Title ニーバーの「冷静を求める祈り」(The Serenity Prayer) : その 歴史・作者・文言をめぐって
Author(s) 高橋, 義文
Citation 聖学院大学総合研究所紀要, No.4, 1994.2 : 242-271
URL http://serve.seigakuin-univ.ac.jp/reps/modules/xoonips/de tail.php?item_id=3397
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﹁ 冷 静 を 求 め る 祈 り ﹂
ーーその歴史・作者・文言をめぐって
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戸山件U 1
句 門 出
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巾一門
)
一 lパ!の
神 よ
︑
変えることのできるものについて︑
カ レ イ ジ それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ︒
変えることのできないものについては︑
セレニテイ
それを受け入れるだけの冷静さを与えたまえ︒
そ し
て ︑
変えることのできるものと︑変えることのできないものとを︑
ウイズダム
識別する知恵を与えたまえ︒
︒ ︒ ︒ 門
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仁 コ
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242
義 文
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訳 ﹀
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‑ はじめに
一九四三年夏のある日曜日のことであった︒その日︑ラインホールド・ニ l
パl は︑夏の別荘があったマサチュ l
セツツ州西部の山村ヒ
lス(同
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﹀の小さな会衆派教会で説教し︑そこで短い祈りをささげた︒これが︑ のちに﹁冷静
を求める祈り﹂(吋
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1 H
) 円山吉吋)として︑あるいは時に単に﹁ニ l
パl の祈り﹂として︑広く知られるようにな
った回目頭に掲げた祈りの発祥であった︒
この祈りは︑やがてアメリカ全土のみならず︑世界に広く知られるようになった︒ わが国には︑最初は﹃リーダー
一九六七年︑大木英
夫教授が︑作者一一i パ
lの名をはじめて添えて﹃中央公論﹄誌上であらためて紹介されてからのことである︒ ス・ダイジェスト﹄をとおして伝えられたようであるが︑ 一般に広く知られるようになったのは︑
ところで︑この祈りは有名になってくるにしたがって︑その歴史や背景︑作者の問題︑文言の違い等に関して︑
しば正確さに欠ける情報や推測が錯綜し︑さまざまな困惑が生じるようになった︒最近になってとくにその作者問題に
ついては︑われわれにもようやく明らかにされるようになったものの︑その他の問題も含めて一般に困惑は必ずしも払
し ば
ニーパーの「冷静を求める祈り」
243
拭されているとは言えないようである︒そこで︑現時点で明らかになっているところに従って︑それらについて少し丁
244 寧に整理しておくことにしよう︒この祈りが︑今後もながく人々に愛され︑受け継がれていくであろうことを考えると
き︑この時点で情報を整理しておくことも︑意味のあることであると思われるからである︒
ニ l パーがこの祈りを最初に用いたのは︑回目頭に‑記したように︑ 一九四三年の夏であった︒この年代については︑
J ・ピンガム
一九三四年と記したため︑
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0
回 目
m 白
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が︑その著﹃変革への勇気││ラインホールド・ニ l バ Iの生涯と思想への序説﹂
しばらくその年が一般に知られるようになった︒しかしながら︑
一 九
七 O 年になって︑この
祈りの使用許可を求める手紙への応答の中で︑死の前年でかなり重い病いの床にあった一一 l
パ!に代ってベンを執った
妻のア l
ス ラ
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g 己山富
‑ Z
目 ︒ σ 己肖﹀は︑祈りが最初にささげられたのは﹁おそらく一九四三年﹂であったと︑それま
でピンガムによって知られていた年代を修正した︒もちろんそれはニ l パ l
との相談の上での返事であったと考えてよ
いであろう︒もっとも︑その年代には﹁おそらく﹂(胃
o g
可) l パ l E の語が付けられており︑ 一
夫妻は自分たちの記
憶に間違いのあり得ることを認める余地を残していた︒
と見なされている︒
しかしこの年代は現代では研究者たちによってほぼ確実なもの
説教でこの祈りを用いた礼拝が終わって︑教会から別荘へ戻る途中︑ 一 l パ l の友人であり別荘の隣人でもあった︑
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窓 口
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﹀︑が︑その祈りの草稿を譲り受けた︒ ロビンズは︑聖公会の指導的な
人物(ニューヨークの聖ヨハネ大聖堂のディ l ンおよびジェネラル神学大学教授) であったが︑当時︑連邦教会協議会
礼拝委員会
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巧 ミ
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官 ︒
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位 ︒
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の委員長もつとめていた︒彼はその立場で︑
祈りを集めた小冊子を編集発行したが︑その中にニ
lパ
lの同意を得てその祈りを加えた︒ 一 l パ l の名は付されては
いなかったが︑これがこの祈りが印刷されて公にされた最初であった︒
当時ちょうど第二次世界大戦のさ中にあったこともあって︑この祈りは︑
U S O ( d E Z 己 ω R i B C
吋岡 山凶
E N 包
己 ︒
ロ ﹀
によって︑小冊子からカ l ドに移され︑各地に散在する何十万もの兵士たちに配付されるようになった︒軍の将兵たち
とくに指揮官たちによって好んで用いられたのはこのときであった︒そしてこのゆえに︑
者として提督や将軍たちの名が取り沙汰されるようになった︒ のちにしばしばこの祈りの作
戦後︑正確に何年のことであったか定かではないが︑この祈りは︑﹁アルコホ l リ ッ ク ス ・ ア ノ ニ マ ス ﹂ ( ﹀ 片 町 ︒ .
