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(1) 井 関 麻 帆* はじめに ジャン=ジャック・ルソーにとって「家族」とは何か

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(1)

  井  関  麻  帆  

 

はじめに

 ジャン=ジャック・ルソーにとって「家族」とは何か。フィリップ・アリエ スが『子供の誕生』で、18 世紀フランスにおける「近代的家族の誕生」を明 らかにしたように1、革命へと向かう激動の時代、「家族」の概念は変化していく。

このような時代を生きた啓蒙思想家ルソーは、「家族」をどのように捉えてい たのだろうか。

 「家族」について正面から論じた作品は残していないものの、『政治経済論』

(1758 年)や『社会契約論』(1762 年)などの政治的著作において、ルソーは「家 族のあり方」について言及している。「国王と国民」の関係を「家長と構成員」

の関係に比して国王の絶対的権力を導き出す、17 世紀後半以降に展開された 家族国家論(家父長制国家論)にルソーは社会契約説を対置させ2、国王と家長 の相違を論じて家族国家論に反駁を加えているのである。また、書簡体小説

『新エロイーズ』(1761 年)には架空の家族が登場し、自伝『告白』(1782 年)

には作者自身の家族が描かれている。このような作品からも、ルソーの「家族

 福岡大学人文学部講師

1 フィリップ・アリエス、『子供の誕生 アンシァン・レジーム期の子供と家族生活』、

杉山光信・杉山恵美子訳、みすず書房、1980 年。

2 吉岡知哉、「アンシァン・レジーム期フランスの政治思想における国家と家族」、『立教 法学』、第 42 号、立教大学法学部、1995 年、77-108 頁。

ルソーにおける家族像

― 『新エロイーズ』にみる理想の家族の崩壊をめぐって ―

(2)

観」を考察できるだろう。

 ルソーの「家族観」に関する研究は、それほど多くないのが現状であるが、

水林章は『幸福への意志』において、『人間不平等起源論』(1755 年)の分析 から「家族の成立」について論じている。「家族の成立」は自然状態から社会 状態への最初の変化の時期に起こる現象であり、この時期は「もはや自然状態 ではないが、しかしいまだに社会状態と呼ばれうる段階にはいたっていない、

中間的であると同時に、常に崩壊の危機にさらされた微妙な均衡の状態として とらえられている3」と述べている。それは、ルソー自身が「最も幸福で最も永 続的な時期4」、「人間にとって最良の状態5」、「世界の真の青年期6」と呼ぶ時期 であった。そこから水林は、『人間不平等起源論』において「最も好ましい社 会状態とされているのは、おのおのの家族が自己充足的に存立し、そのあいだ にいまだに『社会的』という表現が要請されるほどの相互依存関係が成立せず、

お互いが独立の交流を楽しむことができる時代のそれであった7」と論じてい る。つまり、ルソーは「濃厚な人間関係の存在と社会関係の不在の両方を同時 に可能にする8」、「文明化の過程の外部にとどまる家族9」を想定しており、この ような「家族観」は『新エロイーズ』と『告白』に反映されている、と水林は 述べている。

 また、鳴子博子は『ルソーにおける正義と歴史』において、「近代家族の生

3 水林章、『幸福への意志 ―〈文明化〉のエクリチュール』、みすず書房、1994 年、31 頁。

4 本稿で使用するルソーの作品は全て、プレイヤード版全集(Jean-Jacques Rousseau,  - ,  édition  publiée  sous  la  direction  de  Bernard Gagnebin et Marcel Raymond, Paris, Gallimard, « Bibliothèque de la Pléiade »,  1959-1995, 5 vol.)に依拠する。訳出にあたっては、『ルソー全集』全 14 巻、白水社、

1978-1983 年を参照した。引用および参照の際は と略記して、該当巻数をローマ数 字で、ページ数をアラビア数字で示す。よって、この参照箇所は  III, p. 171 となる。

5  .

6  .

7 水林、前掲書、85 頁。

8 同上。

9 同上。

(3)

成という歴史的文脈のなかで、ルソーの家族論の果たした役割を浮き彫りにす ることを通じて、近代家族を相対化10」することを目指している。鳴子は、教育 論『エミール』(1762 年)で提示される家族と『新エロイーズ』で描かれる家 族とを比較検討し、両者が同じ性格を持つ「農業経営体」であり、また「家父 長制的構造を基礎に持った家族11」であると論じている。一方で、『新エロイー ズ』の主人公ジュリが築いた家族は「母親の機能」を色濃く持っていることを 指摘し、『エミール』で描かれる家族との違いにも言及している。鳴子によると、

ジュリは「母親の機能」によって『新エロイーズ』の舞台クラランの精神的統 合者となるが、彼女の母性は 18 世紀フランスにおける人口停滞や高い幼児死 亡率の問題に対応するため、王権によって見出された「母親の新しい役割」で あった。このことから鳴子は、ルソーが『新エロイーズ』において「母性機能 に補完された新しい家父長制家族を生み出した12」と結論づける。ただし、鳴子 はあくまで『エミール』の考察を中心としており、『新エロイーズ』は『エミー ル』の家族論分析を補完するものとして位置づけている。

 吉岡知哉は、ルソーの政治思想を研究する上で「家族観」に早くから着目し ていた13。そして、「ルソーの家族観をみる場合になお考えなくてはならない問 14」として、『エミール』の続編『エミールとソフィ』(1780 年)および『新 エロイーズ』における「家族の崩壊」を挙げている。両作品の登場人物は作者 によって理念的に形成されているにもかかわらず、その登場人物たちが構成す る「家族」の運命があまりにも簡単に「崩壊」の道をたどることに吉岡は疑問

10 鳴子博子、『ルソーにおける正義と歴史―ユートピアなき永久民主主義革命論』、中央 大学出版部、2001 年、2 頁。

11 同上、13 頁。

12 同上、15 頁。

13 吉岡知哉、「ルソーと政治―”ÉCONOMIE POLITIQUE” をめぐって―」、『立教法学』、

第 34 号、立教大学法学部、1989 年、51-76 頁、および前掲「アンシァン・レジーム期フ ランスの政治思想における国家と家族」、77-108 頁。

14 吉岡、「アンシァン・レジーム期フランスの政治思想における国家と家族」、104 頁。

(4)

