創価大学教育学会第13 回教育研究大会報告 基調講演
牧口先生の単級教授への取り組みと創価教育学説
―子どもの能動的な学びの力の育成―
足利工業大学教授・創価大学非常勤講師
麻 生 千 明
本日は,「現代の教育的課題と創価教育学説」シリーズのⅤとして基調講演の機会 を与えていただき,大変光栄である。講演は「牧口先生の単級教授への取り組みと創 価教育学説」とのタイトルで話をさせていただくが,これは私が大学院生時代,創価 教育学説について研究し始めた頃に抱いていた問題意識,テーマであった。そこで,
私は,まずわが国における単級学校,単級教授の成立過程等について調べ教育史学会 で発表,その発表資料をもとに弘前学院大学に奉職後最初の 3年間,単級教授に関し て大学の紀要に論文を 3本連載した。その後,特に明治期の教育に関していろいろな 研究をしてきたが,創価教育学説の研究も絶えず念頭にあり,今回の基調講演は,そ うした私の大学院生時代から抱いてきたテーマについての一応のまとめをする良い機 会にもなった。
以下,発表においては,牧口先生の敬称を略して「牧口」とさせていただき,また
『牧口常三郎全集』(第三文明社)からの引用は,以下『全集』と略記する。また『全 集』からの引用文中,原文では濁点が付されていない部分も,分かり易いように濁点 を付した。
序 創価教育学説の特徴――日々の教育実践におけるメモリーの蓄積――
創価教育学説は,牧口自身が「日常の職務遂行の必要上から反省し思索したメモリー の堆積」(「創価教育学体系第一巻 緒言」『全集第五巻』6頁)と述べているように,日々 の教育実践のなかでのメモリーの蓄積によって形成されたものであった。その背景に は,学者,実際教育家(教師)の双方に対する牧口の次のような批判的認識があった。
「学者が教育技術をその研究対象として比較観察をなして批判的研究をなすこと をせず,実際教育家が貴重なる自分等の経験を学問化する( マ マ )が出来ず,依然として 欧米語の原書を以て学問の唯一淵源と心得て居る。斯くして具体的観念の充実な
い虚妄の概念と,抽象概念に達しない盲目的観念との対立のみでは永久に科学的 教育学の形成はされまい。」(「教育方法論 緒論」『全集第六巻』308頁)
牧口が構想していた教育学は,医師の治療経験の総合によって形成される医学をモ デルとするもので,特に教育実際家の実践経験の蓄積によって形成される科学的教育 技術の学としての教育学であった。したがって創価教育学も,改めて『全集』を読 み返してみると,牧口自身の教育実践,とりわけ若き頃の北海道時代における単級学 校の教育への取り組み,そこでの実践的思索が色濃く反映していることが痛感される。
以下,Ⅰ.牧口の北海道時代における単級教授への取り組み,Ⅱ . 創価教育学説にみ る単級教授への取り組みの影響,との大きく二部の章立てで話を進めていきたいと思 う。
Ⅰ.牧口の北海道時代における単級教授への取り組み
1.北海道師範学校付属小学校において単級教室を担当
牧口は 1871(明治4)年6月6日,柏崎県刈羽郡荒浜村(現在の新潟県柏崎市荒浜)
に生まれた。そこは日本海に面した,荒涼たる厳しい自然環境で,後年の『人生地理学』
の着想の原点にもなったといわれている。また牧口が生まれた年は,教育の中央官庁 である文部省が創設された年で,翌1872(明治5)年には,西洋をモデルにわが国近 代学校制度の発足を示す「学制」が頒布された。まさに牧口の生涯は,わが国近代学 校制度の成立史と軌を一にしていた。そして 1878(明治 11)年に地元の荒浜小学校 に入学,当時は就学率も極めて低いうえ,ほとんどが中途退学であったが,牧口は卒 業までこぎ着け,「秀才の牧口」,「優等生の牧口」と言われるほど勉強熱心な少年で あった。1885(明治18)年に北海道に渡り,小樽警察署長,森長保の給仕となる。こ の時期も寸暇を惜しんで勉強に励み「勉強給仕」と言われた。1889(明治22)年3月 には森長保の札幌転勤に伴い札幌に移住,1891(明治24)年4月,北海道師範学校第 一部第三学年に編入学する。そして 1892(明治25)年6月,北海道尋常師範学校4年 の時は「教生」として同校附属小学校の教壇に立った。師範生徒としても極めて優秀 だった証左と言えよう。翌1893(明治26)年1月,牧口22歳の時,名前を常三郎と改め,
同年3月末,尋常師範学校卒業後,直ちに同校附属小学校訓導となり,開設したばか りの単級教室を自ら進んで担当し,単級教授に本格的に取り組むこととなる。
2.単級学校・単級教授の成立に関する法制史
明治以後,西洋より一斉教授法が導入された。当時は「等級制」(6 カ月進級制)のもと,
