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スピノザの方法論

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(30)

と思っている︒

 この論文の第一章は群馬大学求真会︑

田辺記念館における研究会で発表した︒ 昭和五十八年八月︑北軽井沢

スピノザの方法論 川

一249一

(2)

       ⑪

かったであろう︒スピノザは更に﹁精神が一定の法則に従って

活動している︿いわば一種の霊的自動機械﹀︵ρ岳ω凶巴ざ自Oα

潜暮09ω喝跨一9巴①︶ である﹂︵O閏︒・ωb︒七〇頁﹃知性改善論﹄︶

と考えているのだから︑原理的には現代文明を予見しているの

である︒  科学が如何に進歩しようとも︑存在の全体的な構造を理解す

ることによってのみ︑我々は自己の在所を自覚することができ

るのである︒さもないと︑

わからなくなってしまう︒

同じことなのだ︒

我々はバラバラになって何が何だか

それは結局原理的には文明の崩壊と

①筆者はこの論文を最近岩波文庫の畠中尚志氏の﹃知性改善論﹄改訳

 版の解説で知った︒旧訳の解説にはなかったし︑特に独断論との関

 係が付言されていたので︑かなり綿密に読んでみた︒この章は畠中

 氏の解説に刺激されてまとめたものである︒

②我々も先に引用したアルベルト・ブルフ宛の﹁真の哲学﹂について

 の書簡を引用した後で﹁真理は真理と虚偽の試金石である﹂︵o馨

 o菊鉾<o全日ぎOo属ω巳簿貯一ωごというスピノザの真理観をあげて

 いる︒ ③︿延長﹀︵賃8器δ︶とく場所性﹀︵ピ︒冨ま韓︶とを等冒することには

 問題がある︒ ﹃エチカ﹄第一部・定理十五・備考は明らかにそのよ

 うなことを否定している︒

④b爵鉱馨︵無神論者︶︑誓Φ一ωヨ葛︵有神論︶︑︒﹃ユのけ冨巳ω巨房︵キリス

 ト教主義︶︑℃β︒暮げ︒凶ωけ︵汎神論者︶︑︾屏︒︒・ヨδ旦お︵無世界論︶︑勺︒ξ

 犀oG・皇ω暮︒︒︵多世界論︶︑言︒巳︒︒馨︒︒︵一元論︶︑寄菖g島︒︒日ロω︵合理

 論︶等々︒

⑤先にも触れたように︑非人格性を敢えてスピノザの特徴と考えるこ

 とは︑西洋のキリス.ト教的な世界観による一つの偏見と思われるゆ.

 むしろ神話の力を借りずに︑科学的な世界観を徹底しながら︑人間

 としての倫理・宗教を確立しようとしている︒スピノザは当時の様  々な宗教・宗派の偏見による醜い争いにうんざりしていた︒人間の  自由や目的を一度否定しているのもそのためである︒人間の人格を  も包括する力が存在するとすれば︑その力はまさに最高の入格とい  ってよい︒スピノザの︿最高の善﹀︵ω¢目謹89昌ロ日︶とはそうい  うものである︒ ⑥これは戴巳ヨ舞の窃署げ︒嘗旨δ︒冨℃鴛9一a︒︒日臣︵精神物理的平  行論︶に似ているが︑これと同一視してはならないという︒ ⑦この点はこれほど簡単には片付けられないであろう︒このことを我  々は先に一つの具体的な例︵レコードの例︶によって示した︒ ⑧田辺元著﹃個体的本質の弁証論﹄ ︵前掲書︶の最後にも次のような  文章が掲げられている︒ ﹁唯物弁証法がスピノザに結附かうとする  事実は︑よしそれが不当であるとしても︑猶スピノザの思想の具体  性を示すものといはれるであろう︒斯くてスピノザ哲学は常に新な  る哲学的源泉として永久に残るものなること疑を容れない︒﹂︵四一  五頁︶ ⑨反動とはスピノザ的に解釈すれば︑無意識な物体の観念であり︑抑  えようとしても止めることの出来ない物的な力である︒しかしそれ  を上手に乗り切るには︑その時々の適切な認識あるいは判断が必要  である︒ ⑩カントはデカルトの線上で考えられるが︑スピノザはやはり思想史  上においては異質的なものを多く含んでいる︒この点に関してスピ  ノチスムスの西洋での孤立的な独自性が主張されることがある︒斉  藤博著﹃スピノチスムスの研究﹄ ︵創文社︑昭和四十九年︶はその  観点から論じられている︒ ⑪デカルトの﹃方法序説﹄第五部︵︾目貞℃㌘麟占S⊥ハ七−六九頁︶ 後記 二十年余り前に︿スピノザ﹃知性改善論﹄の未完をめぐって﹀と  いう論文を書いたことがある︒それ以来いずれもう少ししっかりした  ものをと考えてきた︒生来の怠惰癖と緊急を要する生活のしがらみと  の故に︑遅々として硫究は進まなかった︒当時の構想からすれば︑カ  ントやへ⁝ゲルを直接的に論ずるつもりであった︒しかし研究はなか  なか進まなかった︒二十年前のものに比べて︑原理的に格段の進歩を

 したとは思わないが︑可成り具体的な展開ができ︑説得力は倍増した

一250一

(3)

(28)

川 島

スピノザの方法論

人間中心的先入観﹀︵畠器m箕涛︒層︒旨貯潜巳︒︒︒じ⇔餌導訂80N①昌−

#尻90<o旨含①εの排除︑︿擬人的な神理解V︵巳Φ四ロ9円?

bO言O門℃匡ω諜ωoげoOO菖①の四望貯︒摩︒・¢Pαq︶の排除︑の根拠がある︒

 第三の問題に関しては︑スピノザ哲学はく感情の事実V︵臼①

○①h爵δ鼠誠四〇げ撃︶を全く主知主義的に計画された体系の中に

組み入れようとしている︵Nレ㊤︶が︑感情の定義が曖昧である

︵N・boO︶︒そしてく善と悪Veoo口ロヨq昌畠屠冒日︶︑さらには

︿有用性﹀︵壁ω乞韓N讐07①︶を含めて価値論が入ってくる︒

﹁何人もその存在を他のもののために保持しようとしない﹂

9♂ヨ︒ω鐸qヨ︒ωωo筥8﹃貯の目且︒国q鈴8昌ω興苺800富εH︶

(、

Gチカ﹄第四部・定理二十五︶︵N.自︶といわれるが︑ ﹁自己

の利益の追求の最大限は他者に対する利益の最大限と一致す

る﹂︵同・定理三十五・系二︶︵NbN︶のであるから︑通常の有用

性とは異っている︵Nbω︶︒ ﹁カント倫理学にとっての難点は実

践理性と理論理性がパラパラになる点にあるのだが︑スピノザ

倫理学では実践理性が理論理性の犠牲にせられている︵Nb癖︶︒﹂

しかしスピノザ哲学は主知主義的ではあるが︑真に哲学するこ

とには感情が同伴していることを確立しているへNb㎝︶︒まさに

く理性から生ずる感情V曾自①oε9ρ巳Φ閃量江︒目①o目貯巨霞︶

(『

Gチカ﹄第五部・定理七︶︵NNα︶も存在する︒これが神の知的

愛であり︑正当な考え方であるという︒

 第四の問題に関しては︑スピノザは多くの他の人々の思想を

巧みに組織しただけの学者であるとよく言われるが︑はたして

そうであろうか︑と問うている︵Nb切︶︒全く独創的な頭脳だけ

がこのような組織的で統一的で完全な世界概念を創造すること

ができたのであり︵N・bo①︶︑アリストテレスやカントと並んで︑

スピノザは本物の哲学体系を創ったのである︵Nb︶︒そして︑

今後も︑ずっと︑すべての将来の学問的な哲学において︑スピ ノザ哲学は基本的なものとして︑あるいは少なくとも︑問題と

       ⑧

して繰り返えし取り上げられることは確実であろう︵N・N◎︒︶とい うのである︒  五〇年前に比べれば︑人類文明は隔世の感があり︑何もかも 変り︑人間の本質さえも変えられてしまうかのようである︒様 々な機械が発明され︑最も困難と思われていた翻訳機も実用化 が可能になってきた今日︑五〇年前の意見を取り上げ︑何を寝 ぼけているのか︑と笑う人もいるかも知れない︒また逆に人類 文明は危機状態にさしかxっており︑一種目時代的ヒステリー 症状に陥っているとも言える︒これは西洋文明の一つの大きな 分裂症状であり︑二極化現象である︒このような状態がいまし

