はじめに イランの近代化の展開に重要な役割を果たし、近代教育、特に、女子学校教 育発展への足がかりを築いたのは、欧米の宣教師や文化団体である。 これまでいくつかの拙稿において説明してきたように、19世紀になると、政 府や教育省などの国家が近代教育に取り組み始めたが、それは男子を対象にし たもので、しかも軍事・政治エリート養成のための高等教育・中等教育であっ た。当初、初等教育、特に識字教育に力を入れたのは、国家ではなく民間であ る。そして、イラン国内の宗教的マイノリティ1 、さらには、ムスリムといっ た民間の教育活動家たちを鼓舞し、彼らの識字教育・初等教育への取り組みを 奨励したのは、欧米の宣教師や文化団体による教育活動だった。とりわけ、初 等教育レベルでの女子を対象とする近代教育に関しては、欧米人と宗教的マイ ノリティが果たした役割が、より直接的で大きかったといえる。 筆者はこれまで、立憲革命期(1905 ∼ 1911)からレザー・シャー期(1925 ∼ 1941)のムスリムによる女子教育推進に関し研究してきた2 。この時代に焦 点を当ててきたのは、立憲革命が、反帝国主義・反専制の理念の下、イラン全 土で展開された民族主義的・愛国主義的なイラン型大衆運動であり、教育の領 域を主とする草の根的な女性の活動を活発化させたからである。だが、ムスリ ム女性たちによる教育活動を鼓舞した要素として、欧米人やマイノリティの活 動が有する意義も大きい。従って、欧米人やマイノリティの活動について検証 する必要性が大きいと考えており、本稿ではキリスト教宣教師の教育活動を取 り上げる。 英国のカーゾン (G. Curzon)3 によると、布教目的でガージャール朝(1796 ∼ 1925)を訪れた最初の宣教師は、英国人のヘンリー・マーティン(Henry Martin)4や仏国人のウジェーヌ・ボレ(Eugène Boré)5などである6。19世紀前 半には、米プロテスタント、仏カトリックのラザリスト修道会に加え、ボヘ
イランにおけるキリスト教宣教師の活動
――近代教育を中心に
ミアのプロテスタントのモラヴィア派教会7 などに所属する宣教師が活動した。 19世紀後半以降になると、英国国教会8 、独プロテスタント、スイス・プロテ スタント、ロシア正教会の宣教師9 なども活動するようになる。19世紀後半に は特に、アリアンス・フランセーズ(Alliance Française:AF)10と国際イスラ エル協会(Alliance Israélite Universelle:AIU)11といった仏国の文化団体の活 動が目覚しかった12。 とりわけ、教育の分野において精力的に活動したのは、米プロテスタント系 と仏カトリック系の宣教師たちである13 。イランで最初に、女子教育(特に初 等教育レベルでの識字教育や家政学・衛生学教育)に力を入れたのは、米プロ テスタントの中でも特に、会衆派(Congregationalists)の宣教団(American Board in Boston)14であったが、1870年頃には、長老派(Presbiterian)の宣教 団(Presbyterian Board of Foreign Missions)15がこれに取って代わった。さ らに、ラザリスト修道会に属する仏国人宣教師たちも、米国の長老派の宣教団 と同様、イランにおいて最も精力的に活動した外国人宣教師である。貧者への 布教を志して設立されたラザリスト修道会は、仏国南西部ガスコーニュ地方の 農民出身の聖職者、ヴァンサン・ド・ポール(Vincent de Paul, 1851 ∼ 1660) により設立された16 。 米プロテスタント系と仏カトリック系の宣教師らの活動は、当初(19世紀前 半まで)、オルミーイェやサルマースなど、トルコやイラクとの国境に近いイ ラン北西部のアゼルバイジャン地方において、この地に居住するアッシリア人 (Nestorians)17 を対象に行われたため18 、この地の宗教的マイノリティの女子生 徒も学習に従事する機会を得ることができた19 。一方、それらの欧米人により 設立された学校(以下、「欧米人校」)の設立者がキリスト教徒であることや、 彼らとの交流が宗教的問題を孕むことから、ムスリムがこうした学校に通学す ることは極めて稀だったといえる20。 だが、19世紀後半になると、テヘランをはじめとする主要都市にも開校さ れるなどして21、欧米人校は急激に増大し、ムスリムも通学するようになる22。 特に、米プロテスタントの宣教団は、テヘラン(1872)、タブリーズ(1873)、 ハマダーン(1881)、ラシュト(1883)と拠点を拡大させていき23 、学校を創 設しただけでなく、医療活動にも従事した24 。 イラン国内における欧米人宣教師、およびイラン人の宗教的マイノリティの 目的と活動について言及する先行研究としては、全般的な概要を示すRinger
[2001: 109-143]、ラザリスト会、AFやAIUなど仏系団体の活動について分析 するNāteq[1380]25
、英国教会宣教会(Church Missionary Society;C.M.S.) の活動について考察するBarūmand[1380]、スイス・プロテスタントのバー ゼル(Basel)宣教団26の活動を明らかにするWaldburger[1983]27などがある。 以上を踏まえて、本稿では、後のイラン人による近代教育、とりわけ、女子 教育の推進活動に影響を与えた、欧米の宣教師による教育活動について考察し、 イランの近代教育の展開をより深く理解するための足がかりとしたい。なお、 本来ならば、英国国教会、AFやAIUなどの文化団体の活動についても詳解す べきであるが、紙幅の問題があるため、本稿においては、米国と仏国のキリス ト教宣教師の活動に限定して論じることとする。 図:イラン地図 1.活動の開始 11世紀には、ヨーロッパ人宣教師がイランを訪問するようになり、この地に 居住する者も存在した。サファヴィー朝(1501 ∼ 1736)時代には、キリスト 教系の様々な団体がイランに拠点を作り、王族から庇護を受けたという。当時 出典;http://wikitravel.org/upload/ja/4/46/Ir-map.png(2011/7/14閲覧) オルミーイェ市の位置は、オルミーイェ湖の西(筆者が挿入したテキストボックス「オルミーイェ」の右上角)。 オ ル ミ ー イ ェ