を呈す。そして、「家族の問題が何であったのかは、いまだなお、充分に解き あかされていない15」と述べ、ルソーはなぜ家族を崩壊させなければいけなかっ たのか、という課題を提示した。

 以上の先行研究を踏まえた上で、本稿はまず、ルソーが理想の世界を描いた とする『新エロイーズ』に着目し、いかなる経緯で物語の着想を得たのか、そ してどのような意図で理想の世界を作り上げたのかを、『告白』を手掛かりに 検証する。さらに、『新エロイーズ』においてジュリが築いた「家族」の問題 を「父親の役割」という側面から考察し、ルソーが抱く「理想の家族像」を検 討する。次に『社会契約論』と『政治経済論』を中心に、ルソーの「家族観」

について分析し、『新エロイーズ』に描かれる「理想の家族像」との関連を探る。

 『新エロイーズ』は主人公ジュリの死をもって終焉を迎え、母親を失った家 族の「その後」が描かれることはなかった。しかしルソーは、物語の最後に家 族の行く末、すなわち崩壊への道をたどっていくことを暗示する様々な仕掛け を施していた。家族というものがいともたやすく崩壊し得ることを、身をもっ て知っていたからであろう16。この『新エロイーズ』における「家族の崩壊」が 意味するもの、つまり吉岡が掲げた問題について最後に検討する。

1.『新エロイーズ』に描かれる理想 1−1.理想の世界

 1761 年に出版された書簡体小説『新エロイーズ』にお いて、ルソーはどの ような世界を描こうとしたのだろうか。1764 年に執筆を開始した『告白』の なかで、ルソーは『新エロイーズ』について回想17している。

15 同上、105 頁。

16 ルソーは自らの誕生と引き換えに母親を失い、10 歳の時には父親が逃亡して、一家は 離散している。

17 執筆に約 6 年を費やし、ルソーは 1770 年に『告白』全 12 巻の草稿を完成させた。『新 エロイーズ』について言及している第 9 巻は、1768 年から 70 年にかけて執筆されたと

(5)

 執筆のきっかけは、妄想にも似た空想であった。1756 年、都会の喧騒から 離れたいと願っていたルソーはパリ郊外のモンモランシーに移住し、田園と森 に囲まれたレルミタージュ(隠れ家)に隠遁する。そこには、『学問芸術論』(1750 年)で文壇デビューし、『人間不平等起源論』(1755 年)で成功を収め、「大胆 で誇り高く18」、「魂のなかにある自信19」を持っていたルソーの姿はなかった。

静寂な暮らしのなかで、次第に都会の悪徳や邪悪な人々に対する軽蔑はなくな り、「おずおずとした、人の顔色をうかがう臆病な人間、一言で言えば、かつ てと同じジャン=ジャック20」、つまり「人前に出たり、ものを言ったりするこ とはあえてせず、ちょっとふざけたことを言われてもうろたえ、女性の視線に も真っ赤になる人間21」に戻ったのだと、ルソーは『告白』で述べている。そし て、静かな隠遁生活で本来の姿を取り戻したルソーは自己分析を始めるので あった。

    生まれつき外にあふれ出る魂を持ち、生きることは愛することであるとい う私が、全く私のためになってくれる友人、真の友人をこの時まで持た ず、しかも自分は、真の友人となるために生まれたと感じているとはどう いうことであろうか。これほど燃え上がりやすい官能を持ち、全く愛に満 ちた心を持ちながら、ただの一度も特定の対象に愛の炎を燃やすことがな かったのは、どういうことであろうか22

考えられている。『告白』の草稿については、拙稿「ルソーと『告白』の草稿―幼年期 における記述をめぐって―」(『文学』、第 11 巻第 5 号、岩波書店、2010 年、218-224 頁)

を参照。また『告白』の執筆には、諸作品を統一的に把握する目的があったことを、拙 稿「ルソーにおける思想の統一性と父親像」(『人文研紀要』、第 84 号、中央大学人文科 学研究所、2016 年、211-236 頁)で論じた。

18   I, p. 417.

19  .

20  .

21  .

22  ., p. 426.

(6)

 『告白』執筆時、生涯の終わりに近づきつつあると感じていたルソーは、燃 えるような愛と真の友情の欠如を実感する。活力と愛に満ちた心を持ちなが ら、それを向ける対象がいないことに気がついたのである。ルソーの内省は続 き、やがて欠乏感を埋めるため一人空想にふけるようになる。

    現実の女性には手が出ないので、私は空想の国に身を投じた。そして自分 が夢中になるにふさわしい女性が少しも見当たらないので、それを理想の 世界のなかで育み、創造力に富む私の空想は、たちまちその世界を私の心 に合った女性たちで満たしたのだった。[…]現実の人間のことは全く忘 れて、その徳によっても美によっても天上のものである完全な被造物、こ の世界ではかつて見たこともないような、確実で、優しく、忠実な友人た ちのつき合い仲間を私は作った。魅力的な対象に取り囲まれたなかで、そ のように天上界に漂うのが非常に楽しかったので、時間も日も数えずに過 ごしていた23

 臆病で内向的な性格に戻ったルソーは、現実の世界では得られなかった女性 たちからの愛情や友情を、空想の世界で手に入れようと想像力を膨らませ、現 実の世界とは全く異なる理想の世界を作り上げたのである。そこは、天上界の 完全な被造物である理想的な女性や友人に囲まれた楽園であった。

 この天上界への耽溺は、病気やヴォルテールとの論争などによって中断を余 儀なくされるが24、理想の世界の魅力に取り憑かれていたルソーは、再び新たな 空想を始める。

    私の着想は前よりはやや熱狂が少なく、今度は地上に留まった。しかし、

23  ., pp. 427-428.

