はじめに
米沢藩では、米沢城本丸の一画に上杉謙信の遺骸を安置する廟堂(以下、上杉家の呼称により「御 み堂 どう」という)を建立して、それを囲むように堀を挟んで二十一ヶ寺を置き、藩政期をとおして、謙信や歴代藩主の日々の祭祀、あるいは種々の祈祷を行っていた。それは、謙信を本尊とする寺ともいうべきものであった。明治維新となり神仏分離によって、謙信の祭祀も仏式の御堂からから神式の上杉神社へと転換し、その後、神社は県社から別格官幣社へと昇格していく。
本論ではその過程を追いながら、そのつどの上杉家当主、旧藩士、一般市民の心情をとらえ、旧米沢藩領の人々にとって謙信及び神社に合祀された九代藩主治憲(鷹山、祭神名を「上杉鷹山命」とするので、以下「鷹山」という)は、どのような存在であり、その崇敬のかたちがいかなるものであったかを明らかにしていく。なお本論の研究範囲は、最後の藩主茂憲の死去した大正八年(一九一九)までとする。
上杉神社については、謙信三百五十年祭を記念して著された『上杉神社誌』
維新期における藩祖を祀る神社については(上杉神社を扱ったもの)、 1で御堂から神社への変遷過程を知ることができる。また、明治 森岡清美氏、友田昌宏氏、羽賀祥二氏の研究がある
学的考察、明治初期の宗教政策や神道史の立場からの論考といえる。 2。これらは、民俗
本論でも三氏が取り上げた史料を用いるが、人々の心情まで掘り下げてそれぞれの崇敬のかたちに迫ろうとするものであり、各氏との論旨も結論も異なっている。また筆者は、御堂を単なる祖先を祀る廟堂ではなく、藩の安泰を祈る宗教施設とみることも大きな違いである。
第一章「謙信の祭祀の転換」では、まず第一節「藩政期における御堂の概要と幕末維新期の米沢藩」で御堂祭祀と米沢藩について概観する。第二節「御堂における神式での祭祀の開始」では、仏式の御堂から神式の上杉神社に転換する過程と最初の祭典の様子、神社の運営をとらえていく。
第二章「上杉神社の建立」の、第一節「上杉神社社殿の建立と祭典」と第二節「謙信遺骸の歴代廟所への遷座」で、旧藩士による社殿建立と最初の祭典、謙信の遺骸を御堂から歴代廟所へ移すことに対する、齊憲・茂憲と旧藩士の心情を読み解く。
第三章「別格官幣社への昇格と追贈」の第一節「別格官幣社への昇格」と第二節「謙信・鷹山への追贈」では県社から別格官幣社への昇格とそれに伴う鷹山の分祀、昇格を祝う茂憲の旧藩士に対する心情と、旧藩士 論 文
上杉謙信の祭祀の転換 ― 御堂から上杉神社へ ―
加 澤 昌 人
の昇格に対する思いをとらえる。第三節「戦争と上杉神社」では、日清戦争に出征する旧藩士への茂憲の祝辞と、日露戦争の勝利を祝う越後流軍学者の行動を、神社への関わりからとらえていく。
また御堂が現存しないことから、御堂と上杉神社が全く別のものであると解されている向きもあるが、本論をとおして謙信の祭祀は戦国末期から藩政期そして明治と連綿と続くものであることを示したい。
第一章 謙信の祭祀の転換
第一節 藩政期における御堂の概要と幕末維新期の米沢藩(一)藩政期における御堂の概要
はじめに、藩政期における御堂の概要と、幕末維新期の米沢藩について述べておきたい。
