0 . はじめに
ジャン=ジャック・ルソーの『エミール』(
1762
)は,テクストの中で 架空の子どもを育てていくことを目指す,文字通り実験的な0 0 0 0著作であり,「教育について」という副題に則って教育学的な関心から読まれることも あれば,同時代の感覚論哲学との関係で思想史的な観点から分析されるこ ともある.確かに,『エミール』はルソーの書き残したものの中でも特に 浩瀚な著作であり,それだけに「体系的」で,彼の思想の集大成と言って もさしつかえないだろう.しかし,この体系性は概念やキーワードをわか りやすく結んで図式的に捉えられるような,単純なものではない.これま で様々な研究によって指摘されてきたように,『エミール』の難解さは,
一面においてその語りの複雑性と錯綜性にある
1)
.また,このテクストに限った話ではないが,ルソーの思考を支えている のは必ずしも大文字の概念だけではない.本稿では,一見,挿話的な細部 に属しているように見える,『エミール』第一篇の産着批判に注目しつつ,
この議論がルソーの教育論,さらには人間学において,きわめて重要な意 味を担っていることを明らかにしたい.ただし,この産着のトポスが持っ ているのは哲学概念としての重要性ではなく,語彙同士の連関を通して浮 かび上がる形象の思想的強度である.なぜ,ルソーは当時の慣習として行 われていた産着の使用を執拗に批判する必要があったのか.問題は,科学 的・実証的に証明されるような産着の実際の効用ではなく,それが『エミ ール』というテクストの中で体現している象徴的な意味作用にある.以下 に見ていくように,ルソーの眼差しを通して産着は,社会の中で作用する 人間形成のメカニズムを根源的に規定するものとして立ち現れる.それゆ えにルソーの議論は,慣例的な新生児の養育方法を支える偏見だけでな く,それと共犯関係にある政治・社会の本質(その中で,人間は相互に依 存する部分的存在へと転化される)も批判的に分析している.同時代の子
「鎖」を解き放つ
̶̶ ジャン=ジャック・ルソー『エミール』における 産着批判と人間学 ̶̶
齋 藤 山 人
どもたちがいかに誤った原理に基づいて「形成
former
」されているか.その証左として引き合いに出されるのが,まさに人間の「形
forme
」その ものにほかならない.産着は人間の「形」を歪めるのである.1 . 「形」をめぐる問い
人間はいかに教育されるべきか?『エミール』を貫くこの定言命法的な 問いは反面において,人間が「形成(
former
)」される際の(十八世紀当 時における)様々な慣行に対する批判的省察を伴っている.同時代の子ど もの育て方がルソーの言うように「自然の秩序」に反するものであるとし て,それでは「自然的な教育」はどのように理解されるべきか.そして,ルソーの提示する教育方法が,過つことなく自然に則っていることはいか にして確かめられるのか.この問題については,様々な解釈が成立しうる だろう.本稿ではこれに対して,『エミール』の中に(さらに言えば,ル ソーの著作全体の中に)頻繁に姿を表す,あるテーマに沿って暫定的な一 つの回答を示しておきたい.そのテーマとはすなわち「形」であり,これ に即して解釈するなら,ルソーの言う「自然的な教育」とは,人間の「形」0 0 0 000 に(積極的な)加工を施さない0 00 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0教育であるということになる.「だから,
人間がその原初の形(
forme originale
)をたもつことを欲するのならば,人間がこの世にやって来た瞬間から,この形を保存するようにしなければ ならない.生まれるやいなや,彼を一人占めにし,大人になるまではもう 離れないようにしなければならない
2)
」.実際,同時代における人間の形成過程を声高に糾弾する『エミール』の 冒頭から,人間の「形」というテーマは重要な問いとして与えられている.
