中國における末法思想隆普の一駒
新登現窄澗谷太平寺摩崖刻経︿金棺経﹀
の 研 手島 究
一
真
はじめに 河南省沁陽市にある窄澗谷太平寺摩崖遺跡が︑筆者の現地調査に
お い て
〈金
棺経﹀を含むものであることが判明したことは︑別稿に
て縫表したところであ・竺金棺経とは︑後述するように︑北朝の系
譜を引く惰朝の初期︵南朝の後梁および陳も併存していたため南北
朝時代の最末期でもある︶には成立していた中國撰述佛典の﹃佛在
金棺上囑累綬﹄︵以下︑金棺囑累経と略穂︶を基本形とし︑やがて初
唐期以降には内容の増廣を経て﹃如來在金棺囑累清浄荘嚴敬稿緩﹄
以(下︑金棺敬祠経と略稽︶と題し愛容を遂げたものまであり︑本稿
ら ロ ではこれらを穂じて金棺繧と礪している これらの経典中や諸種の
経典日録に金棺経の略構は見えないが︑ここに報告する窄澗谷太平
寺摩崖には︑石刻経文に付された刻記に︸金棺経Lの呼構が遺って
おり︑當時この略柄が用いられたことが判る..そこで本稿では︑こ
れら複敷の経典の総稽を金棺経とし︑窄澗谷太平寺摩崖遺存の経典
中國にお±る王法思想隆百つ一邑早r島︶
に つ い
ては︿金棺経﹀と山括弧を付して記すこととする︑
本稿においては︑既知の金棺経経文と新翼現︿金棺経﹀経文との
比較を通じ︑複敷ある金棺経経文中における︿金棺経﹀の位置づけ
を明らかにすることと︑先の拙稿において課題として掲げていた當
該遺跡における本経の意味の鮮明化を圖ることを目的としている.︑
註
(=拙稿﹁中國における末法思想隆昔の一勧 新登現二金棺経゜﹁
所刻石窟における刻記の繹讃研究 =﹃立正大學大學院紀要﹃
第一二⊥ハ號︑ ム下和川二年.二月︶.
(二D傳世文献では︑初唐の道宣一.四分律捌繁補閾行事紗﹂の序に
r金棺経﹂と出るのが最占と見られる一
経録に見える金棺経
中國の佛教史上において成立した各種経録における︑金棺経の紹
四ヒ
後に見るように︑本経の現存最占のテキストは階・開皇九︵五八
九︶年﹇章仇禺生等造経像碑﹇に刻石されたもので︑そこにおける
経 題は﹁佛在金棺上囑累経一である.ところが現存経録を見渡すと︑
最も早く本経を紹介する階の=.法経録﹈〆.\は﹁敬幅経.一となってお
い㌧一章仇碑﹂には見えない.敬稲〃の題を冠している .福/字は
圓を照 襲=用貞
.元
新 定 澤 揺
目
録
舌 元
ttt
呉
ピ と
巻
八
兀録
法経﹁服経目録︵法経録︶=二五九四︶巻四r敬禰経一巻﹂
彦珠﹃獄経目録︵仁壽録︶°﹁二六〇六︶巷四﹇敬幅経一巻一
道宣﹃大唐内典録﹄ニへ六四︶巻一〇﹁敬稲経﹂﹁金棺囑累竺
︵いずれも一径扱い︶
静泰﹇.撒経目録︹静泰銀二⌒六六六︶巷四﹇敬緬経一巷一
明栓等﹃大周刊定朕経日録︷人周録ごニハ九五︶径一五三工棺
敬幅碗竺巷一
知昌升﹃開元鐸教録︵開元録ここ七=.∩ご巷一八﹇敬稲経一巻﹂
︵具題を﹁如來在金棺曙累清高荘嚴敬幅経﹂とし︑内典録の
一金棺囑累経一巷﹂は法経録の一敬福経﹂と同lであるとす
る 介は次c?.ご
らi(ば
i
;:
本経中に頻出し︑象徴的な.亘齢レ一いえるものであるが︑富初の経題
から僅か敷年にして新たな経題が登場したことは︑何を意味するの
であろうか.
そもそも金棺とは︑部派︵小乗︶浬繋経において︑68陀滅度の際
の葬法として澤尊自身により示されたものであった.西巫日の白法祖
謹﹂佛般泥氾経﹂︑後秦の佛陀耶含・保.一佛念澤﹃佛︑説長阿含経.一一遊
行ぷ﹂︑東昔の大謹﹁般泥川経.=︑束青の法顯羅一.大般浬葉経゜が︑
偏棺を用いた佛陀の葬法を博える経典として傳來していた これら
を踏まえて現れたのが︑南齊・曇景諜と柄する﹂.摩討摩耶経﹂一であ
る ﹃摩訴摩耶経︑=は︑人滅して金棺に納められた稗迦が兜率天よ
り降下して嘆己︑﹂悲しむ母摩耶のために︑今一度金棺より起き上が=︑
母 のために説法をしたという話を傳.えるものである..また同経には︑
佛滅後一五〇〇歳をもって佛法は滅蓋するとの記述を含む敦えが説
か れ て
おり︑中國における末法思想の初期的展開を見ることがYき
る言典でもある
金棺穏の話柄には︑後拐の現代硫諜にも欄れたとおり︑一﹁摩詞摩耶 によって初めて.不シ・\れた︑佛法滅蓋に際して龍.仁が一切緩藏を
持し去るくだりを前提とした描篶があるのであるが︑實は金棺経に
稗尊の母たる摩耶は登場し﹂︑与い それどころか︑﹃摩詞摩耶蒋﹂一.\は
鐸尊が一旦入滅された後︑それを悲しむ摩耶を慰める形 .﹂澤尊が再
生し︑教えを垂れたの一r︑・あったが︑本経では稗尊が漂葉について説
四
ノ
Y
きおえてはいるものの︑その入滅については言明されず︑澤尊自ら 金 棺 に
入るような銭述がなされ︑その直前に金棺の載る車に坐して
説法した︑という設定となっている つまり金棺経では︑一摩詞摩耶
経﹄で最大のテーマとされていた人滅後の再生説法の描寓は捨象さ
れ︑重視されていない︑ということは︑本経撰者は當時重視されて
いた湶繋の教えに本緩が關連しているAl強調することを主たる目的
として︑敢えて.金棺〃の語を緩題に冠して入滅直前の教えV﹂ある
ことを示した︑と考えられるのである
また本経の趣旨は︑信俗による葛経・造像の儀軌や原則︑篶経・
造 像 に お
ける金銭授受の是非や在り方を説いて︑得福の道を示すこ
とにあったが︑それは當時の中國における寓経・造像活動の流行し
た世相を反映したものと見られる一この趣旨をより正確に表した経
題として新たに﹁敬幅経﹂が用いられた︑ということになろう.
