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奈良県の軍事援護事業と御楯女子学院

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(1)

奈良教育大学学術リポジトリNEAR

奈良県の軍事援護事業と御楯女子学院

著者 後呂 忠一

雑誌名 高円史学

巻 11

ページ 21‑39

発行年 1995‑10‑01

その他のタイトル Defense‑supporting Projects in Nara and the Mitate‑Joshi‑Gakuin (御楯女子学院)

URL http://hdl.handle.net/10105/8721

(2)

奈良県の軍事援護事業と御楯女子学院

は  

じ め

  に

後     呂     忠   一

一九三七年︵昭和一二︶七月七日︑慮溝橋事件を契機に日本軍は中国に対して全面戦争を展開した︒しかし︑中国軍のね

ぼり強い抵抗によって︑日本軍はいわゆる﹁点と線﹂しか占領することができず長期戦の泥沼に落ち込んでいった︒兵力動

︵ 1

員数は四一年約二四〇万人︑四三年約三四〇万人︑四五年八月約七〇〇万人と言われ︑戦没者は︑軍人・軍属は約二一〇万

︵ 2

人︑準軍属が約二〇万人︑一般邦人約八〇万人︵戦災五〇万人・外地三〇万人︶計約三一〇万人であると言う︒戦争の激化

により︑政府をはじめ道府県や市町村では︑軍事援護事業の推進に力を入れるようになった︒軍事援護事業とは︑出征軍人

が︑﹁尽忠奉公の働きを全うせしめ得るために精神的物質的の凡ゆる援助を将兵並びに其の遺家族に与えることを目的とす

︵ 3

る国家的並びに民間篤志家的活動を指称﹂することである︒本稿では︑まず日中戦争下の政府や奈良県の軍事援護事業につ

いて概説し︑そのあと︑奈良県独自の援護事業と言われ︑これまで論文として発表されていない﹁御楯女子学院﹂について

詳 述

し て

み た

い ︒

一21−

(3)

一奈良県の軍事援護事業

1 軍事扶助法と軍事援護団体

政府は︑軍事援護事業を推進するために︑一九三七年︵昭和一二︶に︑それまでの軍事救護法を改正し︑軍事扶助法を三

月三一日に公布︑七月一日から施行した︒この法律は﹁我が国軍事援護事業の枢軸をなすものであって︵中略︶兵役義務の

︵ 1

履行に因って生活困難に陥った傷病兵及び下士官兵の遺族家族に対する扶助の法規﹂ であった︒この法律の実施状況は︑

︵ 5

四三年で被扶助者約二〇〇万人︑扶助金額約一億円で︑他の﹁一般救貧法に対し圧倒的多数を占め﹂ていた︒扶助の種類で

︵ 6

は︑生活扶助が大部分を占めていたが︑生活扶助のうち居宅扶助は初め一人一日三五銭で︑家族の人員が増えるにつれ逓減

され︑地方の実情によって増額された︒経費は全額国庫負担で︑扶助額は戦時インフレの進行とともに増額されていっ態

︵ 7

政府は︑軍事援護事業を行う行政機関として︑三九年七月一五日に︑軍事保護院を新設し︑以後軍事扶助法の実施をはじ

め軍事援護事業はすべて同院で総括的に取扱わせることにし慰民間の軍事援護団体としては︑三八年二月五日に︑恩賜

財団軍人援護会の設立が許可され︑その支部が各道府県に設けられた︒以後︑政府は軍人援護会以外の軍人援護団体を認め

︵ 1

0 ︶

ない方針をとり︑会の本部と支部の事務を厚生省と道府県庁に執行させた︒この団体は﹁事実上の官製団体﹂ と言えよう︒

なお︑市町村の援護活動を推進するために︑従来から帝国在郷軍人会とか出征軍人後援会などが設置されていたが︑三九年

一月一四日に︑政府から銃後奉公会設置に関する通牒が出され︑各市町村に銃後奉公会が結成されることになった︒以後︑

へ‖︶

これが︑市町村における援護事業の中枢団体になったのである︒政府の軍事援護事業の主な問題として︑佐賀氏は﹁軍事扶

助の絶対額の低さと制限的な支給﹂を挙げ︑﹁扶助金の平均額は大阪市の場合で月三二円余り︑石川県の場合に至っては

−22−

(4)

︵12︶

一六円余りに過ぎず︑それのみによる生計維持の困難は明白である﹂と述べている︒

2 軍事援護事業の大綱

1 3

政府の軍事援護事業が進捗する中で︑奈良県学務部社会課では︑一九三八年︵昭和一三︶九月に﹁軍事援護事業の大綱﹂

︵以下︑﹁大綱﹂と略記︶を発表した︒そこでは︑援護事業の具体的な施策を次のように述べている︒

一 ︑ 軍 事 扶 助 法 に 依 る 扶 助 ・ ・ ・ 生 活 扶 助 ︑ 医 療 扶 助 ︑ 助 産 扶 助 ︑ 生 業 扶 助 ︑ 埋 葬 費 及 災 害 一 時 扶 助 金 品 の 給 与

二 ︑ 軍 事 扶 助 法 以 外 の 援 護 ・ ・ ・ 軍 事 扶 助 に 準 ず る 者 の 扶 助 ︑ 軍 事 扶 助 法 に 該 当 せ ざ る も 栴 々 生 活 困 難 な る 者 の 扶 助 ︑ 保 育 費 の 支 給 ︑

