ひて之 を適 用 した りとも,無
意味 の 煩 雑 を来 たす に過 ぎざるべ し。何 となれば,ヘ
ルバ ル トー派 の教段 は心理 的並 に論理 的順序 に基 き, 被 教 育者 を して新事実の統覚 を得 るに便 な らしむ るを以 て 目的 とせ るもの なれば,其
の主 とす る所 は,心
理 的法則 に在れ ども,身
体 教科 に於 て立つ可 き教段 は,統
党 を以 て 目的 とす 可 きにあ らず。 何 となれば運動教科は児童の身体 活動 が 自然 の法則 に従 ひて,適
当 に行 は れ,其
の身体 に善 良 なる 影響 を興 ふ る こ とを期 す るもの なれ ば な り。故 に運 動 に於 ける教段 は,其
の主 とす る所,生
理 的法 則 に在 りといふ可 し。然 れ ども心理法則 の実行 が,心
理 作用 を伴 ふ ことは,疑
ふ べ か らざる事実 な れば,生
理 的法則 に擦 りて立 て た る運 動教科 の教授段 階 が,運
動技能 の授典上 心理法則 に並 行 すべ きは,言
ふ こ とを待 た ざるな り。」21 この批判 の上 に立 って高島 は,「学校 教 育 の根 本 問題 は,身
体 の健 全及 び其 の完 全発達 よ りして, 一 面 には訓練 によ りて道徳 品性 を養 ひ,他
面 には教授 によ りて多角 的興味 及 び多角 的技能 を興 ふ る にあ り」22と教 育 の基本 的性格 を規 定 し,体
育 を「人格修 業」 の立場 か ら,「普 通 教 育 に於 け る体 育 は, 人格修養 の一大事業 に属 す る」20が故 に,「実 に人 と して当然 に具ふべ き体 力 を養 ふ に在 り。」2鞍た,「其 の発動 的 に身体 を動 か し,筋
肉 の増大 は勿論,す
べ ての機 関の活動 をす ゝめ全 身の強壮美 を加へ, 且つ其 の発動 を助 け,四
肢 の運 動 を して,敏
活 に目的 に適応 せ しむ る」29こ とで ぁる と して い る。 そ して,彼
は,運
動 の領域 を(1)規則 運 動 …… (普通 体操 ・兵式体操)(2)自 由運 動 …… (遊賊 ・散 歩 ・跳躍 等)(3)技 術 運動 …… (スポ ー ツ)等
に分類 し,基
本 的 には体操 と遊 戯 を並 行 させ なが ら, 各領域 の教育 的価値 を次 の よ うに指摘 して いる。 (1)体操 ∼「 全 身筋肉及 び諸機 関 の調和 的発達」,「意思 の修 業」,「秩序 と服従 心」 の養成 にあ る。 (2)自由運 動∼「各 自の意思 の ま ゝに動作 す るが故 に,体
操 に比 す れば,運
動 の種類 及 び其 の 変化 非常 に多 く,よ
く体操 の動作 の及 ば ざる点 を補 ふ こと」 にあ り,ま
た,「想像 の 自由発動」 と「 共同鳥取大学教育学部研究報告 教 育科学 第18巻 第1号 一 致の精ネ申」 の形 成 にあ る。 (3)技術 運 動 ∼主 に「 全 身の均 斉的発 育」,「活 発 な る快感 の生起」,「鍛 加 ,「勇気」 の陶冶 にあ る。 高島 は
,
これ らの教材 が「 全 く感覚機 関の完 全 を予 想す る」 教授 において児童の「発 育」 に即応 し,「其 の運 動 の 目的 を知 ら しめ」,「発動 的」,「活 発 的」 に学習 され るべ きことを指摘 し,自
動 主 義, 活動主義 を強調 したので あるぎ0 彼 は,教
授 過程 を(1)予備 運 動 ,(2)本 運動,(3謄
尾 運 動 の3段
階 と して とらえ,ヘ
ルバル ト派 の応用 段 階 は,「一教授単 元の終 りに置 く」必要はなく,日 常的に運動会嘘 足等 に応用 されるべ きで あると述 べると同時に
24「凡そ教授に貴ぶ所は
,各
教科の連絡を計りて
,甲
の教科は乙の教科と互に相補助せし
め,以
て被教 育 者 の精神 界 に堅 固 なる統 一的智能 を興 ふ るに在 り」20と「統 合」 の重要 性 を指摘 した。 高島 は,
この よ うに「 自動主義」,「活動主義」 にも とづ く近代 的 な体 育思想 を明 らかにす る と ゝ もに,「単 に生理 解剖 衛 生 等 の諸科 学 に興 味 を有 す るのみ な らず之 と共 に倫 理 心理 教 育社 会 生物 等 の 諸科学 に注意 し是等 の知識 を基礎 と して身体 を研究 す るに至 らん こ とは著 者 の 特 に希望 す る所 な リゴ9と体 育 の科 学 化 を提起 したので あった。 これ らの思 想的意義 をもつ高島 の体 育論 において全 く限界 が ないわけで はなかった。彼 の近代体 育論 もその根 底 において欧米列 強 に対 す る危 機観 に支 え られた訓 育論 と機械 的身体論 を軸 に主張 さ れたので あった。 彼 は,「生物 に存 す る勢 力は,無
