C. バ ーニーの翻訳 オペ ラ 『 知恵者
TheCunni ngMan』 につ いて
A St udyof" TheCunni ngMan"t r ans l at e dbyC. Bur ne y
塾璽 7 井 民 子*
Tami koI MAI *
論文要 旨
ル ソーの共鳴者であるイギ リスの音楽史家,C.バーニー は,彼 の幕合オペ ラ 『 村の占師 Le de vi れduvi l l age』 を翻訳 し, 『 知恵者 TheCunni ngMan』 として上演 した。本稿で は, まず, 当時の音楽界 を二分 したフランス, イタ リア音楽の優劣 をめ ぐる 「ブフォン論争」 を概観 し, イタ リア派 としてのバーニーの立場 を検討す る。次 に翻訳オペ ラ F 知恵者』の成立事情 とその 反響,及 びバーニー とル ソー との親交 にふれ,最後 に両者 のオペ ラを比較分析す る。 その結果, バーニーの翻訳オペ ラは,ル ソーの原作 に概ね忠実 に倣 いなが らも,ル ソーの愛 したフランス 伝統 のオペ ラ手法 を排 した, よ り強いイタ リア趣味が認 め られた。
キーワー ド :C.バーニー,∫.∫.ル ソー, プフォン論争
は じめに
イギ リスの音楽史家 C .Bur ney ( 1 7 2 6‑1 81 4 ) のオペ ラ 『 知恵者 TheCumi ngMan』 は, 彼が著述家 として初 めて世 に問 うた作品だった。ル ソーの共鳴者であるバ ーニー は,パ リで評 判 の彼 の幕合オペ ラ 『 村 の占師 Lede vi nduvi l l age 』を観 て,帰国後直 ちにその翻訳オペ ラ 『 知 恵者』 を完成,上演す る。本稿で は, まず, 当時の音楽界 を二分 したフランス, イタ リア音楽 の優劣 をめ ぐる 「ブフォン論争」 を概観 し,イタ リア派 としてのバーニーの立場 を検討する。
次 に,翻訳オペ ラ 『 知恵者』 の成立事情 とその反響,及 びバーニー とル ソー との親交 にふれ, 最後 に両者 のオペ ラを比較分析す る
。なお,ル ソーの 『 村 の占師』 に関す るい くつかの拙稿 も あわせて参照 されたい ( 今井 ,1 9 9 2 ,pp.4 7‑5 7 ,1 9 9 3 ,pp.1 5‑3 3 ) 0
Ⅰ.フランス音楽対 イタ リア音楽 1 .7フォン論争
フランス音楽 とイタ リア音楽 の比較優劣論 は ,1 8 世紀音楽思想 の主要なテーマの一つである
。バーニーの 『 大陸音楽紀行』の校訂者である P.A. スコールズが補遺 にまとめた両者の比較音 楽論 の概略 をた どってみ よう ( Sc hol e s ,1 95 9,pp. 3 2 2‑3 2 6)
0バーニー よ りも一世紀前 に,早 くもパーセル はフランス音楽 を排 し,イタ リア音楽重視 の態 度 を表明 している
。彼 は 4 声 ソナタ作品の序文で, フランス音楽 の軽薄 さやバ ラッ ド詩 にはそ
*弘前大学教育学部音楽教室
De pa r t me nto fMus i
c,Fa c ul t yo fEd uc at i o n,Hi r o s akiUni v e r s i t y
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今 井 民 子ろそ ろ嫌気が さしはじめたので, イタ リアの著名 な巨匠たちの作品の模倣 に努 め, イギ リスに イタ リア音楽 の真面 目さ と荘重 さを普及 させ たい と述べてい る。 イギ リス人 の この ような評価 は, その後 1 9 世紀 に至 るまで続 いた。例 えば,著名 な審美家 の M.Edgcumbe 伯 は,1 8 世紀末, イタ リアのオペ ラや音楽 でつ まらない もの はないが, フランスのグラン ド ・オペ ラは, フラン ス人以外 には耳障 りなだけだ と述べてい るし ,1 9 世紀 の半 ば, ド ・クイ ンシー は, イギ リス は 音楽 の感受性 でイタ リアや ドイツに劣 る とも, フランスにひ けを とって はな らない と断言 して
