奈良教育大学学術リポジトリNEAR
奈良県の軍事援護事業と御楯女子学院
著者 後呂 忠一
雑誌名 高円史学
巻 11
ページ 21‑39
発行年 1995‑10‑01
その他のタイトル Defense‑supporting Projects in Nara and the Mitate‑Joshi‑Gakuin (御楯女子学院)
URL http://hdl.handle.net/10105/8721
奈良県の軍事援護事業と御楯女子学院
は
じ め
に
後 呂 忠 一
一九三七年︵昭和一二︶七月七日︑慮溝橋事件を契機に日本軍は中国に対して全面戦争を展開した︒しかし︑中国軍のね
ぼり強い抵抗によって︑日本軍はいわゆる﹁点と線﹂しか占領することができず長期戦の泥沼に落ち込んでいった︒兵力動
︵ 1
︶
員数は四一年約二四〇万人︑四三年約三四〇万人︑四五年八月約七〇〇万人と言われ︑戦没者は︑軍人・軍属は約二一〇万
︵ 2
︶
人︑準軍属が約二〇万人︑一般邦人約八〇万人︵戦災五〇万人・外地三〇万人︶計約三一〇万人であると言う︒戦争の激化
により︑政府をはじめ道府県や市町村では︑軍事援護事業の推進に力を入れるようになった︒軍事援護事業とは︑出征軍人
が︑﹁尽忠奉公の働きを全うせしめ得るために精神的物質的の凡ゆる援助を将兵並びに其の遺家族に与えることを目的とす
︵ 3
︶
る国家的並びに民間篤志家的活動を指称﹂することである︒本稿では︑まず日中戦争下の政府や奈良県の軍事援護事業につ
いて概説し︑そのあと︑奈良県独自の援護事業と言われ︑これまで論文として発表されていない﹁御楯女子学院﹂について
詳 述
し て
み た
い ︒
一21−
一奈良県の軍事援護事業
1 軍事扶助法と軍事援護団体
政府は︑軍事援護事業を推進するために︑一九三七年︵昭和一二︶に︑それまでの軍事救護法を改正し︑軍事扶助法を三
月三一日に公布︑七月一日から施行した︒この法律は﹁我が国軍事援護事業の枢軸をなすものであって︵中略︶兵役義務の
︵ 1
︶
履行に因って生活困難に陥った傷病兵及び下士官兵の遺族家族に対する扶助の法規﹂ であった︒この法律の実施状況は︑
︵ 5
︶
四三年で被扶助者約二〇〇万人︑扶助金額約一億円で︑他の﹁一般救貧法に対し圧倒的多数を占め﹂ていた︒扶助の種類で
︵ 6
︶
は︑生活扶助が大部分を占めていたが︑生活扶助のうち居宅扶助は初め一人一日三五銭で︑家族の人員が増えるにつれ逓減
され︑地方の実情によって増額された︒経費は全額国庫負担で︑扶助額は戦時インフレの進行とともに増額されていっ態
︵ 7
︶
政府は︑軍事援護事業を行う行政機関として︑三九年七月一五日に︑軍事保護院を新設し︑以後軍事扶助法の実施をはじ
め軍事援護事業はすべて同院で総括的に取扱わせることにし慰民間の軍事援護団体としては︑三八年二月五日に︑恩賜
財団軍人援護会の設立が許可され︑その支部が各道府県に設けられた︒以後︑政府は軍人援護会以外の軍人援護団体を認め
︵ 1
0 ︶
ない方針をとり︑会の本部と支部の事務を厚生省と道府県庁に執行させた︒この団体は﹁事実上の官製団体﹂ と言えよう︒