のヨーロッパの宗教関係者は、出身国の公的な代理人としての役割も果たして いた28 。アフガン族の侵攻とそれに続くサファヴィー朝滅亡に伴い、大部分の ヨーロッパ人宣教師はイランを離れ、ヨーロッパへ帰国するか、バグダード、 バスラ、カルカッタのようなイラン近隣の都市への移住を余儀なくされた29。 だが、ガージャール朝が成立して治安が回復し、ヨーロッパ人のイランに対する 関心が復活すると、彼らは再びイランの地を訪れるようになったのである30。 ガージャール朝時代には、過去と比べて量的にも質的にも、欧米の宣教師た ちの活動が活発化した。欧米の各教会ならびに宣教団は、大都市のみならず遠 隔地の村々にも常設の宣教所を設立している。活動が開始した当初から、彼ら は精力的に教育・医療活動に従事した。欧米の宣教師たちが設立した学校は、 19世紀前半の時点では、数校しか存在していなかったが、モハンマド・シャー 期(1834 ∼ 48)になると、欧米人宣教師の学校が増えただけでなく、それに 刺激を受けたイラン人マイノリティにより設立された新方式学校31も増加した という32 。 2.米プロテスタント 米プロテスタントの宣教師、スミス(Smith)とドワイト(Dwight)33 は、イ ラン北西部アゼルバイジャン地方のキリスト教徒の状況を調査するという名目 で、1829年34にイランに到着し、報告書を記している。これに基づき、イラン 北部に居住するアッシリア人に布教するための常設宣教所を設立するという目 的で、1833年にジャスティン・パーキンズ(Justin Perkins)師が派遣された35 。 彼が設立した「米国宣教団(American Mission)」36 は当初、オルミーイェにだ け宣教所を構えていたが、次第に活動範囲を広げ、タブリーズ、テヘラン、そ してハマダーンにも宣教所を設置した。これらの宣教所は全て、十分に必要な 設備を備えており、かつ多額の資金を寄付されたという37。当時、オルミーイェ に6人、サルマース平原に1人、タブリーズに4人、テヘランに2人、ハマ ダーンに2人の米国人宣教師が駐在していた。米国宣教団は、米国人聖職者と その妻たちや相当数の女性使用人に加え、彼らを診療する医療ミッショナリー を伴っていた。また、聖職位を与えられた(あるいは認可を与えられた)土着 の聖職者たち約70人、平信徒の立場にある土着の宣教師たち約120人、約30の 教会と2,000人以上の会員たちをメンバーとし、さらに約120校の学校と約2,800 人の生徒たちも抱えていたのである38。
北西部での教育活動 米プロテスタント宣教師たちは、1830年代に、アッシリア人などのキリスト 教徒が居住するイラン北西部に初等学校を設立した。当初、米国人校は、アッ シリア人だけを対象としていたが、他の都市へと拡大するにつれて、アルメニ ア人、ユダヤ教徒、ゾロアスター教徒、そして、ムスリムをその対象に含むよ うになる。 イランで最初のミッショナリー校は、1836年1月にオルミーイェに創立され、 7人の男子生徒が在籍した。モハンマド・シャーの治世の終焉までに、その生 徒数は50人に増加していたという。この学校は本質的に神学校で、カリキュラ ムも宗教的であり、入学者はプロテスタントへの改宗を期待されていた。ただ し、生徒たちはアッシリア語のアルファベットも同校で学び、「文学や科学に おいてかなりの習熟度を得て卒業した」と伝えられる。習熟度のより高い生徒 には英語も教えられ、絨毯織や鍛冶などの技術の訓練も実施された。創設から 1879年までの間に、この男子校は122人の卒業生を輩出している39 。 とはいえ、キリスト教の宗教教育を重視するなど、宗教的性質が強かったた めに、米国人宣教師が設立した学校には、ムスリムではなくキリスト教徒が入 学する傾向があった。しかし、モハンマド・シャーの要請を受け、米国人宣教 師たちはムスリムのための学校も設立するようになる。とはいえ、19世紀の間 に関しては、ガージャール朝が米国人校を積極的に後援することはなかった。 イスラームの伝統的な教育制度において、従来からのウラマーが運営するマ クタブ(伝統的初等教育機関)は、ムスリムの子どもたちのためだけに、クル アーンや宗教的科目のみを教えるものである。米国人宣教師たちは当初、ムス リムを改宗させることよりも、イラン人キリスト教徒コミュニティのキリスト 教性(Christanity)の「再生」を目的として活動していた。イランをはじめ、 中東には、東方諸教会など古くからのキリスト教が残存してきたが、欧米人宣 教師たちはこれを「堕落し後進的である」と決めつけ、宣教活動を繰り広げた のである。こうした状況を受けて、1840年、モハンマド・シャーは、イランに 存在するキリスト教徒およびムスリムを対象とする欧米人宣教師たちによる宣 教活動を禁止したという。 イランの近代教育全般の発展に関しては、後に取り上げる仏国人の影響が最 も大きかったといえる。だが、女子教育に限定すれば、最大の功労者は、米国 のプロテスタントの宣教団であり、彼らによって女子校が多数設立された40。
依然として女子教育に対する抵抗が根強い中、オルミーイェの米国宣教団は、 自ら女子校を設立し女子に教育を施すことが必要だと認識していたのである41 。 イランで最初の近代的な女子初等学校は、米国の長老派宣教師たちがアッシリ ア人の子どもたちのために1838年にオルミーイェに設立した女子校で、宗教教 育に加え、家政学的な技術を教えたという42。 米国宣教団は1840年に印刷所を開設し、自らが開校した学校で使用する教科 書や、アッシリア語に翻訳した資料を印刷、「宗教、教育、科学、子ども向け の内容、雑録、詩」を扱う月刊誌、『光線( )』を発行していた43 。 グラント医師(Dr. Grant)は数人のムスリムの要請に答えて医学を教えた44 。 1846年と1847年のコレラ流行の際、米国宣教団は救済活動を行っている。この ように、その活動の当初から、教育活動のみならず医療活動も、米国宣教団の 活動の重要な分野であり、しかもその両者は連動していた。 米国の長老派は、オルミーイェでの教育活動を継続しつつ、1873年、タブリー ズに宣教所を開設し、この宣教所は1880年に男子校を開校、1880年にハマダー ンに男子校と女子校を設立した。この後も米国人宣教師たちや教師たちが、タ ブリーズ、ラシュト、ハマダーン、マシュハドで学校を設立した45 。ユダヤ教 徒およびキリスト教徒だけでなく多くのムスリムを惹きつけたタブリーズで最 初の米ミッショナリー校は、1906年にオルミーイェに設立された、マアレファ ト(Ma refat)校である46。 テヘランでの教育活動 Ringer[2001:123]によると、米国宣教会は、1872年にテヘラン宣教所を 設立した。タブリーズ宣教所では、各業務がアーゼリー(アゼルバイジャン) 語47 とアルメニア語で行われていたが、テヘラン宣教所では、キリスト教徒な どのマイノリティだけでなく、ムスリムの改宗を促すために、ペルシア語が使 用されたという。 1872年、米国宣教団は、テヘランに男子初等学校(Dabestān)を設立した48。 1887年の時点で、同校には6学級と50人の生徒が存在、1898年に2学級が加 えられ、1900年までに22人のムスリムの生徒が入学し、1902年に同校は4学 級編成の中等学校(Dabīrestān)に改変された。米国宣教団は、近郊の別の土 地を購入し、1915 ∼ 18年に寄宿舎を建設した。この建物ができて1年後、中 等教育課程の幾つかの学級が、かつて存在していた場所からこの建物に移転