      ⑨

ばらく続くかも知れないが︑必ず反動が来る︒しかしその反動

を上手に乗り切るには︑相当な知恵が必要である︒﹁デカルトや

カントは二元論者であり︑二極化現象の推進者である︒どんな 思想でも正当に理解される限り︑問題の解決の糸口を持ってい るものである︒ただその原理が表になるか裏になるかで︑その 原理が極端に独走してしまうことがある︒つまり裏の原理は隠 されていて弱くしか作用しないのである︒その点スピノザの原 理はデカルトやカントの裏の原理を説いている︒スピノザはそ の二極化現象の統一を試みた哲学老であり︑その反動を上手に

       ⑩乗り切る原理を教えているともいえる︒

 デカルトも人間の身体を一種の機械と見る立場を持ってお

り︑科学が進歩すれば翻訳機ができることも不思議とは思わな

一251一

(4)

津山高専紀要第22号(ユ984)

ピノザは属性を批判主義と対立的に捉えていることになるが︑

属性の主観的な理解を全く放棄してしまったかどうかは疑わし

い︵N・e︒しかし︑とにかく︑﹁スピノザの体系は批判主義との

関係の故に︑全く克服されたものと考えられてはならないし︑

至る所に批判主義的な芽を含んでいる︒しかしその芽は勿論主

著においては第二部に現われているが︑しばしぽ独断論的な叙

述によって︑全く抑圧されている﹂︵N・刈︶というのである︒

 第二の問題に関しては︑︿非人格的な基体による統一の理

論﹀ ︵合ΦいΦ訂︒︿o昌侮︒目国ぎ密一汁ΦぎΦωq昌冨携曾嵩︒冨ロ

6感σq①屋︶とく与えられたものの世界における絶対的合法則性

による統一の理論V︵臼︒い︒犀脱①︿o粕畠ΦH国ぎ酎⑦一什︒ぎ①門四ヴ

ωo冒8ロOoロ自︒けN言蝉じ○お屏︒二一旨匹震≦o犀畠︒ωOoσqoぴ︒昌︒昌︶       ④ があげられ︑従来の名称は必ずしも適切ではないという︵N.c︒︶︒

デカルト的な二元論を克服するには︑︿創造的な思惟の力強い

エネルギーV︵①ぎ①αq①≦巴二αq①国昌①円αq一Φ傷ΦのbHOqロ観島くO昌

O⑦け貯①昌ω︶が必要であった︵N●㊤︶︒それはく実体概念﹀︵自賃

ωロぴ¢訂ロNげ①αq二津︶として捉えるのではなく︑ ︿世界を非人格

的な統一として捉えることのうちにV ︵ぼO窪ぎ断貯ωω仁昌αq

       ⑤ qo増零①洋生ωOぎOH亘昌b⑦房α昌嵩O評Φご国ぎげ︒諜︶ある︵N・㊤︶︒

そしてその際︑延長と思惟の二つの系列は本当に﹁一つであるの

か︑と問い︵N・HO︶︑結局一つの︿解決策﹀︵︾ロω≦oぴq︶に至って

いる︒ ﹁延長するものの領域にあっては︑人間精神における一

つの机の感覚及び表象に︑延長するものである机による︿身体

つまり脳の変化﹀︵巳︒<①冨昌自︒讐昌OqΦ昌畠︒の国060屋げN≦・          ⑥

Oo三葺ω︶が一致する﹂︵Nレω︶︒これは﹁あらゆる時代にわた

って︑最も注目すべき認識論的な構造の一つになるであろう﹂

が︑そのような﹁両系列の完全な対応及び並列は全く存在しな

いし﹂︑﹁延長は我々に何よりもまず思惟の系列の内部で与えら

   ⑦

れている﹂︵N﹄ω︶︒それ故に﹁彼はその二つの系列を純粋に形

式的な統一以上に︑実際的な統一に融合させたと主張すること

もできない﹂︵N.誌︶︒しかし﹁かなり多くの偉大な認識論的な根本思想が含まれている﹂︵N↑ω︶という︒

 次に絶対的な合法則性の統一に関しては︑︿自然法則﹀

︵δαqoω9土量Φ︶が同時にく因果的V︵訂嵩ω巴︶であり︑︿論

理的﹀︵ざσq一ωoげ︶である︒︿認識根拠V︵国時①⇔導巳ωσq旨昌傷︶あ

るいは這江Oはく存在原因﹀︵図×置8昌Nq房㊤OぽΦ︶あるいは

8ロ︒・9と符合する︵N●謀︶︒これが非難の対象に准るのだが︑

スピノザに言わせれば︑ ﹁ここでは時間の中の︿特殊なもの﹀

︵目Φ︒・冨冨一〇巳錠︒ω︶の存在が問題なのではなく︑︿永遠で不動

なもの﹀︵四①けO円昌国 Oけ h一益︶の存在だけが問題である﹂︵N●

ドα︶︒少々異端的に響くが︑ ﹁カントの体系においては︑︿世

界のこの論理的構造﹀︵臼①︒・霞一〇〇q尻︒げΦb二hげ四β島9≦巴け︶が

十分には考慮されていない︒亀11守であり︑呼旨らであるならば︑

また亀Rらであることはく人間的思惟や入間的論理から全く独立

な一つの論理的な世界法則﹀︵αq9言§四び冨昌σq一σq︿O目ヨ︒鋤ω・

o三一〇ゴ︒口∪①口吋︒昌驚け畠く︒口日①昌︒︒o巨ざ犀①Hピ︒σq涛︒ぎざσq尻︒﹃Oω

毛①=槻︒ωo訂︶である︒世界がそのような法則を規則として定め

ているカテゴリーはどこにあるのか︒そのようなカテゴリーが

断念されるならば︑論理的な世界秩序のこの事実はカントにお

いて十分な注意と論議をどこに見い出すだろうか﹂︵N.呂︶︒ 十

分ではないが︑この方向にスピノザの偉大な功績があるとい

う︒ここにまたスピノザの非人格的な神︑︿反コペルニクス的

一一 252 一

(5)

(26)

川 島 スピノザの方法論

 ものです﹂︿O影画ド巴書簡二十七︑一六六五年六月三日付︑一五

 八頁︶といわれている程に︑ ﹃エチヵ﹄は形而上学と物理学のしつ

 かりとした基礎づけを持っているのかといえば︑異論も多いことで

 あろう︒

④とはいえ︑スピノザが︑べ⁝コンの﹃ノブム・オルガヌム﹄︵2︒︿ロヨ

 9σq蝉葛ヨ︶やデカルトの﹃精神指導の規則﹄︵切Φひq量器巴畠胃︒︒ユ守

 昌Φ日ぎoqo巳闘︶やその他︑当時のその分野における学問水準以上の

 画期的な方法論が書けたかどうかはわからない︒むしろその見込み

 がなかったからこそ︑ ﹃改善論﹄は未完のま︑になってしまったの

 だと考えられる︒ただ﹃エチカ﹄の幾何学的秩序による論証だけ

 で︑スピノザが事足りていたと考えることはどうしてもできない︒.

五︑スピノザの方法論の現代的意義

iテオドール・ソィーエンの論文に寄せて一

 一九二七年のスピノザ没後二五〇年を記念して︑ ﹃カント研

究﹄︵雪暮1ωε佳①旨︶はスピノザの特別記念号︵三十二巻一号︶

を編集した︒その巻頭にテオドール・ツィーエンという人が

﹃ベネディクトウス・デ・スピノザ﹄㊧①昌①巳︒εω畠①ω噂ぎ︒母.