県 税 市 町 村 税 及 公 営 の 電 気 水 道 使 用 料 の 減 免 ︑ 授 業 料 等 免 除 ︑ 電 灯 料 免 除 ︑ 入 営 及 応 召 軍 人 の 処 遇 ︑ 応 召 商 工 業 者 の 営 業 継 続 援 助

なお︑﹁大綱﹂では︑軍事扶助法に依る生活扶助として﹁市部は一人一日最高四二銭︑郡部は三十五銭の割合を以て︵所

帯員数の多くなるに従って扶助日額は逓減される︶その所帯の収入状況を参酌して扶助日額を決定﹂するとしている︒奈良県の

援護事業の団体とその活動については︑﹁大綱﹂に次のように述べている︒

1︑支那事変出動兵士奈良県後援会・・・出動軍人軍属其の他の慰問慰籍︑同家族の慰籍慰問救他︑戦病死者遺族及傷病者並其の家

族の慰問慰籍︑武運長久祈願祭︑慰霊祭の執行等など

2︑市町村軍人後援会・・・出動軍人遺家族の慰問慰籍︑勤労奉仕︑生活困難者に対する補充的扶助など

3︑その他の各種団体⁚・帝国軍人後援会奈良支会︑奈良県奨兵会︑帝国在郷軍人会奈良支部︑愛国婦人会奈良県支部︑大日本国

防 婦 人 会 奈 良 支 部 ︑ 青 年 団 な ど

県では︑このほかに各種の施策を行っているが︑それは︑後掲の﹁決算報告書﹂の項目を見てほしい︒﹁大綱﹂の発表後︑

1 4

県では︑三八年一〇月四日に﹁戦没者遺児育英規程﹂を定め︑学資を年額二〇〇円の範囲内において交付することにした︒

ー23−

(5)

翌三九年五月一二日には︑﹁戦没者遺族授職補導規程﹂を定め︑戦没者の妻や弟妹などに︑﹁独立自営ノ素地ヲ作ラシムル為﹂

1 5

に授職補導を行い︑それに必要な﹁修業費助成金﹂を年額一五〇円の範囲内において交付することにした︒そして︑同日付

で各市町村長に通達した︒

恩賜財団軍人援護会の設立にともない︑奈良県では︑支那事変出動兵士奈良県後援会と帝国軍人後援会奈良支会が統合さ

れ︑恩賜財団軍人援護会奈良県支部が設置された︒その会則︵三八年一二月一日施行︶によると︑会長に知事︑副会長に学務

︵ 1

6 ︶

部長・奈良連隊区司令官など︑常務理事に県社会課長が就任することに定められ︑事務所は奈良県庁内に置かれた︒次に︑

銃後奉公会の結成により︑奈良県では︑四〇年二月六日付で県学務部長から各市町村長宛に通達が出され︑今後︑銃後奉公

会に﹁統合セザル軍事援護団体ハ速二之ガ統合ヲ図り︑真二同会ガ市町村ニオケル軍人援護ノ中枢団体タルノ体制ヲ整備ス

ルコト﹂を指示し︑事業細目例をいくつか掲げてい璽各市町村の具体的な援護活動については︑筆者が調査した五つの市

︵ 1

8 ︶

町村では︑﹁出征軍人後援会﹂や﹁銃後奉公会﹂を中心として次のような援護活動を行っている︒これは︑他の町村でもは

ぼ同様であろう︒

○ 出 征 軍 人 の 歓 送 ︑ 英 霊 の 出 迎 え ︑ 市 町 村 葬 ・ 慰 霊 祭 の 執 行 ︑ 出 征 兵 士 の 武 運 長 久 祈 願 の 神 社 参 拝   ○ 慰 問 袋 ・ 慰 問 金 ・ 慰 問 文 ・ 慰

問 書

画 な

ど の

贈 呈

  ○

傷 病

兵 ︑

傷 痍

軍 人

の 見

舞 い

  ○

遺 族

・ 家

族 に

対 す

る 勤

労 奉

仕 ︵

稲 刈

り ︑

麦 刈

り な

ど ︶

  ○

市 町

村 税

・ 電

灯 料

・ ラ

ジ オ 聴 取 料 ・ 水 道 料 ・ 授 業 料 な ど の 免 除   ○ 慰 安 会 ︵ 演 芸 会 ・ 運 動 会 ・ 音 楽 会 な ど ︶ の 開 催   ○ 身 上 相 談 所 の 開 設 ︑ 授 産 所 の 設 置 ︑

御 楯

女 子

学 院

の 開

設 ︵

後 述

︶  

○ 銃

後 後

援 強

化 週

間 の

実 施

  ○

軍 人

後 援

会 ・

銃 後

奉 公

会 の

会 費

︑ 事

業 資

金 の

徴 収

そのはか︑﹁戦傷病没軍人軍属ノ寡婦﹂に教員の資格をとらせ︑﹁自活ノ途ヲ得﹂させるために︑三九年九月一一日から︑

奈良女子高等師範学校に﹁奈良特設幼稚園保母養成所﹂︵修業年限は一か年︶を併設し︑同年四月二日に﹁奈良特設中等教

−24一

(6)