なお︑市町村の援護活動を推進するために︑従来から帝国在郷軍人会とか出征軍人後援会などが設置されていたが︑三九年
一月一四日に︑政府から銃後奉公会設置に関する通牒が出され︑各市町村に銃後奉公会が結成されることになった︒以後︑
へ‖︶
これが︑市町村における援護事業の中枢団体になったのである︒政府の軍事援護事業の主な問題として︑佐賀氏は﹁軍事扶
助の絶対額の低さと制限的な支給﹂を挙げ︑﹁扶助金の平均額は大阪市の場合で月三二円余り︑石川県の場合に至っては
−22−
︵12︶
一六円余りに過ぎず︑それのみによる生計維持の困難は明白である﹂と述べている︒
2 軍事援護事業の大綱
︵
1 3
︶
政府の軍事援護事業が進捗する中で︑奈良県学務部社会課では︑一九三八年︵昭和一三︶九月に﹁軍事援護事業の大綱﹂
︵以下︑﹁大綱﹂と略記︶を発表した︒そこでは︑援護事業の具体的な施策を次のように述べている︒
一 ︑ 軍 事 扶 助 法 に 依 る 扶 助 ・ ・ ・ 生 活 扶 助 ︑ 医 療 扶 助 ︑ 助 産 扶 助 ︑ 生 業 扶 助 ︑ 埋 葬 費 及 災 害 一 時 扶 助 金 品 の 給 与
二 ︑ 軍 事 扶 助 法 以 外 の 援 護 ・ ・ ・ 軍 事 扶 助 に 準 ず る 者 の 扶 助 ︑ 軍 事 扶 助 法 に 該 当 せ ざ る も 栴 々 生 活 困 難 な る 者 の 扶 助 ︑ 保 育 費 の 支 給 ︑
県 税 市 町 村 税 及 公 営 の 電 気 水 道 使 用 料 の 減 免 ︑ 授 業 料 等 免 除 ︑ 電 灯 料 免 除 ︑ 入 営 及 応 召 軍 人 の 処 遇 ︑ 応 召 商 工 業 者 の 営 業 継 続 援 助
なお︑﹁大綱﹂では︑軍事扶助法に依る生活扶助として﹁市部は一人一日最高四二銭︑郡部は三十五銭の割合を以て︵所
帯員数の多くなるに従って扶助日額は逓減される︶その所帯の収入状況を参酌して扶助日額を決定﹂するとしている︒奈良県の
援護事業の団体とその活動については︑﹁大綱﹂に次のように述べている︒
1︑支那事変出動兵士奈良県後援会・・・出動軍人軍属其の他の慰問慰籍︑同家族の慰籍慰問救他︑戦病死者遺族及傷病者並其の家
族の慰問慰籍︑武運長久祈願祭︑慰霊祭の執行等など
2︑市町村軍人後援会・・・出動軍人遺家族の慰問慰籍︑勤労奉仕︑生活困難者に対する補充的扶助など
3︑その他の各種団体⁚・帝国軍人後援会奈良支会︑奈良県奨兵会︑帝国在郷軍人会奈良支部︑愛国婦人会奈良県支部︑大日本国
防 婦 人 会 奈 良 支 部 ︑ 青 年 団 な ど
県では︑このほかに各種の施策を行っているが︑それは︑後掲の﹁決算報告書﹂の項目を見てほしい︒﹁大綱﹂の発表後︑
︵
1 4
︶
県では︑三八年一〇月四日に﹁戦没者遺児育英規程﹂を定め︑学資を年額二〇〇円の範囲内において交付することにした︒
ー23−
翌三九年五月一二日には︑﹁戦没者遺族授職補導規程﹂を定め︑戦没者の妻や弟妹などに︑﹁独立自営ノ素地ヲ作ラシムル為﹂
︵
1 5
︶
に授職補導を行い︑それに必要な﹁修業費助成金﹂を年額一五〇円の範囲内において交付することにした︒そして︑同日付
で各市町村長に通達した︒
恩賜財団軍人援護会の設立にともない︑奈良県では︑支那事変出動兵士奈良県後援会と帝国軍人後援会奈良支会が統合さ
