郭沫若・陶晶孫を中心とした
中国現代文学の唯美主義と表現主義の研究
熊本大学社会文化科学研究科 学位論文
小崎太一
目次
序章 1
第Ⅰ章
第1節 陶晶孫福岡期の唯美主義 6 第2節 郭沫若初期文学と「水」 19 第3節 郭沫若初期文学と水泳 29 第4節 郭沫若留学前旧体詩と李商隠 37 第Ⅱ章
第1節 陶晶孫と関東大震災 46 第2節 陶晶孫の表現主義と日本モダニズム 58 第Ⅲ章
第1節 郭沫若・陶晶孫と福岡 68 第2節 張定璜と『駱駝』 77 第3節 陶晶孫と「2人の女の子」 89
終章 99
初出一覧 100
文献一覧 101
序章
ⅰ
本博論の目的は、1920 年代の中国文学と日本との関係を探ることにある。
中国現代文学1史で 1920 年代と言うと、1919 年の五四運動又は 17 年の雑誌『新青年』
発行2から、1927 年の第一次国共合作の崩壊と翌年の世界恐慌までを指す。それは恰度第 一次世界戦争とそれに乗じた日本の対華二十一ヶ条から、1931 年の九一八柳条溝事件の 前夜までであり、日本の中国侵略の2つの両事件の狭間だが、日中関係が比較的穏やか だった時期に相当する。
古来より士大夫らによって担われて来た中国の文学だが、「政治への関心の尊重が早く からこの国の文学の系譜であ」3り、「この国の文明は、政治への関心、人間の善意は政 治を通じてのみ発揚されるという関心、それを軸として発生したのであり、文学もその軸 の上にあ」4った。このような中国文学の政治性は、1842 年に終結したアヘン戦争の敗戦 から、1911 年の辛亥革命による清朝の崩壊・中華民国の成立に至る、国の改良又は革命 を目差した近代文学でも、民国政府への失望と国民改造への希求、亡国の危機感から生ま れた 1919 年の五四運動から抗日戦争勝利、1949 年の中華人民共和国成立に至る現代文学 でも同じことであった。
その中で 1920 年代は、魯迅の『呐喊』や、本博論でも扱う郭沫若の『女神』等が出版 され、文学研究会や創造社等文学団体が活発な活動をするなど、比較的安定した世相を受 けた多くの成果が生まれた時期である。「狂人日記」を 1918 年に総合雑誌『新青年』、
当時の社会変革主張の急先鋒に掲載し、中国語口語小説の先駆者となった魯迅は、多くの 小説や雑文を通して国民性の改善を訴え続けた。郭沫若らの創造社は、初期のロマン主義 的な、人間性の解放の熱情的な希求から、1927 年以降の後期には共産主義に基づいた理 論構築へと変容したが、常に中国社会の改革を追い求めた。その後の抗日戦争のための必 要と、中国共産党による一党独裁の文化指導等で、これら 20 年代の成果が現在に全面的 に受け継がれたとは言えないが、『詩経』以来延々と続いて来た中国文学の、頂点の1つ であると言える。
そして重要なのは、それら文学的成果を齎した者の多くが、魯迅と郭沫若を筆頭に、日 本留学経験者だということである。特に創造社は、東京での成立が 1921 年、その後 23 年 までに主要成員は中国へ帰国するが、その後 30 年代の幕開けと言える後期創造社の 1928 年の京都から上海への帰国と、翌年の閉鎖に至るまで、日本と密接な関係を持ち続けた。
この様に 1920 年代は文学的豊穣の時期であり、かつ日中関係が政治的文化的に幸せ だった時期だった。
1 中国文学の「現代文学」は、大体日本文学だと近代文学に相当する語だが、以下に述べる様に中国文学 には他に「近代文学」があり、両者は区別されている。本博論では現代文学の語で統一する。
2 発行当時の名は『青年雑誌』。
3 吉川幸次郎「中国文学の政治性」113 頁。
4 同上、115 頁
ⅱ
この様な 1920 年代文学の中で、私は従来軽視されて来た陶晶孫と、彼の 20 年代の文学 創作の足跡に注目したい。そこに魯迅や郭沫若らの政治性とは別個の、20 年代文学の多 様性を示す実りがあるからだ。
陶晶孫(1897~1952)は先述の創造社の初期からの成員で、郭沫若の九州帝国大学医学 部の同学であり、郭の妻佐藤をとみの妹みさをと結婚し、郭とは言わば義兄弟の間柄だっ た。後に述べるように非常に存在感のある作品を残し、創造社の全体的な研究には必ず言 及される人物である。しかし 1930 年代初めに中国の文壇から離れ、日本が文化事業とし て設立した上海自然科学研究所に勤務し、日本が上海を占領した 1937 年以降も上海に留 まり、1944 年に南京で開かれた第三回大東亜文学者大会に余儀なく参加し、日本敗戦後 は台湾に移り、国民党の暗殺を逃れて日本に亡命し、日本に客死した、というその後の経 歴もあり、今に至るまで中国文学史で大きく扱われていない。
しかし彼は、初期創造社の唯美主義的側面を代表する人物だった。彼の代表作「木犀」
は始め日本語で書かれ、その後中国語版が『創造季刊』に掲載されたが、そこに郭沫若は 以下の「附白」を記している:
私はこの作がとても好きになったので、彼を励まして中国語に訳させ、題を「木犀」
に改めた。 この訳文は原文よりずっと遜色があるが、その根本の美しさは幸いま だ余り損なわれていない。読者には細部まで味わって頂きたい5。
翻訳の問題はあるものの、作品自体の美しさは郭を大いに魅了したものだったことがわか る。
またこの様な作品自体の美もさることながら、陶の芸術的な才能は、更に多角的なもの だった。陶は『創造季刊』に数篇作品を発表する一方で、素人ながら雑誌の中扉や挿絵を 担当する。最初の掲載作品が郭の詩に曲を付けた楽譜だったことが示す様に、陶はピアノ とビオラの奏者として、特に後者では九州帝国大の学生オーケストラ:九大フィルに参加 して活躍した6。加えて陶は箱崎海岸の松林の中に、自ら設計した小屋まで建て、そこで ピアノを奏で犬と遊ぶ生活まで送っている。
この様な多才さは、大正期の日本でも流行した唯美的な欧州世紀末の美意識である、生 活の全般的な美化そのものであり、この意味で陶は当時中国文壇で勢いを示していた創造 社の中で、一目置かれる存在だった。
1926 年に創造社出版部が出版したアンソロジー『木犀』は、出版社がそれまで出した 書籍に未収の作品を集めたものだが、その表題作が陶の小説であることは、当時の陶の唯 美的文学が、創造社の1つの看板だったことを如実に示す。
この様に陶の初期の唯美主義的文学は、現在通行している政治性を重視する文学史での 軽い扱いでは不充分な、大きな主題として捉えるべき対象なのだ。
5 『創造季刊』第1巻第3期、69 頁。
6 九大フィルについては半澤周三『光芒の序曲』(福岡、葦書房、2001 年)参照。
ところがこの様な陶の唯美主義的文学が、1920 年代半ばにして変貌してしまう。23 年 3月に陶は郭沫若と共に九州帝国大医学部を卒業し、郭は妻子を連れて中国に帰国するが、
陶は逆に仙台の東北帝国大学理学部に進学する。恋人の佐藤みさをのいる街へ行ったのだ。
同時に陶は一時期創造社の雑誌に作品を寄稿しなくなる。陶が創造社の誌面に帰ってくる のは2年後の 25 年 12 月、その間に彼はみさをと結婚していた。そして作品は唯美主義で なく表現主義のものとなっていた。それが関東大震災後の新感覚派等日本の表現主義文学 の潮流に強い影響を受けたものであり、当時の中国文学の中でかなり異質だったことは、
