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「新しい政治」としてのアイディアの政治

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Academic year: 2021

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要旨

「新しい政治J

としてのアイディアの政治

一政治は何によって決定されるのか?一 新 田 和 宏 l 政治の世界において、政治の言葉というもののしめる重みが増している。政権担当者や政治指導者から 発せられる政治の言葉が大きい意味をもつようになった。とりわけ、 5年 5ヶ月に及んだ小泉政権と連動 するかたちで顕在化した「新しい政治 (newpolitics)Jの一つの側面として、「ワンフレーズ・ポリティク ス」とも言われる、政治的フレーズを駆使するアイディアの政治の重要性を指摘することができる。本稿 は、そのような「新しい政治」としてのアイディアの政治について着目し、その省察を試みる。 これまで、政治学は、「政治は何によって決定されるのか?Jという問いにこだ、わってきた。政治的フレ ーズを用いるアイディアの政治について検討することは、こうした政治学の問いに対して、 一定程度の返 答を提示することにもなるであろう。 本稿は、アイディアの政治に関連する諸概念の定義を踏まえ、小泉政治が問題提起したというべき、「不 利益政治」とアイディアの政治、テレポリティクスと「劇場型政治」、インターネット・ポリティクスと「新 しい右翼」、並びにアイディアの政治の政治的学習、というアイディアの政治に関する諸論点について検討 を行う。こうして、本稿は、政治的フレーズを駆使するアイディアの政治が、 一体、どこまで政治を決定 することができるか、この点についても確定したいと思う。 1.

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政治は何によって決定されるのか?J 政治学は、「政治は何によって決定されるのか?Jという問いにこだ、わってきた経緯がある。決定要因別 にその議論を整理すると、次のように分けることができる。オーソドックスな i)経済決定論や並)政治 意識論、iii)政治的リーダーシップ論の他に、 iv) 資源動員論、 v) 新制度論、 vi)経路依存性論、vii) 政策ネットワーク論、地)外生的ショック論、立)アイディアの政治/言説政治論、 x)政治的学習論等 によるアプローチとその説明である。ここでは、それぞれのアプローチの仕方や説明の方法について紹介 したり、コメントを付け加えたりすることは割愛する。但し、暫定的に言えば、どのアプローチからも、 「政治は何によって決定されるのか?J という問いに答えることができるとともに、同時に、どのアプロ ーチに限定/特化することは不可能であるといえる。 およそ、「政治は何によって決定されるのか?Jという問いに対しては、複数のアプローチを用いながら 説明しなければならないと答えるべきだろう。但し、だからと言って、複数の要因にまたがる平板な機能 論の陥葬に厳つてはならない。問われるべきは、複数のアプローチを用いて説明するにしても、それぞれ の決定要因がもっ内容と政治的意義を明らかにすることである。また、注意を要するのは、複数の要因を 選別し特定した要因こそが、最終的に政治を決定(規定)する独立変数であり、現前する政治はたかだか 従属変数に過ぎず、そして政治現象は全て独立変数から説明が付くとしづ還元論にも陥ってはならないこ とである。 そこで、本稿は、立)のアイディアの政治/言説政治論を取り上げる。5年 5ヶ月に及んだ小泉政権は、 政権担当者から発せられる政治的フレーズが、現実の政治の世界において、大変大きい役割と影響をもつ ことを明らかにした。それは、「政治は何によって決定されるのか?Jという問いに、思わず反射的に、「政 原稿受付 2007年 11月 19日 1.近畿大学生物理工学部 教職教養課程 〒649・6493和歌山県紀の川市西三谷930

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34 Memoirs of The School ofB. O.S. T. of Kinki University No. 21 (2008) 権担当者の政治的言説であるJ とでも返答したくなるほど、強し、衝撃を与えたといっていいだろう。少し 冷静になって、小泉政治を捉え返すならば、小泉政権は政治学に対し「新しい政治 (newpolitics)Jの一側 面というべき、政治的フレーズを駆使するアイディアの政治の重要性を、改めて提起したといえるであろ う。こうして、本稿は、アイディアの政治に関する諸概念の定義を行ったのち、小泉政権によって提起さ れたというべき、「新しい政治」としてのアイディアの政治における重要な諸論点について省察を行う。 2. アイディアの政治の概念定義 マーク・ブライスは、カール・ポランニーの研究を踏まえ、 20世紀の2度にわたる経済的転換、すなわ ち1930年代と 1980年代の経済的転換において、経済的アイディアの果たした役割に着目しつつ、アイデ イアに関し、 i)経済的危機の時期にアイディアは(制度ではなく)不確実性を減少させること、心不 確実性の減少の結果としてアイディアは集合行為や連合形成を可能にすること、 iii)既存の制度をめぐる 闘争においてアイディアは武器となること、 iv)既存の制度の失墜の結果として新しいアイディアは制度 的青写真として作用すること、 v)制度構築の結果としてアイディアは制度的安定性を可能にすること、 という 5つの仮説を提示した (Blyth2002 : 34-41)。ブライスはアイディアと制度との関係に関心を示して いるが、本稿では、政治的アイディアおよび政策アイディアにリンケージした政治的フレーズを駆使する 点においてアイディアの政治に注目したい。そこで、本節では、アイディアの政治に関する基本概念を定 義しておこう。 アイディアの政治 (politicsof idea)とは、政権担当者が、場合によっては政権担当者につらなる官僚や 行政担当者あるいはまたオピニオン・リーダーが、 一定の政治的アイデア (politicalidea)に基づく政策転 換 (policychange)およびレジーム転換 (regimechange)を政治的目標に据え、 i)その政治的アイディア を政策アイデア (policyidea)もしくは制度化(insti旬tionalization)によって実現するために、かつまたか かる政治的アイディアおよび政策アイディアの正当性 CIegitimacy)を獲得するたるために、込)直接、世 論 (publicopinion)の支持を調達しようと目指し、 iii)場合によっては、既得権益を持つ「拒否権プレイ ヤー (vetoplayer)Jとの対比を敢えて鮮明にしながら、 iv)それ故に、政権担当者等から発せられる「サ ウンド・パイド (soundbite :決め台詞)Jが込められた政治的フレーズ (politicalphrase)を駆使すること により、世論形成や政治過程、並びに政策形成過程に対し極めて大きい影響を与える政治的状況を意味す る。尚、上記のうち、特にiv)に力点を置くならば、それは言説政治 (discoursepolitics)もしくは 「ワン フレーズ・ポリティクス (one-phrasepolitics)Jという表現が相応しいといえるであろう。 また、アイディアの政治は政治的言説空間に賑わいをもたらすが、その政治的言説空間には様々な政治 的言説が含まれる。政治的言説 (politicaldiscourse)とは、 具体的には、政治的アイディアと政策アイディ ア、政治に関する学説や理論および分析、論説や社説および評論、政権担当者や与野党を含めた政治家か ら発せられる発言や演説、談話、講演、質問、メ ッセージおよび政治的フレーズ、あるいはまた官僚や行 政担当者のコメント、並びに経済界・労働界、市民社会セクターや市民による様々な議論や意見、要求や 要望、そして世論などである。尚、政治的言説は、言語的コミュニケーションに限定されない。言語的コ ミュニケーションと併せて、語り方や身振り・手振り、容貌、および、パフォーマンスなどの非言語的コミ ュニケーション (non-verbalcornmunication)をも含む。 それから、アイディアの政治は、何と言っても、政策転換やレジーム転換を強く指向すること、かつま た、かかる転換を構導するために、政治的アイディアと政策アイディアに連携した政治的フレーズが殊の 外重要な役割と意義をもつことにポイントがある。政権担当者は、みずからが選択した特定の政治的アイ ディアを実現するために、政治的言説空間において、政治的言説を用いて、とりわけ政治的フレーズを駆 使して勝ち続けてし、かなければならない。その場合の勝利とは、国民世論の支持に基づく政治権力の維持