24  ., pp. 428-430.

(7)

あらゆる方面で見出し得る全ての愛すべきもののなかから、実に見事に選 び出したので、その選ばれたものは先に放棄した想像上の世界にも劣らず 幻想的であった25

 天上の世界を満喫したルソーは、今度は現実に存在し得る最上の人物を作り 上げていく。そして「理想の世界」と遜色がないこの新しい空想は、『新エロイー ズ』へと結実していったのである。

 まず、理想的な登場人物として二人の女性が設定された。それは、ルソーが

「自分の心の二つの偶像である恋愛と友情とを、この上なく魅惑的な姿に思い 描いた26」と『告白』で述べているように、作者自身が渇望した「燃える愛」と

「真の友情」を体現する登場人物、ジュリとクレールである。作者の心が投影 された二人を中心に、『新エロイーズ』の世界は広がっていく。

    どこへ行っても目に映るのはあの魅力的な二人の女友達、彼女らの男友 達、周囲の親しい人たち、彼女らの住む国、私の想像によって彼女たちの ために作られ、美化された様々な事物だけだった27

 こうしてルソーは、『新エロイーズ』のなかに理想の世界を作り上げたので ある。そこに登場する「親しい人たち」のなかには、当然「家族」も想定され ているであろう。本稿では、『新エロイーズ』において美化された「家族」と りわけ「父親」に着目する。

25  ., p. 430.

26  . さらにルソーは「この二人の魅力的なモデルに熱を上げた私は、できるだけ自分 をその恋人、その友達に同化させた。ただし、それを愛すべき若い男にし、その上、自 分に感じられる徳と欠点とを与えたのであった。」と述べており、自身をジュリの恋人 サン=プルーにも投影していることがわかる。

27  ., p. 434.

(8)

1−2.理想の家族

 『新エロイーズ』には二人の父親が登場するが、筆者はこれまでの研究にお いて、彼らはそれぞれ「善良なる暴君」と「善良な家長」という二つの父親像 を体現していると論じた28。後述するように、前者は「父親と子どもの関係」を 表しており、後者は「家族を統治する父親の役割」を意味している。つまり、

両者は家族のあり方を示すものでもある。前節で論じたように、『新エロイー ズ』はルソーが自身の理想の世界を描いたものである。したがって、そこに描 かれる家族もまた、作者の理想が投影されているといえよう。

 「善良なる暴君」とは、ジュリの父親デタンジュ男爵のことである。ジュリ は家庭教師の平民サン=プルーと恋に落ちるが、男爵は身分不相応という理由 で反対し、ジュリの結婚相手を独断で決めてしまう。結婚という神聖な契約に おいて子どもの自由を認めず、父権に従わせようとする男爵を、サン=プルー の親友で開明的なイギリス人貴族エドワードは「暴君29」と呼んだ。そしてエド ワードは、若い恋人たちに暴君からの逃避、つまり駆け落ちを提案するが、

ジュリの心は「愛の声に耳を傾けるか、親子の自然の情の声に耳を傾ける 30」、恋人への愛と、父親に対する親子の愛情との狭間で葛藤する。ジュリに とって両者は選択困難な二者択一なのであった。そしてついにジュリは肉親愛 を選択する。たとえ暴君であっても、育ててくれた父親への感謝の気持ちから

「父上の家を決して棄てることはしない31」と心に誓うのであった。 

 こうして許婚ヴォルマールとの結婚を決意したジュリは、欲望ではなく理性 による結びつきによって新しい家庭を築くことになる。一時は愛のない結婚に

28 拙稿「善良なる暴君―『新エロイーズ』におけるルソーの父親像―」、『フランス文学 論集』、第 54 号、九州フランス文学会・日本フランス語フランス文学会九州支部、2019 年、

1-15 頁。

29   II, p. 194.

30  ., p. 201.

31  ., p. 209.

(9)

怯えたジュリであったが、理性による結婚を「夫と妻の間で考えられる最も完 全な結びつき32」と捉え、領主である夫を中心に、領民たちと理想的な社会を作 り上げるのであった。やがてジュリは二児の母となり、母性で社会を包み込む 精神的支柱として描かれる。そして父親となったヴォルマールは「善良な家長」

となった。

 「善良な家長」には大きな役割がある。一つは子どもの教育である。『新エロ イーズ』では家長ヴォルマールの教育方針が語られているが、それはルソーが 後に『エミール』で提唱することになる消極教育33そのものであった。

 そして、「善良な家長」のもう一つの役割は、家庭内への悪徳の侵入を防ぐ ことである34。消極教育も子どもから「全ての悪徳を遠ざける35」ことが目的であ り、悪徳の侵入は、子どもにとって重大な危機を意味していた。

 さらに、「善良な家長の主要な義務の一つは、子どもたちが喜ぶように住ま いを楽しくする36」ことだと『新エロイーズ』では述べられている。そうするこ とで、「子どもは父親のように生きれば幸福なのだと感じ、父親と反対の生き 方をすれば幸福になろうなどとは決して思わない37」ように、子どもの良き手本 となるように努めることも「善良な家長」の役割なのである。

 ルソーは『人間不平等起源論』において「家族の成立」について論じる際、「家 族」を「同じ住居に暮らす夫と妻、父と子の結びつき38」と定義し、そこに「夫

32  ., p. 489.

33 ルソーは『エミール』において「人生の最も危険な期間は、生まれた時から 12 歳ま での時期だ。それは誤謬と不徳が芽生える時期で、しかもそれを絶滅させる手段を持た ない時期だ。[…]だから初期の教育は純粋に消極的でなければならない。それは美徳 や真理を教えることではなく、心を不徳から、精神を誤謬から守ってやることにある。」

 IV, p. 323)と述べ、消極教育の重要性を語っている。

34   II, pp. 461-462.

35  ., p. 568. 

36  ., p. 530.

37  .