N信︻boαO輯δ傷①円冒①ず目ω①ぎΦω日︒島︒ω鼠σqoQ︒.<o口唇目oh㊦ωωo増

       ①

O戸目犀oo畠︒目Nδげ①P頃巴一①・︶ という論文を発表した︵手下

この論文の引用はZの略記号で頁数のみ示す︶︒ 哲学を評価す

るには︑二五〇年という時間は極めて小さいものだけれども︑       ②スピノザの真理観は正しいことが判明しただろうか︑という問

題を立てΣいる︵N﹂︶︒ 現在は既に三〇〇年以上経過してい

る︒二五〇年と三〇〇年とは大した違いではないようにも思わ

れる︒しかしこの五〇年の間に世の中は随分変った︒この変化

を三〇〇年前の人々が予想することができたであろうか︒哲学 は常に原理を探究する学問であるから︑その変化が原理的に内

包されていれば︑さして驚くには及ばないであろう︒

 ツィーエンは全体を四つに分けて論じている︒第一に︑スピ

ノザ哲学は世に言われている程にく独断的V︵qoαq日四二の9︶であろうか︒第二に︑スピノザ哲学の︿根本思想﹀︵巳⑦O円ロ昌早

αq@合昌吋自︶はどこにあるのか︒第三に︑スピノザ哲学は一般に

言われている程︿主知主義的﹀︵げ8=⑦貯ε巴尻訟ωoず︶だろう

か︒第四に︑スピノザ哲学は哲学史の中で全体としてどんな位

置がふさわしいか︒

 第一の問題に関していえば︑我々も先に引用したゲープハル

トの見解を支持して︑ ﹃エチカ﹄は全く独断的ではあるが︑

﹃改善論﹄を見れば︑それ程独断的ではない︒︿認識批判的な

思想﹀︵①目吋①口9巳ω屏ユ鉱ωoげΦO①畠四昌騨①p︶ がかなり認められ

る︵N.ω︶︒そして時間︑空間の問題に触れ︑時間を︿純粋な思

⁝催様態或は理性の有﹀︵8Φ目ロω90q=のoOσq諄鋤口巳のぞO①旨︒励

β二〇aω︶と考え︑︿部分や測定可能性﹀︵口忠言︒霊q・段巳ヨ?

コω同量︶はく単なる表象力の補助手段﹀︵昌8巳ω一丸信図臣餌一§−

伽q

ャ餌鉱︒巳︒︒︶に過ぎないとするスピノザの学説︵N演︶は︑カン

トのく時間直観の先天性及び専らの主観性▽︵巳Φb實一〇門口客

q置畠餌藍ωの︒ゴ嵩①ζ○=6ず㊦昌ω屋豆①艶色く詳馨畠①円No算曽昌ωoび帥=⊆昌σq︶

やく量のカテゴリー﹀︵q帯開雪︒σqoユ①昌畠①目O自即昌↓=馨︶の学

説︵Nぴ︶︑とそれほどの違いはないのではないか︒しかし﹂空

間に関しては︑延長を実体の一つの属性としている点で︑スピ

      ③ノザは主観からはなれて︑︿場所性V︵ぴ︒屏巴歯答︶を客観的に

︿人間の思性から独立な存在﹀︵o一口①国邑鴇︒昌N自量げずぎσq一σq

︿o日O①昌屏︒昌鳥Φ円熟⑦口ωoず︒口へN.①︶としている︒とすれば︑ス

一253 一一

(6)

ければならなかったであろう︒﹂このすぐ前の一連の公理・定

義・補助定理の挿入︒また﹃改善論﹄における﹁私の哲学﹂へ

の詳論の延期︒そして遺稿集の編集者の言葉︒

 あの第二部定理十三の後の物体に関する公理・定義・補助定

理はスピノザの哲学体系の中での物理学部門の原理ともいうべ

きものである︒チルンハウスの証言が本当だとすれば︑スピノ

ザは物理学においても当時かなりの高い水準に達していたこと

になる︒しかしスピノザにとっての緊急なことはやはり︿倫理

       ①

学﹀翁け匡8︶の領域の問題であった︒

 倫理学の領域をほぼ完成した後にも︑スピノザは︑一般物理

学の領域に大きな関心を持ちながら︑ ﹃神学・政治論﹄︵円轟・

      ② 9四けqqo目げooざσq801℃9一二〇昌の︶を童口いたグ︑ ﹃エチカ﹄を完成

した後にも﹃国家論﹄︵﹈り目Oけ四↓口ω 用U◎一一一帥O口ω︶をまとめる方向

        ③に傾斜していった︒

 ﹃改善論﹄の後半部分には︑︿確固永遠なる事物V︵掃ω

臨×9︒o挙国08ヨ器︶とく変化する個物の系列V︵ωΦは①ω器≡ヨ

ω言σq鐸昼円貯目日ロ壁甑嵩q亘Vとを対置している箇所がある︒後者

は︿人間の無力﹀︵ゴ二言墨一髪げ09三訂ω︶にとっては捉えるこ

とが出来ないとか︑その系列を理解することは必要でもないと

いいながら︑前者を理解する手段︵最高完全者の真の観念によ

る演繹的方法︶の他に︑必然的に他のく補助手段V曾曳農q言︶

が必要であるといっている︵O国議鵯●八一頁︶︒これは﹁我々に

︿感官﹀︵ω①昌ω偉ω︶の用い方を教え︑且つ探究される事物を規

定するのに十分なく実験V︵︒メやΦ瓢ヨΦ昌εヨ︶を一定の法則と

秩序に従って行うことを教えるものである﹂ ︵実験・観察の規

則を立てる帰納的方法︶︵O目︐︒︒司.八一頁︶︒ ﹁これによって︑ 我々はついにその事物が永遠なる事物のどんな法則によって生 起するかを結論し得るし︑又その事物がどんな内的本性を有す るかを知るようになるであろう﹂︵O思切●ωS八一頁︶︒

 これが形而上学と物理学の合体の思想であり︑ ﹁第一哲学﹂

の思想である︒これを文字通りに実現することは神にのみ可能 なことであろう︒しかし確固永遠なる事物が完全に認識されな くとも︑未知な諸真理を探究する際の人間としての心得るべぎ 方法はそれなりに定められることであろう︒それは知識の種類 や限界や有用性を定めて︑その全体を調和させていこうとする 方向である︒それは諸々の分野において発見された真理あるい は観念を︑その時代時代の事情に合わせて︑整理する﹁観念の

       ④観念としての方法﹂であるべきである︒

 しかし︑たとえすべての事柄が明らかにならなくとも︑常に 倫理は緊急を要するものである︒何故ならば︑人間が全く倫理 的に行動することは極めて稀でありながら︑常に倫理的な行動

が要請されているからである︵﹃エチカ﹄第四部・定理三十五・

備考︶︒

①﹃改善論﹄執筆当時から︑主著の第二部︑定理十三の執筆までは︑

 主著を﹃エチカ﹄と名づけることを決めていなかったように思われ

 る︒むしろ﹁第一哲学﹂の意図を持っていたのではないかとも察せ

 られるが︑この点についての直接的な証拠を我々は旧い出していな

 い︒ ②この辺の事情は工藤喜作著﹃スピノザ哲学研究﹄第一部﹁汎神論的

 根源直観の形成﹂ ︵東海大学出版会︑一九七二年︶及び同著者﹃ス

 ピノザ﹄ ︵清水書院・昭和五十五年︶並びにフロイデンタール﹃ス

 ピノザの生涯﹄ ︵工藤喜作訳︑哲書房︑一九八二年︶に詳しい︒

③﹁倫理学は︑一般に知られているように︑︿形而上学と物理学の基

 礎の上に立たねばならぬ﹀︵竃O冨営﹁団︒ウ一〇鋤O酔℃げ矯︒ロ一〇固楠鳶口q薗吋一∩一〇げOけ︶

一254一

(7)