上杉謙信は、天正六年(一五七八)三月十三日、越後の春日山城で死去し、その遺骸には甲冑を着せて甕棺に納め、城内の不識庵に埋葬された。その後、謙信の後を継いだ景勝は、慶長三年(一五九八)に会津に転封となる。この時、不識庵はそのまま城内に残され、大乗寺、妙観院、寶憧寺の三ヶ寺に奉仕を命じた。しかし、景勝の後に春日山城に入った堀秀治はこれを嫌い、不識庵の移転を迫った。そのため景勝は、同三年に三ヶ寺に命じて謙信の遺骸を会津に改葬する。さらに同五年、関ヶ原役の後に景勝は米沢へ転封となり、謙信の遺骸も米沢に遷座された。初めは米沢城本丸の西南御隅櫓(宝物蔵)に仮安置され、同十七年に本丸東南の一画に御堂を建立して祀った。
御堂の本壇には謙信の遺骸を祀り、その前に護摩壇を置く。その脇士として左に毘沙門天、右に善光寺如来と、謙信が信仰した二仏を祀る。その他、御堂の間取りは寺院に等しい構造となっている。隣接して別棟で御堂を管理する霊仙寺が置かれた。この二棟を合わせれば奥御殿とほ ぼ等しい面積である。そして堀を挟んた二ノ丸に御堂に奉仕する二十一ヶ寺(二ノ丸寺院)を配置した。いずれも真言宗である。この二ノ丸寺院を置く一画が占める面積はほぼ本丸全体と等しい。この構造や二ノ丸寺院の配置をみれば、御堂が本寺で二ノ丸寺院はその塔頭ともいえる。このことからも、御堂の重要性が読み取れる。 この御堂への参詣は藩主と城代に限られた。御堂では、二ノ丸寺院によって高野山大師廟のように生身供の膳が供えられ、謙信及び歴代藩主の供養の他、種々の祈祷
を行っている は、護国経典の「法華経」や「仁王経」であった。鷹山は雨乞いの参籠 3が日々行われたのである。主に読まれる経典
った。 4。単なる先祖供養の場ではなく、藩の安泰を祈る場であ
二ノ丸寺院の筆頭は法音寺であるが、謙信の法要に限り必ず謙信が春日山に建立し菩提寺とした次席の大乗寺が導師となった。この御堂における法要や祈祷についての論考は後に譲りたい。
さて、この御堂は嘉永二年(一八四九)十二月二十日、当番僧の不始末により炎上、全焼した
火活動に当たった。歴代藩主の位牌の半数を焼失した 堂の火災は建立以来初めてである。この時、藩主齊憲が陣頭指揮して消 5。それまで二ノ丸寺院の火災はあったが、御
は無事で、齊憲自らが付き添い大乗寺へ移され、大乗寺が仮御堂となる。 6が、謙信の遺骸
即日、管理責任を問われた法音寺住職は罷免され、一方、同月二十三日には焼死した藩士の牌面に金小判十五枚が下賜され、加秩二十五石でその家は相続された。また出火当時の当番僧三名の処分は翌年四月に行われ、詰牢、追払、慎となり、齊憲自身も十日間の慎を行っている。同二十七日には大乗寺で「法華経」が読まれ、齊憲も参詣した。法音寺住職の罷免が直接関わった当番僧の処分よりも早く行われたことは、藩における御堂の重要性を示している。
嘉永三年二月より御堂の再建が始まり、八月に竣工し、同十三日に
謙信の遺骸が遷座され、十五日から七日間の法要(「倍増威光法華経」五百部の読誦)が行われた。護国経典の「法華経」が読誦されたことは、単なる先祖供養の場ではなく、御堂が米沢藩安泰の祈願所、精神的支柱であったことが示されている。(二)幕末から維新期の米沢藩と藩主齊憲
御堂の火災と前後し、嘉永元年(一八四八)には出羽国庄内(現酒田市)の沖、飛島附近に異船が出没する。米沢藩ではこの頃から異船に対する警戒をし、齊憲は藩内に西洋流大砲の鋳造、修練を命じるなど、西洋にも目を向けた改革を始めている。革新的な藩主であった。ペリーの浦賀来航はこの五年後である。
次いで文久三年(一八六三)三月、齊憲は将軍徳川家茂に従って上洛し、二条城の警護(以後二年間)にあたる。同年八月十八日の政変では、長州藩に対し撤退勧告の使者を立て、長州藩はこれを受諾して撤退、京都市内での争乱は避けられた。