生物 に存 す る勢 力 と類 を異 にせ るもの にあらず して,唯
前者 に比 して頗 る複 雑 なる組織 を有 す るが故 に,其
の発現 す る勢 力 も,亦
頗 る霊妙 なるを見 るの み。 故 に生 活現象 は,其
の初 め,理
化 学 的作用 に抵抗 して,
よ く生物体 の存 在 を保 つ もの な り」30と「 生 活 現 象」 を と らえ,「人類生活 の状態」 も他 の内燃 機 関 と同様 に「一種 の燃焼作用」 で ある とい う明 らかに機 械 論 をその発想 と して い る。3〕 「 生活 現象 は,全
く自体 を消耗 す る所 の燃 焼,又
は酸化 に外 な らず して,営
養 品 の摂 取 は,即
ち 燃 焼 及 び酸化 に原 料 を供給 す るもの な り。是 れ即 ち人類生活の状態 な りとす。」翻 この立場 か らすれば,体
育 は,「生活体 に特有 なる代謝機能 を して活発 な らしめん とす るに他 な ら ず」33との結論 が導 き出 され,
しか も,優
勝 劣敗,弱
肉強 食 の支配 す る世 界 において,そ
の教授 は訓 練 的 に行 われ な けれ ば な らなかったので あ る。彼 は,「国 防上 よ り体 育 の必要 を論ず」 の な かで 次 の よ うに述 べ て い る。 「 今 日の世 界は,兵
力の世 界 な り。兵強 ければ国強 く,国
強 けれ ば,其
の国民 は世 界何 れの庇 に 至 りて も,其
の権 利 を伸 長 して,其
の志 す所 を成 し得べ し。」341/cれ 故 に,「荀 も国民 た るもの は其 の兵 式 た る と然 ら ざる とに論 な く,所
謂国 民皆兵 の主義 に基 き,努
めて体育 を励 み,強
健 な る身体 と共 に活発 な る精神 を養 ひ,一
日緩急 あ らば,義
勇公 に奉ず るの心掛 けなか るべ か らず。実 に体 育 は, 国 民 の元気 を振 ひ,愛
国 の精ネ申を養 ふ に,最
も適 切 なる方法 な りとす。」39 高島 の思 想 も,ヘ
ルバ ル ト派教 育学 の論理 か ら基本 的 に脱却 しえず,国
家主義 的立 場 か らの体 育 の再編 論 に終 始 す ることになった。 だ が,彼
の提起 した体 育論 は,そ
れ までの形骸 化 した体 育 に対 して一定 の批判 とな りえた し,ま
た,以
後 の近 代 的 な体 育論 を成立 させ る思想的契機 となった こ と も否定 しえない事実で あった。(5)明
治体育批判 と「 自動主義」,「個 別 主 義J 明治30年代 にお いて樋 口,谷
本,高
島 な どによって主唱 された「 自動 主義」,「活動主義」 体 育 の 理 念 は,明
治40年代 に入 り旧来 の体 育 に対 す る批半J的 視 点 と して次第 に定着 して いった。入江克 己:大正期 における自由主義体育思想の研究 (I) 明治43年 に東京帝国大学で体育研究 会主催 による「体操遊 戯講演 会」 が開催 されて いるが
,そ
こ で は「個性」,「自発J,「自覚」,「興味」 といった観 点 か ら伝 統 的体育の実情 が さま ざまに批判 され るに至 った。 小野 泉太郎 は,「体 操科 の実際」 の なかで,「現 今 の体操演 習,音
楽遊 戯,就
中体操演 習 といふ こ と は,其
運 動 が厳密 の形式 を以 て号令 に従 って動作 す るか ら して,受
動 的 に 一 受身的に身体の活動 を機 敏 にす る。是 は練 習 には誠 に宜 しいけれ ども,発
動 的 の運動即 ち自分 の意思 か ら全然出 た運 動 をす るには適 しない運 動 で ある。で教 師は斯 ういふ種類 の運 動 に対 しま して,成
るべ く注意 して, 受動的 なもの を自発 化 とで も言 ひ ます か,自
発 化せ しむ るといふ だ けの注意 を有 って居 なければ な らぬ と同時 に,一
方 に於 ては,競
争遊 戯運 動 を奨励 す るこ とを必要 と します。 で体操終 局 の 目的 は, 体操 は 自分 自身の体操で ある,人
の体操 で ない,教
師の体操 で ない,自
分 自身 の体操で あるといふ ことを悟 らしむ るといふ ことになる」30と 「 自発」,「自覚」 の必要 をあげ,
さ らに,個
性 の尊 重 すべ きことを↓旨摘 して い る。 「生徒 を自然 に自分 の考 に基 いて其型 に入 れて了 って,融
通 の利 かぬ者 に して,総