奈良県の軍事援護費

科         I l 1別1 (l昭和 16 ) 1糾3 (昭和 18 ) 一 骨 川風進 中 火 柚 譲 所 費

日 銭 4 , 3 58 . 00

日 銭 3, 08 1, 43 18 3, 8 40 , 34

甲 事援 遊 相 談 所 費 8 , 30 0, 00

年 事接 、 乱 打 ㌘ 18 4 , 5 6 0, 93

7 , 60 0, 00

傷 痍 甲 人 r 弟 育 英 事業 費 12 , 7 00 , 00

戦没 ポ 追 放 授 職補 導 助 成 費 19 , 9 99 , 85

パ 集 解 除 者 /!業 肱 進講 費 1 1, 2 78 , 78 2 3, 4 70 . 09 遺 家 族 教 化 指 導 費 5 , 9 5 9, 90 8 , 4 00 , 00 戦 没 者遺 児 育 英 事 業 費 6 , 10 6, 53 12 , 7 00 , 00 帰 郷 叩 人 援 護 指 導 事 業 費 2 , 8 5 9, 5 9 2, 48 5 , 70 銃 後 奉 公 会 専 任 職 員 設 置 費 補 助 7 , 8 0 0, 00 14 , 7 00 , 00

13 , 3 29 , 13

戦 没 者 遺 族 慰 問 費 2 , 23 0, 0 0

壮 1− 表 彰 費 11 1, 83

地 方 叩 事 援 護 相 談 所 費

銃 後 奉 公 会 連 合 会 専任 職 H 逓 闘 肋 班 3 , 9 00 , 00

傷 班 隼 人 職 業 楳 詭 施 設 費 ユ3, 5 15 , 08

合          計 24 1 , 16 5, 56 3 12 , 123 , 62 歳   出   合   計 13, 2 5 1, 13 0, 54 18 , 78 2 , 4 14 , 73

︵19︶

員養成所﹂︵家政科︑修業年限三か年︶が開設された︒奈良県の軍事援護

︵ 2

0 ︶

事業の内容と経費については︑各年度の﹃決算報告書﹄ に詳しい︒次

の表は︑2か年の内容と金額を示したものである︒表中の科目によっ

て︑当時の県の援護事業の内容がよく分かるが︑その中で最も金額の

多いのが軍事援護諸費である︒これは︑前述の軍事扶助法による生活

扶助や医療扶助などの費用であると思うが︑この額は全体の七〇%前

後も占めている︒なお︑戦没者の遺族に対する授職補導や子弟の育英

事業などの費用︑傷痍軍人や帰郷軍人などの生業援助や子弟育英事業

などの費用︑銃後奉公会関係の費用なども多い︒戦没者遺族授職補導

助成費の中には︑授産所や御楯女子学院︑特設教員養成所などの設立・

運営の経費などが含まれていると考えられる︒では次に︑御楯女子学

院について詳述することにする︒

一25−

二 御楯女子学院の開設

1 開設の経過

一九四〇年︵昭和一五︶一〇月には︑紀元二千六百年を記念して︑全国的に銃後奉公強化運動が実施された︒奈良県でも

(7)

七日から一一日にかけて実施されている︒同年一〇月三日には︑軍事保護院と恩賜財団軍人援護会の共催で︑紀元二千六百

2 1

年記念全国軍人援護事業大会が東京で開催された︒そのおり︑厚生大臣から軍事保護院に対して﹁軍人援護ノ強化徹底二関

スル件﹂についての諮問があり︑やがてその答申が出された︒その答申を受け︑同年一二月四日付で軍事保護院援護局長か

ら地方長官に通牒が出され︑翌年一月一〇日付で県学務部長から市町村長・市町村銃後奉公会長などに通達が出された︒そ

の通達によると︑前文で︑﹁挙国一致益々軍人援護ノ強化持続ヲ図り以テ聖戦ノ目的完遂二邁進セザルベカラズ﹂と述べ︑

実施項目をいくつか挙げている︒その項目の﹁軍人ノ遺族家族ノ援護﹂という中で︑﹁遺族家族ノ生活保全ヲ図ル為自営業

︵ 2

2 ︶

ノ維持︑家庭授産職業的技能ノ習得其ノ他就職斡旋等二付特段ノ支援協力ヲ為スコト﹂を強調している︒

これを受けてか︑県では︑四一年一月に︑軍人遺族家族の﹁邦文タイピスト﹂﹁看護婦﹂の養成に関する通達を出してい

毎つづいて︑同年二月四日付で︑県学務部長から各市町村長壷察署長・小学校長苑に︑﹁戦没者遺族授職補導ヲ主目的

︵ 2

4 ︶

トスル御楯女子学院開設及教育生募集二関スル件﹂の通達︵募集要項︶が出された︒学院が設置された異体的な経緯につい

て︑当時県の学務部社会課で軍人扶助の仕事を担当していた喜多藤松氏が次のように語っている︒

国の軍事保護院から軍人の遺族の授産施設を作れと言うてきたので︑社会事業主事の村田不見雄氏が中心になって︑遺族の婦女子

が自活できるようにするために︑和裁や洋裁などの技能を身につけさせる学院をつくろうと考えた︒その技能を教える学院が御楯女

子学院です︒御楯という名称は︑村田主事が﹃万葉集﹄の﹁今日よりは顧みなくて大君の 醜のみ楯と出で立つ我は﹂という防人の

歌から取ってつけました︒授産所は各地につくられていたと思いますが︑この名称や学院の規定まで作ったことは︑奈良県独自なも

のだったと思います︒そのほか︑学院旗や生徒の記章なども作りました︒学院は︑奈良市と宇陀郡神戸村と南葛城郡御所町の三か所

に設置しましたが︑そこにつくったのは︑軍人将校で在郷軍人分会の分会長や郡の支部長をしていて︑平素軍人援護事業に熱心に取

ー26−

(8)