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﹀ ロ
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5 0
ロ
ωアルコール依存症患者更生のための自助団体) の公式の祈り(モットー﹀として採用された︒
し︑この団体自体は︑作者が誰であるかも含めてこの祈りの背景について知るところは少なかったようである︒
一 九
六
に載った︑祈りの出所を求
める記事を読み︑その雑誌の編集長に︑祈りの背景を説明する手紙を書き送っているからである︒ 七年になって︑ アースラは︑この団体の雑誌﹃
A
A グレイプヴァイン﹄(﹀﹀の
g u o i D O )
一九五一年に著した﹁貧に処する道と富におる道﹂という論 ニ l パーが自らベンを執ってこの祈りを公にしたのは︑
文においてであった︒そこでは︑朝鮮戦争後の核戦争の危機の中で︑世界は︑西欧文明の道徳的限界に直面していると
し か
ニーパーの「冷静を求める祈り」
24
ラニ
lパ
lは︑自らの祖国アメリカに対して︑パウロの言葉を用いて︑今や﹁貧に処する道﹂を
学ぶべき時であるとして︑その富める姿に見られる倣慢を厳しく諌めている︒この文脈においてその締め括りとして︑ いう認識に立った上で︑
24 6
この祈りが論文の末尾に置かれていた︒
こ の 頃 ま で に ︑ ニ
lパ
lの祈りは︑広く一般に知られるようになり︑各方面で種々のかたちで使われるようになって ︑
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し か し ニ
lパ
lは︑尋ねられれば︑自分がこの祈りの作者であることを言明はしていたし︑求められれば使用の
許可をしてきた︒そして実際そのような問い合わせや使用許可を求める手紙はしばしばニiパ
lのもとに寄せられてい
た︒しかしいわゆる版権を主張したことは一度もなかったという︒
一九六一年︑この祈りを卒業祝いのカ
lドに用いようとしたホ
lル マ
l
ク・カ
lド 社
( 出
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︻凶
P H R
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t 工
カード出版毎に五%の印税の支
払いを受ける旨を含む契約を取り交わし︑その時点で版権料一五
0 ドルの支払いを受けている︒しかし︑ホ1ルマ
l一
lパーにはじめて版権の譲渡を要請した︒
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まホールマlク・カ I
ド 社
と ︑
ク ・
カ
l
ド社が実際にその版権を行使したのは︑ 一九六九年になってからであった︒それも︑カードではなく︑﹃献身
の 泉
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胃 E m ω
えロ
20 ZO D)
と題された六四頁からなる小さなギフトブックにおいてであった︒ 一 I パ
lの 祈
り は
︑
その小冊に︑編集者によって﹁これら三つのこと﹂(斗
ZR
叶 宵
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︐
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E m 巴というタイトルが付されておさめられた︒
ニ
lパ
lの祈りはそれまでも種々のかたちで公になり︑それによってすでに多くの人の目に触れてはいたが︑作者一一i
パーとの版権契約も含め通常の出版プロセスに則って出版されたのはこれが最初であった︒
ニl
パ
lの﹁冷静を求める祈り﹂は︑ ほんの数行のごく小さなものであったにもかかわらず︑これまでに数え切れな
いほど多くの人々に︑慰めと力を与え続けてきたであろうことは想像に難くない︒人々はこの祈りをとおして︑あると
きは変革への希望を抱き︑あるときは変え得ない現実に冷静に対処する力を得つつ︑ 一見不可解な歴史の流れの中に神
の思寵の確かなる支配を垣間見せられてきたに違いない︒この祈りが歴史の秘義の深みを見据えた人物から発せられた
類い稀なる言葉であることは言を侯たない︒それは︑真に人類の遺産と言ってよいであろう︒
ニl
パーがはじめてこの祈りをささげた一九四三年︑
ニlパーはその生涯においてもっとも充実していた時期にあっ
た︒この年の始め︑
ニlパ
lの主著﹃人間の本性と運命﹄ の第二巻﹁人間の運命﹂が出版された︒これは言うまでもな
︑.
︑号
︑喝
︑
く ニ
l
可r
l
カ一九三九年スコットランドのエジンパラ大学にアメリカ人としては五人目のギフォード講演者として招
かれた際の講演に基づくものである︒その第一巻﹁人間の本性﹂(一九四一年出版﹀とともにこの書において︑
ノ、
ーは自らの円熟した歴史の神学を展開し︑高い評価を得たのであった︒
ニl
パーはこの時期神学的思索を深めていく一方︑社会的政治的にも多彩な活動を展開した︒ リベラルな平和主義や
マルクス主義の影響から脱却していわゆるキリスト教現実主義の立場を確かなものにしていったのもこの時期であった︒
一 九
四
O 年 ︑
ローズヴェルト支持を表明︑翌一九四一年︑
の ち
に
一
lパ
lは︑長年属していたアメリカ社会党を離れ︑
ニーパーの「冷静を求める祈り」
247
革新的な非政党的政治団体としてアメリカ政治に大きな影響力を持った
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片 山 g
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巳片﹀ 2Z
口 ︑
一九四七年設立﹀ の前身
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︒ 口
ω 片付﹀己目︒ロ)を結成︒同じ年︑不干渉主義を主張する﹃クリスチ
24 8
ャン・センチュリ l ﹄誌に対抗してより現実主義的立場をとる﹃クリスチャニティ・アンド・クライシス﹄誌を発行し︑
それまでにも増して広範・活発な政治活動を展開する︒
一 九
四 二
年 ︑
ニ l
パ
Iは︑母校イェ l ル大学から名誉神学博士の学位を贈られ︑また︑結果的には辞退するのだが︑
ハ l
ヴァ
l
ド大学学長
J ・ B ・コナント
