七ヶ国地頭職「辞止」をめぐる鎌倉幕府と後白河院
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関連史料の吟味を中心として‑桧島周一
「はじめに
鎌倉幕府成立史もしくは鎌倉期の国家構造の形成史という視角で見るならば'文治二年(一一人六)は、それ以前
の内乱史の展開の中で東国中心に積みあげられた幕府の支配体制が、前年末のいわゆる文治勅許によって飯内以西ま
で拡大されたあとをうけ、貴族政権側との折衝とそれによる修正が進められて行った段階といえよう。むしろ以後の
鎌倉幕府の支酪体制につながる枠組はここでこそ確立されて行ったのではないか。その過程で鎌倉と京都の思惑がぶ
つかり合った主繋な問題点のひとつに'「地頭」をめぐる乳蝶があった.しかし、1口に「地頭」といっても、文治
二年の各時期に朝幕間で具体的に折衝の焦点となっていたのはどのような存在の「地頭」であったのか、現在まで必
ずしも一定した理解が得られているとはいえないであろう。顕著な一例を挙げれば'この年三月に北条時政が辞止し
七ヶ国地頭職「辞止」をめぐる鎌倉幕肘と後白河院(松島)
史料館研究紀要第三一号(二〇〇〇年)三〇(‑)た七ヶ国地顔職の実態をめぐり'石母田正氏以来の1回地頭職の集積という理解に対して、近年'相次いでそれと異(2)なる視角からの説が捷出されているは周知の通りである。前年末の文治勅許の意味を考える上でも、以降の幕府の体
制構築を展望する上でも'重要なキーポイントとなる筈の七ヶ国地頭職の理解が'現在の研究状況の中では一種のブ
ラックボックスに入ってしまっていることは、文治二年の「地頭」問題を考えることの困杜さをよく示している。
本稿では、そうした文治二年初頭の「地頭」問題が具体的にどのような存在を対象として紛糾したのかを'特に関
連史料の吟味を通して整理することを第一の課題とする。
二、史料と問題点
周知のように'文治二年三月はじめの頃'北条時政による七ヶ国地頭職の辞止と惣追捕億への守補をめぐる動きが
あ‑'それに関連するいくつかの史料が「吾妻鏡」(以下「鏡」とする)に載せられている。最も基本的なものを挙(3)げておけば'次のようになろう。
①︹‑‑諸国被補惣追捕使井地頭内七ケ国分'北条殿被拝領畢。而深存公平、去比上表地頭職。其上重被付書状於
帥中納言'黄門又付定長朝臣'被奏聞之。︺
院進御物之脚力、可罷下候之由、所申侯也。以去廿八日、三ケ皮御返事統1通、遊覧之由'賜御教書侯皐。両
件脚力'不能腸御返事'罷下侯。所恐中也者。抑一日参拝之時、七ヶ国地頭職之粂'錐令言上侯'末永分明之
仰'罷出侯皐。偽於時政給七ヶ国地頭職者'各為令遂勧農侯'可令辞止之由'所令存慎也。於惣追捕使者、彼
凶党出来侯之程'且為永成敗'可令守補之由、所令存知也。凡国々百姓等、兵椴米債等、寄串於左右'押領
所々公物之由'訴訟不絶侯也。且礼明如此等之次第'若兵狼米有過分者、即礼返件過分、又百姓等令未済者'
計礼田数、早可令究済之由'尤可蒙御下知侯。兼又没官之所々、蒙院宣井二位家仰侯之問、可令見知之由、
同所令存也。以此由、可令言上給侯。時政誠憧誠恐謹言。
三月一日平時政申文
進上大夫属殿
②︹‑‑亦北条殿言上事'奏聞之由、左少弁所被示送干帥中納言之状、黄門迫北条殿云々。︺
時政申状奏開侯畢.七ヶ国地頭辞退率、尤穏便間食。惣追捕倍率、何棟可侯哉。為遂勧農、停止地所職、無
人愁者'穿神妙'定為其儀欺.兵娘米未済事、又以同前、迎春誌安、窮民若為歎欺、其粂又定相計旨侯欺.没
官所々検知事、自二位御許'上へは申旨も不侯'次第何棟侯哉。委趣尋問子細'且可令計申給之由、内々御気
色侯也。恐悦謹言。
三月二日左少弁
帥中納言殿
③︹・・・‑北条殿被申七ヶ国地頭上表事'兵椴米事、没官所々事'巳経奏聞畢之由'左少弁迫奉書於帥中納言'彼卿
又送其状於北条殿云々。︺
時政申状′奏開皐。
一地頭辞退事'為人愁停止之条、尤為穏便欺。
一惣過補償事、錐替英名'只同前欺。但義経・行家不出来以前、二位卿不申行之外、一向可被止之由'難被
七ヶ国地頭職「辞止」をめぐる鎌倉幕府と後白河院(松島)三一
史料館研究紀要第三J号(二〇〇〇年)三二
計仰。世間不落居之問'毎国置惣追捕便'若又広博庄園許計補者可宜欺。長狭少所々骨悉被補者、喧嘩不
絶'訴訟不尽欺。且令散万人之愁、可為尋出両人之術欺。
一兵娘米未済事'任道理尤可有沙汰欺。
1没官所々事、二位卿無申旨'仰不能被仰左右。
以前粂々'以此趣可被計仰欺。如此事不知子細事也。殊可令掛酌給。今春不軌農者、諸事有若亡欺。能々優
如致沙汰者'定叶天意欺之由'内々御気色侯也.竹言上如件.