いる。
フランスで この優劣論がいわ ゆる 「ブフォン論争」 として先鋭化 す るの は周知 の ことであ る。
これ は,1 7 5 2 年, デ トウ‑ シュ作 曲の フランス伝統 のオペ ラ 『 オ ンフアル』 に対 す るグ リム に よる批判 と, イタ リアのオペ ラ団によるパ リ公演 を契機 に起 こ り,パ リの音楽界 を二分す る激 しいパ ンフレッ ト合戦 に発展 した。 リュ リや ラモーのオペ ラを信奉 す るフランス派 は,国王や 愛妾 のボ ンパ ドゥ‑ル夫人 を中心 とす る富裕 な貴族 たち,一方イタ リア派 は,ル ソー はじめグ ランベ ール, デイ ドロ, オルバ ックな どの百科全書派 たちであ り,桟敷席 の位置 に因んでそれ ぞれ 「国王席派」, 「 王妃席派」 とも呼 ばれ た。
ル ソー は, 『フランス音楽 に関す る書簡』で, フランス音楽 には,非音楽的 なフランス語 のた めに拍子 も旋律 も存在 しない, フランス人 は音楽 を持 たず, また持 ち得ず, よしんば持 った と して も彼 らに とって事態 は悪 くな るばか りだ と略評 し, 自分 の理想 とす るオペ ラ観 を 『 村 の占 師 』 ( 1 7 5 2)で具体化 した。 この論争の中で は ,1 7 53 年, オペ ラ・コ ミック座 の劇場支配人 のモ ネが, あるオペ ラをはじめイタ リア人 の作品 とふれ こみ上演 し, その後台本,作 曲 ともフラン ス人 だ と明か した ところ,一度 これ を評価 したイタ リア派が直 ちに攻撃 に回 った とい うエ ピソ ー ドもあ る
.フランス伝統 オペ ラの大家, ラモー は,晩年バ ーニーの友人 のアル ノー神父 に宛 てた書簡 の中で,2 0才 も若 けれ ばイタ リアに行 きペルゴレー ジを手本 に学 びたい ところだが, 老 いの身 で はそれ もかなわず と嘆 きつつ, イタ リア音楽への称賛 を惜 しまなか った。
バ ーニーの娘 の ファニー も,父親 に倣 ってイタ リア支持派 と思われ る。彼女 は1 77 9 年 の 日記 で,す ぼ らしい声 をした知 り合 いの少女が,最近 フランスの歌 を好 む ようになったので才能が 台無 しにな らないか と憂慮 している。 モー ツ ァル ト父子 も, フランス音楽への強 い嫌悪感 をパ リか ら書 き送 ってい る。 レオボル トが1 7 64 年, フランス音楽 はすべて一文 の値 うち もない と批 判 すれ ば, ヴォル フガ ング も1 77 8 年 に,音楽 を解 す る人 には当地 の音楽 は噴飯 もので, 自分 は 囲 りを野獣 に取 り巻 かれている思 いだ と述べてい る。 ゴル ド一二の回顧録 か らは, イタ リア人 の フランスオペ ラ観が窺 える 。1 7 6 2 年,ゴル ド一二 はパ リのオペ ラについて,「国 には天国,耳 には地獄」 と評 し,舞台装置やバ レエの華寒 さを称 えつつ, ア リア はすべて レチタテ ィーヴォ の ように聴 こえ最後 までそれ とわか らなか った と手厳 しい。 この論争 は,バ ーニーの帰国後 の 1 7 7 8 年, ドイ ツ人 のグル ックを擁 す るフランス派 とイタ リア人 の ピッチ一二 を支持 す るイタ リ ア派 による 「 第 2 次 プフォン論争」 として再燃す るのであ る。
2. バーニーの見解
次 にバ ーニーの主著である 『 音楽史』 の第 1 1 章,1 8 世紀 の フランス音楽 の記述か ら彼 の見解
を検討す る ( C .Bur ne y,1 7 7 6,pp. 964 ‑982) 。彼 は冒頭 で, フランス はイタ リアや ドイツ と同