(24)

川 島 スピノザの方法論

に︑精神の観念も精神自身とまた同一物である︒観念の観念は

また︿観念の形相﹀︵hoH居置Φ器︶であり︵第二部・定理二

十一・.備考︶︑真の観念の展開を反省する認識︑つまり︿反省

的認識﹀︵ooぴq巳臨︒お臨Φ直話︶ である︒そしてこの観念の観

念あるいは反省的認識が﹃改善論﹄でいわれた方法であった︒

従って﹃エチカ﹄のうちには︑スピノザ哲学としての方法論が

確立されうる原理が含まれているのである︒ ﹁観念の観念とし

ての方法論﹂がはっきりした形では確立されなかったのは︑原

理的に不可能であったからでもなく︑また﹃エチカ﹄で十分で

あると考えられていたからでもなく︑諸々の実生活の事情がそ

の完成を妨げたのである︒

 =ハ七五年一月のチルンハウスとの往復書簡︵書簡五十九︑

六十︶はその辺の事情を明らかにしている︒チルンハウスはス

ピノザに問う︒ ﹁貴下の書かれている︑未知の諸真理を探究す

るに際しての理性の正しい指導方法を︑並びにまたく一般物理

学V︵○①昌巽巴ごぎ勺ξ︒・昼︒・︶ を︑いつ私共は手にすること

が出来るのでしょうか︒貴下がこれらの題材に関してすでに大

きな進歩をなされたことは私も存じております︒初めのことに

ついては︑前から私にはわかって︑いましたし︑後のことはエチ

カ第二部に付加されたいくつかの補助定理を拝見すれば明瞭で

す︒これらの補助定理によって︑物理学の多くの難問が容易に

解決されます︒なお私は貴下のお時聞と機会の許します折に︑

何卒︿運動の真の定義とその説明﹀?Φ冨霞︒ε︒︒O⑦臨巳自02

0甘︒・oメO嵩畠二〇︶をお願いしたく︑それから︑延長は︿それ自

身で見られる限り﹀︵ρ目鷺①昌質ω噂oHω①oo⇒︒均一εH︶︿不可分

的﹀︵中口師画く一ω一げ一嵩oo︶︿不変化的で﹀︵一己ヨ暮四ぴ一=ω︶あるのに︑ どうして我々は実に多くの種々異った事物の存在を︑従ってま た愚物においてそれぞれ異った構成諸部分の一定形状の存在

を︑︿アプリオリに導き出すV貧賞一ρ二q①ら質︒Φ冨︶ことがで

きるのか︑についてお教え頂きたく存じます﹂︵o宅娼.N①︒︒.二七三

頁︶︒ この質問はスピノザ哲学の弱点を的確に言い当てたもの

で︑ スピノザも簡単には答えられなかった︒そしていかにも

そっけなく︑ ﹁運動について並びに方法に関することについて

は︑まだ順序立て工書いていませんから︑別な機会にゆずりま

す﹂と答えている︵O宅やb◎担.二七七頁︶︒また﹁運動の真の定

義﹂や﹁事物の多様性﹂に関しては︑度重なる催促のため︑死

の十ケ月前ごろ︑単なる延長の概念だけから﹁事物の多様性﹂をアプリオリに証明することはできない︑ と答えている︵O宅

雪ωω避三五一頁︑書簡八十三︶︒そして命がもういくばくもないこ とを予感しながらも︵高言鼠のqb娼簿騨もし命が十分であった なら︶︑スピノザがこれらを常に気にかけていたことだけは察 ぜられる︒  チルンハウスとのこの一連の往復書簡と次のような事柄とを

総合するならば︑ ﹁観念の観念としての方法論﹂の輪郭がある程度浮ぶ上ってくる︒前にも触れなように︑ ﹃エチカ﹄第二部の冒頭には次のようなことわり書きがある︒ ﹁人間精神とその

最高の幸福との認識へ我々をいわば手をとって導ぎうるものだ

けにとどめる︒﹂ そしてまた︑その第二部の定理十三の後の補助定理七の備考には︑次のようなただし書きがある︒ ﹁もし私

の意図が物質について或は物体について専門にかつ特別に論ず ることにあったとしたら︑私はこれらのこと︵全自然のすべて

の物体の全体的な動きと構造︶をもっと詳しく説明し証明しな

p一

@255 一

(8)

ω①馨貯︒且oo陰ぐ鋤︶の現われである︒つまりまさにスピノザの頭

脳の中で構築されたものである︒このようにして﹃エチカ﹄に

おいては︑生得の観念としての最高完全者の真の観念が展開さ

れ︑︿全宇宙の形貌﹀︵臨9︒oδω8二信ωd巳ぐ①目獣︶︵O冥bb刈◎︒.二八

五︑書簡六十四︶つまり︿形相的本質﹀︵oωωΦ艮冨ho︻ヨ9冨︶が

くある永遠の相の下にV︵ω昌げρ慈O曽ヨ9︒Φ8円巳富け陣ω︒・噂09①︶

自己自身を現わしてきていることになる︒それが如何なる程度

に実現されたかは我々の問題である︒

①今はカトリックに改宗した昔の弟子であったアルベルト・ブルフが

 以前の師にあつかましくも改宗を迫ってきた︒ ﹁あの惨めな傲慢な

 悪魔の大王﹂に迷わされているというのである︵O興り﹄︒︒H二八

 八頁︑書簡六十七︶︑それに対してスピノザが控え目に書いた返書

 の中の一文である︵O宅b.ωNO三三六頁︑書簡七十六︶

②田辺元三﹃個体的本質の弁証論﹄はヘーゲルの無世界論︵津︒ω自ω−

 目器︶との批判に対してスピノザ哲学の積極的な意義のあることを

 指摘して・いる︒ ﹁個体の有限本質の独立性﹂の観点から︑ ﹁並行論

 に於ける延長的属性の原始性︑人間の精神に対する身体的限定の必

 然性は︑ヘーゲルに於けるよりも一層具体的なる弁証法的思弁に途

 を開くとも考えられる﹂と述べている︵田辺元全集︑4︑筑摩書

 房︑昭和三十八年︑四一五頁︶

 竹内良知著﹃スピノザの方法について﹄においても︑この点の批判

 が最もスピノザ批判として的を射ていると述べ︑個体的本質の観点

 からのスピノザの理解によって︑スピノザ哲学の本来の意義が明ら

 かになることを示唆している︵第三文明社︑一九七九年︶︒

③石沢要著﹃スピノザ研究﹄はU窪ωρロ菅薦房をスピノザ哲学の核心

 として位置づけている︵創見社︑昭和五十二年︶︒

④﹃神学政治論﹄は神の予言の書としての﹃聖書﹄を鋭く批判し︑キ

 リスト教的な人格神は一般民衆の把握力に応じて︑表象に訴えてい

 るに過ぎないという︵O目bb.H謡占刈b︒.=一五頁︑第十三章︶︒ 全

 宗教の基礎は神を何物にもまして愛し︑隣人を自分自身の如く愛す  ることであるという︵O目b﹄①α一一一頁︑第十二章︶︒ ⑤﹁妥当なる観念とは︿対象との関係を離れて﹀︵の﹃o蜜慧8Φ巴  〇三①︒さ日︶︑それ自身で考察される限り︑︿真の観念のすべての特  質V︵oヨ昌Φq・<o冨Φ置Φ9︒Φ︾円obユΦ仲鉾︒の︶あるいは︿内的特徴﹀  ︵α①口O日凶μ四け一〇昌①oo 一口け円凶口◎oOO⇔Φ︶を有する観念のことであると解す  る﹂︵第二部・定義四︶︒ 四︑