すなわち︑稗尊の入滅と再生説法を象徴する.金棺を會座とし
て いた一.摩詞摩耶緩﹄は︑佛教界に衝撃を與えたと見え︑後の梁・
僧祐﹃澤迦譜=︑梁・僧呈及實唱等﹁﹁.緩律異相﹂︑唐・道宣 .繹迦方 志﹄︑唐・道世﹁.法苑珠林﹄などに度々引用紹介されることになる
そこで﹁.摩詞摩耶経rによって周知されたこの金棺ウの語を冠し
たことは︑金棺経にとって斯界の耳目を集めるには有放であったろ
う しかし︑rg在金棺上囑累経﹂という経題は︑﹁佛が金棺の上に
在って︵後の者に∀ゆだねる︹囑・累ともに︑ゆだねるの意︺﹂とい
中トセ:
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う外観的な特徴を示すものであったが︑経の趣旨を伝えるものでは
なかったため︑惰の﹃法経録﹄のごとく﹁敬幅﹂の語を冠した呼穂
へ
の愛化が早い時期から起こったのではないだろうか︑
註
⌒=法経録の﹁敬祠経﹂と﹁金棺囑累経.﹇との關係については議
論の除地がある︑と侯旭東氏は指摘している.侯旭東﹁.ハ敬幅 経︾離考﹂︵方廣錯︹亡編︺﹁藏外佛教文献.一第四輯︑北京二示
教文化出版社︑一九九五年=一︹︶
⌒二︶初唐︵武則天期︶の浬般木愛碑像における﹃摩詞摩耶経﹄の影 響 に つ い ては︑安田治樹二唐代則天期の浬般木愛相について︵上︶
︹下>1 ︵U美學美術史論集﹄第二集 第三輯︑成城大學大學院 文學研究科︑一九八一年九月 一九八 .年六月︶︑岸田悠里﹁中 國における浬繋愛相圓と﹂︑樗迦譜.=﹂二龍谷人阜大學院丈學研究 科紀要﹄第三五集︑二︵と一.一年一二月︶に考察がある また岸 田悠里﹁敦煙一︑﹂流行した﹃佛母経= 疑経の文化的受容の一端 L二﹁龍谷大學佛教學研究室年報﹄第一八號︑110一四年三月︶
は︑敦但壁書における金棺出現圖が︑敦捏文散に遺る﹃佛母経﹂
に依擦したものと考察する.
口﹁﹂
法華之化研先⌒第四ー六号二
11 ︿金棺経﹀の刻石趣旨
前稿において︑窄澗谷太.平寺摩崖の石窟刻記に記された﹁精誠﹂
の
語に留意すべきことを掲げていた一すなわち刻記では﹁精誠の檀
越.一とあって︑沙門貴法による石窟造管に寄與した供養主たちを︑
そのように表現していたのであった
﹁精誠﹂の語は︑本経においては二箇所に現れる︵後掲の傍謹も参
照されたい二.
「もし精誠のものであるならば︑︹寓経や造像の供養が︺敷少なかっ
たとしても︑その祠は甚だ多いのである﹂
「もし■経・造像に精誠・敬心をもってすれば︑経の一掲であって
も︑像の栂指﹇のごとき﹈であってもその幅は最大である..﹂
精誠とは︑謹註に示したとおり︑三県心を込めた﹂﹁誠心誠意の﹂
という意味であり︑本経においては︑それが宮経・造像の際に最も
大切な要素であることを︑強く主張するのである︐
一般的にいえば︑刻記での﹁精誠﹂の表現は︑石窟造螢に寄與し
た多くの民撒に封する形容と賛辞として用いられたものであろう
約一二〇人が刻された供養主の名は︑判讃できない箇所が半ば以ヒ
であったが︑少なくとも﹁像主﹂の肩書きが判讃できる三〇名ほど
の箇所に世俗での肩書きを拉記したものは皆無であった また︑と
Vに高貴の者が閲與したのであれば︑それは石窟刻記自髄に言及が
h
あっておかしくないが︑それも無かった 同刻記における﹁精誠﹂
の表現は︑
精誠の檀越︑珪口■口■口口著︑共に松心を結び︑山を跨ぎ石
ニま けニ そタごしニリヅ ニのバ
に構え︑道を愛おしみ金を傾け︑ 餉は四事を供され︑樹果は
ニひゃ ねソころ
とある一精誠の檀越︑珪某﹂に用いられたものである..この檀越が ロ ざ 彌よ深なり.