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回 ・
︒ ︒
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から同大学の全学教授
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5 1
司
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ょう懇請されるということもあった︒そのハ l
ヴァ
l
ド か
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︑
一九四四年︑名誉学位を受けている︒
ニ
l パ
l は ︑
府のコンサルタントの資格を得て英国に講演旅行をした︒それは︑ J ・ベイリ
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﹃ ロ
回 巴
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エジンバラ大学教授﹀
一 九
四 三
年 ︑
五月から七月始めにかけて約十週間︑ ロックフェラー財団の資金提供ならびにアメリカ政
や W ・テンプル
( 巧 口
‑ U B
︑
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カンタベリー大主教﹀ の招待に応じたものであったが︑ ちょうどギフォード講演の
英国版が出版された直後であったこともあり︑ ニ
l パ
i のもとには︑大学や教会およびその関係団体︑さらには
BBC
放送をはじめマスコミ・政府関係のさまざまなグループから講演や説教の依頼が殺到した︒この英国滞在中の七月一日︑
t
まオックスフォード大学より︑名誉神学博士の学位を授与されている︒
この英国旅行は︑その後のニ
l パ
l のとくに政治的活動に多大な貢献をする意義あるものであった︒多くの神学者や
政治家との出会いや戦時下の英国の政治状況の視察はニ
l パ
l の視野を一層広げるものであった︒なかでも時の首相チ
ャ l チルの政治的指導力には︑強烈な印象を受けた︒
ニ l パ l は︑七月の始め英国旅行を終えて帰国︑
ヒl スの山荘で家族に合流︑そこでしばらくの休暇を過ごすことに
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つ
n‑nu手
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ニ i バーが︑あの祈りをささげたのはこのときであった︒
ニ l パ l
の生涯におけるもっとも活動的な充実期が︑とりあえず︑最初の脳溢血に見舞われ実際の活動が少なくとも
表面上制限されざるをえなくなった一九五二年頃までと考えるなら︑ 一 l パ l の生涯において上昇気流
一 九
四 三
年 は
︑
に強く押し上げられつつあるときであり︑ 一般的に言うなら前途洋々たるときであった︒
しかしながら︑人生のそのようなもっとも充実し高揚しているときの言葉としては︑この祈りはいかにも特異である︒
それは︑ふつう人生のそのような時期に発せられる多くの言葉とはあまりに違いすぎるように思われるからである︒
九 四 三 年 と 言 え ば 一 一 l バ l 五一歳である︒この年齢にして︑前途洋々たる人生の高揚期にあって︑この祈りはすでに︑
ニ l パーがその心の深みにおいて︑どのようなところを生きていたかを如実に物語っている︒ しかもこの祈りは︑何か
の特別な大きな集会での祈りであって︑そのための長い準備の末になされたものでなく︑別荘での休暇中︑ おそらくは
比較的ゆっくりした雰囲気の中で︑山村の小さな教会の礼拝でなされたものであっただけに︑当時のニ
1
パ l のごく自
然な心の姿勢がそれだけよく伝えられているように思われる︒
ヒl スの教会での説教の内容がどのようなものであった
かは残念ながらわれわれには伝えられていない︒
しかしわれわれの手元に残されたこの小さな祈りは︑英国から帰国し
たばかりの当時のニIパ l の思想の深みを︑含蓄をもってしかも雄弁に語っているように思われる︒
すでに述べたように︑
一 九
五 一
年 ︑
はじめて自らベンを執ってこの祈りを公にした︒その末尾にこの祈
/、 は.
りが置かれている︑戦後の富めるアメリカを諌めるその論文で︑ 一 l パ l
は次のように述べているが︑それは︑当時の
ニーバーの「冷静を求める祈り」
249
社会状況に適用してではあるが︑
ニl パ i が自らこの祈りを解説したほとんど唯一の文章とも言えるであろう︒
﹁われわれの国全体に対するもっとも重要な教訓の一つは︑ いかに貧に処するべきか︑ いかにこの時代の可能性の
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ラ0
って人生の困難に耐えるべきかを︑学ぶことである︒ いかに人間の歴史における断片的で挫折を伴うことがらを受容すべきか︑いかに忍耐をも
われわれが︑このことを忍耐と冷静さをもってなすことができ 限界の中で生きるべきか︑
ればできるほど︑ われわれはそれだけ不屈の意思をもって行動することができるであろう︒ キリスト教信仰は︑生の
無常から逃避することを教えてはいない︒臆病なあきらめを教えてはいない︒ われわれは︑自らの力の範囲において︑
行動し︑責任を引き受けなければならない︒
し か
し ︑
ければならない︒われわれは神ではないのである﹂︒ われわれは︑自分たちの力には限界があることも理解していな
ところで︑﹁冷静を求める祈り﹂は︑ 一般に紹介され︑有名になってくるにしたがって︑作者としてさまざまな人物
の名が取り沙汰されるようになった︒多くの場合︑作者一一
l パ
Iの名が付されて伝えられていなかったからである︒そ
うした推測に上って来る名前は︑通常かなり古い時代の人物である︒
た と
え ば
︑
マルスク・アウレリウス︑
セネカ︑ア
ッシジのフランシスなどである︒(また第二次大戦中の提督や将軍の名が祈りの作者としてあげられたこともあるが︑
その背景についてはすでに触れたとおりである)︒
ニ l パ l
( 夫妻)もかなりはやくから知っていた︒すでに述べたように︑ニ l パiのとこ
ろには各地から︑祈りの使用許可やその元来の出所を尋ねる手紙がしばしば寄せられていたからである︒(その中には︑ ﹂れらのことについては︑