観念の観念としての方法論

 1﹃知性改善論﹄の行方一

 ︿生得の道具V︵ぎ昌£ρεヨぎω#亘日①昌εヨ︶としてのく最高

完全者V角口ωbΦ焦①6二︒︒重日¢ヨ︶のく真の観念V︵一q①笛 くO円魔Ω︶

からく真理の形相を構成するものの認識▽︵8ゆQ巳ユ︒①冒︒・

ρ自O傷ho同ヨ鋤目く①は訂菖ωoOロω二け巳酔︶あるいはく永遠なる事物

の認識V︵円︒ヨ日帥08ヨ鷲自ヨ8αq昌凶ユ︒︶がくある永遠の相の

下に﹀︵ωqげρ岳98ωO①o凶〇四9①目昌二千尻︶︑︿真理が自己自

らを明らかにするVつδ二富︒︒ω①言︒噂四ヨ℃讐①h99酔︶ように︑

︿知性とその諸特性と力との認識﹀︵8αq駄二〇ぎ件巴♂oεω

Φ冒︒陰ρ亘︒實ob覧︒訂εヨ9︿罵言ヨ︶をも︑ ﹃エチカ﹄において

明らかにした筈である︒確かに﹁真の定義﹂の間題は第一部定

理八の備考二で扱われており︑知性は第一部定義四の属性に関

する定義以下の至るところで扱われており︑認識に関しては︑

第二部定理四十の備考二以下でしばしば述べられている︒

 ﹁人間精神は人間身体の観念あるいは認識である﹂ ︵第二

部・定理十九・証明︶から︑簡単にいえば︑精神は︿身体の観

念﹀︵Oo60ユω達8︶である︒そしてく精神の観念V︵竃①昌慧ω

哉$︶がく観念の観念﹀︵置8置︒器︶である︒精神と身体とが

く同一個体V︵寄口q目Φ什 一⊆Φ8一昌傷心く一隅蝿鷺苔︶であると同じよう

一 256 一

(9)

(22)

川 島 スピノザの方法論

ある︒ ﹁だから人生において何よりも有益なのはく知性﹀︵ぎ・

8一50葺ω︶ないしく理性V︵量臨︒︶をできるだけ完成すること

であり︑そしてこの点にのみ︿人間の最高の幸福﹀︵ω離ヨ量

ゲ︒ヨぎδh①財9富の︶すなわちく至福V︵げ8↑騨&o︶は存する︒

何故なら︑至福とは︿神の直観的認識から﹀︵①×O①=昌ε算冒卑

ooαq巳鉱︒昌①︶生ずる︿精神の満足そのもの﹀︵6ω四国巳巳帥oρ巳・

①の︒Φ昌鉱9︶にほかならないのであり︑他方︑知性を完成するこ

とはこれまた神︑神の諸属性︑および神の本性の必然性から生

ずる諸活動を認識することにほかならないからである︒故に理

性に導かれる人間のく究極目的V︵h陣ロ一ω 信一け陣bP=ω︶︑言いかえ

れば︑彼が他のすべての欲望を統御するにあたって規準となる

く最高欲望﹀︵ωロヨ唐oO唇臨場貯ω︶は彼自身ならびに彼の認識

の対象となりうる一切の物を妥当に理解するように彼を駆る欲

望である﹂ ︵第四部・付録第四項︶︒ ﹁我々は神を観想する限

り︑その限りにおいて働きをなす﹂︵巴Φoρロ①ρ轟8づ阜ωOΦq巳

8暮⑦日﹁即日q5Φ讐①昌彦9σq一ヨρω︶︵第五部・定理十八・証明︶︒

 かくして︑ ﹁︿精神の最高の努力﹀︵ω⊆日日信ω日9江︒︒oo昌・

9房︶及び︿最高の徳﹀︵︒・賃目ヨ四くζヨω︶は物を第三種の認識

において認識することである﹂︵同・定理二十五︶︒そして﹁精

神は永遠の相のもとに認識するすべてのものを︑身体の現在の

現実的存在を考えることによって認識するのではなく︑身体の

本質を永遠の相のもとに考えることによって認識する﹂ ︵同・

定理二十九︶︒ さらに﹁第三種の認識は︿永遠である限りに

おいての精神をその形相的原因とする﹀︵o①野口七竃Φ三①

雷口ρロ鋤ヨ9ho八日餌嵩8ロQ摩9噂ρ置暮Φ旨qω﹈≦①口の昼︒︒四p︒2①﹃p9

⑦ω叶︶﹂ ︵同・定理三十一︶︒ 従って個体としての人間は想念的

に全宇宙を観想することができ︑そしてその法則の下に︿生活

する﹀︵︿一くO同Φ︶︵あるいは行動する︶時︑最高の徳あるいは最

高の力を発揮することができ︑最も幸福になり得るというので

ある︒  入間にはそのような道が開かれているのに︑実際には様々な

表象によって混乱せられ︑なかなか︿至福﹀︵ぴ09︒怠εら︒︶にま

では到達できない状態になっている︒しかし︑とにかく︑そこ

までの道を一度は描いてみる必要がある︒そして終りに近い第

五部定理三十六で一老の完全な統一的構造を次のように表現し

ている︒ ﹁︿神に対する精神の知的愛﹀︵竃︒昌鉱のb日︒﹃ぎ・

8=㊦09巴尻oHひqgOΦ詳ヨ︶は神が無限であるく限りにおいてで

はなくくpopρ庫舞①口β︒ゆ︶︑神がく永遠の相の下にV︵ω信げ

ωO①9①器8H巳$江ω︶見られた人聞精神の本質によって説明さ

れうる︿限りにおいて﹀︵ω巴ρ葛↓op匡︒︒︶︑︿神が自己自身を

愛する神の愛そのもの﹀︵6ωΦ一︶Φ一︾日︒さρ自oO①ロωω①首ω鐸ヨ

9ヨ卑︶である︒言いかえれば︿神に対する精神の知的愛は神が

自己自身を愛する無限の愛の一部分である﹀︵冨㊦馨置霞σq鋤

Oo自日︾80同ぎ8=①oε巴一〇・b山屋︒馨ぎ自暴二鋤巳︒目一9ρ自o

O①qωの︒曽霊王国日鋤ご︒﹂

 最高に有益であり︑最高に困難であるからこそ︑その道の実

現は我々入間にとってやりがいのあるものである︒そのような

存在の構造がそこに提示されているのである︒その神の知的愛

によって︑スピノザが自己の哲学体系を統一的に完結しようと

したその行為自身も︑それは結局個体としての人間の力の現わ

れであり︑そこまで人間は高まることが出来ることの証明でも

あった︒しかもそれは純粋に精神的なへ想念的本質V︵o甲

一257一

(10)

