仏
教
教
育
に
関
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る
考
察
ーーとくに法然浄土教における人間形成論について||刀
く
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隆
正
は じ め に 現代は教育という人間の営みが、それ自身がもっている宗教的な深みの次元を喪失した時代である。教育を人間 のありのままの状態のなかからたえず実現の機会をうかがっている可能性を引き出し、人間の本来あるべき姿へ導 き上げる人間形成作用であると規定するならば、現代の教育の危機は、あるべき姿の内容、及び、そこへ導く方途 が、人間の世俗的、自律的活動の範囲内でのみ探求されていることにあるといえよう。かつて、組織神学者のティ リッヒ︵d
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︶は、教育学が﹁永遠なるものと生命との関連によって規定される内容の喪失及び、その結果と して起る、有限なる教育の諸形式に向う方向﹂に制約されており、﹁教育の素材は必然的に知的に取り上げられ、有 ① 限なる現象的形式の認識を通じて行なわれる﹂ようになってしまっていると警一鐘していたが、現代日本の教育学研 究も、有限なるもののみに関心を示し、永遠なるものとの関わりにおいて教育の問題を考えることがほとんど行な われていないのである。 その原因が奈辺にあるか簡単に導き出せないが、その一つに、戦後の教育体制において宗教に対する取り扱いが 仏 教 教 育 に 関 す る 一 考 察 ︵ 永 井 ︶ 七悌教大皐大事院研究紀要第七競 七 四 極めて消極的な態度でしか示されていないことに起因すると思われる。現在、憲法や教育基本法の規定により、公 @ 教育における宗教教育は禁止されていると理解されている。この規定は戦前における国家神道と教育との結びつき を清算するところから生まれたものであり、政教分離という近代諸国家の原則を鮮明にしたものにほかならないの ③ である。しかしながら、宗教教育は、特定の宗派の教義や儀礼を教育し、僧侶や信徒を育成する狭義の宗教教育と、 宗教一般の知識や宗教的情操を養い、宗教が人間生活にいかなる意味をもつかということを明らかにする広義の宗 ④ 教教育との二つの立場が考えられる。ところが、現在の公教育は広義の宗教教育までも否定し、宗教一般に対する 正しい知識を得る機会さえも失わせしめているようであ旬。 例えば、現代アメリカの教育学者フェニックス qF0
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︶は、人間の基本的な関心事とされる宗教と教育との相互関係を現代文化の枠内で検討することにより、﹁広 義の宗教が教育の礎石であり王冠であるという確信である。礎石であるとは、すべての教育活動は教育者がもって いる人生観によって方向づけられるからである。また王冠であるとは、宗教が教育に必要とする明確な目的と決意 ⑤ を与えるからである﹂と述べているが、このような視点こそ現代日本の教育に最も欠けているところではないかと 思われる。さらに憂うべきは、公教育における広義の宗教教育の実践が困難な情勢になっている乙とは、広義の宗 教教育が狭義の宗教教育の前提となったり、地盤となったりするのであるから、狭義の宗教教育の土台さえもゆる がす結果になってきているといえるのである。 このような現況において、われわれは宗教教育の在り方について根本的に再考しなければならないと思われる。 そのための方法としては種々の角度からの接近が考えられようが、広義の宗教教育に目を向けるとともに、狭義の 宗教教育においても、宗教が人間形成の本質にいかなる意味をもつかという乙とを根本的に解明しなければならな いと思われる。即ち、狭義の宗教教育は、宗教的情操の溜養のみならず、宗派の教義をインドクトリ、不 l ションしょうとする機能をもっているが、その教義の背景には、宗祖の深い人間性の把握に基づいた人間形成理念が秘めら れていることはいうまでもないのである。その人間形成理念に基づき、宗祖の人格を敬慕し、その理想的な人間像 に近づこうとするための教育活動こそ狭義の宗教教育であると思われる。 このような狭義の宗教教育について仏教思想を基盤として学的に研究しようとする動きは、既に明治時代に谷本 富により﹁仏教的教育学﹂として提唱されているのであるが、戦前の教育学研究が主として学校教育を対象とし、 しかも、天皇制宗教が公・私立を問わず学校教育における宗教教育を独占し、他の宗教を排他したために、仏教が その本質や思想の内部構造に教育の本質と関わる極めて深い人間形成理念をもっているにもかかわらず、教育学研 ⑦ 究のなかで検討されることはほとんどなかったのである。戦後、教育学研究の領域の拡大とともに、仏教に対する 教育学の関心が主として教育史研究者によって展開されるが、宮坂哲文氏の﹃禅における人間形成﹄や、唐沢富太 郎氏の﹃中世初期仏教教育思想の研究﹄等がエポック・メ
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キングとなり、とくに後者において示された、①人間 ③ 性の把握に基づく人間形成理念。②僧侶教育。③民衆教化。④文化創造と歴史形成。という仏教の教育史的研究の 着服点を基礎として、徐々にではあるが、仏教教育に関する研究が積み重ねられてきているのである。 しかしながら、そのような研究においても、浄土教に対する関心は余り示されていないのである。それは浄土教 が救いの問題に関心を一示し、念仏実践のなかから、いかに人聞が形成されていくかという点にあまり注目されなか ⑨ ったからである。しかし、念仏行の実践においては、当益のみならず、現益としての側面も生じ、現当二世の益を 通じた往生浄土の営みが単なる空間的移動を示すのではなく、心の転換をともなって無限に人格を形成していくと いうところに注目しなければならないのである。われわれは法然が、称名念仏の一行を実践する生活において形成 ⑮ されていった円満なる人格に、念仏行による人間形成作用の結実をみるのである c 仏 教 教 育 に 関 す る 一 考 察 ︵ 永 井 ︶ 七 五梯教大事大皐院研究紀要第七挽 七 六 本論においては、以上のような意図から、仏教教育の一つの試論として、法然浄土教における念仏行の実践によ る人間形成の構造およびその内容について考察し、不求自得に永遠なるものが現成してくる人間形成理念を示し、 人間の自律的な営みの範囲内でのみ考えられがちな現代教育の人間形成理念に対する根源的な問いかけを試みてみ た い と 思 う 。
人間形成の基本構造