三月七日左少弁定長
進上帥中納言殿
①は時政が後白河院と鎌倉幕府の折衝の窓口となっていた藤原経房(の家司)に提出した申文であ‑'②'③はそ
れを聞いた院側の意向を伝奏であった藤原定長が経房に伝えた院宣である。︹Jの中に入っているのが、それぞれ
の文書に付されたr銃Jの地の文である?なお'①を提出した時政が、その最終的な宛先を後白河院と考えていたか
どうかは'後述するようにやや不明な部分が残る。しかし'②'③が経房を経由して時政までの伝達を意図していた
ことは確実である。
これらの史科の連関をどのように捉えるかが、時政の七ヶ国地疏職の実態を考察するための鍵となるのではないか.
たとえば③において後白河院側が述べている内容は、①で時政が言上した七ヶ国地頭職の'実際のありようを反映し
たものと考えてよいのであろうか。すなわち時政の七ヶ国地頭職が、院によって(地頭に替わる)惣追捕使の補任の
対象範囲として言及されている国や広博・狭少の荘園など各レベルの地域に'幅広‑設置されていた諸地頭の総称と
なるのか。またはそのうちのいずれかを指すのか。あるいはそもそもそうした両史料の関連を想定できるのか。こう
した点についての検討は、これまで必ずしも十分になされては来なかったように思える。それゆえ、①の七ヶ国地頭
敬(おそら‑これは'石母田正氏の国単位での地頭論を支える具体的な事例ともなるものであろう)と、荘郷での惣
追捕使への交替(それ以前に設置されていた荘郷地頭が対象となる筈である)にも言及する③の文言との関連につい
て、不得要領なままに問題が残されて来ているのではなかろうか。これら一連の史料は著名なものである一方'当該
期の歴史像を組み立てるためになお検討すべき課題も蔵しているiJいえよう.
以上の問題を考察するためには、時政による七ヶ国地頭職の辞止とは具体的にどのような行為であったのかを確認
する作業が求められる。それは院がこの問題にどの程度まで関わっているのか、ひいては③の院の言い分はどれ‑ら
い現実を反映しているのかを検証する営みにも繋がるであろう。ところで管見の限りでは'この辞止を時政による後
白河院への辞退・返還と捉える見方(これは遡っては、七ヶ国地頭職を時政が誰から与えられたのか‑頼朝か院か(4)Iという問題を引き起こすであろう)がこれまで1枚的であり'例外はこれから述べる或江彰夫氏の所説‑らいだ
ったのではないか。しかし'この辞止の内実を考える場合には、義江説の少な‑とも一部は改めて参照されなければ
ならないと思う。以下ではまず、筆者なりの義江説の整理と再検討を行なってみたい。
三、義江説の整理と再検討
1、義江説の整理
義江彰夫氏は'①の申文について、職を朝廷に返還する上表文の体裁を持っておらず、その文言も「賦与された職
七ヶ国地頭職「辞止」をめぐる鎌倉幕府と後白河院(松島)
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を返上するとか'そのことを朝廷が聞き入れてほしいとかの内容のことは一言も述べていない。自己の有する職を自
己の意志として停止したい旨を一方的に通告するという意味の文章にしかなっていない」(注4前掲書六六四貢。以(5)下同じ)ものであると指摘された。時政が院に対して行なったのは'地頭職の辞退や返還、そのための予備折衝など(6)でな‑'自己の行為(もしくはその意思)の通告であったというこの理解は'①の解釈を進める上での重要な立脚点
になる(「自己の意志として停止」の部分は'後述するようにいささか問題があると思われるが)0
ただ'こうした義江氏の解釈からすれば'従って時政が七ヶ国地頭職を辞止したのは院ではなく頼朝に対してであ
ったtとの理解を導き出すのが最も自然であると思われるが'義江氏は'時政が朝廷(院)から直接この七ヶ国地頭
職を分賜されたとの「印象を持つに至っ」ていたために、朝廷を無視できず、頼朝の了解なしにこうした通告を行な
った(六六七頁)'との理解を示されている。この点は一考の余地があると思う。義江氏は慎重にも朝廷(院)から
時政が直接に地頭職を与えられたとはされず'彼がそうした印象を持った(つまり誤解した)とされたが'それにし
ても時政が院からの直接分与を受けたと誤解するような事態が本当にあり得たのだろうか。かつて安田元久氏が「も
っとも重要なことは'兼実がr北条丸以下郎従等」と表現している程度の頼朝の家人すなわち鎌倉御家人に'この歴
史時点におけて'果して院がその有する沙汰権を直接に分賜するなどということがあり得たかという点であるo・・・‑
時政の社会的地位を過大評価しなければ、彼が院のもつ沙汰権を直接に賜ったものと解することは'全く不可能と言(‑)わねばならない」と鼠べられたのは安当な見解と思われるが、これは義江氏の説かれるところに対してもなお'有効(8)な批判たることを失わ払いであろう。頼朝と異なって院や朝廷とは大きく隔てられた位置に置かれている自らの立場
を忘れるほど時政が舞い上がっていたと見なすのは'彼に少し酷であるように思える。そもそも文治勅許による国地(9)頭職がやがて頼朝の許に集積されて行‑(つまり幕府はその権限自体は失わない)という義江氏の論旨(六八〇頁以