中期創造社を支えた周全平の以下のぼやきに示されている:
陶晶孫は日本に余りに長く住んだ為に、中国の文法と文字を殆ど忘れてしまってい る だから彼が寄稿して来る度にひどすぎる、改めなければと言っている。しかし 又これ故に、他の書いた文字の味わいも中国語が持っているものとは違う様だ7。
しかし異質とは言え、後述する様に私は陶の表現主義文学を中国文学の流れにきちんと 嵌め込むことが出来ると考えている。創造社は日本文学の影響を常に受けて来たが、20 年代半ばからの日本の表現主義の隆盛の直接の影響を受けたものとして、この陶の表現主 義文学が位置付けられ、又それによって表現された日本モダニズムが、創造社初期のロマ ン主義から、後期の共産主義プロレタリア文学への変容の、断絶を埋める存在だと考えら れるからだ。
この様に陶晶孫の 1920 年代の文学は、始めの唯美主義から表現主義へと変化するのだ が、その両者共に中国文学史の上で重要な意義があり、その変化の過程も当然大きな意味 を持っていた。故に私はこの中国文学の多様性を示す 20 年代の陶晶孫文学を、陶晶孫モ デルとして提起したい。つまり従来の、ロマン主義からプロレタリア文芸へと移行すると される、政治性を重視する文学史のモデルとは一線を画し、また日本との関係上意義の深 い陶晶孫の 20 年代の文学を、1つの文学モデルとして、本博論で纏めあげたい。
ⅲ 本博論は3章構成である。
第Ⅰ章は唯美主義を扱う。初期創造社と言うと普通ロマン主義だとされ、陶晶孫も後年、
彼ら創造社の初期の文学をロマン主義又は新ロマン主義だと分類している。
何か方針があってやるのかい、彼は一言だけ言った:新ロマン主義。私は一切が分 かった、何故なら私の数篇の文章に関し、私自身がそれがロマン主義に属すと批評出 来たから8。
『創造』の発刊時、沫若は新ロマン主義が『創造』の主な方針だと言った、後に社会 全体が創造社がロマン主義だと認めた、しかし沫若の感受性が強く、彼は何故だか知
7 「尾声」『洪水週年増刊』1926 年、188 頁。
8 「記創造社」『陶晶孫選集』240 頁。
らぬが表現主義を好きになった、その間で、ずっと最後まで新ロマン主義の生活を やったのが達夫、ずっと最後まで新ロマン主義の作品を書いたのが晶孫、ずっと最後 まで通俗小説を書いたのが張資平だ9。
ロマン主義と新ロマン主義が入り乱れて用いられているが、後者は新たなロマン主義の意 味だと考えればよい。詰まり:
群像の一人に張定璜を忘れてはならない、彼の小説は一篇だが、彼は創造の文字体裁 約物全てに意見があり上海に送って来た、これはあの頃恰度日本の新ロマン派が流行 していたものの模倣だが10。
1920 年代初めの日本で風靡していた多方面な美を求めていた唯美的な世紀末芸術であり、
耽美派・後期ロマン主義と今日呼ばれているものだった。
又後述する様に、陶の唯美主義の傾向は夙に指摘されて来たものであるので、第Ⅰ章で は陶の唯美主義を中心として論じ、陶と身近だった郭沫若の唯美主義的側面と、唯美主義 の影響を受けたロマン主義的側面を論じる。
第Ⅱ章は表現主義を扱う。上述の様に陶晶孫自身は創造社での創作を全てロマン主義と しているが、1923 年に福岡を離れて2年を置いた 25 年からの創作は表現主義だと私は考 える。それは周全平をぼやかせた様に、当時の中国文学では可成異様なものだったが、
ヨーロッパで第一次世界戦争後に、日本では関東大震災後に風靡した表現主義・立体主 義・ダダ主義・未来主義等の影響を受けたもので、それ等の総称として、本博論では用い る:
芸術方法の意義上、我々はこれらの流派の創作特色を同一の芸術規範モデルの異なる 時期異なる文化言語環境中の風格の変化したスタイルと看做す理由が完全にあると言 うべきだ──ドイツ語国家と北欧では表現主義、フランスでは立体主義と超現実主義、
イタリアとロシアでは未来主義 もし我々が新しい視点で「モダニズム」より更に 具体的で適当な命名を用いて上述諸流派の詩学上の「統一性」を概括しようとするな らば、「表現主義」は疑いなく最も相応しい述語だ。何故なら、「表現主義芸術方 法」が正しく上述諸流派の芸術思惟と審美風格上の共通の背景だからだ11。
又表現主義と一体だった日本モダニズムを陶の作品が体現し、陶のこれ等作品が、日本 と常に密接な関係だった創造社の、初期のロマン主義から 30 年代のプロレタリア文学へ の橋渡しとなる、モダンな作であることも論じた。
第Ⅲ章はその他、1920 年代の郭沫若・陶晶孫・創造社に関する研究を置いている。特 に第3節では、第Ⅰ・Ⅱ章で扱った陶晶孫の非政治的な文学が、政治的になっていく過程
9 「創造三年」『陶晶孫選集』258 頁。
10 陶晶孫「創造社還有幾個人」『陶晶孫選集』253 頁。
11 徐行言・程金城『表現主義与 20 世紀中国文学』8 頁。
を示し、私の今後の 30 年代文学研究に繋がる位置付けとなっている。
ⅳ
本博論の執筆目的はまた、1920 年代の日本留学中国人文学整理を通して、現在そして 将来の日中文化交流に、何らかの寄与をすることにある。
前述した様に、対華二十一ヶ条要求と、それへの反発から生まれた 1919 年の五・四運 動から、1927 年の国共合作の崩壊と、翌 28 年の世界恐慌に至までの 20 年代は、日中間の 十五年戦争を前にしての短い、日中の社会が密接で幸福な間柄だった時期である。その様 な 20 年代に中国人知識人が発表した文学は、長い中国文学史の中でも実りある一頁とさ れている。文学者の中には創造社の成員を中心とした多くの日本留学経験者が含まれてお り、文化的にも両国関係が実りあるものだったことが示されている。
中華人民共和国の成立から 60 年を経て、我が国と中国は、今後も良好な関係を続けて 行かなければならない。それは只両国だけの問題ではなく、東アジア又は大きく世界全体 にまで影響を与える課題である。
この観点から言って、90 年前の 1920 年代の、両国の関係が非常に実りあるものだった 時の文学を再び研究することは、これからも重要なことであり、本博論で私の提示する従 来の政治性を強調するモデルと離れた、文化的な陶晶孫モデルが、今後の日中両国の相互 理解と友好発展に役立つことを望んでいる。
Ⅰ-1 陶晶孫福岡期の唯美主義
序章で述べた様に、私は陶晶孫の福岡期文学中の唯美主義を、当時の中国文学を代表す るものだと考える。本節ではその陶の福岡期の唯美主義を分析し、中国現代文学の唯美主 義の1つの有り様を示し、本博論の先導としたい。
ⅰ
陶晶孫の文学を語るとき、福岡は欠かすことのできない場所である。
彼の文学活動は九州帝国大学医学部在学中(1919年10月〜1923年3月)、福岡1にくら していた間に始められた。その時期はちょうど、同学の郭沫若を中心に、日本に学んでい た中国人留学生たちが創造社を結成(1921年6月)し、機関誌『創造季刊』を発刊して、
当時の中国文芸界に一つの潮流をうみだしたのと重なる。晶孫もその創造社の活動の中で 彼の作品を発表していく。福岡は彼の文学の出発の地だった。
その福岡時代の晶孫の文学を、創造社の盟友である鄭伯奇は以下のように論じる。