その後、慶応四年(明治元年、一八六八)一月、戊辰戦争が始まると、齊憲は新政府、幕府双方から誘われるが、会津藩との関係から奥羽越列藩同盟の盟主として新政府軍に対抗することになる。しかし戦況不利となった八月以降、親戚筋の広島藩、土佐藩、高鍋藩の降伏勧告により帰順し、対庄内藩の先鋒となり同藩に降服を勧めながら戦い終戦を迎える。
同年十二月七日、戊辰戦争の処分が下され、領地四万石の削封と齊憲の隠居、茂憲の家督相続という寛大な措置となった。しかし翌年十月には齊憲は免じられて従五位に叙任、復権している
憲が神道に対する理解や傾倒が深かったといえよう。 長代(三月に辞任)に任じられている。管長代に任じられたことは、齊 省から中教正に任じられ(同六年三月まで)、同六年一月には教導職管 もに土佐藩にならい藩政改革を進めていった。同五年十月、齊憲は教部 7。その後、茂憲とと
齊憲は同二十二年五月二十日死去するが、遺言により神葬祭とされた。 遺骨は菩提寺の興禅寺(東京府白銀、臨済宗)に埋葬された。米沢藩歴代藩主は、京都の大覚寺門跡から謙信と同じ「権大僧都」位を贈られ真言宗で祭祀されていたが、齊憲はこの慣例に依らず遺言により神葬祭とした。これも齊憲が神道への理解と傾倒が深かったことを示すといえる
8。
第二節 御堂における神式での祭祀の開始
明治二年(一八六九)一月二十日、薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩の四藩主が版籍奉還の上表を提出した。土佐藩にならって改革を進めていた米沢藩では、同年三月六日に版籍奉還を決定する
に伝えられた。 と、まず謙信及び景勝他歴代藩主の霊前に焼香して報告し、その後家臣 立ノ為メニ御参拝ノ廉ヲ被為立 (中略)不識院様ヨリ御順ニ(中略)御上香、特ニ御封土返上御申 御封土返還ノ儀ハ大事件ニ付、特ニ御堂ヘ御参詣可相成思召ノ処、 として翌七日、茂憲は、 相成ルコトアリテハ不相済次第 洵ニ不得止場合、此上因循アリテハ遂ニ時機ヲ失シ、御家ノ瑕瑾ト 既ニ西南諸藩続々申立奥羽ノ諸侯中ニモ已ニ願出ラレタル向アリ。 9。
しかし同月二十五日になっても版籍奉還に対する朝廷の裁許は未だなく、また昨年来の財政疲弊を鑑みて、茂憲は大倹約令「御省略之条々」
10
を発した。その第一条及び第二条で御堂の行事と法事祭礼の縮小について定めている。一 御堂年中之行事一昨年中被仰出候通都而半減御執行之事一 御法事諸祭礼都而半減之事
次いで翌三年七月五日、齊憲は藩政改革として、城代を廃止し、二ノ丸寺院に当月限りでの引き払いを命じた。城代は藩主に替わり御堂に参拝できる唯一の役職であった。また御堂に奉仕するのみで檀家をもたな
い各寺院は、近郷の縁故の寺院に引き取られるか廃寺となった。ただし、法音寺は歴代藩主廟所前へ引き移し廟所に奉仕することとされ、大乗寺は御堂の管理としてそのまま二ノ丸に残った
齊憲は自ら再建した御堂に対する改革を断行したのである。 11。御堂再建より二十年後、
同年閏十月四日、従来は歴代藩主の忌日には精進する習慣があったがこれを廃止した。ただし茂憲自身は、十三日の謙信忌日の慎みは継続した。そして同月二十二日、藩政改革の条々(全十六箇条)を政府に提出した。この末尾二箇条に神仏分離に関する事項がある