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を意味する。反対に言えば、政権担当者は、国民世論を味方に付けるために、あるいはまた飽きさせない ために、絶えず、新たな政治的フレーズを送り続け、世論を動員しなければならないのである。それと同 時に、政権担当者は、政治的フレーズとともに、具体的な政策アイディアを国民へ供給し続けられなけれ ばならない。政治的フレーズは政策アイディアによって具体的な姿として現れる。そして、あたかも引き 出しの中に幾つものアイディアがしまわれており、時宜を見計らって適時、最善/次善のアイディアが次々 に提出されるかのように、続々と、あるいはまた矢継ぎ早に、多彩な政策アイディアが提出される必要が ある。総じて、政策転換やレジーム転換のために、政治的アイディアと政策アイディアに結び付いた政治 的フレーズの「波状攻撃Jである。 こうしたアイディアの政治という観点から小泉政権を顧みてみよう。小泉政権は、新自由主義という政 治 的 ア イ デ ィ ア 構 造 改 革 」 の 実 行 に よ り 、 利 益 政 治 C interestpolitics)に立脚するこれまでの自民党政 治と、公共事業をピ、ルトインした「日本型福祉国家j レジームの変革を目指した。そして、小泉首相が発 した「自民党をぶつ壊すj・「恐れず、ひるまず、とらわれず」・「改革なくして成長なしJ・「聖域なき構造 改革J•

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経済財政諮問会議は小泉構造改革の司令塔」 ・「痛みを伴う」 ・「三方一両損」 ・「郵政民営化は構造 改革の本丸」 ・「郵政民営化に反対する者は抵抗勢力である」などの政治的フレーズは、極めて挑発的であ り挑戦的で、あった。しかも、その政治的フレーズは、「拒否権プレイヤー」を「抵抗勢力」と名付け「悪玉J を鮮明にしながら、みずからを 「善玉」に仕立て上げることに成功した。また、その政治的フレーズには 「サウンド・パイドJが込められており、これを駆使することによって、ポピュリスト的に国民世論の動 員を意識し (大獄 2003)、かつまたその政治的フレーズが経済財政諮問会議で示された 「構造改革Jの政 策アイディアを「総理の一言」としてオーソライズするというように(竹中 2006)、小泉の政治的フレー ズの中には、幾つもの轄鞍した意味合いが含められていたことに改めて気付く。 したがって、小泉の政治的フレーズは、構造改革という新自由主義の政治的アイディアとその政策アイ ディアを実現していくための切り札というべき政治的ツールで、あった。また、政治的フレーズを有効な政 治的ツールとして用いるには、周到な「政治的マーケティング (politicalmarketing)Jが用意されていたこ とに注意しなければならない(新田 2007a)o2005年の 「郵政民営化選挙」に際しては、「自民党コミュニ ケーション戦略本部」が立ち上がり、これまた周到な政治的マーケティングにより選挙戦の勝利を収めた ことが知られている(鈴木哲夫 2007)。 小泉政治が提起したのは、政権担当者が政策転換およびレジーム転換を指向するさい、政治的フレーズ にリンケージしたアイディアの政治がかくも圧倒的なパワーを発揮するものなのか、という点である。し かし、注意しなければならないのは、魅惑的 ・迎合的な政治的フレーズを駆使しながら、国民世論を味方 に付け、アイディアの政治を実践すれば、小泉と同様に政策やレジームの転換が進むわけではない、とい うことである。政治はそう簡単なものではありえない。われわれが冷静に見極めねばならないのは、小泉 のアイディアの政治が「不利益政治Jに関連していたところである。実は、この点にこそ、小泉政治の「新 しい政治」が確認できるのである。 3.

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不利益政治」としてのアイディアの政治 それでは、小泉政治が提起したというべきアイディアの政治における諸論点についての省察に移るが、 最初に、「痛みを伴う」ような 「不利益政治」を可能にさせた小泉のアイディア政治とは一体いかなる特性 をもつものであったのか、という論点についてである。通例、政策形成に影響を与える要因として、アイ ディア(Idea)と利益(Interest) および制度(Institution) という 3つの Iが指摘される(西岡 2007)。しか

し、小泉のアイディア政治は、制度変更との関連において「不利益政治」を敢行しつつ、その「不利益政 治Jとの関連において巧みな政治的フレーズを駆使する言説政治と複合していた。