石窟造管に際し多大な功を積んだことが窺われる一文であるが︑そ
こに.眉書きは記されなかったようである とするならば︑この造螢
に與った他の一二〇名の者たちも︑ほとんど無名の庶民であったか︑
あるいは.肩書きがあったとしてもそれを記ン↓三︑らい思考の中にあった
というべきであろう マニ
唯一の例外は︑﹁大随皇帝﹂の柄號刻字である しかし皇帝は直接 の 檀 越 ではない.これと前後する時代や︑他の地域の遺跡には︑﹁上
爲皇帝陛下︑下爲七世父母﹂といった定型句的な供養文を頻見する
が︑ここにはそれも無かった.珪某の一文の直前に︑
大遁皇帝︑瑞託の人君たり︑光を正化に紆べ︑金輪を乗御し︑
マヘロ ノゴ さミエマへ ずトごノ アモつ
聖道を閾弘め︑衰雲を屏渇り︑舎利を感徴し︑聲諦げ遠く聞
こゆとあったのが︑陪帝に言及した一文である ここにおける陪の文帝
は︑北周末期の佛教廃棄から佛教尊重へと國全鵠の政教策を一八〇
度方針醇換し︑佛教に基づく政治を行う韓輪聖王に擬えた表現が爲
されている︐﹁金輪を乗御﹂する者とは︑轄輪聖王のうちの金輪王を 指す.韓輪聖王である君主が佛教の重興をめざして政を執h.. 1精
誠﹂の檀越が︿金棺繧﹀の説くごとく正しい供養を行って正當な幅
徳を得る.石窟開墾の由來を記した石窟刻記は︑このことを鮮明に
することも併せて意圖していたA11.IIZい得よう
よって當寺における本綬刻行の趣旨は︑陪の文帝による佛教興隆
政策の治下にあっても︑前代に強まった末法の危機意識を忘れず︑
形 ば
かりの供養に走りがちな風潮を批判し︑真摯なる精祠の下での
供養を追求すべきである︑との思考にあった いわばこれは︑佛敦
42團内部における自律的な志向を示すものであったと見られるので
ある.
註
a︶珪姓については︑﹁源出は不詳︑稀な姓氏であるが︑河南の筆
︵宰義市︶にある﹂との記事が︑インターネットサイトの﹁百家
姓大全﹂に載っている https:\/xing.9. 11cha.comfxiiig︳珪゜
hlml ︵二〇110年二月一口時鮎︶
中國における末法思想隆青の一勧︵手島︶
三 金棺経の諸テキストについて
〔1
〕 金棺囑累経
惰・開皇九︵五八九︶年﹁章仇萬生等造経像碑﹂刻本
碑に記される具名は一佛在金棺上囑累蒋﹂
A 中國國家圖書館所藏拓本
碑文︵経丈部分︶の拓本二種のうちのらつは中國國家圖書
館所藏品で︑少なくとも=.つに断裂した拓片のうち二個のも の である 北京圖書館金石組﹇編﹈﹃北京圖書館藏中國歴代石
刻拓本漉編︸︵鄭州 中州古籍出版社︑一九八九〜一九九一
年︶佑弔⊥ハ鼎川戸ト収録ぷこれ ︵圓一参昭ご︑︷r同 1 −:r﹈九い糎⁚︑古見八一糎⁚レ一
ある.東魏の刻とされるが︑陪の誤りである︑現在︑同圖書
館の運菅するインターネット上のサイト﹁文津﹂で拓本の簡
略な紹介とサムネイル書像を公開している.
http:/\Iind.nlc°cn/search︐showl︶ocDc・tails?docld−−53786417
10:340551 05 1 cS︵t cl at aSource ︵二〇二〇年一月二〇日時鷲︶
その説明によれば︑この拓本は清・乾隆年間の華拓とされ
るから︑碑はすでに清代以前に破断を被っていたことになるt一
後掲Dの底本はこれであり︑本論文においてもこれを比較表
法茎文化研究︹第四ー六︐/lb ﹈
中の︹二の主底本とする.
B 憂潜中央研究院所藏拓本
もう一つの拓本は豪湾の中央研究院歴史語.一..口研究所の所藏 品で︑こちらもAと同じ拓片二個のものである︑享拓時期は 不明.中央研究院敷位文化中心の運菅するインターネット上
の
サイト﹁典藏藁湾﹂において大万の文字が視認できるサム
ネイル書像を公開している 本論文では︑副底本とする一.
−httPS∵catalo︐g;digitalarchixi es.t Nl︐︑item・OO\l313f﹇3cl・2a.lnml
︵碑のL半 二〇二︵︺年・一月二〇日時鼎﹂
..三二︶ひ∵∩三︹二︵︶蛤゜︵=石竺一三︐︵.三ぐc訪゜tw ilemOO il!l Ilcl 2b.html
︵碑の下半 二C一︹︶年l月l iO日時鮎︺
o魯迅筆録本
魚目迅が緩﹂丈と刻記を筆録したもの︵﹃魯迅日記=丙由−二 九一六年︶日記﹂一﹁月二六日條にいう︑留黎廠︵琉璃廠︶
で購入した﹁︑陪石経残石一枚﹂拓本によると見られる︺で︑
﹁章仇再生造経像拝全桔経一と題して北京魯迅博物館・上海魯
迅紀人︐心館︹編一﹁魯迅輯校行刻手稿﹁第.一函第五朋︵上海 十 海 書 書出版社︑ 一九八﹂年じ月︶に収録 これによれは︑石 高じ尺八寸︑廣一.︐尺 配置は︑碑陽に佛教造像 碑陰に経名
[行︵筆.者補足︑此一丈中以下同様二吐名ドに五人の供養主
名︶︑経文が一六行で行四八字︵経文最終行末尾に一人の供養
・E名︶︑題﹀U 1行 cすなわち一二人の供養・王名ご ︐碑側に︑|〃
名が.一行⌒すなわち各行一人の供養主名︶︑年月が一行﹁大陪
開呈九年歳次己酉=二旦一詑功一⌒魯迅は十二月とする︶︑行
の文字数は.不等.いずれも文字は正書一山東泣上仁家海の.一︑
官廟前にある︑とする︵當時二︑ぴお拓衣−によれば︑経文の一
行文字敷は︑實際には四八字に前後する行もある.