ての生徒 を し て体操 に関す る個 々の個 性 を発現 せ しむ ることを忽 に して了って居 るといふ ことが あっては な らぬ。 時 とす る と,此
弊 が ないで も ない。体操 に於 きま して も,一
般 に教育 と同 じく体 育 は体 育だ けれ ども其 中 に矢張個 性 を発見せ しむ ることが なければ な りませ ぬ。是 は精神上 の ことばか りで な く身 体上 の こ とが さ うで なければ な りませ ぬ。 それで体育上 に於 て も個 性 を発見 せ しむ ることがなけれ ば な らぬ と思 ひ ます。」8η その他,主
な批判 論 をあげてみ る。 従 来 の体操 は,「単 に基 本 的形 式 に拘 泥 す るのみ な らず,其
内容 た る生理 的形式 にも拘泥 して居 る や うに思 はれ ます。 さ うして形式 の ことばか り心配 して居 って実 質的で ない といふ点 が,ど
うも多 いよ うに感ぜ られ ます。言葉 を換へ て言 ひます と鍛練 的で ない。又充実 的で ない。」30しかも ,「其効果 を直接生徒 に感ぜ しめて居 らぬ。其効 果 を感 ぜ しめ る といふ こ とは是 は非 常 に必要 なることで ある。 一 ― 中略 ― ― そ れで是 は其生徒 に直接の効果 を感ず ることが少 ないや うで あ る。却 て遊 戯 といふ 方 に於 て其効 果 を感 じて居 るや うな傾 きもあ ります。是 は教授上大 に注意 を要 すべ き点で あ ると思 ひ ます。 それ等 の方法 に就 ては随分御考案 もあ りま しょ うが,要
す るに心 身発達上の成績効 果 を揚 げて直接 に其 力 を自覚 す るといふ まで に至 って居 らなけれ ば な りませぬ。 それです か ら其教材 は勿 論児童発達 の程度 に依 てや るといふ ことは当 り前 の話です。」39
西野辰五郎「普通教 育 に於 け る体 操科 の方針 」 運動 にお いて は生理 的作用 と心理 的作用 は,相
互 に「人格」 の活動 と して統 一 されて お り,
この 立場 か ら体操科教授 の原則 が明 らかに されないま ゝ「型 ばか りを真似 て魂 の宿 って居 らない所 の体 操教授」10が支配 して い る。一 一 横 山栄次「体操教授 の教育 における位地 及其 心理 的研究」 「 ど うも従 来 の体操 界の思 想 の一 弊 と して,余
り此体操 を機械 的 に取 扱 ひ,統
一 し過 ぎたや うな 傾 きが ある。例 えば亜鈴体操 とか或 は徒 手の連続体操 とか球竿 とか針 う云ふ や うな体操 なども或 る 一二 の人 が捧 へ たの を,そ
れ を何庭 迄 も何庭 へ往 って も,そ
れ をや る。 それ をや って居 らなければ, ど うも体操 が違 って居 るといふ風 に,如
何 にも体操 と言へ ば,も
うチ ャ ン トーつ と極 った もので, 一番始 め には斯 う云ふ ことがある,其
の次 には何で あると云 ふ風 にチ ャ ン ト極 った もの ゝや うに, 窮屈 に考へ て居 った。夫 故 に,其
の点 に就 いては何庭 の学校へ行 って も余程統 一 を得 たや うで あっ た が,私
は さ う云 ふ風 な細 かな統 一 は余 り必要 が なかろ うと思ふ。夫等 の点 に就 ては,却
つて各学鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第18巻 第1号 校 で それぞれ組織 した方 が宜 かろ うと思ふ。」り
山 口 西 二 郎「 体 操 の統 一 に就 て」一―
(6)「
新体 育」 論 と訓育主 義 明治30年 代以後 の新体 育論 および明治体 育批判 論 は旧来 の形式主義,画
一 主義的体育 を批判 す る 一 方で,訓
育 的体育 が主張 された こ とに特徴 があ る。樋 日,谷
本 は云 うまで もな く,高
島 もすで に み た よ うに訓 育的体 育 を論 じた。 「 今運動教科 に就 きて考ふ る に,其
の直接 の 目的 は運動 の技能 に在 りと雖 も,其
の技能 を授 くる の精神 は,必
ず訓育 的 な らざるべ か らず 。」靱 「 これ体 育の 目的 が,単
に身体 の健康 を謀 るに止 ま らず,訓
練 の 目的 を も包含 す るもの な るが故 に,一
方 身体1蓼練 と同時 に,訓
練 の 目的 をも,必
ず成 功 せ しめん こ とを期 せ ざるべ か らず 。而 して 体操時 間 と他 の時 間 とは,之
を明 か に区画 し置 かん ことを要 す。即 ち,体
操時 間の始 め に於 て,『是 れ,よ
り体 育 に取 り掛 るので あ る,団
体 的 の仕 事 をす るので あ る,』 と云ふ,著