文学理論としては、彼は別に何々主義などと主張したりしなかったが、彼の作品の風 格から考えて、当然ロマン主義に属している。しかし、彼には郭沫若や成仿吾のよう な熱情がなく、郁達夫のような憂鬱がなかった。初期に、彼は芸術至上主義の傾向が 少しあった。彼は超然自得な態度を保ち続けた。生活の苦しさは、少なくとも、彼の 学生時代にはなかったはずだ。それで彼の初期の創作には個人の呻吟や社会への反抗 など探し出せない。彼は幼いときから中国を離れており、彼の言語表現は異国風味に とても富んでいる。彼の作品は、それゆえある種独特の香りを強く帯びた2。
本論で私は、このように論じられてきた晶孫の福岡時代の文学の、特にその「芸術至上 の傾向」である唯美主義について考えてみたいと思う。
1897年生まれの晶孫が日本・東京に渡って来たのは1906(明治39)年のことである。そ れ以来、九大に進学するまで彼は東京で生活する3が、それは高階秀爾が指摘する
明治三十年代の後半から四十年代の前半にかけて、わが国の美術界に、日露戦争の勝 利と重なりあって、異常なまでに高揚された一時期が認められる。おそらくそれは、
わが国の美術界が西欧の世紀末というものを受けとめた最初であった4。
ちょうどその時だった。デカダンの雰囲気を帯びたパンの会の結成が明治41(1908)年、
1 正確にいえば福岡市ではなく、1940 年福岡市に合併された箱崎町に住んでいた。ここでいう「福岡」は 行政区分ではなく、同じ文化を共有する地域をさしている。
2 「談陶晶孫的小説《木犀》和《音楽会小曲》」『陶晶孫百歳誕辰紀念集』23頁。
3 「陶晶孫年譜」『陶晶孫百歳誕辰紀念集』、223頁。
4 『日本近代美術史論』126頁。
大正期文学を代表するとともに幅広い西洋の芸術作品を日本に紹介した『白樺』の創刊が 明治43(1910)年、後期印象派・フォービズムのフュウザン会の成立が大正元(1912)年 である。そのような時代の雰囲気の中で、晶孫は東京の社会を通して世紀末芸術を吸収し ていった。彼が当時の美術の世界と近い関係であったことは、彼が『創造季刊』第1巻の ために木版画を手がけたこと5、または
私は梁上君子に不満足なことが二つある 暖炉の壁にあるブロンズの鹿がなくなっ たことと、初夏陽光の下、緑陰に憩ふ裸体画が額縁を残して切り取られた事である。
あの絵は私が東京である大家に、半分以上手伝つてもらつて彼のアトリエで描い たものだ。それ以来私は絵は見込みがないと知つて止めたのだ。私は中学五年生でそ れを描いた6
という後年の回想から分かる。
そのような東京での影響を受けてうまれた福岡時代の晶孫文学であるから、そこには西 洋の世紀末芸術の、中国文学への影響が当然見出せる。それは従来の現代中国文学研究が あまり取り上げてこなかった外部との関係、特にここでは日本を介在とした世紀末芸術の 中国文学に対する影響だといっていい。岩佐昌暲は世紀末芸術と中国との関係に触れ、
「世紀末文学・芸術というヨーロッパ近代の文化の移植を中国社会は結局許さなかったの ではないか」と述べ、それを「中国の近代社会の文化的土壌の問題」7として考えようと しており、私も同じ問題意識を抱いている。
本論では、福岡時代の晶孫文学に現れる世紀末芸術の影響としての唯美主義を、その重 要な構成要素である「夜」「水」そして「死」を指摘することを通して考えてみたい。
ⅱ
福岡時代の全ての作品で、「夜」は非日常の出来事をうみ出す物語の急展開の舞台と なっている。「夜」は高階が言うように、世紀末芸術の重要な背景であった。
この時代は、真昼時の輝く太陽よりも、夕暮れの薄明りや、不吉な血の色に光る月の 方をいっそう好んだ。ドビュッシーやフォーレはヴェルレーヌとともに「月の光」を 美しく歌い上げ、ワイルドのサロメの悲劇は、不気味な月明りの下でくりひろげられ るのである8。
戯曲「黒衣の男」は、湖のほとりの邸宅に住む二人の兄弟が、幻想に迷わされたか次々
5 この点については別の場で詳しく考えてみたい。ここでは『創造季刊』第1巻第1期横排版と第2期の 裏表紙に、晶孫がアールヌーボー風の植物文様を用いていることを指摘しておく。郁達夫(郭沫若補 記)「編輯余談」『創造季刊』1巻1期横排版、1923年、2頁;「編輯余談」『創造季刊』1巻2期、1922年、
22頁;陶晶孫「記創造社」『陶晶孫選集』241頁参考。
6 「留守番日記」『陶晶孫日本文集』190頁。
7 「世紀末の毒」77頁。
8 『世紀末芸術』175頁。
に命を失う物語だが、それは
テット 兄さん、こんな寂しい秋の夜には、さっさとドアを閉めた方がいいよ。そし て灯油をたっぷりつぎ足して、ランプをともし、ピアノを弾こうよ。兄さん、何考え てるの?
黒衣 ああ、そうだね。そうしようか。お前が何も考えていない時に、僕が一人で考 えてるのはよくないよね。それにもう暗くなってきた、ごらん、そこの下の方の湖の 岸がもう見えなくなった。今夜は本当に真っ暗だ。湖をゆき交う船もいなくなったみ たいだ、おや、風が吹いている。(室内に入る)9
黒衣 あ、灯油もすぐになくなりそうだ。灯りを小さくしようか――何故こんなに 寒々としているんだ! そう思わないか?――10
という不気味な暗闇の中で展開していく。テットの死を迎えてやっと月が現われ、最後の 場面では黒衣の男が死に赴くのを見届けたかのように、月はまたかくれてしまう。
「木犀」は、九州の大学に学ぶ素威が回想する、彼の中学時代の、彼の小学生の時の教 師トシコとすごした日々を描いた作品だが、
それは月夜だった。庭を散歩したいな。中庭にでると、木犀が異常に香っていた11。
二人が時を過ごす「夜」には運命の予兆が影をさしている。
また、晶孫の福岡時代の文学には、世紀末的な「水」のよどみを見出すことができる。
ボードレールの散文『人工楽園』に、アシーシュに酔ったときの精神状態を水に浸っ ていることに喩えるくだりだが、これはまさしく十九世紀末のデカダンたちの間に浸 潤していた「水への想像力」の源というべきものだった。たとえば、ユイスマンスの 『さかしま』の主人公デ・ゼッサントは自分の隠れ家を一種の巨大な水族館として作 り上げ、あたかも海底に住んでいるような幻想を楽しんだりしていた。こうした水中 世界の夢想は、ユイスマンに限らず、当時の文学者や美術家の主なテーマの一つで あった。SF小説の先達ジュール・ヴェルヌの空想小説『海底二万里』(一八七〇 年)は、海底という未知の世界を披露し、水中世界に対する一般の好奇心を強く刺激 した先駆的な作品といえる。これに引き続き、フローベールは『聖アントワーヌの誘 惑』(一八七八年)の末尾部分で、動物とも植物とも見分けのつかない変形された水 中生物の世界を繰り広げ、たちまち当時の話題を集めた。一方、ポウをはじめ、テニ スン、スウィンバーン、メーテルランク、ローダンバック等の詩に、耽美的・幻想的 空間として水底のモティーフが頻出しはじめるのも、この時代であった12。
9 『音楽会小曲』28頁。
10 『音楽会小曲』30頁。
11 『音楽会小曲』54頁。
「黒衣の男」では舞台が中国の太湖湖岸に設定され、その悲劇の引き金となった幻想 を、兄は湖からきた盗賊だと思う。
黒衣 いや、手で手をひき、剣で剣をひきながら、やつらは僕をつかまえにきた!