最初から作者はニiパ l でないときめつけて︑ ニlパーを非難する内容の手紙さえあった)︒上に挙げた人物の名はそ
うした手紙の中に出てくる名前であった︒とくに︑そのような手紙は晩年頻度を増し︑
に二通の割合で寄せられていたと言う︒ 一九六七年の時点では︑
一 週 間
しかしながら︑ 一 l パ l は︑それらの手紙に対して︑ 一貫して自分がその祈りの作者であると答えていた︒(もっと
も 最
晩 年
は ︑
ニ l パーが病床にあったため︑それらの手紙はアiスラが筆を執った︒﹀
ところが︑死の前年一九七 O 年になって︑この祈りは自分がささげたものであるとのニ l パ!の記憶を大きく揺るが
せることになる一通の手紙のコピーが︑病床のニlパiのもとに届けられた︒それは︑ 一 l パ l もしばしば寄稿したこ
と の
あ る
︑
アメリカ・ル I テル教会(吋
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昨 日 出 吋
山 口
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の機関誌﹃ル I
サl ラ
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の 編
集 長
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﹀同丘町)からのものであった︒それは彼が友人の M ・ R ・ マ i テ ィ
に宛てた四月三十日付けの手紙のコピーである︒それは︑
( 冨
ω 円 昨 日 ロ
H w z o
ロ
マ l ティが寄せた﹃ル l
サl
ラ ン
﹄ への記事にニi
パ l の祈りとその背景がピンガムに従って記されてあったことに対する編集者ラフのコメントである︒
﹁私は︑数年前﹃ル l
サl ラン﹄誌に同じことを書いたところ︑ 一人の女性から︑その祈りは︑元来ドイツで書か
れたものであって︑作者はクリストーブ・フリ l トリッヒ・エ l ティンガーである︑と主張する手紙を受けとりまし
た ︒
: :
: 彼
女 の
見 解
は ︑
ニューヨークの西ドイツ領事 R ・フォン・ヴェクマ
l
( 罫
昼 間 旬 ︿
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君 ︒ ︒ F B R )
が ︑
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ニーパーの「冷静を求める祈り」
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ラI
ニ
Lーヨlクで発行されているドイツ語雑誌﹃アウフパウ﹄(﹀丘
σ ω 己
一 九
六
O 年四月一日号に寄せた手紙に基づくもの
でした︒私はニiパ l 博士に︑果たして彼がこの祈りを自分の原作として使用したものかどうか︑尋ねたいと思って
2
ラ2
いましたが︑その機会がありませんでした︒ ニ l パーがその読書の中でドイツ語の祈りをたまたま目にし︑それに引
き付けられ︑それを翻訳し︑ピンガム夫人が述べているように︑ ヒ l スで用いた︑ということはあり得ることです︒
‑:﹂(この手紙には︑その一女性からの手紙にあった祈りのドイツ語版も記されてあった︒﹀
すなわち︑﹁冷静を求める祈り﹂ の元来の作者は︑ 一八世紀ドイツの神秘主義的敬度主義神学者フリ l トリッヒ・ク
リストーブ・エ l ティンガ
l
( 司 ユ
め 門 町 ・
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F hωF
ユ
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山
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口o F
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︑
N O N ‑ H
吋∞N) である(上の手紙では︑ ファーストネlム
とミドルネlムが入れ違っているが﹀というのである︒ しかもそれは︑それまでのさまざまな噂に等しい情報とはかな
り違ったものであった︒それは︑それまでに耳にしたことのない全く新しい名前であったのみならず︑西ドイツの外交
官が伝えた情報として︑ かなりの信滋性を持っているように見受けられたからである︒
このラフの手紙のコピーに対して︑すぐさま︑ アースラの指示を受けて︑ 一
1iパ l の秘書 L ・ A‑ エヴアンズ
( 円 ︑
︒ ャ
m w 同
S
﹀ ・
開 ぐ
ω ロ
ω )
が︑ラフの手紙の受取人であったマ l ティに宛てて手紙を書いた︒(このときは︑なぜか通常の場合と
違って︑ニ I パーやア l スラの名前でなく︑秘書エヴアンズの名で出されている︒またこの手紙のコピーはラフにも送
付された︒﹀そこには︑これまで多くの問い合わせに応じる手紙の内容と同じように︑ 一 1
パーがこの祈りを書いた事
情を説明した上で︑ エヴアンズに語ったという︑次のようなアlスラの言葉が添えられている︒
﹁ 夫
は ︑
し ば
し ば
︑
たとえば英国教会の祈祷書などの過去のよく知られた祈りから︑文言を一部取り入れることを
したことは確かにありますが︑歴史的典礼に関する彼の知識はそれほど広範なものではありません︒彼は︑ラフ博士
の手紙に言及されているクリストーブ・フリ l トリッヒ・エティンガ I についても︑︹祈りの︺ドイツ語版について
も知りません︒もちろん︑潜在意識の中で受けた影響は︑あるいはそれが無意識のものであっても︑あらゆる形態の
芸術
l
l 文学と同様音楽でもーーにおいて一定の役割を果すものです︒ J ・ s
・ パ
ッ ハ
や ︑
T ・ s ・エリオットやシ
ェ
l クスピアには(そしてこの点では︑イエスにも)︑ しばしば過去の題材の反響があります﹂︒
以上の言葉から︑ ニ l パ l 夫妻のやや困惑している姿が読み取れる︒ とりわけその後半の文章からは︑自分の過去の
記憶をあらためて根底から辿り直そうとしているニ
l バ
l の姿が想像できるようである︒ l パ i は︑牧師で おそらくニ
あった自分の父親グスタフが用いた祈りか︑あるいはドイツ敬度主義の流れを汲む自らの出身教派において使われた祈
いずれかが潜在意識の中に記録されていて︑それを自分は知らずに用いたのか
