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明代遼東武官の罪と罰 ―

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(1)

明代遼東武官の罪と罰 ―

明初から宣徳年間までを中心に

― T he Offic er’s C rime a nd P un ish me nt i n L iao -D on g

遼 東 ︶

Ar m y Are a d uri ng the M in g P erio d

荷    見    守    義

要    明朝において︑北辺防衛と海防を軸として︑辺境をいかに防衛するかということは︑王朝一代を通じての一大問題であった︒辺境に投入する人的・物的資源︑財政上の負担は膨大であり︑またその商業等に与える影響も大きなものがあった︒その上で︑辺境に駐屯して防衛に当たる官軍の適切な保持はさらに悩ましい問題であった︒本稿では遼東を事例として取り上げるが︑まず︑辺境の厳しい環境︑相次ぐ﹁外夷﹂の襲撃︑上官による兵士の酷使・搾取︑これらの劣悪な環境に耐えかねて逃亡する軍士は増える一方であった︒さらに外敵の襲撃に対する防衛を失敗すれば厳しい処罰が待っていた︒処罰は基本的に大明律の兵律の関連条文である︒ただ︑慣例的な措置も加わって来るから注意を要する︒それ以上に︑皇帝は大半の事例において執行猶予︑もしくは減刑を行うことが通常であり︑このことは法の運用そのものが重要であることを物語る︒本稿では明代初期の遼東の事例を取り上げて検討した︒

(2)

はじめに

明朝︵一三六八〜一六四四︶において辺境をいかに防衛するかということは︑王朝一代を通じての大問題であった︒

明朝の辺境は当然にしてその領域の四方に存在するわけであり︑防衛拠点には鎮守を置き︑鎮守を連ねることに

よって防衛ラインを形成した︒特にモンゴル及びジュシェンとの前線となる王朝の西北から東北にかけての塞防た

る九辺鎮及び︑前期︵元朝末期から明朝の永楽年間まで︶と後期︵主に嘉靖年間︶に猛威を振るった倭寇に対する海防は︑

明代辺境防衛︵以下では辺防︶の最たるものであった︒明朝の軍事制度の基盤は衛所制であり︑明朝官軍は衛所に

所属した︒明朝の近衛軍・首都防衛軍・辺境防衛軍及び種々の軍事作戦にはこの衛所から官軍が派遣された

︶1

︒本稿

の主題である辺防軍を構成した官軍は︑鎮守所在地に設置された衛所の官軍︑及び所在地以外の地域に設置される

衛所から派遣されて来る官軍であった︒ちなみに辺境に派遣される官軍は班軍番戍軍であり︑春と秋の半年で交代

するため︑春班と秋班があった︒また︑辺防体制は明朝建国当初から整備されていたものではなく︑その時々の﹁外

圧﹂に対抗する必要性に応じて講じられた対処法的対応の積み重ねの中で形成された︒元来︑明朝皇帝の権威に﹁四

夷﹂が服属するならば辺防は不要のものであったはずである︒しかし︑それがそうはいかなかったが故に︑明朝は キーワード総兵官︑監察御史︑大明律︑遼東︑明実録

(3)

逐時︑辺防体制の整備をせざるを得ず︑そしてその体制整備が対処療法の積み重ねとなってしまった︒

このように理解される明朝の辺防体制であるが︑その実態解明は未だ緒に就いたばかりである︒本稿において追

及したい問題は辺防軍における犯罪とその処罰の問題である︒右で述べて来たことから︑辺防においては膨大な数

の官軍とその親族が現地に長期間滞在することになり︑そこからは軍卒の大量逃亡を始めとして多くの問題が発生

することになり︑これら将兵が引き起こす様々な問題に王朝はどう対処したかが軍務を考えた場合︑不可欠の論点

なのである︒国軍と処罰の問題については︑すでに奥山憲夫により永楽・宣徳朝期における武臣処罰の研究があ

︶2

︒明朝建国者の朱元璋は度重なる疑獄事件の発動によって建国の功臣を粛清していった

︶3

︒これに対し︑永楽帝は

靖難の役をともに戦い抜いた功臣を手厚く遇するとともに︑自らの政策展開に活用していった

︶4

︒必然として永楽帝

の武臣に対する手厚さ︑たとえ失態を犯した武臣であっても寛容な措置に流れたのであった︒本稿では明代遼東に

焦点を絞り︑また︑紙幅の関係で明初から宣徳年間まで時期を限って︑武臣に限らず︑辺境守備の将兵が引き起こ

す問題とそれへの王朝の対処を見ていきたい︒

一︑档案史料と﹃明実録﹄

遼東辺防において軍官が引き起こす様々な問題とその対処については︑筆者は以前に安楽・自在州の問題から触

れたことがある

︶5

︒問題が生じれば為政の地位にある者は取り調べて事態を明らかにし︑措置を講じなければならな

い︒それが適切に講じられなければ︑今度は為政者が裁かれる事になりかねない︒或いは争いの当事者が訴え出て 明代遼東武官の罪と罰

(4)

来る場合も生じる︒この場合には裁判ということになる︒これらのケースを筆者は︑一︑衛所官家の襲替︑二︑逃

亡した衛所軍の根捕・補充︑三︑失守︑四︑捕虜︑五︑被虜からの帰還者︑六︑死傷事件︑七︑宗族・家族内問題︑

に大掴みに分けてみた︒この部類分けが適切であるかどうかは今後︑事例を積み重ねることで明らかにしていく方

針であるが︑档案史料はこれらの解明に大きな手掛かりとなる︒

档案史料とは中華王朝の文書史料のことで︑当時の官僚機構においてやりとりされた指示文書または報告文書の

ことである︒明朝においても明朝末期を中心に一群の档案が残存しており︑編纂史料ではなく明朝政治の実態を知

り得る貴重な史料となっている

︶6

︒辺防に関わる事件についても︑档案史料には零細ながらも記録が残されていて検

討を要するところである︒右に触れた安楽・自在の両州は遼東に設置された特殊な行政単位であり︑明朝に帰降し

たジュシェン武官が居住するためのものであった︒通常︑民間において争い事が起きて公的機関に訴え出る場合に

は県に訴えることになろう︒しかし︑遼東において府・県が設置された期間はごく短期間であり︑すぐに廃止され

てしまった︒そうなると︑遼東で訴え出る先となれば衛所であったろう︒そしてこの両州においては知州であった︒

その上級となれば遼東における衛を総括する遼東都司︑もしくは按察を担当する分守道もしくは分巡道︑巡按監察

御史であった︒﹃中国明朝档案総匯﹄第九七冊第七六档案﹁自在州知州武揚関於審理徐朝・周二等人因争鋪面相互

殴訟的呈文﹂はすでに拙稿で検討したものであるが︑自在知州武揚が審理した報告書であり︑遼陽城在住の将校の

族人である徐朝︵原告︶が争いの相手である同じく遼陽城在住の趙玉・朱国保・周二の三名︵被告︶を訴えた今で

言えば民事裁判であり︑万暦十九年十二月に徐朝が巡按山東監察御史に訴え出たものであった︒ただ︑この件︑前

段があって︑当初︑原告も被告も遼東都司︵遼東都指揮司︶に交々訴え出た︒しかし︑都司は原告も処分を受ける

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裁定を出したため︑原告は分守遼海東寧道に訴え出た︒このため︑新たに分守遼海東寧道は都司に審判を依頼した︒