当然,等級別(学年別)教授が原則,理想とされたが,校舎施設の不備,教員の圧倒 的不足,児童の就学状況(就学率が低いうえ,ほとんどが中途退学で極端な「ピラミッ
ド型」の在籍構成)等のもと複数等級を合併した「合級教授」(複式教育)の実態が 広くみられた。
そうした状況のもと,明治20年代には法制,医学,軍事,教育など,あらゆる面に おけるドイツ志向の一環として,ドイツの ein-klassige Volksshule をモデルに単級学 校が制度化されることとなる。法制史的には 1886(明治 19)年,(第一次)「小学校 令」のもと,同年5月25日公布の文部省令第8号(「小学校ノ学科及其程度」)において,
次のように一教員の受け持ち児童数に関する規定が初めて登場する。
第五条 尋常小学校ニ於テハ児童ノ数八十人以下高等小学校ニ於テハ六十人以下ハ 教員一人ヲ以テ之ヲ教授スルコトヲ得
第六条 小学校ニ於テ教員二人ヲ置クトキハ二学級ヲ設クヘシ児童ノ数百二十人ヲ 超フルトキハ三学級トナスヘシ 但教員三人以上ヲ置クトキハ本文ニ準シテ学級 ヲ設クヘシ(『明治以降教育制度発達史(以下『発達史』と略記)第三巻』39頁)
従前は,等級制のもと「級」といえば専ら grade(等級)概念のみであったが,こ の法令により初めて「集団」としての学級観が登場することとなる。「単級」という 用語こそみられないものの,全校児童数が 80 人以下(尋小)の場合は一学級の,実 質的に単級学校となることから,この法令は単級学校成立の「前史」として位置づけ られる。
さらに同日,文部省訓令第一号「小学校簡易科要領」も公布される。簡易科(簡易 学校)とは,当時の森有礼文相が就学普及の意図から貧困家庭の子弟を対象に修業 年限 3 年以内,学科は読書・作文・習字・算術の四学科,授業時間は一日 2 ~ 3 時間,
授業料無償の学校として制度化したもので,そのほとんどは全校児童数80人以下の実 質的に単級学校であった。
さて,北海道においては,同訓令に基づき 1887(明治20)年4月,庁令第16号「小 学校規則及小学簡易科規則」が公布されたが,当時の北海道は尋常高等小学校が 4校,
尋常小学校が 6 校,私立では尋常高等小学校が 2 校,尋常小学校が 17 校で,残りの 261 校(うち私立 8 校),すなわち約 9 割(87%)は簡易学校であった。(『北海道教育 史 全道編Ⅲ』364頁)上述したように簡易学校はたいてい一学級の単級学校でもあり,
とりわけ北海道は 9割,すなわちほとんどが単級学校だったのである。
そして 1890(明治23)年の(第2次)「小学校令」下において,1891(明治24)年 11月 17日,文部省令第12 号(「学級編制等ニ関スル規則」)が公布されるが,その第 一条に「全校児童ヲ一学級ニ編制スルモノ之ヲ単級ノ学校トシ二学級以上ニ編制スル モノ之ヲ多級ノ学校トス…」(『発達史第三巻』106頁)との条文が登場する。すなわ ちこの法令によって学級数の単複による単級学校と多級学校が制度化されることとな る。
そして同日公布の文部省令第 26 号(「尋常師範学校附属小学校規程」)の第三条に
「附属小学校ノ学級ノ編制等ハ管内最多数ノ小学校ノ学級編制等ヲ例トシ本年十一月 文部省令第十二号小学校ノ学級編制等ニ関スル規則ニ準拠シ府縣知事之ヲ定メ文部大 臣ノ許可ヲ受クヘシ但単級ノ制ニ依リタル学級ハ必ス之ヲ設クルコトヲ要ス」(『発達 史第三巻』595頁)と,師範学校付属小学校に単級教室を必置すべきことが規定される。
そして同条文の「説明」に,「単級ノ教授ハ実ニ至難ノ事業ニシテ生徒在学中十分ニ 実地ノ練習ヲ積マサレハ卒業ノ後単級ノ学校ニ赴任従事スルモ教育ノ実効ヲ奏スルコ ト甚タ難カルヘシ是レ単級ノ制ニ依リタル学級ヲ設クルハ附属小学校ニ関シテ殊ニ缺 クヘカラサル要件トナシタル所以ナリ」(『発達史第三巻』596頁)と,師範付属小学 校に単級教室を必置した理由が述べられている。この規程にもとづいて北海道尋常師 範学校付属小学校にも 1893(明治 26)年に単級教室が設けられることとなり,牧口 が最初に担当することとなったのである。
3.北海道の地域性(僻地性)――単級教授の研究の切実性――
単級学校が制度化された明治 20 年代半ば頃からは全国各地において単級教授に関 する講習が盛んにおこなわれている。北海道においても「単級の編制及教授法は就中 各教育者の注意する所となり或は講習会を開設し或は書籍雑誌に講述し孜々として研 究に従事」(「北海道教育会雑誌」明治二五年八月『北海道教育史 全道篇Ⅰ』792頁)
する状況がみられた。
なお明治 20 年代半ば頃の講習は,おおむね中央から著名な学者を招いての講習で,