れ︑恩賜財団軍人援護会奈良県支部が設置された︒その会則︵三八年一二月一日施行︶によると︑会長に知事︑副会長に学務
︵ 1
6 ︶
部長・奈良連隊区司令官など︑常務理事に県社会課長が就任することに定められ︑事務所は奈良県庁内に置かれた︒次に︑
銃後奉公会の結成により︑奈良県では︑四〇年二月六日付で県学務部長から各市町村長宛に通達が出され︑今後︑銃後奉公
会に﹁統合セザル軍事援護団体ハ速二之ガ統合ヲ図り︑真二同会ガ市町村ニオケル軍人援護ノ中枢団体タルノ体制ヲ整備ス
ルコト﹂を指示し︑事業細目例をいくつか掲げてい璽各市町村の具体的な援護活動については︑筆者が調査した五つの市
︵ 1
8 ︶
町村では︑﹁出征軍人後援会﹂や﹁銃後奉公会﹂を中心として次のような援護活動を行っている︒これは︑他の町村でもは
ぼ同様であろう︒
○ 出 征 軍 人 の 歓 送 ︑ 英 霊 の 出 迎 え ︑ 市 町 村 葬 ・ 慰 霊 祭 の 執 行 ︑ 出 征 兵 士 の 武 運 長 久 祈 願 の 神 社 参 拝 ○ 慰 問 袋 ・ 慰 問 金 ・ 慰 問 文 ・ 慰
問 書
画 な
ど の
贈 呈
○
傷 病
兵 ︑
傷 痍
軍 人
の 見
舞 い
○
遺 族
・ 家
族 に
対 す
る 勤
労 奉
仕 ︵
稲 刈
り ︑
麦 刈
り な
ど ︶
○
市 町
村 税
・ 電
灯 料
・ ラ
ジ オ 聴 取 料 ・ 水 道 料 ・ 授 業 料 な ど の 免 除 ○ 慰 安 会 ︵ 演 芸 会 ・ 運 動 会 ・ 音 楽 会 な ど ︶ の 開 催 ○ 身 上 相 談 所 の 開 設 ︑ 授 産 所 の 設 置 ︑
御 楯
女 子
学 院
の 開
設 ︵
後 述
︶
○ 銃
後 後
援 強
化 週
間 の
実 施
○
軍 人
後 援
会 ・
銃 後
奉 公
会 の
会 費
︑ 事
業 資
金 の
徴 収
そのはか︑﹁戦傷病没軍人軍属ノ寡婦﹂に教員の資格をとらせ︑﹁自活ノ途ヲ得﹂させるために︑三九年九月一一日から︑
奈良女子高等師範学校に﹁奈良特設幼稚園保母養成所﹂︵修業年限は一か年︶を併設し︑同年四月二日に﹁奈良特設中等教
−24一
奈良県の軍事援護費
科 I l 1別1 (l昭和 16 ) 1糾3 (昭和 18 ) 一 骨 川風進 中 火 柚 譲 所 費
日 銭 4 , 3 58 . 00
日 銭 3, 08 1, 43 18 3, 8 40 , 34
甲 事援 遊 相 談 所 費 8 , 30 0, 00
年 事接 、 乱 打 ㌘ 18 4 , 5 6 0, 93
7 , 60 0, 00
傷 痍 甲 人 r 弟 育 英 事業 費 12 , 7 00 , 00
戦没 ポ 追 放 授 職補 導 助 成 費 19 , 9 99 , 85
パ 集 解 除 者 /!業 肱 進講 費 1 1, 2 78 , 78 2 3, 4 70 . 09 遺 家 族 教 化 指 導 費 5 , 9 5 9, 90 8 , 4 00 , 00 戦 没 者遺 児 育 英 事 業 費 6 , 10 6, 53 12 , 7 00 , 00 帰 郷 叩 人 援 護 指 導 事 業 費 2 , 8 5 9, 5 9 2, 48 5 , 70 銃 後 奉 公 会 専 任 職 員 設 置 費 補 助 7 , 8 0 0, 00 14 , 7 00 , 00