候事 一神仏混淆ヲ正シ神社之梵鐘仏地之華表街衢之汚捨ヲ廃却イタシ 住差許候事 之自然崇神之民情ヲ妨ケ且藩庁至近之場所故悉皆破却シ藩士居 一祖先謙信之遺骨ヲ牙城ニ藏メ置候ニ付二之丸内寺院十一ヶ寺有 12。
さらに翌四年一月六日には、上級藩士にのみ許されていた歴代藩主廟所への参拝を、「士民一般勝手々々ニ御焼香苦シカラサル旨」
緩和する通達が出された。 13と大幅に
そして同八月十六日には、謙信と鷹山を神祭として、本丸跡に社殿を建立することが決議され、同月十八日、齊憲は御堂の仏式を改めて神祭を行うこととした。そして大乗寺住職の智順を復飾させ士族に編入し、神式の御堂祭祀を命じた(智順の職名は祠堂神祭事務)。この時に智順は寺号の「大乗寺」をそのまま新苗とし、名は智順のまま「ちじゅん」を「としゆき」と改めた。智順は米沢藩中級藩士井上家の出自である。同年秋、智順は大内人蔵田國興に就いて修祓之式一巻を伝授され、翌年十月に上杉神社祠官に任じられる
14。
寺号の大乗寺をそのまま新苗とした由来は、大乗寺家にも井上家にも伝わらないが、齊憲も智順も、謙信と大乗寺の関係から「大乗寺」の名を残したかったのではないかといわれる。智順の養子の廣観
15は、智順 の死後に「當家代々御霊號」
るのである。 として寺院大乗寺を継承する家、新苗「大乗寺」を立てたととらえられ 代中興故祠官権少教正大乗寺智順命」とする。このことから智順は中興 歴代住職に神道の「命」を諡し「一代長海命」等とした。智順は「四十五 16を記し、謙信に仕えた大乗寺長海以後の
こうして明治四年八月二十九日、齊憲は御堂において、謙信と鷹山を合祀して神祭を開始し、祭礼は翌九月一日も続いた
なったのである。 または城代に限られた御堂参拝から、士民に開かれた参詣への大転換と 仏式の御堂がそのまま神祭の場となる特異な状態であった。また、藩主 老幼男女トモ続々参詣引キモキラス非常ノ賑ヒヲ極メタリ 管内之輩男女ニ至ル迄参詣不苦旨予カシメ御引合ニ相成リ(中略) 謙信公・鷹山公御尊崇ノ為、今朝両日御堂ニ於テ御神祭御執行ニ付、 17。
この神祭に当たり、矢尾板惟一が鷹山の画像と祭礼当日の頌幟を作成した
惟春が描いた鷹山の画像 敬寫」とあるが、その基となる画像は鷹山の生存中に作成された左近司 は謙信と景勝の年譜を編纂した儒者・藩医の矢尾板三印である。「百拝 臣矢尾板惟一百拝敬寫」の署名がある。惟一は藩医であり、その先祖 18。この画像は、上部中央に「元徳聖公尊照」とあり、左下部に「微
杉神社の所蔵となった謙信画像 にして描かれた可能性が高い画像であった。もともと大乗寺にあって上 ~一八二九)の中級藩士で鷹山と同時代を生きた。実際に鷹山を目の前 19 とみられる。惟春は寛政から文政(一七八九
要となったのである。 20とともに、拝礼の対象となる画像が必
この惟一の作成した頌幟には、謙信は「義聲静粛千古」「兵練令厳軍威静粛」、鷹山は「治教休明一方」「政成化廣治教休明」と書かれ、御堂に掲げられた。このうち「兵練…」「政成…」の二旈の語句は士民が献じたものであった。
そして同年十月に入ると、五箇条からなる「御堂規則」
智順に示され、これによって神祭が行われていくこととなる。 21が茂憲から
第一条には、神社の運営資金として松鶴館の備金利息から百両、米沢義社(以下「義社」という)の備金利息から二百両が毎年大乗寺に渡され、「悉皆御任ニ相成候間(中略)都而取量可申事」とあり、その使途は大乗寺にすべて任された。ただし重要事項は上杉家への協議が必要であった。また上杉家からは、これとは別に毎年米十五俵と、春秋の祭礼には神酒・鮮魚が備えられるとしている。この時点においては神社はまだ上杉家による私的な祭祀といってよい。