北海道においても岩谷英太郎(北海道師範教諭)など地元の数人を除いて波多野貞之 助,藤代禎輔,白井毅,田中敬一など著名な人物が講師を務めている。波多野と藤代 は著名なヘルバルト教育学者であり,田中敬一は単級教授法の権威であった。(『北海 道教育史 全道篇Ⅰ』794 ~ 795頁)
また明治20年代後半期は,全国的に単級学校数の比率が約4割を占めるなど最も多 く,明治30年代以降は就学児童数も次第に増加,各学校の学級数も増え,単級学校数 は次第に減少していく。しかし北海道においては明治20年代後半以後も単級学校が依 然として多かったようで,右表は明治 25 年から 31 年に
かけての一校当りの平均学級数であるが,ほとんどの年 が平均 2 学級以下で,単級学校が大部分を占めていたこ とを示している。(『北海道教育史 全道篇Ⅲ』366頁)
加えて北海道は,住民の移動も頻繁で,就学児童の年 齢と学力の格差が大きく,単級教授の実践は他地域に比 べて極めて困難だったようである。北海道在住の柳川善 司が『教育報知』に寄せた記事に,「北海道各地の如きは,
住民の転住,移動常ならず,勢入学期を一定する能はず
年 度 1校当りの 平均学級数 明治25年 1.4
〃 26年 1.5
〃 27年 1.4
〃 28年 不明
〃 29年 2.0
〃 30年 2.2
〃 31年 1.6
して,学力の差甚しきをいたし,又年齢十二三歳に及ふも,教育なかりしため,六七 歳の者と伍するあり,此等のものに対し,教授力を配当する亦頗る難からさるへから す,生や職を単級小学に奉ずる茲に多年,常に此事業の容易ならさるを思ひ,…」(「単 小学読本を特定すべき議」『教育報知』460号 明28・2・9 6頁)と報じている。
また全国的には単級学校が減少していく明治期後半から大正期にかけても,北海 道においては複式教授など僻地教育問題への取り組みが,より本格化していくこと となった。『北海道教育史』に「僻地教育問題は,明治三十二年頃から,ようやく 啓蒙の域を脱して,主体性のある研究課題として登場することになった。それはま ず,明治三十二,三年ごろから,単級学校の管理,経営,さらには教授法ということ が盛んに論じられ,これに明治三十八年ごろから二部教授の研究が付加された。明治 四十一,二年ごろから,複式教授の内容,方法に関する本格的な研究へと発展した。」
(『北海道教育史 全道篇Ⅲ』383頁)と記述されている。
4.牧口による単級教授法の講習筆記録(明治28年)と「単級教授の研究」
(1) 文部省主催単級教授法講習会に北海道から牧口が参加
1895(明治28)年の夏季には尋常師範学校教員等を集合し,文部省主催の単級教授 法講習会が開催される。『文部省年報』によると,講習員は「茨城,青森,岡山,広 島,鹿児島ノ五県ヲ除クノ外各府県及北海道庁ニ渉リ六十五人,高等師範学校及女子 高等師範学校訓導三人,計六十八人ニシテ講習証明書ヲ授与セシ者六十六人」(『日本 帝国文部省第二十三年報』明治28年6頁)とある。それに牧口が北海道を代表して参 加,その時の講習筆記録が地元雑誌等に連載され,それが『牧口常三郎全集第七巻』(第 三文明社 1982年)に収録されている。
故・佐藤秀夫氏(当時,国立教育研究所教育史料調査室長)は,牧口の講習筆記録 の資料的価値について,「この講習会の内容を今に伝える唯一の確かな記録といって いいものであり,ただに牧口教育学説形成史上の資料であるばかりでなく,九〇年代 に盛行した単級教授法を知るうえでの類まれに貴重な史料であるといえる。」(「牧口 常三郎と北海道」『第三文明』1981年7月号66頁)と高く評価,さらに講習の受講者 のなかで「牧口ほどの克明な講義記録を残している他の人を,管見の限りでは,未だ 見出しえない」(「北海道での教育者・牧口常三郎――単級学校教授論とその意味―
―」『第三文明』1985年4月号160頁)とも指摘している。そして当時は筆記といって も,今日のような簡便な筆記用具はなく,おそらく毛筆に墨汁をふくませつつの筆記 で,かなりの労作業であったと想像されると述べたあと佐藤氏は,「自分を東京に送 り出した北海道の初等教育が求める「要請」を強く自からに課したからこそ,他の参 加者がよくなしえなかったほどの克明な約五万字にのぼる講義ノートを作成したので あろう」(同上161頁)と述べられている。
牧口の単級教授法講義の筆記録は,第一章 序論,第二章 組分け,第三章 時間割,
第四章 校舎校具,第五章 教授,第六章 訓練,第七章 准教員の七章立てで構成 されているが,以下,第一章~第四章の要旨を紹介したい。