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36 Memoirs of The School of B. O. S. T.of Kinki University No. 21 (2008) 小泉は、自民党の派閥政治を意図的にネグレクトしたため、その権力基盤を派閥の合従連衡に求めるこ となく、直接、国民の世論に求めたと指摘されている(内山2007)。換言すれば、「自民党をぶつ壊す」と ともに構造改革を推し進めるが故に、小泉は、自民党の旧来的な派閥政治や派閥の合従連衡に立脚するこ となく、国民の世論を政治的資源 (politicalresource)として動員し、しかも圧倒的な支持を調達すること によって、政権担当期間中、その権力基盤を不動のものとしたといえる。また、小泉は、国民からその支 持を調達するさい、政治的ツールとして用いたのは、自民党政治の定番であるところの利益政治 (interest politics)から紡ぎ出される利益ではなく、政治的言説とりわけ政治的フレーズであった。簡単に整理する と、小泉政権と国民世論とをつないだ政治的ツールは、カネではなくコトバで、あった。小泉の発する政治 的フレーズに媒介されながら、国民世論は小泉政権と共鳴しあったのである。 ところが、問題は、「痛みを伴う」小泉構造改革が、「聖域なき構造改革」として既得権益を剥奪する、 さながら「不利益政治 (disadvantagepolitics) Jとして展開された点である。構造改革の結果、所得格差の 拡大や地域経済の疲弊、福祉予算の縮減に代表されるように、大半の国民は小泉政権から不利益を被った といえる。それでいながら、何故に、 80%前後の高い内閣支持率を維持しえたのだろうか。これまで、自 民党は、「包括政党 (catch-all-party)Jとして成長し、国民各層や日本各地の利益を政治的に実現すること により、戦後ほぼ一貫して一党優位の長期政権を継続してきたわけである。にもかかわらず、郵政民営化 や高速道路改革、医療費改革のように、利益政治を度外視した小泉の「不利益政治」は、どうして可能だ ったのだろうか。ここに、資源動員論からではなく、アイディア政治論からアプローチしながら説明する ことに、新しい政治学の使命があるといえる。 「不利益政治」は、グローパリゼーションと新自由主義と関連するので、この点を簡単にまず押さえて おきたい。1989年の東欧革命による冷戦の終結を契機に、 急速にグローパリゼーションが進展したが、そ れへの圏内的な対応は、新自由主義的改革が最も適切と理解されてきた。しかしながら、日本の場合、 1993 年の細川連立政権により本格的な新自由主義的改革が始まったと指摘されるものの(渡辺 2005)、冷戦後 の1990年代は、バブル経済が崩壊し、長期の経済的低迷に見舞われた「失われた 10年Jにあたり、その ため90年代の末に至って、田中派の系譜にあたる小測政権による大規模な財政出動による経済再建が試み られた次第である。したがって、日本では、世紀が変わり小泉が政権の座を仕留めたところで、ようやく 新自由主義的改革が本格的に展開したと考えるべきであろう。 各国で導入・展開された新自由主義的改革は、小泉がいうように「痛みを伴う」ものである。同様に、 小泉構造改革により、わが国の多くの人々も、相当な「痛みを伴う」羽田になった。こうした「痛み」は、 利益政治とは正反対の「不利益政治Jである。「不利益政治」は、ある集団や階層または地域などに与えら れていた既得権益を政治的に奪うことを意味し、あるいはまた、特定の人々に理不尽ともいえる不利益を もたらし、従来の価値の略奪を意味する。利益政治に慣れ親しんでいると、こうした「不利益政治」は到 底受け入れられることはできない。一般に、不利益や価値略奪に遭遇すると、人々は不満が高じ政治的意 識を覚醒させる。それにもかかわらず、小泉は「不利益政治」を敢行したのである。しかも、驚くべきこ とに、内閣支持率が80%を超えるほど世論の高い支持を得ていたのである。 それでは、「不利益政治」を可能にした条件は何で、あったのか。それは、 i)長期にわたる経済的低迷か ら脱出しなければならないという政治課題を、小泉ならば解決できるのではないかという期待感。品)首 相が比較的強いリーダーシップを発揮できる内閣制度としづ制度的条件、とりわけ「構造改革の司令塔」 と位置づけられた経済財政諮問会議の活用と「政策起業家J竹中平蔵の存在。ui)党内の「抵抗勢力」や 「族議員」に対抗できる伝家の宝刀というべき自民党総裁としての選挙候補者への公認権。iv)特筆に値 するのは、「変人」と看倣される小泉純一郎という特異な政治家の資質。v)そして何よりも、「ワンフレ

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ーズ・ポリティクスJの極みと評価されるように、政治的フレーズを巧みに用いた「政治的プレゼンテー ション技法 (politicalpresentation technique)Jに求めることができるであろう。 このうちまず並に着目しよう。これまで、自民党の旧来的な利益政治の政治過程では、調整と妥協とい う政治的技法が重宝されてきた。この調整と妥協という政治的技法こそ、政権交代のない自民党の一党優 位の状況において育まれてきた日本の議会制民主主義に特有のものである。特に、自民党の一党優位の状 況を大前提にしながら、自民党は、野党なみならず、官僚に対しても、その優越的地位を確保するために、 「国対政治」という政治的技法を編み出した。自民党は、自民党を頂点に官僚と野党を結ぶ底辺のないト ライアングルというべき布陣をとり、巧みにも、官僚を牽制するため、野党との調整と妥協を必須事項と した。仮に、自民党が野党との調整と妥協に不首尾に終われば、官僚が立案した法案は、国会の会期切り に伴い廃案となるわけである。国会で過半数の議席を有する自民党が、野党に配慮、したのは、官僚に対し 牽制を行うためで、あった。それ故に、官僚からすると、自民党の族議員との関係性に十分配慮し、「国対政 治J における成果を注視しなければならなかったのである(飯尾 2007)。このような調整と妥協という政 治的技法に基づく自民党政治の根幹をなす利益政治の世界に、不利益を強要すれば、族議員が「拒否権プ レイヤー」として抵抗するのは当たり前である。自民党政務調査会における族議員集団ごとの部会と総務 会における事前の「与党審査Jこそ、その利益政治の牙城というべき政策形成の「場Jであった。したが って、「不利益政治」の敢行を試みた小泉にとって、「与党審査」を嫌ったのも当然といえば当然である。 それ故に、小泉は、「与党審査」から経済財政諮問会議へ政策形成の「場の変更 (venuechange)Jを行い、 構造改革を推し進めた(新田 2007b)。他方、政策形成の「場」を変更された側である族議員からすれば、 その「場」から外された上に、小泉構造改革が推し進められたわけであるから、こうした事態は従来の民 主主義的手続きを踏みにじった強権発動に思えた次第である。 政権担当者が不利益を強いる政治過程において、「拒否権プレイヤー」に対し、「強し、権力 (s仕ongpower)J もしくはリーダーシップを行使する点は理解に苦しまない。しかしながら、それにしても、国民世論から 高い支持を得るためには、「痛みを伴う」ような「不利益政治」は決してなじまないし、また「不利益政治」 を断行するために国民へ強権を発動するのは鷹踏させられる。それにもかかわらず、「不利益政治」を敢行 するのであるから、 vの「政治的プレゼンテーション技法」の巧みさに注目しなければならない。 小泉は、与党審査から経済財政諮問会議へ「場の変更」を行うとともに、併せて正当性の調達を直接国 民の世論から得ようとした。国民世論に訴えるには、基本的に、説明→説得→納得としづ合意形成の手順 も必要なければ、もちろん調整と妥協という政治的技法も必要ない。必要なのは、何よりも、わかりやす い言葉であり、それを発話することにより国民の吟線に触れることである。この「わかりやすさJこそ、 世論を政治資源として動員しえるか否かを分ける「政治的プレゼンテーション技法」の生命線である。し たがって、政治指導者が、国民に対して、如何にわかりやすい政治的言説、特に「サウンド・バイトJが 加味された政治的フレーズを送ることができるか、その「政治的プレゼンテーション技法」の真骨頂が問 われるのである。「不利益政治」において必要とされる政治的技法は、妥協と調整から「政治的プレゼンテ ーション技法」へ変わった。政治的言説の「わかりやすさ」が担保されることにより、政治指導者は、ア イディアの政治過程において、勝利を収める可能性を高める。 小泉が「わかりやすさ Jの極地というべき「ワンフレーズ・ポリティクス」が奏功したように、極論す れば、そこでは政治的アイディアや政策アイディアに関するきちんとした説明など必要とされない。求め られる「わかりやすさJとは、何も政治的アイディアや政策アイディアに関するわかりやすい理性的な説 明のことを意味するのではない。かつまた、説明→説得→納得という合意形成の手順も必要とされない。 むしろ、「わかりやすさ」とは、単純明快の上に、「共感」や「感情移入Jそして「自己同一化」という感