もしれない︑と自らの意識下の記憶を呼び覚ます努力を重ねていたことであろう︒ りか︑それともどこかで読んだ祈りか︑
実は︑この祈りは︑第二次大戦後︑ アメリカにおけるのと同様︑海を隔てたドイツにおいても︑ かなり早くから一般
に広く知れわたっていたのである︒ ところが︑ドイツではしばしば︑この祈りの作者には︑
フ リ
l トリッヒ・クリスト
ー フ
・ エ
l ティンガ l の名が冠せられ︑﹁エ l ティンガ!の祈り﹂として知られることが多かった︒ ニューヨークの外
交官の手紙は︑この自国の状況に基づいたものであった︒ドイツでは︑当初エ l ティンガ l の作であることを疑う人は
一般には少なかったであろう︒ しかしほどなくして︑ドイツの人々もまた︑ アメリカにおいて同じ祈りが一般的になっ
ていることを知って当惑する人々も出てくるようになったようである︒
ニーバーの「冷静を求める祈り」
2
ラ3
四
2
ラ4
そ れ
で は
︑
いったいこのドイツ語版はどこから来たのだろうか︒ エ l ティンガ l に発するとされたのはどのような事
情によるものなのだろうか︒
﹂の問題は︑とくにアメリカにおいては︑ラフの指摘以来︑ 一 l パ l 夫妻のみならず︑ 一
V ‑E ‑
パーを知る者や祈りの正
確な出所を知りたいと思う者には︑長く困惑の種となった︒
マl ティは︑ラフの指摘を受けてから︑大学院の学生にエ
ーティンガ!の著作を調査させたりしたようであるが︑﹁彼︹エ l ティンガ l
︺はかなり多量に書いている
(
胃 E
2 q
君︒三可ョととの感想をラフにもらすに止まり︑どうやら答えは見出せなかったようである︒
この事情が最終的に解決を見︑留保がつけられてであるが一一 l パーこそ祈りの作者であることが確認されたのは︑
一 一
ー パ
l の死後五年を経た一九七六年︑ドイツにおいてであった︒ しかもその留保はほとんど根拠のないものであった︒
その後︑このドイツの資料がアメリカに伝わり︑そこで公にされたのは︑ 一九八五年になってからであった︒
ドイツにおいてこの事情が明らかにされたのは︑﹃自己表現における教育学﹄と題された︑ 一八八九年から一九 O 六
年の聞に生まれた教育学者たちの自伝的回想のエッセイ集の第二集(七編のエッセイが収められている)の最後に収録
の回顧の文章においてであった︒その中で︑ヴィルへ されている︑テオド l ル・ヴィルヘルム
3 z a ︒ 門 司 口 E B
﹀
ルムは︑﹁冷静を求める祈り﹂のドイツ語版は自分が作ったものであること︑そしてその原作者は歴史上の人物エ l テ
ィンガーではなく︑ 一 iパーその人であることを明らかにしたのであった︒
ヴィルヘルムは︑
一 九
O 六年生まれのドイツの教育学者である︒法学と歴史学の二つ学位を得︑政治に興味を持って
いたが︑やがて教育学に専門を変更︑
一 九
三 八
年 ︑
オルデンブルク教育大学で私講師となった︒戦後一九五一年からフ
レンスブルク教育大学で︑ 一九七一年に引退している︒ 一九五九年からはキ
lル大学でそれぞれ教授を務め︑
ヴィルヘルムは︑上のいわば知的自伝的回顧とでも言えるようなエッセイの中で︑﹁フリ
lトリッヒ・エ
lティンガ
!とフリlトリッヒ・クリストーブ・エティンガl﹂なる標題をつけた部分数ページにわたって︑﹁祈り﹂の背景を説
明 し て い る ︒ そこに︑祈りの作者をめぐる情報が錯綜したその経緯が明らかにされている︒
ま ず 錯 綜 は ︑ ヴィルヘルムが戦後著したいくつかの著作において︑﹁フリlトリッヒ・エティンガl﹂の名を自分の
ペンネームとして用いたというところに始まる︒そして一九五一年に出版された︑エ
lティンガ
lの名を用いたその最
ニ
l バ lの祈りを引用したのであった︒しかしそこには︑当時の彼がその 初の著作﹃政治的教育の転換点﹄
に お
い て
︑
祈りとともに得た情報に従って︑﹁無名の古い祈り﹂(告︒ロ可 52
巳 門
ゅ の
σ め
2 )
としておいた︒ エ
lティンガ
lつ ま
り ︑
なる人物の著書に引用されたゆえに︑そしてそれが古い祈りであったとされていたがゆえに︑それはやがて︑歴史上の
人 物
エ
l
ティンガーが祈りの作者とされる錯綜を生むことになってしまったのであった︒
と こ
ろ で
︑
ヴィルヘルムは︑自らのペンネームとして︑ エ I ティンガ
lの名を選んだ理由についても述べている︒そ
れによると以下のようなことであった︒ シ ュ ヴ ァ
lベンの敬度主義者ヨハン・アルブレヒト・ベンゲ ヴィルヘルムは︑
ルが彼の母方の先祖であることをつねづね誇りに思っていたようである︒実際︑ ベンゲルが用いた自家用のギリシャ語
ニーパーの「冷静を求める祈り」
2
ララ新約聖書は︑
いつも彼のベッドサイドにおかれていた︒そこで︑自らのペンネームを考えたとき︑彼は敬度主義者たち
2
ラ6 の中にその名前を求めたのである︒ところが彼によれば︑文筆家の名前としては︑﹁ベンゲル﹂は酒落た( o r m m g C
名
前には思われなかったので︑同じ敬度主義的伝統の中にあるエ
l
ティンガIの名を思い付き︑それを採用したというの
であ
る︒
しか
し︑
エ
l
ティンガ
l
のフルネ
l
ム﹁フリi
トリッヒ・クリストーブ・エ
I
ティンガ
l
﹂を名乗るのは︑J ¥ 。 リ ン ツ ネ
ヒ l
ム
エ と
ま ア 盲ィ え
ン 、
ガ あ
l
ま
」 り と に
だ おけ こ
しカミ た ま の し で いあ と つ(思
た~わ
。 れ
T
この で
ド
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ネ ム の
ー「
ク リ ス ト フ
L
ーを t
土ず
し て一寸
フ リ ト
ヴィルヘルムが︑
一 i パ l
の祈りをはじめて自にしたのは︑
一 九 四 六 年 ︑
カナダの友人からヴィルヘルム夫妻のもと に送られてきたカl
ドによってであった︒それは以下のように英語で書かれてあり︑﹁古い小さな祈り﹂宮口︒
E ‑ E r
同
)
5 3 5
という言葉が添えられであった︒
︒︒
己
m g E B O F o ω R g x
可吉山
のの
め写
任命
岳山
口問
ω H
ロ
S
ロ︒
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自問
0・
己凶
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︒ロ
円山