13 , 3 29 , 13
戦 没 者 遺 族 慰 問 費 2 , 23 0, 0 0
壮 1− 表 彰 費 11 1, 83
地 方 叩 事 援 護 相 談 所 費
銃 後 奉 公 会 連 合 会 専任 職 H 逓 闘 肋 班 3 , 9 00 , 00
傷 班 隼 人 職 業 楳 詭 施 設 費 ユ3, 5 15 , 08
合 計 24 1 , 16 5, 56 3 12 , 123 , 62 歳 出 合 計 13, 2 5 1, 13 0, 54 18 , 78 2 , 4 14 , 73
︵19︶
員養成所﹂︵家政科︑修業年限三か年︶が開設された︒奈良県の軍事援護
︵ 2
0 ︶
事業の内容と経費については︑各年度の﹃決算報告書﹄ に詳しい︒次
の表は︑2か年の内容と金額を示したものである︒表中の科目によっ
て︑当時の県の援護事業の内容がよく分かるが︑その中で最も金額の
多いのが軍事援護諸費である︒これは︑前述の軍事扶助法による生活
扶助や医療扶助などの費用であると思うが︑この額は全体の七〇%前
後も占めている︒なお︑戦没者の遺族に対する授職補導や子弟の育英
事業などの費用︑傷痍軍人や帰郷軍人などの生業援助や子弟育英事業
などの費用︑銃後奉公会関係の費用なども多い︒戦没者遺族授職補導
助成費の中には︑授産所や御楯女子学院︑特設教員養成所などの設立・
運営の経費などが含まれていると考えられる︒では次に︑御楯女子学
院について詳述することにする︒
一25−
二 御楯女子学院の開設
1 開設の経過
一九四〇年︵昭和一五︶一〇月には︑紀元二千六百年を記念して︑全国的に銃後奉公強化運動が実施された︒奈良県でも
七日から一一日にかけて実施されている︒同年一〇月三日には︑軍事保護院と恩賜財団軍人援護会の共催で︑紀元二千六百
︵
2 1
︶
年記念全国軍人援護事業大会が東京で開催された︒そのおり︑厚生大臣から軍事保護院に対して﹁軍人援護ノ強化徹底二関
スル件﹂についての諮問があり︑やがてその答申が出された︒その答申を受け︑同年一二月四日付で軍事保護院援護局長か
ら地方長官に通牒が出され︑翌年一月一〇日付で県学務部長から市町村長・市町村銃後奉公会長などに通達が出された︒そ
の通達によると︑前文で︑﹁挙国一致益々軍人援護ノ強化持続ヲ図り以テ聖戦ノ目的完遂二邁進セザルベカラズ﹂と述べ︑
実施項目をいくつか挙げている︒その項目の﹁軍人ノ遺族家族ノ援護﹂という中で︑﹁遺族家族ノ生活保全ヲ図ル為自営業
︵ 2
2 ︶
ノ維持︑家庭授産職業的技能ノ習得其ノ他就職斡旋等二付特段ノ支援協力ヲ為スコト﹂を強調している︒
これを受けてか︑県では︑四一年一月に︑軍人遺族家族の﹁邦文タイピスト﹂﹁看護婦﹂の養成に関する通達を出してい
毎つづいて︑同年二月四日付で︑県学務部長から各市町村長壷察署長・小学校長苑に︑﹁戦没者遺族授職補導ヲ主目的
︵ 2
4 ︶
トスル御楯女子学院開設及教育生募集二関スル件﹂の通達︵募集要項︶が出された︒学院が設置された異体的な経緯につい