まず「第一章 序論」では「第一 単級と云ふ意義」との見出しで,単級学校はド イツの ein-klassige Volks-shule(一学級の国民学校)をモデルとしたもので,その 法令上の成立は明治24年の「学級編制等ニ関スル規則」によるが,それ以前から文部 省や江木千之氏の調査,寺田勇吉氏の報告,著書では木場貞長氏の『日本独逸合級小 学校』(明治21年出版),山田邦彦氏の『単級小学校』(注,『単級教授法』の誤り)(明 治22年刊)など単級学校に関する調査や報告,著作等はあったことなどが述べられて いる。なお牧口の講習筆記録には書名のみが示されていた山田邦彦と木場貞長の著書 内容について,ここで若干紹介したい。
(2) 山田邦彦著『単級教授法』および木場貞長著『日本独逸合級小学校』について 山田邦彦著『単級教授法』には「単級トハ,学力ノ程度仝ジカラザル数組ノ生徒ヲ 一団トナシタル者ノ名ナリ。…名称ノ意ハ別別ノ者ヲ単ノ級トナシテ教フト云フ事ナ ラン。」(57頁)と単級の意味について述べ,その「原意」はドイツ語のウンゲタイル,
英語のアングレーデットシスチムすなわち無等級であり,「此ノ名称ノ始メテ我ガ邦 ニ行ハレタルハ,十九年文部省令第八号小学校ノ学科及其程度ヲ発セラレシ頃ヨリノ 事ナリキ。従前懸持,合併又ハ合級ト称ヘシト,其ノ名ハ仝ジキモ其実ハ異ナレリ。」
(58 頁)と,明治 18 年の文部省令第八号に単級が示されていると述べている。単級 学校が制度的に成立した第2次「小学校令」期には,単級教授とは単級学校の教授法 という意味に一律化するが,それ以前の山田のこの著書では,上記の文,また「一人 ニシテ数級若シクハ一学校ヲ受持チ得ルノ技術即単級教授法」(35頁)との記述からも,
多級学校における複式教育も含めて「単級」と称している。複数の等級を「単ノ級ト ナシテ」教えるという意味で「単級」という用語を用いているのである。
また同書には,当時の合級教授の実態について「教員少キ学校ニ於テハ,一人数級 ニ当ルハ勿論ノ事ニシテ,教授ノ順序,時間ノ極リナドノコトハ,此ノ辺ニ望ミヲ懐 クベクモアラズ。又彼ノ前日ニ準備ヲナスハ稀ニシテ,何時モ手当リ次第ニ切リ抜 ケ,一年生ノ読書,二年生ノ算術,三年生ノ作文ト彼レニ行キ之ニ皈リ,其ノ速キコ ト飛脚ノ如ク,一日五時間忽チニ事ヲ果タス,其ノ手際実ニ驚ク程ノ物アリト雖,翻テ,
生徒各自ニ得ル所ヲ見レバ,一日ざわざわト暮シタルニ非ザレバ,宿題暗記ノ苦ミヲ 授ケラレシニ過ギザルノ奇談モ少カラズト云フ。」(12頁)と述べているが,当時の合 級教授の大方の実態を示していると言えよう。そうした合級教授の実態に対して山田 は,等級の異なる子どもたちを,いかに「単ノ級トナシテ」合理的,能率的に教えるか,
という点に単級教授の課題とみていたと言える。
また木場貞長著『日本独逸合級小学校』について,後年(明治35年),黒田定治は「其 の内容は,独逸国の単級の組織制度を述べたるものなり。木場氏の単級小学校と称せ
ずして,合級と称せられたるは,当時合級と云ふ語が今の単級と同様に用ひられたる 為によりしならん。」(『単級教授法』文学社4頁)と述べている。(拙稿「単級学校教 授法の形成過程における第 1 次小学校令期の位置づけ」『弘前学院大学紀要第 16 号』
1980年)
(3) 合級と単級の原理的相違と単級教授の課題―学科等による組分けと時間割編成― 次に「第一章 序論」の「第二 単級に関する誤謬の見解及合級学校との区別」に おいては,合級と単級の相違について,合級の場合は級の区分に一切変更はないが,
単級は「文部省令第十二号」の説明中に「単級の尋常小学校の児童は年齢学力の等差 に従い数区に区別すべし」とあるように,「団体を便宜数組に分解したるものなるが 故に,其各部分は教授の都合によりて適宜増減するを得」(『全集第七巻』8 ~ 9頁)
る点に合級と異なる単級教授の特徴があると述べている。そして「要は一人の教師に て如何なる方便によるを論ぜず,適当に有益に全校生徒を教授すれば足る,之を研究 するは真に吾人の任なり。」(同上8頁)と記されている。そこに「吾人の任」とある「吾 人」とは,講習を担当した黒田とも解されるが,「吾人」という表現からも,むしろ 牧口が自身の決意を記したものと思われる。受講に際して牧口は,講習内容を忠実に 筆記,血肉化するとともに,自身の感懐をも随所に書き入れたものと思われる。その 意味では,単なる講習筆記録ではなかったとも言えよう。
次に「第二章 組分け」の章では,単級教授においては児童の年齢,学力,学科の 性質等により適宜組分けが必要となるが,なかでも学科の性質による組分けが重要で あるとして,例えば修身など主として教師の口授,又は講説に属する学科は組数を少 くすることでできること,算術など論理的進歩を要する学科は等級による児童の学力 差も大きいので組数を多くする必要があること,習字など各自の練習に属する学科は 組数を多くしても支障が少ないなど(『全集第七巻』23 ~ 24頁),組分け,学科の組 み合わせ,時間割編成等が単級教授の重要な研究課題であるとされている。次に第三 章は「時間割」と題して,学科の組み合わせや具体的な時間割例が示されている。
