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経済学の人間行為学的方法 : 新オーストリア学派の方法論について(1)(井上洋一郎教授退官記念論文集)

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経済学の人間行為学的方法

一新オーストリア学派の方法論について(1) 越 後 和

 この小論は,ミーゼス(Mises, Ludwig von)以後の現代オーストリア学派 (本稿では以下便宜上,新オーストリア学派と呼ぶ)の経済学方法論の主要 な特徴を明確にし,それとの関連で,彼等の主張する主流派経済学に対する 方法論的批判の要点を解説することを目的とするものである。ここで経済学 方法論と呼ぶのは,経済学研究の方法上の特徴とその背後にある思想といっ たほどの意味であり,最近の科学哲学上の議論に関説する予定はない。  この小論の概要は,紙幅の制約を考慮して,本誌で数回にわけて発表され       1) る予定であり,本号では,ミーゼスの人間行為学(praxeology)にみられる 方法論的先験主義の主張と,これを受けたロスバード(Rothbard, Murrey       2) N.)の効用理論および厚生経済学に対する方法論的批判の若干を取上げる。 1)ミーゼスの人間行為学については以下の著書を参照した。①Human.4ction :.4 Trea− tise on Economics, 1949: third revised ed. 1966 (Nationalb’feonomie: Theon’e des Handelns und Wirtschafiens,1940.の増補英訳版である),②」助醜6〃zoJog蜘1 P名。ろZ6〃循 of Economics, 1960 ; out of print. New edition proposed for Humane Studies 1976 (GrundProbleme der IVationalb“konomie,1933.の英訳),③:rheo7:y and研∫‘oη’An Inte7cPretation of Social and Economic Evolution, 1969, @The Ultimate Foundation of Economic Science :An Essay on Method,1962.上記④については村田稔雄教授が『経 済科学の根底』と題して,雑誌『経済論壇』に1968年8月より1969年7月にわたり11回 にわけ,達意の日本語に翻訳・分載されている。なお村田教操は「ミーゼス研究く一)(⇒日 (四)」と題する先駆的力作を,『横浜商大論集』第6巻第1号,第7巻第1号,第10巻第1  ・2合併号及び第12巻第1号に発表されており,本稿執筆に当り参照させて頂いた。 2)ここで取上げるロスバードの論文は,ミーゼスの博士号更新記念論文集(19名寄稿) として刊行されたSennholz, M., ed., On Freedom and Free Enteiprise,1956.に発表し た彼の論文に,Ebeling, R. M.が序文をつけ, The Center for Libertarian Studiesの Occasional Papers Series#3(編者はEbeling)に当る小冊子Toward a Reconstractionノ

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1  ミーゼスによれば,人間行為科学(science of human action)1こは,人間 行為の先験的理論としての人間行為学(praxeology)と,人間行為に関する 経験の記録としての歴史学があるが,経済学は前者の一部門であり,しかも       3) その中で,科学的体系にまで発展した唯一の部門である,とされている。  人間行為学という,いささか耳障りな用語について一言すれば,ミーゼス        4) はこの用語を採用するにいたった理由を以下のように述べている。   ドイツ語は,自然科学と区別されるものとして,人間行為を取扱う諸科学の全  体を示すのに適当であったと思われる用語,すなわち精神科学(Geisteswissens−  chaften)という用語を生んだ。不幸にして一部の著者が,この用語に形而上学的  ならびに神秘主義的な意味をもたせすぎたので,その有用性が減殺されてしまつ  た。英語では霊物学(pneumatology)がその目的に役立ったかもしれないが,一  般に認めるところとはならなかった。ミル(Mill, John Stuart)によって使用さ  れた道徳科学(moral sciences)という用語は,倫理学という規範的学問と語原  的類縁性があるので満足できるものではない。人文科学(humanities)という用  語は,もっぱら人間行為科学の歴史部門にのみ用いられている。かくて,われわ  れは人間行為科学(science of human action)という,いささかものものしい  用語を用いざるをえない。  後述するように,ミーゼスは自然科学の方法論と区別されるものとして人 間行為学的方法論を主張するのであるから,彼は方法論的二元論を容認する ものといってよいが,この点はさておき,世上,一般的には自然科学に対し て社会科学という用語が使用されているのに,ミーゼスは何故にこの用語の 使用を避けるのか。これは行論の裡に明らかにされるように,彼の批判の対 象が,ほかならぬ「社会科学」そのものだからである。 \of Utildy and VVelfare Economics,1977.として出版したものである。 3) Mises, The Ultimate Foundation of Economic Science, second ed. 1978, pp.41−43. 4)Mises, ibid,, p.9.村田稔雄訳文(『経済論壇』1968年8月号所収)参照。