様 に音楽 の保護育成 に努 めたが効果 はあ ま りなか った とす る。 フラ ンス音楽 の発展 を阻害 した
もの は, リュ リとその後継者 たちのオペ ラ様 式の固守 と ,1 8 世紀前半, ヨー ロ ッパ の他 の地域
に起 こった新 らしい動 きの無視であ り, それ はフランスに才能 ある音楽家が乏 しい とか,ル ソ ー らが言 うフランス音楽 を台無 しにするフランス語 の欠点 よ りも大 きい と述べ る。
ラモーの登場 は,移 り気 だ と非難 され るフランス人 に自らの音楽への限 りない信奉 を促 し, それ は他国の噸笑や侮蔑 に屈す ることはなかった とす る。彼の作品 は, その後 4 0 年以上 も人気 を維持 し, リュ リを基盤 としなが ら和声が豊かで旋律 は変化 に富 む。 その様式 は, フランス人 以外 にはどんなに不快であって もフランスで青 くまれ彼 の学識 と才能 によって完壁 に達 した も のである。 ラモーの和声論 の基本 となる根音バ ス ba s s ef o n d a me n t a l e と転 回のアイデアにつ いて は,彼が最初で はな くツァル リーノその他 もすでに言及 していた こと, また彼 の和声 シス テム は作 曲上不可欠の もので はな く, これ を知 らない大作 曲家 たちが和声的 に誤 まりを犯 して 作品の価値 を減ず ることにはな らない と結論す る。 しか し, ラモーの名声 に匹敵す る学者や芸 術家 は一人 もな く,彼 ほ どの天分 と能力がなければ音楽の最高支配者 として認 め られ まい, と バーニー は彼 に最大 の賛辞 を送 ることも忘れない。
1 7 5 2 年のイタ リアオペ ラ団のパ リ公演で最 も注 目を集 めたのは,ペル ゴレージの『 奥様女中』
で, リュ リの 『アシス とガラテア』の幕合オペ ラ として上演 された。 ル ソーの著名 な 『フラン ス音楽 に関す る書簡』 は, プフォン論争 のさ中に書かれた移 しい数のパ ンフレッ トの 1 つであ るが,感覚,趣味 にす ぐれ,道理 にかなっていたので, フランス伝統オペ ラの支持者か ら手 ひ どい反撃 を受 けた。彼 らはオペ ラ座 の前でル ソー を型 どった人形 を焼 き,フランス派の ド・ラ・
ボル ドは 「 敵意 と悪趣味,乏 しい判断力 と矛盾 に満 ちたひ どい論文」 と評 した。
ル ソー以後 のフランスのオペ ラ ・コ ミックの作曲家 たち,デュー二や フイリドール,モ ンシ ニー は, フランス語 にイタ リア風 の旋律 を施 して, フランス人 をイタ リア音楽 びい きに仕向 け ていった。オペ ラ ・コ ミックの完成者 はベルギーに生 まれ, イタ リアに学んだグレ トリーであ る。バーニー は彼 を当代一流の作 曲家 と称 えなが らも,彼が フランス人 の趣味 を向上 させた代 わ りに自らの趣味 を損 った こと, もし彼が主義 を貫 いて,言葉 の才能やす ぐれた歌唱スタイル, フランスの誇 りを もって望 めば安易 な妥協 は生 じなかった, と惜 しんでいる。ル ソーの 『 音楽 辞典』 について は,誤 まりはあるが,す ぐれた論文 の数々 と洗練 された趣味,オペ ラに対 す る すぼ らしい見解,音楽 の技法 に関す る簡潔,明瞭で面 白い定義が見受 けられ るとした。
バーニーのフランス音楽 に対す る評価 は次 のように要約 され る。つ まり, フランスで心か ら 感動で きるす ぐれた音楽 と演奏 に出会 えれば, それ は進歩 に相違 ない。 そのためには, リュ リ とラモー をす っか り忘れ去 り,全 く異 なる歌唱法 を取 り入れ確立 しなけれ ばな らない。 もしそ うでなければ, どんなに偉大な作 曲家が最良の詩人 の協力 を得 て改革 を試 みて も無駄 になるだ ろう。彼 はフランス音楽の近代化 のために技本的改革 の必要性 を といている。