(4) 単級学校の訓育上のメリット――家族的教育,異学年児童の交流――
次に「第四章 校舎校具」では,まず校舎について「可成質素簡易に処置するを要 す」(『全集第七巻』37頁)と述べ,次に単級学校にはたいてい敷地内に教員居宅が付 設されていたが,そのことの利害について詳述されている。利点については,教師と 生徒の間の家族的な交流,家族的教育のメリットがあげられている。その点,わが国 近世江戸時代の私塾は,塾主と門人たちが起居を共にしての全寮制の教育であり,学 問にも厳しかったが,緊密な師弟関係による人間教育,生活教育に大きな特色があっ た。教員居宅を付設した単級学校も,近世の私塾にみられたのと同様の家族的な教育 の利点があったと言える。半面,教師の家庭,家族の実態によってはマイナスの影響
を与えることもあり,また教師の家族にとってはプライバシーがなかったり,公私混 同という弊害などがあげられている。
ところで『牧口常三郎全集第七巻 初期教育学論集』には,単級教授法の講習筆記 録のほかに牧口自身の考察が加えられた論稿もいくつか収録されている。そのなかに
「単級教授の研究」と題する論稿がある。そこでは,単級学校は多級学校に比べてあ らゆる面で教育条件が不利で困難も多いが,それゆえに教師の格好の訓練場でもある と述べ,「単級教師として更に要すべきものは,熱心と慈愛なり」(『全集第七巻』183 頁),「単級教師の一顰一笑は軽忽にすべからざるなり」(同184頁)と述べている。牧 口は後年,東京での校長時代に,貧しい家庭の子どもには学用品を与えるなど深い慈 愛を注いでいるが,それは牧口の生来の性格に加えて単級学校の教育への取り組みの なかで培われた面も少なくなかったと言えよう。
また「単級教授の研究」では,教師と生徒間の家族的教育の利点のみでなく,「吾人,
教育組織の統一を単級唯一の得点とするは,寧ろ生徒相互の関係にありと信ぜんとす るものなり」(『全集第七巻』162頁)との記述がある。すなわち学校教育においても 家庭的,家族的な情愛が支配していることが理想であるが,「翻て現今最とも完全な るものとして行はるゝ多級編制(分級室主義の編制)なるものを顧るに,果して家族 的の理想を満足せしめ得るや」(『全集第七巻』158頁)と問題提起をしている。確か に多級編成の学年別教育は,教授上は効率的で理想であることは言うまでもないが,
生徒たちは同一の境遇,同一の目的をもち,生徒間は「唯学力の等差あるのみ。従て 一種の競争場裡たり,互に敵手たるは免かるべからず,同情を沮害するもの幾許ぞ」
(『全集第七巻』160頁)と,同情,友情等が育ち難いと指摘している。それに対して 単級学校は異学年,異年齢の児童たちが同一の部屋で生活し教育されていることから,
児童生徒の間におのずと同情や友情などが醸成されるという。日本もかつては戸外で の異年齢の子どもたちの集団遊びが各地で多くみられたが,現代は少子化でめっきり みられなくなった。したがって異学年・異年齢の子どもたちの交流の場や機会を意図 的に設けなければならない現状であるが,かつての単級学校には,異学年児童の交流 という教育的メリットがおのずとあったと牧口は指摘しているのである。
次に牧口の講習筆記録の第五章は「教授」に関しての章で,子どもの自働,自発活 動の重要性が指摘されているが,その内容は後年の創価教育学説における教育方法論 や教師論につながっていく面が多分にあるので,創価教育学説との関連においてみて いくことにしたい。
Ⅱ.創価教育学説にみる単級教授への取り組みの影響
1.「経済を原理とせよ」
「創価教育学大系概論」に「○教育方法論の最要原理は学習力の経済,従つて教授力 の経済である。教授力,学習力,時間言語費用等を節約して如何にして目的を達する かにある。」(『全集第八巻』186頁)とある。「経済を原理とせよ」とは,創価教育学 説のモットーのひとつであるが,その経済の原理は,特に牧口の若き頃の,教育条件 が不利な単級学校での教育への取り組みのなかで痛感され,導き出されたものと言え るように思われる。その証左として,単級教授法講習筆記録の「第五章 教授」に次 のような記述がある。
「単級教授法とは,如何なることを研究するものなるか。学力年齢等の等差ある 一団の生徒を一人の教師にて教ふる場合には,如何なる方法を以てすれば,最も 教育上成効あらしむるを得べきかを研究するにあり。…然らば教育上,最有効に して単級に行ふを得べき教授法とは,教師の勤労を適当に各組に分配すること,