て︑当時県の学務部社会課で軍人扶助の仕事を担当していた喜多藤松氏が次のように語っている︒
国の軍事保護院から軍人の遺族の授産施設を作れと言うてきたので︑社会事業主事の村田不見雄氏が中心になって︑遺族の婦女子
が自活できるようにするために︑和裁や洋裁などの技能を身につけさせる学院をつくろうと考えた︒その技能を教える学院が御楯女
子学院です︒御楯という名称は︑村田主事が﹃万葉集﹄の﹁今日よりは顧みなくて大君の 醜のみ楯と出で立つ我は﹂という防人の
歌から取ってつけました︒授産所は各地につくられていたと思いますが︑この名称や学院の規定まで作ったことは︑奈良県独自なも
のだったと思います︒そのほか︑学院旗や生徒の記章なども作りました︒学院は︑奈良市と宇陀郡神戸村と南葛城郡御所町の三か所
に設置しましたが︑そこにつくったのは︑軍人将校で在郷軍人分会の分会長や郡の支部長をしていて︑平素軍人援護事業に熱心に取
ー26−
り組んでいる嶋田常次郎氏と山連誠一氏と中川義雄氏に院長になってもらおうと言うことになり︑三氏の地元に設置したわけです︒
地 域
的 な
配 置
も 考
慮 し
た と
思 い
ま す
︒
2 学院の設置規程と学院規程
開設された学院は︑県下で三か所で︑その名称と場所は次のとおりである︒
○第一御楯女子学院 奈良市 ○第二御楯女子学院 宇陀郡神戸村︵現大宇陀町︶
〇第一二御楯女子学院 南葛城郡御所町︵現御所市︶
学院の経営主体は︑恩賜財団軍人援護会奈良県支部︵以下︑﹁援護会県支部﹂と略記︶で︑支部長は県知事であった︒喜多氏
の話では︑学院の経営を県から︑援護会県支部へ委任したという︒その後︑県や援護会県支部では︑一九四一年︵昭和二ハ︶
︵ 2
5 ︶
二月一九日付で﹁御楯女子学院設置規程﹂と﹁御楯女子学院規程﹂を制定した︵以下︑﹁設置規程﹂﹁学院規程﹂と略記︶︒﹁設置
規程﹂によると︑各学院には︑院長のはか指導員︑講師︑書記などを置き︑支部長の委嘱によって︑教護委員や顧問を置く
ことができると定められている︒学院の日的︑教育期間︑定員︑入学資格︑科目︑授業料などは︑﹁学院規程﹂ に次のよう
に定められていた︒
27
第一条 本学院ハ︑戦没者遺族ノ婦女子二対シ和洋裁縫編
物等女子必須ノ技能ヲ授ケ併セテ斉家上必要ナル
実習訓練ヲ行ヒ︑婦徳ヲ滴養シ将来裁縫師トシテ
独立自営ノ素地ヲ作ラシムルヲ目標トシテ之ガ知
識技能ヲ錬磨セシムルヲ以テ要旨トス 第二条 教育期間ハ三年ヲ原則トスルモ︑経験ノ有無及程
度ニヨリ教育生ノ個々二就キ之ヲ定ム
第三条 教育生定員ハ各学院凡三十名宛トス
第四条 教育ヲ受ケ得ル者ハ︑左ノ各号二該当シ ︵中略︶
一戦没者ノ寡婦︵事実上ノ妻タリシ者ヲ含ム︶
及 遺 児
二 戦没者ヨリ事実上扶養ヲ受ケ居りタル者︵中
略︶
第七条 教育科目左ノ如シ
一修身・・・道徳ノ要領︑作法
二 裁縫・・・和裁︑洋裁
三 手芸・・・編物及一般手芸
四
家 事
講 義
・ ・
・ 衣
類 整
理 ︑
食 物
経 済
︑ 育
児 ︑
看護
五 実習・・・料理︑洗濯︑染色
右 ノ 外 随 時 茶 儀 ︑ 生 花 及 習 字 其 ノ 他 ︵ 後 略 ︶