由に行為して差しつかえない︒ただ常に神的必然性の観点をふ

まえながら︑すべてを見︑行為すれぱ︑それなりの世界が開け

てくるし︑無益な混乱に巻き込まれることはない︒むしろその

神の必然性に従うことこそ真の入間的な自由なのである︒それ

は何よりも困難な道ではあるけれども︑努力に値するものであ

る︒

D

 ︿個体﹀︵目ロ暫く茜信βヨ︶はく最も単純な諸物体V︵ooεo欝

ω一 レ娼嵩9ω︒︒一日9︒o︶から組織されており︑その﹁最も単純な諸物

体﹂は﹁運動﹂と﹁静止﹂と﹁迅速﹂と﹁遅緩﹂によって相互

に区別されているという︒従って一つの個体の中には速く動く

物と遅く動く物と静⁝止している物とによって織りなされている

無数の自然法則が存在していることになる︒全自然もそのよう

な一つの個体である︒︿入墨身体V︵Ooε房げ屯田9昌¢ヨ︶もそ

のような個体であり︑この個体もきわめて多くの個体から組織

されており︑またこの多くの個体もそれぞれきわめて複雑な個

体から組織されており︑最終的には﹁最も単純な諸物﹂が仮定

されているが︑それは原子論者のいうアトムではない︒そのよ

うな構造が公理の体系として仮定されている︒

 すべての個体は程度の差こそあれ︑ ︿精神V貧土ヨ器︶を

持っている︒そしてより有能な個体は︑その︿有能さ﹀︵震ρ︒・

Φω貯暮ご︶の程度に従って︑より多くのものを同時に知覚し︑

それだけ有能な精神を持つことになる︒ ︿各々の物﹀︵償昌・

呂§oρ鐸︒器︒・︶は自己の及ぶ限り︑自己の有に固執するよう

に努める︵第三部・定理六︶︒この︿努力﹀︵oo富εω︶がく物

の現実的本質﹀︵目⑦一 PO梓二四一一ω Oψ¢O⇒け一国︶である︵同・定理七︶︒

この努力が特に人間に関してはく欲望﹀︵oロ豆巳討ω︶といわ

れ︑︿人間の本質そのものV︵甘ωmロ︒ヨぎ一ωoω・・o昌ユ四︶である

といわれる︒従ってこの欲望のうちに︑人間のあらゆる努力︑

あら仲る︿本能﹀︵一日℃oεω︶︑あらゆるA衝動﹀貧bbo江葺ω︶︑

あらゆる︿意志作用﹀︵︿9三〇ロ霧︶が含まれている︒ ﹁すべての我々の身体の活動能力を増大しあるいは減少し︑

促進しあるいは阻害するものの観念は︑我々の精神の思惟能力

を増大しあるいは減少し︑促進しあるいは阻害する﹂ ︵同・定理十一︶︒ 精神はより大なる完全性へ移行するとき︑︿喜び﹀へぼΦ賦寓国︶を感じ︑より小なる完全性へ移行するとき︑︿悲しみV︵樗置二七坦︶を感ずる︒この﹁欲望﹂と﹁喜び﹂と﹁悲しみ﹂の三つのく基本感情V貧庸Φoεのb二欝円ξω︶︵同・備考︶によって︑すべての人間の感情が演繹される︒ 人閥精神は様々な刺激によって様々な感情に動かされ︑﹁︿妥

       ⑤ 当な観念V︵嵩$巴器ρ轟訂︶を有する限りにおいて必然的に 働きをなし︑また︿非妥当な観念﹀︵乙09一屋畠御Φρ二馨即︶を有

する限りにおいて必然的に働きを受ける﹂ ︵第三部・定理一︶︒

そして﹁人間は︿理性﹀︵量二〇︶の導きに従って生活する限

り︑ただその限りにおいて働きをなすといわれる﹂ ︵第四部・

定理三十五・証明︶︒何故ならば﹁物を︿ある永遠の相の下 に﹀︵︒︒償げρ§q四日︒Φ8旨諄面一ωのO①9Φ︶知覚することは理性

の本性に属する﹂ ︵第二部・定理四十四・系二︶からである︒

﹁人間は理性の導きに従って生活する限り︑ただその限りにお

いて︑本性上常に必然的に一致する﹂ ︵第四部・定理三十五︶︒

そこにすべての人間が一致する道があり︑その道が最も有益で

一 258 一一

(11)

(20)

スピノザの方法論

ても︑︿物体﹀︵ooε信︒・︶および︿個体﹀︵謬巳く茜賃量ヨ︶の説明

︵第二部・定理十三の後の一連の公理・定義・補助定理︶をみ

ても︑明らかではない︒ ﹁個物とは有限で掛った存在を有する

物のことと解する﹂角①円掃ωωぎαq信﹃同︒︒・ぎ什巴一箸︒掃9ρ置器

臨巳岳︒ωqp計簿自9曾ヨ陣轟鼠目ゴ9︒び①暮︒×δ8崔二月日︶︒ ﹁す

べての物体は運動しているか静止しているかである﹂︵o目巳餌

oo門矯︒︻櫛ぐ〇一疋︒ぐΦ昌δ偉がく9ρ乱︒ωo二5け︶︒ そして﹁おのおの

の物体はある時は緩やかに︑ある時は速やかに運動する﹁︵O昌・

qヨρqo住ρ=①86qo自冨ヨ星目鐸置ω博侮日︒巴虫貯亀・日︒ぐ①酔臥巴︶︒

個体の最も原理的な説明としては︑このく運動V︵80εω︶と

く静止﹀︵ρ巳︒ω︶とく迅速﹀︵象葺器︶とく遅緩﹀︵§連窓︶に

よって相互に区別される︿最も単純な諸物体﹀︵oo琶︒壁ω一日・

覧ぎ尻色日螢︒︶からく組織されている﹀︵8Bbo巳ε同︶ものだけ

が考えられている︵第二部・補助定理・備考︶︒ そして運動や

静止や迅速や遅緩の最近原因は何かと説明せず︑公理として一

般に認められ︑与えられたものとして仮定されている︒もしこ

の最近原因が異論の余地のないように︑明確に与えられるとす

るならば︑宇宙と世界の始まりが神話によってではなしに︑原

理的には科学的に説明可能であることになる︒しかし如何に科

学が進歩しようとも︑それは無理というものかも知れない︒

従ってスピノザは笑って次のように言うだろう︒﹁それは神が

絶対に無限な実体であるへ限りにおいて﹀︵金鷺①⇔岳︶では

なく︑神が他の個物に変状したと見られるく限りにおいてV       ③

︵ρ轟け︒旨昌ω︶︑神が原因である﹂︵O①ロω①警紹qω9︒︾ロ︒昌ρq四8目自ω

o陰 ゥげoo鼠昌江p餌げωoご8ぼ時げ潔四〇も9計ω①島ρロ馨①昌信◎D巴口6鴇︒びロ¢

oB

刄ミq巳国ユぴ自の鷺h①o言ωoo昌ω置①影面肖︶Qρ賃讐①昌自の⁝ρ離£︒8昌β︒摩 存在する筈もないものではありながら︑有限な人間が目的を持  また目的も神の絶対的な永遠無限な必然性のうちにおいては

る︒

 ④ 格的要素は神の必然的な法則性の中に包括されているのであ きの根拠を否定するために考え出したようなものではなく︑入 るものであるとされる︒しかし一般の無神論者が自己の悪の裁  また人格神は入間の表象の産物であり︑混乱した親念の最た

ているように思われるという︵第一部・定理十五・備考︶︒

のであり︑表象によって捉える限り︑部分が実在的に区別され る実体は純粋な知性によってそれ自身として捉えられるべきも かさねても︑無限な実体としての存在にはなりえない︒無限な 的には空虚が存在しているように見える︒有限物を如何に積み い︒しかし様態である限りにおいては分割されうるから︑表象 である限りにおいては分割不可能であるから︑空虚は存しな 否定も今や多くの説明を必要としない︒空虚に関しては︑実体

 ︿空虚V︵︿o窪βヨ︶の否定も︑人格神の否定も目的や自由の を理解することができるかのようである︒ 文のようなρ岳措ご信︒・に親しみを感ずる人だけがスピノザ哲学

持ちの入はスピノザの哲学を呪って唾棄するであろう︒この呪

⁝ρロ讐①建ω⁝どこまでいっても何の説明にもならない︒滴蹟

つことは当然のことであり︑むしろ入間の目的を神の永遠性・

絶対性・完全性によって存在論的に基礎づけようとしている︒

つまり︑目的にも様々なレベルがあるが︑絶対的に永遠に肯定

されうるような目的を定めようとしているのである︒

 そしてまた︑人聞の自由も絶対的神的必然性のもとでは存在

すべくもないが︑人間はやはり依然として自由を感ずるし︑自

一259一

(12)