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編 蔵外佛敦文第四
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北 以宗教出文化
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侯 旭 東 氏 整 理 本
と記載⌒金棺敬稲経に基づき補記︶されているが︑行文字敷 から見て︿須菩提==﹃﹁世尊何者是法?﹂佛l三口⁝⁝﹀︵本表 一八行日︶一.\あったと推完される.これは﹇二﹂の太平寺摩
崖本く金棺経Vと合致することを意味し︑原文の近似性を指
摘〆︑sきることになる なお同氏の論考はこの経を扱うに當っ
て 必請の宮作 Yyあり︑筆者も大いに碑益されたことをここに
記して謝す
〔I
D
〈金棺経>
E 河南省焦作市沁陽市窄澗谷太平寺摩崖︵眞谷寺︶造像刻経
遺跡刻本
この刻本は︑二〇一●年六月に筆者が行った現地調査にお
いて獲見した刻本テキストである
常遺跡の概況については︑すでに國家文物局︹主編︺・河南 省文物局︹編制﹂﹁中國丈物地圓集 河南分朋=︹北京 中國
地圖出版社︑一九九一年一二月︶二〇九頁﹁窄澗谷太平寺摩
崖﹂の項︑および河南省文物局﹇編﹈﹁河南省文物志﹂︵北京
文物出版社︑二〇〇九年九月︶四六五ー四六六頁﹁窄澗谷太
平寺摩崖﹂の項として記されるが︑この︿金棺緯﹀に關する
三口及は全く無い.
筆者による當遺跡調査の概要は︑すでに拙稿﹁中國︿中原﹀
巾國における末法思轡隆呈あ一駒三ジ島一 地域北朝陪唐時期佛敦石刻調査概報ー平成l ︵2010︶年度第一次現地調査における基礎的情報1一︵﹁法華文化研究﹂第四l!號︑一!︵︶ I六年三月︶で報告したが︑このへ金棺経﹀摩崖刻蒋のある下佛洞石窟・刻記に闘する詳細な報告と考察は︑本論レニ封を爲すものとして﹁中國における末法思想隆苦の
一餉−新登現﹁.金棺緯﹂所刻石窟における刻記の澤讃研究
﹂二立正大阜大撃院紀要 第一.一六號︑令和:! c.10.10︶
年三月︶にて公表した そこにおいて︑このへ金棺経二
綾刻の時期については︑石窟開整と同時期であって︑陪の開
皇一五⌒五九五︶年秋以降〜仁壽二︵六〇ID年前後と推定
した よってこの刻経は︑﹇l︶が刻まれた開皇九︵五八九︶
年よりト年前後を経た時期のものということになる
なお先の拙論において︑此庭の石窟刻記が﹁︵道光へ河内縣
志﹄巻二C・金石志上に﹁陥窄澗谷太平寺残碑﹂として取り
上 げられていたことを紹介した そこ一.yは彼の石窟刻記に績
けて︑この︿金棺蒋﹀刻経に係る刻記が︐連の文面のように
採録されていたが︑雨者は匝別されなければならないもので
ある 前の拙稿で詳細には紹介しなかった刻経の刻記の内容
は︑後掲の比較表に掲載した.
互三
法華工化研究︹第四卜・冷膓
〔三︺金棺敬幅経
I 11種のテキストあリ 浮荘嚴敬頑経﹄.
い
ずれも具名は一如來在金棺囑累清
F 陳西麟游慈善寺石刻本
この刻本は︑當該石経冒頭に﹁如來在金棺囑累清洋荘嚴敬
幅
経 一巷﹂と記す︐
か つ て
「「考古﹄︵一九九ヒ年第一期︶誌上で常青氏により経 文 が報告された︵﹁陳西麟游縣慈善寺南崖佛寵典︽敬幅経︾的 調査﹂︶が︑それにおける脱文や不十分な繹文を修止した東野
治之﹁☆芯善寺石窟所見︽敬祠経︾銘刻研究﹂⌒西北大學考古専
業・日本赴峡西佛教遺迩考察團・麟游縣博物館︹ts︶ U慈善寺
與 麟漠橋 佛教造像窟寵凋査研究報告﹄へ中丈・簡憤字︶︑北
京 科學出版社︑二〇〇二年七月︶が公円された.シ︑﹂らに同
氏 の
「陳西省麟游縣慈善寺石窟所見﹇﹁.敬幅経゜1銘刻の研究﹂
︵東野治之﹃大和古寺の研究﹄︑東京 塙書房︑二〇一一年一
二月︶においては︑同氏前著で中文翻謹の際に省略されてい
た内容を掲載し︑且つ繹文を原刻文字に即した形にして再報
告されたその原資料は︑すでに四割ほどの文字が残損によ
り失われていたものである
束野氏の論考は︑常青氏が﹁前業﹂と判讃した字句を﹁前
二芸
すなわち二剛葉▽と讃み︑前葉とは前世の意〆.・︑人宗李
世民の﹁世一字の避諒により葉の疋字中の世を避けて﹁芸二
に改めたもので︑:Y脈から判断して﹁業﹂ではないヒされた
また﹁民﹂字の第四書の脱落があることも墨げられた これ
らの避謹は︑顯慶二ニハ五七︶年卜二月に﹁庚午︑改昏葉
字︒一と斐された詔によるものであるから︑本刻繧の鐘刻時期
はここが上限であるとされた︐また下限については︑﹁初唐の
風
韻を備えた引き緊った書風や︑武周新字︵筆者補足 則天
文字の最初の制定は載初元︵六八九ー六九〇︶年で︑以後敷