さらに原告は分守道の結果を待つことなく巡按山東監察御史に訴えたのであった︒本档案は巡按山東監察御史が自

在知州にこの件の審理を依頼し︑その結果を自在知州が巡按山東監察御史に報告している︒遼東の拠点は遼陽︵遼

東都司・分守遼海東寧道︶と広寧︵巡撫遼東・巡按山東監察御史︶に分かれている︒事件の舞台は遼陽である︒些細なこ

とで巡按自らが出張るとは考えられないので︑遼陽城に所在する自在州の知州に依頼したのであろう︒そこで知州

は本来︑自在州の案件でもないのに審理を行ったと考えられる︒本档案はこのような内容であるが︑結局︑本件が

どのような結論を見たのかは知り得ない︒档案は当該の案件を深く知り得る利点がある一方︑事件の全容が把握し

にくい限定的な側面も併せ持つ︒

また︑このような档案の内容は﹃明実録﹄のような編纂史料には現れ難い

︶7

︒皇帝の下には日々︑膨大な数の報告

が上げられることから考えて︑些細な案件は記録に留められにくいのである︒ただ︑それでも﹃明実録﹄には辺防

に従事する軍官に関わる処罰の記録がある︒本稿においては﹃明実録﹄の記事が﹁事件﹂の全体におけるどの部分

に相当するのかに注意をしながら見ていく︒つまり︑例えば︑事件の発生↓現地指揮官への報告↓方面統括官への

報告↓朝廷への報告↓朝廷から現地への調査指示↓調査↓調査の方面統括官への報告↓朝廷への報告↓処罰の決定

というプロセスの中で﹃明実録﹄の記事がどの段階の記録に相当するのかを注意するということである︒

明代遼東武官の罪と罰

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二︑洪武年間の諸問題

明朝が遼東に足掛かりを確保したのは洪武四年のことであり︑同六年に定遼都衛設置︑同八年に遼東都司へと改

称しつつ︑遼東方面に設置した諸衛を管轄した︒ただ︑遼東を含む東北地方に大きな力を及ぼしていたのはナガ

チュ麾下のモンゴルの大軍勢であった︒従って︑遼東に橋頭保を築いて以降の明軍は苦戦を強いられるのであり︑

状況の好転は同二十年にナガチュとその配下が突如として明朝に帰服して以降のことであった︒しかし︑このよう

な段階から遼東辺防には問題が起き始めていた︒﹃明実録﹄洪武十七年冬十月壬申の条に︑

羽林右衛指揮陳義私売官馬︑為法司所論︒上以其有功宥而不罪︒因命兵部︑移文総兵官延安侯唐勝宗等及遼東

都司︑自今︑凡将士征討遼東者︑原給官馬︑悉收入官︑指揮而下試其驍勇者人給二匹・庸常者一匹︒軍還︑馬

仍入官︑私売・私易︑罪之︒

とあり︑朱元璋の親軍衛たる羽林右衛の指揮である陳義がこともあろうに勝手に官馬を売り払った罪が問われた件

について︑総兵官として遼東都司を統制していた延安侯唐勝宗と遼東都司に︑今後は遼東に討伐に赴いた将士に貸

し与えられた官馬は︑事後には必ず返却させ︑私売私易が発覚すれば処罰するとしている︒陳義の事件自体が遼東

を舞台としたものなのか断定出来る材料に乏しいが︑官馬の私売私易が遼東においても蔓延していた可能性はあろ

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う︒その後も官馬私売による処罰は﹃明実録﹄永楽九年春正月戊子の条に︑

中軍都督同知蔡福坐私売官馬︑謫戍辺自効︒

とあり︑後を絶たなかったであろうが︑同じく洪武二三年二月丙午の条に︑

定遼衛指揮李哲以私市官馬︑当杖摘戍辺︒兵部尚書沈潜以聞︒上曰︑哲本不才︑但念其父累歳守辺多著労績︑

令以馬還官︑免其罪︑領職如故︒

と遼東における官馬私市の問題は引き続いた︒このことは同じく洪武二三年二月己亥の条に︑

高麗権国事王瑤遣其臣金之鐸等︑送互市馬二千五百︑至遼東︒上命定遼衛指揮僉事張忠︑送広寧中護等衛牧

養︒上命五軍都督府及十二親軍︑於江北去官道二三里︑各置草場牧馬︒於是︑錦衣衛旗手・虎賁左右・興武・

鷹揚・金吾前後・羽林左右・龍驤・豹韜・天策・神策・驍騎并府軍中左右前後凡二十衛︑各置牧馬草場於湯泉

及滁州・全椒・賈澗諸処︑以牧放焉︒

とあり︑遼東が重要な牧馬の場であったことに起因する︒洪武年間における遼東方面の処罰事案としては︑﹃明実

明代遼東武官の罪と罰

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録﹄洪武二二年夏四月乙未の条に︑

監察御史王英劾奏︑遼東都指揮使潘彝︑道経山東擅令県︑官発民夫頭匹遞送︒請治其罪︒上以武臣初犯︑姑宥之︒

とあることが記録に残るこの方面での武臣処分の事例の最初であり︑事件が発覚したことにより監察御史が調査し

た結果報告である︒同じく洪武二七年冬十月己巳の条に︑

遼東有倭夷寇金州︑卒入新市︑焼屯営糧餉︑殺掠軍士︑而去︒詔以沿海衛所将校不加備禦︑命都督府︑符下︑

切責之︒

とあり︑倭寇襲撃に対する失守についての現地からの報告に朱元璋が指示を下したものであろう︒同じく洪武二八

年夏四月壬午の条に︑

降河州衛指揮使趙庸復為定遼右衛指揮使司指揮僉事︒初庸任定遼右衛世襲指揮僉事︑洪武二六年︑陞河州衛指

揮使︒坐私受番人馬︑法司逮論死︒上以其勳旧︑特宥之︑復降定遼原職︒

とあり︑趙庸は遼東出身であるが︑陝西の河州衛指揮使となって勝手にチベット人から馬を貰い受けたことから死

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刑と判断されたが︑朱元璋は降格への減刑措置を取っている︒

三︑永楽年間の諸問題

ここでは引き続いて永楽年間の事例を見ていく︒

①﹃明実録﹄永楽元年三月庚辰の条に︑

遼東都指揮同知沈永有罪伏誅︒先是︑虜寇侵遼東三万衛︑永不能追襲︑又匿不以聞︒及来朝︑復隠不奏︒上以

其欺蔽︑誅之︒令兵部︑榜諭天下都司・軍衛并縁辺衛所︑凡有草賊及虜寇声息︑不即以聞者︑鎮守官以下職︑

無大小罪︑与永同︒

とあり︑遼東都司の高官たる沈永が粛清された︒ここでの虜とはウリャンハ三衛を指すのであろうが︑襲撃への対

応が出来なかったことを隠匿しようとして発覚した︒都司↓五軍都督府↓皇帝の情報ルートを遮断すれば隠し通せ

るという判断が沈永にあったのだろうか︒

②﹃明実録﹄永楽二年三月甲子の条に︑

上御奉天門召六科給事中論曰︑⁝︵中略︶⁝刑部尚書鄭賜言︑遼東都司都指揮同知何琪不修辺備︑失悞軍機当斬︒

明代遼東武官の罪と罰

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上曰︑守将所以捍禦外患︑一有不謹誤事非軽︑琪不能尽心辺事︑致虜侵掠︑不正其罪︑何以戒後来︑罪之如律︒