38   III, p. 168.

(10)

婦愛、父性愛39」の誕生を認めている。ここには、父親が家族を率いる家長とな ることが含意されている。『新エロイーズ』における理想的な夫婦の結びつきは、

ジュリとヴォルマールの理性による結合であった。そしてヴォルマールが「善 良な家長」として、悪徳から幼い子どものいる家族を守っているのである。成 長したジュリと父親の関係もまた「父と子の結びつき」を表している。たとえ

「暴君」であっても、かつては「善良な家長」として自分を守り育ててくれた 父親にジュリは感謝し、恋人への愛よりも親子の愛情を選んでいる。さらに ジュリの父親を「暴君」と命名したエドワードの結婚観にも、理想的な「父と 子の結びつき」が示されている。

    娘が賢明さや品性を判断するのに理性や経験が欠けている場合には、善良 な父親はもちろんこれを補うべきです。父親の権利、いやむしろ義務は、

娘よ、あれは心正しい男だ、あれは悪者だ、あれは良識ある男だ、あれは 無分別な男だ、とか言ってやることです。これらの適合性こそ父親が識別 すべきものですが、その他の適合性の判断は全て娘のなすべきことです40

 理性や人生経験から、子どもの足りないところを補い助言を与えるが、それ 以外は子どもの判断を尊重すること、これが一定の年齢に達した子どもに対す る理想的な父親の態度であろう。

 また「善良な家長」の果たすべき役割は、「人間は善良に生まれるが社会に 接することで悪徳に染まり堕落する」というルソーの諸作品を貫く思想、すな わち「根本原理」と密接な関わりを持っている。消極教育は善良な子どもが悪 徳に染まらないようにするためのものであり、家長は家族から悪徳を遠ざけ、

善良な状態を維持する義務を負っているのである。『新エロイーズ』に描かれ

39  .

40   II, p. 194.

(11)

る理想の家族には、消極教育を実践し、子どもの防波堤となる「善良な家長」

が存在している。これはまさに「根本原理」の変奏であった。

2.政治的著作における家族観 2− 1.『社会契約論』

 ルソーは『社会契約論』において、家族について副次的に論じている。複数 の人間からなる家族は社会の最小単位であり、「家族はいわば政治社会の最初 の雛型41」だからである。そして、社会の原型を「父と子」という視点42で捉え るのであった。

    あらゆる社会のなかで、最も古く、そして唯一の自然な社会は、家族とい う社会である。子どもは、自己を保存するために父親を必要とする間だけ 父親に結びつけられている。その必要がなくなるや否や、この自然の絆は 解ける。子どもは父親に服従する義務を免れ、父親も子どもの世話をする 義務を免れて、両者は等しく独立の状態に戻る。もし、彼らが引き続き結 合したままであるなら、それはもはや自然にそうなっているのではなく、

意志によってそうなっているのである。したがって、家族でさえ約束によ らなければ持続しない43

 人間は自己保存、つまり生きるという本能に従うため、子どもは父親を必要 とする44。そのため子どもには父親に服従する義務が、父親には子どもの世話を

41   III, p. 352. 

42 ルソーは『社会契約論』において、「首長は父親にたとえられ、人民は子どもにたと えられる」( .)と述べている。

43  .

44 生まれたばかりの子どもにとって、母親は絶対的な存在である。しかし、ルソーが 政治的著作において「家族」について言及する時、作者の関心は母親ではなく父親に向 けられている。『社会契約論』が、王権神授説を導き出す家族国家論(家父長制国家論)

(12)

する義務が与えられるが、これらの義務、すなわち「自然の絆」は子どもの成 長とともに解け、父と子は独立した対等な関係となる。以後、家族としての結 合は、父子間の約束という一種の契約によって維持されていくことになる。自 然状態から社会状態への最初の移行は、家族における父と子の間で起こるので ある。これが家族を「政治社会の最初の雛型」と呼ぶ所以である。

 父親に服従する子どもの義務は、子どもに対する父親の権利と重なる。しか し、それは無限に続く権利ではない45。子どもが父権に無条件に服する時間は限 られているのである。

2−2.『政治経済論』

 子どもに対する父親の権利について、ルソーは『政治経済論』で詳しく語っ ている。『政治経済論』は、1755 年 11 月刊行の『百科全書』第 5 巻に「エコ ノミー」« Économie ou Œconomie » の項目として発表され、1758 年に単行本 として刊行された。つまり『政治経済論』は『人間不平等起源論』46と同じ時期 に執筆され、それは『社会契約論』の構想が練られていた時期とも重なってい る。当初『政治制度論』として執筆が開始された論文は、後に『政治経済論』

と『社会契約論』の二つの著作として世に出された47。両者は同じ母体から生ま れた著作ということになる。

 『政治経済論』は「エコノミー」の語源の解説から始まる48。「エコノミー」と いう言葉は「家」を意味する「オイコス」« οἶκoς » と「法」を意味する「ノ

に対峙するための論説であることを考えると、家族について語る上で「父親の存在」な いし「父権」が引き合いに出されるのは当然のことである。『エミール』では、母親の 存在や役割についても述べられている。

45 父権が無限でないことは、王権神授説に対する否定を意味している。

46 『人間不平等起源論』において、家族は自然状態から脱した人間の最初の社会と認識 されている。

47 阪上孝、「『政治経済論』解説」、『ルソー全集』、第 5 巻、白水社、1979 年、486 頁。

48   III, p. 241.

(13)

モス」« νόμος » に由来し、「もともとは家族全体の共同利益のための、賢明で 法にかなった一家の統治を意味するもの49」であった。つまり「家政」である。

それが後に「国家という大家族の統治にまで拡大された50」のである。ルソーは 前者を「家庭経済」または「私経済」、後者を「一般経済」または「政治経済」

と呼んで区別し、『政治経済論』では後者、すなわち「国家統治」のみを扱う と宣言している。したがって、本稿が考察する「家族の統治(家政)」は『政 治経済論』の主題ではない。しかし、ルソーの家族観を検討することは可能で あろう。なぜなら、家族国家論51を否定するルソーは、国家と家族の類似を認 めた上で両者の相違を対比的に論じているからである。

    国家と家族の間に、何人かの著述家が主張しているのと同じくらい多くの 関係があるとしても、そのことによって、これら二つの社会の一方に適す る行動の諸規則が、他方にも当てはまるということにはならない。なぜな ら、この二つの社会はその大きさが非常に異なっているので、同じやり方 で管理することはできないし、父親が全てを自分自身の目で見ることので きる一家の統治と、首長が他人の目によらなければほとんど何も見ること のできない国家の統治との間には、常に非常な相違が存在するからであ 52

 このように国家と家族を対比しながら、ルソーは両者の違いを明らかにして いる。特に両者の規模の違いに着目し、一人で全体を把握することのできる家

49  .