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件︒
︒
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山 口 問
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口門
︼任
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百件
︒
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︒者
同町
︒門
庄内
2 8
・
8
ヴィルヘルム夫妻は︑このカナダの友人の行為を﹁戦後協調の最初のしるし﹂として受けとめたが︑それに感謝する 気持ちからであったであろうか︑夫妻で直ちにこの祈りの翻訳を始めた︒
ちなみに︑ヴィルヘルム夫人は︑
アメリカの
ヴァッサ I 大学を卒業した︑﹁文学にも芸術にも明るい人物﹂であった︒翻訳の過程で問題になったのは
E ω R B E ‑ ‑ w
( 冷
静︑平静︑平穏︑落ちつき︑晴朗﹀ の訳語をどうするかであり︑それをめぐって夫婦の聞に論争があった︒最終的に︑
ヴィルヘルムの主張した E
出 色
芯 再
巳 ぺ
w (
明朗︑快活) ではなく︑夫人の提案した E の
巴 m
g g
芹ョ(平静︑沈着︑落ち Z
っさむを採用することにした︒そして夫婦の最終稿は次のようなものになった︒
︒︒ 丹仲 間︒
σ m w
百円 円門 出ゅ の巳
ωω
ωO 口 町巴
F
ロ 山口
m m w E
ロ
N
2 5 F 5 0 p
門
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刊の 甘口 目︒ 町仲 間口 己ぬ 吋口
ω
町ロ ロ ・ 門同 ゆロ 宮口
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E m o N C
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︒目
︒町 山口 品︒
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凶 ロ ロ
・ ロロ 己己 目︒ 者巴
ω F o p
己虫色ロ
ogB
自己2 8 2 5 z z s
巴品︒
ロ・
ヴィルヘルムは︑これを先に触れた戦後最初の︑そしてエlティンガlの名をペンネームとした最初の自分の著書に
収めたのであった︒
それから数年を経てであったというが︑ヴィルヘルム夫妻は︑ある日新聞の記事に︑この祈りが﹁有名なシュヴァ l
ベンの敬度主義者フリlトリッヒ・クリストーブ・エ 1 ティンガlの言葉﹂として載っていたのを見つけて驚いた︒
かし彼らはその時点では︑この出典明示の間違いは限定された地域におけるものであろうと軽く考えていたようである︒
ところが︑まもなくして彼らは︑この間違いがはやすでに止め難い状況で広がっていることに気付くのである︒ ヴィル
し
ニーパーの「冷静を求める祈り」
Z
ラアヘルムによれば︑それらの祈りの文言は明らかにヴィルヘルム夫人の文体であった︒そこには︑EC巳州凶器
g z q w
の 訳
Z
ラ8語があったからである︒彼らは︑この訳語をもって彼らの文体のしるしと考えていた︒
確かに︑ヴィルヘルム夫妻のドイツ語版の重要な特徴が︑夫妻の自負は別にしても E
の 巴
g ω g Z
弓 の 訳 語 に あ っ た
ことは確かであろう︒通常︑
J 2
0 巳門司ョの訳語として直ちにこの語が出てくるとは思えないからであ(初︒そして︑それ
は︑ヴィルヘルム夫妻の翻訳の特徴になっただけでなく︑ 一八世紀の敬度主義者エiティンガlの作とされるようにな
るその重要な一因ともなったのである︒なぜなら︑ E
の 巳
88
ロ ﹃
巳 同
ョ は
︑
M
・ エ
ッ ク
ハ ル
ト (
冨 包
件 ︒
吋 開
︒ r
F R C
や J ・
( 出
色 R
W F ω 2 ω
ぬ﹀など中世の神秘主義者によって強調された徳であり︑
その後の神秘主義的・敬度主義的流れにおいても︑独特の重要性を担った言葉であったからである︒ タウラ
l
G ︒ ﹃ 何 回 ロ ロ
g
m g
同 ︐‑ 0 5
や H
・ ゾ
イ ゼ
こ う
し て
︑
ニlパlの祈りのドイツ語版は︑ しばしば一八世紀の敬度主義神学者エ l ティンガーを作者とされて︑ヴ
ィルヘルム夫妻も驚くほどのはやさですでに一人歩きするようになっていた︒それは︑さまざまな論文︑講演︑説教等
で 使
わ れ
︑
カレンダーや格言集などにも見られるようになった︒ ヴィルヘルムは︑そのいくつかを一記しているが︑その
中に︑ラフのもとに届いた一女性の手紙に出てきたニューヨークの外交官ヴェクマlの名も出てくる︒この人物はその
後︑西ドイツ政府の報道官になったようであるが︑ 一九七四年その職務から退任する時︑後任者にこの祈りを教訓とし
て残したという︒ ヴェクマ 1 にとってこの祈りは座右の言葉となっていたのであろう︒
コプレンツ(西ドイツ中部の都市﹀にある西ドイツ連邦軍の﹁指導
と道徳理念﹂学校(色︒
ω y c Z
門戸
R E E D O B
ロヲ
F E
口問ョ﹀の玄関ホlルに掲げられていることを知った︒すなわちこの祈
一 九
五 O 年の末︑ヴィルヘルムは︑この祈りが︑
り は
︑ 連 邦 軍 の 学 校 の モ ッ ト ー
q
♀m 到 ︑
HF
ZH
吋ロ︽} U
F﹀
にまでなっていたのである︒またシュパイデル将軍(のゆロ
q m ‑
∞同︼包含︼﹀もこの祈りを用いたが︑ヴィルヘルムによれば︑彼はこの祈りによって︑戦後の新しい軍の精神を特徴付け
ょうとしたのであった︒
しかし作者はそこでも一八世紀のエ
l
ティンガ!とされていた︒また︑作者としてエ
l
ティンガl
以外の名も取り上げられることがあった︒この祈りがラテン語に訳されたことがあ ったことからセネカなどの名が上ったり︑宗教人では︑ベネディクト修道会土や枢機卿
J
・ニ
ュ
l
マン
( ﹄ ︒ ﹃ ロ
当
z o
'
EE
同)などの名が上ったりした︒ヴィルヘルムは︑以上のように︑
ニlパlの祈りのドイツ語版の歴史を述べた後︑最後に︑新しい調査によれば︑こ の祈りの源泉は︑﹁有名なドイツ系アメリカ人神学者・哲学者ラインホールド・ニ
l
パi
﹂であることが明らかになっ
たとしてこう述べている︒
﹁た
とえ
ニ
l
パi