生徒をして適当に時間を徒費することなく,学習するを得せしむること,の二条 を研究せざるべからず」(『全集第七巻』42 ~ 3頁)
また「単級教授の研究」においても「之(単級学校…引用者注)が教師たるものは,
非常なる節約を労力と時間とになすにあらざれば能はず」(『全集第七巻』187頁)と ある。単級学校は一人の教師で全学年の児童の教育にあたらなければならなかったの であるから,そうした不利な条件のもとで時間と労力(教授力,学習力)等を無駄に することなく有効に使い,いかに教育の効果をあげるかは切実な問題,課題であった のである。
2.創価教育学における教育方法論――「学習指導」主義――
(1) 単級教授における子どもの自学・自働の重視
単級学校は,一人の教師で全学年の児童の教育(教授)にあたるわけで,当然教師 の指導の手がゆき届かない点が多かったことは否めない。単級教授法講習筆記録に,
「是に於てか,或組は必然の結果として,教師の注意監督を離れたる自働的の課業に 従事せざるを得ず。去れば世間,此自働的課業を以て,全く単級教授に於て不得止に 出でたる一時の救済策となし,其多きに過ぐるを以て単級教授の大なる弊害の如く思 惟するものあるに至れり」(『全集第七巻』43頁)とある。すなわち世間一般では,教 師の指導の手がゆき届き得ないことは単級学校の欠点とみなされていた。それ故に必 然的に子どもの自学,自働に依存せざるを得なかったわけであるが,それは子どもの 自働の習慣を培うという,むしろ利点であると言う。続けて「第二 自働に就きて」
と題し,教師は「(イ)材料を与ふのみならず,力を与ふべし。(ロ)知らしむるの みならず,能くせしめよ。(ハ)理解せしむるのみならず,応用せしめざるべからず。
……(教師は)智識のみを授けて能事了れりとすべからず。同時に生徒をして自ら独 立に活働せしめざるべからず」(『全集第七巻』45頁)と,子どもの自発的活動を極め て重視する。むしろ「決して監督を間断なくし,生徒の独立自働の性を抑圧すべきに あらず」(『全集第七巻』45 ~ 46頁)とさえ述べている。
(2) 「教授」を斥け「学習指導」という用語を用いている……子どもの「学ぶ力」の育成 牧口の,単級学校教育への取り組みのなかで培われた思索と主張は,後年の創価教 育学説の,特に教育方法論と教師論の基調をなしている。「教育方法論 緒論」にお いて牧口は,小学校から大学に至るまで,授ける知識程度の高低,知識分量の多少を 以て評価する当時の状況を批判し,次のように実に注目すべき主張をしている。
「教育は知識の伝授が目的ではなく,学習法を指導することだ。研究を会得せし むることだ。知識の切売や注入ではない。自分の力で知識することの出来る方法 を会得させること,知識の宝庫を開く鍵を与へることだ。労せずして他人の見出 したる心的財産を横取りさせることでなく,発見発明の過程を踏ませることだ。」
(『全集第六巻』285頁)
私が創価教育学説を通覧してまず驚いたことは,上記のような文章が,戦前の,し かも軍国主義が次第に支配的になっていく昭和ファシズム期の文献にみられたという ことである。そもそも「学習指導」という用語が普及,一般化するのは戦後において であり,戦前は,教師は国定教科書を絶対的なものとして,教科書を忠実に教え込む こと,すなわち教化注入が任務であった。大正期は「大正デモクラシー」の時代思潮 のもと,木下竹次著『学習原論』が刊行されるなど,「学習」という用語も一部みら れたが,昭和のファシズム期を経て戦時下の国民学校においては,「皇国民ノ錬成」(「国 民学校令」)が目的となった。「錬成」とは「錬磨育成」の略語で,忠君愛国の精神を 心身ともに叩き込む教育である。そんなファナティックな教育が支配していた時代に あって,牧口の創価教育学には,「学習指導」という用語のみならず,上記のような 主張が展開されていること,しかもそれが大学に関してではなく初等(小学校)教育 に関しての言説であるということは極めて驚異に値する。
(3) 代行主義批判――児童自身に力をつけさせることが何より大切――
牧口が,子ども自身に力(学力)をつけることをいかに重んじていたか。「単級教 授の研究」に「蓋し単級教授に熟練と称するは,多く形式上の配置に巧妙なるを言ひ,
生徒の学力如何をば漠然度外に付する尠からず。請ふ最も巧妙の名ある単級学校に就
きて,生徒の学力を検し来れ。恐らく一驚を喫するを免るまじ」(『全集第七巻』156 頁)との記述がみられる。単級教授においては,先述したように組分けや時間割編成 などの創意工夫が大切であるが,大方の学校現場ではそうした面の創意工夫も不十分 であった。ところで牧口は,教授法の巧拙如何もさることながら,教授の結果として の子どもの学力の如何を最も問題にしているのである。