された49
。この学校は1925年に「アメリカン・カレッジ(American College of Tehran, Madrase-ye Kālej-e Amrīkāī)」という高等学校を含むものに拡大し、 1935年には「アルボルズ・カレッジ(Alborz College)」と改名された50
。同校 は現在も「アルボルズ高校(Alborz High School, Dabīrestān-e Alborz)」とし て存続している51。 さらに、テヘラン宣教所は、一部のアルメニア人の要請に答えて、1873年に アルメニア人のための学校を開校した。1875年にはユダヤ教徒のための学校も 開校されたが、資金不足のために1880/1年に閉校されたという52 。 イラン・ベテル女子校の設立
1874年、米国宣教団は、「イラン・ベテル(Iran Bethel)女子校( Ālī-ye Enāsīye-ye Ālī-ye Āmrīkāī-ye Īrān Beit-āl)」という初等学校をテヘランに開 校した53。同校は、のち、中学と高校を含むものに拡大し、「ヌールバフシュ (Nūrbakhsh)女子校」と改名されている54 。 設立時、イラン・ベテル女子校は、昼間学校として12人の生徒を擁していたが、 1年後には寄宿部門が併設されて計9人の生徒が在籍するようになり、10年後 には米国宣教団の本部に移管され、生徒数が40人に増加したという。当初、ヨー ロッパ人とイラン人キリスト教徒だけを入学させていたが、1888年には、少数 のゾロアスター教徒とユダヤ教徒が入学を許された。1898年に1つの昼間学校 として改編され、計63名の生徒を擁し、その中には7人のムスリムが含まれて いた。1896年には18 人のムスリム少女が入学を志願した。1905年までに入学 者の総数は95人となり、うち24人がムスリムであった55 。そして、1913年の時 点では345人の生徒のうち、154人がムスリムであったという。同校の女性教師 に関しても、最初は、米国人とイラン人キリスト教徒(アルメニア人)だけで あったが、最終的にはイラン人ムスリムも教師になったといわれる56。 この女子校に関心を示したモザッファロッディーン・シャー(在位:1896 ∼ 1907)は、1889/90年、同校を訪問し、年に100トマーンを寄付するという 勅令を出した57 。同時代の『イランと米国( )』誌は、 次のように記している: イラン太陽暦1269(1890)年秋のある日58、つまりこの学校の開校から 16年後、朝、少女たちがホールに集まった時に、シャーと宮廷の御付の方々
がいらっしゃった。シャーは自ら彼女たちに試験をし、そのうち1人を黒 板の所に呼んで「何か書きなさい」と言った。しかし、その小さな子どもは、 シャーへの恐れから何も書くことができなかった。シャーは、チョークを その小さな女の子の手に握らせ、自らの文字で黒板の上に「何か単語を(書 いて下さい)」と記して、それから(自ら書いたその字句を)枠で囲み、「空 欄の部分を補いなさい」と言った。シャーはこの学校を注意深く観察し、 少女たちの寮や地下室までも自ら視察しようとしたが、それは断念した。 その2年後、ムスリムの少女たちがヒールの高い靴を履き、アルメニア人 の服を着せられていると言って、シャーはムスリムの少女たちが米国の女 子校に通うことを自制するよう命じた。しかし、ラマダーン月の後、この 禁令は廃された59。 イラン・ベテル女子校に対して、自ら視察し資金を提供するなどある程度の 支援を行ったが、時が経つとムスリムが同校に通学することを禁じ、また後に この禁令を撤廃するというように、シャーが同校に対する姿勢を、場面や状況 に応じて変化させていったことが窺える。ナーセロッディーン・シャーとモザッ ファロッディーン・シャーは、米国人校の活動を制限し、閉校を命令するなど したが、それは、米国人校の人気の増大とその影響力に動揺したためと考えら れる。 1873年には、タブリーズ宣教所が、アルメニア人とムスリム女子のための寄 宿学校を設立した60 。同年、タブリーズの長老派は、アルメニア人のために2 校の女子校を開設した。当初それらの女子校には20人(アルメニア人13人、アッ シリア人1人、仏国人4人、ムスリム2人)が入学したという。1879年には、 アルメニア人とムスリムの女子のための寄宿学校と昼間学校の2校が合併、そ の年の終わりまでに寄宿生の数は10人(アルメニア人7人、アッシリア人1人、 ムスリム2人)にまで増加した。1883年までに、同校の生徒は42人(4人のム スリムを含む)にまで増えたが、1884 ∼ 96年の期間はもっぱらイラン人キリ スト教徒だけを入学させた61 。米長老派は1880年、ハマダーンにも女子校を設 立している62 。 米国宣教団は、1895年の時点で、イラン北西部だけで117校の学校と2,410人 の生徒を有していた。1890年代後半には、イラン各地に147校の学校を運営し、 約1,000人の女子生徒が在学していたという。この頃になると、ムスリムたち
