観相から見る日本文学史 の 試 み 序説
―― 特設コ ー ナー 展 示 資料解 説 から ――
相田 満・ 高野
( 屋代 ) 純子
要 旨
国 文 学 研究資料 館 通常 展示 「書 物 で 見 る
日本
古 典文学史」 の一角に 設 置 して いる特 設 コ ーナーにて、 平 成二十六年一 月 二
十一 日 か ら 三 月 十日 の 間、 本 稿 標題 に 掲げる テーマで 観相 に 関 する 資 料 を 紹 介した 。
こ れ は、観 相 が人物・ キャラクタ ー 造型 に与 えた影 響の可能 性を確かめるために、その営 みの跡を とど める文学・絵 画 、
それ に 関 連す る 言説
げんせつや相 書
そうしょに残 さ れ た 記 述の一端を 示 したもの で あ る 。「 観 相」と は 、人の身 体・容 貌 ・声・気 色
きしょく( オーラの
ようなもの
) を 観 察し て 、 その性 質 ・禍
か福
ふく) を見通すことをいい、いわ
ゆる人 相
にんそう見
みである。か つ ては、大 いに普 及し て いた 知
識 体 系が 、文芸 ・ 絵画 等の創作活動に 影 響を 与えて い たで あろ うこと は 想像に 難くない 。 そこで 、 当該展示に お いて は、観
相書 の記述 と 、その営 み が 、古 典作品 や 記録 、ま た様々な 表現 活動に及 ぼした 影 響箇所の例示も 試 みた 。本稿は そ れ を記録
として 残 す意 味 でしたためたもの で ある。
一、はじ め に
国文 学 研 究資 料館通常展 示 「書物 で 見 る
日本古典文学史」
の 一 角 に 設置し て い る 特設 コ ー ナ ー に て 、 平 成二十六 年
一月二十 一日 から三月 十日 の 間 、 本稿 標 題 に 掲げる テ ー マ で 観 相 に 関 す る資料 を 紹 介 した 。 こ れ は 、 観 相が 人 物 ・ キ ャ
ラクター 造型 に与えた 影響の可能性を確 かめるた めに 、その営 みの 跡をとど める 文 学 ・絵 画、 そ れ に関 連す る言説
げんせつや 相書
そうしょに残され た記 述の一端を示 し た もので あ る。
「観 相」と は 、人の 身 体 ・ 容貌・ 声 ・ 気 色
きしょく( オー
ラ の よ う な も の
) を観察
し て 、 その性質・ 禍
か福
ふくを見通すこ と をい う もの で 、 い わ ゆる 人相
にんそう見
みであ る 。 観相 を今風に評 す る と、 「 人 間 を 観察する 技術 の精
せい華
か」と でも表 現 できよう か 。現代はあま り 一 般的とは 言 い 難く
なった「 観 相 」 だが、今 よ りもはる か に 占い師な どが 多か った 前 近 代の社会で は 、観 相を めぐ る知識体 系は 、創作 活
動や 創 作 物 に 少 な か ら ぬ 影 響を 及 ぼ して いた よ う で あ る。
人 が 人を認識し た 結 果 を ど のよ うに 客観的に 表現する か 。的確に情報 を読み 取る ため の 物 差し や、その様態 を伝 達
する ための表現方法、そ の 伝達媒 体 とし て 使 われ る文字 ・ 音声 な どを使 用した言語、 絵画な ど の表 現様式、さ らには
数値 情報 とし て計測 ・ 統 計 可 能とす る 装 置など、人間観察 技術 の向 上た めに繰り 返されて きた 人間の智 恵の営 み の 歴
史は長 い 。
日本の 平 安 時 代 や 中世に は 、 観 相の営 みは、少 な か らぬ貴紳 達 の 嗜 みにも な って いた。 そ して 、近世 期 に は 、大 雑
書のよう な日用百科書 におい て 欠か せな い 常 連と なる に 及 ん で は、さらに広く庶 民層へも浸透 し て いったので あ る 。
さら に 、 近 代 に入って か ら の観 相学は 、 二十世 紀 初 頭に骨 相学と 融 合する こ と に より、欧米でも一時の隆 盛 は見た
ものの、科 学 的 裏 付 け のある も のとの評価 を得 られる こ とはなかった。そし て 今 と なっ て は 、ま さに、カ ルトと化し
た「忘れ られ た」学問とい っ て よ か ろ う 。
し か しながら、 か つ て は 、 これ 程に一般化し て い た 知 識 体 系が、文 芸 ・ 絵 画 等の創作 活 動 に影響 を与え て い た で あ