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38 MemoirsofTheSchoolofB.O. S.T.ofKinki UniversityNo.21 (2008) 性的な理解を意味するといえる。感性的な理解に政治的アイディアや政策アイディアが連動する。こうし た感性的な理解の位相において、政治的フレーズは、政治的アイディアや政策アイディアも一緒くたにな った。「構造改革Jという政策も、小泉の政治的フレーズにかかると、それは「政治シンボル(politicalsymbol)J として機能したのである。 そのように理解される感性的な位相での「わかりやすさ」は、理性的な説明それ自体が却って「わかり やすさ」を消去してしまう。「おそれず、ひるまず、とらわれずJ

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自民党をぶつ壊すJことも辞さず、「聖 域なき構造改革Jを推し進めるとしづ政治的フレーズとそれに付着する鬼気迫る気迫というべきパフォー マンスが、多くの国民から理解と「共感」を得たのである。 ましてや、「ガリレオ解散」を断行し、「構造改革の本丸Jと位置付けた郵政民営化に賛成するか、反対 するか、それを決めるのが「郵政民営化選挙J(9.11選挙)であるという小泉から発せられた強い思い込み の政治的フレーズは、「共感Jのレベルを突き抜け、国民の多くが小泉自身へ「感情移入」し、さらには少 なからずの人々が「自己同一化」のレベルに達していたと思われる。実際、構造改革のいわば「負け組J にカウントされるフリーターやニートまでもが小泉自民党へ投票したと分析されているが(三浦 2007)、 この点に関して、大変興味深い指摘をしているのが精神科医の香山リカである。香山は次のように述べて し、る。 「あの政治家なら私に何かをしてくれるのでは」と相手を対象化してそこに関係性をイメージするの ではなく、もっと原始的に「一票を投じることでも私もコイズミ気分Jと、自分と対象を自他未分化な ものと見なそうとするということだ。 (中略) 人は「自分の心にも不安が巣食っている」としづ現実を否認したいがために、「コイズミに投票すれば 私もコイズミ」というあまりにも原始的な幻想にすがったのである(香山 2006: 127・131)。 香山は、こうした「コイズミ気分」を「同一化の幻想」と表現する。かくして、小泉が発した政治的言 説は、「自分の心にも不安が巣食っているJという現実を否認したいフリーターやニートの支持を取り付け るまでに至ったのである。 政権担当者や政治指導者から送られる政治的言説が多くの国民の心を捉え、その国民が政治担当者や政 治指導者に熱狂的な支持を示すような政治状況こそ、実は、ポピュリズム (populism:大衆迎合政治)の 典型的な様相である。大獄秀夫は、小泉政治を「ポピュリズム政治」あるいは「劇場型政治」と規定しつ つ、その「特徴は、善玉悪玉二元論を基礎にして、政治を道徳的次元の争いに還元する。その際、プロフ エツショナルな政治家や官僚を政治・行政から『甘い汁』を吸う『悪玉』として、自らを一般国民を代表 する『善玉』として描き、その両者の聞を勧善懲悪的ドラマとして演出する」と指摘している(大獄 2006: 2)。但し、ここで注意しなくてはならないのは、小泉がイデオロギッシュなデ、マゴーキーに類する悪しき ポピュリストとはいえない点である。なるほど小泉の政治的手法は「ポピュリスト的政治」といえる。し かし、小泉のポピュリスト的手法は、巧みにも、アイディアの政治の一環として用いられ、また経済財政 諮問会議の政策審議ともリンケージしていたことを度外視してはならない。 そこで、ぜひ押さえておきたいのは、小泉という政治指導者のパーソナリティやキャラクターを含め、 小泉から発せられる政治的言説に対して、何故にかくも多くの国民がポピュリズム的な熱狂的支持を示し たのだろうか、という論点である。つまり、ポピュリズム的な社会心理的状況である。おそらく、それは グローバリゼーションを背景とする新自由主義的改革に対する人々の先が見えない社会不安という社会心

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理にほかならないであろう。それ故に、香山がいうように、人々は

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自分の心にも不安が巣食っている』 という現実を否認したしリのである。かつて、ケインズは、「悲観の誤謬 (e汀orof pessimism)Jという表現 で、大変興味深い指摘をしていた。ケインズによると、人間の心理は不況の時などに現実の打撃以上に悲 観してしまう「悲観の誤謬Jを起こしてしまうとしづ。だとすると、小泉の政治的言説は、香山がいうよ うな不安な現実の否認という閉塞感の打開に期待を抱かせっつ、ケインズが指摘する「悲観の誤謬Jの行 き場を巧みに捉えながら、これを引導し、しかも世論の資源動員に成功しえたといえる。 但し、それだけではない。小泉の発するひとつひとつの政治的フレーズが、各ノミーツを組み合わせるよ うに、人々の間で継ぎ合わせられると、善玉の小泉が、既得権益に固執する悪玉の抵抗勢力としての「自 民党をぶつ壊しJ、「おそれず、ひるまず、とらわれずJ