も米国宣教団の教育に興味を抱き、入学を希望するようになった。特に、テヘ ラン、タブリーズ、ハマダーンにある米国宣教団の学校では、ムスリムの生徒 が増加した。年齢を偽ってイラン・ベテル女子校に入学するムスリム女性も、 何人かいたという。娘を欧米人校へ通学させることに不安を抱いたムスリムの 親たちの一部は、米国人校の活動を視察している63。 教育活動と医療活動・慈善活動の連動 米プロテスタント宣教師たちの教育活動は、医療活動や慈善活動とも連動し ていた。その傾向は、女子教育の場で特に顕著である。慈善活動と結び付けら れることで、女子教育に反対する既存の伝統社会からの批判をかわす効果も期 待できた。Ringer[2001:124]によると、米国宣教団は、1881年に男子向け の医療活動を開始し、1889年には女性のための診療所を開設している。 もともと米国宣教団が運営する学校と病院は無償であった。1882年の時点ま でイラン・ベテル女子校は、授業料を課さずに無償で食事と衣服を提供してい た。ただし、20世紀初頭までに米国宣教団は、授業料を課すことが生徒たちの 質をより高めると考えるようになり、富裕層でない生徒も支払える額だけ払う ことを推奨した。 ムスリムであっても宗教的マイノリティであっても、裕福なエリートの子ど もたちは欧米人校に入学し、米国人宣教師たちもイランのエリート層に奉仕す ることに誇りを抱いていた。しかし、1930年頃になるとイラン・ベテル女子校 は、都市のイラン人中流階級を含む、宗教的、民族的に多様な住民に教育を提 供するようになっていた。 ガージャール朝の王子、アブドルホセイン・ミールザー・ファルマーン ファルマー( Abd-ol-Hosein Mīrza Farmān-Farmā)の娘でイランの社会福 祉の発展に尽力したサッターレ・ファルマーンファルマーイヤーン(Sattāre Farmān-farmāiān, 1921 ∼)はイラン・ベテル女子校の生徒であった。サッター レの回想録によると、彼女はムスリムだけでなく、キリスト教徒のアルメニア 人、ゾロアスター教徒、ユダヤ教徒、クルド人、アーゼリー人、バフティヤー リー族長の娘たちなど、彼女がかつて会ったことのないような少女たちの隣で 授業を受けている。彼女らは、サッターレと同じ社会集団には属さない中流階 級の工場主、製薬者、食料雑貨商の娘たちであったという64。同校の卒業生には、 サッターレの他、レザー・シャーの有力な宮内大臣の娘であるイーラーンドフ
ト・ティムールターシュ(Īrān-dokht Teymūr-tāsh)、エスファハーン知事の 娘のモルーク・ジャラーリー(Molūk Khānom Jalālī)、アーガー・エマーム・ オルホクマー(Āghā Emām ol-Hokmā)の娘で教育活動家のメフルタージュ・ ラフシャーン(Mehrtāj Rakhshān)、ジャーナリストで定期刊行物の発行者で あったユーソフ・エエテサーミー(Yūsof E tesāmī)の娘で高名な詩人のパル ヴィーン・エエテサーミー(Parvīn E tesāmī)などがいる65。『婦人の世界( )』誌(1920 ∼ 19)は、イラン・ベテル女子校の卒業生の団体により 発行された婦人雑誌であった66 。 3.仏カトリック 米プロテスタント宣教師たちがイランである程度の成功を収めたことに刺激 されたローマ教皇は、カトリックの宣教師の派遣を望んだ。それを受け、仏カ トリックのラザリスト修道会が宣教師の派遣を決め、1838年11月6日、イラン 北西部のタブリーズに、前述のウジェーヌ・ボレが到着した。Ringer[2001: 113]は、ボレがイランに築いた宣教会を「ボレ宣教会(Boré Mission)」と呼 んでいる。仏政府も常にラザリスト修道会を後援したという。 Curzon[vol. 1, 1892:542]は、仏カトリック系の宣教師たちの活動について、 次のように記している; ロ ー マ・ カ ト リ ッ ク に 属 す る カ ル デ ア 教 会 信 徒(Roman Catholic Chaldæans)67 は、オルミーイェの北方、サルマース平原に、長い間居住し てきた。米国人の精力的な改革運動が原因で、これらのカルデア教会信徒 たちの尊敬を失ってきたことに危機を感じたローマ教皇の下にいる聖職者 たちは、卓越した若い仏国人のボレに説得され、ペルシア人キリスト教徒 に関心を抱き始め、熱烈な宣教熱を抱くようになっていき、改宗競争に参 加させるため、数人の仏国人ラザリスト会士たちを派遣した。 カーゾンが記録を残した1892年当時、仏国人宣教師たちはアゼルバイジャン 地方に2つの拠点を有していた。1つはオルミーイェであり、ここには大司教 が居住していた68 。もう1つはサルマース平原にあるホスラヴィーであり、こ の地にはカルデア教会信徒たちが長い間栄えてきていた。仏国人宣教師の組織 は、7人の司祭と「Sisters of Saint Vincent de Paul女子修道院」に属する1
人から構成されていたという。この団体に属する仏国人シスターたちは、オル ミーイェ、サルマース、タブリーズ、エスファハーン、そしてテヘランに学校 を設立している69 。 北西部での教育活動 ボレ宣教会は1839年、タブリーズに14人の生徒が在籍する学校を開設した。 その生徒のうち3人はアルメニア人で、11人はムスリムである。この学校のカ リキュラムは仏国の学校のカリキュラムに近く、仏語、仏文学、哲学、ヨーロッ パ諸科学から構成されていた。タブリーズには、彼らによって少なくとも3校 の男子校が設立された70 。 仏国人が設立した学校は、イランの近代教育の発展に貢献しただけでなく、 イラン人からの人気を集めた。王太子ナーセロッディーン・ミールザーの母は、 仏語を学ばせるために彼をボレの学校に通学させた。米プロテスタントの学校 がキリスト教への改宗を促すような教育を行ったことに対するムスリムの反発 を踏まえ、ボレが自身の学校のカリキュラムから宗教教育を除いたことが、仏 国の学校の人気の理由である。その年の後半、ボレはタブリーズに小規模な学 校を5校設立した71 。ラザリスト会のクルーセル(Cluzel)神父とドニ(Darnis, Denis)神父は、1840年に、オルミーイェに男子校を設立している。ラザリス ト会士たちは、1848年の時点で、総計400人の生徒が在学する26校の男子校と 6校の女子校を、オルミーイェ地域で運営していたという72。 オルミーイェ地域は、クルド人の諸部族による略奪に続き、1873/4年には飢 饉を経験した。略奪と破壊により、多くのミッショナリー校が閉校に追い込ま れた。とはいえ1875年の時点でラザリスト会士からなる宣教団は、オルミーイェ 地域に、計400人の生徒が在学する26校もの男子校と、418人が在籍する10校の 女子校を運営し、700人以上の生徒たちがその近郊に位置する何校かに在籍し ている。1882年の時点でラザリスト会士たちは、74校の初等学校と、孤児たち を教育対象とする2校を、オルミーイェ地域で運営していた73。1896年には、 オルミーイェの近郊に420人が在籍するラザリスト会の男子校8校と303人の在 校生を擁す8校の女子校が存在したという。オルミーイェでラザリスト会が運 営する学校は、1875∼96年の間に減少したが、生徒の総数については概してほ ぼ同じくらいの数を保っていた74。 立憲革命前夜の1905年の時点で、ラザリスト会宣教師たちは、オルミーイェに