しき決心 を促 さしめ ざるべ か らず。一― 中略 ― ― 児 童 を して『是 れ よ り共 同的事業 を為す所 に行 くもの な り,吾
々 は 姿 勢 を保 つべ き良 き習慣 を作 り,以
って身体修 練 を行ふ もの な り。』と云 ふ こ とを自覚 せ しめ,以
っ て注意 と興味 とを惹起 せ しめ ざるべ か らず。」40 日露戦争後 の帝国主義的要 求 が,体
育 によ リー層 反映 され るにおよび,訓
練,鍛
練 が よ り合理 的, 近 代 的 に「 自動主義」,「活動主 義」 教授 の過程 において実現 され る必要 が あった。 こ うした訓育的 体 育 は,い
わゆ る新 「学校」 において も実践 されていった。明治34年 に姫 路 師範学校 の校長 に就任 した野 口援 太郎 は,森
有礼流 の精神主義 的 な師範教 育 に対 し,(1)人 格 教育 ,(2)自 由 自治教育,(3)体 験 的労作教育・鍛練 教育,(4)宗 教教 育 を主 な教育理 念 にか ゝげ,特
に鍛練 を重視 して「 強健 ノ身体 卜堅忍 不抜 ノ意志」 をもち,「実行 二果 敢 ニ ンテ進 取 ノ気 象 二富 ミ」,「絶 エ ズ心 カ ヲ労 シ体 カ ヲ役 シ」 こ とを「理想 ノ教 師」 と した。 そ して,教
職員 を合 め,全
学的 な水泳 実 習,六
甲 山競争 などをカ リ キ ュ ラムに くみ こみ,実
践 して い るよりまた,静
岡 師範付属小 学校で もこの訓 育的立場 か ら「 団体 的 精 神 一― 秩序 規律,協
同,自
治 等 の精神 一 ― を養 うに足 るべ き団体 的遊 戯也 と して子 どもた ちの 遊 び を組織 し,発
展 させ たど0 以上のよ うに,日
露戦争前後の「活動」 的人間の形成 を基本理念 とし,体
育方法,内
容 の改革 を 提起 した新体育論は,究
極 において民衆 を半封建 的,抑
圧的な教育 から解放す るとい う課題 と結合 したルソー,ペ
スタロツチ等の近代教育の思想的系譜 において展 開 されたのではなく,あ
くまで も 帝国主義的 な海外進出を遂行すべ く,ブ
ルジ ョアジーの立場 から明治絶対主義教育体制 を改良す る ために成立 したもので あった。 これは,樋
口,谷
本,高
島等の体育論が共通 して社会 ダーウ ィニズ ムを思想的基盤 とし,そ
れに支 えられた「体 力」 形成 にrD・かれていることに表明 されている。 しか も,こ
の思想構造は,ナ
ショナリズムを媒介t節虫発 され,侵
略主義 に結びつ くことによってやがて帝 国主義的発展 を合理化 し,支
持す る体育論へ と結実 していったので あるぎ2.大
正 デ モ ク ラ シ ー と 自由主 義 体 育 思 想 の 成 立(1)臨
時教育会議の設置 と「兵式体操二関スル建議」 日露戦争 を契機 に過早 な帝国主義段階 に移行 した日本資本主義は,大
逆 事件 に象徴 され るように 社会主義運動の “冬の時代"を
迎 える一方,経
済的 には,慢
性的な恐慌状態 に国際恐慌 が加 わるこ とによってその矛盾 を拡大 させていった。入江克 己:大正期 にID‐ける自由主義体育思想の研究 (I) 帝国主義諸国間の矛盾の爆発で ある第一次大戦 (大正
3年
∼大正7年
)は
,そ
うした慢性的恐慌 から脱 出する好機で あったが,大
正9年
に再 び反動恐慌 におそわれることによって農業恐慌 をもた らした。 その結果,農
村の底辺 に広範 な貧困層 を形成す ると同時 に,都
市貧困層 を増大 させ,ロ
シ ア革命 (大正6年
),ドイツ革令 (大正7年
)な
ど,国
際的な社会主義運動 を反映 して米騒動 (大正7年
),小作争議,ス
トライキの続 発 等 労働 運 動 を最 も発展 させ ることになった。 この政治領域 に おける民衆の台頭は,日
本資本主義の急速 な発展 によって成長 した独 占ブルジ ョアジー,都
市の新 中間層 を社会的基盤 として,こ
ゝにいわゆる「大正デモ クラシー」 と呼ばれる時代 を形成すること になった。 この「迂 デモクラシー」 は,明
治10年代の自由民権運動 に次 ぐ,「第二の国民的基盤 にお ける民主主義運動」40でぁり,「日本資本主義 が帝国主義への転化 を遂 げていた段 階 に,都
市の産業 ブ ルジョァジーを指導層 として,労
Tall者,農
民,勤
労小市民 を基盤 として展 開せ られた民主主義的大 衆運動プ で あったぎ 第‐次大戦前後の「民本主義」 を基調 とした この運動は,旧
来の絶対主義 グループ との勢 力的不 均衝 をもた らし,天
皇制絶対主義体制 を動揺 させ る客観的条件 となった。そのため,旧