文字が加増され︑公的には帥龍元︵七〇五︶年に魔止される
まで使用された︶が全く用いられていないことを考慮する
と︑六九︵一︶年ごろ以降には降らないと見るべきである 顯慶
二年の改字が﹈般に浸透するまで︑若十の時の経過が必要で
あったろうことを勘案するなら︑この銘文の年代は七世紀末
に 近 いころと考えるのが妥當であろう︑﹂とされた
しかし氏が鐸讃された﹁前葉 は︑後に紹介する房山石経
本では明らかに﹁前業﹂となっている︑意味の上でも﹁業﹂
は佛教用語の﹁カルマ﹂として解され︑﹁前業.一はへ前のカル
マ
〉 すなわち過去世に作った宿業の意となり︑二削世に.1.尊を
敬わず︐鞭.に爪−善を行った﹂ことを囚として︑例えば﹁地獄
に生まれる者多く︑だに生ずる*少なし﹂という果が生じる︑
G じた﹁葉﹂字避誰の根操が失われたことになるt/また先の詔 A二機文は説くのである一すると鐘刻時期のF限は︑これを論
の 趣旨は︑﹁民口﹂﹁葉﹂という文字の構成部分に封する制約の みを定めたもの︐.﹂ある 本來の﹁世﹂﹁民﹂に封する避謙は︑
一奮唐書﹄巻二﹁太︷示本紀﹂によれば︑武徳九ニハニ六︶年六
月に李世民が玄武門の愛によって皇太子李建成を除き︑同月
甲子に自らが皇太子となって實権を握ると︑同月己巳に︑本
來の禮に從って一.世民﹂の二字を連ねるのでなければ一文字
の み
が該當してもこれを偏諒する必要は無い︑とする令を出
しているtt同年八月に高祖が退位し︑自らが皇帝位に即いた
後も同様の措置であったようで︑太宗朝の重心李世動が太宗
の諦の世字を避けて李勧と名のるようになったのは︑太宗崩
御後の高︷示の永徽年間︵六五〇ー六五五︶とされる二.薔唐
書﹂巻六ヒ﹁李動傳﹂︶.一したがって︑鍾刻時期の上限は顯慶
二
ニハ五七︶年よりもさらに時間を潮る可能性を生じたこと
になるが︑この遺跡の石窟との關係や造像様式などから纏合
的に考え直す必要があるであろう・一本稿では大まかに七世紀
の刻本と見ておく..
敦 煙 遺
書S二〇八號本︵断片一葉︶
このスタイン蒐集の寓本は︑一大正新脩大藏経﹂
中國における末法思想隆百の一賄つ仁島︶ 第八五巷・ 疑似部にも牧められており︑経の首部に當たる一紙のみで︑
題日も含め九行までを存するものである.一行字敷は最大で
1l
0字︑不均等であり︑一般に行一七字もしくは一四字とす
る佛経書寓の軌範に則っているといえるものではない.経文
は︑房山71荘刻本の首部とほぼ同じで︑一文字多い部分があ
るものの︑意味の上では違いが無い︵S 須菩提白佛言 房
須菩提白三三..また経文の前に﹁新西方胡國中來 出皇浬葉
中﹂とある字句は︑房山石経刻本と全く一致し︑その近縁性
が窺われる.
H 唐・開成四︵八111−R︶年四月八日刻房山石経刻本
.白経には︑具名として経首に﹁如來在金棺囑累清浄荘嚴敬 稲経﹂と記すほか︑経本文の末尾に﹁如來在金棺涕泣囑累
︵経︶﹂︑また﹁清洋荘嚴敬幅経﹂との異名を記し︑また経後に
は﹁佛説敬幅経一と記す
房山石経本は︑鍍刻の時期は下るが首尾整った完本である
ため︑後掲の比較表の︹三︺に用いるものである︑その拓影
は︑中國佛教協會・中國佛教圏書文物館︹編︺三房山石経゜﹂階 唐口刻経一.=北京 華夏出版社︑二〇〇〇年五月︶に牧められ
て
いる︵圖二・三参照︶
前述の侯旭東氏が整理刊定したもう一方の﹁如來在金棺囑
力五
表四窩 て︑文字を取捨選揮したもの〆︑・ある 次節の比較表は︑原資 西麟游慈善寺石刻本︑Gの敦煙遺書S二〇八號を校合本とし 累清浄荘嚴敬祠経﹂は︑この.房川石経本を底本とし︑Fの陳 法華疋化川究﹇第四f−パロど
金棺経テキスト比較表および考察 だけ忠實に反映しており︑よって侯氏による丈字の吟味につ 料聞の丈字の比較を主眼とするから︑丈字についてはできる
い
ては.1部を除き取り上げないこととする
本表の︹敷字︺とアルファベットは︑前節の諸テキストのそれに封鷹する.︹一︺と︹一1こは拓本の判讃を主としつつ︑CB
ETAのデータも援用した一句讃貼の用法や封話の獲三﹇を示す括弧の表記は︑概ねCBETAに従っており︑︹二︺の澤丈もそ
れ
に準じて表記している
文字形は︑とくに︻一﹂には異髄字が多いためユニコード等にも収められていない字形の部分はCBETAに準じて記載
した 声一﹂二二︺における閾落部分の丈字敏は︑Aの拓本から推算した
具名は﹁﹁.佛在金棺卜囑累経﹂︑本表では金棺囑累経と略構 Aを主底本︑Bを副底本︑Cを校本とした
r二
A・Bの開字・残損字を︑Cの稗文により補入.︑
[ ﹈ A・B・Cの閾字・残損字を︑Cllこの刻字拓影により補入.