50 

51 ロバート・フィルマーは『家父長権論』(1680 年)において、家父長の支配権は神によっ て授与されたものであり、その家父長権が国王の権力の源泉であると論じている(衛藤 幹子、「家父長制とジェンダー分業システムの起源と展開」、『法学志林』、第 103 巻第 2 号、

法政大学法学部、2005 年、8 頁)。

52   III, p. 241.

(14)

族と、一人では到底管理することのできない国家を同一視することの矛盾を指 摘している。両者に同じ規則を当てはめることは不可能なのである。ルソーは 国家と家族の相違を確認した上で、父親の権利、つまり父権について述べる。

    父親は子どもたちよりも肉体的に強力だから、父親の助けが彼らに必要な 間は、父権は正当にも自然によって打ち立てられたものとみなされる53

 幼い子どもは肉体的に弱く、父親に守られなければ生きていけない。このよ うな状態にあっては、子どもに対する父親の権利は自然に由来するものとして 理解される。そして、それは権利であると同時に「父親の義務54」でもある。し かし、この権利と義務の関係で結ばれた父権は、絶対的なものではない。 「父 親の助け」は、子どもがそれを必要としている間に限定される。父権は永続す るものではなく、子どもが成長して父親の助けが不要となれば失われる。これ は前節で掲げた『社会契約論』における父と子の「自然の絆」と一致している。

 また、ルソーは国家の要諦の一つは国民の財産の保護であると考えており、

家族の財産についても以下のように言及している。

    子どもたちは父親から受け取るもの以外にはほとんど何も持たないため、

所有権の全ては父親に属するか、父親に由来することは明らかである。

[…]全ての家政の仕事の主な目的は、将来、子どもたちを貧乏にしない で父親の財産を分配することができるように、それを維持し、増やすこと である55

53  .

54  ., p. 242.

55  .

(15)

 父権が存続している間、子どもたちの所有権は父親が保持し、父親に課せら れた使命は、将来子どもたちに分配するのに十分な財産の形成維持である。国 家が同じ体制で永続し得る56のに対して、家族は世代交代にともない遺産相続 が行われ、複数の新しい家族が誕生する。つまり、家族は時の流れのなかで形 を変えていくものであり、同じ形態で存続することはあり得ない。このように 家族は、国家とは大いに異なるのである。

 それでは、常に形を変えていく家族における父親の役割とは、一体どのよう なものなのだろうか。

    事物の本性から引き出される次のようないくつかの理由によって、家族の なかでは父親が命令しなければならない。まず第一に、権威は父親と母親 の間で平等であってはならない。支配は単一でなければならないし、意見 が分かれた時には、判断を下す一つの優越した声が存在しなければならな 57

 家族のなかで父親は唯一の命令者であり、判断者でなければならない。そし て、権威において父親と母親は平等であってはならない。ルソーによれば、両 者が対等になれないのには理由がある。まずは男女の身体的な違いである。「婦 人には活動できない時期が必ずあり、婦人に特有の不都合58」がある。つまり、

妊娠や出産など女性特有の事情があり、その意味で男女は平等ではない。ル ソーはさらに、貞淑の問題も挙げている。父親には父権によって子どもを守り 育てる権利と義務があるため、父親にとって「子どもたちが、自分とは別の人 の子どもでないことを確認するのは重要なこと59」である。そのため、「夫は妻

56 

57  .

58  .

59  .

(16)

の行動を監督しなければならない60」。この意味においても、妻は「夫に対して 同等の権利を持たない61」のである。ここに性差による役割と立場、そして権力 の違いを確認することができる62

 このような家族のなかで最も権威のある、命令者としての父親と子どもはど のような関係にあるのだろうか。

    子どもたちは、まず最初は必要に迫られて、次は感謝の意味で父親に従わ なければならない。つまり、子どもたちは一生の半分の間、父親から必要 物を受け取った後には、もう半分を父親の必要を満たすために捧げなけれ ばならないのである63

 子どもは、生きていくために父親の力が必要な間は「必要に迫られて」父権 に従うが、成長して父権から解放された後は、育ててもらったことに対する感 謝の意味で父親に従うべきなのである。前節で述べたように、『社会契約論』

によると「子どもは父親に服従する義務を免れ、父親も子どもの世話をする義 務を免れて、両者は等しく独立の状態」に戻った後も家族という結合を続ける のであれば、それは「意志」によるものである。一方『政治経済論』によると、

その「意志」による結合は、「感謝」による服従なのである。父権のもとにお ける理想的な親子関係が想定されているのだろう64。『新エロイーズ』に描かれ る理想の世界でも、ジュリは育ててもらったことに対する「感謝」の気持ちか ら、父親に従うことを決心している。

60  .

61  .