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       経済学の人間行為学的方法  241  ミーゼスのいう社会科学とは,個人とは独立した社会と称する集団の存在       5) を究極的与件として承認する似而非科学を指すのである。この意味での社会 科学が,後に詳論するオーストリア学派の方法論直話入主義の立場と根本的 に相容れないことは,容易に推察できるであろう。

 PRAXEOLOGYという用語そのものは,ミーゼスによれば,エスピナス

       6) (Espinas, Alfred)によって1890年に,はじめて使用されたとされているが, ミーゼスとともに新オーストリア学派を代表するハイエク(Hayek, Frie− drich August)は,社会科学という用語を社会的i現象を研究する学問という ほどの意味で使用し,ミーゼスのように限定的に理解してその用語の使用を 排撃するような態度をとってはいない。しかし,そのハイエクですら,経済 学やその他の社会に関する理論的科学に名称が必要であるというのであれば, 「エスピナスに由来し,コタルビンスキー(Kotarbinsky, T.)とスルツキー (Slutsky, E)によって採用され,そしてミーゼスによって,今では明確に 定義され,もっぱら使用されているpraxeological scienceという用語が一番         7) 適当なように思う」と述べている。  ちなみに,ハイエクは上記の引用の個所で,人間行為学が1940年のミーゼ スの著書(Arationalb’konomie)で明確に定義されたとしているが,ミーゼス はすでに1933年に,その著書『国民経済学の基本問題』(GntndProbleme der Nationalb’konomie)において,人間行為学の方法論を完成させていることに         8) 注意すべきである。  さて,人間行為学という用語の詮索はこの程度にとどめ,その主張すると ころを聞こう。その主張の骨子は,概ね以下のごとく要約されうるように 5) Mises, ibid., pp. 107−108. 6) Mises, Humtzn Action, third revised ed., 1966, p. 3. 7)EA.ハイエク著,佐藤茂行訳『科学による反革命』木鐸社,1979年,36ページ。 8)ミーゼスは,カール・メンガーに始まる旧オーストリア学派の非体系的であった演繹 論理的で個人主義的な方法論を,19世紀から20世紀初頭にかけてのドイツ西南学派,と  りわけ,リッケルト,ディルタイ,ヴィンデルヴァント,マックス・ウエーバ等の哲学 の研究成果にもとづき鍛練し,これを人間行為学的方法と称する明晰で自覚的な方法論 にまで高め上げたといってよい。Cf,, Rothbard, M. N., The Essential von Mises,1973.

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 9) 思う。  経済学の目的は,人間行為の解明によってわれわれを取りまく世界を解明 することである。経済学が他の人間行為諸学と異る点は,その目的ではなく, その取扱う領域にある。すなわち経済学は,通常経済学者によって慣例的に 選択されている研究分野において,人間行為を取扱うのである。ではそれは どのようにしてなされるべきなのだろうか。  ミーゼスによれば,人間行為学は人間行為の理論的研究であり,それは最 も基本的で明白な公理から出発し,その公理の含意を論理的に言語によって 演繹するという方法をとるべきであるという。  出発点となる最も基本的な公理とは,「人間は行為する」,あるいは「人間 のみが行為する」という命題である。人間以外の生物・物体の場合には,一 定の刺激に対する反射的ないし型通りの反応,あるいは一定の運動があるの みで,行為はありえない。  行為するとは何か。それは目的を選択しその選択した目的を達成するため に適切と信じる手段に訴えることである。ここには,目的と手段の観念,価 値・評価・損益・費用等々の観念が内包されている。経済学が取扱うのは, このような主観ないし観念であって,手でふれ,耳できくことの可能な外界       10) の客観的な「もの」そのものではない。  行為は目的を達成するために手段に訴えることであるから,行為には因果 関係に関する認識が前提されている。さらに,あらゆる行為は特定の個人が ある状態を,より満足すべき他の状態と交換しようとする企図であるから, 行為は交換であるともいえる。行為の究極の目的は,常に行為するその個人 のある種の願望を満足させることであるから,個人の行為(交換)は,上述 の意味で合理的であり,これを非合理的(irrational)であると外部の観察者 9>以下のミーゼスの主張は,前馬1)の彼の著書を一貫しているがここでは:The Ulti−  mate FOblndatiOn of EcDnOmic Scienceの該当個所のみを指摘しておく。 10) Cf., Mises, ibid., pp. 1−10.