万物の製作者の手をはなれるとき,すべては善いのに,人間の手にわたる と,すべては悪くなる.人間は,ある土地に他の土地の産物を成育させたり,
ある木に他の木の実をならせたり無理なことをする.風土や地域や季節を混 合,混同する.犬を,馬を,奴隷をそこなう.すべてをくつがえし,すべてを ゆがめる(
défigure
).奇形(difformité
)を好み,怪物を好む.人間はなに ものも自然がつくったままであるのを欲せず,人間についてさえもそうだ.馬 を調教するように,人間をしつけねばならない.庭の木のように,好みどおり にねじ曲げねばならない3)
.農耕や畜産,つまり動植物の成育=形成が,それらの本来の形態を損な
い,歪めることによって成立しているように,教育もまた,人間の本来的 な「形」を歪曲することによって行われる.ルソーによれば,現行の教育 が競って生み出しているのは,怪物的・奇形的な人間にほかならない.
この意味で,『エミール』の議論は同時代の教育の慣行を疑問に付すと ころから始まる.そして特に,子ども(つまり来るべき人間)を形成する 際の方法として,社会でまかり通っている慣習の中でも第一に批判される のが,「産着」の使用である.実際,産着は最初に人間の輪郭を形作るゆ えに,見過ごせない重要性を担っている.
私たちの知恵のすべては奴隷的な偏見にすぎない.私たちの慣習のすべては 隷従,拘束,抑制にほかならない.社会人は隷属のうちに生まれ,生き,そし て死ぬ.生まれると産着にくるまれ,死ぬと棺に入れられる.人間の姿をたも っているかぎりは,人間の諸制度によって縛られる(
enchaîné
)のだ4)
.社会の習慣・制度は,その中で生きる人間に一定の形をまとうことを強 要する.産着から棺に至るまで,つまり誕生から死に至るまで,人間の存 在は常に社会によって外縁を刻まれる.こうして見るならば,「形成」,す なわち形を与えられるということは限界・制限を与えられることにほかな らない.
『エミール』の冒頭から,自然のありのままの姿と,人為によってもた らされる歪曲・奇形というお馴染みの二項対立で,「形」のテーマが姿を 現していることはすでに見た通りである.しかし,このテーマはいかにも ルソー的な「自然」の問題に収束するものではなく,もう少し広い射程を 持っている.動植物にせよ,子どもにせよ,ある対象を形成するという ことは,その物質的輪郭を人為的に歪めるだけでなく,その存在様式
(
manière d’être
)に限界を与えることでもある.つまり,子どもにある特定の生活形態を身につけさせることは,往々にして,子どもが体現しうる 多様な可能性をあらかじめ制限し,奪うことになりかねない.積極的な教 育=形成は,子どもがとりうる形象の外縁をあらかじめ設定してしまうこ とであり,その可塑性に限界を与えることになる.『エミール』の議論が,
同時代の教育方法に対する批判と表裏一体の「消極的教育
5)
」を推奨しつ つ,「形」の問題を喚起することから始めているのは,おそらく偶然では ない.「形成formation
」の問題を巡って形態にまつわる語彙が多用される のは,単なる表層的なレトリックではないのである.2 . 「鎖」としての産着
改めて産着の問題に話を戻すと,産着とは生まれたばかりの子どもに人 間社会が課す最初の束縛である.それが新生児の肉体(特に頭部)に及ぼ す拘束=形成作用は,精神・思考に対する「哲学」の影響と並行関係に置 かれている.
多くの産婆は,新生児の頭をなぜまわして,きちんとした形(
forme
)をあ たえてやるのだと称するとのことだが,人はこれを許している.私たちの頭 は,私たちの存在の製作者が作った様式(façon
)のままではまずい,外側は 産婆たちによって,内側は哲学者たちによって形作られ(façonner
)なけれ ばならない,とでもいうのであろう.カリブ人たちのほうが私たちよりはるか に幸福である6)
.「形」のテーマは,人間が社会の中でいかに形成されるかという問題,
言い換えれば,人間による人間の再生産がいかに行われているのかという 問題において,重要なフィギュールを担っている.一面において,このテ ーマは「自然」からの隔たりを,つまり,社会が人間の肉体的・精神的形 象にもたらす「歪曲」を可視化する指標として機能する.しかし,問題は 文明社会の習慣が帯びる不自然性や倒錯性にとどまらない.本来,産着は むしろ子どもの不具や奇形を予防することを目的にしていたはずである.