牧口が,子ども自身に学力,学ぶ力をつけることを何よりも大切と考えていたこと は,当時の代行主義批判に端的に示されている。すなわち親が子どもの宿題をやって あげる当時の風潮,そして教師もそれをわかっていながら見て見ぬふりをしている 事なかれ主義を強く批判していているのである。そして「嬰児を背負つて旅行しても,
その子は大人と共に一定の距離を通過した事にはなるが,歩行の力には毫もなつて居 ないことは誰でも知れる所であらうに,同様の錯覚が学習過程には見えないといふの は何といふ事であらう」(「教育態度論(続き)」『全集第九巻』22頁)と,実にわかり やすい巧みな比喩をもって痛罵しているのである。
(4) 教授の目的は(多方)興味の喚起――ヘルバルトの教授論――
それでは子どもに学ぶ力をつけるためには何が大切か。牧口は,「馬を河畔へ連れ 行くことは出来るが,馬の意に反して水を飲ませることは出来ぬ」とのジョン・デュ ウイーの言を引いて,子ども自身に学習に対する興味,関心,意欲を喚起することが 何よりも肝要である。子ども自身に興味,関心,意欲がなければ,どんなに知識を与 えても,何の力にもならないし,無益であるのみか有害でさえあると指摘している。
そしてそのことも食物に譬えて,「滋養物をいくら沢山供給しても,吸収し消化する 力のないものには無益且つ有害であると同様,不消化の知識の詰込みや押売りも,無 益で且つ有害である。……不消化の知識も不用のまゝ忘却して仕舞ふだけなら実害は 容易に見えまいが,なまじい忘失されない為に,却つて推理統合等の高等なる心意作 用の妨害をなすことは,記憶力の旺盛なる人が大きな役に立たぬによつても察するこ とができる」(「教育態度論(続き)」『全集第九巻』20頁)と述べている。不消化の食 物は,排泄されなければ腸内で腐敗するなど身体に害を及ぼすように,不消化の知識 は,ただ無益であるばかりでなく,推理,統合など高等な心意作用にとって有害でさ えあると牧口は述べている。古来,そして現代においてもなお記憶偏重の学力観が支 配的なわが国教育界において,実に傾聴すべき忠言と言えよう。
ところで,子どもに興味を喚起させることが教授の目的であるというのはヘルバル ト(派)の主張であった。創価教育学の「教育方法論」に,「従来の教授では知識授 与の目的を達する手段として,面白く教授したものであるが,それは間違ひである。
興味を起させる目的の為めに知識を供給するのでなければならぬ,といふのが,ヘル バルト派の新しい主張であった」(『全集第六巻』284頁)との傾聴すべき記述に続いて,
「然るにそのヘルバルト主義の流行した時代は,巳に三十余年も過ぎて居る今日,ヘ
ルバルトのへの字もいふものがない程になつたのである。そして其後に幾変遷を重(かさね)た のに拘らず依然として知識注入主義の教授は改められず,今も尚ほ流行して居て,今 日の病弊を来したのである」(同上284頁)と牧口は述べている。
明治以降のわが国には欧米のさまざまな教育学説,思想が紹介導入されたが,「和 魂洋才」とも指摘されているように,「魂」すなわち教育目的は「教育勅語」などわ が国固有の目的が確固としてあり,西洋の学説は「才」,すなわち主に教育の方法レ ベルにおいて移入実施されてきた。ヘルバルト教育学の受容についても,ヘルバルト 自身の教授論,教授思想は正当に受容されず,ヘルバルト派の主にチラー,ラインの「五 段階教授法」という授業展開の定式のみが以後,長く学校現場に普及,定着していった。
そのことも,まさに牧口自身が「彼のヘルバルト主義の大流行でさへも,実際家には 殆ど徹底の理解はされず,形式的の模倣に留まつて居るから弊害百出の裡に,時代は 変り,遂に忘れられてしまつて今日に及んで居る程である」(「教育方法論 緒論」『全 集第六巻』307頁)と指摘している。
さらに牧口は,その後の大正新教育に関しても同様に,「動的教育だの,自由教育 などの名称で,一時天下の参観教員を集めた時代があつたことはまだ記憶にある所で あらうが,今果して何の面影か残る。ダルトン・プランや,プロジェクト・メソッド などもその通り,単に日本のみならず教育の新流行といへば大概こんなものであつ た」(「教育方法論 緒論」『全集第六巻』350頁)と,ただ学説や教育方法の新奇さの みを追い求めては,ほどなく忘れ去られてしまうわが国に特に顕著な「流行」現象を 痛烈に批判しているのである。
3.創価教育学における教師論・教師像
(1) 児童の学習の援助者(「補助者」「誘導者」「産婆役」)