62 ここには、ルソーがパリの社交界で目の当たりにした、貞淑とは真逆の状況が反映さ れているのだろう。

63   III, pp. 242-243.

64 『政治経済論』は国家統治を論じるものであるため、ことさら家族の対立を想定する 必要はなかったと考えられる。

(17)

 それでは、父権を行使する父親、すなわち家族の唯一の命令者である家長の 理想的な姿とはどのようなものだろうか。『政治経済論』では、次のように述 べられている。

    自然の声は、善良な父親がその義務を十分に果たすために聴くべき最良の 忠告である[…]。家長に必要な唯一の配慮は、自己を堕落から守ること であり、自然的傾向が自己のうちで腐敗することを防ぐことである。[…]

事を上手く成し遂げるためには、家長は自分の心に尋ねさえすればよい。

それに対して首長は、自分の心に耳を傾ける時には裏切り者になる65

 「自然の声」に従って自らの義務を果たす父親は「善良な父親」である。そ して、家長として唯一配慮すべきことは「自己を堕落から守ること」であり、「自 分の心」に耳を傾けることもまた重要なのである。自らが堕落することなく、

「自然の声」を聴き、理性に従い、家長としての義務を果たすなら、その家族 は幸福であり、子どもたちは理想的な生活を送ることができるであろう。これ は『新エロイーズ』における「善良な家長」ヴォルマールが果たした役割と重 なる。また、成長した子どもたちはジュリのように父親に感謝して仕え、時期 が来れば相応の遺産を相続することになる。ここに『政治経済論』と『新エロ イーズ』における「家族像」および「理想の父親像」の一致を確認できる。

 このように『政治経済論』では、家族や父親に関するルソーの考察を随所に 見出すことができる。一方、子どもに対する権利は父親にあり、父親の権威は 常に母親のそれより高くなくてはならないと断言するこの論説において、母親 の権威や役割については何か言及されているのだろうか。

 それは、公教育について議論が展開されている箇所にある。ルソーは、子ど

65   III, p. 243.

(18)

もの教育は父親の権利であり義務であることを前提としながら、知識や認識に 偏りが生じてしまう個人よりも、国家が父親に代わって、つまり父親は国家に 父権を委託して、子どもを教育すべきだと論じている66

    もし、子どもたちが平等に包まれて共同で育てられるならば、彼らが国家 の法律と一般意志の格率で満たされるならば、何者にもましてそれらを尊 敬するように教育されるならば、彼らを育む優しい母親や、彼らに対する 母親の愛情や、彼らが母親から受け取る計り知れない恩恵や、彼らが母親 に尽くすべき報恩について絶えず語りかける実例や対象に取り囲まれてい るならば、彼らはこうして互いに兄弟のように愛し合い、社会が望むこと のみを望み、ソフィストたちの不毛で無益な無駄口の代わりに、人間と市 民としての行動を取り、いつかは彼らが非常に長い間その子どもであった 祖国の守護者になり、父親になることは疑いを入れないであろう67

 ここでの「母親」は祖国の比喩と理解できるが68、子どもに注がれる優しさ、

愛情、その結果子どもに与えられる計り知れない恩恵、これらがルソーの考え る母親の役割であるといえよう。

 政治的著作において母親が問題とされることは少ないが、『新エロイーズ』

ではこの母親の存在が、家族のなかで大きな役割を担うことになるのである。

66  ., p. 260.

67  ., p. 261.

68 ルソーは「祖国が市民の共通の母親として現れるようにせよ。市民が国内で享受する 権利によって、彼らが自国を愛するようにせよ。政府は、市民が我が家にいると感じる のに十分なほど、彼らを公共の行政に参加させよ。そして法律が市民の目から見て共同 の自由の保障に他ならないようにせよ。」( ., p. 258)と述べている。

(19)

3.家族の崩壊

3−1.『新エロイーズ』:ジュリの死

 『新エロイーズ』は、主人公ジュリの死という悲劇をもって幕が閉じられる。

ある日、ジュリは夫と子どもたち、そして従姉妹のクレールや下女たちと堤防 沿いを散歩していたが、突然走り出した次男のマルスランがつまづいて足を滑 らせ、湖に落ちてしまった。息子を助けようとジュリもとっさに飛び込む。二 人は引き上げられ、息子は無事だったが、ジュリは熱を出して寝込み、数日後 息を引き取ってしまう。

 生前ジュリは、かつての恋人サン=プルーと文通を続けていたが、欲望を超 えて理性で結びついていた二人を、夫ヴォルマールも信頼していた。ジュリ は、サン=プルーにクレールとの結婚を勧めるとともに、子どもの家庭教師を 頼んでいた69。もちろん夫の同意も得ていた。ところが、突然の事故によって状 況は一変する。病床のジュリに宛てられた書簡や、ジュリの遺書ともいえる最 期の手紙、そして、結婚を断るクレールの返信により物語は慌ただしく終焉を 迎える。つまり『新エロイーズ』にはジュリがいなくなった世界は描かれてい ないのである。しかし死を悟ったジュリは、サン=プルーに宛てた最期の手紙 で「家族の行く末」を案じている70

    あなたにはもう一人のジュリが残されていることをお考えになり、その方 に負うていらっしゃるものをお忘れにならないでください。あなた方はそ れぞれご自分の命の半分を失われることになりますが、もう半分のお命を 大事になさるために結び合ってください。私の亡き後、私の家庭や子ども の面倒を見てくださってお二人が生きていかれる、これが唯一の方法で す。私にとって大切な方々をみんな一つに結ぶ、これ以上に緊密な絆が、

69   II p. 692.

70  ., pp. 740-743.