とある︒﹃大明律﹄兵律・軍政の失誤軍事に︑

若臨敵欠乏︑及領兵官已承調遣︑不依期︑進兵策応︑若承差︑告報軍期︑而違限︑因而失誤軍機者︑並斬︒

とあり︑何琪は処刑されたのであろうか︑その後︑﹃明実録﹄には管見の限り消息は辿れない︒もし処刑されたと

すれば何琪には情状酌量の余地が与えられなかったことになる︒

③﹃明実録﹄永楽二年夏四月乙亥の条に︑

降遼東都指揮僉事呉立為百戸︒立以逗撓軍機︑論法当斬︑特免死︑降職往寧夏立功︒

とあり︑これも結論のみであるが︑呉立は何琪とは違って情状酌量で降格措置が取られている︒

④﹃明実録﹄永楽二年十一月壬戌の条に︑

法司奏︑遼東広寧衛指揮使芮廉備禦不厳︑致虜寇入境抄掠︒法当斬︑特旨免死︑謫戍辺立功︒

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とあり︑法は大明律のことで︑法司の判断が上がって来たことに対し︑皇帝は情状酌量の措置を取っている︒

⑤﹃明実録﹄永楽四年八月庚子の条に︑

以遼東鎮守保定侯孟善所為非法︒降勅切責之曰︑将之禦寇︑猶犬之防盜︑犬与盜狎︒将何用焉︒况復壊朝廷之

法乎︒姑貸爾罪︑如不改過︑悔将無及︒

とあるが︑結論のみでその原因は書かれてはいない︒孟善は靖難の役においては大功を立て︑建文三年八月丁卯に

保定の鎮守を命ぜられ︑終戦後の建文四年九月甲申には︑都督僉事から奉天靖難推誠宣力武臣・特進栄禄大夫・柱

国・右軍都督府都督同知・保定侯を授けられた永楽帝の功臣であり︑永楽元年春正月癸巳に鎮守遼東として遼東都

司所属軍衛を節制︵指揮下におくこと︶することになった

︶8

︒この情状酌量は典型的な武臣に対する猶予措置である︒

⑥﹃明実録﹄永楽十三年十二月丁丑の条に︑

遼東都指揮僉事徐剛有罪︑謫戍辺︒剛領兵捕倭︑寇至︑畏怯不進︑致其剽略軍民︒於法当斬︒特命宥死充軍︑

遇敵当先︒

とあり︑徐剛

︶9

の罪は律では斬刑に相当するが︑充軍とあるので一兵卒に身を落とすことになったはずであるが︑﹃明

実録﹄永楽十七年六月戊子の条に︑ 明代遼東武官の罪と罰

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遼東総兵官中軍左都督劉江以捕倭捷聞︒江嘗請于金州衛金線島西北望海堝上築城︒築城︵衍字カ︶堡︑立煙墩︑

瞭望倭寇︒一日瞭者言︑東海洋内王家山島︑夜挙火︑江以寇聚其間︑亟遣馬歩軍赴堝上下堡備之︒翌日︑倭舡

三十一艘泊馬雄島︑衆登岸︒徑奔望堝︒江親督諸将伏兵堡外山下︒伺賊既囲堡︑挙砲発伏︑都指揮銭真等領馬

隊要其帰路︑都指揮徐剛等領歩隊逆戦︒寇衆大敗︑奔入桜桃園空堡中︑軍囲殺之︒自辰至酉︑擒戮尽絶︑生獲

百十三人︑斬首千余級︒上聞之︑賜璽書褒諭︑徵江還京師︑且令速上将士功︒

とあり︑都指揮として確認出来る︒徐剛は靖難の役の直後に永楽帝から褒賞を受けており︑陰に陽に優遇されてい

たとも取れる︒

⑦﹃明実録﹄永楽十三年十二月己丑の条には︑

行在都察院左副都御史李慶等劾奏︑近倭賊入旅順口︑都督劉江領軍至金川衛︑相去甚近不策応︑及明日調兵至︑

而賊已遁︒都指揮周興・巫凱︑俱不用心隄備︑致倭寇屢為辺患︒宜寘之罪︒上曰︑江等職在守辺︑致寇如此罪︑

本難宥姑︑記其過︑使図後効︒

とあり︑劉江等の作戦行動は逐一︑随行者から報告されているのであろうか︑行在都察院左副都御史李慶の弾劾は

この報告を受けての調査の結果であろう︒さて︑問題となった周興と巫凱であるが︑周興については後掲の﹃明実

録﹄永楽二十年春正月壬午の条に広寧備禦都指揮の肩書で見え︑永楽十三年からはかなり時間が経過しているもの

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の地位の低下は伺えず︑実質的な処分はなかったものと思われる︒巫凱については不詳であるが︑同じであろう︒

⑧﹃明実録﹄永楽二十年春正月壬午の条に︑

礼部尚書兼都察院事呂震奏劾︑総兵官都督朱栄鎮守遼東︑不謹斥堠︑致虜乗間犯辺︑殺傷軍民︑刼奪孳畜︑栄

及遼東都司官并広寧備禦都指揮王真・周興等︑俱合付法司治之︒上命姑記以罪︑令立功以贖︒

とあり︑朱栄等の失守の罪であるが︑礼部尚書兼都察院事呂震から法司に付して処罰を決めるよう弾劾されたもの

の︑永楽帝は執行猶予の措置を行っている︒

⑨﹃明実録﹄永楽二二年八月乙丑の条に︑

遼東都司都指揮僉事王雄以激変虜人楊木答兀逃逸︑降登州衛指揮僉事︒

とあり︑これは結論だけであるが︑王雄の降格人事である︒王雄は﹃明実録﹄洪武二三年五月庚申の条に︑

置遼東広寧衛指揮使司︑以王雄為指揮僉事︒

とあるように︑登州衛指揮僉事から広寧衛指揮僉事に転任しているので︑降格人事は継続していることが確認され 明代遼東武官の罪と罰

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る︒宣徳元年春正月癸亥の条に︑

遼東三万衛軍士張顕言︑臣聞賞罰者︑聖人御天下之大権也︒賞当功則人勧︑罰当罪則人懼︒永楽二十年︑臣在

遼陽︑見韃賊直造城下︑都指揮王真将兵拒之︑留都指揮周興等守城︒期以砲響出城応援︒真既出︑分為奇正︑

深入其阻︑而虜先潜伏山下︑俟真至則四面攻之︒真遇伏︑屢挙砲︑而興等与城中将士皆若不聞︒真外無援兵︑

智窮力竭︑虜殺其所部指揮千百戸耿秩等二百余人︒又開原城中虜寇楊木荅兀等同寄住韃官謀叛︒都指揮王雄等

不率兵追捕︑縦其剽掠︒遼海衛千戸孫茂・巡検奴奴等忿怒躬率敢死軍士与虜拒︑遂奪東門︒茂復力戦中矢死︒

賊引遁︒使無茂等奮勇擊賊︑則開原城為其屠矣︒如此死者︑朝廷尚未加褒録︒夫遼地南有倭寇︑東有朝鮮︑西

北皆胡虜出没不常︒於斯之際︑能捨父母妻子而冒犯鋒鏑者︑不過慕尺寸之階・斗斛之禄︒失今不録︑人心離矣︒

脱使虜猝然再至︑孰肯捨生取義哉︒且当時将士遇賊不出如周興軰︑尚生享禄食︑撫妻育子於朝夕之間︑而挺身

自奮捐躯殞身如茂者︑䘏典未加︑泯然無念及之者︑死而有知︑豈瞑目於地下哉︒乞遣官取勘︑尽忠而死者幾人︒

懐姦不忠者幾人︑加以賞罰︑則公道昭著︑非惟遼東将士有所勧懲︑天下将士亦知所勧懲矣︒上覽其言︑諭行在

兵部臣曰︑旌忠賢︑戮有罪︑国之大典︒況死於戦陣者乎︒彼所言誠是︒其速勘実以聞︒

とある開原城の都指揮王雄が同一人物か決め手に欠けるが︑もし同一人物ならば登州衛指揮僉事から身分を回復し

ていたことになる︒

⑩﹃明実録﹄永楽二二年十二月丁未の条に︑

(15)