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聖域なき構造改革」を断行することによって、と りわけ「構造改革の本丸である郵政民営化」を実現することによって、人々は救済されるのであろう云々 という、ひとつの救世主的な物語 (narrative)が 構 築 (construction)される。それは、小泉政治に対応した 人々の相互主観的作用による物語の政治的構築 (politicalcons加 ction)の所産といえるだろう。 かくして、小泉の巧みな「政治的プレゼンテーション技法」は、 一面、「ポピュリズム政治Jの技法であ るとともに、「悲観の誤謬」の行き場を禽導し、かつまた救世主的物語の政治的構築による世論を資源とし て動員することに成功し、「不利益政治」を可能としたのである。 4.テレポリティクスと「劇場型政治」 次に省察すべきは、アイディアの政治を成功裡に収めるためには、政権担当者が発する政治的言説を媒 介するメディアや伝達ツールは何が最も有効かっ効果的なのか、そしてどのような構成のコンテンツを発 信するのが、これまた有効かっ効果的なのか、という論点である。 一般に、政権担当者が政治的言説を国民へ伝えるメディアは、新聞やテレビ、ラジオ、書籍、および政 党の機関誌やポスター、パンフレット、そしてインターネット上の HPサイトやメール・マガジンなどで ある。インターネットがし、かに普及していても、テレビこそが、臨場感をもって、あたかも直接的に、政 治指導者から国民へ政治的言説を送る最も有効かっ効果的なメディアにほかならない(星・逢坂 2006)。 その意味で、アイディアの政治は、主にテレビによって媒介された「テレポリティクス (TVpolitics)Jと して、その姿を現す。 もちろん、 TV放送機関は政府の公報機関ではない。但し、「日本では、国家が一番目立った存在」であ り、「国家は、国民の利益を守る、バターナリスティック (paternalistic:恩顧庇護)で積極的な守護者とし て提示」されている傾向を、エリス・クラウスが指摘している(クラウス 2006: 45-46)0 NHKや民放各局 が、ニュースや報道番組、政治討論あるいはまた政治を題材にしたワイドショーやバラエティ番組などを 通じて、政権担当者や政治家の政治的言説を国民に伝えるとしても、それをそのまま忠実に再生するわけ ではない。谷藤悦史がいうように、テレビは「社会的現実の凝縮的縮小と集権的拡大の同時進行」であり、 社会的現実を縮小して凝縮するとともに、社会的現実のある部分を切り落として、その切り落とした部分 を拡大する(谷藤 2005)。その意味で、ニュースは問題を定義する「フレーミング (flaming)Jを行う(カ ペラ・ジェイソミン 2005)。また、民放各局は民間企業であり、テレビ放送の一つであるニュースやバラ エティ番組なども「売れる商品jでなければならず、そのためには視聴率を上げなければならない。要す るに、「楽しくなければテレビではな bリというわけである(丸山 2005)。そこで、これらの番組は「売れ る商品」として、オーデ、イエンスの興味関心を引くように、工夫の上に加工・編成される。 このようなテレビ・サイドの思惑と合致したのが、人の気を引く「サウンド・バイト」が入った政治的 フレーズを語るシーンの放映であった。テレビ・サイドとしては、政治家や政治評論家やゲストたちが政

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40 Memoirs of The School ofB.O. S. T.of Kinki University No. 21(2008) 治的言説を延々と語るシーンは、「売れない商品Jと看倣す。少しでも長く感じられる場合には、シーンの 背景にインサート(insert:挿入映像)を入れ変化をもたせっつ、オーデ、イエンスを飽きさせないように配 慮する。この点、 TBSの「ニュース 23Jで、キャスターの筑紫哲也が論じる一新聞の社説に相当する-1多 事争論」は異例である。筑紫は、「多事争論」に関して、 190秒一人しゃべりというものはテレビ的ではな い。途切れなしに一人の発する音声に視聴者が耐えうる限度は30秒。長くて60秒というのが放送界の常 識であるJ(筑紫2002: 162)と述べている。 そうすると、小泉の数秒もしくは数十秒の政治的フレーズは、テレビ局の思惑とマッチングした。言わ んとするところが大変わかりやすく、切れ味が鋭く、しかもオーディエンスがしびれるような政治的フレ ーズであるならば、それはテレビの格好の「絵」となり、「売れる商品Jとなる。もちろん、政権担当者や 政治指導者側も、スピン・ドクター (spindoctor)の指南を受けつつ、予め「サウンド・バイト」を用意し、 それをテレビ・サイドが取り上げやすくするように、ここ一番の政治的フレーズを発話する(飯島2006)。 この件に関連して、高瀬淳一は、次のように指摘する。 アメリカでは、レーガン大統領時代から『サウンド・バイト』と呼ばれる 10秒ほどの短いフレーズを 大統領が用意することが一般化している。大統領にとって都合のいい方向に議論を導くために、気の利 いたセリフを政権側が周到に作成し、それを演説や発言のなかに入れておくのである。それをマスメデ ィアが目論見どおり取り出して利用してくれれば、大統領側は政策を自然と国民にアピールすることが できる。ニュースの特徴を踏まえた巧みなメディア・ポリティクスである(高瀬2005: 187)。 高瀬がいうところのメディア・ポリティクスは、「ワンフレーズ・ポリティクス」とも呼ばれるが、いず れにしても、これがアイディア政治の一側面なのである。 それから、オーディエンスの方も、閉じ、政治的フレーズが発話されるシーンを、 一度ならずとも、短 日間に繰り返し放送される NHKや民放各局のニュースなどを通じ視聴することによって、その政治的フ レーズを刷り込まれてしまうわけである。一方で政治的フレーズを発話する側が「善玉Jであり、他方で それに対峠する「拒否権プレイヤー」側が「悪玉」として構成されるコンテンツは、「劇場型政治」として の演出である。この「劇場型政治Jにおける「善玉J- 1悪玉Jの構成こそ、「善玉」の政治的フレーズが 最も有効かっ効果的に視るオーディエンスへ伝わる。しかも、オーディエンスは「善玉」への感情移入を 起こしやすい。 こうした「劇場型政治」は、先に見たようにポピュリズムという政治状況を高進させる。そこでは、国 民の熱狂さと反比例するかのように、政策の中身に対する理性的な判断や評価を失速させる。況や、小泉 が構造改革に対して批判・反対する人々を総じて「抵抗勢力Jというラベルを貼り、「拒否権プレイヤーJ を退けながら、政策の中身に対する国民の理性的な判断や評価を抑制したことは、民主主義の観点からす ると、大きい禍根を残したといえる。政治学者の重鎮内田満は次のように警鐘を鳴らす。 批判することと否定することとは違います。自民党内の権力者や党外の論客などが、小泉前首相に歩 調を合わせ、「抵抗勢力」を批判の対象とするにとどまらず、さらにはマスコミまでが同調して、「抵抗 勢力」を否定し、排除する方向で議論を展開するといった成り行きは、民主政治の生き生きとした発展 にとって、望ましいことではありません。そのような動きは、党の内外の「抵抗勢力」をすくませ、「反 対意見」を沈黙させてしまい、ひいては民主政治を形骸化させかねないからです(内田 2007: 4)。 「第四の権力」と称されるマスメディアがもっ世論形成の影響力として、多数意見が多く報道されるこ