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      経済学の人間行為学的方法  243       11) がきめつけることはできない。  ミーゼスのいう人間行為学的方法論とは,このような人間行為に関する驚 くほど平凡にしてかつ明白な事実の論理的な含意を,言語的に演繹すること にほかならない。  さて,「人間は行為する」という命題は,疑問の余地のない公理であるか ら,そこから演繹される命題のすべては,その推論に論理的ミスがなければ, すべて真である。すなわち行為の範疇から出発した演繹の産物としての経済 学の命題は,その正しさを自然科学の場合と異なり,経験的なデータによっ て検証ないし反証するまでもなく真である。さらにいえば,その命題をどの ような歴史的ないし統計的手段によってであれ,実証的に検証ないし反証す       12) ることは不可能である。ミーゼスはこのように主張するのである。 II  ミーゼスの叙上のような方法論的先験主義の主張は,実証主義の方法論に 馴らされて久しい現代の経済学徒には,一見奇妙に思われるかもしれないの で,これを具体例で解説しておく必要があるように思う。  いまその例として,限界効用逓減の法則を取上げよう。この法則は初学者 が屡々誤解するように,たとえば,1杯目のコップの水の効用に比べると, 渇が癒された後の2杯目のコップの水の効用は低下する,といった類の心理 学的ないし生理学的法則として理解されるべきものではない。この法則の物 語ることは,すべての人間は,すべての財について,その財の最初の単位を 最も価値ありとその人が考える用途に割当て,次の単位は次に最も価値あり        13) と考える用途に割当てるという,人間行為学的真実である。これが心理学的 命題であれば,その真偽は自然科学の方法によって反証されるし,また反証 努力によってその命題の真であることがはじめて証明されることになる。勿 11) Cf., Mises, oP cit., (Human Action) p. 19. 12) CL, Mises, oP cit., (The Ultimate Fozandation of Economic Science) pp. 70−72. 13) Cf., Rothbard, Toward a Reconstruction of Utiiily and Ll(elfare Economics, p.8.

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論その命題が真であることは,反証が成功するまでの暫定的な期間において である。この意味で,自然科学には絶対的に真である命題はありえない。  しかし,人間行為学的真実は,格別の経験的証明を必要としない人間性に 根ざす絶対的な真実である。我々がある財の最初の単位を,その時点で最も 価値があると考える用途に割当て,次の単位は次に最:も価値があると思う用 途に割当て……というように行為することは,いわば人間であれば必ずそのよ うに行為するに相違ない絶対的真実であり,ある財の限界効用が逓減するの は,この行為の論理から必然的に演繹されることである。このことが自分以 外の何人にとっても,自分にとってと同様に真実であることを,われわれは        14) 自分の行為の洞察ないし内省によって理解できる。  このような理解のルートを使用することは,「もの」と「もの」との関係を 取扱う自然科学では本来不可能である。雷鳴を神の人間の不正に対する怒り として理解するような仕方が,自然科学以前のものであることは論をまたな い。実証主義的方法以外の方法によって,自然科学的現象は解明できないこ とは十分に理解できるが,その逆に,自然科学のめざましい発達に眩惑され て,実証主義的方法によらなければ,人間行為にかかわる事象を解明できな いものの如く考える経済学における実証主義こそが,この学問の進路を誤ら     15) しめた……。ミーゼスをはじめとする新オーストリア学派は,このように考 えているようであるが,実証主義に関するこの点の評価は,後に予測の問題 と経験的研究の意義を考察するとき取上げる予定である。  さて,限界効用逓減の法則が実証を必要としない人間行為学的真理である との主張は以上の通りであるが,この法則の検証ないし反証が不可能という のは何故であろうか。それは,ある財について,それぞれの人が行為する時 に,何を最も価値ある用途と考えていたかを,客観的に知りうる方法がない からである。 14) Cf., Mises, oP. cit,, (The Ultimate Foundation of Economic Science) pp.44−5/, 15)この問題はハイエクが『科学による反革命』(前出)において発展させた点でもある  が,ここでは,さしあたりミーゼスの前出注14)pp. 115−124を指摘しておく。