第二章 上杉神社の建立
第一節 上杉神社社殿の建立と祭典(一)上杉神社社殿の建立と祭典
謙信と鷹山はこうして神祭となったが、上杉家の私的な祭祀であったため、旧藩士等は勅祭を望むようになる。米沢藩にとって謙信の神祭は悲願であった。かつて享保十一年(一七二六)の謙信百五十回忌に神祭を願い出たが、既に近江国坂田郡の伊吹山(現滋賀県米原市、旧伊吹町)に「上杉明神」が若狭国小浜藩(福井県小浜市)の軍学者宮田景豊によって建てられており
という経緯があった。 に「上杉大明神」の神号が許可され、その神号のみをこの社に合祀する 22許可されなかった。その後宝暦十三年(一七六三)
明治四年(一八七一)十二月、旧藩士四十四名が、謙信と鷹山の神祭勅許を教部省に提出する。これには、まず謙信の尊皇の事績を述べた後、次のようにある
て病死し(中略)弱年の時より赤心忠誠王室を奉戴し東北の豪族を 彌天下を鎮靜し朝政一途に歸着仕る様專盡力被致(中略)不幸にし 23。 賜縣へも勅許を以て一社建立神祭仕度情願候。 伊吹山の上杉明神のこと)是皆自王室御顯賞被成下故の儀に付、置 制馭し朝綱を維持せし功勲舊史に顯はれ人の知る所(中略、ただし
そして鷹山についても、その藩政改革と民政に対する事績を述べ、千石安民の功相立候故、退隠の後幕府より特典の賞譽を被蒙(中略)米澤の米澤たる皆其遺徳なり(中略)一代の功德民に加はる人は神祭して表彰奉賽する事古より和漢例し多き儀に付としている。さらに、前年に楠木正成、織田信長、毛利元就が別格官幣社に列せられた例を挙げて、「謙信鷹山も三公の比を以て勅命社號被下置候」と申請した。
しかしこれは却下され、神号を選定のうえ再度願い出ることを言い渡される。そこで翌五年九月二十日に、神号を「上杉神社」として教部省に再度伺い、同十月三日に許可される。さらに同十月二十三日、県社に選定の伺いを提出し、十一月二日に許可となる。こうして、上杉家の私的祭祀から、公的な祭祀(国家神道)に組み込まれていくこととなった。
これより前、同五年二月二十四日、この年の例祭に米沢の各町内が競って祭旗を新調し祭典を盛大にしようとしていることを聞いた茂憲は、小町や難町には経済的に困難もあるので、「左様ノ事ニテハ神慮ニモ戻ル」もので「臣民一致同心尊崇之道ニアラス」「無理ナク献備候コソ 両 (平出)神霊之御趣意ニ遵奉スト申モノ」であるとの諭告を行った
24。
事実、同年四月二十一日から二十三日までの祭礼は、「殊ニ各町ニテハ競ツテ思ヒ々々ノ美事ナル祭旗ヲ樹立シ、町内ヨリ囃屋台等ヲ引出シタルモノモアリ、米沢一般ノ賑ヒ云ハン方ナカリキ」の状態であった
25。
また、同年の祭礼には百二十四の町内から百六十二本の幟旗が参道に奉納されたという。神祭の悲願がかなったことの喜びが知られる。その旗の中に「養蚕開祖神」と書かれたものもあった
26。これは鷹山を指す
ものである。
鷹山は安永四年(一七七五)に藩政改革のひとつとして殖産興業政策を打ち出し、農民に限らず家臣にも養蚕の奨励を行った。その鷹山が養蚕神として祀られた例が、山形県西置賜郡白鷹町にみられる