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とによって、その多数意見がさらなる多数=増幅の螺旋を辿る一方で、反対に、少数意見が次第に沈黙の 螺旋を辿る傾向を、エリザベス・ノエル=ノイマンは「沈黙の螺旋

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Jと表現した(ノエル =ノイマン 1988)。つまり、少数意見が同調圧力に圧倒されてしまう、ということである。少数意見をもっ マイノリティが、その少数意見を表明したことにより、辛練な批判に会い、沈黙を強いられる。また、意 見表明することもなく、社会的孤立を恐れる余り、自ら沈黙を守る。「第四の権力Jのマスメディア、とり わけ、テレビが「ワンフレーズ・ポリティクス」をあたかも垂れ流すことによって、「沈黙の螺旋」という 波及効果を生じさせることに注意しなければならない。 ところで、大獄秀夫は小泉政治を「ポピュリズム政治」と指摘したが、その大獄が別の著書において、 「テレビでの意見表明は、大きな権威をもって、つまり無批判に受け取られる傾向がある」と指摘しつつ、 その上で「日本社会には、ポピュリズムの登場に抵抗する力が決定的に不足しており、(あきさせる)~時 間』という解毒剤に頼らざるを得ないのが現状である」と大変興味深い指摘をしている(大獄2003:238)。 要するに、テレビを通じた「ワンフレーズ・ポリティクス」に対しては、有効な対抗策が見出せない。し かしまた、「ワンフレーズ・ポリティクス」が「テレポリティクス Jに依存しているが故に、テレビ番組そ のものに由来する消耗品という惨い運命に、「ワンフレーズ・ポリティクス」も例外ではない。したがって、 「ワンフレーズ・ポリティクス」を弄する「ポピュリズム政治」の「解毒」も、消耗品として飽きさせる 時間に頼らざるを得ないということである。 いみじくも、「劇場型政治」故に、劇場の幕が下り、人々が劇場から退室すると、いつもの静かな生活に 戻るかのように、 一つの時間に区切りをつける。そうすると、「ワンフレーズ・ポリティクス」による熱狂 は、 一時の「劇場型政治」という政治の祭典といえだろう。そして、祭りが終わると、むしろ虚脱したか のような熱狂に対する「解毒」が作用するのだろうか。 そうすると、アイディアの政治は、政治的フレーズが流行品や消耗品のように扱われる中、政治的アイ ディアと政策アイディアに対する理性的・批判的な検討は棚上げされたままになるか、むしろ粛々と実行 されるのか、いずれにしても本題から外れる傾向がある。小泉構造改革の本丸とされた郵政民営化が、本 当に金融グローバリゼーションに戦略性をもった金融改革なのか、疑問が残る(野口 2005)。 5. インターネット・ポリティクスと「ネット右翼」 アイディアの政治は、国民世論の強し、支持によって成り立つが、その場合の世論支持は新聞や TVによ るリサーチによる内閣支持率となって現れる。また、それとともに、インターネットという政治的言説空 間からの支持をも受ける。それでは、ネット上の支持とは一体如何なるものなのか。そして。そのネット 上に「新しい右翼」のーっとして「ネット右翼」と呼ばれる匿名の書き込みが無視しえない一定の圧力を 放つが、「ネット右翼」とアイディアの政治はどのように関係するのか。こうした論点について省察してみ たい。 自民党の加藤紘一は、「加藤の乱Jを振り返り、森喜朗内閣不信任決議の日、決然と行動しなかった加藤 に対して、非難のメールや手紙・Faxが約3万通、また加藤のサイトへのアクセス数が 10万を越えたこと を踏まえて、「ネットを通じて『民意』というものが具体的に現れた最初の現象で、あった」と述懐している (加藤 2005: 170)。ネット上において、「民意Jは加藤を支持していたが、結局のところ、加藤はその「民 意」を巧みに取り込めなかったわけである。それはともかくとして、「加藤の乱」以降、インターネットと いう政治的言説空間における政治的言説は無視できない存在となった。 インターネットは、 HPのサイト上での意見表明やブログ、また掲示板やブログへの書き込み、メーリ ング・リストやメール交換による意見のやり取りを通じて、政治的言説の公共空間を形成している。この

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42 Memoirs ofThe School of B. O. S. T.ofKinki UniversityNo.21 (2008) ように、インターネットを媒介にした理性的な政治的議論は、インターネット・デモクラシー (intemet democracy)の最たるものである。中でも、所謂「三八六世代Jが中心となり、韓国のネット新聞(市民メ ディア)である「オーマイ・ニュース」の政治的言説に対する反響が、慮武鉱政権を誕生させる決定的契 機となったことは、インターネット・デモクラシーのブリリアントな成果としてよく知られている(鈴木 健二 2007)。 また、注目すべきはブログである。一部の政治指導者や政治家もブログを開設している(芹)112007)。 しかし、ネット上において影響力をもっブログは、アクセス件数が極めて多いプログのカリスマというべ き存在であるアルファ・ブロガー (alphablogger)によるブログである。そのアルファ・ブロガーのうち、 政治的論説を張るアルファ・ブロガーは、一種のオピニオン・リーダーの役割を担っているともいえる。 人々が自らの見解や意見を形成するために、まず、アルファ・ブロガーが当該要件についてどのような見 解や意見を示しているか、それを参考にする。こうして、新聞の社説やオピニオン雑誌の論説のみならず、 草の根のアルファ ・ブロガーのブログが発する政治的言説が世論形成に一役買うわけである。例えば、日 経 BP社のサイトに「立花隆のメディア ソシオーポリティクス」というのがある。これは純粋なブログ= 日記というよりも、立花自身がいうように「時々刻々のメディア報道(インターネット情報、私的情報を 含む)をベースにかかれた日本社会論、日本政治論」をサイト上にアップしたものである(立花 2006)。 立花隆というピック ・ネームがアクセスを呼び、 影響力のあるアルファ ・ブロガーによる政治的論説のブ ログとなっていた。 アイディアの政治が国民の世論を資源として動員する上で、インターネット・デモクラシーとの関係は 重要である。今後、政権担当者や政治家および政党は、いかにネット上において国民の世論を見方に付け るか、インターネット・ポリティクス (intemetpolitics)としての、その政治技法が求められてくるであろ フ。 ネット上の掲示板やブログなどへの書き込みは、匿名ということもあって、不特定多数の人が自由に自 分の政治的言説を発表し、議論を展開しえる一つの政治的言説空間である。しかしながら、注意しなけれ ばならないのは、「加藤の乱」以降、ネット上の書き込みに、パンドラの箱を開けたかのように、誹誘中傷、 罵警雑言、偏見、差別、意図的な事実誤認、非寛容な態度、誤解と誤謬などが少なくない光景となってい る点である。とりわけ、「左翼J というレッテルを貼った人や、リベラルな人、 NGO・NPOスタッフ、さ らにメディアでいま話題となっている民間人に対して、多数の匿名者が右翼的な激烈な言辞をもって徹底 的に容赦のない攻撃の集中砲火を書き込む「祭りJ、あるいはまたそれらの人々のサイトに攻撃をかけてサ イトそのものを破綻させる「炎上」が行われている。しかも、ネットというバーチャルな空間を超えて、 掲示板に攻撃対象の顔写真や経歴、住所、家族構成、そして電話番号を掲載した上で、そこへ電話を掛け て攻撃(1電突J)するように唆す(毎日新聞取材班 2007)。近藤瑠漫と谷崎晃は、次のように「ネット右 翼Jの本質を指摘している。 ネット右翼はしばしば「国家があってこそ個人が存在できるJという意味の発言をするし、ナイーブ な心の「つっかえ棒Jを求める過程で、国家やそれを支える歴史や伝統というものに自分を投影させる ことの快感を得る場合が少なくない。リベラル系が主張する、自立した個人が集まって市民共同体とし て成立する国家も、国家を否定していることにはならないのだが、ネット右翼はそれを国家権力批判、 国家否定、アナーキズムの一種として解釈し、左翼系の言説と同一化して攻撃するのだろう(近藤・谷 崎 2007: 238-239)。