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      経済学の人間行為学的方法  245  個人が何を最も価値あるものとして評価するかは,個人によって,さらに 同一の個人であっても,その人の行為する時点によって,異なるのが普通で ある。およそ人間行為には,内容的に不変の価値尺度,恒常的な選好といっ たものはありえないから,命題の正しさを経験的に確認できない。われわれ は,その個人の行為の結果から,その人のその時点での価値評価を事後的に 推測できるだけである。その推測が,その人の真の価値評価と一致していた かどうかを確める方法を有しない。  人間行為学的命題が,反証可能な命題ではないということは,周知の需要 の法則を思い浮べただけでもこれを理解することができるであろう。たとえ ば,りんごの価格が上昇したにもかかわらず,りんごの需要量が減少するど ころか増大したとせよ。これによって,われわれは需要の法則が反証された ものと解釈することができるであろうか。このケースでは,たとえば,消費 者がりんごの品質の差を正しく識別したといった点が証明されるにすぎず,        16) 需要の法則の正しさは先験的なものとして,依然として健在である。 III  叙上のような人間行為学の方法論客先験主義ないし公理演繹的方法に対し ては,さしあたり,次の二つの問題が提起されざるをえないであろう。第1 は出発点となる公理そのものの認識論的地位についてであり,第2は,その 演繹の手段についてである。  第1の問題は,「人間は行為する」という最初の公理にして真ならば,そこ から演繹される命題は実証の余地なく真であると主張する場合,最初の公理 を真とみなすことを正当化するものは何か,という問題である。  この問題について,ミ一曲スとロスバードとの間には見解の相違があるよ うに思われる。ミーゼスはカント的認識論の立場から,行為の概念はすべて の経験にとって先行するものであって,経験的証拠を要しない,と主張して 16> Cf., Littlechild, S. C., The Fallaay of the Mixed Economy ; IEA, Hobart Paper 80,  1978, p. 24.

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いる。そしてこの「アプリオリなカテゴリーという精神的装備によって,人 望は思考し,経験し,知識を獲得することができる。アプリオリなカテゴリ          一の真偽な凹し妥当性は,後天的命題と異なり証明または反ばくできない」       17) というのである。  この主張に対してロスバードは,人間が行為するということは,それ自体 すべての人によって観察されている事実であり,それゆえに強力な経験的基 礎がある,と論じる。もし誰かが人間は行為するという公理を反ばくしよう とするならば,彼はその公理を論ばくする目的を達成するために,自身で行       18) 為し,手段を選択せねばならないのではないか,と主張する。  ミーゼスとロスバードのいずれに軍配をあげるべきかを明確にするには, 別に哲学的考察を必要とするので,いずれの説を採用するかについての解答 は,ここでは保留しておく。  さて,第2の演繹の手段についての問題の核心は,入間行為学の方法が数 学の使用によってではなく,言語的演繹という方法でなされるべきであると いうミーゼスの主張についてである。この主張については,ロスバードはも とより,多数のオーストリアンに合意が存在するように思われる。その理由        19) として,たとえばロスバードは,概ね次のように主張する。  人間行為学では,公理が真実である限り,一歩一歩の言語演繹はまた真実 であり有意味である。しかるに数学的記号は,それ自体では有意味ではない。 物理学では公理と演繹はそれ自体では純粋に形式的なもので,それらが所与 の事実を説明し予言する限りにおいて,操作上の意味をもちうるにすぎない。 数学はこのような物理学にとってこそ適切である。しかし,人間行為学にお ける公理の演繹を数学的形式におきかえて行う場合を考えてみると,かりに このことが可能であるとしても,演繹過程の各段階における意味が失われる 17)Mises, ibid., p.17;村田稔雄訳文(『経済論壇』1968年9月号所収)参照。 18) Cf., Rothbard, Praxeology: The Methodology of Austrian Economics, in Dolan  (ed.), The Foundations of Modern Aztstn’an Economics, 1976, pp. 19−39. 19) CL, Rothbard, ibid.