3校(在校生290人)と、近隣の村々に49校(在校生計965人)を運営していた。 競合する米国人学校などの他の欧米人校と同様に、ラザリスト会の学校数が減 少していたことが窺える。こうした欧米人による学校数の減少は、立憲革命直 前の反外国人感情の高まりを反映していたといえよう。ただし、オルミーイェ 地域の農村部の学校は、原則として、基本的な読み書きを中心に提供し、付随 的に手仕事や商業に関する教育を実践していたので、依然として人気があった。 これらの学校の生徒数は、1875 ∼ 1905年の間も増加し続けていたという。 テヘランでの教育活動 ラザリスト修道会に属する仏国人宣教師たちは、1860年代はじめになると、 イラン北西部のオルミーイェやタブリーズのみならず、テヘランや中部エス ファハーンにも教育活動を拡大させ、多くの女子校と男子校を開校するように なり、彼らの教育活動の中心地は、次第にテヘランへと移行していった。彼ら はテヘラン宣教所を1861年に設立し、テヘランに何校かの学校を開設する。 ラザリスト会宣教師たちは、イラン在駐の仏国全権公使、ゴビノー伯爵 (Comte de Gobineau)の命を受け、1862年、テヘランでのラザリスト修道会 の学校設立計画を作成75 、同年、「サン・ルイ(St. Louis)校(Madrase-ye San Lū ī)」76をテヘランに設立した77。サン・ルイ校は、ゴビノー伯の勧告をラザ リスト会の長たちが受諾したことにより、世俗学校(Āmūzeshgāh-e Orfī)と された。入学を望むものは誰でも入学することができ、仏語を無料で教え、5 年間の課程を無事修了した者に仏国の初等学校修了に匹敵する卒業証書を授与 したことなどから、人気を得た。設立初年もキリスト教徒の生徒が増加し、ム スリムの新入生も15人入学した。1909年の時点で90人の生徒、1924/5年には 281人の生徒と21人の教師がいたという78 。 その他、テヘランに1870年に設立されたハーイカーズィヤーン(Hāikāziyān) 校は、ラザリスト会のシスターたちによりこの地域に設立された2校のうち の 1 つだとされる。ラザリスト修道会の宣教師たちは、1880年、テヘラン に、プロテスタントを信じるアルメニア人のための学校を設立した79 。セパ フサーラールが宰相であった時代(1871 ∼ 1873)に、彼らがアルメニア人の 子どもたちのため1校か2校の学校を設立したとの記録もある。1896年には、 より高度な教育を提供する「エコール・シュペリウール(Ecole Supérieure, Madrase-ye Ālī)」が、彼らにより創設されたという80。
サン・ジョゼフ(ジャンヌ・ダルク)女子校での慈善活動 仏カトリックの宣教師たちは、女子教育にも尽力した。特に、女性の聖職者 が女子教育の担い手となったが、彼女たちが設立した女子校では、孤児や困窮 者を無償で受け入れ、診療所を併設するなど、慈善的な活動も行われている。 こうした姿勢は、既存の伝統的なイラン社会からの反発をかわす上で、有効だっ たと考えられる。 ヴァンサン・ド・ポールのシスターたちからなるカトリック教団は、テヘラン、 オルミーイェ、タブリーズ、エスファハーンに女子校を設立した81 。彼女たち の手により、1875/6年には、「サン・ジョゼフ(聖ヨゼフ)(St. Joseph)女子校」 がテヘランに設立され、のち、「ジャンヌ・ダルク(Jeanne d Arc, Zhāndārk) 女子校」と改名される82。同校には200人以上が在籍し、多くが仏語をよく勉 強し話すことができたという。また同校では、計30人の孤児の生徒が「寄宿形 式で(be tour-e shabāne-rūzī)」学習しており、2つの無償学級(22人の女子 生徒から成る1学級、および、46人の男子生徒から成る1学級)と、あらゆる 種類の病気を治療する診療所が併設されていた。 1881年 5 月 に 夫 と と も に テ ヘ ラ ン に や っ て き た デ ュ ラ フ ォ ー(Jane Dieulafoy)83 は、サン・ジョゼフ女子校について、次のように記している: このシスターたちがテヘランにて教会と学校を運営し、テヘランに滞在 しているヨーロッパ人の数家族の子どもたちの教育を行ってきて数年にな る。アルメニア人少女の多数も、このシスターたちの女子校に通ってきて いる。そして、彼女たちの思想や宗教に頓着しない限り、非常に少ない数 ではあるがムスリムも自分の子どもをこのシスターたちの教育下に置いて いる。……シャーのアンダルーン(後宮、ハレム)の女性たちも、時々こ のシスターたちを接待し、彼女らに援助を行っている。シャーも、年1500 フランを彼女らに援助している。概してミッションの財政状況は悪くない ……84。 こうした記述から、この女子校にムスリムが通学していたこと、そしてこの 女子校に、シャーのみならず王室の女性たちが資金援助していたこと、が判明 する。 サン・ジョゼフ女子校には、1918/9年の時点で203人の生徒と13人の教師
が在籍していた。後年のデータではあるが、教育省(Vezārat-e Ma āref)の 『イラン太陽暦1306(1927/8)年統計(Ehsā īye-ye Sāl-e 1306 sh.)』によれば、
1927/8年の時点で、305人の学生および33人の教師を擁し、生徒のうち65人が 授業料無料で学習に従事していたという85。米プロテスタントの女子校と同様 に、慈善活動の場としても機能していたことが分かる。 むすびにかえて 本稿では、イランの近代教育発展の契機となった、米プロテスタント、およ び仏カトリックの宣教師たちによる教育活動について検証した。イランで最も 精力的に活動して近代教育を導入し、多くの学校を設立した米仏の宣教師たち や文化団体は、生徒だけでなく政治的、宗教的優位性をめぐり、互いに激しい 競争を繰り広げた。このような競合関係は、イランにおける西洋列強間の競争 という、当時の帝国主義的な国際政治を反映するものともいえる。 そもそも、彼らは何のためにイランで教育活動を行ったのか。彼らは、どの ような認識を有しながら活動し、他国の宣教団や文化団体の行動にどのように 反応したのか。これらは、今後もさらに検証が必要な問題だろう。