脳細胞の複雑な電気パルスのパターンを反復することによって

可能なのである︒従って︑誰かにとっては認識可能なものが︑

他の者にとっては認識不可能な事柄とは︑電気パルスのあるパ

ターンが訓練不足に依って開通不能になっているに過ぎない︒

このようにして︑ ﹁我々は人聞精神が身体と合一していること

を知るのみならず︑精神と身体の合一をいかに解すべきかをも

知る︒⁝⁝そして︿すべての個体は程度の差こそあれ精神を有

しているのである﹀︵O露巳9︹ぎ巳註畠録m冒ρ伍鋤ヨ忌ωα貯①諺δ

αq許、99麟巳匿富♂日︒口◎・q巨︶﹂︵第二部・定理十三・備考︶︒

C

 かくして︑自己原因であり︑唯一の実体であり︑無限に多く

の属性からなっており︑自然の︑そして全宇宙のあらゆるも

の︑人間の精神の隅々まで︑脳細胞のほんの瞬時の小さな電気

パルスにいたるまで︑すべてを包括している神が存在してい

る︒厳然として限りなくやさしくすべてを包んでいる︒ ﹃エチ

カ﹄によって︑それが余すところなく︑完全に︑証明されたと

は決して言えない︒しかし謙虚にスピノザの思想に一度心をあ

ずけるだけの精神のゆとりを持ちさえずれば︑或はスピノザの

神的必然性の観点に立ってすべてを見直すだけの勇気を持ちさ

えしたら︑スピノザは多くのことを語ってくれるように思う︒

スピノザは自分が真理だと思ったことを真理だと思うからこ

そ︑寝食を忘れて﹃エチカ﹄を書き︑ ﹃エチカ﹄に磨きをかけ

たのである︒自己の信ずる真理を語るときの姿勢はどこまでも

謙虚であり︑無知の自覚の原則を破っているわけではない︒こ

のスピノザの姿を我々は如何に解すべぎか︒

 生存中は様々の話題をまき︑人々の関心の中心にもなってい たこの静かな真理探究者は一六七七年二月二十一日に四十四歳 余りの短い人生を終った︒スピノザを尊敬していた一部の信奉 者を除き︑多くの人々はスピノザの思想を嫌い︑スピノザと関 係したことを意識的に隠そうとまで努力した︒そして故意に悪 意をもってスピノザの思想を葬り去り︑百年間死せる犬の如く 捨て去られ︑スピノザの思想は何の意味もなくなったかの如く であった︒従ってスピノザの最高完全者の真の観念の定義は全 くの虚妄であり︑首尾よくすべての真理を導き出し続けられる 力など少しもなかったかの如くであった︒しかしその後偉大な 思想家達の心を震わせ︑多くの実り多い思想形成の契機になっ ている︒その契機になる要素を﹃エチカ﹄の体系からさらにい

くつか取り上げてみよう︒

 ﹁絶対に無限な実体は分割されない﹂︵ω償げω百害﹃鋤げ・・oご冨 ぎ自重貯︒ω叶ぎ巳鼠ωま帥躍︒・︶︵第一部・定理十三︶︒そして﹁神 のほかにはいかなる実体も存し得ずまた考えられ得ない﹂

(℃

泣ウ酔①HOo鐸日コ巳樹住帥ユロoρ藏ooo口9嘗℃08ωけω賃びω鼠p慧鋤︶

︵第一部・定理十四︶︒ 故に﹁︿神は唯一である﹀︵一︶①βωoψけ

自警︒ロ白︶︑言いかえれば自然のうちにはく一つの実体﹀︵琶凶

のロげω鼠ロ江坦︶しかなく︑そしてそれはく絶対に無限な﹀曾げωO・

冨8一口豊実εω︶ものであることになる﹂︵第一部・定理十四・

系一︶︒とすれば︑自然の中にある無限な様態拡如何なる原理

によって︑その一者から無限に多様な仕方で産出されうるの

か︒これはまさにスピノザの体系が原理的に成立するかどうか

の大問題であり︑無世界論との批判を受ける根拠になってい  ② る︒︿個物﹀︵HOωのぎαq巳貧Oω︶の定義︵第二部・定義七︶をみ

一 260 一

(13)

(18)

川 島

スピノザの方法論

道がある︒そしてそのようにして無限に説明可能であろう︒

 そして一方︑ ﹁私﹂が﹁今﹂︑ ﹁ここで﹂聴いている﹁モー

ツァルトのクラリネット五重奏曲︑イ長調︑帥五八一﹂は一七

八九年九月二九日にウィーンで作曲されたものだという︒この

曲を作曲するまでのモーツァルトの心の歴史がこの曲の細部に

わたるまで影響しているであろう︒それは語り尽せない程の様

々な心の遍歴の賜物であろう︒一七八九年といえばフランス革

命の嵐が吹きわたったその時代のものである︒そしてこの曲を

演奏しているジャック・ランスロ︑その卓越した演奏技術を身

につけるまでの様々な努力がその中に凝縮されている︒そして

この曲を演奏した時の彼の体調はどうだったのか︒バルヒェッ

ト弦楽四重奏団との関係はどうだったのか︒そしてその四入の

団員の人生もその中に映されている︒そのようにして無限に説

明可能であろう︒

 レコードというその一枚の薄べらな物体にそれだけの意味と

観念と精神が含まれている︒物質的なそのレコードの溝の小さ

な起伏がどうしてそんなに偉大な精神と関係があるのか︒まさ

に一つでないのに︑まさに一つの事実なのだ︒そのレコードの

意味と観念と精神を知らない猿か犬か猫か小児なら︑きっとそ

れを舐めたり︑けとばしたり︑踏みつけたり︑かんだりする

か︑さもなければその辺に放置しておき︑ほこりのか誹るまエ

にしておくことだろう︒あたかもその辺にころがっている石こ

ろか何かのように︒ ︵それならばその石ころの中にも何か重大

な秘密が隠されていないだろうか︒鉱物学者なら︑その石の種

類によっては︑限りなく愛着を感ずることでもあろう︒︶

 ﹁私﹂はそのレコードの意味と観念と精神を完全にではない としても︑ある程度理解しているから︑愛するものをいたわる

ように︑そうっと扱い︑大切に保存しておき︑ ﹁今﹂取り出し

て聴いている︒もうこの曲を知ってから二十年にもなるだろう か︑と﹁私﹂は思う︒そしてこの曲を知った時の喜びを想い出

す︒﹁私﹂がクラリネットの音色を特に好むのも︑きっと﹁私﹂

の人生と密接な関係があろう︒そして特にモーツァルトの曲に 魅せられるのも︑悲しみと喜びと様々な人生の喜怒哀楽を巧み に織りなし︑心の襲を洗い清めてくれるからであろう︒そして

聴いているうちに様々な情念の想いが脳裡をよぎっていく︒

 その時はぎつと﹁私﹂の脳細胞は様々に微妙に変化し︑その 観念や想念や情念ごとに︑何等かの電気パルスのパターンのよ うなものを形成していることであろう︒しかし﹁私﹂にとって その電気パルスのようなものはどうでもよいことであって︑肝 心なのはその音楽の旋律による心の髪の清めである︒その観念

や想念や情念は脳細胞の様々な微妙に変化する電気パルスのパ

ターンと似ても似つかぬ全然異質のものでありながら︑全く同

一の事象の異った側面と考えられる︒そしてその観念や想念や

情念は次の瞬間には別の観念や想念や情念の対象になりうるこ

とになり︑原理的には︑そのようなことを無限に繰り返えすこ

とも可能である︒勿論その度ごとに脳細胞の電気パルスは新し

く発生する︒どこまでいってもまさに平行なのである︒このよ

うに私が考え書いていることも︑脳細胞の複雑な電気パルスの

結果であり︑ ﹁結果の認識は原因の認識に依存しかつこれを含

む﹂ ︵国内①oヨωooαq巳二〇拶8σq隠江︒謬08⊆ω90ユ①℃①ロロ︒↓憎露

①碧畠①雪ぎく︒写搾︶ ︵第一部︑公理四︶ のであるから︑この思

考の系列を全体的に結果として認識することは︑原因としての

一261一

(14)