しかし,その社会的な使用は子どもの「形」に対する配慮とは異質な配慮 にも密かに支えられている.ルソーがここで告発するのは,産着が人間の 形を「歪曲」する際に同時にもたらされる,悪しき循環ないし「エコノミ ー」である.
子どもの手足を動けないようにする抑制は,血液や体液の循環をそこない,
子どもが強くなり大きくなるのを妨げ,身体組織を悪化させるだけである.こ うした途方もない予防が行なわれない土地では,人間はみな大きく,強く,均 衡がとれている.子どもを産着でくるむ国は,背中の曲がった子,足を引きず る子,エックス脚,発育不全,くる病,あらゆる種類の奇形児でいっぱいであ る.自由な運動によって身体が奇形になることをこわがりあわてて,圧搾器に 入れることによって奇形にして(
déformer
)しまう.不具になるのを妨げよ うとして,好んで身体が動かないようにするのだ7)
.産着が同時代の慣行において頻繁に用いられているのはなぜか.ルソー によれば,それは,子どもが勝手に動き回ることによって身体の形が歪め られるという偏見が社会の中に根づいているためである.しかし,自由に 身動きできる状況が奇形をもたらすという偏見・意見(
opinion
)によっ てこそ逆に,人間の形象は歪められている.以上のように告発するルソー の議論はいかにも彼らしい皮肉なパラドクスをきかせている.産着が実際 に子どもの身体に奇形をもたらすかどうかという問題はさておき,ルソー の産着批判はしかしながら,単なる社会批判のレトリックに還元されるも のではない.ルソーはここで,子どもの身体の正常な0 0 0形成に対する大人た ちの配慮が,それとは全く異質な配慮,つまり,子どもを管理・支配(
gouverner
)する配慮と分かちがたく結びついていることを見抜いている.子どものあるべき「形」が損なわれないように産着で保護するのか,
それとも,自由に動き回る子どもを産着によって効率的に捕捉・拘留しよ うとするのか.ルソーの眼差しを通して,産着の使用という習慣が曖昧な 意味を帯びてくるのは,新生児の養育が「血液」ではなく「金銭」を媒介 とした関係性の中で行われているからである.
この不条理な習慣はなにから生まれたのか.自然にそむいた習慣からであ る.母親たちがその第一の義務を軽んじて,自分の子どもたちの養育を欲しな くなってからは,子どもを金でやとった女にゆだねねばならなくなった.他人 の子どもに対して自然の感情をもつべくもないのにその母になることになった 女は,ただただ骨惜しみしようと求めた.子どもを自由にしておけば,たえず 監視していなければならない.しかし,ちゃんと縛りつけておけば,泣き声な ど気にせずに部屋の隅にほうっておける.乳母がなまけたという証拠さえなけ れば,乳児が腕や足を折ることがなければ,あとは子どもが死んでしまおう と,その後一生涯ずっと体がそこなわれようと,かまわないではないか.子ど もの体を犠牲にして手足を保存しておきさえすれば,あとでなにが起ころう と,乳母に罪はないということになる
8)
.自由に動き回る子どもは,いつ危険に近づくかわからないので目を離す ことができない.血の繋がった母親ならまだしも,果たして金銭で雇われ た乳母が,自身の監視されていない状況でこのような労力を惜しまずに払 うだろうか.子どもに,手足の欠損のような明らかな瑕疵が見当たらない 限り,乳母たちは監督責任を問われることがないのだから,彼女たちが産
着の利便性を見出すのは当然である.こうして,子どもたちの最初期の形 成は,身体全体の均衡がとれた健やかな組成よりも,(あたかも商品のよ うに)どんな部位にも欠損がないことを主眼として行われる.しかし,身 動きの自由を奪う産着は,必然的に子どもに肉体的な苦痛を与えずにはお かない.