また 『 大陸音楽紀行』 の中で,バーニー はナポ リのオペ ラ体験 を通 じて, フランス, イタ リ アのオペ ラ比較論 を展開 している ( Sc ho l e s , 1 9 5 9,p p. 2 7 7‑2 7 8 ) 。彼 はまず 『イタ リア旅行記』
を著 したフランス人, ド・ラ ・ラン ドの意見 を引用す る。 それ による と,イタ リアオペ ラは音 楽 と言葉 にす ぐれてい るが,( ∋精巧な機械仕掛 け,②豪華絢欄 たる衣装,③役者 の人数 と役柄 の種類,④ す ぐれた合唱部分がそれぞれ少 な く,⑤歌 と舞踊 の不統一, とい う 5 つの点で フラ ンスオペ ラに劣 るとい う。バーニー はこれ に批判 を加 え,真 の音楽愛好家 な らばイタ リアオペ ラの方が はるかによい と答 えるはずだ と断言す る。 さらに, ド ・ラ ・ラン ドのア リアが装飾過 剰 で朗唱やジェスチ ャーが軽視 されている という評価 に も,イタ リア人 は朗唱が うま く卓抜 な
る役者である と反論す る。
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今 井 民 子一方, フランス音楽 に対す るバーニーの批判 は痛烈である。例 えば, リヨンで聴 いたグレ ト リーのオペ ラの歌 は,表現 は間違いだ らけで,金切 り声 とがな り声 と トリル は胸 が悪 くなるほ どであ り, またパ リの音楽 について は, フランス音楽の表現が フランス人以外 のすべての ヨー ロッパの人々 に嫌われているのは有名 である とす る ( Sc hol e s ,1 9 5 9,pp. 3 0 9‑3 1 0 ) 。 この他,
『 大陸音楽紀行』で フランス音楽の作品,演奏のまず さとそれ に満足す る聴衆 を批判 した記述 は枚挙 にい とまがない。要す るに, イタ リアオペ ラには, フランスオペ ラの舞台装置や衣装, 舞踊 な どの視覚美 に匹敵す る音楽の魅力があふれているとい うのがバ ーニーの結論 といえる。
Ⅰ Ⅰ. 翻訳オペ ラ 『 知恵者』 について 1 .成立事情
1 7 6 4 年,妻 に先立 たれたバ ーニー は, 2 人 の娘 の教育 のために最初 のパ リ旅行 を企 てるが, この時彼がル ソーの 『 村 の占師』 を観 たのはほぼ間違 いない ( 以下, Sc hol e s ,1 9 4 8,p p. 1 0 7‑
117)
。当時,著述家 として世 に出 るきっか けを模索 していたバーニーに とって, この 『 村 の占 師』の翻訳上演 は, ささやかで はあるが彼 の初仕事 となった ( F. Bur ne y, 1 8 3 2, p. 1 6 5 ) 。 ロン ド ンの著名 な俳優 で興業主のギ ャ リックも,同 じ頃パ リで 『 村 の占師』 を観 てお り, 2 人 は帰国 後直 ちにこのオペ ラの翻訳上演 に とりかか る。オペ ラは 『 知恵者 TheCu nni n gMa n 』 ( 当時, 村人 たちのよろず相談 に応ず る田舎 の占師 を意味す る)のタイ トルで 1 7 6 6 年
11月 2 1 日に初演 さ れ る。原作者 のル ソー は,同 じ頃 ジ ョージ I I I 世の庇護 を受 けてイギ リスに逗留 していたが, ロ ン ドンを離れて 『 告 白』の執筆 に恵念 していたので翻訳オペ ラは観 ていない。 それ を証拠 に, 4 年後,バーニーがル ソー を訪ねたお り,ル ソー は初 めて翻訳 オペ ラの作者がバーニーである ことを知 るのである。
バ