( 二筆者による推定文字敷等の補記
l ﹇1.こに封して相違し︑とくに文意を異にする︑もしくは︹.一 た箇所は対象としない 次の﹇二︺においても同様とする一︶
〕[
に無い箇所.︵ただし本経末尾部分に︹.二︺で増廣付加され
⁝ 具名は不明 本表では刻経の刻記により︿金棺経﹀と68する
IOこに封して相違する箇所一該當は一箇所.﹇一︶における相當箇所は文字を一部閾くものの︑
文字列は概ね一一1と㎜二︸で一致すると判断される一
推算閾字敷から見て︑その
共通 一・
LLl
名は如來在
.金囑累清棺
浄二荘嚴
敬
![届
η1三
本表
では棺敬金
lli苗
と
略礪
n
ノに
封し
て違する所該當相箇
は
キらコ園 所
Tこ
m
口に
は
の字列文
が
有:在
する が
一・
に
は
{li{1・
い
九八七六五四三
o l空格
原資料における改行箇所
口 I原資料における残損字
∀ 取意により本義の丈字を暇定
﹇=金棺囑累経
佛在金棺上囑累圧
如是我聞二覧時佛在︵⁝中開約一四字:←︐
垂入金棺︐欲焚其身︑偏坐金棺楯上︐旦
目出涙.無量大菩薩翫︑天龍 八部等悉
皆生疑︑解︵⁝中閾約一四字:二
獄仰請決疑︐不審聴不・・二
佛≒竺﹁任説﹂
山丁隔四⁚⁚いΩけt勺ー本仁い田心桁い咋陀已いの .翻剛 ⌒仁r自初
一二﹂︿金棺経﹀
三唱存するのは経文前半一六行のうち︑
下部の五−一一文字のみ 上部は巖表面
白f亘
言
世尊今 身偏坐金 棺楯
川墜 の剥落
により閾損刻原
は竺互垣万
」
﹁11!一金棺敬福経
如來在金棺囑累清靖荘嚴敬幅繧
○新西・万胡國中來.出白E浬磐中○○○
如是我聞二時佛在拘屍那城娑羅竪樹問
説淫繋託寛︑垂入金棺.欲焚其身︐偏坐
金棺 楯上︐隻目出涙︐放光動地︑.無量
大菩薩罧︑天龍八部等悉皆生疑
()爾時︐須菩提自di/1:iu : ﹇世尊︑今欲普爲
大罧仰請決疑.不審聴不っ二
佛..言二任汝所請﹂
cじ
三㍉犬モ三 五四 三三三三元1111元二三二三
法準Z化研究︑第四L: ︵ i︵− ︶
須欝提言二世尊︐如來慨説浬葉常 樂︐
永無庁死︐何由今坐︵・−中同約一.︐.字⁝﹂
r須菩提︐吾今欲説︑汝巳請問 吾亦不
爲浬繋生苦而懐泣邪︑汝等諦 聴!善思
人芯吻﹂. 五ロムフ否局説. ︵:・由丁㎜闘□約﹈1二白ナ・:︶︐
比丘︑比丘尼︑優婆塞︑優婆夷︑善男子
ママ等所造経象悉不如法.是故懲 之一
須 菩 提 言二世尊︐何者是︵⁝中同r!? 1 1
字⁝︶等所造経象︐望顔逐意.濫取匠r︐難造
ママ
経象極多︐獲稲甚少 . 所造
難少︐獲稲甚多L
須菩提︵⁝中闘約九字⁝二輻少.造少福
つ・ J ヘニ佛言ニー善男ナ︐造経象法 嚴持淳室.香 ママ
1iiS II鹿地︐縣﹈縮哨幡芸皿 〆廿 象ン↑師︐ 別作ぺぽ
衣︐大小便利.⌒⁝中閾約九字:こ後捉筆
捉
繋之具︑篶典刊容是法︐酒宍五辛永
乖勿■︐妻室之肯︐亦﹁莫一﹇近一 之
止成一二︑︺りいハ︐.不坦け有閤閤 如口七. ︹:・中エ闘ワ約 −亦不爲湿繋 7c 永元生死
比丘︑比丘
−何者是法つL佛言
:甚少︹若有精誠
之官亦莫近乏歳
焼香
禮
拝
タメこ
佼 捉
男
十 造
,1 一:像法 須苫提自.二.︹1﹇世尊︐如來れ党浬︐繋常 力八
一
︐永無生死 何山今坐金棺楯卜︐沈涙
交流︐令四孤疑也つ二
佛..言二須菩提︐吾今欲説︐汝已請問︐昌
亦不爲浬葉生苦而懐泣耶
思念之︑吾今爲汝等説 我去世後當來末
ママ劫之 之時︐比丘︑比丘尼︑優婆塞︑優
婆夷等所蔦経造像悉不如法︐是故慾之
O須菩提三.∴ 世尊︐何*是法︐何者非
法っ﹂
佛口二.若末來川四川爪︑善男女待寺所蔦経造
像︐望 顔逐意.濫取匠亡−︐錐葛経造像
極多︐獲幅甚少 若有精誠︐所造雛少︐
獲隔甚多二
C須菩提一三﹃﹁世尊.何故造多幅少.造少
幅多?﹂
佛li:: I r善男︐ポ. 二敢治浄
室︐香湯麗地︐!︑摺i 経像之師︐別
作±Zi!ir衣.人小便利︐m体次甲人庁至︐惰云日禮拝.