子どもを厄介ばらいにして都会の楽しみに陽気に熱中しているやさしい母親 たちは,しかし,村で子どもが産着にくるまってどんな扱いをうけているか,
知っているのだろうか.ほんの少しでも忙しいと古着の包みのように釘にひっ かけられ,乳母がゆっくり仕事をすますあいだ中,不幸な子どもはこうして十 字架にかかったままである.この状態の子どもを見ると,みな顔が紫色になっ ている.胸がつよくしめつけられ,循環を妨げられた血が頭にのぼっているの である.そして,泣く力さえないのに,子どもはとてもおとなしくしていると 思いこんでいる.子どもがこの状態でいて生命を失わずに何時間いられるの か,私は知らないが,とても長くつづけられるか疑わしいと思う.これこそ,
私の考えでは,産着のもっとも便利な点なのである
9)
.血を分けた母親から切り離され,金銭で雇われた乳母が担っている(ゆ えに「自然の」観点から言えば倒錯的な)新生児の養育習慣を可能にして いるものが,産着である.布に包まれて手足の動きを封じられ,血流の循 環を阻害された新生児の「紫色」の顔はこの意味で,象徴的なレベルでも
「血」の機能不全を表象しているのではないだろうか
10)
.様々な意味で,産着は「血」の正常な巡りと働きを妨げる.
また,身体の自由に限界を与えられ,鬱血した状態で「十字架にかかっ て」いる子どもの形象は,産着のエピソードにさらに興味深い意味の位相 を開いている.磔刑のイメージは,新生児の境遇を犯罪者・囚人の境遇へ と近づけているが,この比喩は生まれたばかりの子どもの悲惨な状況を強 調するレトリックに尽きるものではない.「人間は生まれながらに自由で あるが,いたるところで鎖につながれている」という『社会契約論』冒頭 のくだりを想起させる仕方で,ここでは,社会の中に産み落とされた人間 をすべからく隷属状態に置く,匿名的な作用・メカニズムが問題にされて いる.実際,産着とは社会存在としての人間が最初につながれる「鎖」に ほかならない.
こういう残酷きわまる抑制が体質にも気質にも影響しないはずがあろうか.
子どもが最初に感じる感情は痛みと苦しみの感情である.彼らは,自分に必要 なあらゆる運動への障害しか見出せない.鎖につながれた罪人よりも不幸な彼 らは,徒労をかさね,いらだち,泣き叫ぶ.彼らが最初に出す声は泣き声だ,
とあなたがたは言う.そうだと私も思う.あなたがたは,子どもが生まれると すぐ彼らに逆らう.彼らがあなたがたからもらう最初の贈物は鎖であり,彼ら が体験する最初の取り扱いは責苦である.声しか自由にできるものがないのだ から,これを利用して不平を言わずにすませるはずがあろうか.彼らは,あな たがたが彼らに行なう悪に泣き叫んでいるのだ.あのように束縛されたら,あ なたがたなら彼らよりずっと大声で泣き叫ぶことだろう
11)
.身動きを妨げ,苦痛をもたらす産着をまとうことによって,新生児たち は絶えず「(泣き)声」を上げる習慣を身につけてしまう.つまり,ルソー がここで産着のうちに見出しているのは,文字通り「ハビトゥス
habitus
」 の問題なのである.「体と手が自由な子どもは,間違いなく,産着に縛り つけられた子どもよりは泣かない12)
」と断じるルソーは,産着のうちに 他者への依存を強める作用を見出している.実際,産着の生み出す不自由 と表裏一体の関係にある,子どもの「泣き声」こそ,支配と隷従という社 会関係に子どもを導き入れる最初の入り口である.というのも「泣き声」は,他者の存在がなければ自足・生存できない脆弱性の「告白」にほかな らないのだから.