ーニーの娘 のファニーによると,初 日の印象 は次 の とお りである。序曲の後,大 きな拍手 が起 こる と,バーニー とギ ャリックは聴衆 に会釈 した。オペ ラの半 ばまで聴衆 の称賛 は続 いた が,やがてそれ は驚 きか ら憤慨へ,ついには失望 に変わ り,非難 のや じとキャッ トコール ( 描 の鳴 き声 のす る劇場用の小笛)の音で うるさ くなったが,再 び喝采が起 こり満足 げな雰囲気が 戻 った。お客 の中でプログラムを読 む ものは少 な く,彼 らは 3 人 の主役以外 に も登場人物 を期 待 したので,場面が変わ るごとに失望 は増 していった。芝居 はイギ リス人 ( J o hnBu l l )の娯楽 として は筋 の錯綜 と変化 に欠 けるが,音楽 の旋律 は素朴で美 し く, とりわ け中流階級 の趣味向 上 に一役買い, また上流階級 に もしば しの楽 しみ となった ( F.Bu r n e y,1 8 3 2,p. 1 6 5, 1 6 9 ) 。オ ペ ラは 3 ヶ月以上 ,1 4 回上演 されJ : ;が,大当た りとい うほどで はなか ったO
公演が始 まって まもな く, 『 一般新聞』に 3つの批評文が掲載 され るが, この うち 2つ は当時 ロン ドンを二分 していたル ソー対 ヒュ‑ム論争 にまつわ るものだった。 イギ リスの哲学者 ヒュ
‑ム は, はじめル ソーの熱心 な崇拝者 で彼 をイギ リスに招 き国王 の庇護 を とりつ けたが, 2 人 はまもな く仲違 い したため, それぞれ偉大 な文人 を援護 す る人々が激 し く対立 した。批評 の一 つ は,バーニーの 『 知恵者』公演 の うるさいや じにふれ,豊かな人間味 と感受性 のために誤解 されイギ リスを追われたル ソーを攻撃す るの はやめて,彼 を正当に評価すべ Lとい うものだっ た。 もう一つ は,原作が外国作品だ とい う理 由でその価値 を認 めない,偏狭 な愛国主義者 たち を非難す るものだった。 さらに, 『 村 の占師』の 2 つのア リアがイタ リアオペ ラのパ ロデ ィか ら 取 られた とい う剰窃問題 も浮上す るが,事実 はその逆であることが明 らか となる。
最後 に 『 知恵者』 の出版状況 についてふれてお こう。 リブレッ トは少 な くとも 6 版発行 され,
はじめの 2 版 は初演 の年である。ア リア集 はロン ドンの著名 な楽譜出版者,R. プレムナ一によ り出版 され, この他 に もジャーマ ン ・フルー トとギターのための楽譜, さらに このオペ ラの踊 りやパ ン トマイム用の器楽 曲集 も知 られてお り,バーニーのオペ ラの人気のほ どが窺 える
。2. ル ソー との会見
バーニーがル ソーにやっ と会 えたのは,長 いイタ リア旅行 の後,帰国前 に再 びパ リに戻 った ときだった。彼 はル ソーが心 を許す数少 ない友人 の一人である書籍商 のギに案 内を乞 い,万全 を期 して手紙 もしたためた。念願 のル ソー との会見 の模様 は, 『 大陸音楽紀行』に極 めて印象的 に記 されている ( Sc hol e s ,1 9 5 9,pp. 3 1 3‑3 1 5 )
0ル ソー はグルネル通 りにあるクレヨン画家 の小 さな家 の 6 階 に住 んでお り,気難 しい性格 の ために多 くの人が彼 にひ じ鉄 を食 らった話 を聞いているバーニー は,大変緊張 して階段 を上 っ てい く
。ベ ッ トのある小 さな部屋で,晩年の伴侶 であるラ ・グヴェルナ ン ト夫人 ( テレーズ ・
ド ・ヴ ァス‑ル) と一緒 にいたル ソー は,毛糸のナイ トキャップをかぶ り,大 きな外套 をはお ってス リッパ をはいた 「山の ような男」であった。彼 の応対 は意外 に も丁重で,暖炉 のそばの 一番 よい席 をすすめて くれた。バーニー はまず,ル ソーの 『 音楽辞典』がイタ リアで よ く読 ま れ, ことにマルテ ィーニ神父が重用 している話 をして彼 を喜 ばせた後,イタ リアの音楽情況 に ついて彼 と意見 を交わ した。 2 人 は終始考 えを同 じ くし, ヴェネツィアの コンセルヴ ァ トー リ オ,ガル ツピ,サ ッキーこ,ナポ リのオペ ラや ヨメ ッリ, ピッチ一二, ローマのシステ ィーナ 礼拝堂 とサ ン ・ピエ トロ聖堂 と話 を移 し, さらにバーニーがサ ン ・ピエ トロ聖堂 の大合唱 は少 しも耳障 りでないのに,パ リのコンセール ・ス ピリテユエルの合唱 は 3 分 の 1ほ どの人数 なの にひ どい音でびっ くりした とい うと,ル ソー は大笑 い した。