り組んでいる嶋田常次郎氏と山連誠一氏と中川義雄氏に院長になってもらおうと言うことになり︑三氏の地元に設置したわけです︒

地 域

的 な

配 置

も 考

慮 し

た と

思 い

ま す

2 学院の設置規程と学院規程

開設された学院は︑県下で三か所で︑その名称と場所は次のとおりである︒

○第一御楯女子学院 奈良市   ○第二御楯女子学院 宇陀郡神戸村︵現大宇陀町︶

〇第一二御楯女子学院 南葛城郡御所町︵現御所市︶

学院の経営主体は︑恩賜財団軍人援護会奈良県支部︵以下︑﹁援護会県支部﹂と略記︶で︑支部長は県知事であった︒喜多氏

の話では︑学院の経営を県から︑援護会県支部へ委任したという︒その後︑県や援護会県支部では︑一九四一年︵昭和二ハ︶

︵ 2

5 ︶

二月一九日付で﹁御楯女子学院設置規程﹂と﹁御楯女子学院規程﹂を制定した︵以下︑﹁設置規程﹂﹁学院規程﹂と略記︶︒﹁設置

規程﹂によると︑各学院には︑院長のはか指導員︑講師︑書記などを置き︑支部長の委嘱によって︑教護委員や顧問を置く

ことができると定められている︒学院の日的︑教育期間︑定員︑入学資格︑科目︑授業料などは︑﹁学院規程﹂ に次のよう

に定められていた︒

27

第一条 本学院ハ︑戦没者遺族ノ婦女子二対シ和洋裁縫編

物等女子必須ノ技能ヲ授ケ併セテ斉家上必要ナル

実習訓練ヲ行ヒ︑婦徳ヲ滴養シ将来裁縫師トシテ

独立自営ノ素地ヲ作ラシムルヲ目標トシテ之ガ知

識技能ヲ錬磨セシムルヲ以テ要旨トス 第二条 教育期間ハ三年ヲ原則トスルモ︑経験ノ有無及程

度ニヨリ教育生ノ個々二就キ之ヲ定ム

第三条 教育生定員ハ各学院凡三十名宛トス

第四条 教育ヲ受ケ得ル者ハ︑左ノ各号二該当シ ︵中略︶

一戦没者ノ寡婦︵事実上ノ妻タリシ者ヲ含ム︶

(9)

及 遺 児

二 戦没者ヨリ事実上扶養ヲ受ケ居りタル者︵中

略︶

第七条 教育科目左ノ如シ

一修身・・・道徳ノ要領︑作法

二 裁縫・・・和裁︑洋裁

三 手芸・・・編物及一般手芸

四  

家 事

講 義

・ ・

・ 衣

類 整

理 ︑

食 物

経 済

︑ 育

児 ︑

看護

五 実習・・・料理︑洗濯︑染色

右 ノ 外 随 時 茶 儀 ︑ 生 花 及 習 字 其 ノ 他 ︵ 後 略 ︶

第八条 前条裁縫及手芸ハ必須科目トシ︑教育生ノ希望ニ

ヨリ和裁︑洋裁及手芸ノ内一科目ヲ専修セシム

第十五条 授業料ハ之ヲ徴収セズ

要するに学院では︑戦没者の遺族︵妻子や姉妹など︶に︑和裁や洋裁︑編物などの技術を身につけさせ︑将来独立自首し

て生計を維持できるようにしようとしたのである︒なお︑教育生の定員は各学院約三〇人とし︑原則として三年間教育する

ことになっていた︒また︑教育生は原則として︑寄宿舎に入ることとなっていたが︑付近に自宅のあるものや家庭の都合で

寄宿舎に入ることの出来ない者などは通学を許されていた︒なお︑﹁学院規程﹂とともに決められた﹁学院教育生志願者心

得﹂によると︑教育生には︑所要経費として次のような助成金や扶助費が支給されていたのである︒

教育生ノ家庭ガ総テノ費用ヲ自弁シ得ル者ノ外ハ︑戦没者遺族授職補導規程二依り家庭ノ資力其ノ他ノ事情ヲ参酌シテ︑年額百五十

円 ノ

範 囲

二 於

テ 助

成 金

ヲ 支

給 シ

︑ ︵

中 略

︶ 軍

事 扶

助 法

二 依

り 個

々 ノ

実 情

二 照

ラ シ

日 額

六 十

銭 以

内 二

於 テ

扶 助

セ ラ

レ マ

︵ 2

6

教育生の募集は︑四一年の春から夏にかけて行われ︑同年九〜一〇月には授業が始まった︒では次に各学院別に︑教育の

実情について述べてみよう︒

3 第一御楯女子学院

ー28−

(10)