絶対主義勢 力は,後
の普選実施 と同時 に,治
安維持法の制定 (大正14年)に
み られるよ うに独 占ブルジョア勢 力と相補 的な関係 を維持す るために,従
来の天皇制体制 を修正,再
編す ることを余儀 な くされてい ったので ある。 大正期 における体育政策は,こ
の両勢 力の矛盾 と葛藤 を忠実 に反映 し,寺
内 と原 に代表 されるよ うに総体 としての教育政策 とのか らみあいの なかで体育のブルジョア化傾向 と軍事化傾 向が決定的 な対立 をみることはないながらも,相
互 に錯綜 しなが ら,
しかも補完的な関係 を保 ちつ ゝ全体 として の帝国主義的体育 に向っていった ところにその特徴 がある。 ところで,寺
内内閣 によって大正6年
9月
に設置 された臨時教育会議は,デ
モ クラシー運動 によ ってもた らされた天皇制体制の動揺 を防 ぎ,天
皇制思想 を国民的思想 として どう統一す るか,国
民 教育の軍事的再編 を通 してその思想的基盤 をさぐることを主 な目的 としていた。それは,ま
た,山
本,大
隅等の近代化政策 に対す る絶対主義勢 力のまきかえし工作 を意味す るもので あった。 この こ とは,こ
の会議が山県有朋 の閥の系列 を くむ保守官僚,軍
閥,教
育宮僚 によって占め られていたこ とにもあらわれている。そ して,寺
内 による学校の兵営化政策の中心的 なもの として「兵式体操 ニ 関スル建議」 が大正6年
12月に同会議で可決 されたので ある。 この「建議」 は,実
業補 習学校 をめ ぐる論争のなかでの山川健次郎の主張 にもみ られるよ うに,軍
事的な予備教育 と潜 在的兵 力の確保, 在営年限の短縮 によって,労
Tall力の不足 を同時 に解決す ることにその目的がおかれて いたぎ また , 審議の過程 において,兵
式体操 をめ ぐり教育,軍
事の両観点 から論争 されたが,最
終 的 に,「体育」 の概念 は,原
案 を提出 した江木一之の学校体育 を意味す るとい う当初 の意図 をはなれ,軍
事教育的 目的 を全面的 に確認 し,同
時 に,軍
事教育の精神的領域 をも担当す る「徳育 ヲ神補 シ併 セテ」,軍事 教育の知識技能的方面 をも教授することによって「体育二資ス)殆 ことと解釈 されることになった。10 これは,や
がて学校 における軍事教練実施 の布石 となったのである力比 こうした軍事化政策は,「我 国ハ北ハ北極 ニモ進 ンデ事 ヲ為サ ン トスル有様デアリマス,南
ハ赤道直下 ヲ越 シテ働 カウ ト云 フ国 運 ノ大勢デアリマス,然
ルニ斯 ノ如 キ気候 ノ変化アル土地二於テ之二能 ク堪へ,国
家 ノ事業二従事 シ得ル体格 ガアルョウナコ トハ今 日ハ認 メラレヌ」10と 端的 に指摘 されているよ うに,第
一次大戦後 の軍事的進 出に伴 い,国
民体力の低下問題 に対す る危機意識 が強 く働 いていたことによるもので あ った。 このよ うに,臨
時教育会議 は,学
校 の兵営化 を中心的 な政策的観 点 としていた力ヽ 帝国主 義 132鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第18巻 第1号 的発展 のための「人材の合理的形成」 の立場 か ら
,明
治教育 に特徴 的で あった注入主義的な教授法 を批半Jせざるをえなかった。 同会議は,「児童 ノ理解 卜応用 トブ主 トシ不必要 ナル記憶 ノ為二児童 ノ心 カヲ徒費スルノ弊風 ヲ矯 正 スル必要 ア リ ト認 ム」 と指摘 し,「諸般 ノ施設並 二教育 ノ方法ハ画一 ノ弊二陥ルコ トナク地方 ノ実 情二適切ナ ランムル必要 アリ ト認 ム」40と述べている。(2)原
内閣 による体育の 自由化政策 米騒動 によって瓦解 した寺内内閣 に代 って大正7年
9月
に成立 した原政友会内閣は,寺
内以前の 独 占ブルジ ョアジーを代表す る山本権兵衛,大
隅重信 らによって展 開 された近代化,自
由化政策 を お しす ゝめていった。 大正2年
7月
に成立 した山本権兵衛 内閣は,「政治経済上我国の教育 を如何 に改善すべ きか,如
何 にすれば社会 と接触 し得 るかに就て,根
本的に研究調査」50するために教育調査会 を設置 したが,そ
の委員の一人で ある高田早苗 は,「将来の国民は立憲的世界的 ならざるべ か らざるをもって能 しく憲 政及自治制の運用 を会得せ しめ列国 と伍 して克 く親和角逐 し得 る政治経済 的知識 を与ふ るの必要」5Jを強調し
,「立憲的国民思想」の養成すべきことを主張しているぎ
1山本内閣の教育政策は
,基
本的に