(ー) 人間の生命は、自然的なものを生産、加工し、あるいは文化財や文化価値を創造し、さらには人間存在そのもの @ を生成していくという形成作用を自らが担っているといわれている。ところで、﹁形成﹂とは、一般的にいえば、何 ものかを他からある形に形づくっていくことであり、そ乙には何らかの意味で形への可能性︵可塑性︶を前提とし ていることばである。教育学で﹁人間形成﹂と熟語されて用いられる場合、そうした意味を残しながらも、より内 面化され、精神化された意味において使用されている。 ⑫ の は 、 ク リ ー ク ︵ 同 ユ o n F 開・︶であろうと思われるが、彼は従来の教育学が﹁教師!教育過程|生徒﹂という学校教 ﹁人間形成﹂という乙とばを教育学の領域で始めて用いた 育方式の教育観を前提として展開されていることを批判し、人間が社会生活を行なっているより広い、根源的な教 育現象に注目し、包括的な観点に立って教育の本質を究明しようとし、教育概念の拡充と論理的整合をめざし、教 @ 育現象を﹁他者教育﹂と﹁自己教育﹂というこつの大きな概念で理解しようとしているのである。彼の主張に導か れながら、乙こでは人間形成作用を他者による自己の形成作用︵他者教育﹀と、自己による自己の自覚的形成作用︵自己教育︶に分けて考えてみたいと思う。 およそ近代教育学の人間形成論は、自己形成の力乙そ人間の成長、発達のための根本要因であり、そのような原 動力を被教育者の生命のなかから伸ばしていくことこそ他者教育であり、他者による形成作用は、自己の自覚的形 成作用にとってかわることができないとするつ自己活動の原理﹂に基づいて展開されているのである。乙のような 人間形成論は、人聞には生得的な能力が備わっており、その能力の自己形成力への絶対的信頼という前提に立って @ 語られているのである。しかしながら、他者形成という現実は、決して人間形成のための皮相的な作用ではなく、 人間存在の最も根源的な形成作用であるとも考えられるのである。即ち、人間存在は、歴史的、社会的基盤の上に おいて形成されていくものであり、自己形成といえども、その基盤から離れては不可能であり、社会的な形成力は、 他者よりの感化、影響という形であらわれ、また、歴史的な形成力も、過去の無限の歴史を新しい世代に伝達する というはたらきをもっていることからみれば、他者形成を本質とみなせないこともない。また、自己形成作用とい えども、現存在としての自己をあるべき存在としての自己にまで向上せしめることであるから、そこには、主体的 な自我と客体的な自我による形成作用が認められ、 一つの他者形成の構造が考えられないこともないのである。し かも、例えばブ
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冨・︶によれば、﹁精神の生成は身体の生成と同様、内からの発展ではない。むしろ教 育的関係は、第一義的には、我と汝、教育者と生徒との出会いに実現される対話的関係である。人間は汝において 我となん﹂と述べていることと考え合せれば、人間形成作用は本質的には他者形成の構造を基盤として語られてい ると考えられるのである。このような他者形成の構造に重点を置いて、現実的な教育現象、とくに教師生徒とい う関係構造をふまえて、人間形成作用の構造を大浦猛氏の次のような規定を用いて示しておきたい。 ﹁ 教 育 の 主 体 そのものの中に形成作用の原動力がはたらくと同時に、客体それ自身にも自己活動の力がはたらいており、この二 仏 教 教 育 に 関 す る 一 考 察 ︵ 永 井 ︶ 七 七悌教大事大皐院研究紀要第七競 七 /¥ ⑬ つの形成的動力が相即、交入、融合、統一することによって乙そ現実的な内容が成立する﹂としている。まさに人 間形成作用は主客が﹁相郎、交入、融合、統一﹂といった関係が成立する乙とにより、
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という価 値的な目標へ向って引き上げ、向上発展させるという面が生成してくるといえるのである。 (二) 仏道修行はそれが自律的にせよ他律的にせよ、深い人間性の把握に基づいて、人間のあるべき姿ヘ自己を形成し ていく作用であるが、法然も、自己の出離解脱を求めて、経論を学び、それを基盤として仏道の修行を実践したこ とはいうまでもないのである。しかし、それにもかかわらず、法然は、 凡悌数雄 v多、所詮不 v 過 ニ 戒 定 慧 之 三 事 一 。 智 慧 一 不 ν得 ニ 断 惑 詮 果 之 正 智 一 。 然 戒 行 之 人 師 理 云 、 戸 羅 不 ニ 清 海 一 三 昧 不 二 現 前 ︸0
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又凡夫心随 v物易 v移 響 如 ニ 猿 猿−。賞以散乱易 ν動一心難 ν静。無漏之正智何因得 v設。若夫無ニ無漏之智剣−者、如何方断ニ悪業煩悩縄一乎。不 v 断ニ悪業煩悩縄一者、何得 ν 解 ニ 脱 生 死 繋 縛 之 身 一 平 JO 悲哉悲哉、為 ν 何為 v何。麦如 v 予 者 己 非 ニ 戒 定 慧 三 事 之 器 一 、 比 三 皐 外 有 下 相 ニ 慮 我 心 一 之 法 門 主 耶 。 有 τ堪 ニ 能 此 身 一 之 修 行 よ 耶 。 求 ニ 寓 人 之 智 者 − 、 ⑫ 無 ニ ユ 小 v之 倫 一 。 ︵ 中 略 ︶ 然 我 此 身 於 ニ 戒 行 − 不 ν持二戒一、於ニ樟定一一不 ν得 v之 、 於 ニ 訪二切之皐者一無ニ数 v之 人 一 と、自らの求道の体験を述懐しているように、自己が三学を実践できる器でないという自覚をもっ結果となったの ⑬ で あ る 。 およそ三学の実践は﹁四分律﹂に﹁有二三事一。増戒皐増心事増慧事。皐−一比三皐一。得ニ須陀一但斯陀合阿那合阿羅 ⑬ 漢果一。是故首三精進撃ニ比三皐一﹂とあるごとく、初期仏教以来の仏道修行の基本的学習要因であり、八正道や六波@ 羅蜜も、一ニ学に摂せられるといわれている。乙の三学の実践は、持戒において自己の三業を整え、それによって定 が得られ、定の獲得によって慧が完成するという過程が展開され、慧学が中心となっているととはいうまでもなく、 ⑧ 法 然 を し て 、 ﹁ 極 コ 智 慧 一 離 ニ 生 死