学院の教室は︑初め登大路町四番地の嶋田院長宅の二階に置かれていたが︑その後鶴福院町の千歳屋旅館を買収して︑

2 7

一九四五年︵昭和二〇︶一月二三日にそこに移転した︒なお︑寄宿舎は﹁御楯寮﹂と称し︑東寺林町にあった︒院長は嶋田常次

郎氏で︑在郷軍人全寮良市連合分会長︑陸軍中尉であった︒指導員は和裁が東浦寿美子︑洋裁が嶋田順子︑中川範子︑宮地道子

の各氏であった︒授業は︑四一年九月に始まり︑開院式は翌年六月二二日に奈良県師範学校附属国民学校で行われた︒その

︵ 2

8

日の夜は︑奈良会館で﹁軍人遺族の夕﹂が開かれ︑軍事保護院嘱託倉永菊千代氏の講演や慰安映画の上映などが催された︒

次に︑指導員の東浦寿美子氏と和裁生であった上森光子氏に︑当時の学院生活の様子について︑語っていただくことにする︒

私は若い頃︑仕立徳︵後の藤影学院︶で和裁を習って郷里の山辺郡都祁村に帰っていました︒昭和二年に東浦実と結婚しました

が︑主人は昭和一四年に中国で戦死しました︒両親と息子一人をかかえ︑その後の暮らしのことで思案していましたら︑藤影から和

裁を教えに来ないかと誘われ︑昼は御楯で夜は藤影で和裁を教えることにしました︒生徒は和裁生は一〇人ほどで洋裁生は一五人ほ

どでした︒奈良市内とその近辺のほか宇陀や吉野・田原・京都から来ていました︒遠方の子七人ほどは御楯寮に入っていました︒私

は子供を連れて寮に入り寮母を兼ねて住みこみました︒戦死者の妻は︑主人の調や自分の子供を養っていかなければなりませんから︑

授業では︑できるだけ早く技能を身につけ︑すぐに収入が上がるように真剣に教えました︒教育期間は三年が原則でしたが︑生徒の

中には二年ほどで終了し︑自宅で生徒をとって教えた子もいました︒学費や寮費などは県からの補助でまかなっていました︒その後︑

ー29一

旧千歳昆旅館の教室に移りました︒

︵ 東

浦 寿

美 子

私は山辺郡山添村勝原で︑井久保家の次女に生まれました︒父が昭和一三年一〇月に中国で戦死し︑そのあと︑母と姉︑妹︑祖父

母の生活となり︑苦労しました︒御楯ができたとき︑県の村田さんに誘われ︑昭和一七年一月に入りました︒それから御楯寮に入り︑

(11)

四年間和裁を東浦先生や嶋田先生︑中川先生に習いました︒袴など難しいものは︑﹁仕立徳﹂︵後の藤影学院︶から永井先生が来られ

教えてもらいました︒編物や習字なども習いました︒生徒は和裁が一〇人はど洋裁がその倍ほどいたように思います︒奈良市や郡山

第−一一御楯女子学院の院長、指導員、教育生

(嶋田大典、上森光子、岡本近子各氏蔵)

町︑轢本︑吉野郡の十津川村︑川上村︑上北山村からも来ていました︒材料は︑

衣料切符制の時代でしたので︑お店では買えず自分のものや藤影からまわして

もらったものなどを縫いました︒みんな︑和洋裁の先生になったり︑家族を養

わねばなりませんでしたから一生懸命に習いました︒部屋が少し狭かったので

二〇年一月に旧千歳屋へ移りました︒学院の記章は︑星︵陸軍︶に錨︵海軍︶・

楯をあしらったものです︒寮生活でしたので食料特に野菜の買出しに添上農学

校まで出かけました︒また︑戦時中でしたので︑学院旗を先頭に毎月八日に護

国神社へ参拝したり︑極楽坊の庭で竹槍訓練をしたり︑柳本飛行場の建設に勤

労奉仕に行ったりしました︒空襲警報が出ると︑防空頭布をかぶって院長さん

ー30−

学院の記章(東浦寿美子氏蔵)

の家の地下室に避難したことや︑みんなで伊勢神

宮に参拝し二見ケ浦に見物に行ったことも思いだ

します︒学院の月謝や寮の費用などは県から出て

いました︒終了式は昭和二一年三月三〇日に行わ

れ︑終了証害をいただきました︒これは私の宝物

で今でも大切に保存しています︒ ︵上森光子︶

(12)

第二御楯女子学院の院長、指導員、教育生(岡本近子氏蔵)

付 記   第 一 御 楯 女 子 学 院 の 教 育 生 に は ︑ 上 森 氏 の 他 に ︑ 朝 嘉 代 子 ︑ 稲 葉

和 子 ︑ 榎 田 允 子 ︑ 西 山 ナ ミ 工 の 各 氏 が お ら れ る こ と が 分 か り ︑ 九 二 年 四 月

一 九

日 に

東 浦

氏 や

上 森

氏 と

と も

に 奈

良 市

で 会

合 し

︑ 当

時 の

学 院

生 活

を 語

合 い

ま し

た ︒

4 第二御楯女子学院

学院の場所は︑宇陀郡神戸村拾生︵現大宇陀町︶ の大隠寺の境内

にあった︒院長は︑山遠誠一氏で松山町長を勤め︑陸軍中尉であっ

た︒指導員は︑和裁が森本コチヨ︑洋裁が岡本近子と松井照子︑

編物兼保母は巳野トヨ︑事務は藤川藤太郎の各氏であった︒その

はかに︑講師として︑三輪ますこ︵作法︑家庭︶︑中尾三郎︵一般教

養 − 古 今 集 講 読 ︶ ︑ 秦 春 栄 ︵ 花 道 ︑ 茶 道 ︶ ︑ 沢 井 新 介 ︵ 農 業 ︶   の 各 氏 が

いた︒また︑教護委員に増岡ユキ氏が同年五月七日付で任命され

2 9

︶ た︒創設は︑一九四一年︵昭和一六︶五月六日と言われ︑開院式は︑

翌年の六月二三日に松山国民学校で挙行︑同日夜には ﹁遺族慰安

︵ 3

0 ︶

の夕﹂が開催された︒

では次に︑指導員の岡本近子氏と教育生の沢井トモエ氏に当時

の学院生活の様子を語っていただこう︒

ー31−

(13)