は,「明治期 にお け る政策理念 とブル ジ ョアジーの それ との矛盾 の なかにあって,そ
の決定因子 を模 索 す る段 階」52でぁ った が,「立憲 的国 民」 教 育の理 念 か ら,従
来 の謬着 した官僚統制 的教育 に批判 を 加 えて い った。 また,大
正3年
4月
に山本内閣の後 を うけて成立 した大隅 内閣 も,「今 日最緊急 要 点 は,自
由独 立 の大精神大 元気 を涵養 す るにある」 ことが教育の本質で あ ると し,伝
統 的教 育 を「 忠 君愛国 も亦― の看板 に して,其
精 神 を教へ ざるな り。」「 分 日の教 育家 は,徒
らに義務 を教ふ るも権利 を教へず,偏
頼 の教育 を施 しつ Цあ り」6働 と批判 し,近
代 的 な帝国主 義確 立 の ための市場 分割 とその 戦争 を支持 し,そ
れ に参加 しうる国民資 質の形 成 にその政策 的意図 をおいた。 ところで,こ
れ ら近代化政策 の延 長線上 にあった原 内閣 は,第
一次大戦後 の列強 間の経 済 的競争 に耐 え うる人材 開発 のため に,教
育の 自由化 を推 進 し,原
自身「近来総 て が民衆化 しつ ゝあ るの は 甚 だ悦 ぶべ し。」また,縣屯然 た る民衆 的の もの とは言 ひ難 きも,然
も民衆 化 の産物」 で あ るに もか ゝ わ らず,「学校教 育 は,尚
ほ此の民主化傾 向 に順応 せず,似
えば音楽 の如 きも,三
絃 大鼓 笛 の如 き, 我 が民衆 音楽 あるに,学
校 の唱 歌 音楽 は,此
の民衆 的音楽 とは没 交 渉 な り,君
が代 の楽 譜 の 如 き は,優
雅 なれ ど民衆 的 にあ らず,又
教 育勅 語 の如 きも六箇敷 き漢語 を以て綴 られた るもの にて,民
衆 的 にあ らず」50と教育勅 語 の批判 にまで及んだ。 また,実
業家で もあった中橋 文相 も,「由来 日本 国民 は 自 らの治む るの民 に非ず して他 に治 め らる る民」 で あ り,こ
れ は,「長 き封建 制度 の余弊国 民 を駆 って宏 に致 ら しめ たので あ る」 60と 旧来 の枢密 院,貴
族 院,臨
時 教 育 会議 の教 育理念 を批判 し,
さ らに,次
の よ うに述 べ ている。 「 斯 る国民 を有する国家は,到
底今 日の如 き激列 なる国際競争 の勝 利者 たる能 はず。一 ― 中略 ― 一 忠 君愛国 の教 育主義 は至極結構 なるも教 育の第一義 は先づ完 全 なる人 を造 るにあ り。夫 には,憲
政 思 想 の普 及 を以 て最書 の手段 となすべ し。」鮒 これ ら,原
の「 立憲 的教育」 政策 は,帝
国主 義 諸国 間の軍事 的,経
済 的競争 の激 化,第
一 次大戦 前後 の生産 技術,軍
事 技術 の飛躍 的 な発展 とい う新 た な段 階 と深 くか ゝわ りなが ら,体
育 にお け る 国 民体 力の近代 的,合
理 的資質の形成 と して展 開 されて いった。「 工場 法」 の制定 (明治44年)以
後,テ
ー ラー・ システ ムにもとづ いた科 学的,近
代 的労務 管理 方式 の導入 によ る産 業合 理 化政 策 は, 生産 技術 の革新 に対応 した「国 民能率」 の名の も とに身体機能 の再編 を要 求 す るにいた った。入江克 己:大正期 における自由主義体育思想の研究 (1) 倉 敷労Tall科学研究 所 の設立 (大正
9年
)に
示 され るよ うに身体機能 の「科学」 的研究 が,作
業能 率 と疲 労 を主 な対象 と してす ゝめ られ,労
働科 学 と体 力科 学 がな 着 す る客観 的基盤 となった。 そ し て,こ
の労働 の生産性 向上 の要 求 を背景 に,軍
事 的 に も,軍
縮 問題 をか ゝえなが ら「 兵 力」 と「労 働 力」 の同時 的確保 とい う矛盾 を解決 す る必要 にせ ま られて いた。 「 学校体操教授要 目」(大正2年
1月)は
,こ
の「 身体機能」 の近代 的,軍
事 的再編 を統 一 的 に実現することが基本であったし,先 の「取調委員会」と「合同調査会」で確認されたものであったが
2 原 によ る体育の 自由化政 策 は,そ
う した時代 的傾 向の上 に展 開 された もので あった。 文部 省は,大
正7年
に「小 学校 の教授上児童 を して一層 自発的 な ら しむべ き適 当の方法如何」 を 諮 問 し,千
葉 県 も同年6月
に「 児童生徒 二 自発的学 習 ノ習慣 ヲ涵 養 スルニ最モ適 切 ナル具体 的方策 如何」 を諮 問 して い る。 これ に対 し,同