然後捉筆捉盤之具︐篶典刊容 造幡華亦
爾清浄 是法︐酒肉五⁚亡永不莫近.妻室
之宮︐亦莫近之歳.二︑月六︐不得有
五五四 四四 四四四四四四四三
一 〇九 八ヒ 六五四三ニーC九 八七 六五四三
八字⁝︶.
ママ ママ
合消供養︑経象主莫論道.雇経象之匠莫 云客作︐吐旧三66布施︐二人獲幅︐不可/度
量.欲説其幅︐窮劫不諜 受吾︵⁝中関
約五字−二子﹂
ママ
()須菩提白佛三﹃﹁世尊.比丘之中作経象
師合取直不・ご﹂
dillll﹇ I ﹇不得取債直!責父 母取財.逆過
三千眞是天魔︐急離二・・中閾約二字
−三︐非我春属一﹂
ママ
ママ 旬︑諸天撃華香︐四箱︵∵廟︶供養︐肉 ロ 「善男子︐安繧案慮︑安象虚︐方圓百由 ママ 眼不見.若 造経象︑精誠敬心︐乃至一 掲
⌒ ng︶︐象=栂指︐其幅最大
ママ佛不妄語一善男子等若欲造経象︐先諦此
典.然後螢造.得幅無量﹂
善男子︑善女人等所造経象直欲解願︐所 パマ [善男子.常來 末劫五濁悪世︐四累︑
有匠手寛財.不取上勝賢善之人.直口不
中國における末法思想隆⁚百の﹈髄︑︵手島︶ ⁝口﹇論﹈■﹇雇﹈経︵三字閾︶⁝﹇蓋﹈︑受吾﹇﹈制言疋﹈口﹇眞一子一
[如﹈口/
⁝コ取直口
口﹇言冒﹁不得取憤直
H﹇尼﹈︑﹇優﹈︵四字関︶﹇是﹂︑其若還
:口小化香︐ 四
⁝善男子■
〔以
降︑摩滅および石窟三則壁崩落により
文字不明︺ 閾︑長齋最上︑.如是.経像之師眞是大士︐合消供養.経像主莫論道.雇経像之匠莫
云客作︐造チ56布施︐二人獲幅.不可度量.︑
欲説其幅︐窮劫不圭口受吾約・制︐是佛
眞子.如是精誠︑造少幅多﹂
こ須菩提白佛言二世尊.比丘︑居士之中
作繧像師合取直不?﹂
佛.言二不得取債直−・責父母取財者逆過三
千︐眞是天魔︐急離吾佛法︐非我春屡.
ママ
比 比丘尼︑優婆夷亦如是 其若還直︐
廻けm非無 旦里 何⁚以故り・山山五n山山心家︐ 川げ缶ん.十使
故善男.仁︐安経案慮︑安像虚︐方圓百
由旬.諸天撃華香.四相供養︐肉眼不見
象︐青成52︑b︐ .局︐象 巾苦丁一l/ 14# w f r−
如栂指.其祠最大
佛不妄語 善男子等若欲篶経造像︐先諦
持 此典.然後誉造︐得稲無量.
善男.+.當來末劫五濁悪世︐四駅︑善
男子︑善女人等所篶経造像直欲解願︐所
有匠手寛財 不取L⊥勝賢善之人︐直取不
五九
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七六六六六六六六六つ 九 八 t 六 ∫,1四 三 二
七一 言﹇和
者 エソ、爲師匠
飲酒︑食肉五辛之徒︐不依聖教︐難造経 ヨマ如微塵敷︐造象如微塵数︐其幅甚少︑蓋
不 足言︐劫焼之時.不入︹⁝残損約四字
⁝︶.努 日功少.不 敬之坐︐死入地
獄 主匠二人無益.諸天不祐︑不如不造
直心禮拝︑得幅無量﹂
○
「残善男子︐経主︑象主︑
損約
七字⁝︶弦悉是 過去人ピ︑但由耽著悪
識︐不記宿命..吾今欲説︐永劫不書︑
* * * * * * *
〔刻 経
の刻記.遺跡崖面の経丈に向かっ
て︑その左ド隣りに位置する︺
口口井事⌒以ド開︶
r佛堂主尋︹以下岡︶
丘尼僧華︵以ド閾︶
金 棺 経 以⌒
下閾︶
(以降剥落により閾損︶ 漢膓
2
匠
敗酒︑食肉五辛之徒︐不依聖教︐雛篶経
如微塵敷︑造像如 微塵敷︐其幅甚少︐
蓋.不足三口.劫僥之時︐不入海龍干藏.︑芳
如功少.不敬之坐︐死入地獄一主匠一.人
無益︐諸友不祐︐不如不造.直心禮拝︑
得幅無量 如向所列︐造多祠少﹂
()須菩提白佛.言二世尊︐
財物︑牛纏合生息不つ・﹂
;Ei戊1XI 佛≒
経像︑邑義所有 一不合 其若取者︐時還得.備゜稽留
巴[人有侭心. 不如不吐旭 ﹂ 不欲得作像待物
青遥作是
理不合 少
或豊 或倹人欲得
造 経作像 翌提
日佛
言
田:尊邑人有物若多
人若
佛一.=﹈二不合︐遮止.其若遮止︐世世恵
九 八 八 八 八 八 八 八 八 八 ノV 七 七 七 七 ヒ L 七 七
〇九八七六 五四 二ニ ーC九 八七六 五四三二
中國における末法思憩隆吉の=朗︷手烏﹀ 目 止得進造︐莫問多少︐造成得幅 若規世利︐死入地獄 人身不伍︐劫愛不定 脱有水火︑盗賊︑虚失幅物︐結果不就︐幾許誤哉!第一速造︐愼莫出息二須菩提白佛三︹﹁世尊︐若有國主︑宰相︑貴勢之徒抑於細民︐所造経像︐不還施直得幅徳ve1$− llV﹇ I ︵若免王使︐即是細民債値 其若不免王使︑必還布施.當経像師心.得
幅 無量︐若欲具説︐窮劫不蓋.﹂
須菩提白佛言二世尊.経像師不論債直︑
経像主.不還布施︐得.稲不つ二
佛言二善能具問道徒喜牛現孤人情
者︐何名脩幅人也!﹂
佛二.口﹁善男︐吾直巳方便使一︑人獲幅︑不
使論其債直︐遂即不酬布施.敗人善心︐
善何獲乎−・量其巧功︐依法施之 吾先鹸
緩中説 二賂一書︐ 債直娑婆﹄︐何得
賎寳虚施?﹂
⊥︵1
九一九二 九 三 九 四 九五九
六
九L
九八
九九loこ
一こ一
lo二
「C三
一こ四 一C五
一〇六 一Cじ
IO八
10九
11 0
法甲文化研究︹第四f⁚へnカ
須苫提自佛言二世尊.末世悪人難有稲
物︐自多潤用︐所有日者無多 澄像師螢
幅以魂︑布施不構匠心︐又無券書吋記.