遼東総兵官武進伯朱栄奏︑京衛千戸劉彪等七人︑当備禦遼東︑或豆 ママ︵逗︶留不発︑或中路逃帰︒命逮至︒上諭

彪等曰︑国家平時養将仕︑正望宣力効労︑臣之事君︑当朝受命夕就道︒今受備禦辺境︑非有赴湯蹈火之難︑仍

怯避不行︒使将士皆如此︑国家不復使人耶︒命都察院・錦衣衛曰︑有罪不誅︑無以示懲︑即棫 ママ︵械︶送遼東︑

令栄集諸軍︑斬以狥︒其中有訴嘗存征被傷未愈及病未能行者︑上命刑部訊之︑且諭之曰︑有罪不可不誅︑無罪

不可濫誅︑必得其実耳︒

とあり︑総兵官朱栄からの上奏で京衛から遼東に派遣されて守備に当たることになっていた千戸劉彪等七人が遼東

に向かう途中︑逃げ帰ってしまったことが発覚し︑永楽帝は都察院・錦衣衛に厳命して遼東に護送し処刑とするこ

ととした︒﹃明実録﹄永楽二二年十一月丙子の条には︑

上諭兵部尚書李慶曰︑国家雖無事︑辺境不可一日不備︒縁辺諸衛須核部伍︑申飭号令︑庶幾守備堅固︑寇至無

虞︒比聞辺将多玩棄法度︑軍伍之間︑名存実亡︒須遣御吏 ママ︵史︶巡歴覈視︒

とあり︑辺境において辺将が法を蔑ろにしたため軍に緩みが生じていることを永楽帝は危惧しているが︑それが首

都の官軍にも伝播している様子が見て取れる︒

明代遼東武官の罪と罰

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四︑洪熙年間の諸問題

ここでは引き続いて洪熙年間の事例を見ていく︒

﹃明実録﹄洪熙元年夏四月庚子朔の条に︑

遼︵東︶総兵官武進伯朱栄奏︑広寧前屯衛剌梨山百戸鮑麟私遣軍士還家︑致為達賊所虜︒上命巡按御史詣彼︑

審実処麟軍法︒降勅諭栄曰︑夫将者士卒之表︑為将能廉公勤慎︑紀律正︑号令粛︑斯下人有所禀承︑無敢縦恣︒

総兵又諸諸 ママ︵将︶之表︑能慎諸已︒誰敢不慎︒朕即位以来︑夙夜惓惓︑以辺務為心︑屢勅総帥︑厳督将士用心

哨瞭隄備︑而将士略不尊承︑察其所自︑皆由総兵之人︑不体付託之重︑恬然自逸︑未嘗一出巡視関隘︑壮士徤卒︑

擁衛左右︑飢寒窮苦無資之人︑則令備瞭望︑守関口︑上下相師成風︑軍務都不留意︑是以寇奄至而不覚︑人被

擄而不知︒其指揮・千・百︑固難逃罪︑総兵之人亦復何顔︒卿先朝老臣朕所倚任︑但有功必賞︑有罪必罰︑祖

宗至公之典︑須相与共守︒自今宜加驚省︑厳号令︑明紀律︑遠斤堠︑慎守備︑躬勤率下︑毌蹈前失︑庶副朕委

任之重︒近陽武侯薛禄等率兵巡辺︑殺獲虜寇︑将士咸論功行賞︑薊州虜寇入境︑刼掠人民︒其総兵官遂安伯陳

英及都指揮陳景先等︑並停俸禄︑并諭卿︒知之︒

とあり︑同じく洪熙元年夏四月庚子朔の条に︑

(17)

勅責山海・永平等処総兵官遂安伯陳英及都指揮陳景先︑朕以爾等材智可用︑命鎮守辺陲︑防禦虜寇︑保障軍民︑

又屢勅爾厳督将士︑謹慎防備︑昼夜用心哨瞭︑不可怠忽︒今知爾等略不念朝廷付託之重︑恬然自逸︑未嘗一出

巡視関隘︒壮士徤卒︑留衛左右︑飢寒窮苦無資之人︑令守烟墎関口︑致薊州境内︑寇至而汝不覚︑辺人被殺擄

而汝不知︒今御史交奏爾罪︑請付法司︒朕姑曲貸︑但勅停爾之禄︒夫朝廷至公之典︑有功必賞︑有罪必罰︑決

無所私︒近陽武侯薛禄等︑殺獲韃賊有功︒将士咸加官賞︒遼東広寧前屯衛百戸鮑麟私後軍人︑致為賊所擄︒已

論軍法処死︒其総兵官朱栄亦遣勅切責︑所以未付爾於法者︑蓋期爾革前過︑勉後効︑爾宜警省︑厳号令︑明紀

律︑遠斥堠︑慎守備︑躬勤率下︑以副朝廷委託之重︒若復蹈前失︑国典具在︒朕不爾私︑遂賜勅︑徧戒辺将︒

とあり︑百戸鮑麟は軍法=大明律により処刑されることに決した︒同時に洪熙帝は指揮官に対する苛立ちも示して

いる︒

五︑宣徳年間の諸問題

ここでは引き続いて宣徳年間の事例を見ていく︒洪熙帝の急逝を受けた宣徳帝は永楽帝譲りの気性で国家の安定

を図っていく︒

①﹃明実録﹄洪熙元年冬十月戊辰の条に︑

明代遼東武官の罪と罰

(18)

遼東総兵官都督僉事巫凱言︑義州地臨極辺︑備禦都指揮李信以罪去職︒今︑開原守備有都指揮鄒溶・李敏及指

揮使巫正三人︑義州急缺将領︒上命李敏︑守義州︒

とある︒これだけでは李信が職を追われた罪の内容は分からない︒そこで﹃明実録﹄宣徳元年二月己丑の条を見る

と︑

遼東都司義州備禦都指揮同知李信︑挾私杖殺義州衛指揮馬迅︒事覚︑都察院逮問得実︑擬律当斬︒上曰︑草木

雖微︑尚当愛惜︒人命至重︑豈可枉害︒况指揮朝廷命官︑都指揮而以私忿殺之︒則虐士卒可知︒命斬之︒

とあり︑李信は私怨で義州衛指揮馬迅を殺害したことが発覚したため︑都察院の取り調べに基づき︑律の斬刑が妥

当するという結論に至ったことが分かる︒ところが︑同じく宣徳二年二月庚辰の条に︑

遼東総兵官都督僉事巫凱奏︑前以義州備禦都指揮李信坐罪去職︒奏調開原都指揮李敏守之︒今︑信蒙恩復任︒

而広寧前屯衛亦臨辺重地︒乞移信備禦︒従之︒

とあり︑斬刑に比定された李信は前職を解任されただけに留まり︑一年以内に広寧前屯衛の官に戻っていたことが

分かる︒

(19)