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といわしめる仏道修行なのである。 このような三学の実践は、 自己に生得的に 備わっている仏性のはたらきに期待をかけ、その原動力によって自己のあるべき姿を教法をよりど乙ろとして形成 ⑫ ﹁わかちからをはけみて往生をもとむる﹂という自力 していこうとする自己による自己の自覚的形成作用であり、 の人間形成作用にほかならないのである。しかしながら、法然自身は三学を実践すればするほど、三学非器の自覚 を深め、本来具有している仏性のはたらきを自ら開発することが困難であり、自己の自覚的形成作用の原動力に期 待をかけることができなくなり、まさに﹁智識轄劣、垢積最深、恒矯ニ煩悩塵労一之所一一縛蓋一一、異如賞相︵仏性︶無 v ⑧ 由ニ頴現−﹂という絶望的な自覚を生じせしめたのである。そこには到底三学の実践によって、もはや自己の力では 生死を離れることができないという自己形成作用に対する根本的な反省が行なわれているのである。 そこで、罪悪生死の乱想の凡夫には三学を基盤とする仏道の修行は心に相応せず、身に堪えることができないと すれば、そのような者にも相応し、堪える乙とのできる修行を求めなければならず、そうすれば当然従来の三学の @ 実践という枠をはずした仏道の修行を求めざるを得ないのである。即ち、三学の実践は、教法による自己の自覚的 形成作用であったが、教法によって自己を導いていくのではなく、もっとも人間形成の本質に根ざした他者の人格 をよりどころとし、他者の人格に触れることにより、その人格のカによって自己に備わっている仏性を開発せしめ ⑧ し か も 、 ﹁ 一 由 下 去 二 大 聖 一 逢 遠 ヘ 二 由 一 一 理 深 解 徴 一 ﹂ と い わ れ る よ う に 、 今 時 は る方途を求めようとしたのである。 末法であり、釈尊の人格による直接的な導きは求める乙とができず、さらに釈尊の説かれた教法は、理が深遠であ り、それを理解する者の能力は徴劣であるとすれば、まさしく教法によって生死を離れようとする人間形成の方途 仏 教 教 育 に 関 す る − 考 察 ︵ 永 井 ﹀ 七 九悌 教 大 事 大 事 院 研 究 紀 要 第 七 挽 八, 0 は全く困難であるのである。そ乙には、どうしても﹁不 v還 ニ 智 慧 一 、 不 レ 護 コ 戒 行 一 、 不 レ 調 − 一 心 器 一 、 只 々 無 − 一 甲 斐 一 成 = ⑧ ⑫ 無智者一、選二本願一願ニ往生一﹂というように、﹁併のちからをたのみたてまつる﹂という他者の人格をよりどころと して、その直接的な人格の導きによる人間形成の方途しかないのである。幸にも、西方浄土には三世を貫き、常に ⑧ 現在仏として現実世界に永遠に関わりをもち、衆生を常に導こうとしている阿弥陀仏がまします。まさに法然は、 この阿弥陀仏を他者として、その人格力によって、自己の本来あるべき姿に導いていってもらおうとする他者形成 を基盤とした人間形成論を展開しようとしたのである。
仏・凡の呼応による人間形成
(一) とを求めているが、 法然は阿弥陀仏と衆生とを直結せしめる行として、阿弥陀仏の仏意に基づいて選ばれた称名念仏の一行を修す乙 ⑧ 阿弥陀仏の名号を称える口称念仏は、﹁阿弥陀傍におきて親しき行﹂といわれるように、 阿 弥 陀仏と衆生とを人格的に結ばしめる根源的な要素をもっているのである。 通常、われわれが名を呼ぷとはいかなる意味をその背景としてもっているであろうか。われわれはある者の固有 名をたよりにしてその人を理解しようとする。例えば、集団のなかから特定の者を呼びだすときゃ、第三者に特定 の者の話をするときなどその者の固有名を用いる。そこには、名が呼びかけという特性を根源的に内在しながら、 しかも、呼ばれる者の人格を予想させるのである。 ポルノ l ︵ 回 。 ロgF0
・ 司 ・ ︶ に よ れ ば 、 ﹁ある人を呼ぶ︵召換す る ︺ ︵ い0
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品 吉 岡 Oロ︶とは、強調された意味においてかれに向い、かれに呼びかけ、かれにとちらにくるようにと命⑧ ずることである。人はかれを、とくにその名で呼ぶのである﹂と述べているように、直接的に人格に語りかけ、名 を呼ばれたものはその名において応えるということが予想されているのである。 法然も、阿弥陀仏の名号を称えることを次のように示している。 南無阿繭陀悌といふは、別したる事には思べからず。阿調陀ほとけ我をたすけ給へということばと心えて、心 @ 口には南無阿禰陀悌と唱るを、三心具足の名競と申也。 にはあみだほとけたすけ給へと思ひて、 と述べているように、阿弥陀仏の御名を呼ぶことはその助けを呼び求めることであり、阿弥陀仏の全人格が傾けら ⑧ れた願力の発現を求める乙とにほかならないのである。また、 一方、呼ばれた阿弥陀仏も自己の名が呼ばれれば、 直ちに応ずることができるようにと待ち構えているのである。 御目を見まはして、わか名を称する物ゃあると、よるひるきこしめさせるる也。されは一称も一念も阿繭陀に ⑧ しられまいらせすといふ事なし。 とある。このような阿弥陀仏の姿は、ポルノーが﹁きみはわたしの名を呼んだとは、きみの要求をまったくわたし ⑧ 個人に向けたというほどの意味である﹂と指摘するように、名を呼んだものの願いを一心に引き受け、しかも、自 己の名においてその全人格を発現して、その者を導こうとするのである。このように称名念仏の実践は、阿弥陀仏 ⑧ と念仏の衆生との人格的な呼応関係を生ましめてくるのである。 ところで、阿弥陀仏と衆生との関係は、 ⑧ ﹃阿弥陀経﹄の表象にあるように﹁十万億悌土﹂の隔たりにおいて示さ れているが、そのような差異にもかかわらず、阿弥陀仏と衆生との人格的な呼応の関係においては、呼と応とがそ れぞれ独立して存在するのではなく、呼応の深まりを通じて、両者の関係が親近性をもってくるのであり、まさに @ ﹃観無量寿経﹄に示される﹁去 v 此不 v 遠﹂の関係へと転換されてくるのである。阿弥陀仏と衆生とのこのような関 仏 教 教 育 に 関 す る 一 考 察 ︵ 永 井 ︶ }\