ろう ことは 想 像 に 難 く な い 。そ こ で 、 当 該 展 示 に お い ては 、 観 相 書 の 記 述 と 、 そ の 営み が 古 典 作 品 や 記 録 、 ま た 様々
な表現活 動に及ぼした 影響の 一 端も 含めて の 例示 も試 みた 。た だし 、展示ス ペースが限られて いた こ と と、 通 常 展 示
とも 重な る所 も 少 なく なか ったた め 、今 回の展示 は典 型的な内 容を 示すにと どめた。
二、 人相 見 の 絵
① 源氏 物語 淡彩白描 画
② 婦人 相学 十躰 浮気 之 相
③ 婦女 人相 十品
④ 人相見の 図( 仮称 )
二‐1 、 源氏物 語
げんじものがたり淡彩
たんさい白
はく描画
びょうが( 国文学研
究資料館 蔵 ユ3‐ 145‐ 1
)
導 入 と し て 人 相見 の 登 場 す る絵を 紹 介 す る。 『 源氏 物 語 』 桐 壺 巻
きりつぼまきの高麗人
こまうどの人相見が 登 場 す る場面 で ある ( 図 1) 。
当時来 朝 し て いた高 麗 人( 図中○ 印 ) に
光
ひかる
源
げん氏
じ(図中□印 ) の相 を身 分 を 伏
せたまま、 後 見 人 の右大弁 ( 図 中△印)
の子の よ うに思 わ せて 鴻
こう臚
ろ館
かんで人 相 を
観させた所、帝王 と な る べ き相は あ る
が、そうすると国が乱 れ る 、国の 重 鎮
となる者とし て観ると、その相 も 違 っ
てく ると の 見 立 て で あ っ た。 こ れ に よ
り、 桐 壷帝は 、 光 源氏 を皇族 か ら外し
て源 氏 に 下 す こと を 決 意 す る 。
絵の 詞 書
ことばがき( 図2 ) には次のようにあ
る。
桐壷
いみしう しのひて
このみ こ を 鴻 臚館に
つかは し け り
御う
し ろ み た ちて
つか う
図 1 源氏物語淡彩白描画
まつる右大弁の
このやうに
おもはせ
て
ゐて
たて
まつ る
高麗 人とは 、 渤海国
ぼっかいこくのこ と。 す な わ
ち、 も と 高麗 で 朝 鮮 三 国 ( 百 済 ・ 新 羅 ・
高句 麗)の一つ 高 句 麗 国 を さす 。
渤海国とは二百年に わた る 親密な 国
交が続 い たが 、その 間 も日 本は渤 海 国
を高句麗国の 末 裔 で あ る と いう 観 念 で
付き 合 い 、渤 海 と い う 国 号 は つ い に 定
着しなかっ た 。そ のこ とは 、 渤 海国と
の交渉が 途絶え て たかだ か 百年程度し
か経た な い こ ろ の 平 安 朝人 が渤海 国 人
との交 誼 を思 い出す 際には 、必ず 「高
麗」と いう表 現 で 現れ る こ とから も わ
c
図 2 源氏物語淡彩白描画(図 1 の詞書部分)
かる 。 『続
日本 紀
し ょ く に ほ ん
』 巻 十 ( 神亀四年 十二月 丙 申 ( 二
ぎ十九日) 〔七二 八 年 二 月 十 三 日 〕 ) に渤海国 人
がはじめて 来 朝し た記 事が ある (図3) 。 そ の
時に日本を 訪 れた一行は、自分 たち をか つ て
交渉のあ った 高麗国の 後 で ある こ と を国 書に
記し て国交 を 求め た。 し か し、そ の 渤海使一
行は日本 にた どり着いた 際 、緊張関 係に ある
出羽の 蝦 夷
えみし側の境 界 線( 図 4 ) に 飛び 込ん で
しま った 。 さ ら に 悪 いこ と に、渤 海 国 使 が寧
遠将 軍 高 仁義を筆 頭と する武官 で 構 成されて
いたこ と も 、 蝦夷を 刺 激 し た よ う で 、 一 行二
十四人中十六 人が殺害さ れ 、生存者 八名 とい
う惨状で あ っ た。
『源 氏 物 語 』 で描かれ る 人 相 見 を 行 った高麗人の造型には、第九 回 渤海使の史 都 蒙と第二十 五 回 渤 海 使 の 大 使王文
矩の 投影 があ る。
史都 蒙は、宴 会に 出席 し た 眉 目 秀麗な橘 清 友 に注 目し 、通 事 舎 人
つ う じ し ゃ じ
の山於野上に、あの少年 は何人かと問い、自 分は
ん相法 をた しなん で いるが、こ の 人は 毛骨ただ びと に非ず、 子孫は必ず大貴と なる だ ろ うと言ったの で 、 通事が命の 長
図 3 『続日本紀』巻十
短ま で 観 る こ とが で き るの かと問 う と、三
十二歳 に 厄 年 があって 、それを 過 ぎ れば 長