②以下の二条は﹇奥山・二〇一四﹈に分析があるが︑﹃明実録﹄宣徳三年十一月壬戌の条に︑

巡按山東監察史包徳懐奏︑遼東広寧後屯衛西長嶺韃賊入寇︑剽掠傷人︑備禦都指揮李敏及提督瞭望千百戸︑皆

約束不厳︑請罪之︒上諭行在都察院臣曰︑軍官備辺︑但守常法︑以保境安民︑如能謹厳︑豈有外患︒古之良将︑

雖安閒之際︑常若臨敵︑不敢少怠︑今失機皆由主将号令不厳︑軍政不修所致︑其令御史治之如律︒

とあり︑巡按山東監察史包徳懐から朝廷への報告により李敏らの失守が問われ︑宣徳帝から行在都察院への指示に

より御史が大明律により裁くこととなった︒﹃明実録﹄宣徳四年九月辛亥の条に︑

宥都指揮僉事李敏罪︒初︑敏備禦義州︑不設守備︑致虜入境殺掠人畜︒行在都察院論杖一百発戍辺︒上命姑宥

之︑令戴罪復職︑造船運糧︑赴海西︒

とあるように︑その結果︑行在都察院は杖一百の上︑辺境に発戍すべきと判断したものの︑宣徳帝は執行猶予とし︑

復職させて罪を償わさせた︒ただ︑その地位は不明である︒

③﹃明実録﹄宣徳三年十二月癸巳の条に︑

遼東総兵官都督僉事巫凱奏︑昨遣金吾右衛指揮使劉端︑迤北巡哨︒端︑畏難︑逃回広寧︑不行︒請罪之︒上謂

明代遼東武官の罪と罰

(20)

行在兵部尚書張本等曰︑軍官巡辺自是常職︑今食三品禄︑不思効労︑猶脱身退避︑何以令衆︑其令凱治之︑如律︒

とあり︑遼東総兵官の報告により宣徳帝は行在兵部尚書に指示して︑劉端を大明律に基づき処分することとなった︒

④﹃明実録﹄宣徳三年十二月辛丑の条に︑

遼東総兵官都督僉事巫凱奏︑逃卒黄仲興・高義︑畏避屯戍︒潜奔虜営与之交通︒今二人皆已就獲︑審問明白︑

請罪之︒上曰︑此卒向賊︑必将誘其寇辺︑法不可容︒勅凱就軍中斬之︑以徇︒又勅凱曰︑人情誰肯楽従異類︑

此必為将者不善撫恤︑又加暴刻︑有不能堪︒故徃従寇︒自今宜戒︑飭諸将寬惠馭下︑毋失其心︒

とあり︑遼東総兵官の報告に対し︑捕獲された逃卒の黄仲興・高義は軍中で切り捨てるよう宣徳帝は指示するとと

もに︑人心の掌握に努めるよう指示した︒

⑤﹃明実録﹄宣徳三年十二月甲辰の条については﹇奥山・二〇一四﹈に分析があるが︑

巡按山東監察御史包徳懐奏︑近広寧・曹莊・義州等処︑韃賊屢入境︑殺虜人畜︒都指揮李信・魯得等守備不厳︑

賊至又不率兵擊之︑請治其罪︒上諭行在兵部臣曰︑辺将失機当死︒姑令巡按御史責死罪状︑罰俸一年︑再失機

必殺不宥︒

(21)

とあり︑巡按山東監察御史包徳懐から朝廷への報告により李信・魯得らの失守が問われ︑宣徳帝は行在兵部に指示

して︑本来は死刑相当であるが︑一年の俸給停止処分として︑再犯を許さないこととした︒

⑥﹃明実録﹄宣徳四年三月甲寅の条に︑

行在都察院奏︑遼東総兵官都督巫凱︑遣衛鎮撫鄒敏︑促遼海衛未完軍器︒指揮費徵歛衆財︑買馬及貂鼠皮︑賂

敏︑敏受賂︑竟不責完︒徵・敏皆当罪之︒上曰︑守辺不可一日闕兵器︑有闕則宜急造︑其行賂求緩︑受賂廃事︑

皆不知辺備為重︑俱執而罪之︑不可貸︒

とあり︑遼東総兵官の報告に基づくと思われるが︑鄒敏と費徵の間で賄賂のやりとりを行って遼海衛の備えを疎か

にした問題は行在都察院での審理となり︑宣徳帝は関係者の処罰を求めることになった︒

⑦﹃明実録﹄宣徳四年秋七月甲戌の条に︑

遼東総兵官都督僉事巫凱奏︑縁辺地方分置官軍瞭望巡邏︑素有定規︒比者曹莊・沙河諸処︑数有虜寇竊発︑殺

掠人畜︒臣親率軍巡辺申厳警備︒其都指揮李信・指揮千百戸于昭等怠於防閑︑以致失機︒皆当問罪︒上命行在

都察院遣御史一人︑徃治之︒復勅凱及掌遼東都司事都督僉事王真曰︑李信等失於防禦︑為寇所乗︒已遣監察御

史究治︒爾等平日号令不厳︑以致部属懈怠︑亦安得無罪︒自今宜厳約束︑使辺備監固︑庶蓋前愆︒

明代遼東武官の罪と罰

(22)

とあり︑遼東総兵官による李信・于昭の失守の報告に︑宣徳帝は行在都察院に指示して監察御史を派遣して処罰を

決めることとしたが︑総兵官らの怠慢にも注意の目を向けている︒

⑧﹃明実録﹄宣徳四年八月辛丑の条に︑

遼東総兵官都督僉事巫凱奏︑近虜寇三犯辺︑雖調官軍追捕︑前後被其殺傷者二十余人︑被掠者八十余人︑馬・

牛一百六十︒其失機都指揮鄒溶及指揮千百戸等三十六人︑皆当罪之︒上命監察御史同錦衣衛官徃責溶等死罪状︑

罰俸有差︒其守備巡哨応接応︑而不接応者︑加杖︒悉復職守備︑再犯不宥︒

とあり︑遼東総兵官による鄒溶

︶11

らの失守の報告に︑宣徳帝は監察御史と錦衣衛官を派遣して取り調べ︑罪に応じて

死罪のところを軽減して俸給停止処分などに決めているが︑失職はさせなかった︒

⑨﹃明実録﹄宣徳四年冬十月辛丑の条については﹇奥山・二〇一四﹈に分析があるが︑

遼東総兵官都督僉事巫凱奏︑九月中虜寇数入境︑劫掠射傷官軍︑都指揮魯得等守備不厳︑請治其罪︒上勅責凱

罰魯得俸両月︑得以下罰有差︒

とあり︑遼東総兵官からの報告で魯得は重ねて失守の罪に問われ︑魯得は二カ月の俸給停止となり︑ほかの者たち

もそれぞれ処分を受けた︒

(23)

⑩﹃明実録﹄宣徳四年冬十月十一月乙卯の条に︑

行在兵部奏︑北京直隸諸衛及遼東・大寧二都司・山西行都司所属衛所軍士逃亡者多︑宜取勘降罰︒其有総兵・

鎮守官之処︑従総兵鎮守官比較︑若無︑則従都司・按察司官及巡按御史比較︑果有苦害軍士者︑依禁約榜例逮

治︒上曰︑行事須有次第︑遽降罰︑則過於急︑且定為三限︑半年一次︒回報三限之中︑皆須勾鮮完足︑不完則

如例︑降罰不貸︒

とあり︑逃亡兵士の連れ戻しと降格の措置を検討せざるを得ないほど︑兵士の逃亡が目に余り始めた︒

⑪﹃明実録﹄宣徳四年十二月癸巳の条については﹇奥山・二〇一四﹈に分析があるが︑

遼東総兵官都督僉事巫凱奏︑虜寇竊入鉄嶺︑広寧境内︑劫掠人畜︒都指揮魯得・金声等不厳守備︑百戸陳善等

失於瞭望︒皆当問罪︒上命皆罰俸両月︑失瞭者加笞五十︑若再蹈前失不宥︒

とあり︑魯得・金声

︶10

・陳善等は遼東総兵官の報告により︑俸給停止二カ月などの処分を受けた︒

⑫﹃明実録﹄宣徳五年二月癸酉の条に︑

江西按察司奏︑遼東金州衛指揮陶春取豊城等県軍丁五人︑皆受其賄︑放免不鮮︒請罪之︒上諭行在都察院臣曰︑

明代遼東武官の罪と罰

(24)