湖の盗賊どもが僕たちを金持ちと思ったからか13?
また戯曲「尼庵」では、妹を愛する兄が、妹の出家していた山頂の尼庵から彼女を連れ だすが、彼女は兄との生活を望まず、湖に身を投げる。
兄 ああ、終わった!全てが終わってしまった!――僕の妹は数多くの美しい愛とと もに死んでしまった!山頂の尼庵よ、山麓の湖よ、なぜ僕の妹をうばったんだ14?
妹が尼庵で生活していたこと自体がある意味人生の上での仮死の状態だといえるが、その ような死の国から愛する人を連れもどそうとする、オルフェウスやイザナミの説話のよう な死の世界への訪問というスタイルを用いた作品であり、そこに描かれた湖の存在が、神 秘性を帯びているのは明らかである。
ⅲ
この世紀末的な「水」は、小説「剪春蘿」15に特に明らかに見出せる。あどけない子ど もの葉 が田舎の寄宿制の学校に入れられ、そこでくらしていたある日の朝、彼は何故 か近くの川の中に溺死しているのを発見される。その水死のさまは
学校の前の川岸に剪春蘿が一つかみ散らばり――若い村人が二人青ざめた顔と黒い髪 の葉 を川の中から引きあげた。
彼の片手には剪春蘿が一株しっかりと握られていた16。
川に横たわる死体、あたりに散らばる花、そしてしっかりと握られていた一株の剪春蘿、
この葉 の視覚的な水死の様を想像すれば、そこにイギリスのラファエロ前派の画家
12 尹相仁『世紀末と漱石』221頁。このような「水」のイメージが、それまでの中国文学に現われなかった といえばウソになる。例えば郭沫若の「ミサンスロープの夜の歌」(『女神』所収)にでてくる「鮫 人」など、六朝の志怪小説にもとづく語である。しかし郭の詩が田漢訳『サロメ』(『少年中国』2巻9 期、1921年)に寄せられたもであることが示すように、そのイメージは創造社の同人たちが日本で吸収 した世紀末芸術の影響の下で用いられていると思われる。尚この「鮫人」の語については、本章第4節 で晩唐の詩人李商隠との関わりで再考している。
13 『音楽会小曲』37頁。
14 『音楽会小曲』109頁。
15 剪春蘿は中国原産、なでしこ科の観賞植物。和名は「がんぴ」。高さ40〜90㎝に育ち、5〜6月ごろに 直径5㎝くらいの黄赤色の花を次々に開く(牧野富太郎『牧野新日本植物図鑑』図鑑の北隆社、1961年 参考)。
16 『音楽会小曲』69頁。
ジョン・ミレイの「オフィーリア」(1852)17に描かれた、死にゆくオフィーリアの姿が 思い浮かばないだろうか。
オフィーリアは、シェイクスピアの『ハムレット』に出てくるハムレットが愛した女性 であり、悲劇のうちに狂気でおぼれ死ぬことは、以下のハムレットの母の言葉に示されて いる。
小川のふちに柳の木が、白い葉裏を流れにうつして、斜めにひっそり立っている。オ フィーリアはその細枝に、きんぽうげ、いらくさ、ひな菊などを巻きつけ、それに、
口さがない羊飼いたちがいやらしい名で呼んでいる紫蘭を、無垢な娘たちのあいだで は死人の指と呼びならわしているあの紫蘭をそえて。そうして、オフィーリアはきれ いな花環をつくり、その花の冠を、しだれた枝にかけようとして、よじのぼった折り も折、意地わるく枝はぽきりと折れ、花環もろとも流れのうえに。すそがひろがり、
まるで人魚のように川面をただよいながら、祈りの歌を口ずさんでいたという、死の 迫るのも知らぬげに、水に生い水になずんだ生物さながら。ああ、それもつかの間、
ふくらんだすそはたちまち水を吸い、美しい歌声をもぎとるように、あの憐れな牲え を、川底の泥のなかにひきずりこんでしまって。それきり、あとには何も18。
そのような「シェイクスピア劇においてはせいぜい重要な脇役にすぎな」19かった彼 女だが、世紀末芸術の中では好んで用いられるテーマになっていった。
彼女を初めて舞台中央へ引き出したラファエル前派の人々は、自分たちがあれほど称 讃していたテニスンの女性主人公たちと同じ女性的性質を彼女のなかに見ていたの だ。彼らによるオフィーリアの花に蔽われた狂気と水死の描写に拍車をかけられて、
彼女の物語は、腕に覚えのある世紀転換期の画家ならば少なくとも一度は描かざるを 得ない主題となった20。
この川に漂うオフィーリアの姿を視覚化し、そのイメージを決定づけたのがミレイの「オ フィーリア」だとされている。
一八五一年に描かれたさらに有名なミレイ作の「オフィーリア」は、彼女の死への旅 路を追っている。葦間を永遠へと向かう受動的な水上の旅において女性と水が一体と なっている。可憐ではあっても空しく水中を漂うミレイの死んだオフィーリア21 またこの絵は夏目漱石の『草枕』(1906)の中で重要な役割を果たしているが、晶孫は
17 ロンドン:テート・ギャラリー所蔵。
18 (福田恆存訳)『ハムレット』東京、新潮社(新潮文庫改版)、1988年、158頁。
19 ブラム・ダイクストラ『倒錯の偶像』89頁。
20 ダイクストラ『倒錯の偶像』89頁。
21 ダイクストラ『倒錯の偶像』90頁。
後年、留学当時に漱石の作品を読んでいたと述べている22。
このように、直接の接触は指摘できないものの、はじめに述べたように当時の美術に親 しんでいた晶孫であるから、彼とミレイの「オフィーリア」との接点は当然あり得た。
ⅳ
ただし「剪春蘿」で川底に横たわるのは、その長い髪をゆらしながら流れていくオ フィーリアではなく、一人の幼い少年である。この違いの持つ意味は大きい。
世紀末芸術の中では「水」と女性・女性の溺死が、常に結びつけられて考えられていた。
生きているニンフらの故郷はまた死んだニンフらのそれでもある。水は最も女性的な 死の物質だ23
水は若くして美しい死、花ざかりの死の元素であり、人生と文学のドラマにおいて水 は傲慢さも復讐もない死と、マゾヒスト的自殺の元素なのである。水は、自分の苦痛 に泣くことしか知らず、眼がすぐ「涙に溺れる」女性の深い有機体的象徴なのだ24。
ヴィーナスがそこから生まれ、オフィーリアがそこへ帰ってゆく運命にあったように、
水は、いわば女の存在の源なのである25。
晶孫の福岡時代の文学にも、「水」の中の女性の死は描かれている。先程述べたように
「尼庵」がそうである。また「木犀」でのトシコの死は、「水」との関わりが無いかにみ えるが、素威が木犀の香りの中で彼女と過ごした時を思い出すことから示されるように、
彼女は二人の空間を満たしていた木犀の香りの中に溺れたのだと読み取れる。そしてその 香りは
だが先生はすぐに顔をあげて微笑み、赤い組みヒモをひたした26ビンの中から色付き の水を、スチーム管にそそいだ――部屋の中じゅうを香りがうずまいた――木犀の香 りが27。
とあるように、その後の彼女の病死を暗示する「水」の性質を帯びていた。いわばトシコ も「水」に溺れ死んだのだ。