りにおいてのみ円の原因である︑と言ったのも︑その理由とす

るところは次のようなものに他ならない︒即ち︑円の観念の

︿形相的有﹀︵o︒︒ωoho壁日9ρδ︶はその︿最近原因﹀︵8ロの9

胃︒改目p︶としての思惟の他の様態によってのみ知覚され︑思

惟のこの様態はさらに他のそれによって知覚され︑このように

して無限に進み︑こうして物が雪曇の様態として見られる間

は︑︿全自然の秩序﹀︵oao8江口の冨葺鑓︒︶あるいは︿原因

の連結﹀︵O節止ω餌円一 ヨ OOμ口Φ×一〇︶は思惟の属性によってのみ説

明、

ウれなければならぬし︑物が延長の様態として見られる限り

は︑全自然の秩序もまた延長の属性のみによって説明されなけ

ればならぬ︑という理由からに他ならない︒そして同じことが

他のすべての属性についてもあてはまると私は考えるのであ

る︒ゆえに︑神が無限に多くの属性から成り立っている限り

において︑神は真に︑それ自体においてあるがま瓦の事物の

原因である︒私はこのことを現在のところこれ以上明瞭に説

明することができない︒﹂ ここに出てくる︿現在のところ﹀

(一閨弱ゥ︒の8旧辞歪巳︶とはどういうことだろうか︒もっと明瞭

に説明したいが︑論述の順序からいって︑今は適当な場所では

ないということだろうか︒それとも︑もっと様々な研究がなさ

れるならば︑いずれ明らかになるであろう︑ということであろ

うか︒我々は後者と考える︒それなら文明の進んでいる現代に

生きている我々は︑もっと明瞭に説明することが出来るだろう

か︒我々はそれを一度ここで試みてみよう︒

 ﹁私﹂は今︑現代文明の一つの産物であるステレオでレコー

ドを聴いているとしよう︒しかもモーツァルトの曲で︑ ﹁クラ

リネット五重奏曲︑イ長調︑㎞五八一﹂︑ジャック︑ランスロ のクラリネットとバルヒェット弦楽四重奏団の演奏である︒十 七世紀の大半の人々はその不思議に驚くであろう︒しかしデカ

ルトやスピノザなどの文明を予期することの出来る一部の人々は︑さして驚くこともないであろう︒しかし我々現代人にとっ

ては︑ごくあたりまえのありふれた出来事である︒この現代で は一見全く単純な出来事と思われるこの例を︑スピノザの世界 観によって説明しようとするならば︑きっと無限の説明が可能 であろう︒しかしその筋道をたてれば︑全く単純な説明だけで

も納得ができるし︑様々なレベルの説明が可能である︒

 ﹁私﹂が﹁今﹂︑ ﹁ここで﹂︑ ﹁これこれのレコード﹂を﹁聴 いている﹂のは神から永遠にわたって予定され︑決定されてい ることであり︑十分な理由がなければならない︒この一枚の薄

べらなレコードは︑それを単なる物体として見るならば︑その

気になりさえしたら︑折り曲げて︑ぐちゃぐちゃにすることも 可能であり︑火に近づけたら︑書けもなく燃えてしまう代物で あろう︒そんなことをしないで︑ちゃんと普通どおりに︑その

円い板に一定の回転数を与えて︑その細い無数の溝に沿って︑

小さな針を滑べらせ︑その針を電気仕掛けになった装置に継い

で︑針の振動をスピーカーで増幅すれば︑空気が振動し︑ ﹁私﹂の耳の鼓膜が震え︑ ﹁私﹂の脳細胞に様々な微妙な影響を与える︒ ﹁私﹂が聴く耳を持たなければ︑それは単なる雑音でし

かないだろう︒その電気仕掛けになった装置も粗末なものから 上等なものまであり︑その程度によって音色は微妙に変り︑

﹁私﹂の脳細胞の電気信号も︑きっと細部においては微妙な差

違があることであろう︒またその装置の中の部品が︑どんな物

質でできているかに依って︑様々な差違があり︑様々な探究の

一 262 一

(15)

川 島

(16)

スピノザの方法論

竃︒εω⁝⁝ρ巳ヨ︒ヨ巳げロω﹃09ぎま庫ω茜︒琶①︒・叶︶︵第二部・

定理一八・備考︶︒純粋知性の秩序によるスピノザの哲学体系

の演繹から︑我々は原理的に何を理解することができるか︒

 そこで︑我々は次に︑最高完全者の真の観念としての想念的

本質の展開によって︑一体何が明らかになるかを検討しなけれ

ばならな︑い︒第一部のまとめの延長線上で特に問題になる事柄

は︑神が︿思惟するもの﹀︵8︒︒ooσq置Ω︒口ω︶である︵第二部・定

理一︶と共に︑︿延長するもの﹀︵希ω①曇︒昌のΩ︒︶である.︵同・

定理二︶ということである︒この﹁延長するもの﹂が神に属し

ていると考えることは︑神の物体化を意味し︑無神論に通ずる

ものとして︑西洋では特に嫌われ︑頭から拒否される傾向があ

る︒それはスピノザによれば物体を表象のみによって捉える人

間の偏見であるという︒知性によってあるがまXに捉えたら︑

﹁延長するもの﹂が神に属していることは当然であるという︒

このことがスピノザ哲学の内容的な中心点になる︒

 ﹃エチカ﹄第二部を始めるに当って︑スピノザは定義の前に

特に次のようにことわっている︒即ち﹁ここではただ︿人聞精

神とその最高の幸福との認識へ﹀︵9q﹈≦①昌自ωげ鐸80p動P色ロω︑

ρ偉①ω斜日ヨ器ぴ$怠華言巳ω8αq巳江︒昌︒ヨ︶我々を︿いわば手

を執って﹀︵ρ虚Oωμ 導鋤口自︶導きうるものだけにとどめる︒﹂この

ことは︑他の事柄も同様にして論究することもできるが︑差し

当って緊急な問題を先に論じなければならないということであ

ろう︒ ﹃エチカ﹄第二部︑定理十三及びその後に付加された一

連の公理︑定義︑補助定理までは︑一般物理学の領域をも含み

うる理論を展開してきている︒そして定理十四を始めるに当っ

て︑︿人間身体﹀︵Oo血目ωげニヨ9︒二日︶に関する一般的なく要 請﹀㊥oωε冨雷︶をする前に︑︿物体﹀︵oo6qω︶について︿専

門的に﹀︵①x質ohΦω︒・o︶論じようとするならば︑もっと詳しく 諸物について論じなければならないのだが︑スピノザの意図は 他にあることを敢えてことわっている︒このことは﹁延長する もの﹂としての神のもとで観られる限り︑人間身体も全自然の

物体と同じように︑物体的法則によって説明可能であり︑ ﹁思

惟するもの﹂としての神のもとで観られる限り︑︿人間精神V

︵ン臼①昌q自げ亘目帥口凶︶あるいはく人間身体の変状の観念V︵&80鑑・

け9ざロロ80060二︒・︶︵第二部・定理十九・証明︶も全自然の観

念と同じように︑観念的法則によって説明可能であることを意

味している︒そして﹁観念の秩序および連結は物の秩序および

連結と同一であり﹂ ︵Oaogoo昌旨︒嵐︒&o碧qヨ峯︒目︒ω計

碧oao98目Φ邑03霊ε︵第二部・定理七︶︑﹁全自然が一

つの個体である﹂ ︵件Oけ鋤 昌鋤叶⊆同国 ①ω叶 口昌信日 同氏ユ一く凶幽=ヨ︶︵第二

部・補助定理七・備考︶から︑人間精神を論ずることはそのほ

んの一部分を論ずるに過ぎない︒しかし我々人間にとっては最

も緊急で最も重大な問題である︒デカルトが身体と精神を︿実

在的に﹀︵おΩ︒揖ω︶に区別した3目高●第六省察︶︑その実在の理

解をどう捉え直すかがスピノザ哲学の基本的な課題であった︒

実在を一者において捉えることに依って︑ ﹁延長するもの﹂を

も神のうちに包括する思想として︑スピノザ哲学体系が展開さ

れる︒その時︑心身関係は如何に説明可能なものになるか︒

B

先にあげた﹃エチカ﹄第二部︑定理七の備考で︑スピノザは

一つの例をあげている︒ ﹁私が︑神はただ思惟する物である限

一一 @20s 一

参照

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