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1 郭沫若・陶晶孫と福岡

ドキュメント内 郭沫若・陶晶孫を中心とした (ページ 69-105)

 本節では福岡という街が、郭沫若と陶晶孫の文学に刺激を与え、両者がそれを対照的に 作品の中で昇華させたことを論じる。

導言

 郭沫若が1921年に出版した作品集『女神』は、力強い自我の主張を帯びて、当時中国で 渦巻いていた五四新文化運動と呼応し、読書層に広い共感をよび、中国現代詩の基礎を築 いた。そこに収められている作品のほとんどが、作者身辺の自然のふところで詩想を得た ものだが、しかしそれが、五四運動の発生の地であり、当時の中国文化の中心だった北京 ではなく、また当時の中国の経済の中心地であり、『女神』自身もそこから出版された上 海ではなく、ましてや当時多くの中国人留学生が活動していた東京でもなく、福岡という、

日本の一地方都市で書かれたことに、私は強い興味を覚える。

 郭が留学生として福岡に滞在したのは1918年8月から1923年3月だが1、1920年9月か ら1923年3月まで、郭と同じ創造社に参加した陶晶孫も福岡に滞在している。陶が福岡で 書いた諸作品、例えば「木犀」・「黒衣の男」は、その幻想的な繊細さで、中国文学史の 中で異彩を放っている。

 このように福岡は、中国文学史を語る上で欠かすことのできない都市空間なのだが、現 在、郭と陶の福岡での文学と、その文学活動を中心に扱った研究は多くなく、朱寿桐の

「博多湾の風物と郭沫若の文学及び文学活動」2、武継平の『郭沫若留日十年』3等がある のみである。しかしそれらは、彼らが何故福岡に来たのかという問題に触れていない。そ の答えは簡単にこう言えるかも知れない:九州帝国大学で医学を学ぶために福岡に進学し て来たのだと。しかしそれならば何故、彼らは九大で学ぼうとしたのだろうか?

 郭は後年「博多を追懐する」の中で、旧帝国大学中、九大を卒業した中国人留学生数が 最も多いとし、その理由として:①気候が暖かく、風光明美。②元寇の古跡がある。③そ の元軍も攻めた梅の名勝太宰府が近くにある、ことを挙げ、かつ郭「自身はというと元代 の戦跡があるから九大入学を選んだ」4と述べている。

 しかし郭が福岡にいた間に記した「今津紀游」には、以下のような記述もある:

  東京の一高で日本史の講義を聴いていた時にはもう、福岡市の西今津地区に、防塁の   残存がまだ少しあり、日本史上の有名な史跡になっていると聞いていた。その時は飛   んで今津を訪れ、モンゴル人の「馬の蹄はいたる所にあり、緑の草は無い」5戦地を   弔いたくて仕方がなかった。

1 翌年1924年4月から10月までも福岡に滞在しているが、本論ではこの時期の文学を扱わない。

2 『創造社作家研究』78頁。

3 重慶出版社、2001年。

4 『郭沫若全集』文学編19巻、334頁。

5 出典不詳。

    私は福岡に四年近く住んでいるが、「元寇防塁」がすぐ近くにあるというの   に、一度も弔いに行ってない6

4年も見に行っていないぐらいだから、彼が後に記した理由は明らかに重要なものではな い。彼は元寇防塁のために福岡に来たというよりも、さらに切実なある理由のために福岡 に来たのだ。

 「詩人である郭沫若と博多湾のつながりは非常に緊密である、これは彼の、影響が最も 大きく、完成度も最も高い詩作(『女神』と『星空』7に収められているほとんど)が皆 博多湾のほとりで生まれたのを指すだけではない。郭沫若の文学及び文学活動と博多湾の つながりは人々の普通の印象よりとても深い」8のだから、郭と陶、彼らが福岡に来た理 由も、郭の詩を通して、中国現代文学で大きな意義を持つことになる。本章で私は、彼ら が福岡に来た理由を探ることを通し、福岡という都市の中国現代文学上の意義と影響を考 えてみる。

ⅰ 望んで来たのではない

 当時の福岡は、行政面では上水道の敷設・道路の舗装工事など、近代都市化が達成され ようとしていた時期で、また文化面でも、劇場や映画館、カフェやダンスホールが現れ、

デパートが建とうとしていたなど、いわゆるモダンな文化が始まろうとしていた時期だっ た9

 その福岡に、私は郭と陶が自ら望んで来たとは考えていない。

 郭は博多湾の自然を賛美し詩を成しているが、その一方で、東京にも特別な感情を持っ ていた:

  私が一九一四年初めて東京に行った時、入学試験の準備をした最初の半年は小石川の   辺鄙な場所に住んでおり、一度も銀座に行ったことがなかった。一高予科にいた一年   は青年内向期の絶頂で、銀座のカフェは言うまでもなく、浅草の映画館さえ行ったこ   とがなかった。その後地方へ分配された10。夏休みに時には東京に行く機会があった   が、銀座のカフェなど、本当に禁じられた楽園だった。「カフェの情緒!」この何と   も人をそそる名詞よ11

郭は東京の文化にあこがれ・羨望を抱いていた。

 また彼は京都帝国大学に転学し、文学を学ぼうとしたことがある:

  その頃はちょうど私の悩みが絶頂に達した時だった。私が「二月中に京都に行くつも

6 『郭沫若全集』文学編12巻、305頁。

7 郭の第二作品集、1923年出版。

8 朱「博多湾風物与郭沫若文学及文学活動」78頁。

9 井上精三『博多大正世相史』などに詳しい。

10 郭は岡山の第六高等学校を卒業して、福岡に来ている。

11 郭『創造十年』(『郭沫若全集』文学編12巻)114頁。

  りだ」と書いたのは、転学し、そこの文科大学に入りたかったからだ。しかしこの計   画は実現しなかった、なぜなら仿吾の反対にあったからだ。仿吾はこう考えてい   た、文学を研究するのに文科に入る必要はない12

郭は福岡に比べ、京都を重視していた、特に文学の研究をするには京都に行かなくてはい けないと考えていた。京都には同じ創造社の同人が数名いたが、中でも張定璜が師事して いたのは、当時の日本を代表する文芸評論家の厨川白村だった。対して福岡はと言うと、

文学としては九大の教師や新聞記者ら、地域にとらわれない、外部に広い視野を持った者 たちを中心とした短歌雑誌が、細々とあるのみだった13。郭が京都の文学に憧れたのも無 理はない。

 陶晶孫になると、小説の中で福岡と思われる街について、ストレートにこう述べてい る:

  詰まる所田舎で、古い神社が一つ広々としているけれども、ただぼけっと建っている   だけだ:神社の前を電車がもう通っているが、行き交う人はとても少ない。

   田舎にも田舎の風味があるべきだ、しかしここは幾ばくかの都会の要素を帯びてい   て、一体田舎なのか都会なのか──田舎としたら俗すぎて、都会としたら零落してい   る

   彼は忘れ難い少年時代を東京で過ごした、彼はどうしてでも東京に留まりたかっ   た、もし出来ない時は、京都に行きたかった、そこは彼の絶えず慕っているある先生   の故郷だった、しかしこのちょっとした希望さえ叶えられず、寂しくも九州に流れて   来て、何の目標もない生活を送っている、何て悲惨なんだ14

  しばらくして、年老いた主人が出て来た、たぶん着ているのは夜会服と呼ぶものだろ   うが、あのヨーロッパの楽団とは比べものにならない、彼女はそれをとても残念に   思った15

この2つの部分はともに福岡で描かれたもので、それ故陶が当時自分が「寂しくも」田舎 の福岡に「流れて来て」、そこの文化は「あのヨーロッパの楽団とは比べものにならな い」お粗末さ、だからとても「悲惨」だと感じていたことが分かる。

ⅱ 比較的簡単に入学できた

 福岡に来た理由としてまず考えられるのが、郭と陶が入学した九州帝国大学が、比較的 容易に入学できたことだ。

 九大は、1903年に京都帝国大学付属福岡医科大学として誕生し、1911年には九州帝国大

12 郭『創造十年』82頁。

13 原田種夫『黎明期の人びと』263頁。

14 「木犀」『音楽会小曲』44頁。

15 「洋娃娃」『音楽会小曲』77頁。『陶晶孫選集』42頁所収テクストは「年老いた主人」(原文:年老者 東家)が「年老楽人」になっていて、「たぶん」以下が全て削られている。

学となり、工科大学を新設した。1919年には分科大学を改めて医学部・工学部とし、農学 部を新設した。「優秀な教授陣」16を揃え、当時「盛名天下に轟くといつても誇張では な」17かった。

 郭は両親に宛てた手紙にこう書いている:

  私が九州に来てもうすぐ四週間です、先日六高から葉書が届き、九州医大が無試験入   学を許可したとありました18

武継平の調査19によると、当時の学生は申請により入学資格を得た。もし申請する学生数 が募集人数を超えた場合、試験を受けなければならず、入学できない可能性もある。もし 受からないと、彼らが受領していた奨学金が止められる。安全に入学するためには、申請 だけで入学できた九大に来るのが最善の策だった。

 陶には烈という名の弟がおり、陶が九大で学んでいた時、彼は京都大学で医学を学んで いた。

  京都の朝はきれいでした。私は陶烈が京都の大学に居た間いつもたずねて行ったもの   です。その頃はもっと静かでした20

当時烈の同学だった金関丈夫によると、

  私が京大医学部に在学中、同級生の中に一きわ目立つ男がいた。めったに教室に現わ   れなかったが、彼が姿を見せると、あたりに清芬の気がさっと流れるようだった。そ   の痩せた蒼白な顔を載せた上体が、いつもまっ直ぐに前方を向いていて、恰も寒中の   梅花を見るような、凛然たる気をただよわせた。いつか三条の青年会館で、コロムビ   アレコードの、その頃はじめて日本に舶載されたベートーフェンの第九シムフォニー   を聴いたことがある。私があの黄表紙のオイレンブルグのパルチェで、よちよちと曲   を追っかけていたとき、彼は私の隣席に座っていた。今では初めて聴いたベートー   フェンよりも、隣に座っていた彼の印象の方が、強く心にのこっている21

 烈が京大に行き、陶は何故行かなかったのだろうか?それは彼自らが京大の入学資格を 得られないと思ったからだろう、そして京大よりも容易に入学できる九大を選んだ。

 先ほど引用した「木犀」には、以下の部分があった:

  彼はどうしてでも東京に留まりたかった、もし出来ない時は、京都に行きたかった、

16 鬼頭鎮雄『九大風雪記』51頁。

17 同上、53頁。

18 『桜花書簡』149頁。

19 『郭沫若留日十年』58頁。

20 陶「弱虫日記」『日本への遺書』166頁。

21 「陶熾博士のことども」『南方文化誌』東京、法政大学出版局、1977年、33頁。

ドキュメント内 郭沫若・陶晶孫を中心とした (ページ 69-105)

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