しかし彼女たちの死は、ミレイの描くオフィーリアの死と同じではない。世紀末芸術に 描かれたオフィーリアの死は、ブラム・ダイクストラが厳しく指摘するように
22 「創造社の想い出」内山完造『魯迅の思い出』東京、社会思想社、1979年、185頁;「陶晶孫氏を囲む座 談会」『三田文学』1951年7月、62頁。
23 ガストン・バシュラール『水と夢』123頁。
24 バシュラール『水と夢』125頁。
25 ダイクストラ『倒錯の偶像』221頁。
26 原文「浸着紅絛」を、『陶晶孫選集』28頁は「系着紅絛(赤い組紐が結ばれている)」につくる。
27 『音楽会小曲』56頁。
オフィーリアは、狂気に陥ることによって、恋人への献身を最も完璧に立証し、花と 等しい存在であることを示すために自分の体を花で埋め尽くし、ついには、水死して 水底に沈む運命に身を委ね、それによって、女性は従属物であるとする十九世紀の男 性のこのうえなく他愛ない幻想を満足させたのである28。
当時の西洋社会が抱いていたこのような女性への偏見の反映であった。
晶孫の描いた女性の死はどうなのか。それは死にゆく二人の発した、次のそれぞれの言 葉に示されている。
「ああ、僕はずっと子どもでいたいだけなんだ――」
「あなたも成長するわ――成長するのは、本当に嫌なこと。だけど私たちはいっしょ に成長しましょう。」
「木犀」29
兄 ああ、言うまでもない、僕たちの幼いころの口づけ、僕は僕とお前のこと を!――
妹 そんな話はしないでよ。――ああ、幼いころは本当によかった!(なきむせぶ 声)
「尼庵」30
それぞれが口にするのは「恋人への献身」ではなく、幼さの尊重である。彼女たちは幼さ のために死を撰んだのだ。
そしてそれぞれの物語の中で彼女たちの死は、残された男性に彼らの幼い日々の思い出 を、思い出として、明確な形で抱かせるはたらきをした。トシコがいなくなったからこそ 素威の幼年時は
それは喜びさえまだ――「まだ」としか言えない――失われず、まだ希望と目的の中 で輝いていた昔のことだ31。
と回想できる思い出となって残り、また小説「西洋人形」でも
今日君がもってきたバラ――はっきりと思い出せるんだけど、以前ある日にも、こん なバラが香っていた、バラは同じさま、バラを入れた花瓶も同じさま、机も同じさま、
だけどあの時の人たちは、今日ここに一人足りない、――32
28 『音楽会小曲』56頁。
29 『音楽会小曲』54頁。
30 『音楽会小曲』99頁。
31 『音楽会小曲』46頁。
32 『音楽会小曲』75頁。
ピアノの教師が思い出した少年時代は誰かの死と結びついているのが予想される。
子どもの清らかさ・無垢の尊重は、ルソーの『エミール』に端を発するロマン主義文学 の主要なテーマだが、中国現代文学でもそれは五四時期文学に求められていた一つの大き な課題だった。また日本でも雑誌『赤い鳥』の流行が示すように、当時の晶孫を囲む文学 環境では、童心の尊重は普遍的な傾向だった。
彼女たちの死は、その幼い清らかさのための死だったのだ33。
そしてそのような幼さのための死は、幼い子どもである葉 の死んだ「剪春蘿」でさ らにはっきりする。
「剪春蘿」の中で、晶孫はミレイの「オフィーリア」の構図そのままに、葉 の手に はしっかりと剪春蘿を握らせた。オフィーリアが手にしていた花は、彼女が木の枝にかけ ようとした花環の残りであり、西洋の図像学的にいえば死にゆく彼女の女性としての清ら かさを現わしている。
葉 の手にしていた剪春蘿はどうか。
剪春蘿は、葉 が寄宿学校に入れられて知りあった年長の友・緑弟とともに、二人で 花畑で育てたものである。
葉 は父親に、
「お前は泣くしか能がない、役立たずめ!」34
としかられ、恋しい家から離され、学校に強制的に入学させられた。彼の祖母の表現だと
「幼いこども」であり、涙もろい純粋な少年として描かれている。
葉 が入学してからの緑弟との関係は、その葉 の汚れなき幼さの延長線上の関係 だといえる。
花畑のちょっと寒々としているが可憐な剪春蘿、すがすがしくけだかい緑弟――葉 も家の中から遠くはなれていることを悲しまなくなった35。
「ああ、葉くん君は僕と別れるのが嫌なんだ、ずっと僕たちはいっしょにいよう、一 つの世界で生きていこう 」36
33 さらに言えばそれは「母親」の死だといえる。福岡時代の晶孫文学は家庭の中の母親の影がうすい。
「木犀」のトシコや「尼庵」の妹は主人公にとってともに幼年時代を過ごした、母親がわりの存在であ る。それゆえ「母親」としての彼女たちの死は、主人公がその美しい幼年期を保ったままの「母親」と の別れ、一人の男性としての出発のための死だとも言える。このことがはっきり示されているのが小説
「水葬」(1927年)である。「水葬」は「記憶の中から旧作を書き出した」ものであり、私はその「旧 作」が福岡時代にまで遡り得るのではないかと考える。「水葬」は母親の日本航路上での死と、彼女の 水葬、そしてその後に葉山の海岸に座る、あたかも海からあらわれたかのような主人公の恋人を描いて おり、晶孫文学と「水」との関わりを考える上で欠かせない作品である。
34 『音楽会小曲』60頁。
35 『音楽会小曲』65頁。
36 『音楽会小曲』66頁。
そしてこの、少年たちの汚れなき関係を象徴しているのが剪春蘿である。
「この花は僕たち二人のために咲いた花だ、僕たち二人の友情の花だ! 」37
しかし季節の移り変わりの中で花が姿を変えてゆくのと同じように、二人のこの理想郷 は永遠ではなく、二人の世界には変化が訪れる。葉 の死の前日の花畑は、
その日の午後剪春蘿はまだたくさんの残り花が美しく咲いていた38
と描かれており、「まだ咲いていた」、季節の移り変わりの中で、花が散りゆくのがここ の描写の中に予告されている。花は散りゆく、つまり葉 と緑弟の友情、そして葉 の清らかな幼さが失われていくのだ。
それは葉 の入学自体が
ああ、僕をここに行かせたのは全てお父さんの名誉心なんだ39。
と、彼の幼年性を損なうためのものであり、いつかはそうならざるを得ないものだったこ とからも分かる。
それゆえ、川底の葉 が剪春蘿をしっかりと握っていたこと、それはオフィーリアの 握っていた花が彼女の女性としての無垢を象徴していたのと同じように、葉 がその清 らかな子どもの幼さを保ったまま死んだことを現わしているのだ。
ⅴ
このように福岡時代の晶孫文学には、清らかな幼年時代が死によって守られるという構 図が見出せる。
そしてその死が讃美されている。
「剪春蘿」がオフィーリアの死にゆく姿を描いたミレイの絵に影響された小説であるな らば、それは葉 の死を描いたものであり、幼さを守った彼の死を讃美するために描か れたのだ。「剪春蘿」は子どもの死を芸術作品化した小説なのだ。
「黒衣の男」では直接に子どもの死、主人公の弟・テットの死が讃美されている。
僕の大切なテットが死んだ!十二歳の幼いテット!