(20)

私に考えられましょうか![…]クレールとジュリはすっかり混ざり合っ ているでしょうから、あなたのお心はどちらがどちらと区別できないで しょう71

 ジュリはまずサン=プルーに、「もう一人のジュリ」つまり従姉妹のクレー 72と結婚して「家庭や子ども」の面倒を見ながら、残された家族の側で暮ら して欲しいと頼んでいる。ジュリにとって「家庭」とは、夫や父親だけではな い。「私にとって大切な方々をみんな一つに結ぶ、これ以上に緊密な絆が、私 に考えられましょうか!」とジュリが述べる時、そこに下女や召使、領民など、

生前に親密な関係を持った人々も含まれていると理解すべきだろう。つまり、

ジュリは自分の死後、自らが築き上げた世界から求心力が失われていくことを 予感していたことになる。その上で、サン=プルーとクレールに、自分に代わ る新たな「絆」の役割を求めたのである。

 そしてジュリは、寡夫となるヴォルマールを案じ、「行く末」をサン=プルー に託すのであった。

    幸福を授かって当然なのに、それを渇望するすべを知らない方[ヴォル マール]がいらっしゃいます。その方はあなた[サン=プルー]を救って くださった人、あなたの友人の夫、あなたに友人を返してくださった人な のです。ただ一人で、生きることに関心がなく、来世への期待もなく、喜 びもなく、慰めもなく、希望もなく、その方はやがて最も不幸な人になる でしょう。あなたはその方の世話を受けたお返しをしなければなりませ ん。どうすれば有効かはあなたがご存じです。前の私の手紙を思い出して

71  ., pp. 741-742.

72 ルソーが『新エロイーズ』の着想を得た時、自身の理想の人物、つまり「燃える愛」

を体現するジュリと「真の友情」を体現するクレールが設定されたことを考慮すると、

本来二人は一体であったと理解できる。

(21)

ください。日々をともになさってください。私を愛してくださった方が、

どなたも彼から離れませんように73

 ジュリはサン=プルーに夫の側で暮らして欲しいと願う。そして「私を愛し てくださった方が、どなたも彼から離れませんように」と祈る。「善良な家長」

であった夫のもとから人々が離れていき、やがて孤独で「最も不幸な人」にな ることを予期しているのである。サン=プルーに宛てた最期の手紙において、

ジュリは自分たちが幸せに暮らしていた世界が崩壊していくことを予測し、危 惧していたといえよう。

 家族が崩壊すると、その影響を最も受けるのは子どもである。ジュリの子ど もたちは、「善良な家長」に守られていただけに、家族の崩壊は大きな意味を 持つ。彼らはどのような境遇に置かれることになるのだろうか。特に深刻なの は、次男のマルスランである74。彼こそが母親の死の原因を作ったからである。

転落事故の一部始終を目撃し、ジュリを看取ったクレールは、マルスランに対 して冷ややかな態度を示している。

    [ヴォルマールが]子どもたちを連れて来るように命じ、彼女[クレール]

の周りに来させました。悪いことに、最初に目に入ったのが、罪なくして 友の死を引き起こした、その子でした。その子を見ると彼女は身震いしま した。顔つきが変わり、ぞっとしたように視線をそらせ、引きつっていた 両腕をぴんと張ってその子を押しのけようとするのです。[…]彼女は子 どもを腕に抱き、愛撫しようと努めましたが駄目でした。すぐに子どもを 返しました。いまだに彼女はその子を見ても、もう一人の子どもほどには

73   II p. 742.

74 ジュリの死はヴォルマールとの結婚から 6 年後の出来事であり、二人の子どもはとも に幼年期にある。

(22)

喜ばないのです75

 マルスランに対するクレールの拒絶反応は、親友の死に錯乱していたためか もしれない。しかし、母親の死ひいては家族の崩壊の責任を感じたり、他者か ら指弾される時が、いつか彼に訪れるのではないだろうか。死を予期していた ジュリは、子どもたちの将来を案じて次のような遺言をサン=プルーに残して いた。

    時には母のことも語ってやってください…。あの子たちが母にとってどれ ほど大事だったか、あなたはご存じです…。マルスランには、あの子のた めに死ぬことは、私には辛くなかったと言ってください。兄の方には、あ の子のために、私は生きることを愛したと言ってください76

 「あの子のために死ぬことは、私には辛くなかったと言ってください」とい うジュリの言葉は、辛い時を過ごすであろう次男への慰めであった。また、長 77には「あの子のために、私は生きることを愛したと言ってください」とい う次男と対句の言葉を遺しているが、命を懸けて救った弟の方が自分よりも愛 されていたのではないか、と母親の愛情を疑ったり、そのために弟を憎んだり することがないように配慮した言葉といえよう。

 ジュリの遺言には、近い将来家族が崩壊に向かい、子どもたちが直面するで あろう辛い状況や不仲が示唆されている。このような破局の阻止を、ジュリは サン=プルーとクレールに託し、『新エロイーズ』は幕を閉じるのであった78

75   II p. 734.

76  ., p. 743.

77 兄の名前は明かされていない。

78 しかし希望はほとんど持てない。なぜなら『新エロイーズ』に収録される最後の手紙で、

クレールはサン=プルーとの結婚を明確に否定し、自分ももうすぐジュリの許へ行くと

(23)

3−2.『告白』:母親の死と父親の逃亡

 母親の命を奪った次男、そして家族の崩壊。後世の『新エロイーズ』の読者 は、『告白』に描かれるルソーの生い立ちを連想するに違いない。ルソーは自 らの誕生と引き換えに母親を失った。原因は出産後の産褥熱であった。

    私は病弱な子として生まれた。それが母の命を奪った。こうして私の誕生 は私の最初の不幸であった79

 ルソーの誕生はまた、父親から最愛の妻を奪ったことを意味していた。二人 は、微妙な緊張関係に置かれることになる。

   私は、父がどうやって母の死に耐えたのかは知らない。しかし、決して慰 められなかったのを知っている。彼は私のなかに母を見る思いがしてい た。しかも、私が彼から妻を奪ったのだということは忘れられなかった。

父が私を抱きしめる時、その嘆息と、その震える抱擁とから、ある苦い悔 恨がその愛撫に混じっているのを感じないことはなかった。そのため愛撫 はますます優しいものだった。「ジャン=ジャック、お母さんの話をしよ う」と父が言うと、「ええ、お父さん、また泣きましょう」と私は言うの であった。そしてこの言葉だけで、父はもう涙ぐむのであった。「ああ」

と彼は嘆きの声を上げて言う。「お母さんを返しておくれ。私を慰めてお くれ。お母さんが私の心に作った穴を埋めておくれ。お前が私の子だとい うだけなら、こんなにかわいがるだろうか。80