生き す る だろ う と 予言 した 。
清 友 はそ の 後 、 田 口氏 の娘 をめと り 、嘉
智子 をも うけ る 。 しかし、 三 十 二歳の 年 ( 七
八九年)に、病 を 得て 短い 一生 を 終 えた 。
しか し 、 娘 の 嘉智 子 は 、 そ の 予言 の 通り 嵯
峨妃と な り、 檀林皇后と呼ばれ るこ とに な
る。 清 友 の 将 来を 予 言 し、 しか も そ れ が 的
中 し た話は、 史 都 蒙来 日後 七十 三年 を経た、
嘉祥三 年 五月 四日( 八 五〇 年六月 十 七日 )
の嵯 峨大 皇太 后( 橘嘉 智子 ) の崩御記 事( 『 続
日本 後 紀 』 ) で あ る 。 本来 は大 皇 太 后の 死を 報 じ るも ののは ず なのに、 実際 には 父の橘 清 友に つい ての 観相 譚に 多 く が
割かれて いるのには、渤海 使がよく 人相を観ると いう風説が こ の こ とから起こ った こ と も 与
あずかって い る よ う で あ る 。
もう一人 の 王 文 矩 は大 使以 前 の 時とあ わせ て 三度 の 来 日 を果たしたが、 彼は 時康 親王 の人 相 を 観 て 後に 天 皇 に なる
こと を予 言し、 そ れが的 中し て 光 孝 天皇と な っ た ことが 、 信 仰 のよう に な っ てい た も の と 思 わ れる 。 そ れゆ え に 、 『 源
氏物 語』 の中に も 高麗 人 = 渤海使が光源氏の人相を観 る 場 面と なったの で あ る 。 (上田雄 『渤海使 の研究』 第 三章 補説
17 、明石書 店、二〇〇二 年)
図 4 出羽の国(蝦夷側の境界線は秋田城付近)
二‐2 、 婦
ふ人
じん相学十躰
そうがくじつたい浮
うわ気
き之
の相
そうと婦
ふ女
じよ人相十品
にんそうじっぽん/喜 多
きた川
がわ歌麿
うたまろ架蔵 。 喜 多川歌 麿
( 1 7 5 3 ? - 1 8 0 6 ) の代表作
ともい え る 揃 物
そろいものである 。 大 首
絵と呼ばれる特徴ある 美人画に 気質の類型ま で 描 き 分 けようとし た 。湯
帰りの 女 が振 り返った 一瞬を描き 、 多情で 浮 かれ が ち な女の 性 格を 写 し
出し て い る( 図5) 。
「婦人相 学 十躰 」 に「浮気之相」とい う 観相の標題を付したと こ ろ 、
相 者 関係 者達からのク レーム が あっ たた めに、次 のシ リーズの「婦女人
相十品 」 で は 観 相 の 結 果を 削除せ ざ るを えなか っ たと 考えら れ て い る。
( 『浮世
絵 大事 典』 「 婦 人相学 十 躰」の 項 、 東 京堂、 二 〇 〇 八年
)
二‐3 、 女人相 見 の絵(仮称)
架蔵 。 女
おんな人相
にんそう見
みが江 戸 期 にも い た こ と がこ の 絵 か ら もわ か る ( 図 6) 。 女性と占術との関係は、シャーマンとし
て は 卑 弥 呼
ひみこ
の鬼
き
道
どう秦代末
しんだいまつから 前漢
ぜんかんにかけ て 活躍 し た 著名 な観 相師、 許 負
きょふなど、 古 くから 関 係 が 深 い 。
図 5 婦人相学十躰浮気之相・婦女人相十品
三、日 本 で 流布し た 中 国由来 の 相書
①神 相全 編正 義
②参考 : 秀雅百人一首
③袁 柳荘 相書 ・人 相水 鏡集 ・麻 衣相 法大 全
三‐1 、 神相 全 編 正義
日本に現存 する最古 の 相書は、 金沢文庫 蔵『 集
七十二 家 相書 』 で あ る 。七 十二家 の 説を 集成し
たかの よ うな 標題を 持つ書で は ありながら、名
が現 れ る のは 郭林宗・唐 挙 ・龍泉 な どに過ぎな
い。 し か し、 他の 相 書 と同 様のこ と を 述 べ る記
載は多 い 。また 、 明 代にそれ ま で の 説を 集 大 成
した陳摶 撰・ 袁 忠 徹校 の『 神相全編 』に は 、達磨 ・ 許負の説を 引 く 編 が含まれ る な ど、観 相 の 説 は、大同小 異 を孕 み
ながらも 、継 続性が保 たれ て い るので は ないかと 想起 され るので あ る。
明 版 ・ 清 版 の 『神相全編 』 は九巻・十 巻 ・十二 巻 で 十 ~十 二冊 の大 部 な ものだが、 中 国書が日本 で まとめら れた和
図 6 女人相見の絵(仮称)
刻 本 や和 訳本 (通 俗本 ) に は 三 冊程 度 の 簡 約 にな っ たも の