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このような「ネット右翼Jの国権主義的傾向もしくはナショナリズムに関連して、萱野稔人の「国民は、 生存条件の悪化をまえにすると、それが保障されてきた根拠であるナショナル・アイデンティティにすが りつくことでなんとかその悪化から自己を防衛しようとするJ(萱野 2007: 99) という指摘を引き合いに 出すと、萱野の指摘が先の香山の論理構成とオーバーラップしてくることに気付く。自己を国家と「自己 同一化」すること、それも強い国家に「自己同一化」することによって、何か強大な権力を手に入れたか のような一種の錯覚に陥る。しかし、その錯覚は錯覚で終わらないところに注意しなければならない。バ ーチャルなネット空間において、「祭り」や「炎上」という戦果が上がるたびに、強大な国家権力を背後に した、その権力の濫用の凄みにリアルさを実感できる。いまや、幼児的ないじめの悦楽が、権力濫用の陶 酔へとエスカレートし、いわば麻薬的な快感に酔い痴れるのである。 問題は、こうした「ネット右翼」が小泉を支持していた点である。「ネット右翼」は小泉と「自己同一化」 することによって、自らの正当性を担保しようとした。「ネット右翼Jは、伝統的・行動的右翼とは異なる ものの、小泉の攻撃的な蛮勇さそのものに強く惹かれるのであろう。そして、カール・シュミット「友一 敵理論Jになぞれば、「友」の小泉の「敵Jは「ネット右翼」にとっても「敵」であり、その「敵」の「友」 も「敵」となり、「敵」は磁滅しなければならない対象となる。かつて YKKと呼ばれ、小泉の盟友で、あっ た加藤紘一や山崎拓は、いまや小泉の「敵Jであり、加藤や山崎は「祭り」の対象とさえなった。 それでは、「ネット右翼Jに支持された小泉は、その「ネット右翼Jを助長したのであろうか。これは答 えに窮する難しい論点であるが、結果として、少なくとも、小泉によるパトスの爆発は、「ネット右翼Jの 「衝動」を発火したともいえるであろう。また、ミシェル・ヴィヴィオルカが「暴力を振るうことによっ て、個人はひとつの論理を確立あるいは促進させて、その論理の中でますますよく主体となるのであるJ (ヴィヴィオルカ 2007: 292) と指摘するように、「ネット右翼Jが「祭り」や「炎上」という暴力を振る うことによって、不健全なナショナリズム (badnationalism) という一つの論理を育て、かつまた新保守主 義 (neo-conservatism) に共鳴したといえる。尚、小泉の後継となった安倍晋三の政権掌握は、「ネット右 翼」からすると、自分たちが押し上げたものと認識されていた。 しかし、「ネット右翼」が期待したほど国 権主義的な政治を実行しえず退陣した安倍に「ネット右翼」は失望の念を禁じ得なかった。 見知らぬ不特定多数の衆目が見つめるネット上に形成された「闘技場」において、匿名というシェルタ ーに守られながら、なかば無防備の 「敵」に対するいたぶるような連続攻撃は、確かに社会的いじめに値 するものであり、卑劣な人権侵害であり、かつまた表現の自由を濫用する行為であるが、そのような一種 の暴力を非難するのはたやすい。しかし、この点を批判し、実名で発言するネット文化を根付かせること をミッションに掲げる日本の「オーマイ・ニュースJは、そのサイトが「炎上」した。かつてルネ・ジラ ールが指摘したように、「暴力は、一一一異常な模倣効果がある。人々が暴力を制御しようとつとめればつと めるほど、彼らは暴力に餌を与えることになるJ(ジラール 1982: 49)。韓国では匿名の書き込みに対する 規制をはじめたけれども、その規制がむしろ「暴力に餌を与えるJ点が危慎される。 根本的な問題は、いままで省察してきたように、こうした攻撃的な「ネット右翼」が発生する社会心理 上のネジレである。しかし、注意深く省察しなければならないのは、その心理にはもう一つ底があり、い わば二重底として構成されている点である。二重底の深層におけるネジレとは、ネットにおける匿名空間 そのものが、匿名の別人格の形成を容易にするため、そこから攻撃的な別人格が形成されていることであ り、かつまた攻撃的別人格が模倣されていることである。 尚、こうした「ネット右翼」と野合する政治家の不気味な意思に注意を払わなければならない。ここに、 国民世論を動員するために政治的フレーズを駆使するアイディアの政治が放つ思いもよらぬ負の波及効果 というべき危うさがある。政治の世界から「理性の政治 (politicsof reason)Jは遠のくばかりである。