祠 就不還︐有善果不つ・﹂
佛言二警 如有人賠耳無鼻︐眼復酵膳︐
何暇明鏡賭其面像つ・必有地獄重受︐何待
問也﹂佛一ほ二善男.仁︐吾今囑累専爲末世ぽ牛食
緩像時返逆者 ぼ葺多虚少實.道心華薄︐
幅財覚利 多求名聞 我今造祠︐勝於
鈴人割裁幅所造齋會.羅門断巨.望意食
人 吾見此末世︐垂涙説此gPll!llll
善男子︐常來末世劫欲書時︐割載幅物人
不用聞此..=﹇°比斤︑居上客作経像師︐
不用聞此.一.口 吾慮獄生隔苦者多︐出溺者
少嚇在六畜者多︐在人道者少 飢貧者多︐
富樂者少 残患者多︐具相者少 短命者
多.長壽者少 愚簑者多︐結利者少三迦
悪
者多.作善者少 在地 獄居者多︐生
天者少 何以故つ宴由駅生前業︐不敬三
ご 九 八 七 六 五 西 1 三 = こ;九 八 七
六五四三ニ ー
中國における末法思想隆音の一齢︵手島︶ 尊︐雑行不善︐致有差別也.汝須菩提汝向所問篶経造像︐本無券書︐有不布施︐善哉有理.後代悪人.虚假無實︐敗善根人所︷鳥経造像︐難不置券︐仰好作施名 不得論物多少︐巳防有虚凡夫根淺︐未得實根善男子︐我本在定光佛末法之中作遊行緩i− tF天四確城﹇巴
許施金鑓一萬篶︵旺若波羅蜜﹀我篶経
ロユ66.其経 主名那梨︐違本自心︐施我
半銭 π心歓喜.況廟罪受之︑那梨在後︐
本契不具.落任地獄五千劫︐篶︹般若︾
因縁︐得出悪趣 善男子︐難不作券︐但
置施名︐異於俗法.得稲無量
善男子︐所冑経造像︐不 ﹇=一書==作
施一名=﹂心和合ご=L相﹇L﹇果一就︐不
遠也 善男子︐経生之法︐不得︐乙字顛
倒 重心ゾW者融□. 五⁝日苗閨世︐ 李呈沫一或定迫中︐
不聞正法 像師作像︐不具相者. 五百
萬世.諸根不具 第;盃心爲上︑妙果先
昇.一 六三
表 の 註
a
)侯旭東氏は取意により︑+相を廟とする これに從う
五 金棺囑累経傍詳
金棺経の原型と見られる一金棺囑累経﹄について︑その原文をp前
節比較表中に示し︑本節では補晋・語註を加えながら現代語に翻す
る傍課を行った.
封象を該経に定めたのは︑筆者が調査を行った窄澗谷太平寺摩崖
「Jq −1 .一: −1
0九八L 六五四三 二
入浬葉時至.不得久居︐略況一∴説一遺
言︐大服﹇流通︐莫生解怠﹂
説 此 経説﹈色﹇・已一︐金 棺忽閑︐火起
焚影︐菩薩︑人二巴悲號咽絶 於即如
來聲止滅去︐人地傾動︐獄生失蔭 大厭
奉行
︸tl !・Ll ;y化研堤九 π弔四,:
p. Clこ︿金棺経﹀が︑遺存の文字数は非常に少ないながら︑︹一︺
一金棺囑累経﹂︵章仇函生造像碑︶とは鐘刻年次も近く︑yOらに雨者
ミ の内容に一定の近縁性が窺われるためである.すなわち︑表中︹二︺
〈金
棺経﹀の 波線部と︑これに封麿する︹一︺の箇所とは︑﹇=
の閾字敷から考えて︑この部分は雨者一.\丈字を同じくしていたこと が推定され︑︹.二︺﹃金棺敬幅経﹄とは異なっていることが看取され
ー︐火起焚影 .ー
悲號咽絶 於即如來聲止滅去︐人地傾︐ぽ生失蔭 大研奉lt OO佛説敬祠
一巻 今浬葉時至︐不得久 居︐略説遺言 大 累︾︐亦名︽清浄荘嚴敬幅経︾︐如是受持. 佛語須菩提二此繧名︽如來在金棺滞泣囑
四鰍法処迎︐ 莫生襯階台心 ﹂
L?提白 獲 二
川:
尊
富 何名 期
η帯
云 何