が 多 い。和刻 本 の 『神相全編』 も同様 で 、和刻 本 は 三 冊 の
構成と な っ て いる 。これ に は慶安四年 ( 一六五 一 )刊 本と
『神相全編正義』と名付けられた 文 化 二 年 ( 一八〇五)の
刊になるもの がある 。
慶安刊 本 の 、 人相を 「 貴 相 」 「 威 相 」 な ど の 八相六 面 に 分
類し た絵 は、 浅井了意撰の 『安 部晴明物語』 に反映さ れ た 。
また 、 『 神相全編 正 義』 ( 図 7 ) で は 、先の 慶安刊 本 や 中 国
刊本 の 誤 謬 を 改め たほか、観相 の書は 医 学に連なる人命に
関わ るも ので あ る と し 、 読 み 間 違 い を 防 ぐ た め に 、 「 貌
ぼう」 字
の 略 体 「 皃」 を 「 㒵」 に、 「 光 」 を 「灮」 に す る な ど 、 わ ざ
わざ古字を使用し、 漢 字 の 読み方 で も 呉 音を踏 襲するなど、
表記上で も注 目すべき点が 多い。 人 相の 絵も 五百羅漢 の 五
十一 幅を法 華 経の文字 だ け で描いた こと で著名な 加藤信清
( 遠塵斎
) が、
石龍子の監修 を 得 て 新 た に 書き起 こ し て い る 。
な お 、昭 和 四 七年 刊の易 学 教科 書と 題する 活 字本 注 釈 書後
者は後 者 の『 神相全編 正 義 』に拠って い る 。
図 7 『神相全編正義』
三‐2 、 参考
: 秀雅
しゆうが百 人 一 首
ひゃくにんいつしゅ
/ 緑 亭
りょくてい
川 柳
せんりゅう
、葛飾北斎
かつしかほくさい等画
[当該箇 所 は 一 勇 斎
( 歌川 ) 国芳画
]
( 国文
学研究資 料館 蔵 ナ2 ‐1 94
)
緑亭 川 柳
( 天
明 七年 〔一 七 八 七〕 ~安政 五 年 〔 一八五
八〕 ) の 撰 で 、 葛 飾北斎 ・ 柳川重 信 ・ 渓 斎 英 泉、 一陽斎
豊国たち 5名 の絵 師が 腕を ふ る う。
『秀雅百人 一 首』 (図8 ) は、 歌のよしあしは二 の次
にし て 、 祝儀性のあ る 歌( め で たき歌)や 、 人徳のあ
る人、貧しく とも雅 趣 に富んだ人 だ けを 選んだという
ので あ る 。 そ して 、 巻 末の 刊 記 に よ れ ば 、選ば れ た 百
人は、 五 人の 画師によ っ て
20 名ず つ、 あた かも競 作 の
ように描 かれて い る。 その 内訳は、 次に 示す通り。
画工
口絵及従一至十
前北斎卍 老人
仝 従十一 至 二十 一勇斎 国 芳
仝 従廿一 至 三十 柳川重信
仝 従三十一 至四 十 渓斎 英 泉
仝 従四 十一 至五 十 一陽 斎 豊 国
図 8 『秀雅百人一首』(左)千利休 (右)人物部分拡大図
当該 画 像 は 一 勇斎
( 歌 川 ) 国 芳画 。弘 化五 年 ( 一八 四八 ) 刊 行 。 選 ば れ た 歌人 は祝 部
ほうり清風から 中 江 藤 樹ま で の 百 人 。
上段に は 各人につい て の略伝を掲載するが、 千利 休 の 絵は通 常 の 絵 と異 な り 、いかに も俗 っ ぽ い 姿 をし て い る 。 こ れ
は、 肖像 画 家 は観相 を た し なむべし という中 国古来の言を如実に反映 し た絵とい え る 。 参 考ま で に 『神相全編』 の 「 俗
相」 と 比 べて いた だき た い 。
で は 、 こ の よ うな容貌が 、 どの ように描かれた か を 知 るた め に、 ま ず 、 その顔の拡大図 ( 図 8 右) と、 慶安 四年 ( 一
六五一)の刊記を持つ慶安版和刻本『神 相 全 編』と、加藤 信清(遠塵斎) に よっ て新 たに描 き 起 こ さ れ た人相 の 絵を
有 す る
『 神 相 全 編 正 義
』 ( 文 化 二 年
[ 一 八
〇 五
] 序 跋
) ( 図 7
) に 収 め ら れ る 人 相 図
「 八 相 六 面 図
」 を 使 用 し て 照 ら し
合 わ せ て みよう 。 すると、 「 俗 相 」が 最 も 類 似し て い る こ とが分かるの で あ る。
しか も 、 そ の 印象は 背 景 に 配 さ れ た 散 ら し書き の 歌 と 併せて 読 む と 、 よ り 強 く 伝わ る 。
釜
かま一つ
持
もてば
の 茶
ちや湯
ゆは なる
もの を
よろ
づ の
道
だう具
ぐ好
このむ
はか なさ