ただし、明 白なのは、キリスト教宣教師たちの「隠された目的」が、総じて、イランにお けるキリスト教の宣教、特にこの地域に居住するキリスト教徒の信仰を自分た ちの宗派に改宗させることだったという点である。 だが、欧米のキリスト教宣教団は、常に争い、互いを妨害したため、宣教活 動を成功させることはできなかった。欧米人たちにとって脅威となったのは、 イラン人からの反発よりも他の欧米の宣教師たちからの反発であり、学校間の 競合と対立、とりわけカトリック対プロテスタントの対立である。特に、女子 校を積極的に設立した米プロテスタントの米国宣教団と、男子の政治エリート から人気を集めた仏カトリックのボレ宣教団との間の争いは激しかった86。ボ レは「ロシアの抵抗、英国人の嫉妬、米国人のライバル心、アルメニア人の陰 謀、ペルシア側の幾つかの勢力の冷淡さ、イラン政府が自身の学校に十分な支 援を行わないこと」などについて不満を募らせ、幾度も仏国本国に米国人と戦 うための増援隊を要請したという87 。 「はじめに」でも言及したように、英国国教会などのキリスト教宣教団、ア リアンス・フランセーズや国際イスラエル協会といった文化団体など、本稿で 取り上げることができなかった欧米人の活動に関しては、別稿にて分析する課
題としたい。加えて、活動の対象とされたイラン社会の反応についても分析す る必要がある。イラン人は欧米人の活動をどのように受け止め、自らの行動を 決定したのか。なお「イラン人」あるいは「イラン社会」とひと口に言っても、 政府関係者、ムスリムたち、宗教的マイノリティ社会、イスラーム指導者、イ スラームの伝統的教育の教師たちなど、多様な要素が存在するため、それぞれ がどのように行動したのか検証する必要があろう。 現時点で言えることは、宗教教育の実施など、宣教の意図を隠さなかった米 国の学校が反発を受けた一方で、男子の政治エリート養成に役立つ仏語や近代 諸科学を提供し、宗教教育を行わなかった仏国の学校は、エリート層からの人 気を集めたという点である。ただし、近代教育を提供する新方式学校は、宗 教界や既存の伝統的教育制度の教師たちから反発を受けた。それはミッショナ リーによる学校に限らず、ムスリムによる学校も例外ではない。 特に、女子教育に対する反発は凄まじく、ムスリムによる女子校も含めて、 激しい攻撃を受けた。対して、女子校側は、女子校を慈善行為の場とすること により、既存の社会からの反発をかわそうとした。その結果、女子校を舞台と する教育・医療・福祉・慈善活動の連動が見られるのである。ザカート(喜捨) を義務とするイスラームでは、相互扶助の精神が篤いため、慈善活動を行うこ とは自らの正当性の主張に効果的であったと考えられる。加えて、米プロテス タントの女子校は「女性に必要な知識(欧米由来の近代的な家政学・医学・衛 生学、女性のたしなみとして必要な手仕事)」を提供することにより、自らの 存在意義を主張し、その後のイラン人による女子教育推進運動にも甚大なる影 響を与えた88 。 前稿にて明らかにしてきたように、女子教育推進活動という舞台、および、 女子教育に関する議論(女子教育必要論や女性に教えるべき知識とは何かと いった議論)は、ナショナリズム・イスラーム・フェミニズム・西洋的近代合 理主義など様々な要素の相克の場でもある89。欧米人による教育活動はこれに どのような影響を与えたのか。今後の課題としたい。
――――――――――――――――― 1 多民族・多言語・多宗教国家のイランでは、シーア派が多数派であるが、ゾロアス ター教徒、クルド人(スンナ派)、ユダヤ教徒の他、アッシリア人(アッシリア教 会)、アルメニア人(アルメニア教会)、グルジア人(グルジア正教会)などのキリ スト教徒が存在する。キリスト教徒の多くは、オルミーイェなどイラン北西部のア ゼルバイジャン地方に居住。 2 拙稿「20世紀初頭テヘランにおける女子校設立と女子教育政策」『イスラム世界』 第64号、2005年3月、21 ∼ 46頁 ;「イランにおける女子近代教育の発展と女子教育に関する言説」『イスラム世界』 第73号、2009年9月、29 ∼ 58頁 ;「女子教育と識字:「近代的イラン女性」をめぐる議論とナショナリズム」『歴史 学研究』第873号、2010年11月、49 ∼ 60頁
3 Curzon, George, , 2vols, London: Frank Cass & Co.Ltd, 1892は、『タイムズ( )』の記者として1889年秋にガージャール朝へ行 き、6カ月間滞在した際の記録。八尾師誠『イラン近代の原像 英雄サッタール・ ハーンの革命』東京大学出版会、1998年、133頁によると、1889年9月、自著執筆 のための資料収集でイランを訪れた時は30歳のサウスポート選出の国会議員であっ たが、10年後にはインド総督、1919年には外務大臣となった。 4 Barūmand, Safūrā,
, Tehrān: Mo assese-ye Motāle āt-e Tārīkh-e Mo āser-e Īrān, 1380, pp. 56-57によると、1781年生まれ1814年没。Curzon[vol.1, 1892:505-506]によると、 彼のシーラーズ来訪は1811年のことであり、布教活動の他、新約聖書をペルシア語 に翻訳した。
5 Curzon[vol.1, 1892:505-506]によると、マーティンらと同じ時期にエスファハー ンにおいて説教を行った。
6 Barūmand[1380:56-7] に よ る と、 そ の 他、 ド イ ツ 人 宣 教 師Dr. Karl Gottle Pfanderなどがイラン国内にて活動。
7 「 モ ラ ヴ ィ ア 教 会 」 は「 モ ラ ヴ ィ ア 兄 弟 団(Moravian Brethren, Mährische Brüder)」、あるいは「ボヘミア兄弟団(Bohemian Brethren, Böhmische Brüder)」 とも言われ、15世紀ボヘミアに成立した自由教会的な信仰団体。
8 英国国教会(Church of England)すなわち英国聖公会(Anglican Church)のこと を、日本語では「英国教会」「アングリカン教会」とも表記する。研究によっては、
「British Anglican」と記すものもある。英国聖公会は英国国教会の流れを む教会。 「聖公会神学」または「英国教会主義」のことを「アングリカニズム(Anglicanism)」 と言う。 9 Barūmand[1380:56-57] 10 「(仏国の)植民地や海外に仏語をプロパガンダするための国民組織」として1884年 にパリに創設。 11 仏国のパリに1860年に創設され、世界中のユダヤ教徒の知的、教育的、道徳的、社 会的そして法的状況の改善を目的としていた。