としてとらえられたのである。 唱えたという。このようなことから上杉神社でも鷹山が「養蚕開祖神」 は鷹山画像であり、拝み上げには「大和大聖人上杉鷹山公」と繰り返し 束帯姿の鷹山像が本尊とともに祀られた。また同町菖蒲の養蚕講の本尊 が、そこに慶応元年(一八六五)に「治憲大権現」として、馬上に衣冠 玉の円福寺にある養蚕殿の本尊は養蚕神として知られる馬鳴菩薩である 27。同町高
神祭がかなうと次は社殿の建立が望まれた。明治七年には、廃城令により陸軍省の所管となっていた米沢城が公園として解放された。これにより区戸長及び旧藩士等で図り、公園となった旧本丸中央に新たに神殿を造営する計画が立てられ、募金を開始した。工事は置賜県内の旧藩士や一般市民からの募金により全て民費でまかなわれることとなり、翌八年八月に起工する。本殿は同九年に完成し、同五月二十一日に神殿遷宮鎮座祭が行われた。八月には結構が落成している
28。
社殿が成った後の祭典の様子を四、五年後の新聞からみていく。まず「米澤新聞」では「縣社祭ヲ観ル」と題して次のように報じている
リ。夜ハ無数ノ燈ヲ點シ満園明ニシテ不夜城カト疑ハル。 両側ヘ数十ノ大旌ヲ立ツ。紅白風ニ飜ツテ神龍ノ昇降スルニ髣髴タ ヲ奉納シ神霊ヲ楽マシメ衆庶ニ縦覧セシメタリ。此祭ヤ社前往来ノ 爭テ酒饌ヲ供シ賽銭ヲ投ス(中略)翌日ハ元乱舞家同志輩ト神事能 アリ。衆神官群有等歯簿行列ヲナシ堂々トシテ市街ヲ横行ス。戸々 四月廿九日ハ縣社上杉神社ノ例祭也(中略)前日ハ市街御輿ノ舁行 29。
また「奥羽日日新聞」には「上杉神社の祭禮」として次のようにある
30。 競ひ参詣すれは境内の熱□雑沓尤甚し。 場を開き玩器菓子の列店其幾百なるを知らす。老若男女互に美服を を立つ。銘々神徳を頌するの句を書す(中略)廣き境内へ種々の観 を悦ばす(中略)参詣の衆庶へ悉く神酒を與。社前へは数百の旌旗 御輿の金飾は朝日に映じ爛々と麗はしく神官の美服亦大に俗人の目
いずれも庶民に開かれた賑やかな祭典として報じられている。(二)山形県令三島通庸と上杉神社
明治十三年八月二十二日、置賜県と鶴岡県は山形県に併合され、県知事には三島通庸が就いた。同十月二十二日、通庸は県官吏数名とともに米沢に至り、県中属常世長胤を斎主として上杉神社の臨時県祭を行った。これには置賜三郡の神官が総出仕を命じられ、智順は副斎主を勤め、齊憲も参詣した
31。
通庸は土木県令とも呼ばれ、米沢においても福島と結ぶ栗子新道の開通などをなした。上杉神社関係では、同十三年九月に旧藩士等が図り、神社(旧大手門)から東に延びる道路(県社通り)を開いて商業地と結ぶことを決議したことを受けて、同月二十日、通庸は神社に参拝し、工事関係者数百人を社頭に集め、謙信と鷹山の恩徳と道路の必要性を説き、自ら陣頭指揮して工事を促している。この道路を官庁街として神社の繁栄にもつなげようとするものであった
役所、工業学校、市役所、議事堂が建てられていく。 32。そして県社通りには、置賜郡
この日の様子を「陸羽日日新聞」では次のように報じた
神社を慕ふの餘り縣令の職務を以て談ずるにあらず鹿児島縣士族三 444444444444444444444 名君なることは拙者の喋々するまでもなきことだが(中略)某も此 路の場へ出て力役せられ(中略)縣社の祭神謙信公の武将鷹山公の 山形縣令三島通庸朝臣にハ(中略)自ら野服を着け草鞋を穿き直線 33。
島通庸にて御談合に及ぶ 44444444444と申されたりし通庸自ら「某も此神社を慕ふの餘り」と謙信・鷹山への崇敬の念から陣
頭指揮に及んだと述べたとしている
34。 第二節 謙信遺骸の歴代廟所への遷座