県教 育会 は,「抑 々児童 ヲ シテ 自発 的学 習 ノ習慣 ヲ涵 養 シ自 立 的人格 ノ基礎 ヲ体得 セ シメ ン ト欲セ バ須 ラク教育 ノ全般 ニ ワタ リ之 が具体 的方策 ヲ研究 考案 セザ ルベ カ ラザ ル左 二留 意 スベ キモ ノ」 と して教材,教
授 法,設
備 等 に言 及 し,教
材 は,児
童 の実際 生 活 か ら選択 し,創
作 的教 材 で補 充 す る こと,ま
た,遠
足 旅行 などには具体 的方法 を立 て ゝ自発 的活 動 に留意すべ きことを答 申 して ぃ る。5η また,同
県 の折 原 知事 も県下 の小 学校 会議 にID・いて「今 ヤ欧米 思想 ノ輸入益々盛 ナラム トス此 ノ時 二到 り徒 二之 力排 斥撲滅 ヲ策 スルハ回 ヨ リ採 ラザ ル所 ナ レ ドモ国 民性 ノ長短文 化 ノ相違 ヲ無視 シテ唯 是模倣 及バザ ラ ンコ トヲ恐 レ却 テ彼 ノ真 意真相 ニモ背反 ス ルニ 至 ル ガ如 キハ 最モ戒 ムベ キ所 ナ リ」 と模倣 に走 りす ぎる弊害 を指摘 しなが らも,「体操科 教授 ニ ア リ テハ教員 ノ努 力著 シキモ ノア リ其 ノ実績往 々二見 ルニ足 ルモ ノア リ ト難 モ之 ヲ県下全般 フ通観 スル トキハ個 別的取扱,自
由運 動,鍛
練 運 動 ノ如 キ研究 ノ余地頗 ル多 シ」 と教授 方法,教
材 の改善 が必 要 で あることを指摘 した。60さ らに,東
京市 の教 育研究 部 も大正 10年 に「 体 育衛 生上 に関す る改善要 項」 を発表 し,「体 育 改善」 の事項 と して「 体操遊戯 に関す る生理 的根 拠 を明 に し,其
の 自覚 の下 に 運動せ しむ ること」,「体 操遊 戯 を課 す るに当 りては児童各個 の生理状態 に応 じて適 当 なる指導 をな す こ と」,「児童 に対 して過度 の学 習 を要求 し,又
は過度 の刺 激 を典 ふ るが如 き奨励 をな さざるこ と」 をあげて いる。59 山本,大
隅,原
等 の一 連 の 自由化 政策 が 自由主義体 育思 想 を成立 させ る主要 な基盤 となった。(3)永
井道 明 の国 家主義 と近代 化 論 「 学校体操教授要 目」 の公布 に中心的 な役割 を果 し,大
正 期 の体育 の思想 的基盤 をおいたの が永 井道 明で あった。永井 は,教
授 要 目の解 説書 ともい うべ き「 学校 体操要 義」(大正2年
)に
おいて 自 らの思想 を展 開 したので あ るが,彼
の体育思想 の骨子 となってい るものは欧米列強 に対す る強烈 な 危 機感 に立 った国 家主 義 と社 会 ダー ウ ィニズ ムで あった。 その点 において樋 口,谷
本,高
島等 の帝 国主 義 的体育思想 とその機 を同 じくす るもので あった。永井の主張 をみてみ よ う。 「 文 明時代 に到 りて は,各
人分捨 の事業繁劇 を極 め,之
れ に応 ず る身体 の益 々強健 な るを要 す る と同時 に,漸
次 自然 生活 に遠 ざか り,精
神 を労 す る こ と念 々多 く,身
体 を養 ふべ き機 会念 々少 な き を以 て,特
別 な る身体養成 の手段 を要 す ること,一
層痛 切 な るもの あ り。一 ― 中略 一一 翻 って思ふ に,現
時 の我 が帝 国 は既 に昔 日の帝国 にあ らず。夙 に文 明諸国 の 間 に伍 せ りと雖 も,而
か も百事百 物 其 の進 歩 の大 に後 れ居 ること争ふ べ か らず。即 ち我 が帝国 民 は此 の際駈 歩 的大努 力 をなす にあ ら ざれ ば,欧
米列 強 に追 及す るこ と能 はず。従 って斯 かる大責任 を有す る国民の体格 は,極
めて強健 な らん ことを要 す る こと論 を俊 た ざるな り。 然 り而 して,我
が国民 の体格 如何 を顧 れば,国
民 中最 も壮健 なるべ き全国 の壮丁 は,其
の検査 に鳥取大学教 育学部研究報告 教育科学 第18巻 第1号 於 て
,身
体 の虚 弱 な る者,若
しくは病 に罹れる者の勘 かざることを證 し,又
最 も元気 な るべ き青年 を 見 るに,其
の病気 の鉛 沈 し,其
の体格 の虚 BBな る驚 くべ きもの あ り。惟 ふ に我 が国 民 は,列
強 との 競争上 先づ体 力 に於 て劣敗 者 た らざるな きか。誠 に寒 心 に堪 へ ざるな り。現時我 が国 民の体 育 が, 一 日緩 うす ること能 は ざる所以 の もの,極
めて明白 な りと謂ふべ し。」60 こ ゝには,第
一 次大戦前後 の欧米列 強 に対 す る焦燥感 を うかが うことがで きる。 この危 機意識 と 焦燥感 を軸 に,彼