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経済学の人間行為学的方法  247 というマイナス面があるだけで何もプラスされるところがない。「たとえ言語 経済学(verbal economics)が成功裡に数学的記号に翻訳され,然る後,再 び結論を説明するために英語に再翻訳されうるとしても,この過程は無意味 であり,……オッカムのかみそり(Occam’s razor)の偉大な科学的原理に違   20) 反する」。  ロスバードはさらに自説を補強するために,非オーストリア学派で,しか も著名な数学者でさえあったケインズ(Keynes, John Maynard)の次の文章     21) を引用する。  「経済学的分析の体系を公式化しようとする記号的似而非数学的方法の大きな  欠点は,それが関係諸要因間の厳密な不依存性を明白に仮定し,ひとたびこの仮  説が認められなくなった場合にはその適切さと権威とのすべてを失うに至ると 20)ibid., p.22.ここで参考までに,オーストリア学派の数学に対する疎遠な態度について  一言しておく。周知b)ように,この派の始祖カール・メンガーの著書には,限界原理が  述べられているも⑳の,その接近は非数学的であり,一つのダイアグラムすら使用され  ていない。それはジェヴォンズの微分の使用と全く矧蹟的である。この原因の一つとし  て,シュムペー二一は,オーストリア学派に属した人たちの数学的能力の欠落を指摘す  るが(『経済分析の歴史』参照),シャンド(Shand, A, H,)は,オーストリア学派の古い  世代が数学の使用を避けたのは,オーストリアの中学校でギリシャ語で受けたアリスト  テレスの形而上学を含む哲学的基礎教育の影響であろうという。経済学は現象の諸量に  関するものではなく,価値,利潤等々の如きその現象の底にある真の実体の本質に関す  る研究であると説く,この派のいささか神秘的な雰囲気をもった経済学では,方程式で  表現されるいわゆる経済法則は,恣意的な陳述にすぎないと思われたかもしれない,と  いうのである。(Cf., Shand, The CapitaliSt Alternative,1984, p.23.)。ミーゼスには,数  学が研究者に市場過程から関心をそらさせることになるという強い信念があったようで  ある。(Cf., Human.Action, p.350.)ロスバードのいうには,オーストリア学派の人びと  は哲学とともに,十分な数学の素養をもっていたがゆえに,あえて数学の使用を避けた  とし,マーシャルやケインズのように,数学的能力にすぐれていながら,その多用には  禁欲的であった事例を参照している(注18)参照)。経済理論における数学利用の問題は,  経済学における経験的研究の意義と統計学・計量経済学の役割等の問題とともに改めて  論じるべき大問題である。印象的私見では,経済分析に数学を使用しない研究者は,徹  遣した数学的訓練を受けた数学の真の理解者か,さもなければ数学を理解していない人  かのいずれかであるようなケースが多いように思われる。 21)ケインズ著,塩野谷九十九訳『雇用・利子および貨幣の一般理論』東洋経済新報社,  1972年,第49刷,337ページ。

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 いう点にある。しかるに,盲目的に操作するのではなく,われわれが何をしてお

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 書き止めておくことはできない。最近の《数理》経済学のあまりにも多くの部分  は,それが拠って立つはじめの想定と同じように不正確な,単なる捏造物であっ  て,それが著者にもったいぶった,しかも役に立たない記号の迷宮のうちに現実  世界の錯綜関係と相互依存関係とを見失わせるのである。」  ちなみに,ここでケインズが批判しているのは,記号的似而非数学的方法 (symbolic psuedo−mathematical methods)であって,経済分析における数 学的方法一般ではないことに留意すべきである。経済分析一般についての数 学の使用に関しては,これを全面的に否定するミーゼスやロスバードの主張 と,ハイエクの見解は相違している。前者は,数学的方程式やダイアグラム の使用が,無時間的・静態的な一般均衡の空想的世界を描くのには適してい ても,時間と期待,希望と錯誤の現実世界で行為しつつある個人を分析する 場合には役に立たないばかりか,高度にミスリーディングなものとなると主   22) 記する。これに対し,ハイエクは数学の使用に関し,自然科学で数学を使用 するのと同様の態度を社会科学でもとることが適切でないことを警告しつつ も,経済学の分野における数理的方法の必要性を否定してはいない。  ハイエクによれば,数理的分析手法は,代数的方程式群によって研究対象 となっている現象のパターンの一般的な性格を明確にするのに役立つのであ り,市場における種々の事象の相互依存性を包括的に描写するには,この代        23) 数的手法が不可欠でもある,という。 22) Cf., Mises, oP. cit., (Human Action) p.55; pp.350−357. and Rothbard oP. cit.,  (Dolan ed.) p. 33. 23) Cf., Hayek, Fulg EmPloyment at Any Pre’ce? : Nobel Laureate 1974, IEA Occasional  Paper 45. 1975, p. 30−42.