2 人 の話がギ リシャ人 の古代楽器や レチタティーヴォ,和声,旋律 か らル ソーの重要な音楽 概念である 「 旋律 の統一 性」 に及 び, この理論 を発表 したのが 『 村 の占師』 を作 曲 した頃で, はじめこの理論が理解 されなかった とル ソーが話 したのを機 に,バーニー はそのオペ ラの翻訳 者が 自分であることを告 げた。ル ソー は, この翻訳オペ ラが評判 になったのはすでに聞いてい たが,翻訳者がバ ーニーであることを初 めて知 り, 2 人 はます ます意気投合 し,バーニー は帰 国後す ぐに楽譜 を送 ることを約束す る
。彼 は小柄 だが,黒 い眉 と小 さ くて鋭 い目をしたその表 情 は生 き生 きとしていた。
次 にバーニーが, フランス語で書 いた彼 の 『 音楽史』の草稿 の進呈 をル ソーに申 し出た とこ ろ,彼 は熱心 に目を通 し親切 な助言 を与 えた。最後 にバーニー は, ヨメ ツリの 『 受難 曲』 とバ ーニーの 『 知恵者』 を送 ることを再度約束 し, 2 人 は大変仲 よ く別れた。ル ソーの態度 は,か みつ くことも打 ち倒 す こともな く友好的であ り,彼 はバーニー との楽 しい音楽談義 に礼 を述べ た。別れ際,ル ソー は戸 口近 くに掛 けたイギ リス国王 ジ ョージⅠ Ⅰ Ⅰ 世 の肖像版画 をバーニーに見 せ,かつて愛顧 を得 た君主への変わ らぬ敬愛 を示 した。バーニー はル ソー との出会 いを,大陸 の学識 ある独創的な人々 との私的交友 の極 めて幸運 な しめ くくりである とし,大いに意 を強 く して帰国の途 につ くのである
。I l l.作品分析
ここで は,バーニーの『 知恵者』の リブレッ トと楽譜 を分析す る。表紙 には,娯楽音楽 Mu s i c al
Ent e r t ai nme nt とい うジャンル,ドル リー・レー ンのロイヤル劇場で上演,ル ソーの『 村 の占師』
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今 井 民 子を原作 にバーニーが翻案 した ことが明記 されているO役名 は, コランと占師 は同 じだが, コレ ッ トは Phoe be となってお り,歌手 は占師 をチ ャンプネス,コ リンをヴェルノン,フェ‑ベ をア
‑ ン夫人がそれぞれ演 じている。場面構成 は,原作 の 1 幕 8 場が 2 幕 にな り場 の表示 はな
い 。台本 は ト書 きも含 めて原作 をほぼ忠実 に意訳 した もので, ア リアで はル ソーの歌詞 も併記 さ れ,旋律 は歌詞の変更 に伴 う若干 の リズムの変化 を除いて原作 と同 じである
。ただ し,ル ソー が総譜で記譜 しているのに対 し,バーニー は 3 段譜 にまとめ,上段 にヴ ァイオ リン, 中段 にヴ ィオラ と歌,下段 にバ ス‑ ンと通奏低音 を書 き入れている( 楽譜 1 ) 。伴奏楽器 の一部 に原作 と 異 なる省略や付加が見 られ るが,強弱,速度,表情記号 の指示 は同 じである
。楽譜 1
バーニーの楽譜 は,家庭で楽 しむア リア集 として出版 された もので, レチタテ ィーヴォは全 くな く,劇 中の器楽 曲 もほ とん ど省略 されている
。バーニーが作 曲 したレチタテ ィーヴォの手 稿譜が残 されているようだが,入手が難 し く実態 は不明である ( Sc hol e s ,1 9 4 8,p. 1 0 9)