人間の最初の状態は苦しみと弱さなのだから,その最初の声はうめき声と泣 き声である.子どもは欲求を感じてもみたすことができず,叫びをあげて他人 の助けを哀願する.腹がすきのどが渇くと泣き,寒すぎても暑すぎても泣き,
運動の欲求が起こっているのにじっと抑えつけられていると泣き,眠たいのに やかましくされると泣く.自分のありようが意のままにならなければならぬほ ど,ますますそれを変えてほしいと求めるようになる.( )一見,注意をは らうほどの価値はないと思われるようなこうした泣き声から,人間が自分の周 囲にあるすべてに対してもつ最初の関係が生まれる.ここで,社会秩序を形成 するあの長い鎖の最初の輪が鍛造されるのである
13)
.「産着
maillot
」が「鎖の輪maillon
」と似通っているのはおそらく偶然ではない.生まれたばかりの子どもたちに与えられる産着=鎖は,母胎を
代補する新たな胎内(あるいは社会というマトリクスの縮図)であり,臍 帯という血の通った絆の代わりに,他者との間に無機質な(ときとして貨 幣の匂いがする,金属質の)関係性を構築する.教育論的な著作として見 たとき,たしかに,ここで問題となっているのは泣き止まない子供をいか にあやすべきかという「一見,注意をはらうほどの価値はないように思わ れる」話題である.しかし,この中で産着は,『言語起源論』でも取り上 げられる人間の最初のコミュニケーション手段としての「声」(とくに「泣 き声」)と,社会の中で人間の相互依存・支配関係がいかにして再生産さ れるのかという政治的な問いとを交差させる重要なトピックになってい る.産着は人間の形に人為的な外縁=限界を与えて,これを歪めるばかり でなく,自分自身で動くことのできない0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0状況へと否応なく子どもを導くこ とによって,他者への依存を過剰に助長する.このようにして,社会的存 在としての人間が絶え間なく再生産されるメカニズムを,ルソーは「産着
maillot
」という語のコノテーションを最大限に響かせながら描き出しているのである.
3 . 身動きできる子どもの「形成」
ルソーが産着を用いた養育方法の危険を告発するのは,それがある決定 的な不都合を有しているためである.「鎖」によって特定の場所に繋ぎと められた子どもは,自由を持たない奴隷ないし囚人のような境遇に落とさ れるだけでなく,まさにその不自由0 0 0ゆえに,生存能力を損なうことになっ てしまう.本来,子どもの生命の保存と形態の保護を目的として使用され る産着が,皮肉な帰結を生じてしまうのはなぜか.この逆説的な事態を説 明する際に,ルソーはビュフォンの『博物誌』第四巻の記述を巧みに援用 しつつ,議論を展開する.
「子どもが母親の胎内から出るやいなや,そして手足を動かしたり伸ばした りする自由を楽しむようになるやいなや,人は子どもに新たな束縛をあたえ る.産着にくるみ,頭を固定し,足を伸ばさせ,手を体のわきに垂れさせて,
寝かせる.あらゆる種類の布や帯を巻きつけられて,位置(
situation
)を変 えることもできなくする.息もできないほどにしめつけられなければ,また横 むきに寝かせられて,口から出る液体がひとりでに流れ落ちるように予防して くれれば,幸いである.液体が容易に流れるようにするために頭を横に向ける14)
産着を母胎のシミュラークルとして描き出すビュフォンのテクストを 前口上として,ルソーは,子どもの体の身体的・物理的な「位置
situation
」 が,産着によって常に固定されてしまうことに根源的な問題を見出そうと する.同時代のフランス語の「位置situation
」という表現には,社会にお ける「地位・身分」という意味が同時に含まれていたが,ルソーはまさに この語のニュアンスを十全に響かせつつ,産着による身体の固定という状 況に象徴的なイメージの次元を開く.実際,ルソーにとって,子どもに身 動きの自由を与えるかどうかという問題は,教育の対象となる人間が社会 の中でどのような「地位」を占めるべきかという問題,もっと正確に言え ば,そもそも社会における特定の「位置」に繋ぎとめられるべきかどうか という問題と密接に関わっている.このような問いを踏まえたとき,子ど もはいかに「形成」されるべきであるのか(言いかえれば,どのような「形」を与えられるべきであるのか).同じく『エミール』第一篇の別の箇 所で,ルソーは以下のように述べている.