(11)

       経済学の人間行為学的方法  249  ただし,ハイエクのいうには,経済学は自然科学の場合と異なり,本質的 に複雑な現象を取扱うのである。自然科学では,観察される事象を決定して いる要素が直接的に観察でき,その計量化もまた可能である。しかし経済学 で取扱う本質的に複雑な現象にあっては,これを構成している諸要素が多数 で,しかもそのそれぞれの要素の個別的属性や個別的要素の結合の態様が一 様でない。だから,経済現象の解明には,各個別要素に関する情報の入手を 必要とするが,その情報が入手可能なものばかりではないのである。したが って,経済現象を恰も計量可能な諸量だけが重要であるかのごとく考え,数 学的手法を使用すれば,経済的諸変数の数値を決定し,経済予測が可能であ ると見るのは幻想にすぎない,と主張する。このような立場からハイエクは,        24) われわれの予測はパターン予測に限られるというのであるが,この点は,後 に経済予測を取上げるとき再び論及する。

IV

 新オーストリア学派に属する学者が,ミーゼスの人間行為学的方法論の主 張を,現在,どの程度に,どのような意味で支持ないし理解しているかを知       25) ることは,叙上のハイエクのケースもあり興味深いが,この点もいずれ詳論 することとし,ここではミ一盛スの人問行為学を既成の経済理論に対する批 判に適用したロスバードの議論を紹介したい。  ここでロスバードの論文を取上げる理由は,この論文は効用理論および厚       26) 生経済学に関する,かなり古い時代のものではあるが,その所説が人間行為 24)Cf., Hayek, ibid.ここで彼は,パターン予測とは,研究対象となっている構造を形成  する要素の一般的属性中のあるものだけに関する予測という意味であり,その構造を形  成する個別的諸要素については,特定化されたことを何も述べていない予測のことをい  う,と述べている。 25)コールドウエル著,堀田一善・渡部直樹監訳『実証主義を超えて』中央経済社,1989  年,187−188ページによれば,現代のオースF i}ア学派の人々の多くは,人間行為学の  教義を信奉していないと述べ,この学派の主要メンバーの方法論の相違の若干を指摘し  ているが,彼の見解の当否はいずれ後に論評する。 26)前出注2)を参照。

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学の主張の性格を理解する上で便利であるとともに,ある意味では不可欠の ものとさえ思われるからである。この論文の鍵概念は,表示選好(demonstrat− ed preference)であり,彼はこれをサムエルソン(Samuelson, Paul A.)の        27) 顕示選好(revealed preference)の概念と比較し,両者の相違がいかに本質 的なものであるかを以下のように強調している。  ロスバードによれば,市場経済の駆動力は人間行為であり,それは個人の 価値評価,選好による選択を意味する。彼の選好は彼が行為において選択し たものから推論されるほかない。この選好概念は現実の選択がその人の選好 を表示することを意味し,これこそが経済分析の論理構造,とりわけ効用と 厚生分析の基礎をなすと考え,彼はこれを表示選好と名づけるのである。  かってフィシャー(Fisher, Irving)は,この表示選好の概念を「すべての 個人は,彼が欲求するので行為する」という形で適切に表現したが,スウ4 一ジ(Sweezy, Alan R.)はその意味を理解できず,上記命題は反証可能性を 備えた命題でないので,科学的命題とはいえず,無意味な同義反覆であり,       28) 循環論にすぎないと批判した。しかしロスバードは,この批判は自然科学に おいて適切な手続きにすぎない実証主義の認識論を,人間行為に適用して, 人間行為学を攻撃するものであり,自然科学と人間行為学の相違を認識して いない,というのである。  人間行為学では,証明ないし反証という方法は,既述の通り使用しえない し,またその必要もない。それは「人間は行為する」という公理から論理的 に演繹される絶対的真実であって,自然科学の命題のように,たんに仮定さ れたもので,反証によって修正に服するといった類のものでもない。人間行 為の特徴は,動機づけのない物体の運動とは対蹟的に,願望,目的によって 動機づけられている。そこでわれわれは,現実の行為から特定の欲求,願望 27)彼は上記論文でサムエルソンがrevealed preferenceという用語を既に先取りしてし  まったため,demonstrated preferenceという用語を使用するにいtSつたといっている。 28) Cf., Rothbard, ibid., pp.2−3.