。原作 の器楽曲でア リア集 に含 まれ るもの は, イタ リア風 の序曲 と終わ り近 く,恋人 たちのデュェ ッ トに先立つ短 いプレリュー ドだけである
。ことにル ソーが フランスオペ ラの伝統 に従 って丹念 に作曲 した最後 のデイヴェルテイスマ ンは,このオペ ラの大団円を飾 るもの として重要で,ダ・
カーポ形式の大規模 な合唱や黙劇,数多 くの舞曲か らなるが,黙劇 や舞曲の一部 は台本か らも 削除 されている
。楽譜 2
ア リアで は,新 たに 2 つのア リアが付加 されている。 1 つ は, 占師か ら恋人 を とりもどす策 をさず けられた フェ‑ベが歌 うア リア ( 『 彼 をか らかい じらしてや る』)で,素朴 な民謡風 のル ソーのア リア と比べて,言葉 の反復 が多 くコロラ トゥ‑ラ も見 られ る ( 楽譜 2 ). もう一つ は,
1幕最後 で占師が 自分 の手並 みに満足 して歌 うア リア ( 『 人 はわ しらが星 で占 うと思 っている』) で, こち らは舞 曲風 の軽快 な有節 ア リアであ る。 さらに, コ リンの ロマ ンス 『ぼ くの薄暗 いあ ば ら屋 に は』 で は,原作 の旋律 がかな り装飾化 され,言葉 の反復 もあ る ( 楽譜 3, 4) 。 その 他, ア リアに関す る相違点 は,一部 に短 い器楽前奏,後奏が加 わ った こと, また恋人 の和解 の デ ュエ ッ ト ( 『コ リンが私 を好 いて くれた うちは』)で, フェ‑ベ の部分 が gmol lにな るべ きと ころ, その前 の コ リンの G Dur の旋律 を反復 す ることな どである。
楽譜 3
J bt L ̲ ̲Ch
iob=̲Jt+tL7El' Yc l t .
a̲ I . t e l lot
JnrOI̲Jl
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J, . 70 I r .J E ' ■ r● t ■ t O II J o n
楽譜 4 ル ソーの原曲
‑ ∫ c I T f . ■Or
he T ‑ t rJ t ee I . I ̲bo t L r一■ h r ●
h h
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・‑‑ I,・t 。 一 二 b サ 7 ' d
TL ‑≠
●t Tr l
̲メ .tLt.P・ r 血甲 血
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寧 千 = i j ; ‑ i 華 蔀 叫 J I d + ‑ 7 T 7 ■ 1 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ‑ ■ l l l ■ ヰ 仕 ■ 1 ‑
‑二重覇 1 1 ■ ■
′ ′ ′ ′ ′■ ノ ′ ′ ′′′
以上 の ように,バ ーニーの翻訳 オペ ラはル ソーの原作 に概 ね忠実 に倣 いなが ら,原作最後 の 黙劇 や舞 曲の大幅 な削除, イ タ リア風 ア リアの追加 と改変が認 め られ, これ らはル ソーの愛 し たフランス伝統 のオペ ラ手法 を排 した, よ り強 いイタ リア趣味 のあ らわれ といえよう。バ ーニ ーの行 った省略や改変 について は不満 の声 もあった ようだが ( Schol es,1 948,pp. 11 4‑11 5) , ル ソー 自身 は翻訳 オペ ラを送 って もらったバーニーへの礼状 の中で,彼 の改変 はイギ リスの趣 味 に従 っての ことだ ろうか ら,自分 は何 もい うつ もりはない,と明言 を避 けている( F.Bur ney , 1 832,p. 257) 0
参考文献
今井民子
ルソーの自然思想 と 1 8 世紀オペラ,弘前大学教育学部紀要第6 8 号,1 9 9 2
今井民子