本来は 釜 一 つ の道具 だ けで 成り立 つ 、質素な茶の湯 の 道 を 理想と 目 指しな が ら も 、現実 は 様々な道具 好 み に大金を
費や すマネ ー ゲームを 演出せざ るを 得なか っ た自 分自 身を空 し く儚い
はかなもの と嘆い て いる。
また 、 頭 書 の 略伝 に は 次の ように あ る。
の利休 はじめ は 与四郎 と云 十七 千
せんりきうよしらういひ才より
道 陳
だうちんに随つ
したがて茶
ちやを学
まなび名
なを宗
易
そうえきといふ
の道 とせる歌 に 茶
ちやみちうた〽花 を見て 待
まつらん人に山里
やまざとの 雪
ゆき間
まの草
くさの春
はるを見
みせばや 此心をも
つ て すと いへ り
扨茶
ちや
器
きのこ と
は 東 山
ひがしやま
殿
どの古器
こき古
こ画
ぐわを好
このみ給ふより 價
あたひ
たかくなり又 豊太 閤
ほうたいかうの一
いつ奇器
ききに
して
國 郡
くにこほりも与 ふべき 功 臣
こうしんに千 金
せんきんの
器
き物
ぶつを給 は り て人 心 を 結ん
むすば為の 謀 事
はかりごとなる に治
ぢ世
せいに成り て も 茶
ちやをする も の 奢
をこり
にふけり 金銀
きん〴〵を費 し
ついや得がたき 道
具
ぐを求
もとめ或 は 其 業
わさならぬ 人 も 監
かんにこ と よ せこ れ を もて 利 をむ さ 定
ていりぼるなど
心 さ まよからぬ人 も 有古器
こきは
貴き も の と 心 得價の
あたひたかき器を
うつはあい するは心利
り
欲
よくに走
はしるがゆへ 也缺
かけたる
すり 鉢
ばちにて も 時 の 間
まにあふを茶
さ道 の本
ほん
意
いとすとこ の 歌
うたをよ め り
補足を 加 え つつ内容を 詳述 し て おこ う。
千 利 休 は 幼名 を 与 四 郎 とい い、 十 七 歳 か ら 茶 を北 向道 陳 ( 永 正 元年 [一 五 〇 四] ~永 禄 五 年 [ 一五 六 二 ] ) に 師
事し て学び 、 法名を宗 易と し、茶の 道 を 伝えるも のと し て 藤原家隆(保元三 年 [ 一一五八 ]~ 嘉禎三年四月 九日
[一 二 三 七年五 月 五 日 ]) の、次 の 歌を好んだ 。
花をのみ 待つらん人に 山里 の
雪間の草の春を見せば や( 『壬二集 』上 後京極摂 政家 百首 )
「 花 の咲 く こ と ば かり を待 ち遠 しく 思っ てい る人 に、 山 里 の残雪 の 間 に 顔 を のぞ か せ る、 若草 の 春 を見 せ て や
りた いも の だ 」 と 、微 細 な 兆 し が伝 え る 象徴的な 美の 意匠に茶 道の 本質を見て い たので あ ろ う 。
そ も そも 茶器は 、 東山殿と 呼 ば れた室町 幕 府 第八 代将 軍足 利義政が好 ん だ こ とか ら、 当時 より 古 器 や古画の価 格 が
高騰 し て いた が、 豊臣 秀吉の 奇 策とも 言 え る 施 策に よ り、 国郡を褒 賞と し て 授け る程の勲功を 挙げたを 好ん だ功 臣に 、
千 金 にも 値す る茶器を 代 わ りに与え 、ま た 、 そのこ と により人 心を 掌握するこ と を 行 うよ うに なっ て い た。 その 後 、
天下一統が成 っ て からも、茶 を 嗜 む 者は奢侈に ふ けり 、金銀 を費や し て希少な道具 を求めるようにな り 、 専門家 で も
ない者さ えも 、 鑑 定に こ と よせ て 、 高価な 物 を売りつ け て 利をむ さ ぼる ような 、 心掛け の 良 く な い 者 も 出 る よ う に な っ
た。こ う なったのも、すべて 古 器が 、その本質的 な 素 晴ら し さ で 判 断され る の で はなく、貴重 で高 価なもの と思われ る
ようになっ た た めに、利益を追求する欲心から愛好され る ようになっ た た め で あ る。
欠 け たす り鉢 を使 っ て でも 、 そ の場 の茶 の 湯 席に 間に 合 え ば十 分に 事 足 りる もの であ る こと こ そ 茶 道 の 本 意 である
のに、現実は空しく儚 いも のだ、と いう気持 ちを 込めたのが「 釜 ひ とつ 」の 歌 で ある 。
本 来 なら ば 、 欠 け たす り鉢 でも成り立つ 茶 道 が、 義政 将 軍の頃 から 古 器 、古物 を好 むよう にな っ て、道 具 に 莫 大な