併設大事大事院研究紀要第七挽 /¥ 係を善導は、親縁、近縁、増上縁の三縁によって示そうとしたが、とりわけ近縁の構造こそ、阿弥陀仏と衆生との 根源的な関係を示すものとして注目される。即ち、 衆生起 v行心口常稽 v 悌 、 悌 郎 聞 レ 之 。 身 常 藤 − 一 敬 悌 一 、 梯 卸 見 v之。心常念 v 併、悌即知 v之 。 衆 生 憶 ニ 念 悌 一 者 、 悌 憶 一 一 念 衆 生 一 、 彼 此 三 業 不 一 一 相 捨 離 一 、 故 名 一 一 親 一 縁 一 都 と述べるように、阿弥陀仏と衆生との人格的な呼応関係を身口意の三業によって象徴的に表現し、三業が捨離しな い親縁の関係を示しているのである。乙の善導の親縁釈をふまえて、法然も、 阿繭陀傍の三業と行者の三業と、かれこれひとつになりて、梯も衆生も、おや子のことくなるゆへに親縁と名 ⑧ つ く 。 と述べるように、称名念仏によって阿弥陀仏と衆生との呼応の関係から、両者の親密性が生まれ、単に対応する関 係にあるのではなく、 ﹁かれこれひとつになる﹂という一如の事態が生じせしめられてくるととを示しているので ある。このことはすでに指摘しておいたように、人間形成作用においては、形成の主体と客体とが﹁相即、交入、 融合、統一﹂というような面をもって乙そ、客体を引き上げ、向上せしめられるのであるとしたが、まさに称名念 仏の実践によって、阿弥陀仏と衆生とが﹁かれこれひとつになる﹂というところに人間の形成が展開されてくると いえよう。高山岩男氏も、 ﹁呼応が連続していってそれぞれ特質的な︵即ち一回的、個性的な︶呼と応とを喚起し ていくというだけには止まらない。更にそれは、応える者は応えることにおいて実は呼んでおり、呼ぶ者は呼ぶこ とにおいて実は応えているという事態をも示している。呼応は本来的に相互的、交互的である。呼は呼にして同時 に応であり、応は応にして同時に呼である。即ち、呼は自身の中に無限に呼応を映じており、応はそれ自身の中に 重々に呼応を映じている。呼応は時の中に新たな呼応を換起して連なるだけでなく、同時的に相互の中に呼応を蔵
しているのである。そして呼応があるということは呼応的同一があるということであった。呼応において或る新た なものが出現する。創造せられるということは、従ってそこに呼応的同一性が存することであり、呼応的問一が存 @ する境が即ち新たなものの出現、創造ということである﹂と述べているが、このような理解に基づくならば、称名 念仏による阿弥陀仏と衆生との関係が、単に静止的な、 一時的な﹁かれこれひとつになる﹂という状況を生むだけ でなく、念仏行の相続による呼応の連続は、そこに常に新たな創造を生ぜせしめることを示しているのである。こ こに法然浄土教における称名念仏による人間形成の原理を見い出すとともに、そ乙において形成される内容が可能 性として無限の深まりをもっている乙とを示唆するものであるといえるのである。即ち、法然も、 無 上 功 徳 者 是 封 ニ 有 上 一 之 言 也 。 以 一 一 徐 行 一 而 篤 二 有 上 一 以 ニ 念 悌 一 而 矯 一 一 無 上 一 也 。 既 以 二 念 一 位 周 二 無 上 一 。 嘗 以 二 十 藤、念 恒 魚
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又 以 二 百 念 一 矯 一 一 百 無 上 一 、 又 以 二 千 念 一 矯 二 千 無 上 一 。 如 v是展轄従 v少 至 v多念悌恒沙無上功徳復 と述べるように、称名念仏によって無上功徳を享受できる世界が開かれてくるのである。 (二) このような称名念仏の実践による阿弥陀仏と衆生との人格的呼応の関係から生ずる人間の形成作用は、 @ 縁ト名競ノ因ト和合セハ、掻取不捨/盆ヲ蒙一フム事不 v 可 ν疑。﹂というところに、具体的に現成してくるのである。 ﹁ 光 明 ノ 即ち、阿弥陀仏の光明と衆生が称える名号とが因緩和合することにおいて、念仏者が救いの利益を受けることがで きるとしているのであり、光明と名号という視点において、人間形成作用が諮られているといえるのである。 ところで、本来一如の事態で問題としなければならない光明と名号とを、ここではあえて分割して、それぞれが 仏 教 教 育 に 関 す る 一 考 察 ︵ 永 井 ︶ /¥悌教大事大事院研究紀要第七親 J¥ 四 @ もっている作用から、念仏者の具体的な人間形成の内容をみることにしよう。まず、名号については、法然は﹃選 択集﹄において、 名競者是高徳之行 ν婦也。然則繭陀一悌所有四智三身十力四無畏等一切内詮功徳、相好光明説法利生等一切外 @ 用功徳、皆悉揖−一在阿繭陀悌名号之中一、故名競功徳最矯 v 勝 也 。 と述べるように、名号は阿弥陀仏の一切の功徳を含むものであるとしている。その名号を称えることによって阿弥 @ 陀仏のもっている一切の功徳を享受できるのは、曇驚が﹃往生論註﹄に引く浄磨尼珠の警をふまえて、法然は、 時伊摩尼珠といふたまを、にこれる水に投くれは、たまの用にぬてその水きよくなるか乙とし。衆生の心はつね に名利にそみて、にこれるかの水の乙とくなれとも、念悌の摩尼珠を投くれは、心のみつおのつからきよくな ⑧ りて、往生をうる事は念併のちから也。 と述べるように、万徳所帰の名号が清浄であり、名号が濁心に投ぜられることによって、自然に濁心が清浄な心に 転換されていくとしているのである。 @ 一方、光明については、﹃無量寿経﹄に阿弥陀仏の十二光を示した後に、﹁遇二斯光一者、コ一垢消滅身意柔摂歓喜踊 ⑧ 躍善心生﹂と述べているが、法然は﹃逆修説法﹄において、乙の十二光のなかの清浄光と歓喜光と智慧光の形成作 用を具体的に展開している。 清海光者、人師樟云。無貧善根所生光也
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貧有乙二姪貧財貧也。清揮者、非三但除二却汗積不海−、断−一除其 二 貧 一 也 。 貧 名 ニ 不 揮 一 故 也 。 若 約 ν戒者、首ニ不姪戒不健貧戒一。然者法戴比正昔不姪不僅貧所生光故、鯛コ此光一 者 滅 一 一 貧 欲 之 罪 一 。 若 有 v 人貧欲盛雄 v 不 ν 得 ν持 ニ 不 姪 不 貧 戒 一 、 至 v 心 専 念 一 一 此 阿 調 陀 併 名 競 一 者 、 部 彼 併 放 ニ 無 貧 清 滞 之 光 一 照 鰯 掻 取 故 、 除 − 一 姪 貧 財 貧 之 不 津 一 、 減 ニ 無 戒 破 戒 之 罪 徳 一 、 成 一 一 無 貧 善 根 身 一 、 均 一 一 持 戒 清 津 人 一 也 。 次 歓喜 光 者 、 此 是 無 腰 善 根 所 生 光 也 。 久 持 一 一 不 旗 悉 戒 一 得 ニ 此 光 一 故 一 去 一 一 無 損 所 生 光 一 。 鰯 ニ 此 光 一 者 滅 一 一 撰 意 罪 一 。 掛ミ