為将全賴軍士立功︑将之有志者︑常慮軍伍缺人︒今此輩受賕売軍︑是不復思立功︒蓋無志愚人︑其治之如律︒

とあり︑江西按察司の報告により︑兵士の補充に賄賂が動いていることが発覚し︑宣徳帝は行在都察院に大明律に

より処罰するよう指示している︒

⑬﹃明実録﹄宣徳五年秋七月乙巳の条については﹇奥山・二〇一四﹈に分析があるが︑

遼東総兵官都督僉事巫愷 ママ︵凱︶奏︑六月虜寇再犯境︒官軍追捕︑被寇殺傷十三人︑虜掠男婦十有五人︑馬牛八

十有余︒都指揮劉斌失機悞事︑請治其罪︒上曰︑備禦失機罪皆当死︑前寛宥止罰俸︒今遂玩弛︒勅愷等︑凡失

機官・旗︑皆杖之降充︑軍令常瞭備︑再犯必斬︒

とある︒遼東総兵官の劾奏により都指揮劉斌は失機の罪に問われ︑杖刑に処して降格処分となっている︒ただ︑同

じく宣徳七年冬十月己丑の条では寧遠等衛備禦都指揮として劉斌が登場する︒実際には厳しい処分とはならなかっ

たのではなかろうか︒

⑭﹃明実録﹄宣徳六年六月壬寅の条に︑

総兵官都督巫凱奏︑比者︑軍卒馮春等告都指揮鄒溶屢嘗遣人交通漢庶人高煦︑及刊画仏像数事︒命臣体実︑皆

無実状︒上曰︑朕固知之大事不実︑余事更不足究︒其妄告者︑皆杖一百︑仍戍辺︒

(25)

とある︒遼東総兵官の報告として︑都指揮鄒溶が漢王高煦との関係を告発された件で︑誣告であったことが判明し

た︒誣告とされた馮春等は杖一百で辺境に戍された︒

⑮﹃明実録﹄宣徳六年秋七月乙酉の条に︑

復大興左衛都指揮僉事劉聚官︒初︑聚守備遼東広寧衛︒虜入境殺官軍三人︑聚坐不覚︑当死謫充軍立功︒上念

其旧労宥使 ママ︵死?︶︑復職専哨備︑仍罰俸三年︒

とあり︑劉聚は永楽八年八月己未に大興左衛指揮同知から本衛指揮使に昇進したものであるが︑処罰は俸給停止三

年に止まり︑復職を許された︒

⑯﹃明実録﹄宣徳六年秋七月丁亥の条に︑

宥遼東有罪官軍︒初︑官軍以失機当死者︑宥其死︑降充軍於極辺戍守︒至是︑上念其久困︑勅総兵官都督巫凱

自宣徳四年以後︑犯者皆宥之︑復原職役︑仍令専哨備︑再犯処死︒

とあり︑宣徳帝は守備軍士の補強のため︑宣徳四年以後の処分者を復帰させることとした︒

⑰﹃明実録﹄宣徳六年八月辛丑の条については﹇奥山・二〇一四﹈に分析があるが︑

明代遼東武官の罪と罰

(26)

行在刑部奏︑遼東百戸張富・程玘︑初従指揮皇甫斌巡辺︑猝遇寇囲斌︑而富等皆走匿不救︒於律応斬︒上曰︑

姑宥其死︑皆杖一百降充軍俾立功︑如再失機︑必斬不貸︒因諭刑部臣曰︑古人有用敗将而成功者︑昔皇祖亦為

朕言使功不若使過︒今姑宥之︒

とあり︑百戸張富・程玘が敵との遭遇で指揮官を見殺しにして逃げた行為を大明律の斬刑に処するところ︑充軍立

功させる猶予措置としている︒

⑱﹃明実録﹄宣徳七年五月癸未の条に︑

遼東定遼左衛逃軍馬義︑以誣告親王伏誅︒義河南中護衛軍︑初従庶人熹偽造図書及誹謗帖繫箭︑射彰徳城下事

覚︒法司論義罪当斬︒上宥其死︑発戍定遼︒義逃回河南︑不悛前非︒周王有燉聞之︑欲捕義解京︒義怨之︑遂

詣京師誣告周王交通謀義等事︒上命監察御史沈敬往察之︑敬及三司奏︑義所告皆妄︒上命法司会群臣覆訊義実

妄︑遂斬於市︒

とあり︑馬義は元来︑漢王高煦に従っていたが︑罪に問われて斬刑のところ︑減刑されて遼東に謫戍されることに

なったにも拘らず︑河南に逃げ帰ってかつ周王と事を構え︑審理の結果︑市場において公開処刑された︒馬義を取

り調べるに当たり︑宣徳帝は監察御史沈敬を河南に派遣して都・布・按三司とともに取り調べに当たらせ︑最終的

な判断は法司が群臣とともに協議する段階を踏んで下している︒

(27)

⑲﹃明実録﹄宣徳七年八月癸巳の条に︑

総兵官都督僉事巫凱奏︑瀋陽中・鉄嶺二衛指揮宋礼・千戸朱斌等︑在職皆与同僚争私意︑無同寅協恭之誼︑累

累上凟朝廷︑或罰俸或輸米贖罪還職︑終不悛革︑每事争競︑未甞寧息︑以致廃弛公務︒請悉調極辺及新置諸衛

所︑使之省過︒自今︑遼東都司所属軍官有同僚不和妨廃公務者︑請一体調衛︒従之︒

とあり︑遼東総兵官からの劾奏であり︑将官同士が内輪もめして公務を放棄した罪について︑極辺等の衛所に追い

やる申し合わせが形成された︒

⑳﹃明実録﹄宣徳八年二月辛卯の条の条に︑

遼東総兵官都督巫凱奏︑署都指揮僉事楚勇等専督守備︑不厳約束︑致虜寇入義州︑殺守墪軍士︒請罪之︒命勇

及巡守指揮千百戸俱罷俸︑捕寇︒

とあり︑これも遼東総兵官による劾奏であり︑取り調べの手続きの後︑俸給停止の処分となっている︒﹃明実録﹄

景泰元年十二月戊戌の条によれば︑老疾の都指揮僉事楚勇が引退し︑子の鳳が代わって義州衛指揮僉事を継いでい

るので︑処分後︑長期に渉り職位に留まり︑昇進を果たしたことが分かる︒

㉑﹃明実録﹄宣徳九年春正月戊午の条に︑ 明代遼東武官の罪と罰

(28)