第八条 前条裁縫及手芸ハ必須科目トシ︑教育生ノ希望ニ
ヨリ和裁︑洋裁及手芸ノ内一科目ヲ専修セシム
第十五条 授業料ハ之ヲ徴収セズ
要するに学院では︑戦没者の遺族︵妻子や姉妹など︶に︑和裁や洋裁︑編物などの技術を身につけさせ︑将来独立自首し
て生計を維持できるようにしようとしたのである︒なお︑教育生の定員は各学院約三〇人とし︑原則として三年間教育する
ことになっていた︒また︑教育生は原則として︑寄宿舎に入ることとなっていたが︑付近に自宅のあるものや家庭の都合で
寄宿舎に入ることの出来ない者などは通学を許されていた︒なお︑﹁学院規程﹂とともに決められた﹁学院教育生志願者心
得﹂によると︑教育生には︑所要経費として次のような助成金や扶助費が支給されていたのである︒
教育生ノ家庭ガ総テノ費用ヲ自弁シ得ル者ノ外ハ︑戦没者遺族授職補導規程二依り家庭ノ資力其ノ他ノ事情ヲ参酌シテ︑年額百五十
円 ノ
範 囲
二 於
テ 助
成 金
ヲ 支
給 シ
︑ ︵
中 略
︶ 軍
事 扶
助 法
二 依
り 個
々 ノ
実 情
二 照
ラ シ
日 額
六 十
銭 以
内 二
於 テ
扶 助
セ ラ
レ マ
ス
︵ 2
6
︶
教育生の募集は︑四一年の春から夏にかけて行われ︑同年九〜一〇月には授業が始まった︒では次に各学院別に︑教育の
実情について述べてみよう︒
3 第一御楯女子学院
ー28−
学院の教室は︑初め登大路町四番地の嶋田院長宅の二階に置かれていたが︑その後鶴福院町の千歳屋旅館を買収して︑
︵
2 7
︶
一九四五年︵昭和二〇︶一月二三日にそこに移転した︒なお︑寄宿舎は﹁御楯寮﹂と称し︑東寺林町にあった︒院長は嶋田常次
郎氏で︑在郷軍人全寮良市連合分会長︑陸軍中尉であった︒指導員は和裁が東浦寿美子︑洋裁が嶋田順子︑中川範子︑宮地道子
の各氏であった︒授業は︑四一年九月に始まり︑開院式は翌年六月二二日に奈良県師範学校附属国民学校で行われた︒その
︵ 2
8
︶
日の夜は︑奈良会館で﹁軍人遺族の夕﹂が開かれ︑軍事保護院嘱託倉永菊千代氏の講演や慰安映画の上映などが催された︒
次に︑指導員の東浦寿美子氏と和裁生であった上森光子氏に︑当時の学院生活の様子について︑語っていただくことにする︒
私は若い頃︑仕立徳︵後の藤影学院︶で和裁を習って郷里の山辺郡都祁村に帰っていました︒昭和二年に東浦実と結婚しました
が︑主人は昭和一四年に中国で戦死しました︒両親と息子一人をかかえ︑その後の暮らしのことで思案していましたら︑藤影から和
裁を教えに来ないかと誘われ︑昼は御楯で夜は藤影で和裁を教えることにしました︒生徒は和裁生は一〇人ほどで洋裁生は一五人ほ
どでした︒奈良市内とその近辺のほか宇陀や吉野・田原・京都から来ていました︒遠方の子七人ほどは御楯寮に入っていました︒私
は子供を連れて寮に入り寮母を兼ねて住みこみました︒戦死者の妻は︑主人の調や自分の子供を養っていかなければなりませんから︑
授業では︑できるだけ早く技能を身につけ︑すぐに収入が上がるように真剣に教えました︒教育期間は三年が原則でしたが︑生徒の
中には二年ほどで終了し︑自宅で生徒をとって教えた子もいました︒学費や寮費などは県からの補助でまかなっていました︒その後︑
ー29一