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雄 二 旗 増 盛 人 一 、 専 修 一 一 念 悌 一 者 、 以 ニ 彼 歓 喜 光 一 掻 取 故 、 損 意 罪 滅 同 一 一 忍 辱 人 一 。 是 亦 如 三 前 清 海 光 滅 ニ ム 員 欲 罪 一 企 ︿ 。 次智恵光者、此是無療善根所生光也。久修二切智恵一、断ニ謹愚凝之煩悩一得一一此光一故、云ニ無療所生光一。此光 ⑬ 亦 滅 一 一 愚 凝 之 罪 ︸ 。 然 者 雄 二 無 智 念 悌 者 一 、 照 二 彼 智 悪 光 一 掻 取 故 、 即 滅 一 一 愚 療 徳 一 、 輿 ニ 智 者 一 無 ν有 一 一 勝 劣 一 。 このような阿弥陀仏の光明に照触することにより、貧欲、願意、愚療の三毒の煩悩を滅して、持戒清浄にして、 忍辱のある、智者と何らかわることのない人聞に形成されることを示しているのである。 このように名号と光明とに分けて、それぞれがもっている人間形成作用の内容をみてきたが、それらは称名念仏 を実践するなかにおいて本来一如の事態として生成してくるのである。さらにいえば、名号を称えることによって はじめて光明の作用を受けるのであるから、根源的には名号において人間形成の内容が語られているといってもよ い で あ ろ う 。 このように、法然浄土教における人間形成作用は、称名念仏を通した仏・凡の人格的呼応の関係から生じ、その ⑨ 内容はまさに阿弥陀仏と名体相即である名号においてとらえられ、衆生が称名念仏を実践するなかで、不求自得に 衆生の人格が阿弥陀仏の人格に同化せしめられていくといえるのである。称名による心意の形成
(一) 称名念仏の実践により、仏・凡が呼応の関係を結ぶなかにおいて、光明、名号の作用によって、念仏者の人格が 仏 教 教 育 に 関 す る 一 考 察 ︵ 永 井 ︶ /・\ 五梯教大事大事院研究紀要第七貌 !¥ /, 形成されるという構造を示してきたが、そのような構造の上に立って、未信仰の者をいかに念仏者に育てあげ、そ こにいかなる心意が形成されてくるかという問題を考えてみたい。 が異なる。しかしながら、 念仏実践は、﹁上尽一行﹂より、﹁下至十声一声﹂といわれるごとく、個々の念仏者において、その深まりの度合 ⑧ ﹁信をは−念にむまるととりて、行をは一形にはけむへし﹂と述べられるように、
二 戸
十声に腰を据えて念仏実践が考えられるのではなく、 ﹁一形にはけむ﹂という点を重視しなければならない。乙の ことは先に指摘したように、称名念仏には阿弥陀仏との呼応の関係によってど乙までも深まりが生成されてくると ⑧ ﹃念仏往生要義抄﹄などに示されるように、十声と一声の念仏に いう実践構造をもっているからである。確かに、 功徳の差はないと法然は述べているが、それはあくまで当益の面であるはずである。法然が臨終まで称名念仏の相 続を求めているのは、そこに連続的な人間形成の方式を基盤にもちながらも、さらに一声十声でもという瞬間的、 一時的な非連続的な人間形成の方式を加味しているのであり、それら二つの形成作用を合せて、全体として、いつ でも、どこでも、いかなる者でも、平等往生ができるという人間形成の方途を示しているのであ句。故に、乙こで は称名念仏の深まりのなかでいかに人聞が形成されていくかという乙とを視点として論を展開するのである。 すでに述べたごとく、名を呼ぶという行為は、そこに相手に対して何らかの要求を秘めてその名を呼ぶのであり、 阿弥陀仏の御名を称えるということも、阿弥陀仏に対して﹁仏われをたすけたまえ﹂という心意を前提に語られて いるといえるのである。 あの阿波介も悌たすけ給へとおもひて南無阿調陀併と申す。源空も悌たすけたまへとおもひて南無阿調陀併と @ こ そ 申 せ と述べているように、阿弥陀仏に対して、助けたまえという帰命の心が具備されていて乙そ、口称の念仏ができるのではないであろうか。しかしながら、そのような帰命の心がすでにある者のみが称名念仏の実践をするというの では、一切衆生平等往生のために選ばれた称名念仏が、本来の姿を発起することができていないといわなければな ⑧ らない。法然は﹁往生之業念併潟先﹂というのであるから、いまだ阿弥陀仏に対して﹁われを助けたまえ﹂という 帰命の心が熟していない者に対しても、称名念仏をすすめていることはいうまでもない。それ故、阿弥陀仏に対し て帰命以前の人、即ち、いまだ信仰を持ち得ない人に、帰命の心を起こさしめ、さらにその信仰を堅固なものとし て深めさせていく何らかの配慮が称名念仏の実践のなかになされているとみなさなければならない。乙とで取り上 げようとする法然の﹁念声是一論﹂こそ、信仰形成の問題を解明する一つの手がかりを示してくれているといえる の で あ る 。 ⑧ ⑧ ﹃選択集﹄第三章念仏往生本願篇に、善導が﹃観念法門﹄や﹃往生礼讃﹄にお いて、第十八願文の﹁及至十念﹂を﹁下至十聾﹂と云い換えたことをふまえて、 いうところの﹁念声是一論﹂は、 間 日 経 云 一 一 十 念 一 稗 云 一 十 聾 一 。 念 聾 之 義 如 何 。 答 目 撃 念 是 一 。 何 以 得 v 知。観経下品下生云、令ニ整不 v絶 具 一 一 足 十 念 一 稀 ニ 南 無 阿 覇 陀 悌 一 。 稽 一 一 傍 名 一 故 於 ニ 念 念 中 一 除 ニ 八 十 億 劫 生 死 之 罪 一 。 今 依 ニ 此 文 一 聾 即 是 念 。 念 郎 是 聾 其 意 明 企︿。加之大集月賦経云大念見ニ大悌一小念見ニ小悌一。感師理云大念者大聾念悌。小念者小聾念併。故知、念郎是 ⑧ 唱 也 。 と述べているのがそれである。この文を理解するのに、良忠の﹃決疑紗﹄の解釈を示してみると、 一 云 念 通 ニ 観 稽 一 本 願 十 念 是 稽 念 也 。 矯 v額 二 比 義 一 簡 ニ 嬰 観 念 一 云 ニ 念 聾 一 同 − 。 再 往 論 v 之 、 ⑧ 所 設 語 整 色 心 瞳 異 能 所 義 別 不 レ 可 と 一 一 一 口 一 一 念 直 爾 聾 一 也 。 念是等起意 l 念、聾則 @ 第一の解釈は、法然も、﹁傍ノ稽名ノ願ナルカユヘニ、コヱヲアラワスヘキナリ﹂とか、﹁併の本願の稽名なるかゆ 仏 教 教 育 に 関 す る 一 考 察 ︿ 永 井 ﹀ /¥ 七
梯教大皐大皐院研究紀要第七挽 J¥ }\ @ へに、聾を本拡とはおほしめすへきにて候﹂と述べるように、阿弥陀仏の本願の理解に基づいて、念が声と置き換 えられているのである。次には再往の義として解釈するところによれば、念は称えようとする端的の心で、声はそ の心と間髪を入れずに発こる語声であって、心業と口業との差はあっても、称えようとする心が声になって現われ るのであるから、念と声とは一であるとしている。しかし、良忠の解釈からは、法然が﹃選択集﹄において、﹁念声 是一論﹂を展開している根本的な意味が理解されていない。即ち、 ﹃選択集﹄でもとくに草稿本といわれる庫山寺 本において、﹁念聾之義如何﹂という問いに対して、﹁聾念是一﹂とあえて念と声を入れかえて答えていること、さら に﹁聾即是念﹂という文を﹁念即是聾﹂という文の前において文章を構成しているところに注目しなければならな いのである。﹁念﹂とは﹁ほとけ我を助けたまえ﹂という帰命の心がすでにある人が起こす念仏であり、その﹁念﹂ の前にあえて﹁聾﹂を置いていることは、いまだ帰命の心のない信仰の熟さないものが称える念仏が配慮されてい ると理解できないであろうか。法然が﹁聾即是念。