大理石の上で、
あざやかな赤い敷物の上で、
白いかんばせが金のボタンと金の襟に映しだされている。
37 『音楽会小曲』67頁。
38 『音楽会小曲』68頁。
39 『音楽会小曲』64頁。
死の神の腕の中で確かに死んだ!彼は貴く死んだ。
彼はあざやかに死の神の腕の中で確かに安らかな眠りについた40。
テットの子どもの清らかさを保ち得たからこそ、その死は貴く、讃美されているのだ。
そして清らかさのために、テットの死は必然とされていた。
僕は人生の全ての試練を通り抜けた、テットも通り抜けてきた。僕とテットはともに 死の間近で生きてきた、僕たちはお前らを恐れない41!
その死は当然の帰結だったのだ42。
子どもの清らかさ・童心が、福岡時代の晶孫文学の周囲で普遍的に求められていた大き な課題であったことは、先に述べた。
晶孫の福岡時代の文学の場合、問題は、それが子どもないしは幼年時代の思い出が、死 ぬからこそ尊重されている、そしてその死自体が美化されている所にある。ピーター・カ ヴニーはこのような世紀末文学の唯美主義の傾向を厳しく非難する。
十九世紀中葉から、無垢についての考えが大きく変化した。それは、人間が完全性に 達しうる可能性をもつという生き生きとした表現であったものが、ただ単に静的に 「経験」と対比させられるものとなり、そしてついには、静的どころか、実際には逃 避の傾向そのものとなってしまった ひどいばあいには、無垢のもつ「生」の積極 的肯定の主張は逆転して、退行と死を指すものになり下がっている。本来あるべき無 垢と経験の葛藤は、始まる前からすでに消え失せ、かわって唯一の結論は死による敗 北にしぼられてしまう43。
福岡時代の晶孫文学は、このような死をめぐる世紀末の唯美性を強く帯びていたのだ。
ⅵ
以上、晶孫の福岡時代の文学に見られる世紀末芸術の唯美主義の影響を、「夜」「水」
「死」を切り口に考えてきた。福岡時代の彼の文学が世紀末色の強いものであったことが、
ここで示されたと思う。
彼が過ごした当時の福岡は、行政面では上水道の敷設・道路の舗装事業など、近代都市 化が達成しようとしていた時期に当たり、また文化面でも劇場や映画館・カフェやダンス ホールが現われ、デパートが建とうとしていたなど、いわゆるモダンな文化が始まろうと していた時期であった。
しかし晶孫文学に描かれた福岡のイメージは、あまりいいものではない。
40 『音楽会小曲』43頁。
41 『音楽会小曲』39頁。
42 テット(Tett)と dead の語音が近いことも指摘せねばなるまい。
43 『子どものイメージ』203頁。
「木犀」の中で、晶孫はその執筆同時の福岡を
結局ここは田舎であり、古いやしろがひろびろとしているけれど、ただぼんやりと建 っているだけだ。やしろの前を電車がもう通っていて、行き交う人々も全く少なくな い。
田舎にも田舎の風味があるべきだが、ここはいくらか都会の要素を帯びていて、結 局田舎なのか、都市なのか――田舎だとしたらにぎやかすぎる、都市ならば零落して いる44。
と表現し、また福岡での生活を、主人公の素威に
馬車馬の生活!
彼の忘れることのできない幼年時代は東京で過ごされたものだった。彼はどうして も東京に留りたかった。駄目だとしたら、京都に行きたかった このさらなる希望 さえかなわず、落ちぶれて九州に漂いつき、全く目的などない生活を送っている、何 て悲惨なんだ45!
と言わせ、後年の回想のなかでも、
本屋は丸善書店だけだったが、もう古典を読むのは充分だった、僕の遺伝した反抗精 神がいたる所で邪魔をし、この街にそれほど関心を持てず 卒業の翌日の朝には、
もう汽車に座っており、日本の東北に向かっていた46。
と記している。晶孫は福岡での生活を全く歓迎していなかった。彼の心はそれ以前にくら していた東京にあったのだ。
それゆえ晶孫文学の中で、福岡はただたち去るだけの場所としか描かれていない。それ は郭沫若が博多湾の自然を讃美し、その中に自らの自我を歌いあげたのと対照的だった。
ここでもう一度、はじめにあげた鄭伯奇の文にもどってみよう。
文学理論としては、彼は別に何々主義などと主張したりしなかったが、彼の作品の風 格から考えて、当然ロマン主義に属している。しかし、彼には郭沫若や成仿吾のよう な熱情がなく、郁達夫のような憂鬱がなかった。初期に、彼は芸術至上主義の傾向が 少しあった。彼は超然自得な態度を保ち続けた。生活の苦しさは、少なくとも、彼の 学生時代にはなかったはずだ。それで彼の初期の創作には個人の呻吟や社会への反抗 など探し出せない。彼は幼いときから中国を離れており、彼の言語表現は異国風味に とても富んでいる。彼の作品は、それゆえある種独特の香りを強く帯びた。
44 『音楽会小曲』44頁。
45 『音楽会小曲』45頁。
46 「晶孫自伝」『陶晶孫選集』236頁。末句は東北帝国大学に進学した意味。
彼が非難するように、晶孫の福岡時代の文学が社会とのつながりが無いことは否定でき ないことである。唯一執筆当時の作者の生活に触れていると思われる「木犀」の中でも、
素威は九州での学生生活から顔をそむけ、幼い思い出の中に逃れているだけだ。
素威はまだ生きている――先生の唯一の遺品である、小さな腕時計を保存し、不思議 な時の思い出と共に、自分とはひどくかけ離れている社会の中で生きている47。
「黒衣の男」や「西洋人形」、「尼庵」の中でも、ただ社会からかけ離れた生活が描かれ ている。
これはちょうど、先に述べた晶孫文学の中の福岡という場所からの逃避と対応している。
彼は意にそぐわず福岡に流されたからこそ、これまで述べてきた耽美的な作品を描き得 たのかも知れない。
第Ⅱ章第1節で述べる様に、関東大震災後の文学で晶孫は自らの生活や中国に眼を向け ていくが、その際、福岡時代の晶孫文学が帯びていた世紀末の耽美性は消え失せてしまう。
そこには時代の流行の影響もあるだろうが、それよりもやはり晶孫自身の社会に対する姿 勢の変化がはたらいていたと考えられる。晶孫はその社会性を獲得する代償として、自ら の意志で福岡時代の唯美主義をふり払ったのだ。
しかし私は、晶孫文学の流れがそうだからといって、福岡時代の彼の文学をただ乗り越 えていくだけのものだったとは考えない。それが豊かな実りであったことは間違いのない ことなのだから。
そして福岡時代の晶孫文学が帯びていた世紀末の唯美主義は、それ以降の彼の文学の底 部を静かに流れ続けていた。それは彼の文学に変化が訪れる時に、作品の中に必ず顔を現 わしている。中国に帰国後の上海での小説「菜の花の女の子」(1929年)に描かれた、少 女のその後の刑死を暗示するかのように海に投げ捨てられる黄色い菜の花、日本に亡命し てからの小説「淡水河心中」(1951年)に描かれた、「淡水河にとっては今迄自分に殉じ た多くの死体のうちの一つ」48である少女の死、明らかに彼女たちにはオフィーリアの姿 が重ねてある。また抗日期の文学を語るとき、生死の境としての「水」の役割りを論じな い訳にはいかないだろう49。
晶孫文学の中には世紀末の耽美性が、常に秘めつづけられていたのだ。
晶孫の福岡時代の文学は、その後の彼の文学の方向性に影響し続けていたのだ。