値が付く よう になり、 豊臣 秀吉時代 に は 、 一つの 名 器 が 国郡にも匹 敵 するほ ど の 価 値を 持 つ ほ ど になった結 果 、大き
く変質し て し まう 。いかに嘆い ても 、人 心掌握のための道具と し て 茶道が利用され る 限り におい て は、茶頭たる 千 利
休も 欲 得 絡 み の世 俗 に 深 く 関わ らざ るを 得なか っ た の で あ る。
『神相 全 編 正 義』巻 中 「 人 の八相を観 る法(観 人八 相之 法) 」の俗 相には、 次 の ようにあ る 。
俗とは、 形貌 昏濁にし て 、 塵中 の物のご とくにし て 、 而し て 賤 俗なり。 縦
たとひ衣 食 有 り と も 、 亦迍
なやむこ と多 し。 ( 俗
者。形貌 昏濁。如塵中之物。而賤俗。縦有衣食、亦多 迍也 。 )
すな わち 、俗 相は、容貌が 暗く濁って い て 、 塵の 中の ものの よ う で 、しかも 賤 し い。たと え、 衣食が満ち 足 り て いて
も、 悩み事が 尽 き ない 相 で あると言 っ て いる 。 こ うした風貌の 像は 、管 見の 限り におい て 他に類例 を見 ない。あるい
は、苦渋 に満ち た 表情 を 表 すた めに 、鬚 ・眉を 描 いた 可能 性も 考え られ るだろ う 。
なお、千利 休 の当該 画 像は国文 学 研 究 資 料館電 子 図書館の 歴史人物 (古典キ ャラクター)画像 データベースから 入
手可能 で ある。 ( 参考 : 相 田 満 「 利 休の 顔 ( 続 ) 俗相の利休― 『 秀雅百人一首 』 に 収 載され る 異形の利 休像 の観 相的
分析―」 、 『 『 茶譜』巻 三 注 釈 』 、 大 東 文化 大 学 東洋 研究 所、 二〇一一 年 刊 ) 。
三‐3 、 麻衣 相 法 大全 /唐 ・鯉 耀
りよう撰・明・陸
りく位
い崇
すう編
( 個人蔵
)
三‐4 、 袁柳 荘 相 書/
[ 明 ] 袁柳
荘 著
( 写本
は国 文学 研 究 資 料 館蔵 ヤ5‐4 91
)
三‐5 、 人相 水 鏡 集/ 右髻 道 人 纂要
( 国文学研
究資料館 蔵 54 ‐3 0 3 ‐1 ~5
) 中 国 ・台 湾 で は 『 麻衣 相法 』 と 『柳 荘相 法 』 が頻 用さ れる とい う 。対し て 日 本 で は 、 両 書 の和 刻 本 は稀
き覯
こう本と な っ
て お り、滅多 に用いられ な い。 図9 『麻 衣相法大 全』 は青山英 正氏 蔵本 。 図
10 の国 文 学 研究 資料 館蔵『袁柳荘 相書 』
は『柳荘 相法』とも呼ばれ る和刻本の 写 し 。 宝暦七
( 一七五
七
) 年刊の
も のがあ る 。 大 陸 で は 、 女 性 の 人相 は 本書を 基
本とする とい う。
また 、 『 人相 水鏡集 』( 図
11 ) は 中 国 ・ 台 湾 で は 『 神 相 水鏡 集』 、 『 水 鏡集』 とも呼 ば れる 。 第 五 冊 の 絵 は慶安 版 の 『 神
相全編』から 採られた 。
第
5冊末尾 刊記
柳荘相法・和刻本 第1冊 見返 第1冊 4オ
図 9 『麻衣相法大全』
図 10 『袁柳荘相書』
図 11 『人相水鏡集』
四、近代 まで続く観相の世界 ①井
上円 了 『迷 信 解 』
②永
代 節 用 無 尽蔵
③人
相 千 百 年 眼
四‐1 、 井上 円了 『 新 編 妖 怪 叢 書3 迷信解』 昭 和 五八年十 月国 書刊行会
( 国文
学研究資 料館 蔵 ム8 ‐3 4‐3
)
大正五 年
( 一九一
六
) 一 月五日に丙
へい午
ご出版社 よ り 刊 行さ れ た 『 妖 怪叢書 第 四 編 迷信 解』 の 影 印復刻 本 で あ る ( 図
12 ) 。
これ以前 に、 明治三七 年
( 一九
〇 四
) 九
月 十日哲 学 館よ り初 版 発 行さ れた『 妖 怪叢 書第 四 編 迷信 解』があ る。 本書 の
中で 井 上 円 了 は 、
骨相術は(中 略)日本の人相 ほ ど に 甚し
はなはだからざ る も其判断が餘り器械 的に し て 、物 差 を 以 て 精 神を 測 る が如き
有様なる は、笑ふべき の至 り で ある 、手 相術は東 西共 に行はる ゝ も 、是 れ 亦 同様 に信ずるこ と は出来 ぬ
と述べ 、 人 の 外貌から 運 不 運 吉 凶を 占う 「 人 相」 術を 、 道 理に合 わ な い ものと し て 批 判し て い る。 (こ の 項 、 高 野 [ 屋