念即是聾﹂と述べるのは、未信仰の者でも、口称の念仏をなす ことによって、帰命の心が聞かれてき、その帰命の心がまた口称となってあらわれてくるという信仰の形成過程を @ 示すものであると理解できるのである。 しかしながら、このような理解を他の法然の遺文において論証することはできないが、良忠の﹃散善義記﹄に示 される見解によって傍証することができると思われる。 所 ニ 以 然 一 者 凡 夫 雄 v 修 ニ 自 徐 秒 行 一 其 心 散 漫 而 不 一 一 相 績 一 其 行 難 ν成。唯稽名行常不 v 忘 v悌。不 ν忘 ν 悌 故 成 ニ 決 定 業 一 。 謂 心 忘 ν悌 時 口 稽 ニ 併 名 一 其 聾 入 ニ 我 耳 一 引 ニ 起 我 心 念 一 。 心 念 若 起 此 念 亦 勧 ν 聾令 ν 勝願院云凡夫行中稽名最勝。 唱 ニ 悌 名 − 。 是 故 念 勘 ν 聾聾起 v 念常不 v忘 v悌 。 有 ニ 比 盆 一 故 法 蔵 比 丘 立 ニ 稽 名 願 一 。 賓 望 ニ 凡 夫 一 時 高 行 高 善 中 稽 名 第 ⑧ 一 行 。
この文によれば w 称名念仏の声が耳に聞こえて心意を引き起こし、その心意がまた声を勧めるということを示して い る D この理解は、まさに法然の﹁念声是一論﹂を解明する手がかりとなるといえよう。しかも、第二章のなかで 述べたように、称名は呼応の原理を根源的にもっており、それは単に一回性のものでなく、呼応が新たな呼応を生 んでいくのである。故に、﹁声←念←声﹂と循環して念仏者の心意がラセン的に深められていくところに法然が示し た﹁念声是一論﹂の内容があり、それはとりもなおさず、法然の信仰形成論を物語っているといえるのである。 このような法然の念仏実践に対する配慮は、そこに﹁型﹂の修行によって、心の陶治を図るという一つの教育形 式を認める乙とができよう。口称念仏の実践が先ず求められているととは、心意が伴わなくとも﹁型﹂に入る乙と によって、﹁型﹂自身から自然に﹁行﹂を成す心ができ、﹁型﹂にとらわれず、﹁型﹂を超越するという人間形成が説 かれているのである。このような﹁型﹂の教育は、道元の﹁只管打坐﹂や、日蓮の﹁唱題目﹂というように鎌倉新 @ 仏教の一つの実践原理でもあるといえるのである。 (二) 法然浄土教における信仰形成の問題は、 成されてくるのである。即ち、 ⑧ ﹁声﹂を離れて語れないのであり、称名念仏の深まりのなかで心意が形 名競ヲ称スルハ、念ヲ成セムカタメ也。モシ聾ヲハナルルトキ、念スナワチ悌怠スルカユヘニ、常恒−一穂唱ス ⑧ レハスナハチ念相績ス。心念ノ業、生ヲヒクカユへ也。 と述べるように、称名念仏は、ともすれば心が散乱し、行が相続しない凡夫の悌怠心を防ぎ、相続することによっ て、そこに確固たる心意を起こさしめるのである。法然はその心意を﹁決定往生心︵信︶﹂として、念仏実践の一つ 仏 教 教 育 に 関 す る 一 考 察 ︵ 永 井 ︶ /¥ 九
悌教大事大事院研究紀要第七披 九
。
の指針としているのである。即ち、 心に往生せんとおもひて、口に南無阿禰陀悌ととなえば、こゑについて決定往生のおもひをなすべし。その決 一 切 一 定によりて、すなはち往生の業はさだまる也。 と述べているのである。この決定往生心は、﹁決定心ヲスナワチ深心トナツク、ソノ信心ヲ具シヌレハ、決定シテ ⑧ 往生スルナリ﹂と述べられるように深心を内容としているのである。故に、この決定往生心は、固定的な信と考え 一 回 一 るのではなく、深心の内容を基盤とした信仰の構造において理解しなければならないと思われる。即ち、称名念仏 の実践のなかで形成される決定往生心は、自己に決定往生の思いが確立していないという自覚と、どこまでも決定 往生の思いにあろうとする意欲という逆説的な信仰内容をもっている。そこには決定往生の思いの内にありながら も、さらに深い信の確立に向って常に生成しつつあるという心意が秘められているのである。故に、 たとひ決定往生の信心を起とも、其後、稽念する事なく、ならびに小罪なりとも、乙れを犯して後機悔せずば、 敢て往生を遂がたく働。 ⑪ と述べるように、決定往生心は不退転の信心ではなく、念仏の相続がなければ退転してしまう乙とはいうまでもな い。ここに決定往生心が固定的でなく、常に生成の内にある念仏者に現われてくるということがいえるであろう。 このような決定往生心は、その深まりのなかで、念仏者の心意に新たな世界を開かしめてくるのである。例えば、 @ ﹁歓喜踊躍心部護、可 ν知二三心具瑞︸。歓喜者、往生決定思故喜心也﹂とあるように、永遠なる世界に往き生まれ ⑮ るという確信に満ちることによって、歓喜踊躍の心が生じてくるのである。その喜びは、単なる世俗的な喜びでは なく、その喜びが一切の世路の営みに打ち入む力を与え、 一切の行為を永遠なるものとの関わりのなかでとらえさ せようとするのである。我ココロ弥陀悌ノ本願ニ乗シ、決定往生ノ信ヲトルウエニハ、他ノ善根−一結縁シ助成セム事、 @ ルヘカラス。ワカ往生ノ助業トナルヘキ也。 マタク雑行トナ と述べるように、決定往生心が確立すれば、たとえ雑行に結縁して、それを実践したとしても雑行にはならず、む しろ往生の助業となるとしている。その理由を法然は善導の廻向発願心釈に求めている。即ち、 過去及以今生身口意所 v修世出世善根、及随ニ喜他一切凡聖身口意業所 v修世出世善根一、以比自他所修善根一悉 ⑮ 皆異質深信心中廻向願 ν 生 彼 国 一 。 故 名 ニ 廻 向 護 願 心 一 也 。 とあるのである。故に、もともと往生行でない雑行が、真実深信心中、即ち、決定往生心中に廻向されることによ り、往生の因となり、往生行の助業となるのである。この意味において、世路の営みも往生の助業となってくるの ⑫ で あ る 。 例 え ば 、 ︵中略︶衣食住の三は、念悌の助業也。これすなはち自身 ⑫ 安穏にして念悌往生をとげんがためには、何事もみな念梯の助業也。 現世をすぐべき様は、念悌の申されん様にすべし。 と述べられている。まさに、決定往生心の確立によって、 されてくるのであり、世俗の行為にも積極的に打ち入むようになってくるのである。そ乙にはいままで、余事をし ⑬ ﹁ 念 悌 を 申 し