私の家では︑長男が傷痍軍人となり︑四男が昭和一五年四月に中国で戦死しました︒私は山連院長先生のお招きで昭和ハ年の末

に学院に入りました︒しばらくして︑洋裁の先生の資格を得るために︑奈良の学校へ行き半年はど勉強しました︒その後一時第三御

楯で教えましたが︑又︑第二御楯へ戻り︑洋裁を教えました︒生徒は二〇人ほどで︑そのうち通学生は五人ほど︑寮生は一五人ほど

でした︒生徒はだんだん増えてきました︒山逮院長先生ご夫妻は︑いつも献身的な温かいご指導をして下され︑遺族が幸せになるよ

うご尽力下さいました︒寮生は毎朝七時に︑寺の本堂にお参りしてお経をあげ︑英霊のご冥福を祈り︑出征軍人の武運長久を祈願し

ました︒町内の方々は︑遺族として尊敬して下され手持ちの布や古い着物を更生して洋服に仕立てる仕事をまわしてくれました︒ま

た︑度々母子寮を慰問して下され︑寮生を力づけて下さいました︒ミシンは県から支給されました︒授業は洋裁や和裁のはか︑一般

教養にも力を入れて下さいました︒戦時中でしたので︑食料に困り︑農作物を作ったりしました︒

︵ 岡

本 近

子 ︶

私のきょうだいは男二人・女五人でしたが︑長男が昭和一五年四月に戦病死し︑次男も昭和二〇年三月ビルマで戦死しました︒私

は︑役場の方の紹介で御楯に入りましたが︑そのころ︑和裁・洋裁それぞれ十数人いたように思います︒私は和裁をならいました︒

朝礼では︑教室に祀っていた遺影を拝み︑ラジオ体操をしたりしました︒材料は地元の方から頼まれた物や酒屋さんのお嫁入り支度

の物などを縫いました︒休みは毎週日曜日と盆や正月のときでした︒家に帰るときは外泊証明書をもらって帰りました︒みんな真面

目な方ばかりでした︒食料は自給自足で︑学院の畑で作物をつくりましたし︑山へ柴刈りにも行きました︒出征軍人の遺家族の家に

行って勤労奉仕をしたり︑軍人の橋梓や袴下を縫ったり︑陸軍病院へ慰問に行って下着を洗濯したりしたことを覚えています︒戦後

も︑ずっと和裁は続けています︒

5 第三御楯女子学院

︵ 沢 井 ト モ エ ︶

(14)

校舎は︑南葛城郡御所町三四三番地の一︵現御所市︶にあった︒院長は︑中川義雄氏で陸軍中尉で︑帝国在郷軍人会の南

葛城郡連合分会長や奈良支部副長・奈良県方面委員・南和授産所長などを歴任して軍事援護事業に多大の尽力をするはか︑

各方面の社会事業に携わり︑度々表彰を受けた︒その業績によって︑第三御楯女子学院の院長に任命された︒学院の設立の

話は︑早くも一九四一︵昭和一六︶の一月にあり︑中川氏は︑御所町職員杉浦氏や県社会課の村田氏と教室に予定していた

今田氏宅を下見している︒また︑二月に入ると学院の用具購入打合せのため杉浦氏を役場に訪ねている︒そして︑四月一日

3 1

付で学院が設立され︑五月六日付で院長に任命された︒指導員は︑和裁が吉田操︑洋裁が中島みつ︑事務長が森田太三郎︑

事務員が森田シズ︵戦後は︑古川清子氏︶の各氏であった︒授業は四一年の一〇月一日に始まり︑教育生に対しては次の

︵ 3

2 ︶

﹁ 学

業 訓

﹂ が

定 め

ら れ

た ︒

一感謝の気持で懸命に学びませう︒

一自己反省に努めませう︒ 親しき仲にも礼儀を重んじませう︒

規律正しく致しませう︒

一家族的に仲良く致しませう︒

開院式は︑四二年六月二四日に︑御所高等女学校で行われ︑学務部長や学院長などの訓示や祝辞などがあり︑教育生代表

3 3

井関照美さんの答辞をもって終了した︒午後は︑関係者と教育生との懇談︑夜は軍人援護映画の夕があった︒では︑次に洋

裁生であった井関照美氏と吉村政子氏に当時の様子を語っていただくことにしよう︒

私 の 主 人 は ︑ 昭 和 一 三 年 三 月 に 中 国 で 戦 死 し ︑ そ の 後 ︑ 小 五 の 長 女 と 二 歳 の 長 男 を か か え て 生 活 す る こ と に な り ま し た ︒ 学 院 に 入 っ

たのは一六年の一〇月で︑同期生は数人いたと思います︒吉野郡黒滝村や五條などから来ていました︒洋裁は中島先生に習いました

が︑材料は主に自分の家から持っていったものを縫いました︒私は家から通学していました︒開院式のとき答辞を読んだこと︑在学

(15)

中に院長先生から﹁どこまでも子供本位に生きなさい﹂と言われたこと︑一八年六月に故伏見宮の妃殿下から温かい励ましの言葉を

戴いたことが忘れられません︒答辞や授業のノート︑卒業証書などが残ってい

ます︒昭和二〇年三月三一日に卒業しました︒そのときの院長先生は中川先生

第三御楯女子学院の院長、指導員、教育生(吉村政子氏蔵)