子どもの能動的な学習活動を重んずる牧口の主張は,教師論に関しては「教師は飽 くまでも,自らの地位を自覚し謙遜して,側面よりの被教育者の補助者,誘導者,産 婆役として,被教育者自身がなす活動の幇助者たることを忘れてはならぬ」(「教師即 教育技師論」『全集第六巻』54頁)との主張として展開されている。「教育の態度を論 ず」との論稿においても,「どこまでも教師は歌ひ手,子弟は踊り手であり,如何な る場合に於ても教師が舞踏をなし,子弟を歌ひ手としてはならず,……」(『全集第九 巻』12頁)と,あくまでも主体は子どもであることを寸時も忘れてはならないと警告 している。
(2) 完成を目指して精進する過程を示す教師
また世間には,教師は生徒の模範を示さなければならないという尤もらしい主張が みられる。そのことに関しても牧口は,「教育完成の結果の模範を自ら示すにはあら ずして,完成を目標として精進する過程を示す所の模範でなければならない。おれが
如く偉くなれといふような傲慢の態度を示して,子弟を率ひるのではなくして,余が 如きものに満足してはならぬ,更に偉大なる人物を目標として進まねばならぬ。とい ふ謙遜な態度を以つて子弟を導き,それが為には余と共に,余が進みつゝあるが如く に進めと,奨励するこそ,教師のなさねばならぬ正当の途である」(「教育方法論 緒 論」『全集第六巻』286頁)と述べている。後進を自分以上に成長させようとする,ま さに仏法用語でいう「従藍而青」の精神そのものである。
(3) 教師が常時いなくても学習は可能……今日の「生涯学習」の時代にも妥当
昔の,書物が十分でなかった時代には教師の講義も重要不可欠であった。しかし教 科書,教材が完備してくると,教師は,ただ書物を講読し,知識を授けるという「学 者の兼業」のようでは成り立たなくなる。いかに子どもの学習を指導し,学習力の向 上をはかるかという「教師独得の本業」の自覚が求められると牧口は主張する。そし て「一定の時間に必ず一人の教師が居なければならぬといふ是迄の慣例は価値の意識 が明確に教育に導入され,自学自習の方法が貴重なりといふことが認められ,学校の 制度が一変する時代には,全く改良されることになるであろう。」(「教師即教育技師 論」(『全集第六巻』60頁)とも述べている。教師が常時いなくても学習は可能である。
子ども(学習者)自身の主体的・能動的な自学・自習を重視するこの主張は,通信教 育の示唆でもあり,今日の「生涯学習の時代」に相応した主張とも言えよう。そして そうした主張は,牧口自身の少年時代以来の,まさに独学に近い学習体験にも裏づけ られたものであり,そして特に若き頃の,教育条件の不備な単級学校の教育への取り 組みのなかで培われてきた要素が大きいと言えるのではなかろうか。
むすび――創価教育学説の普遍性――
戦後のわが国は,戦前の教化注入主義の教育の反省に立って,子どもの主体性を重 視する教育に転換,「学習指導」という用語も普及定着するようになった。戦後初期 の昭和20年代はデューイの「経験学習」が普及,社会科見学や「ごっこ遊び」など児 童の主体的活動を重視する教育方法が流行したが,やがて「はいまわる経験主義」と 揶揄され,基礎学力の低下を招いたとして「系統学習」論へと傾斜した。昭和40年代 には教材の精選に関する理論もいろいろと登場したが,当時は戦後のベビーブーム世 代の進学期を迎えた時期で,受験競争が激化,受験本位の詰め込み教育が横行,それ らに起因する校内暴力,いじめ等が深刻化するなかで「ゆとり教育」が叫ばれた。「ゆ とり教育」では「新しい学力観」というキーワードのもと,知識の記憶再生型の学力 ではなく問題解決能力,思考力,創造性,そしてそれを裏づける学習意欲,興味,関 心の重要性が強調された。しかし授業時間の削減,教材の厳選,そして子どもたちの 家庭も含めた学習時間の減少等により学力の低下を招来するや,現在は「脱ゆとり教
育」が方針とされ,「習得型」と「活用型」の両方の学力の向上が課題とされている 状況である。「不易流行」という言葉があるが,まさに歴史は繰り返しているのである。
以上,本日は牧口の創価教育学説について,特に教育方法論と教師論に焦点を置い てみてきたが,その学説,主張は時代の変遷を通して現代にも優に通用し得る普遍 性,説得性をもっていることが改めて痛感される。それは創価教育学説が,単にその 時代の流行の学説・思想に盲目的に心酔し,鼓吹するのではなく,冒頭に述べたように,
教育実践家の経験の学問化(理論化)という主張の通り,牧口自身の若き頃の単級学 校での教育への取り組み,そして東京での小学校校長時代の教育実践のなかでの真摯 な実践的思索と検証によって築きあげられていった主張,学説であった故であろうと 思うのである。
本日は,ご清聴ありがとうございました。