47 『音楽会小曲』58頁。
48 『日本への遺書』138頁。
49 『陶晶孫選集』所収「弱虫日記」・「薔薇的夢:伊達書簡」など。
Ⅰ-2 郭沫若初期文学と「水」
序論で述べた様に、郭沫若は陶晶孫の「木犀」に寄せた「附白」の中で、陶の唯美主義 を強く推賞していた。本節ではその郭の初期文学を、前節で陶の唯美主義の鍵となる要素 として挙げた「水」を介して分析し、陶文学に通じる唯美主義と、そこに収まらない郭の 初期文学のロマン主義的な個性を指摘する。
導言 早期の郭沫若は「水」の詩人である。
私がここに言う「水」とは、我々の生活の中で普通に見られる、水によって構成されて いる物質で、「水」の詩人とは、つまり「水」の様々なイメージによって自らの詩意を表 現する者を指す。ガストン・バシュラールが『水と夢』を 1942 年に出版して、「水」の 詩人たちの重要な作品を分析し、幾つかの文化コンプレックス1を提示して以来、それら は欧米文学の底を常に流れている芸術の源だとされている。
郭もこの様な「水」の詩人だったことは、以下の2点から証明することが出来る:
①郭の早期の詩歌中に「水」のイメージが度々現われる。『女神』の目次を見ただけで も、「水」に関するタイトル、例えば「湘累」・「海を浴す」・「光の海」等が見出せる。
②彼が当時書いた文学評論中にも、以下の箇所がある:
詩は「作り」出すのではなく、「書き」出すだけのものである。私は詩人の心境とは 例えば澄んだ港湾の海水の様で、風のない時には鏡の様で、宇宙万物のイメージがそ の中に映し出される;一度風があれば大波が起こり、宇宙万物のイメージがその中で 動き回る。この風が所謂直感で、霊感(Inspiration)であり、起こった波が高く漲 りつめた気持ちである。この動き回るイメージが想像である。これらが、私が思うに 詩の本体であり、それを書き出した時にこそ、体も外貌も備わる。大きな波涛が「雄 渾」な詩となり、つまり屈子の「離騒」、蔡文姫の「胡筎十八拍」、李杜の歌行、ダ ンテ Dante の『神曲』、ミルトン Milton の『楽園』、ゲーテの『ファウスト』とな る;小さな波紋が「淡い」詩となり、周代の国風、王維の絶詩となる。日本のいにし えの西行上人と芭蕉翁の歌句、タゴールの『ギーターンジャリ』となる。これらの詩 の波には、それ自らの周期、振幅(Rhythm2)があり、詩を書く者の些かの作為も、
一瞬の猶予も許さず、その強固さは、ゲーテが言う様に紙の位置を正す時間さえ与え てくれない。
『三葉集』1920 年1月3
1 『水と夢』33 頁。原文は complexe de culture、文化の中に沈殿した伝統・習慣等。『水と夢』訳註 11、291 頁参考。
2 原文はここにセミコロンがあるが、削除する。
3 『郭沫若全集』文学編 15 巻、14 頁。
黄河と揚子江は自然が我々に暗示している二篇の偉大な傑作である。空からの雨露を 受け、地の泉水を取り込み、自らの中に外から来た一切のものを融け込ませ、自らの 血液とし、滔々と流れ、全ての我を流し出す。岸の岩の抵抗があれば破壊し、不合理 な堤防があれば破壊し、全ての血と力を奮い立たせ、全ての気持ちを奮い立たせ、永 遠の平和の海へと滔々と前進せよ!
──黄河・揚子江の様な文学!
これが我々の提出した標語(Motto)だ。
「我々の文学新運動」1923 年5月4
この2篇の文章が証明する様に、郭の早期作品中の「水」は彼自らが希求した文学の方向 であり成就だったのだ。
バシュラールが『水と夢』を出版して以来、欧米と日本での文学研究で少なからぬ関係 研究があるので、本節で提出する「水」の分析を用いれば、郭の早期の作品を欧米文学と 並べて論じることができ、郭の早期文学の世界文学上の相対的な位置を知ることが出来る。
また郭の当時の詩は中国現代文学の成就を代表出来るのだから、郭の世界文学上の相対的 な位置はつまり中国現代文学が当時有していた相対的な位置である。
徐志摩は、もう1人の中国現代文学を代表できる詩人だが、彼がイギリスから戻ってす ぐ、中国文壇内部で作品を発表し始めた 1923 年5月に、郭の詩中の1句「涙浪滔滔(涙 の波が滔々)」を「偽物だ」と批判したことがある:
私はお前と百日離れて奇縁なことに、
再びお前の門前を行き来しに来た;
私は私の涙の波が滔々たるのを禁じ得ない、
私は私の心の波がみなぎるのを禁じ得ない。
「涙の波」1921 年 10 月5 徐はこう記している:
詩を作る者であるから、感情の作用を些かは免れ得ず、詩人の涙は女の涙よりももっ と価値がないが、涙を流すには毎回少なくともふさわしい理由が必要だ。蟻を一匹踏 み殺したのも、一つの傷心の理由たるに恥じない。今我々のこの詩人は彼の三ヶ月前 の旧居に戻ったが、その三ヶ月内に別に何ら大きな変遷はなく、彼が感情をどんなに 強くしても、涙をどんなに「豊富」にしても、海の波の様に滔々とはならないだろ う6!
4 『郭沫若全集』文学編 16 巻、4 頁。
5 「海外帰鴻」(『郭沫若書信集』上册)1992 年、202 頁。原文には題がないが、『郭沫若全集』文学編 5 巻、391 頁に基づいて題を付けた。
6 「雑記(二)」『徐志摩全集』4 巻、10 頁。
後に徐は、これを「A Sence of Humour」だと解釈している7。勿論こうも言える、徐は 郭の当時の「家は四壁を空にしている」感覚8を理解しておらず、だからあの様なことを 書いたのだと。又こうも言える、郭と徐この2人の詩人は元々理解し合うことが出来ず、
だから自然とこの矛盾が生まれたのだと。私はここでは当時の徐の人間性については問題 にしないが、1点だけは強調したい、イギリスから戻った徐にとって、郭の作品中の
「水」は詩ではなく、文学でもなかったのだ。
郭の「水」は一体どの様なものだったのか。彼の「水」は世界文学上特殊なものだった のか。私は欧米文学に詳しくなく、世界文学など論じ切れないが、本節を通じて郭沫若早 期文学中の「水」をきちんと整理し、中国文学の1つの特殊な状況を解くために、研究資 料を提供したいと思う。
郭沫若早期文学中によく現われる「水」は、彼の当時の福岡での自然に富む生活環境及 び当時の創作方法と必ず関係している。郭が 1921 年 10 月に郁達夫に送った手紙から知れ る様に、彼の当時の大部分の作品は福岡の海辺で創作されている:
草葉を通って海岸に来ても、まだ百歩程の風景がある。海辺の砂浜には、多くの漁船 が並んでいる。私はいつも本を挟んで来てこれら船の中で昼寝する。私は「Inspira- tion is born of Idleness」だと本当に信じる、私の多くの作品の、殆どがここで生 まれたのだ9。
彼の故郷楽山の山水、東京にいた時に行ったことのある館山の海岸も、この傾向に影響し たかも知れない。
この様な環境の下、彼は「水」のイメージを用い「自然」を表現した。その中で私は以 下の3つの特徴に注目した:
ⅰ 融合
郭沫若の一部の詩は「自然」と詩人の「融合」を表現しており、ワーズワース的なエコ ロジカルなロマン主義の側面を持っている。そこでは「水」の、特に「海」の生き生きと したイメージが見られる:
太陽が一番高くなった!