代]純子 執筆 )
図 12 『迷信解』 (上)新編妖怪叢書 3 表紙
(左下)妖怪叢書第四編 表紙 (右下) 『迷信解』第九段 人相家相及び墨色の事
四‐2 、 永代 節用
えいたいせつよう無
む尽蔵
じんぞう/河
かわ辺
べ桑揚
そうよう・堀源入 斎、 堀原
げん甫
ぽ( 国文学
研 究 資 料館蔵 マ3‐95‐1~2
)
「 じ いさ んだ け が 見 て い て 他 の 者に はさ わら せな んだ 」
「町内でこ れを持っ て いたのは ウ チ ともう一軒 だ けやっ た ナ 」
「祖父は村 中 の子供 の名 前 をこれ を 使 っ て つ けて ま し た」
(横 山俊 夫「 日用百科の使われ 方」 、静脩 、三六‐二、 京都大学 図書 館、一九 九九 年)
日用 の 百 科 全 書と も い え た 大 雑 書
おおざっしょ(図
13 ・図
14 ) は 、 息 長く明治・大正・昭和ま で 刊行 され 、一家・一村の 智恵 袋
的存在 で あった。
この種の典籍 の存在は、台 湾 ・ 中国など の東アジア全 体に広く 確認さ れ る。そし て 、 現 代 で も 新聞 ・雑誌に 占いが
必須で あ るよ うに、人 相占を は じめ とす る占い コ ー ナ ーは欠か せな い人気の 記事で あ った 。残 存する典 籍の 占い コ ー
ナ ー の部 分には、手 垢 ・手ずれの跡が多 く確認されて いる 。
大 雑 書の末尾 近 く が占 い部 分 で ある こ と か ら 予想 を 立 て て 、 分 厚 い 大 雑 書 の 手 擦 れのあ と を悉皆調 査 で 画 像 を撮 り、
ヒス トグ ラ ム ( 図
14 ) で 濃 淡 の分 析 を し た 研究 は 、 人 文 学と 情 報 学と が融 合し た斬 新な 発 想 の研 究と し て 二十 世紀 最
末 期 の学 融 合 的研究と し て 話 題 を呼んだ。報告は横山俊夫・小島三 弘・杉田 繁治 『日用百 科 型 節用集の 使 わ れ方』京
都大学 人 文科学 研 究所 調査報告第三 八号 ( 一九九 八年 )に掲載 されて い る。
図 13 『永代節用無尽蔵』
図 14 (左)『明治補刻 永代大雑書万暦大成』(個人蔵)、(右)ヒストグラム
四‐3 、 人相 千 百 年眼 /平 沢 白 翁
( 国文
学研究資 料館 蔵 ヤ5 ‐4 89‐1 ~5
)
撰者 の 平 沢 白 翁は江 戸 時 代 後期 大 阪 の 易 学
者。嘉永四年
( 一八五一
) 刊『
人相 千百 年 眼 』
の ほ かに 『宅方明 鑒』 『家相 千 百年 眼 』 などが
ある。 本 書は 近代に入 っ て も版を 重 ねられ 、
臍や尻 、 性器 に至るまで 細 か な 部位 に わ た る
相をわ か りや す く 説 く 。
なお、 掲 出の画像巻之一
16 ウ~
17 オは 目
の相 を述べる部分だが 、そ こ に 記される「車
輪眼」 は 忍者 マ ン ガ 『
N A R U T O
』 で
有 名
な 「
写
輪眼」を 連想させる( 図
15 ) 。
観 相 の 世 界 は
『正忍 伝 』の ような忍術書 にも及んで お り、
類縁性も あな がち 否定 は で き な いだろ う 。
図 15 (左)(右下)『人相千年百眼』
(右上)『NARUTO』(岸本斉史 スコット/集英社)
五、 著名 な 人 相見の は なし ――聖 徳 太 子・鈴 鹿 翁 ・水野南 北 ――
①聖徳太子伝 暦補注
② 神相全編( 慶安4刊 版)
③本 朝神仙 伝
④南北相法
⑤神 坂次郎『だ ま っ て す わ れば 観相 師水 野 南 北一 代』
五‐ 1 、 聖徳太子のはな し 聖徳 太 子 伝 暦
でんりゃく補註/ 五
ご天
てん良 空
りょうくう
( 国文学研
究 資 料館 蔵 ヤ 2 ‐1 68 ‐ 1 ~1 0
)
平安時代 前期の歌人藤原兼輔
( 8 7 7 - 9 3 3 ) 撰とも、
その書名に古 くか ら 「 平氏撰 」 とい われ る こ とから、 平 基 親 ・ 平
季貞 ・ 葛 原親 王などを 撰者 に擬する 所伝 がある。 『聖 徳 太 子平氏 伝 』 とも称され 、 延 喜十七 年
( 九一
七
) 成立
の 編 年 体 の
詳 細 な 聖 徳太子 の 伝記に 注 を付 け た 書物 である 。
本書 にあ る 「 崇 峻
すしゅん天皇元年
( 五八八
春三月」 の記事の部分 に、 「赤 文 眸子 ヲ貫 ク ) 戊申