これより前、齊憲と茂憲は、謙信の遺骸を御堂から歴代廟所へ遷座することの是非を旧藩の重役に諮問し、そして同九年五月十二日に遷座が決定された。これには齊憲と茂憲の苦悩が伺える
ヘカラス。 シムル所也。神ヲ置クヤ公園ト為スヘカラス。公園トナス神ヲ置ク 神ヲ埋ムルニ非ルナリ(中略)公園トハ人民公同気ヲ養ヒ心ヲ楽マ テ考案スルニ御先祖ヨリノ御遺骨ヲ埋葬スルハ人ノ骨ヲ埋ムル也。 神トハ人間中ニ智恵深クシテ知ラサルヲ教ヘ此世ヲ開キシ人也。依 35。
齊憲と茂憲は、まず「神」のとらえ方と公園に「神」を置くことの是非を示した。先行研究においてはこの点のみを指摘しているが、両者の意志はそれに続く次の部分によく示されている。御先代様ノ御遺骨ヲ一処ニ安置スルハ穏当ナルコト疑ヲ容レス。或ハ云、御遺骨ヲ新社ニ安置セサルハ神威薄シト(中略)公園ニ置ク時ハ後世必ス移スノ憂アリ。依テ御先代様ノ御墓所ヘ安置スルハ則其所ヲ得ルナリ。在ルヘキ所ニアリテ始メテ安置ト云ナリ。且越後会津置賜ト御遷座ニアラスヤ。然ラハ武尊公御遺骨ハ動カスヘカラサルノ理ナシ(中略) 両 (平出)上様衆議御玩味ノ上断然御治定被遊候事。
旧藩の重役の意見には、神社に謙信の遺骸を置かなければ神威が薄れるというが、城址が公園となった今、ここに置けば後世に必ず憂慮が起こる。歴代藩主廟所に安置することが穏当であり、これまで越後、会津、米沢と遷座しているので動かしてはならないとの道理はないと、齊憲、茂憲の熟慮の末に遷座が決定されたのである。
そして十月三日、まず御堂の石室が廟所へ移される。県社であるため、七日に山形県庁置賜支庁に遺骸の遷座を届け出て、翌八日夕刻より 齊憲自ら斎主となって旧御堂の謙信の遺骸を歴代廟所の中央奥に遷座し(智順は祓主を勤める
って祭祀されることとなる。 年(一九二四)の上杉家家政改革により仏式に復し、以後は法音寺によ 代廟所に神道で祭祀されるという特異なかたちである。ただし大正十三 虎」と諱が刻された碑が建てられた。真言宗で祭祀される景勝以下の歴 36)、「上杉輝虎公之閟宮」と「謙信」ではなく「輝
この時、歴代廟所の改修も行われた。謙信の閟宮を中央に据えるため、景勝廟と定勝廟の間に新たに参道を設け、その奥に閟宮が建てられた。それまでの参道は景勝廟に向かっていたが、閟宮からまっすぐに伸びるように造り替えられた。また歴代それぞれの廟にあった拝殿も取り除かれている
37。
御堂が廃されたことにより、御堂の建物は、前年に焼失した真宗大谷派長命寺にその本堂として払い下げられて移築され、現在に至っている
のものとなっている。 を見る。齊憲と茂憲の「公園ニ置ク時ハ後世必ス移スノ憂アリ」は現実 賑わい、「祠堂遺址碑」の鉄柵に寄りかかり酒を酌み交わす観光客の姿 て区別された。現在、御堂跡には多くの桜が植えられ、春には花見客で 堂遺址碑」を建て(明治二十四年九月)、鉄柵で囲い、神聖な場所とし 38。また旧御堂の謙信遺骸が置かれていた場所には松樹を植え、「祠
次いで、同十四年十月二日には、明治天皇の東北巡幸があった。上杉家では、茂憲が沖縄県令として赴任しており齊憲が対応した。行在所では上杉家伝来の宝物を閲覧し、特に刀剣に興味を示した。齊憲が「叡慮ニ叶ハセラルモノハ御撰ミ在セラル様仰上ラル」と、天皇は太刀二振をあげたのでこれを献上した
全二十一冊を献上し、三ツ組銀盃を賜っている。 日には明治天皇の所望により、旧藩士甘粕継成の著作『鷹山公偉蹟録』 39。また前後するが、明治十一年十一月十六