が︑このテキストの元来の﹃考案者﹄(開正日E q
﹀
でなかったとしても︑彼こそ︑この祈りを︑広 範なアメリカ大衆の意識の中に導入したその人である︒助けを必要とし︑疑惑の中にいる何千という人々が︑プラグ マティックな敬度の賢明な解決によって助けを得ることができたその功績は︑
はなく(私のそれにでも︑敬度主義者のそれにでもなく)
シュヴァlベンのエlティンガl
にで
アメリカ人ニ
l
パl
にこそ帰されるべきものである﹂︒ヴィルヘルムがいつ頃︑祈りの作者としてニ
l
パl
の名を知ったのかは明らかではない︒しか
し︑
ヴィルヘルムは︑
ニ
l
パIの名については︑﹁すでに長い間存在していた推察﹂であると記しているが︑それからすると︑ドイツでもエ
ーティンガ
l
以外の名が取り沙汰されるようになる中にニIパ
l
の名も上がっていた︑ということだったのであろう︒ニーパーの「冷静を求める祈り J
Z
ラ9
最終的にヴィルヘルムが確かなものとして情報を得た資料は︑ピンガムの書であった︒注において︑この書とそこに 書かれている祈りの歴史を紹介しているからである︒年代もそこにある一九三四年を採用している︒
しかしヴィルヘル
260
ムは︑上の文章にも示唆されているように︑ピンガムの説明を受け入れた上で︑
一 l
パl
自身は自分が原作者であるこ
とを主張していないとして︑ニ
l
パl
の背後にさらに源泉があるものと考えている︒そして︑彼はそれが﹁一四世紀の 英国の祈祷書
( (
︒
B
UB o p p a o
S
﹂に遡る可能性を推測している︒しかしながら︑書におそらくは通暁していたであろう妻ア
l
スラの存在があることや︑すでに引用したように︑
一 l
パl
の背後には︑英国の祈薦
一 l
パI
は︑﹁英国教会祈薦書などの過去のよく知られた祈り﹂を利用することはあったが︑﹁歴史的典礼に関する彼の知識﹂はそれほど広 範なものではなかったというア
l
スラの証言に照らしても︑さらには︑﹁一四世紀﹂という不確かな年代(英国にいわ
ゆる祈祷書吋}百四
g w
えわ︒
55
︒口
同
)E
M1
0吋が生まれたのは︑一六世紀になってからである)から考えても︑ヴィルへ
ムの推測には確かな根拠はなかったと言ってよいであろう︒
いずれにしても︑このヴィルヘルムの表白によって︑ニ
l
パl
の祈りがエl
ティンガl
の作とされた経緯は明らかに しかし︑このヴィルヘルムの回顧が収められた書物は︑教育学関係者を越えて一般大衆の目に触れるような性
格の書物ではなかったため︑この経緯は︑今日のドイツでもなお一般に十分に知られてはいないようである︒ ムつh
n 手‑
︒
I φ
この情報がアメリカに伝えられたのは︑それから九年後︑ J
一九
八五
年︑
R
・W
・フォックス(同 仙の 町民 仏当
・
3 M
﹀
の
﹃ラインホールド・
=
l
パl
伝 ﹄
フォックスは︑ヴィルヘルムの文章を︑ドイツのニIパ
l
研 究 者
のひとり
R
・ノイパウアl
(
問 ︒山 口
F
R ι z g σ
何回
5
5
をとおして入手したと言う︒このフォックスの作業の意義は︑ア
によってであった︒
メリカでは大きなものであった︒その書﹃ニ
lパ
l伝﹄自体には今日多くの批判が浴びせられているものの︑ことこの
点に関しては︑ フォックスの貴重な貢献として評価する声が高い︒この書によって︑ アメリカにおいて長く続いた戸惑
いがようやく解消されるようになったからである︒
しかしながら︑ フォックスはこの祈りを︑もっぱらそれをめぐるさまざまな人間的エピソードに焦点を当てて取り上
げているが︑そこには問題がないわけではない︒そのエピソードは︑作者問題を指摘されてニ
lパ
l夫妻が当惑したこ
と︑父親グスタフがそれを嫌って祖国を飛び出したドイツの軍隊において百年後に息子の祈りが用いられたこと︑また︑
晩 年
一 一
l パ l の祈りを刺繍した飾り物が︑ ニ
i バ
l の嫌うニクソンの言葉﹁サイレント・マジョリティ﹂と混同されて
宣伝されたりしたことなどである︒ フォックスは︑そこに見られる皮肉な状況にしきりに注目するが︑この祈りの深み
とその神学的意義︑あるいはニ l パ l の生涯におけるこの祈りの意味などに関しては︑ ほとんど注意を払っていない︒
そのような姿勢はこの書の全体に見られるものであるが︑ フォックスは︑そのようにしてこそ人間ニ l パ l の史的姿が
浮き彫りになるものと考えたようである︒ しかしそれが︑ 一
lパ
lの生涯の特質をとらえる視座として妥当なものであ
るかどうかについては疑問がある︒その神学的深みに対する洞察を欠くところに︑ たとえ人間性の描出に刀点を置いた
ものであっても︑正しいニ l パ l 像が約束されることはないと思われるからである︒
フ ォ
ッ ク
ス の
室 田
は ︑
一 l バ l
の 祈
りの作者問題についてアメリカにおいてはじめて正しい資料を紹介したことに見られるように︑その旺盛な資料渉猟に
ニ i パ l に関する情報の点では︑今後とも重要な文献で よって幾多の新しい事実を明らかにした︒それゆえにそれは︑
ニ l パ!の生涯や思想の解釈の点では︑上に指摘した基本的視座に大きく影響されていて︑問 あり続けるであろうが︑
ニーパーの「冷静を求める祈り」
261
題の多いものである︒ 一 l パ l
の 祈
り は
︑ 本
来 ︑
ニ
l パ!の生涯や思想そのものと本質的な関係を持つものであり︑そのような文脈におい
262
てこそ取り上げられてしかるべきであった︒
五
ニ
l パ l の祈りについては︑その文言について︑困惑を覚えることも多い︒この祈りには︑本稿でもすでに明らかな
ように文言の異なった版がいくつか見られるからである︒
実際︑細かい違いや︑その変形と思われるものまで含めると︑版の数はほとんど無数に上るであろう︒アースラは︑
﹁非常に多くの異なった形﹂
(
︒
ωB S M 1
島 町
内 向
︒ E
コ ロ F
ω )
があり︑本来のかたちからの﹁さまざまな逸脱した版﹂ハ g
ュ ・
︒ 5 仏 2 z z o g
﹀も見られると述べている︒
違いの見られる主な部分は以下の点である︒便宜上︑
J R 8 5 1 3
を含んだ部分を一行目︑
E g z g m O
3 を含んだ部分を
二 行
目 ︑
E 三 色
︒ 5 3
を含んだ部分を三行目とし︑本稿の官頭に掲げたものとの比較でそれを指摘しておこう︒
① 冒
頭 に
︑
E 0 3
がないものがある︒
②一行目で︑ば守
0 .w
が
E m g ロ
ペ .