ぼしんせきもんまなこつらぬ傷 害
しょうがい
ノ相
そうト為ス 」 と記 載さ れ
てい る ( 図
16 ) の は、 聖徳太子 が 崇 峻天皇の 目に 赤 い 筋が 走っ て い るの を 観 て 、 崇 峻 天皇 の身に危 険が 及ぶ こ と を予
言し たもの
( 巻之四、
3ウ
そ れ に 対 し て 、 五天良空は 、 本 書の注釈書で 、 『神 相全編 』 を 引 いて その正しさを説 い て ) 。
いる
( 巻之四、7
ウ
) 。
『 聖 徳 太 子伝』の記 述 に よ れば 、聖徳 太 子は、日本 で 最初に観相を受け、最初 に 観相 を 行 った人物 で あ ったため 、
日本の観 相師 からは今 なお 「観 相 の始祖 」 と 仰 が れて いる。 図
17 は 『 神相全編 』 の 慶安刊本の 当該出典部 分 を 示 した
もの で あ る。
図 17 『神相全編』
図 16 『聖徳太子伝
暦補註』
五‐ 2 、 鈴鹿 翁 の はなし ――
本朝列仙
伝
れっせんでん/田 中玄 順
( 国文
学研究資 料館 蔵 ヤ1 ‐1 39‐1 ~4
)
貞享 三 年
( 一六八六
) の刊
行 、 田 中 玄順の
編集( 図
18 ) 。 田中玄順は、本書 で 、 院 政
期に大江 匡房
まさふさの手によ り編纂された『本 朝
神仙伝 』 に登 場 す る 神 仙た ち の ほ か に、 独
自に選ん だ神仙 を 加えて い る 。 『本朝神仙
伝』 以 外 にも、 、 柿本 人 丸、 小 野 篁
たかむら、 在
原
業平な ど の俗 人ま で 仙 人と し て い る のが 特
徴的 で あ る 。
本書 に登 場 す る鈴 鹿 翁( 図 の 丸 囲 部 分 )
は、吉 野 に隠棲し た 大 海人
おおあま
皇子( 後 の天 武
の天皇)に 「帝王 の 気」がある こ とを観 て 、
皇子を 仙 郷 に 誘な
いざなって 娘 と 娶 せ
めあわる。 林羅 山
『本朝 神 社考 』に 同 話があ る所か ら 引いた
もの で 、聖 徳 太子の観相のは なしと併 せ て 、
日本 の観 相 の 始まりと し て 著名 で あ る 。
図 18 『鈴鹿翁』第二冊六オ
五‐3 、 水野 南北 のはな し ―水野南北『 南北相法』 ・ 神坂次郎『 だ まっ てすわれ ば 観相 師・ 水野南 北 一代 』―
個人蔵 。 水野 南
北
( 宝暦十年
〔 一 七
六〇〕~天 保 五年
〔一八三四〕
) は、
江戸時代中期の 観
相学 の 大 家で 、 当
時、日 本 一の観相
家とい わ れた。 『 南北相 法 』( 図
19 )
の 扉 に 聖 徳 太 子 の 名 が あ る
のは、当時の観相家達が聖徳太 子を 「観 相の始祖 」 と 仰 い で い
たから で ある。南北は 若い頃は酒とばくち と 喧嘩 に明け暮 れ る
日々だったが 、易者 に 険難 の 相 と死 相が 出 て いる と言われて 観
相に開眼 し 、 自らの相 を 変 えた。 ま た、 食事を 慎 ましくす る 「 節
食開運説 」 を 唱 えた 人 物で も あ る。 そ の 生涯 は 神 坂
こうさか次郎 『 だ ま っ
てす わ れ ば』 (図
20 )にくわ し い 。
図 19 『南北相法』
図 20 『だまってすわれば 観相師・水野南北一代』
六、おわり に
本稿は 、 一般にはあまり 馴 染み の な い 「 人相 見」 「観 相 」 が、 古代から現代 まで 、 日 本文 学や東 ア ジア の諸 学 の 世界
と い か に 深いつ な が り を持っ て い る か を 当 館 の 特 設 コ ー ナ ー に て示し た も の である 。 観相 の 膨 大 な 知 識 体系 を 説 明し
得るもので は ない こ と を御寛恕願いたい。
本稿の 執筆 に 先駆けて 、 特設コ ーナ ーで の展示 の た めに展示 パ ン フ レット を 作 成し て い た だ くなどお世話 いた だ い
た 管理部 総務 課企 画広 報係 の皆 様に 感 謝 申 し 上 げ た い 。 本 図版 も 当 該係の加 工 ・ 制 作によ る 所 が 数多く あ るこ とを 明
記 し て お く。 また 、図版の 掲載に格別のご配慮を いた だいた 、 明星 大学の青山英 正先 生、
岸本 斉史
スコ
ット /集
英社 にも 記 して 深 謝申 し上 げた い。
なお、 本 研 究 は
J S P S