遼東総兵官都督僉事巫凱奏︑逃軍及家属多聚万灘等島︒欲遣都指揮夏通率兵招捕︒上従之︒仍命凱戒飭官軍︑

毋妄肆誅戮︒

とあり︑遼東総兵官の奏上で島嶼に逃げた軍や軍属を連れ戻すこととなった︒

㉒﹃明実録﹄宣徳九年三月乙酉の条に︑

宥遼東都指揮同知裴俊罪︒旧任三万衛指揮︑軍士告其減官軍月糧︑以補屯田子粒之数︑同犯者俱已坐罪︑俊以

土人奉命招諭外夷︑至是︑還︑自陳有罪︒命宥之︒

とあり︑裴俊は本年春正月戊辰に遼東都指揮僉事理鉄嶺衛事から都指揮同知に昇格したばかりであったが︑自ら罪

を認めて許された︒

㉓﹃明実録﹄宣徳九年八月戊申の条については﹇奥山・二〇一四﹈に分析があるが︑

復遼東都指揮僉事黄順職︒順初赴任与都指揮王祥・張栄等五人︑偕行至薊州︑分宿民家︒栄酒醉自刎死︒栄弟

永等報順︒順与祥等疑其事︑擒永︑遣人︑械送行在刑部︑鞫治永︒永憾順擒已︑遂誣順殺栄︑逮順至論謀殺重

罪︒順妻訴冤枉︒法司久未決︒上曰︑順何有悪於栄︑且何所図之︒遣御史張聰・錦衣衛千戸尹亢︑詣薊州栄等

止宿処覆実︒其所舍之家︑皆言栄畏徃遼東守辺︒坐臥口語不已︒晚因醉遂自刎︒実非殺死︒聰等還具奏︒上曰︑

(29)

朕固疑非順所謀︑苟不審察其冤曷伸︒今得実矣︒即釈順還職︑併栄弟釈之︒

とあり︑黄順

︶12

と張永の争いは黄順と王祥の思い込みから拗れ︑行在刑部など法司を巻き込んでいったが︑宣徳帝の

命令で御史と錦衣衛官が現地調査に赴いた結果︑黄順の無実が証明され︑張永もお咎め無しとなった︒

㉔﹃明実録﹄宣徳十年六月己酉の条に︑

遼東総兵官都督同知巫凱奏︑兀良哈福余衛韃賊犯辺︑掠虜人畜︒其守辺都指揮裴俊・王祥・佟勝不行用心備禦︒

乞正其罪︒上命各罰俸半年︒

とあり︑王祥

︶13

・佟勝とともに裴俊は重ねて失守で俸給停止半年の処分を受けた

︶14

㉕﹃明実録﹄宣徳十年秋七月癸巳の条に︑

遼東辺境被達賊殺傷官軍︑搶虜孳畜︒上勅総兵官都督同知巫凱等曰︑此賊縦橫出没︑所害非軽︒其失機失瞭官

軍俱令立功贖罪︑若無功︑如律治之︒

とあり︑恐らくこれも遼東総兵官からの劾奏に基づき︑事情調査が行われた後︑処分は事実上の見送りとなった︒

㉖﹃明実録﹄宣徳十年十二月庚申の条に︑ 明代遼東武官の罪と罰

(30)

都督同知巫凱奏︑瀋陽備禦官軍守望不厳︑以致達賊入境侵掠︒上曰︑遼東官軍不為不多︑而達賊屢入為寇︑皆

爾総兵等官偸惰所致︑即命兵部責取失機失瞭官死罪状︑住俸一年︑令立功以贖︒

とあり︑総兵官の劾奏であったが︑結果として宣徳帝は総兵官等の怠慢も槍玉に挙げている︒ともあれ︑兵部に命

じて失守を犯した将官の取り調べと俸給停止一年が指示されている︒

小    結

﹃明実録﹄宣徳十年八月己酉の条の遼東総兵官都督同知巫凱言辺情八事の一つに︑

一︑虜寇犯辺︑将欲殲滅︑必広召募︑有能奮力報効︒生擒斬首︑請旌賞激勧︑在陣亡故者︑優䘏其家︒

とあり︑宣徳帝は︑

上曰︑辺兵操備︑歳久労苦必甚︒豈可拘以常例︒其速発内帑︑給之︒

と返している︒辺境の防備は生半可なものではなかったことは︑派遣を忌避して逃げ帰る軍士︑酔いに任せて命を

(31)

絶つ武官の事例が雄弁に物語っている︒逃亡する軍士が増えていくことはやむを得ないことであった︒辺防を考え

る上で押さえておきたい前提条件である︒

遼東においては洪武から永楽年間は功臣が総兵官に任命される時代であったが︑宣徳年間の総兵官巫凱は安南遠

征で頭角を現した現場の人間である︒また︑永楽年間まではモンゴルなど内陸からの襲撃は少なく︑寧ろ︑倭寇の

問題が目立つが︑宣徳年間に入ると︑モンゴルなどの襲撃に伴う失守が急速に増える︒遼東における失守などに対

する劾奏は基本的に遼東総兵官が行うことで︑皇帝は六部・都察院に検討を指示し︑監察御史や錦衣衛の官を派遣

して実情を調査して報告し︑最終的に皇帝がその報告によって罪の計量と罰の調整を行っている︒ただ︑巡按山東

監察御史による報告で調査が開始されているかに見える事例もあるので︑この点はさらに理解を深めたい︒

処罰の基準は軍法とも表記される大明律の兵律の関連条文である︒ただ︑慣例的な措置も加わって来るから注意

を要する︒それ以上に︑奥山憲夫により指摘されているように︑皇帝は大半の事例において執行猶予︑もしくは減

刑を行うことが通常であり︑法の運用そのものが重要であることを物語る︒続稿で深めていきたい論点である︒

1︶

川越泰博﹃明代中国の軍制と政治﹄国書刊行会︑二〇〇一年︒︵

2︶

奥山憲夫﹃明代軍政史研究﹄汲古書院︑二〇〇三年︑﹁永楽朝の武臣処罰︵一︶﹂﹃明清史研究﹄第二輯︑二〇〇五年︑﹁永楽朝の武臣処罰︵二︶﹂﹃國士舘東洋史学﹄一︑二〇〇六年﹁明・宣徳朝における武臣の罪と罰︵一︶﹂﹃明清史研究﹄第十輯︑二〇一四年﹇奥山・二〇一四﹈︑﹁変・乱の背後で―軍士の私役と売放―﹂川越泰博編﹃様々なる変乱の中国史﹄汲古

明代遼東武官の罪と罰

(32)

書院︑二〇一六年など参照︒︵

3︶

川越泰博﹃明代中国の疑獄事件  藍玉の獄と連座の人々﹄風響社︑二〇〇二年︒︵

4︶

永楽朝の特色については︑川越泰博﹃永楽政権成立史の研究﹄汲古書院︑二〇一六年︑拙著﹃永楽帝  明朝第二の創業者  世界史リブレット人  〇三八﹄山川出版社︑二〇一六年︑を参照︒︵

5︶

拙稿﹁明朝档案にみる安楽・自在知州﹂︵﹃人文研紀要﹄第六一号︑中央大学人文科学研究所︑二〇〇七年︶︑拙稿﹁明代遼東における情報と審判―自在州の場合―﹂︵中央大学人文科学研究所編﹃情報の歴史学﹄中央大学人文科学研究所研究叢書五二︑中央大学出版部︑二〇一一年︶︒︵

6︶

拙稿﹁明朝档案を通じて見た明末中朝辺界﹂︵﹃人文研紀要﹄第七七号︑中央大学人文科学研究所︑二〇一三年︑当該論文の韓国語版は﹃燕行録の世界﹄景仁文化社︵韓国︑二〇一五年︶に改稿の上︑収録されている︶︒︵

7︶

拙稿﹁実録と档案の間―明代万暦初期の事例から―﹂︵﹃人文研紀要﹄第八二号︑中央大学人文科学研究所︑二〇一五年︶では︑﹃明実録﹄の記述と档案の立ち位置との関係に留意すべきことを述べた︒︵