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      経済学の人間行為学的方法  251 を推論するのであって,表示選好の命題は人間行為学の真理であり,これを 操作上の有効性を欠く循環論とみるのは,実証主義の浅慮による。そして, このスウィージと同様の誤解をしているのが,実はサムエルソンの顕示選好        29) の概念である,というのである。  選好は選択を通じて顕示されるという顕示選好の思想は,この表現の意味 する限りでは表示選好のそれと同様であるが,決定的な相違点は,サムエル ソンが人間行為の基礎を形成する基底的な選好尺度の存在と,それが時間を 通じる個人の一連の行為の中で不変であると仮定している点である,とロス バードは主張する。  すなわち,サムエルソンは多数の個人の行為の基礎上に個人の選好尺度を マップする複雑な数学的手続きを駆使するが,ここでの初歩的誤謬は,選好 尺度が時間を通じて不変であるという不変1生の仮定をおいていることである。 しかしこの仮定はいわれなきものであり,われわれのいいうることは,一定 時点での人間の行為は,その時点でのその個人の選好尺度の部分を顕示する ということであって,一時点から他時点への推移の間に,その選好尺度が一 定不変であると仮定してよい保証はどこにもない。  さらに,不変性仮説にもとつく最も不合理な手続きの一つは,消費者の選 好尺度を,観察された現実の行為によってではなく,質問票によって,人び とにその返答を求めるという形で知ろうとする試みである。人間は現実に選 択に直面した時に,はじめて行為によってその選好を表示するのであって, その内容が予めなされた質問票への返答と異なる評価を示さないという保証 はどこにもない。  これを要するに,サムエルソン流の顕示選好の概念は,ロスバードによれ ば,選好尺度を現実の行為から切離された実体であるかの如く取扱うもので あり,選好を人間行為学的ではなく,心理学的に取扱う点において,表示選 好の概念とは本質的に異なるという。このロスバードの主張は,叙上のミー ゼスの人間行為学の最も忠実な解説といっても過言ではない。 29) Cf., ibid., pp.5−7.

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 ロスバードは,概ね以上のような表示選好の思想によって,経済学上の基 本概念の通俗的理解をきびしく批判している。ここでは参考のため,その事 例の主要なものを紹介しておく。  まず第1は,効用概念についてである。ロスバードのいうには,限界効用 の限界とは微分学の限界とは異る。もしこれが数学的な概念であれば,ある 全部的なものは限界的なものの積分であるから,全部効用は一連の限界効用 の積分であるという議論が成立する。そこで,たとえば6単位の供給量をも つある財の限界効用は,6単位の全部効用マイナス5単位の全部効用に等し い,といった計算がなされることになる。しかしこうした議論は,人間行為 学的には全くのナンセンスである。  人間行為は選択であり,選択は人間が代替物間の差違の認識を前提して行 うのであるから,限界とは無限に小なるステップではなく,人間行為にとっ てレリバントな単位でなければならない。たとえば,もし鶏卵が1個つつ取 引されている状況であれば,それぞれの鶏卵が単位であり,もし6個の鶏卵 入りの箱を取引しているのであれば,その1箱が単位である。つまり特定の 行為にとってレリバントなどのような単位も限界である。限界単位は状況に 依存する可変的規模であり,これを不変なものとして測定できるものではな い。この意味で,全部効用,部分効用といった概念も人間行為学的にはミス リーデングな概念というほかない。全部効用とは,全供給量に等しい大きさ の単位の限界効用をいうのである。われわれは,たんに大規模単位の限界効 用,小規模単位の限界効用を論じ,両者に単純な序数的関係を認めうるのみ で,効用を基数的なものとして把握することはできない。ロスバードは以上       30) のように論じる。  第2は,無差別概念の経済分析への導入についてである。周知の通り,無 差別曲線の手法は経済分析に広く取入れられているが,この手法が入間行為 30) Cf., ibid,, pp.9−12.