社会秩序においては,すべての地位(
place
)が画定されていて,人は一人 一人その地位にふさわしく育てられるべきであるということになっている.も しある地位にふさわしく形成された個人が,この地位を去ったら,もうなんの 役にも立たなくなる.教育は,その人の運命が両親の職業と一致するかぎりに おいてのみ,有用なのである.それ以外のあらゆる場合には,教育は生徒にと って有害であり,それが彼にあたえた偏見だけを考えてもそうである.エジプ トでは,息子は父親の身分を継がねばならないから,教育は少なくとも確かな 目的をもつ.しかし,地位のみが永続して人間がたえず地位を変える私たちの あいだにあっては,息子を自分の地位にふさわしく育てることが息子の不利に 作用しないとは,だれひとりわからないのである15)
.教育を受けるにしても,それが社会内のある特定の「位置=地位」に特 化したものであるならば,逆に子どもの生存を阻害することになりかねな い.確かに,職業や身分が親から子へと世襲されていくような社会である ならば,従来的な教育(たとえば,貴族階級の子息が専ら貴族として生き ていくための教育を施されること)は有用だろう.しかしルソーは,自ら の生きる同時代のフランス(およびヨーロッパ)社会の状況をきわめて不 安定なものとして捉えていた.このような場合,環境の変化に合わせて自 らの身体を動かすことに慣れていない人間は果たして生き延びることがで
きるだろうか.産着を用いて新生児の体を空間的に固定し,監督・支配す る方法は,「革命」の,とは言わないまでも運命の変転を生き延びること のできない人間を「形成」してしまう恐れがある.それこそ,ルソーが慣 例的な子どもの育て方を批判して,新たな人間形成の方法を模索しなけれ ばならない重要な理由の一つである.
だから,私たちの見かたを一般化し,私たちの生徒において抽象的な人間
(
homme abstrait
),人間の生のあらゆる偶発事にさらされる人間を考察せねばならない.もし人間が一つの国の土への愛着をもって生まれ,もし同じ季節 が一年中つづき,もし各人が自分の運命につながれてこれをまったく変ええな いほどであるのならば,既成のやりかたはある点ではよいものであろう.自分 の身分(
état
)にふさわしく育てられた子どもが,この身分から離れないなら ば,他の身分の不都合さにさらされることはあるまい.しかし,人間にかかわ るものごとの移ろいやすさを思い,世代ごとにすべてをくつがえすこの世紀の 不安で落ち着きのない精神を思うならば,子どもが自分の部屋をけっして出る ことがなく,たえず家人にとり固まれているかのように育てるほど,非常識な 方法が考えられようか.この不幸な人間は,ただの一歩を大地にふみだすだ け,ただの一階段をおりるだけで,身の破滅である16)
.ここからもわかるように,『エミール』の議論において,子どもの身動 きの自由,つまり,空間的位置―恐らく意図的に「社会的身分」を同時 に表現する語彙(
situation, place, état
など)が用いられている―を自在 に修正し,移動する力能にはきわめて重要な意味が付与されている.とい うのも,それこそ,同時代の人間社会を生きる上で必要とされる生存能力 であり,ある一つの環境に拘束され,あらかじめ定められた形を付与され た人間は,「ただの一階段をおりるだけで,身の破滅」を迎えざるをえな いからだ.こうして考えてみると,『エミール』第二篇以降,子どもの走 る能力が重視され,執拗に鍛錬を施されること,さらに(『告白』の中で もルソー自身の「嗜好」として語られている)馬を使わずに徒歩で空間的 距離を踏破する旅が推奨されることも,単なる身体能力の育成にとどまら ない企図として,当時の社会の不安定な状況と呼応した政治的な意味作用 を帯びてくる.外在的な手段・道具に頼らなければ生存できない人間が絶 え間なく再生産される根源にあるのが産着であり,この象徴的な「鎖」を 破壊することでルソーが目指すのは「抽象的な人間 」の形成,つまり,社会秩序を構成する個々の特殊な身分・地位に従って予め形 を与えられることのない人間の形成である.実際,可塑的で変幻自在の輪 郭を持つ人間でなければ,運命の変転に満ちた不安定な社会を生き延び,
自己保存することは難しいのであるから.ただし,このような子どもは
(まさにルソーがエミールにそうするように),生まれ落ちたときから常に 注意深い監視のもとに置かれなければならない.逆に言えば,いかなる環 境の変化にも肉体的に耐えうるエミールの危機は,(彼が自ら内面化する)
教師の視線が消失する際に訪れるのである.