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44 Memoirs ofThe School of B.O. S. T. of Kinki University No. 21 (2008) 6.アイディアの政治の政治的学習 最後に、小泉政治が提起したアイディアの政治について、如何に学ぶのか、その政治的学習についてで ある。但し、ここでいう政治的学習は、学校教育や社会教育における政治学習や市民性教育のことではな い。政治的学習 (politicalleaming) とは、政治的 ・政策的前例 ・事例から教訓導出(Iessondrawing)を試 み、自らの実践へ生かすための学習である。 小泉の政治的遺産 (politicallegacy)を相続しつつ、憲法改正に着手してその名を歴史に残す壮大な野心 を抱きながら首相の座に就いた安倍晋三は、小泉が行ったアイディアの政治における政治的フレーズの魔 力の虜になったかのように、「美しい国J・「戦後レジームからの脱却」・「憲法改正」 ・「再チャレンジ」を連 呼した。しかしながら、その政治的学習は模倣(imitation)の次元であった。小泉構造改革の負の遺産と いうべき格差や貧困問題、地域経済の疲弊への対応や、冷え切った中国や韓国との外交関係の修復という 課題の前に、安倍が「美しい国」などの政治的フレーズを使えば使うほど、その政治的フレーズは現実と の事離を来たし、空虚な響きさえ漂った。小泉が使う政治的フレーズと安倍が使うそれとは質的に異なっ ており、安倍は自らの政治的フレーズに自己陶酔した。安倍政権を覆う「共通の空気Jは「危機意識の欠 如J(上杉 2007: 94) と指摘されるが、政治的フレーズに自己陶酔することの危険性を安倍政権は気づい ていたのだろうか。2007年7月の参議院選挙を分析した蒲島郁男と大川千尋は、無党派層や自民党支持者 から、憲法(改正)が上位6位以内の争点に入っていなかった点を明らかにした(蒲島 ・大)112007)が、 要するに、「憲法改正」や「戦後レジームからの脱却Jなる政治的フレーズは一人歩きしていたといえるの。 その参議院選挙では、「美しい国Jが「美しい星」に変わり、「美しい星Jとしづ新たな政治的フレーズを 起死回生のツールとして用いるものの、自民党は参院で過半数割れという歴史的惨敗を喫した。実は、COP3 以降における国際的な環境レジームの構築に安倍政権がリーダーシップを発揮しようとしたが、日本国内 における温暖化効果ガスの削減に誇れる実績に乏しく、COP3の京都議定書で定められた削減目標(2008・12 年に 1990年レベルで-6%)の達成どころか、削減目標に対し+13%前後に達することが必至であり、しか も温暖化問題は「環境外交Jにおける主戦場になっているところで、にわかに ドイツのハイリゲンダム ・ サミットで「美しい星」を掲げても、それは黙殺に等しい扱いを受けた(上杉2007)。 他方、加藤紘一は、「政治家とは、 言葉の生き物である。/言葉によって数億人の人を動かすことができ るし、逆に言葉によって数億人を敵にまわすことがある。それだけの魔力、カリスマ性、いろいろな力を、 政治家の言葉は持っているJ(加藤2006: 34-35) と謙虚に総括している。また、小泉政治の終わりととも に、先に触れたように、政治家が発する政治的フレーズに対して、大獄がいう「飽きJが生じているとい える。そうであればこそ、われわれは、政治的フレーズを駆使したアイディアの政治としての小泉政治を 冷静に省察し、そこから幾つかの教訓を導出してみよう。 i)

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サウンド ・バイトJが入った政治的フレーズは、それを発する政治家の資質、とりわけ「政治的プ レゼンテーション技法」の力量によって大きく左右される。u)政治的フレーズは、政治的アイディアと 政策アイディアとリンケージしていてこそ、その効果があるのであり、かつまた国民世論の熱い支持、並 びに時代と社会の要請に合致したとき、その強みを増し、ここにポピュリズム的なアイディアの政治が出 現する。iii)政治を決定する要因として、改めてアイディアの政治の重みに気付くが、アイディアの政治 を通じて、政策転換およびレジーム転換をはかるとき、政治制度の援護が必要である。iv)小泉一安倍政 治を経験したことにより、テレビを通じた「ワンフレーズ・ポリティクス」に「飽きJが生じているもの の、今後、新しい「売れる商品Jとしての「ワンフレーズ・ポリティクス」の再来に対して冷静に対処す る必要がある。v)

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ネット右翼」と新保守主義に立脚する政治家との野合には、「理性の政治」と熟議民 主主義の観点から、新たな注意を要する。それからアイディアの政治は、「理性の政治」や熟議民主主義と のリンケージは可能なのだろうか。その可能性についての検討は別の機会に委ね、これを今後の課題とし

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てよう。 それにしても、「政治は何によって決定されるのか?J。われわれは、その決定要因を見付け出すことで 満足してはならない。サミュエルズが指摘するように、「歴史は選択肢を限定もしくは方向付けるものでは なく、むしろ選択の幅を『広げて』さらに可能性を創出してくるものJ(サミュエルズ 2007: 368)である 以上、政治は制約条件を広げ新たな可能性を創造する能動的な活動であって、その点、アイディアの政治 は極めて周到な創造的・能動的活動といえる。そうすると、正しく、政治は政治によって決定されるので ある。 参考文献

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Kazuhiro Nitta1 We recognize that the weight of political language increases in the political word. And, we recognize that the political language came to have the serious meaning. Especially, when we watch Koizumi Politics, we can point out the importance of politics of idea to use a political phrase,“one-phrase politics", as one side of“new politics". This paper examines such politics of idea as“new politics". Therefore, this paper examines about the important point of argument in politics of the idea;“disadvantage politics" and politics of the idea, TV politics and “theaterpolitics

Intemet politics and “new right wing", political leaming of politics of idea, that was submitted a problem by Koizumi politics. So far, politics is sticking to the question of“What is politics decided by?" Then we will come to present the answer of about this question丘omexamination of politics of idea.

参照

関連したドキュメント

Rao eds., Dominance and State Power in Modern India: Decline of a Social Order Volume II, Delhi: Oxford University Press, pp. 239, dated

たかもしれない」とジョークでかわし,結果的 りこめたシーンである。 ゴアは,答えに窮する

供することを任務とすべきであろ㌔そして,ウェイトの選択は,例えば政治

アメリカとヨーロッパ,とりわけヨーロッパでの見聞に基づいて,福沢は欧米の政治や

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第四。政治上の民本主義。自己が自己を統治することは、すべての人の権利である

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政治エリートの戦略的判断とそれを促す女性票の 存在,国際圧力,政治文化・規範との親和性がほ ぼ通説となっている (Krook