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\乙れをする﹂という姿に生まれかわってくるのである。 一切の世俗の行為も、永遠なるものとの関わりがもたら つつ念仏していたにもかかわらず、 このような決定往生心確立後の心意は、称名念仏が始め世俗の行為の選捨から、世俗を否定したなかで実践され るにもかかわらず、その深まりのなかで、世俗の行為を永遠なるものと関わるように価値転換させ、その行為にも 積極的な意義を認めるという世俗肯定の立場を生むのである。それはもとの古い生活が全く捨てられ、何か新たな ものが生まれてくるというのではなく、称名念仏の深まりのなかで、より高次な現実肯定という心意を自然に形成 仏 教 教 育 に 関 す る 一 考 察 ︵ 永 井 ︶ 九傍教大事大事院研究紀要第七競 九 してくるのである。その現実肯定は単なる自我実現的な態度や自己肯定的な態度ではなく、称名念仏を通す乙とに よって、無我的人聞に自然に議されてくるのである。 いけらば念悌の功つもり、しならば海土へまいりなん。とてもかくても此身には、思ひわづらふ事ぞなきと思 ⑨ ぬれば死生ともにわづらひなし。 と述べられるように、称名念仏の実践により、永遠なるものとの関わりにおいて生かされる人間は、生死という対 立する世界を越えて、乙の今の現実を生きているという喜びに満ちた生活を送るのである。まさに、称名念仏の一 行から、常に﹁永遠の今﹂を往き生くという心意が形成されてくるところに、法然湾土教における人間形成論の特 異性があるといえるのである。
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以上、法然浄土教における人間形成論の一端を述べたにすぎないが、それらが単に宗教的世界でのみ語られるも のであってはならないのである。人間の基本的な関心事である教育との相互関係のなかで、いかに現実の人聞を本 来あるべき姿に形成していくかという問題が解明されてこそ実りあるものとなるであろう。例えば、ティリッヒは ﹁組織神学﹄の序文のなかで、﹁教育の諸目標およびその方法は、︵中略︶その倫理的ならびに技術的形式のなかで、 またそれを通してわれわれに究極的に関わることがらを媒介とする力をもっているという視点から、神学の対象と ⑧ なりうる﹂と述べているように、従来の宗学の枠を越えて、教育の問題に関心を示し、教育が人間存在を救う力に 究極的に関わろうとすれば宗教的機能を包有していくということを認めねばならないのである。とくに上述のよう な現代の公教育がもっている限界性を、宗門学校における宗教教育の活動のなかでこそ越えていかねばならないと⑧ すれば、宗義と教育という問題は早急に解明を必要とされるのである。しかし、ここでは、現代の教育との関わり のなかで、法然の人間形成理念がいかなる問題を提示するかという乙とを若干指摘しておくのみで、結びとしてお き た い 。 第一に、生得的な自己形成力に対する絶対的信頼に基づく教育観が前面に出されている現代の教育に対して、教 育活動は教師がもっている人生観に方向づけられるという他者による人間形成作用の根源的な見直しが必要である。 とくに宗教教育の実践が教師の人格に帰結することとも考え合せて、自己形成力に対する絶対的信頼の反省、さら に人間形成作用における救済論的視点の欠如の反省が必要であろう。 第二に、称名念仏のみならず、仏教の﹁行﹂に対する教育的関心の欠如である。そこにみられる﹁型﹂に入りて ﹁型﹂を超えていくという形成作用は、単に仏教の﹁行﹂のみならず、芸道教育などにみられる根源的な人間形成 第三に、現代教育の自我肯定による自己実現の拡大に対して、 論であり、あまりにも合理的な思考のなかでのみ考えられている現代の教育活動に対する反省を示すものでもある。 ﹁行﹂を通して、自我を否定し、永遠なものとの 関わりにおいて、無我的な人間を形成し、現実を積極的に肯定していくという宗教的人間形成理念に対する注目が 必 要 で あ ろ う 。 ① 註
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昨 日 。 ロ 3 菅 円 吉 ・ 後 藤 真 其 氏 訳 ﹃ 現 代 の 宗 教 的 状 況 ﹄ 一 O 三 J 一 O 四 頁 。 憲 法 第 二 O 条 第 三 項 に ﹁ 国 及 び そ の 機 関 ほ 、 宗 教 教 育 そ の 他 い か な る 宗 教 的 活 動 も し て は な ら な い ﹂ ど し 、 こ の 規 定 を う け て 教 育 基 本 法 第 九 条 第 二 項 に ﹁ 国 及 ぴ 地 方 公 ② 仏 教 教 育 に 関 す る 一 考 察 ︵ 永 井 ︶ ⑦ ① ③ 共 団 体 が 設 置 す る 学 校 は 、 特 定 の 宗 教 の た め の 宗 教 教 育 そ の 他 宗 教 的 活 動 を し て は な ら な い ﹂ と あ る 。 田 中 耕 太 郎 氏 ﹃ 教 育 基 本 法 の 理 論 ﹄ 五 八 O 頁 参 照 。 小 林 澄 兄 氏 ﹃ 教 育 学 概 論 ﹄ 二 O 七 J 二 O 九 頁 参 照 。 教 育 基 本 法 第 九 条 第 一 項 の ﹁ 宗 教 に 関 す る 寛 容 の 態 度 及 九悌教大事大事院研究紀要第七強 ③ ぴ宗教の社会生活における地位はこれを尊重しなけれぼ ならない﹂どいう規定を積極的に理解して、公教育にお いても、広義の宗教教育は可能であるとする。 句 ・ 出 ・ 同 v v o E M C E 河 巳 目 的 目 。 ロ ω ゎ 。 ロ 825E ゎ 。 ロ 件 。 話 回 百 円 山 門 司 開 仏 ロ の 己 目 。 ロ = 佐 野 安 仁 ・ 愛 川 照 子 氏 訳 ﹃ 現 代 教 育 の 宗 教 的 関 心 ﹄ 一 一 頁 。 拙稿﹁仏教教育についての一考察||特に戦前の研究動 向 に つ い て ﹂ ︵ ﹃ 仏 教 論 叢 ﹄ 第 一 二 号 所 収 ︶ 参 照 。 唐 沢 富 太 郎 氏 ﹃ 中 世 初 期 仏 教 教 育 思 想 の 研 究 ﹄ 一 一 ニ J 一 八頁参照。その他、研究方法論において注目すべき刊本 ほ 、 藤 謙 敬 氏 ﹃ イ ン ド 教 育 思 想 史 研 究 ﹄ 、 大 谷 時 中 氏 ﹃ 仏 教教育学研究叙説﹄、下程勇吉氏﹃宗教的自覚と人間形 成 ﹄ 、 斎 藤 昭 俊 民 ﹁ 日 本 仏 教 教 育 史 研 究 ﹄ ﹃ 近 代 仏 教 教 育 史 ﹄ 、 井 上 義 巳 氏 ﹁ 日 本 教 育 思 想 史 の 研 究 ﹄ 等 が あ る 。 ﹃ 選 摂 集 ﹄ 第 一 一 章 に ﹁ 凡 流 二 五 種 嘉 審 蒙 三 一 尊 影 護 − 。 此 現 盆 也 。 亦 往 − 一 生 浄 土 − 乃 至 成 傍 。 此 是 嘗 盆 也 ﹂ ︵ ﹃ 昭 和 新 修法然上人全集﹄八以下﹃法全﹄ど略す
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一 二 三 八 頁 ︶ こ の よ う な 問 題 点 は 、 河 波 田 田 氏 ﹃ 浄 土 宗 の 教 え ﹄ 第 三 部 第二章﹁法然浄土教の位置づけ﹂に示唆を受けた。 木 村 素 衛 氏 ﹃ 形 成 的 自 覚 ﹄ 参 照 。 同 ・ 関 門 町 長 一 E 宮g