4 . 結びにかえて
一見,『エミール』の教育論の中で取るに足らない細部のように見える 産着批判の議論を分析しながら,本論はこのトピックが人間の「形」と「自 由」という二つの巨大なテーマを結びつけるものであることを示してき た.実際,「形」もしくは外縁の問題は,それが人間に限界を与え,さら に個々人を社会内の特殊な地位=位置に局限するものであるがゆえに「自 由」の問題と本質的に関わっている.産着は,その中で人間が社会秩序に 沿って加工される第二の母胎として定義されている点で根源的な重要性を 帯びているが,その他の衣服・衣装のモチーフも,人間の外縁を形成する という意味では同じ問いを含んでいると言えるだろう.ルソーにおける
「モード」の問題の重要性については別の機会にすでに指摘したが
17)
,こ れに対して,本稿では『エミール』第一篇の産着をめぐる議論から一つの 補足的な回答を与えることを試みた.ルソーが文人としてのデビュー作で ある『学問芸術論』以来,同時代の習俗を批判する際にしばしば用いてい るように,衣服のフィギュールは,人間の存在様式を象徴的に表象してい る.今回取り上げた産着は,新生児を他者への依存なしには生存できない 社会存在として新たに構想=胚胎する,インキュベーターにほかならな い.この産着から子どもを解放する身振りは(いかにエクリチュールのレ ベルに限定されるとは言え),教説という形に還元されない,彼の思想的 実践の複雑性を体現していると言えるのではないだろうか.そして,この ような身振りが(いかに暗示的であるにしても),『社会契約論』第一篇・第四章における「奴隷状態について」の議論と結びついて,フランス革命 期におけるルソー読解の形に影響を与えなかったかどうか
18)
.いずれにしても,思想史的なアプローチからは往々にしてこぼれ落ちて しまう,こう言ってよければ,ほとんど言葉遊びに属するような思考のざ
わめきを,この論稿ではあえて真剣に取り上げつつ,ルソーの人間学にお ける一つの重要な展開として分析することを試みた.上に見たように,ル ソーの産着批判の議論には実際,「形」にまつわる語彙が周到に配置され ており,この形態論的なテーマは政治社会が人間に新たな存在様式を与え るメカニズムを照射している.大文字の概念をほとんど援用することな く,産着についての挿話的議論からきわめて哲学的な思考を紡ぎ出すルソ ーの文章の綾を,果たして単なるレトリックないし文飾と見なすべきだろ うか.あるいは,作家の思想のシルエットを拘束・緊縛する外衣を,ほか ならぬ私たち自身が積み重ねていることに鑑みて,今一度,テクストに自 由に呼吸させることを考えるべきだろうか.たとえ,ルソーのテクストに は,自らを縛る「鎖」が分かちがたく編み込まれていて,外衣と本体を切 り離すことが容易には叶わないのだとしても.
* 本稿は
2017
年1
月21
日に立教大学文学部で開催された公開講演会「啓蒙 思想が論じる モード :ジャン=
ジャック・ルソーにおける滑稽の逆しま」を出発点とし,そこで触れることのできなかった詳細な分析を展開したもので ある.講演の内容は
2016
年11
月25
日にパリ第7
大学で博士学位を取得した 以下の論文に依拠している.Yamato SAITO, « A rebours du ridicule : la question de la mode chez Jean-Jacques Rousseau », thèse doctorale soutenue à l’Université Paris-Diderot (Paris7), le 25 novembre 2016.