12 Rostam-Kolayi, Jasamin Karin,
(Ph.D. Dissertation, University of California), 2000, p. 72; Ringer, Monica Mary,
- (Ph. D. Dissertation, University of California), 1998, pp. 172-242; Barūmand[1380:56-57]
13 Arasteh, A. Reza, - Leiden: E. J. Brill, 1969, pp. 155-171; Rostam-Kolayi[2000:72]; Ringer[1998:172-242]; Ringer, Monica Mary,
Costa Mesa, California: Mazda Publishers, Inc., 2001, pp. 109-110
14 会衆派教会(Congregational Church)のことを「組合派教会」とも言う。個々の地 方教会の独立と自治を基本とする組織形態を採る諸教会の総称。会衆派の本格的成 立は16世紀中頃の英国。R. ブラウンらはエリザベス1世の「宗教解決」に不満を抱き、 英国教会から分離した。この動きにH. バロウ、J. グリーンウッド、J. ペンリーらが 合流し、運動は拡大。アムステルダムに移住したJ. ロビンソンらは、新大陸伝道へ の情熱とともにニューイングランドに渡り、1620年にプリマス殖民地を建設、その 後、会衆派は北米において急成長した。Arasteh[1969:158]は、この会衆派の名 称を「American Board in Boston」としている。ちなみに、現在「アメリカン・ボー ド」と日本語表記される団体の英語表記は「American Board of Commissioners for Foreign Missions」。アメリカン・ボードは、1810年、マサチューセッツ州とコネチ カット州の会衆派教会により設立された米国初の超教派的な海外宣教団体で、アジ ア各地に宣教師を派遣。当初、アメリカン・ボードには長老派なども参加していた が、後、会衆派だけの宣教協会となった。 15 長老派教会のことを「改革派教会(Reformed Church)」とも言う。スイスの宗教 改革の伝統と遺産を受け継ぐ諸教会の総称。聖書原理の厳密な適用、予定説に象
徴されるような救いにおける徹底した恩恵を重視。Arasteh[1969:158]は、長 老派の宣教団の名を「Presbyterian Board of Foreign Missions」としている。な お、Ringer[2001:110-113]による長老派教会の表記は「American Board of the Presbyterian Church」であるが、Arasteh[1969:158]による表記は「Presbyterian Board of Foreign Mission」。
16 Ringer[2001:125]は「the order of Saint Vincent de Paul」と表記。ラザリスト修 道会は、ヴァンサン・ド・ポール(Vincent de Paul)により1625年に創立された宣 教修道会であるため、研究によっては、「ヴァンサン・ド・ポール修道会」と呼ば れる。この宣教会に属する団体として、在俗の女性たちにより慈善団体が組織。こ うした女性から成る団体を、Ringer[2001:125]は「Daughters of Charity(Daughters or Sisters of Charity of St. Vincent de Paul, Servants of the Sick Poor。慈善活動を目 的としてヴァンサン・ド・ポールらにより1633年に設立)」と表記。Curzon[vol. 1, 1892:542]によれば、この宣教会に属する「ヴァンサン・ド・ポール尼僧団のシスター たち(a nunnery of the Sisters of Saint Vincent de Paul)」が活躍していた。 17 カーゾンなどは、「Nestorians」という語を「ネストリウス派教会信徒」という意味 に限定して用いているのではなく、「アッシリア人」という意味で使用している。アッ シリア人は、現代アラム語(アッシリア語)を話し、キリスト教を信仰する中東の 少数民族で、強固な民族意識により伝統的な文化を継承する。アッシリア人には、 ネストリウス派(エフェソス公会議で異端とされた)のアッシリア(東方)教会の他、 カルデア教会や、シリア正教会の信徒も存在。前二者は典礼に東シリア語を、後者 は西シリア語を用いる。 18 Ringer[2001:122-126] 19 Arasteh[1969:155-165]
20 Delrīsh, Basharī, 1375, , Tehrān: Mo assese-ye Enteshārāt-e Sūre, p. 124 21 Ringer[2001:122-126] 22 Arasteh[1969:155-165]; Ringer[2001:122-126] 23 Curzon[vol.1, 1892:505-506]。ただしRinger[2001:124]は宣教所の開設年を、 ハマダーン(1880)、ラシュト(1906)、ガズヴィーン(1906)とする。 24 Ringer[2001:124]
25 Nāteq, Homā, - Tehrān : Mo assese-ye Farhangī-ye Honarī-ye Enteshārātī-ye Mo āser-e Pazhūhān, 1380,
P. 124
26 Curzon[vol.1, 1892:542-543]によると、1830年代頃、バール(Basle)[バーゼル(Basel) の旧称]のプロテスタント教会によって、アッシリア人に対する宣教が開始されが、 長くは続かなかった。1837年に最初のミッショナリーがイランの地を離れた後、活 動が停止された。
27 Waldburger, Andreas,
- , Basel; Basileia Verlag, 1983、ペルシア語訳は、Waldburger, Andreas, translated by Rahmānī, Alī & Razavī, Hosein & Mokhtārī, Lāden.