述べ、読者に破局を暗示するからである。

79   I p. 7.

80 

(24)

 幼年期のルソーは、父親から母親の死の責任を何度も突きつけられる。しか しその不幸な誕生ゆえに父親から十分に愛されてもいたのである。

 また、ルソーには兄がいたが、『告白』における記述は極めて少ない。父親 と不仲で、素行も悪く、時計職人のもとに弟子入りした後、行方知れずとなっ たことが記されているに過ぎず、兄弟間の確執については何も語られていな い。しかし、「お前が私の子だというだけなら、こんなにかわいがるだろうか」

という父親の嘆息は、ルソーが妻を奪った子どもであるがゆえに、「私の子だ というだけ」の兄よりも父親の愛情を強く受けていることを示している。父親 の愛情の偏り、そして兄もまたルソーによって最愛の母親を奪われているこ と、これらは兄弟関係にひびを入れるに十分であった81

 このように、マルスランの行く末は、幼年期のルソーと同じ運命をたどるこ とが予期される一方、『新エロイーズ』と『告白』には違いも見られる。母親 の死は、前者においては家族の崩壊の引き金となるが、後者では必ずしもそう ではない。父親にとっては家族の崩壊の始まりであったが、ルソーは自らの誕 生を「最初の不幸」と嘆きながらも、父親をはじめ、叔母や乳母に囲まれて善 良な幼年期を過ごしたと回想している。しかしこの理想の家族も、ルソーが 10 歳の時に崩壊してしまう。父親の逃亡により、一家が離散してしまったの である。ルソーは母方の叔父に預けられた後82、従兄弟と寄宿舎に入れられ、最 後は彫刻師の親方のもとに徒弟奉行に出された。

    親方の圧制のために[…]悪徳を身につけるようになった。子としての依 存と、奴隷としての隷属との違いを、この時期の私の心のなかに起こった 変化ほど、よく教えてくれたものはない。[…]父の家では大胆であり、

81 前掲拙稿「ルソーと『告白』の草稿」参照。

82 ジュネーヴからニヨンに逃亡した父親は、その後妹を呼び寄せるが、息子を引き取る ことはなかった。

(25)

ランベルシエ氏の家83では自由であり、叔父の家では控えめだったのが、

親方の家では人を恐れるようになった。そしてその時から私は、堕落した 子どもとなった84

 善良な幼年期は終わりを告げ、ルソーは社会に触れて堕落してしまった。こ こに『告白』における「根本原理」の貫徹を確認できる。

 『新エロイーズ』では描かれなかったジュリの死後、つまり家族の崩壊は、

彼女の遺言のなかで予見されていた。家族の崩壊によって起こる事態は、『新 エロイーズ』の作者の脳裏をよぎっていたはずである。ジュリの死の原因を 作った次男マルスランは、かつての自分そのものであった。そして過酷な運命 を背負ったマルスランは、家族の崩壊によって社会に触れ、「堕落した子ども」

となってしまうだろう。家族を守るべき父親ヴォルマールには、ジュリが遺言 で指摘するように、もはや「善良な家長」としての役割を期待できない。その 意味において、ヴォルマールとルソーの父親は、ともに妻を失って家長として の役割を放棄する似た者同士といえよう。

 このように、『新エロイーズ』に描かれる理想の家族には崩壊の予兆が見ら れるが、それは作者の人生が投影されたものだったのである。

おわりに

 『新エロイーズ』はルソーが自身の理想を描いたものであり、そこには「善 良な家長」に率いられる理想の家族が登場する。そこに描かれる父親と子ども の関係や家長の役割は、政治的著作、特に『政治経済論』や『社会契約論』で 示される「家族のあり方」と一致していた。つまり、ルソーは自身の家族観を もとに『新エロイーズ』の家族像を作り上げたといえる。

83 寄宿舎のこと。

84   I p. 31.

(26)

 『新エロイーズ』は家族の精神的支柱であった母親ジュリの死によって終焉 を迎える。その後の世界は描かれていないものの、そこには残された家族の行 く末が暗示されていた。特に母親の死の原因を作った次男に、ルソー自身の体 験(この体験は後に執筆された自伝のなかで告白される)が重ねられ、その後 の次男を待ち受けている運命の過酷さと、家族の離散が示唆されていた。

 理想の家族に、「崩壊」という暗い運命が組み込まれていたのはなぜだろうか。

この問題には、水林章の指摘が有益な視点を提供してくれる。ルソーは『人間 不平等起源論』において、自然状態から社会状態に至る人間の軌跡を論じ、自 然状態から社会化に向けて一歩踏み出した所に「家族の成立」を見出した。そ れは人間にとって最も幸福な時期であったが、同時に「常に崩壊の危機にさら された微妙な均衡の状態85」でもあった。つまり、理想の家族というものはあま りにもはかないのである。ルソーは『政治経済論』においても、永続する国家 に対して、家族は解体されていくものと定義している。またルソーは自身の経 験からも、家族というものがいとも簡単に崩壊してしまうことを実感していた はずである。

 理想の家族は、永遠に続くものではない。常に崩壊の危機にさらされてい る。ルソーはこれを『新エロイーズ』の終幕で示唆していたのである。

付記:本研究は JSPS 科研費 JP18K12347 の助成を受けたものである。

85 水林、前掲書、31 頁。また『人間不平等起源論』では、「この状態は最も革命が起こ りにくい、人間にとって最良の状態であり、共通の利益のためには決して起こってはな らなかった何か不幸な偶然によってのみ、人間はこの状態から離れなければならなかっ たということがわかるのである。[…]人類が永久にその状態に留まるように造られて おり、この状態は世界の真の青年期であること、それ以後の全ての進歩は、外見は個体 の完成へと向かいながらも、実は種の老衰へと向かって歩んだということを確認してい るように思われる。」(  III p. 171)と述べられている。人類が永久にその状態に留ま るはずの理想的な時期は終わり、以後人類は衰退していったとルソーは看破している。

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