が出征していましたので滝井芳一先生でした︒

︵ 井

関 照

美 ︶

主人が昭和一四年四月に中国で戦死し︑その後四歳の男の子をかかえて生活

することになりました︒卸楯に入ったのは校長先生の紹介です︒中川院長先生

はご立派な方で何かとたいへんお世話になりました︒洋裁は主に中島先生に習

いました︒ほかに浜上・田中・永田の諸先生や西川助手さんにも習いました︒

事務長さんには︑お茶・お花・作法を教えてもらいました︒生徒は︑洋裁が

二〇人ほど︑和裁が一〇人はどいました︒遠方の方は︑寮に入りましたが︑寮

生は数人で︑その方の子供をいれると十数人だったと思います︒午前九時から

朝礼を行い︑戦没者の英霊を拝み︑そのあと授業に入り︑午後五時境には終わ

りました︒授業中は子供が側にいますし︑ミシンをさわりますし︑けんかはす

るしたいへんでした︒ふだんの日には午後二時ごろまでミシンを踏みました

し︑休みの日曜日にも洋裁をしました︒材料は︑自分の家のもの︑親戚や知人

から頼まれたもの︑院長先生の奥さんに都合してもらったものなどでした︒生

34

(16)

活は︑県の補助もあり︑何とかやっていけました︒空襲警報が出ると︑防空頭巾を

かぶり救急箱をもち︑柳田川の﹁桜の堤﹂ へ避難したことがあります︒食糧難や物

資不足で困りましたが︑院長先生ご夫妻のご厚意で何とか切り抜けることができま

した︒学院は三年で卒業しましたが︑そのまま残って仕事する方や︑自分でお店や

学園を開く方もいました︒私は残り洋裁の教師になりました︒

︵ 吉

村 政

子 ︶

結 び に か え   て

戦後︑日本はアメリカを中心とする連合国軍の占領下で︑民主的で平和な国

家として︑再建されることになった︒軍国主義が追放されることになり︑軍事

援護については︑﹁軍事保護院は敗戦の年の一二月に廃止︑恩賜財団軍人援護

会も一九四六年四月﹃恩賜財団同胞援護会﹄となり︑性格が変わった︒軍人や

−35−

その遺族に対する特別な援護体制は崩壊した︒︵中略︶四六年二月一日付で公布した勅令で︑ひとことでいえば軍人恩給の

停止・制限﹂が行われた︵その後︑遺族への年金や軍人恩給等の支給が復活Lや

さて︑御楯女子学院はどうなったのであろうか︒軍人援護会奈良県支部は一九四六年︵昭和二一︶五月に廃止されたので︑

学院の経営は︑同年五月一日付で恩賜財団奈良県同胞援護会に移管された︒同年七月一二日に三つの学院の代表が第一御楯

︵ 3

5 ︶

女子学院に集まり︑引継ぎと残務処理に関する協議会を開いている︒第一御楯の場合は︑上森光子氏の終了証書の日付が

(17)

四六年三月三〇日となっているので︑その日までは存続していたのである︒その後については︑中西知子︑嶋田大典各氏の

談話や中川義顕氏文書︑大宇陀町有文書などによって︑﹁南都女子学院﹂と改称されたことは確かである︒

第二御楯の場合は︑岡本近子氏の辞令に﹁第二御楯女子学院指導員ヲ命ズ 月棒五拾円 昭和二十一年一月十日 恩賜財

団軍人援護会奈良県支部﹂とあるので︑四六年一月までは存続していたのである︒その後︑経営主体が︑恩賜財団奈良県同

胞援護会に移され︑学院の名称が﹁共生女子学院﹂に変わった︒その時﹁共生園母子寮﹂ができた︒ただし︑生徒や入寮者

は戦没者のはか引揚者や近所の婦人とその子供たちであった︒女子学院では主に洋裁などを教えていたと言う︒その後︑経

営者が五二年五月二七日から社会福祉法人奈良県福祉事業団となり︑母子寮は︑五三年三月三〇日から大宇陀町立として経

営されることになった︒共生女子学院では︑五三年現在﹁四名の教師が夫々婦人服及男子服の調製指導﹂をしていたが︑ま

もなく廃止されたようで︑八五年に学院の建物は解体され︑八八年三月二日に正式に廃止された︒母子寮は最近まであった

が︑入寮者の減少・建物の老朽化・指導員の高齢化などの理由により︑九二年︵平成四︶一一月三〇日付で廃止が承認され

毎なお︑﹃奈良県福祉事業団の概要﹄に﹁昭和六十三年三月二日南都女子学院及び共生女子学院の廃止届受理﹂という

記事があるが︑これはどういうことなのか調べてみたいと思っている︒

第三御楯の場合はどうなったのか︒まず︑吉村政子氏の教師任命状に﹁御所授産場教師ヲ命ズ 月棒六拾円 昭和二十一

年九月二十日 恩賜財団同胞援護会奈良県支部﹂︑﹁信愛女子学院教師 吉村政子 願により教師を免ずる 昭和二十六年三

月三十一日 恩賜財団奈良県同胞援護会会長宮内宏年﹂と記されている︒また︑同胞援護会の解散にあたり︑信愛女子学院

長で恩賜財団奈良県同胞援護会施設長であった中川義雄氏に対して︑恩賜財団同胞援護会会長徳川家正から︑感謝状が昭和

︵ 3

7 ︶

二十六年三月二八日付で贈られている︒これらのことから︑第三御楯は︑戦後︑名称が︑﹁御所授産所﹂︑﹁信愛女子学院﹂

−36−

(18)