** ルソーの著作の日本語訳は『ルソー全集』(白水社,全十六巻,
1978 – 1984
年)を参照しつつ,適宜修正を加えた.フランス語原文はŒuvres complètes de Jean-Jacques Rousseau, dir. B. Gagnebin et M. Raymond, Paris, Gallimard, Bibliothèque de la Pléiade, 1959-1995, 5 vol.
(以下OC
と略 す)を参照した.注
1)
『エミール』の「語り」の側面に焦点を当てた先行研究としては以下の文献 を参照.Jean-Louis Lecercle, Rousseau et l’art du roman, Genève, Slatkine Reprints, 1979 ; Laurence Mall, Emile ou les figures de la fiction, Oxford, Voltaire Foundation, 2002.
2)
『ルソー全集』第6
巻,34
頁.3)
前掲書,第6
巻,17
頁.4)
前掲書,第6
巻,25
頁.5)
『エミール』における「消極的教育」のテーマについては,クリストフ・マ ルタンの以下のような先行研究がある.Christophe Martin, « Éducations
négatives » : fictions d’expérimentation pédagogique au dix-huitième siècle, Paris, Classiques Garnier, 2010 ; « « Faire violence à la nature » ? Éducation négative et tentation expérimentale dans l’Émile » dans Éduquer selon la nature, éd. par Claude Habib, Paris, Desjonquères, 2012, pp. 203-215.
6)
『ルソー全集』第6
巻,25 - 26
頁.7)
前掲書,26
頁.8)
前掲書,27
頁.9)
前掲書,27 - 28
頁.10)
この「紫色」にもルソーのテクストの複層性が体現されていると言えるだろ うか.少し先の箇所で,鬱血した幼児の顔色は,不正に対する怒りのテーマと ともに回帰する.この不正もまた,(元を辿れば)金銭で雇われた乳母が子ど もの養育の労力を節約(économiser
)していることに由来している.「子ども がどうしても泣き止めないと,人はじれておどし,乱暴な乳母なら子どもをぶ つこともある.人生への門口での,なんと奇妙な教えであることか.そうした 厄介な泣き虫の一人が,そんなふうに乳母にぶたれるのを見たことがあるが,私にはけっして忘れられないだろう.子どもは即座に泣き止んだ.威圧された のだ,と私は思った.私は心につぶやいた.この子は卑屈な魂をもち,厳しく しないとなにひとつ言うとおりにしないのだ,と.私は間違っていたのであ る.不幸な子は,怒りにのどはつまり,息も止まりそう,顔が紫になるのを私 は見た.一瞬ののち,泣き声は金切り声になり,この年ごろの子どもの感じる 怨恨,激怒,絶望のあらゆるしるしが声の調子にこめられていた.興奮のあま り息が絶えるのではないか,と私は心配した.正と不正との感情が人間の心に 生得的に存在することに疑いをもっていたとしても,この例一つだけで疑いを 捨てたことであろう.熱い燃えさしが偶然この子の手の上に落ちても,あのほ んの軽くではあっても,彼を痛めつけようという明らかな意図で加えられた,
ひと叩きほどには,子どもには苦痛に感ぜられなかったろう,と私は確信す る.」(『ルソー全集』第
6
巻,61
頁.)11)
前掲書,27
頁.12)
前掲書,60
頁.13)
前掲書,60
頁.14)
前掲書,26
頁.15)
前掲書,23
頁.16)
前掲書,24 - 25
頁.17)
前述の立教大学における公開講演会の他に,以下の講演会でも同じ問題につ いて触れた.「滑稽を逆しまに:ジャン=
ジャック・ルソーにおけるモードの 問題」(中央大学人文科学研究所,2017
年2
月24
日).18)
言うまでもなく,そのことはルソーが革命を予期ないし期待していたことを意味しているわけではない.たとえば,革命期に王党派として亡命を余儀なく されたセナク・ド・メイランは,その小説『亡命貴族』において『エミール』
に先見性を見出しているが,それはルソーが育てる架空の子どもが社会の変転 を乗り越えて自在に生きる柔軟性と可塑性を身につけているからである.