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      経済学の人間行為学的方法  253 学の公理と基本的に相容れないことは明白である。けだし,すべての行為は 選択であり,選択は一定の明確な選好を意味するから,それは無差別の正反 対である。無差別は行為によって表示されたものではありえない。われわれ は質問票からの返答によって,無差別曲線を経験的に描くことができるが, それは行為によって表示されたものではないので,人間行為学ないし表示選 好理論の立場からは無価値である。たしかに,価値評価の強さ,可能な無差 別等を発見することは重要であろうが,それは心理学的興味であって,経済 学では現実に選択を通じて表示された価値のみに興味がある,とロスバード はいうのである。  無差別曲線分析の根底にある思想は,イビリング(Ebeling, Richard M.)       31) の指摘する通り,個人の選好が生きた行為者から切り離された不変の選好の 形で認識されていることである。かつてパレート(Pareto, Vilfredo)は,「個 人はその選好の記録を,エコノミストが使用するために残した後,分析的な        32) 枠組みから消え,再び現れない」と述べた。個人が代替的な市場価格で選好 するであろう想像上の諸財のすべての組合せを述べる総合的リストを後に残 すならば,人間的選択者はもはや経済分析においては,必要な構成要素では ない,というのである。  ここでは人間行為が選択ではなく,反応的な範疇に追いやられてしまって いる。個人が描かれるとしても,それは戯画化された機械的人間にすぎない。 すなわち価格変化が起った時,その個人のなすべきことは,すでに予め決定 されている選好された製品のマーケット・バスケットの確定されている配列 の中から,購入すべき適当な財の新しい組合せを読みとるだけである。ここ には不確実性・期待・学習といった要素の入り込む余地がない。無差別曲線 的接近は,経済分析における実は最もレリバントな問題を,すでに仮定して しまっているといわざるをえない。ロスバードの主張を敷術して,イベリン 31) Cf., ibid,, Preface. 32)ibid.なお松嶋敦茂著『経済から社会へ』みすず書房,1985年,191ページ参照。

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      33) グはこのように解説する。  さて,第3はロスバードの厚生経済学批判である。彼は叙上の表示選好の 概念によってカルドア(Kaldor, Nicholas)とピックス(Hicks, Ursula       34) Kathleen)の補償原理(compensation principle)や,バーグソン(Bergson,        35) Abram)とサムエルソンの杜会的厚生関数の概念を酷評するが,後者の社会 的厚生関数については,後に方法論的個人主義との関係で取上げることとし, ここでは前者について簡潔にふれておく。  叙上の説明からも推察されるように,効用は測定可能な基数的大きさでは なく,それゆえ,効用の個人間比較は不可能であるとの前提に立てば,ある 政策が社会的厚生(効用)を増大させると主張できるためには,ロビンズ (Robbins, Lionel Charles)によって主張されたように,パレートの全員一       36) 致(unanimity)の原則によらざるをえない。この主張は,もしある政策によ って発生する変化が,いかなる個人の立場も悪化(worse off)させず,少な くとも1人に改善(better off)がみられるのであれば,この場合にのみ,そ の変化によって社会的厚生(効用)が増大したといいうるという。  この立場を前提してカルドア,ピックスの補償原理は,もしある政策の利 得者が,その政策の損失者に補償することができ,しかも依然として彼が利 得者でありうるならば,その政策によって社会的厚生は増大したといいうる と主張する。この見解は周知のように,エコノミストの政策判断を助けるも のとして,不十分な理解のまま多くの政策提案者によって利用され現在にい たっている。  ロスバードはこの説に対して,補償が仮想的なものであること,すなわち, 補償が現実に行われたものではなく,利得者と損失者の潜在的な効用がたん に想像されたものにすぎないことを指摘し,補償原理は必然的に表示選好の 33) Cf., ibid., Preface. 34) Cf,, ibid., pp.23−24, 35) Cf., ibid,, pp.24−25. 36) Cf,, ibid., pp. 21−22.

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      経済学の人間行為学的方法  255 思想と相容れないことを強調する。損失者がもはや損失者でないように補償 が現実になされる場合にのみ,社会的厚生(効用)における利得を主張しう るというのである。  ロスバードは以上のように,ミーゼスの人間行為学の公理の適用としての 表示選好の概念を武器として,既成の効用理論および厚生理論を批判するの であるが,彼のミーゼスと異なるユニークなところは,この表示選好の概念 を基礎に,無政府主義を主張する点であろう。  彼の主張によれば,自由市場における自発的交換の成立は,両当事者が交 換から利益をえること(正確には利益への期待をもったこと)を示すもので あるから,自由市場は表示選好の概念と全員一致の原則のフレーム・ワーク の下で,社会的厚生(効用)を増大するものといえる。しかるに,国家は市 民の自由交換を暴力的に抑制したり,逆に市民相互間の交換または市民と国 家との間の交換を,暴力を背景に強制したりする組織であるから,社会的厚 生(効用)の増進を阻害こそすれ,増進する存在ではありえない,というわ       37) けである。彼の無政府主義論は別の機会に論じたが,ここでは,彼の無政府 主義の主張が,表示選好の概念の適用にもとつくものであることに注意を喚 起しておきたい。 37)拙著「競争・と独占』ミネルヴァ書房,1985年,第5章参照。

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