は,(1)生 命 を尊 重 す る上 の 自党 ,(2)国 力問題 よ りの 自覚 ,(3)実 用 本体 の認識 か ら 体 育 の必要 を説 き,「適 者 生存 の原則 は,進
化学生 如何 な る生物 も免 る ゝこ と能 はず と雖 も,吾
人人 類 は只 自然 の陶汰 に放任 して晏 然 た るべ きにあ らず 。 自 ら進 んで有 らゆ る人為 的努 力 を轟 し,以
て 適 者 の位 置 を占め ざるべ か らず 。而 して,吾
人 の身体 を して現時 の状態 に適応 せ しむ る目的 を以 て, 人為的 に努 力す る所 の特別 の仕 事」 が体 育で あ り,「生存 競争 の益 々激烈 となるに従 って」 生命 が 自 覚 され,「回 力 とは国 民 の心 力 と体 力 とを原 因 と し財 力 と兵 力 とにて結 果 す る。国 民 の心 力 と体 力 と は所謂国民の元気 とな り,財
力 は富 国 を意味 し,兵
力 は強兵 を意味 す る」 が故 に,「富 国強兵 の基本 財産」 と しての「体 力」 が要 求 され る と説 く。6' 永 井 に とって「個 人」 の身体 的発達 は,天
皇 一 国家=社
会 に対 す るとき,は
じめて「価1艶 と「意 味」 をもつ もので なければ な らなかった。 「 人の人 た る所 以 の価値 は,尚
一 面社会的方面 よ り考察 す る必要 あ り。即 ち吾人 は,個
人 と して 完 全 な る心 身 を有 す る外 に,社
会 公衆 と協 同一致 して生 活 し得 る心 身 を有 せ ざ るべ か らず 。若 し吾 人 の心 身が,個
人 と して は完 全 なるも,社
会 と協 同 す ること能 は ざるが女日きもの な らん には,人
と しての価値 は皆無 な りと謂 は ざるを得ず 。」6か した が って,体
育 の 目的,内
容 の決 定 は,あ
くまで も天皇 一国家 的立場 に委 ね られ なけれ ば な ら ない。彼 は,「体操科 の 目的 を達 す るに最 も適 当 し最 も有効 なる運動 のみ を選択 せ ざるべ か らず」 と 指摘 し,そ
の選択,決
定 は,「世 界的,一
国 よ り言へ ば国家 的,一
府県 よ り言へ ば府 県 的,一
学校 よ り言へ ば学校 的」60でぁ る「普遍 的」 立場 と「特 に其 の国家 は何 を必要 とす るか,又
国 家 の方針 は斯 く斯 くなれ ども,特
に其 の府県 は何 を要 求 す るか」 の「 特殊 的」立場 か らな され るべ きで あると主 張 して い るぎ0 「 即 ち広 く世 界 を見,国
家 を見 て,理
想 を立つ る と同時 に,実
際各 自の境遇 を考へ,之
れ に適 切 な る教材 を選択 せ ざるべからず。一 ― 中略 ―一 先づ 第一 に,此
の20世紀 の世 界 の大 勢 を洞見 し,次
に国家即 ち文部 省の主義方針 を知 り,之
れ に従 は ざるべ か らず。」60 永 井 の明治体 育批判 と「個 性」,「自覚」 の主張 は,国
家主義 の立場 か ら「 体 力」 形成 の実 質的 な 再編 を意 図 して いたので あ る。彼 は,「我 国 の教育 も余程進 んで,諸
外国 の教 育 に比較 して もあま り 恥 しくない様 になった こ とは,定
に結構 なことで ある。併 しよ く考へ て見 ると,内
容 上 の こ とに至 っては余程 改善 しなければ な らぬ もの が あ ら うと思ふ。其 の中で も体操科 の如 きは最 も改善 すべ き もの ゝ随一で あ らうと思ふ」60と指摘 す る と ゝもに,「体操遊 戯 とも其 の精 神 主 義 を研 究 して之 を選 用 す るは,結
構 で あ るが,偏
す るこ とは頗 る悪 い」。ηと批判 し,
さらに次 の よ うに述 べ て い る。 「従 来 の体操 は人の身体 を基礎 とせ ないで他 の ことを基礎 と した,器
械 を基礎 と してFh鈴を持 っ てや るか ら唖鈴体操,器
械 を持 って や れ ば器械 体操 と して器械 の為 に子 供 を持 って往 く,所
が今 日 は さ ういふ こ とは段 々棄て られ ま して,子
供 の身体 を土台 と して此 の身体 には斯 うす る,是
をや る といふ 風 に児童 の身体 を基礎 と して体操 の工夫 をす る主義で ある,是
は最初瑞 典 に於 て考へ られ ま した,人
は能 く瑞 典 の体操 と申 します が,何
も瑞 典 に限 った ところの もの で は ない,児
童 身体 の こ入江克 己:大正期 における自由主義体育思 想の研究 (1) とを基礎 と して考へ ま して