無限の太平洋が男性の音調をたたいている!
万象森羅、一つの円形の舞踏!
私はこの舞踏場で波と戯れる!
私の血は海の波とともに満ち、
私の心は太陽の火とともに燃え、
私の生まれて以来の垢とゴミは
7 「『天下本無事』」『徐志摩全集』4 巻、14 頁。「Humour」は「Humowr」となっているが改める。
8 郭沫若『創造十年』(『郭沫若全集』文学編 12 巻)106 頁。
9 郭沫若「海外帰鴻」204 頁。
とっくに全て洗い落とされた!
私は今や殻を脱いだ蝉と化し、
この激しい日光の中で声をあげてさけんでいる:
「海を浴す」1919 年9月10
「水」は詩人を「浄化」し、詩人を生まれたすぐの「純粋」な存在へと戻す:
無限の大自然が、
一つの光る海となった。
至る所が生命の光る波、
至る所が新鮮な調べ、
至る所が詩で、
至る所が笑い:
海も笑っている、
山も笑っている、
太陽も笑っている、
私と阿和、私の柔かな苗も、
一緒に笑いの中で笑っている。
阿和、お父さんはどれだい?
彼は空を飛ぶ鳥を指さす。
オハ、私があの鳥!
私があの鳥!
私は白雲と飛び比べしたい、
私は輝く帆船と競争したい。
あなたはどちらが高く飛ぶと思う?
あなたはどちらがちゃんと走れると思う?
「光る海」1920 年3月11
詩人は「水」の中で遊び、彼と「自然」は融けて殆ど一体となっている。
「光る海」に現われた「阿和」は郭自身の息子の名である。当時の郭の詩の中に、
「海」と「孩子(子ども)」が度々一緒に現われる。彼自身もこう書いている:「私の息 子は 私が思うに彼は確かに純粋無垢な天使だ」12。当時の人々は「子ども」が「自 然」を体現していると思っていた、故にこの点からも郭が「水」の中に「自然」と自分が 調和している影を映し出していることが分かる。これは又一種の「浄化」だとも言える、
詩人は「子ども」のイメージを通して自らを子どもの頃の「純粋」に戻らせたいとする:
10 『郭沫若全集』文学編 1 巻、70 頁。
11 『郭沫若全集』文学編 1 巻、91 頁。
12 『三葉集』(『郭沫若全集』文学編 15 巻)42 頁。
岸の舟の中に横たわり、
Wilde の詩を耽読する;
横には嬉々と遊んでいる和坊が、
突然私を呼び醒まし。
「父さん、goran13よ!
Are wa kirei desho!」
──夕陽の光の下の大海が、
輝く金の波を浮かせている。
金の波は海の上を移り渡り、
海の島々は皆霧の中に覆われて、
柔らかな太陽はまるで月輪の様で──
童話の中の世界の様だ!
無題 1921 年 10 月14
この様な「融合」の「水」は、郭にとっては必要なものだった。彼は岡山で学んでいた 時に、日本人の家族がいるために留学生運動に参加できず、重い「悩み」を抱えた。15福 岡に来て以来、彼はこの問題を解決するために「融合」の「水」を書き出し、自らを「自 然」の状態に戻し、自らに「再生」の機会を与えた。
ⅱ 神秘
郭沫若の早期作品中の「水」は、時には「運命」又は「悲哀」を表している:
私の心血はもう煮飛ばされてしまった、
麦畑の中では又誰かが宣戦している。
黄河の水は何時清くなる?
人の命は何時終わる?
「女神の再生」1921 年2月16
涙の雫も尽きそうです、
恋人よ、
まだ戻らないの?
私たちは春から秋まで待ち、
13 原文は「garan」とするが改める。
14 「海外帰鴻」204 頁。
15 『創造十年』40 頁。
16 『郭沫若全集』文学編 1 巻、10 頁。
秋から夏まで待ち、
待ち過ぎて水は涸れ石も崩れました!
「湘累」1920 年 12 月17
郭は 1923 年 11 月に発表した評論「神話的世界(神話の世界)」にこう記している、こ れら理智的でない感情は「一切の自然現象の前で」、詩人の創作を通じ、神話となると18。 同時に彼は「神話の世界」の中で、ゲーテの詩「漁夫」を引き、文学が神話に学ぶこと を提唱している19。そのゲーテの詩が描いているのは1人の女性の水神ニンフが男を誘惑 して溺れさせる物語である。そして郭の当時の戯曲中にも、ゲーテと似た、「水」の中で 男を誘う女がいる:
私たちのこの洞庭湖では、遅くなると、時に妖精が現われ、真っ裸で一糸も纏わず、
同じ歌を永遠に唱い、同じ調べを永遠に吹いている。彼女らはでも吹くのが上手く、
唱うのも上手い。彼女らが吹けば、周囲の住民は皆涙を流し出す。彼女らは唱い飽き て、吹き飽きたなら、湖水の中に飛び込んで深々と隠れてしまう。現われる時には、
いつも二人の女だ。周囲の住民は彼女らを女英と娥皇だと言い、皆彼女らを拝みに来 る:恋愛の成就を祈る者もいれば、子どもの成育を祈る者もいる;他にあの浮ついた 若者たち、彼女らのために水に飛び込み死ぬ者も本当に少なくない。
「湘累」1920 年 12 月20
私は春の水の様に冷たく、彼は春の風の様に暖かい;
水は春風の懐に入ると、融けて春の水となる。
水は満ち桃の花を浮かべている、彼は水に舟を浮かべている;
浪を立てて彼の舟を覆し、彼は私の中で死ぬ。
「庭梅の花」第2幕、1922 年3月21
これら男を溺れさせる女、特に「湘累」の「裸体で、髪は自然に垂らし、岸辺の岩に並 び座っている」22女は、郭が「神話の世界」で引用したゲーテの詩の中の女の水神と同じ であり、欧州文化の影響をはっきりと受けて書き出されている。
当時郭の周囲にはある種世紀末の唯美的な雰囲気があった。前節で取り挙げた、当時彼 と一緒に福岡にいた陶晶孫の諸作品、及び郭沫若が献詩を書いた田漢訳の『サロメ』を見 ると、それが分かる。郭沫若のこれら「神秘」の「水」はこの特殊な唯美主義の雰囲気か ら生まれたものだ。
17 『郭沫若全集』文学編 1 巻、16 頁。
18 『郭沫若全集』文学編 15 巻、284 頁。
19 同前、287 頁。
20 『郭沫若全集』文学編 1 巻、17 頁。
21 『郭沫若全集』文学編 6 巻、202 頁。ここでは『創造季刊』1 巻 1 期に依って題を改めた。
22 『郭沫若全集』文学編 1 巻、16 頁。