8︶

孟善の卒伝は﹃明実録﹄永楽十年六月甲戌の条にあり︑山東海豊県の出身︑元朝に仕えて山東枢密院同僉であったが︑明初に徐達の麾下となり︑軍功で定遠衛百戸を授けられ︑傅友徳に従って雲南平定の功績で燕山中護衛千戸となり︑燕王に仕えることとなった︒靖難の役で度重なる軍功があり︑永楽元年に鎮守遼東となった︒同七年に彼のひげが白くなったことを見た永楽帝は隠居を許した︒没後︑滕国公と追封し︑忠勇と謚した︒︵

9︶

徐剛については︑﹃明実録﹄洪武三五年冬十月丁卯の条に﹁以守城功︑賞遼東都指揮僉事徐剛銀三十両・綵幣四表裏・鈔三十錠︒﹂とある︒︵

10︶

金声については︑﹃明実録﹄洪熙元年十二月丁亥の条では東寧衛指揮僉事︑宣徳元年春正月癸丑の条では東寧衛指揮使︑同二年九月丁亥の条では東寧衛指揮使から都指揮僉事に昇格し︑同三年春正月壬辰の条では都指揮とある︒︵

11︶

鄒溶については︑﹃明実録﹄永楽二二年八月乙未の条では錦衣衛指揮同知から遼東都司都指揮僉事に昇格し︑洪熙元年冬十月戊辰の条では開原守備の都指揮である︒今次の処分の後︑降格は免れたものの︑﹇奥山・二〇一四﹈で分析されている宣徳五年十二月壬午の条では︑﹁遼東総兵官都督僉事巫凱奏︑韃賊百余人入開原境内︑又賊四十余人劫掠柴河等屯︒備禦都指揮鄒溶遣指揮呉禎等哨探︑遣都指揮佟答剌哈等率兵捕擊︑佟答剌哈遇賊遁︑禎遇賊与戦︑被傷還︑調都督指揮夏

(33)

通同都督王真追賊︒皆不及而還︒其都指揮鄒溶・佟答剌哈等官︑俱応治罪︒上遣勅責凱曰︑此皆爾平昔不能規画守備之方︒故在下者皆放肆︒不循号令︒其鄒溶・佟答剌哈等俱責死罪状︑罰俸五月︑如再失機不貸︒其遇賊︑先回者治如律︒戦死者優贍其家︑被傷者善撫恤之︒﹂とあり︑宣徳六年六月壬寅の条では︑﹁総兵官都督巫凱奏︑比者︑軍卒馮春等告都指揮鄒溶屢嘗遣人交通漢庶人高︑及刊画仏像数事︒命臣体実︑皆無実状︒上曰︑朕固知之︑大事不実︑余事更不足究︒其妄告者︑皆杖一百︑仍戍辺︒﹂とあり︑宣徳六年秋七月丁丑の条では︑﹁巡按山東監察御史張政奏︑開原備禦都指揮鄒溶私役軍士︑及聴納粟買閒約及百人︒請治其罪︒上謂右都御史顧佐曰︑溶雖可罪︑然善処多︒今辺将艱難︑其宥之︑但移文令改過︑勿再犯︒﹂とあり︑宣徳十年秋七月戊寅の条では︑﹁陞遼東都指揮僉事鄒溶為都指揮同知︑寧遠衛指揮使李真為都指揮僉事︑広寧衛指揮同知陳慶・指揮僉事陳麒・葉興・李通・王祐・復州衛指揮僉事余敬俱署都指揮僉事︑分守開原及広寧各衛︒﹂とあり︑正統元年三月丙申の条では︑﹁宥開原備禦都指揮鄒溶・裴俊等罪︒時鎮守遼東総兵官都督巫凱奏︑溶等不厳哨備︑以致達賊入境殺傷軍人︑虜掠孳畜︒請罪之︒上宥溶等罪︑住俸三月︒其余失機失膫官軍︑執問如律︒﹂とあり︑正統三年十一月乙巳の条では︑﹁遼東都指揮同知鄒溶備禦開原︑三万衛指揮王崇︑告其受軍士塩商贓売法作奸︒下巡按御史究之︑御史逮溶子瑛等鞫得実当追贓︑溶乃自訢︒乞勿追︒上諭都察院臣曰︑溶在法難宥︑独念其効力辺境︑頗有年︒姑貸之︑仍戒其毋蹈前非︒﹂とあり︑正統四年十一月辛未の条では︑﹁先是︑遼東辺軍有為胡寇所掠逸帰者︒上怪所司不以聞︑命行在兵部移文責之︒至是︑都指揮鄒溶等言︑軍人実亡去非被掠︑因自劾其約束不厳之罪︒上曰︑辺軍被掠︑既不以聞︒又肆欺誑法可容乎︒都指揮姑記其罪︑指揮及管軍守瞭官俱責死罪状︑仍罰俸三月︑再犯不宥︒﹂とあり︑正統五年三月丁巳の条では︑﹁給遼東都指揮鄒溶引塩如例︒先是︑巡按山東監察御史李盤奏︑溶令其子及無藉軍吏︑詭名中淮︑浙塩共六千九百七十引︑内千余引︑又侵剋軍糧所中者︑被人訐発︑宜治溶罪︑追糧給軍︑引塩没官︒上宥溶罪︑并免追糧︑尋復遇赦并其子官吏俱原之︒至是︑溶復乞支塩︒行在戸部言︑溶奉榜例中納非律所載権勢者︑比宜准支給︒上復従之︒﹂とあり︑正統六年閏十一月辛巳の条に遼東都司都指揮同知鄒溶が没したことにより賜祭し︑同七年夏四月甲辰の条に子の光が定遼後衛指揮同知を継いだとある︒鄒溶は度重なる告発により窮地に立たされながらも︑俸給停止になることはあっても降格の憂き目に遭うことはまれであった︒︵

12︶

黄順は宣徳八年三月庚申に︑義勇右衛指揮使から遼東都指揮僉事に昇格し︑事後の同月癸丑︑山西都司都指揮僉事へ移動となった︒﹃明実録﹄正統三年九月丙午の条に︑﹁山西都指揮僉事黄順徃平定州公幹︑勒取部下財物︒巡按御史擬贖徒還

明代遼東武官の罪と罰

(34)

職︒上以都指揮所行如此而不懲之︑何以警衆︒降一級︑発遼東辺衛哨守︒如悞事︑必処以死︒﹂とあり︑部下から財物を巻き上げた罪で遼東辺衛哨守へと落とされる憂き目となった︒︵

13︶

王祥は宣徳八年三月庚申︑燕山左衛指揮使から遼東都司都指揮僉事に昇格したが︑㉔の史料で都指揮王祥とあり︑正統六年十一月己酉に遼東都司都指揮僉事として掌司事兼督操都司在城軍馬の命令を受けた︒︵

14︶

裴俊はその後︑﹃明実録﹄正統元年三月丙申︑六月乙巳︑同四年十二月丙戌︑同五年三月庚申︑同七年二月丁酉︑同九年閏七月癸巳の各条に失守等で処罰を受けた記録があり︑賞された記録は同四年九月甲戌︑同九年六月乙未の条だけである︒続稿で詳しく検討したい︒

参照

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臨脈講義︐

三〇.

87)がある。二〇〇三年判決については、その評釈を行う Schneider, Zur Annahme einer konkludenten Täuschung bei Abgabe einer gegenteiligen ausdrücklichen Erklärung, StV 2004,

〔追記〕  校正の段階で、山﨑俊恵「刑事訴訟法判例研究」

〔付記〕

東京都公文書館所蔵「地方官会議々決書並筆記