第三章 別格官幣社への昇格と追贈
第一節 別格官幣社への昇格
その後、上杉神社は明治三十五年(一九〇二)四月二十九日に、謙信の勤王の遺勲によって別格官幣社に列せられ、六月二十九日に別格官幣社昇格報告祭を斎行した。上杉神社社殿で祭事を行った後、廟所の謙信
閟宮に参拝し、勅使山形県知事田中貴道が祭文を奏上した。その一節には次のようにある
偲給備布 壊修理事(中略) 大朝廷心寄勤仕奉其功績禮多留乎米志爾乎世美利志我乎 種々物奉献或領地幾許黄金奉献大朝廷内甚損乃乎利波乃止乎母利乃乃久 臣子大義忘中汝命清正眞心以大朝廷参上乃乎母禮多留爾波久支支弖爾利 41。
戦国乱世にあって諸侯が朝廷への大義をなくした中に、謙信は上洛して朝廷に対して多額の献金や御所の修理を行ったことが、その昇格の根拠となった。この昇格により翌五月一日には、鷹山は摂社として祭祀すべき通達があり、同十七日に「松岬神社」の称号許可された。ただし社殿はなく従前どおり上杉神社内に謙信とともに祀られることとなった。
前後するが、昇格報告祭の終了後、心地流剣術に秀でた老人九名(七十三から八十四歳)が上杉邸に招かれ、庭前で試合を披露した。終わって、上杉家家紋付きの羽織一領ずつが下賜され、御神酒を頂戴した後、その場でその羽織を着て揃って上杉神社に参拝している
42。
一方、旧藩士は別格官幣社への昇格に対し次のように述べている
浴し勇武の名家今や赫然神光を東陲に放んとは。君臣たるもの益々 りしか今般漸く天威を貫き此光榮あるに到る。實に三百年來君恩に 津を擧つて魁首となり西軍と抗せしを以て空しく縣社にて祭祠し來 れ御釼を賜ひ(中略)實に勤王無比なりしも、戊辰の亂仙臺米澤會 上杉謙信公は戰國に在て朝廷を重じ(中略)後奈良天皇昇殿を許さ 43。 崇尊仰慕すべきなり。
戊辰の役の汚名を晴らし、謙信の尊皇が朝廷からも再認識されたことを喜び、益々尊崇されるだろうとした。また「勅使を拝し藩祖神君の光榮を想へ覺へす感涙に及びたり」とも述べている。
上杉家では、以後の神社の維持金として上杉神社に対して一万円(五分利付公債証書)が寄付された。これは県知事の指定に従って保管委託し、利金は神社の維持費に当て、余剰金が出た場合は不慮の事故のための積み金とすることとされた。
次いで七月二日、茂憲と子息憲章は元侍組(旧米沢藩上級藩士)が主催する懇親会に出席した。茂憲はその席上で、会の名称を「温故会」と名付け、挨拶を述べている
トナラン 旧君臣ノ情誼ヲ温メンコトハ吾々ノ祖先ノ英霊亦満足ニ思ハルヽコ (中略)実ニ満懐忝ナク存スルナリ(中略)今日斯ル組織ヲ為シテ益々 国一城ノ主トシテ衆ニ先シテ忠勤ヲ尽シタル勲功ニ依ルコトナリ 今回武尊公ノ別格官幣社ニ昇格セラレタルハ(中略)各方祖先ハ一 44。
上杉神社の別格官幣社昇格は、旧臣先祖の謙信に対する忠勤によるものであるとし、今なお「温故会」を組織して旧君臣の交流ができることは、祖先の霊も満足していることだろうと言った。その思いを茂憲は、次の三句で示している。入梅なから心は晴るヽ雅宴哉へたてなく襟を披くや夏座敷今もなを深き情けの納涼かな 清風庵敬心
この温故会は太平洋戦争の頃に自然消滅した。その後その趣旨を引き継いで誰でも参加できる「米沢温故会」が昭和四十八年(一九七三)に組織された。上杉家当主を名誉会長として、毎月の歴代藩主の命日に例会を開催し、郷土の先哲等についての講話が行われている。