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問 J S N U ・ 開 ・ 同 止 め の W U E 阿 V H H 出 。 ω。 UHM 宮 内 問 。 ﹃ 開 門 N−
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・ 品 、 円 ∞ ・ m O J臼 ・ ⑦ ③ ① ⑬ ⑬ ⑫ ⑪ 九 四 ⑭ 宮 寺 晃 夫 氏 ﹁ 近 代 に お け る 能 力 の 形 成 論 ﹂ ︵ ﹃ 人 間 像 の 探 求﹄教育学研究全集第一巻所収︶参照。 ﹃ ブ l パ i 著 作 集 ﹄ 第 八 巻 一 O 五 頁 。 大浦猛氏﹁社会的人間形成どしての教育 1 1 教育の本質 に関する基礎的研究i
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﹂ ︵ 教 育 大 学 講 座 ﹃ 教 育 原 理 ﹄ 所 収 ︶ 一 二 九 頁 。 ﹃ 浄 土 宗 全 書 ﹄ ︵ 以 下 ﹃ 浄 全 ﹄ ど 略 す ︶ 第 七 巻 九 五 頁 上 下 。 三学非器の自覚については、藤堂恭俊氏﹁浄土宗開創前 後 に お け る 法 然 の 課 題 を め ぐ っ て ﹂ ︵ ﹃ 仏 教 文 化 研 究 ﹄ 第 一 七 号 所 収 ︶ 参 照 。 ﹃ 大 正 新 倍 大 蔵 経 ﹄ 第 二 二 巻 九 九 六 頁 下 。 香 川 孝 雄 氏 ﹁ 浄 土 教 に お け る 人 間 形 成 論 ﹂ ︵ ﹃ 仏 教 文 佑 研 究 ﹄ 第 一 四 号 所 収 ︶ 参 照 。 ﹁ 三 心 料 簡 お よ び 御 法 語 ﹂ ︵ ﹃ 法 全 ﹄ 四 五 一 頁 ︶ ﹁ 浄 土 宗 略 抄 ﹂ ︵ ﹃ 法 全 ﹄ 六o
− 頁 ︶ ﹁ 阿 弥 陀 経 釈 ﹂ ︵ ﹃ 法 全 ﹄ 一 四 二 頁 ︶ 香月乗光氏﹃法然浄土教の思想ど歴史﹄二四 J 二五頁参 照 。 もど道縛の﹃安楽集﹄巻上の﹁今時難証﹂である理由と して出されたものを﹃選択集﹄第一章に引用︵﹃法全﹄ 三二頁︶ ﹁ 三 心 料 簡 お よ び 御 法 語 ﹂ ︵ ﹃ 法 全 ﹄ 四 五 一 頁 ︶ ﹁ 浄 土 宗 略 抄 ﹂ ︵ ﹃ 法 全 ﹄ 六 O 一 頁 ︶ ⑮ ⑬ ⑬ ⑪ ⑫ ⑬ @ @ @ @ @ @ @@ 藤 堂 恭 俊 民 ﹁ 阿 弥 陀 仏 の 本 願 ﹂ の ︹ 地 上 の 仏 と 彼 土 の 仏 ︺ の 項 ︵ ﹃ 浄 土 宗 の 教 え ﹄ 九 五 J 九 六 頁 ︶ 参 照 。 ﹁ 三 心 義 ﹂ ︵ ﹃ 法 全 ﹄ 四 五 七 頁 ︶ 。 ・ 司 ・ 回 。 ロ ロ 。 宅 一 E 印 一 ℃ 詰 の ﹃ ω ロ ロ 品 開 ﹃ 乱 。 四 回 ロ ロ m = 森 田 孝 氏 訳 ﹃ 一 一 一 口 語 と 教 育 ﹄ 二 七 頁 。 ﹁ つ ね に 仰 せ ら れ げ る 御 詞 ﹂ ︵ ﹃ 法 全 ﹄ 四 九 二 頁 ︶ 高山岩男氏﹃場所的論理ど呼応の原理﹄一八二頁参照。 ﹁ 示 或 人 詞 ﹂ ︵ ﹃ 法 全 ﹄ 五 八 八 頁 ︶ ポ ル ノ l 、 前 掲 書 、 二 六 頁 。 こ の よ う な 阿 弥 陀 仏 ヒ 念 仏 者 ど の 人 格 的 時 応 の 関 係 は 、 すでに高山岩男氏﹃場所的論理と呼応の原理﹄において 指摘されているところであり、故香月乗光氏、藤堂恭俊 民、高橋弘次氏等によって宗学の立場から注目されてい る 。 ﹃ 浄 全 ﹄ 第 二 替 五 二 頁 。 同 右 、 三 九 頁 。 ﹁ 観 経 疏 定 善 義 ﹂ ︵ ﹃ 浄 全 ﹄ 第 二 巻 四 九 頁 上 ︶ ﹁ 往 生 浄 土 用 心 ﹂ ︵ ﹃ 法 全 ﹄ 五 五 九 頁 ︶ 高山岩男氏﹃場所的論理ど呼応の原理﹄七三
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七 四 頁 。 ﹁ 選 択 集 ﹂ 第 五 章 ︵ ﹁ 法 全 ﹄ 三 二 五 頁 ︶ コ ニ 部 経 大 意 ﹂ ︵ ﹁ 法 全 ﹄ 一 二 一 頁 ︶ 名号については、故香月乗光氏﹁法然教学における称名 勝 行 説 の 成 立 ﹂ ︵ ﹃ 法 然 浄 土 教 の 思 想 ど 歴 史 ﹄ 所 収 ︶ に 詳 @ @ @ @ @ @ @ @ @ @ @ @ @ @ @ 仏 教 教 育 に 関 す る 一 考 察 ︿ 永 井 ︶ @ @ @ @ し い 。 ﹁ 選 訳 集 ﹂ 第 三 章 ︵ ﹃ 法 全 ﹄ コ 二 九 頁 ︶ ﹃ 浄 全 ﹄ 第 一 巻 二 四 五 頁 下 J 二 四 六 頁 上 。 ﹁ 十 二 笛 探 の 問 答 ﹂ ︵ ﹃ 法 全 ﹄ 六 七 四 J 五 頁 ︶ 光明については、香川孝雄氏﹁仏教における光明思想の 展開﹂︵﹃藤原弘道先生古稀記念史学仏教学論集﹄坤所 収 ︶ 、 高 橋 弘 次 氏 ﹁ 善 導 ・ 法 然 の 普 遍 的 宗 教 体 験 ﹂ ︵ ﹃ 法 然 浄 土 教 の 諸 問 題 ﹄ 所 収 ︶ 等 に 詳 し い 。 ﹃ 浄 全 ﹄ 第 一 巻 一 一 ニ 頁 。 ﹁ 逆 修 説 法 ﹂ 三 七 日 ︵ ﹃ 法 全 ﹄ 二 四 六 頁 ︶ 香 月 乗 光 氏 ﹁ 前 掲 論 文 ﹂ 参 照 。 ﹁ 禅 勝 房 に し め す 御 詞 ﹂ ︵ ﹃ 法 全 ﹄ 四 六 四 頁 ︶ ﹁ 念 仏 往 生 要 義 抄 ﹂ ︵ ﹃ 法 全 ﹄ 六 八 六 頁 ︶ 連続的形式の教育 E 非連続的形式の教育と?っ二つの形 式で教育の全体像をとらえているボルノ i の 主 張 は 、 こ の 問 題 に 何 ら か の 示 唆 を 与 え て く れ る の で は な い か 。 。 ・ 司 ・ 図 。 ロ ロ 。 dqhE 開 M n g 窓 口 N H ︾E
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.峰島旭雄氏訳﹃実存哲学と教育学﹄ニ O J 二 七 頁 参 照 。 ﹁ 聖 光 上 人 に 示 さ れ け る 御 詞 ﹂ ︵ ﹃ 法 全 ﹄ 七 四 五 頁 ︶ ﹁ 選 訳 集 ﹂ ︵ ﹃ 法 全 ﹄ ゴ 二 O 頁 ︶ ﹃ 浄 全 ﹄ 第 四 巻 二 三 三 頁 上 。 同 右 、 三 七 六 頁 上 。 @ @ @ @ @ @ @ @ @ @ 九 五@ @ @ @ @ 梯教大事大事院研究紀要第七挽 ﹁ 選 沢 集 ﹂ 第 三 章 ︵ ﹃ 法 全 ﹄ 三 一 二 頁 ︶ ﹁ 決 疑 紗 ﹂ 巻 二 ︵ ﹃ 浄 全 ﹄ 第 七 巻 二 四 三 頁 下 ︶ ﹁ 十 二 問 答 ﹂ ︵ ﹃ 法 全 ﹄ 六 三 五 頁 ︶ ﹁ 往 生 浄 土 用 心 ﹂ ︵ ﹃ 法 全 ﹄ 五 五 九 頁 ︶ 藤堂恭俊民﹁浄土の教え!起行篇