に変わり︑同胞援護会が五一年三月に解散されるにともない学院は閉鎖されたと考えられる︒

それにしても︑御楯女子学院で指導された方々や学ばれた方々は︑戦時中から戦後にかけて︑様々な苦労にもめげず︑そ

れぞれのお仕事に精励され︑ご家族の扶養はもとより︑今日においても各方面でご活躍され社会の発展に貢献されておられ

ることに深甚なる敬意を表し︑今後のご健康とご多幸をお祈りいたします︒なお︑いまは亡き戦没者や死没者の方々のご冥

福を衷心よりお祈り申し上げますとともに︑民主的で平和な日本や世界の建設におたがい努力したいものだと思います︒

本稿を草するにあたって︑ご協力をいただいた多くの方々に対し厚くお礼を申し上げます︒本稿については︑叙述できな

かった面があるし︑研究不十分な面もありますが︑それは︑今後研究を深め︑いずれ機会があれば発表したいと考えていま

す︒どうか忌博のないご叱正をお願いします︒ ︵一九九五年八月一五日︶

﹇ 註

︵1︶江口圭一︑﹃大系日本の歴史 14 二つの大戦﹄小学館︑一九八九年︑二八二頁︒

︵2︶田中伸尚他﹃遺族と戦後﹄岩波書店︑一九九五年︑一四六頁︒

︵3︶上平正治︑﹃軍事援護事業概要﹄常磐書房︑一九三九年︑三二頁︒

︵4︶上平正治︑前掲書︑九七百︒

︵5︶吉田久二﹃現代社会事業史﹄動葦書房︑一九七九年︑三八五頁︒

︵ 6 ︶ 池 田 敬 正 ︑ ﹃ 日 本 社 会 福 祉 史 ﹄ ︑ 一 九 八 六 年 ︑ 七 四 三 貢 ︒

︵7︶上平正治︑前掲書︑一二三・一二四頁︒

(19)

︵8︶池田敬正︑前掲書︑三八四頁︒

︵9︶池田敬正︑前掲書︑七四二責︒吉田久一︑前掲書︑三七六頁︒

︵10︶上平正治︑前掲書︑一五五頁︒池田敬正︑前掲書︑七六四・七六五頁︒

︵11︶上平正治︑前掲書︑一八六〜二〇三頁︒吉田久一︑前掲書︑三七七〜三八〇貢︒佐賀 朝︑﹃日中戦争期における軍事援護の展開﹄

︵ ﹃ 日 本 史 研 究 ﹄ 三 八 五 号 ︶ 四 五 〜 五 三 頁 ︒

︵12︶佐賀 朝︑前掲論文︑五一・五二頁︒

︵ 1 3 ︶ ﹃ 奈 良 県 報 ﹄ 一 九 三 八 年 九 月 六 日 ︒

︵14︶同前︑一九三八年一〇月四日︒

︵15︶同前︑一九三九年五月一二日︒

︵16︶同前︑一九三八年一二月六日︒

︵17︶同前︑一九四〇年二月六日︒

︵ 1

8 ︶

﹃ 下

北 山

村 史

﹄ ︒

﹃ 吉

野 町

史 ﹄

上 巻

︒ ﹃

天 川

村 史

﹄ ︒

新 訂

﹃ 大

宇 陀

町 史

﹄ ︒

﹃ 奈

良 市

史 ﹄

通 史

四 ︒

︵19︶﹃奈良市史﹄通史四︑五六五頁︒﹃奈良女子大学八十年史﹄︑五七四・五七五頁︒

︵20︶昭和ハ︑一八年度﹃奈良県歳入歳出決算報告書﹄︵奈良県立奈良図書館所蔵︶︒

︵ 2 1 ︶ ﹃ 朝 日 新 聞 ﹄ 一 九 四 〇 年 一 〇 月 四 日 ︒

︵ 2 2 ︶ ﹃ 奈 良 県 報 ﹄ 一 九 四 一 年 一 月 一 〇 日 ︒

︵23︶同前︑一九四一年一月二四日︒

38

(20)

︵ 2 4 ︶ 同 前 ︑ 一 九 四 一 年 二 月 四 日 ︒

︵25︶同前︑一九四一年二月二五日︒

︵26︶﹃大阪毎日新聞﹄奈良版︑一九四一年一〇月九日︑同年二月二目︒

︵27︶嶋田大典氏文書︒﹃奈良市史﹄通史四︑五一七頁︒

︵28︶﹃朝日新聞﹄奈良版︑一九四二年六月二三日︒

︵29︶新訂﹃大宇陀町史﹄六九九貢︒岡本近子氏談話︒増岡清文氏文書︒

︵30︶大宇陀町有文書︵﹃共生園母子寮︑共生女子学院要覧﹄昭和二八年七月一日︑ほか︶︒﹃大阪毎日新聞﹄奈良版︑一九四二年六月

二 〇

日 ︒

︵ 3

1 ︶

中 川

義 顕

氏 文

書 ︵

﹁ 中

川 義

雄 日

記 ﹂

は か

︶ ︒

︵32︶吉村政子氏文書︵﹁授業風景の写真﹂より︶

︵33︶﹃大阪毎日新聞﹄奈良版︑一九四一年一〇月九日︑一九四二年六月二五日︒

︵34︶田中伸尚他︑前掲番︑三八頁︒五四頁︒九四貢︒

︵ 3

5 ︶

嶋 田

大 典

氏 文

書 ︒

︵36︶嶋田大典氏文書︵﹃援護報告﹄︶︒大宇陀町有文書︵﹃共生園母子寮の概要﹄﹃奈良県福祉事業団の概要﹄ はか︶︒新訂﹃大宇陀町史﹄

七〇〇頁︒大崎なら枝氏談︒

︵37︶吉村政子氏文書︒中川義顕氏文書︒﹁恩賜財団奈良県同胞援護会﹂の名称については﹁恩賜財団同胞援護会奈良県支部﹂とも言うが︑

39

本稿では前者をとった︒ ︵東大寺学園中・高等学校専任講師︶

参照

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