に な
っ て
い る
も の
が あ
る ︒
③一行目で︑ぷ
ω3
が E
g o
‑ w
と な
っ て
い る
も の
が あ
る ︒
④一行目と二行目で︑ E
耳 目
百 件
ョ が
JF
mw
岳 山 口 問
ω 岳 ω ぺになっているものがある︒
⑤ 二 行 目 で ︑
J
︒
FC
5 3
が E ︒
c m Z Z 3
になっているものがある︒
⑥ 二
行 目
で ︑
J r o c
‑ ι =
が
E S
ロョになっているものがある︒
⑦二行目と三行目でも E 包括ロ
ω3
を繰り返しているものがある︒
⑧三行呂で
E ω
ロ 円 凶
3 がないものがある︒
⑨三行目で︑£笠宮
m E ω 弓 ︑ が
ロ ︒ E r
者
ww
になっているものがある︒その場合︑前者では
J Z
︒ 見
守 ︒
B F 0 2 y q z が ︑
後者では
JFO庄 内 問 ︒
g D 8 3
となっている︒
以上のような違いがそれぞれ違った組み合わせにもなり︑またそれに冠詞の有無︑句読点の有無や違い︑行頭の文字
の大文字化の有無などが加わり︑版は多様になる︒
と こ
ろ で
︑
( お
)
ニl
パ
lが自らはじめて公にしたときの祈りは次のようになっていた︒
一 九
五 一
年 ︑
︒ ︒
門 戸
包 5
5 F 0 8 5 E q g R 8 3
耳 目
百 件
ω ︒
ロ ロ ︒ 同
σ
ゅのF g m o
弘 一
︒ 宮
内 川
口
ω
任
命 ︒
︒ ロ
g m o
老町
巳
ω
﹃
︒ 巳
己
σ o g F
口 問 ︒
ι
2 2 5 F O
当 日
色 ︒
百 件
︒ 門
出
ω
昨 日 ロ
m E
各 ︒
口 ︒
骨 ︒
ヨ 任
命 ︒
5 0
円 ・
それでは︑どれが︑
ニl パーがヒ l スで最初にささげた時の祈りだったのだろうか︒実は︑ 一
lパ
l自身にも記憶は
ニーパーの「冷静を求める祈り」
2 6 3
はっきりしていなかったようである︒ 一 l パ l
の 晩
年 ︑
ア ー
ス ラ
は ︑
一 I パ!と相談の上でであると思われるが︑各方
2 6 4
面からの問い合わせに応じる手紙の中で︑文言を‑訂正したり︑彼らが本来の文言にもっとも近いと考えた版を知らせて
いたが︑残されている晩年のそうした書簡を見てみると︑そのア l スラの訂正作業にも変遷が見られるからである︒彼
らの記憶はそれほどはっきりしたものではなかったのである︒
見 ら れ る の は ︑ そのア l スラによる訂正の変遷の最後に︑上に挙げたものとは別のかなり大きな文言の変更が見られる︒その変更が
一九六九年三月二 O 日の手紙においてである︒それは以下のようになっている︒
︒︒ 門戸 間同
︿
ogpomgBZR8
匂件 当芹
﹃
ω R O D R M 1 5 0
同窓 口問
ω
同町 内凶 円︒ 山口
O
口件ず
o n y m D m m w
門 戸
︒︒ ロロ 凶問
︒件
︒︒
﹃
ω
口問︒
M O
己 己己H M m ω
己 戸 川 凶
同
ω
﹃︒己 ]己 ずぬ
F m w
のD m m w
門 戸 自 己5 0
ω
項 目B
品 ︒Z
色
ω
巴口問 巳
ω F F 0 0
口︒叶︒自任︒︒任命﹃・
すなわち︑大きな変更は︑
一 行
目 の
J F o m g s Z 2 8 主主任
8 R E q . w
という文言である︒ アースラは︑これをも
って︑最終的に本来の祈りにもっとも近いかたちと見倣した︒
アースラが︑この形をもってオリジナルと最終的に判断したのが実際にいつであったかは明らかではない︒少なくと
も
一九六七年一月の手紙では︑まだこの形にはなっていない︒ したがってそれ以後のことであることだけは確かであ
る︒もっとも︑ 一九六七年に書かれた
‑ 7 パ lの最後のエッセ(刊にもこの祈りが入っているが︑それはすでに変更後の
形になっているところからすると︑最終的判断︑がなされたのはこの年であったとも考えられる︒もっともこのエッセイ t 土 台
一 l パ
l の
死 後
︑
一九八四年になってからアlスラの手によって発表されたものであったが︑そのことを考えると︑
この祈りにはア l スラの手が加わっている可能性も否定できない︒
いずれにしても︑ 一九六九年以降︑そしてニ
l パ
l の死後も︑この形をもって問い合わせに応じている︒
ニ
l バ
lの説教と祈りを集めて︑それを﹃正義とあわれみ﹄と題して出版しているが︑そ
ア ー ス ラ は ︑
また︑彼女は︑
一 九
七 四
年 ︑
こにもこの形でニ l パ l の祈りを収めている︒
しかしながら︑これまで﹁冷静
2 2 8 5
1 ﹀を求める祈り﹂と呼ばれてきたように︑
J q 2 5 1 3
の直載な祈求から始 まっているところにこの祈りの特徴の一つがあったと思われるが︑この最後の版では︑その直載さがやや後退し︑冗長 なものになってしまったように感じられる︒そして
E
当E ぺ
wで な
く ︑
E P O S
口 ‑
問
ω笹山門ョをとっていることがそれをさら
に助長しているようにも思われる︒むしろ︑ピンガムが記し︑その後一般にもっともよく知られてきたと思われる︑冒
頭に掲げた形のほうが︑無駄がなく簡潔で︑ しかも美しいかたちになっているように思うのは︑筆者だけだろうか︒
お わ り に
以 上
で ︑
ニ l
バ
l の﹁冷静を求める祈り﹂をめぐる錯綜した情報はかなりの程度整理できたかと思う︒
ニーバーの「冷静を求める祈り」
2 6
ラニ i パ
l は︑上に触れた最後のエッセイで︑祈りの作者を問い合わせる手紙に自分がそれであると返事を書く度に︑
病の中にあって不安を覚えている自分自身のうちに︑この祈りの精神に反している姿を見せられて困惑している︑と告
ミ リ タ ス ( 紛 )
白している︒しかしわれわれは︑そのような姿にニ l パ l の﹁謙虚﹂を見るのであるが︑この﹁謙虚﹂のゆえに︑そ
2 6 6
の最晩年︑祈りの作者問題に困惑を深くしている老ニ
lパ
lの姿も想像される︒
ニ l パ I
は︑ラフからの手紙を受けとった明くる一九七一年︑六月一日木曜日のタベ︑静かにそして安らかに
(ω OB DO }M L息をひきとった︒それは︑七九歳の誕生日を三週間後に︑結婚四 O 周年の‑記念日を半年後にひかえた日で
あ っ
た ︒
ニ
lバ
lはついに︑祈りの作者問題に当惑したまま世を去った︒ しかしながら︑この祈りを深い意味においてつねに
心のうちに秘めつ︑文字通りその精神に殉じた人が︑ラインホールド・ニ l バーその人であったことは間違いないであ
ろう︒歴史におけるパラドックスとアイロニーを人一倍鋭い感性をもって認識していたニ i パ l は︑その歴史の中で︑
セ レ ニ テ イ カ レ イ ジ ウ イ ズ ダ ム
冷静さと勇気と︑そしてその両者を見分ける知恵を求めつつ︑神の限りない恩寵に一切を託して︑与えられた生涯を
精一杯生き切ったのである︒
六月四日の葬儀のおり︑ ニ i パ l の年来の親友でもあったユダヤ教の碩学︑ラピ︑ A ・へッシェル(﹀
σ S E B E g
‑
nF