Tehrān, 1379 28 Ringer[2001:109-110]によると、17世紀中期において、アウグスティノ会修道士 はスペイン王から、カルメル会修道士は教皇から、カプチン会修道士は仏王から派 遣され、その公的な代理人としての役割を果たした。 29 Barūmand[1380:73-78]。残留した宣教師も、ほとんどが老齢、コレラ、ペスト などの疫病が原因で死亡。 30 Ringer[2001: 109-110] 31 本稿では、欧州、オスマン朝、コーカサス諸国などの学校の制度、カリキュラム、 教授法を模倣した上で、イラン流に「翻訳」した近代的な学校を「新方式学校」と 称す。イスラーム化して以来現在まで存在してきた伝統的なマクタブ(初等教育機 関)やマドラサ(高等教育機関)を「旧式学校」とする。 32 Arasteh[1969:155-165]; Ringer[2001:122-126] 33 こ の 2 人 に つ い てCurzon[vol. 1, 1892:541] は「 米 国 長 老 派 教 会(American Presbyterians)」という項目で扱っており、長老派との認識を示している。Ringer [2001:111]は「米国系プロテスタントのミッショナリー(American Protestant
Mission)」 と 説 明。Richter, Julius, 1910, rep.1970, New York: AMS PRESS, pp. 294-5は「1834 ∼ 70年におけるアメリカン・ボード(American Board)の活動」 と題する項目にてこの2人を「米国系ミッショナリー」と説明。Waldburger[1379: 99]は、この2人を「アメリカン・ボード(American Board for Commissioners for Foreign Missions)」が派遣した」と述べている。
34 Ringer[2001:110-113]。Waldburger[1379:99]は1831年としている。
35 Ringer[2001:110]。Curzon[vol. 1, 1892:541]によれば、彼の活動はかつて無い ほど精力的なものであった。カーゾンは、パーキンズが1835年に活動を開始する際、
大きな資金的援助を受けることができたお陰で、従来無かったほど、米長老派は広 範囲に及んで目的を達成できたと伝え、パーキンズを「米国長老派教会(American Presbyterians)」という項目で扱い、長老派との認識を示している。Ringer[2001: 110-113]は長老派教会(American Board of the Presbyterian Church)が彼を派 遣したとする。ただし、Nāteq[1380:179]は「パーキンズの宣教団は、ラザリ スト会宣教師たちの少し後、1833年に『Komīte-ye Amrīkāī barā-ye Mīsiyūn-hā-ye Khārejī(注でAmerican Board Commission for Foreign Missionsと説明。アメリカン・ ボードのこと)』からイランへ派遣された」とし、Arasteh[1969:158]は「はじめ、 会衆派がレザーイェ(オルミーイェ)に宣教団を設置し、パーキンズをその活動の 指揮官に任命した。彼が死ぬとその宣教団の活動は長老派に引き継がれた」とし、 Andreas[1379:99]はスミスとドワイトをアメリカン・ボードの宣教師としている。 このように研究者たちの中で、会衆派と長老派、およびアメリカン・ボードが区別 されていない、あるいは同一視されていることに配慮が必要。 36 Ringer[2001:110-113]は、1835年にパーキンズによりオルミーイェに設立された 常設宣教所を「米国宣教団(American Mission)」という名称で示しており、本稿 もこの表現に従う。Curzon[vol. 1, 1892:541]によると、その本部はオルミーイェ に置かれ、邸宅と大きな建物を有していた。この建物はカレッジとして知られ、街 の郊外にあり、チャペル、通常の学校、絨毯織と鍛冶の技術を教える技術学校、病 院、印刷所を備えていた。 37 Curzon[vol. 1, 1892:541-542]によると、米国宣教団の収入は、年に7,000ポンド以 上で、忍耐強い宣教活動と莫大な資金源が活動を後押しした。 38 Curzon[vol. 1, 1892:541-542] 39 Ringer[2001:138]。Rostam-Kolayi[2000:72]は、この男子校を設立したのは長 老派であったとしている。
40 Rostam-Kolayi, Jasamin, 2002, Foreign Education, the Women s Press, and the Discourse of Scientifi c Demesticity in Early-Twentieth-Century Iran , in Keddie, Nikki R. and Rudi Matthee(eds.),
, Seattle and London; University of Washington Press, pp. 184-186 41 Ringer[2001:111]
42 Najmabadi, Afsaneh, Women s Education in the Qajar Period , vol.7, Costa Mesa, California: Mazda Publishers, 1998, pp. 233-234 43 Ringer[2001:110-113]
44 彼は1840年に医学校を設立、同校では、7人のムスリムが2年から3年という一定 期間、学習に従事した。 45 Delrīsh[1375:125-126] 46 Ringer[2001:113, 122-123] 47 アゼルバイジャン語を話すアーゼリー人は、イランで最大の民族的マイノリティ。 イランではトルキー(トルコ人)と呼ばれる。
48 Mahbūbī-Ardakānī, Hosein, , vol.1, Tehrān: Tehrān University Press, p. 367
49 Qāsemī Pūyā, Eqbāl,
Tehrān: Markaz-e Nashr-e Dāneshgāhī, 1377, pp. 527-528 50 Rostam-Kolayi[2002:185]。Ringer[2001:123] 51 http://www.alborzhighschool.com/(2011/7/14閲覧) 52 Mahbūbī-Ardakānī[vol.1, 1354:367]
53 Ringer[2001:123]; Arasteh[1969:163]; Khosroupanāh, Mohammad Hosein, Tehrān: Nashr-e Payām-e Emrūz, 1380, p. 246 ; Ma khazshenāsī va Kornoulouzhī-ye Matbū āt-e Takhassosī-Kornoulouzhī-ye Zanān-e Īrān , [no.7, 1380]。 Mahbūbī-Ardakānī[vol.1, 1354:369]は「米国人たちは、最高の建物を、Arfa(ol-Doule) 王子から計30,000ドル(原注:当時の価値で30,000トマーンに匹敵)で購入し、自 らの女子校を拡大させていった。『ヌールバフシュ』と名づけられたのはまさにこ の学校である。そして、これが教育省(Vezārat-e Farhang)の手に渡った後、そ のための特別な建物が建設され、今日(1975/6年当時)では、『偉大なるレザー・シャー 小学校(Dabīrestān-e Rezā Shāh-e Kabīr)』と名づけられている」と記している。 54 Rostam-Kolayi[2002:185] 55 Ringer[2001:123] 56 Rostam-Kolayi[2002:185] 57 Mahbūbī-Ardakānī[vol.1, 1354:368]。ただし、Ringer[2001:123]は、その大部 分は支払われなかったとしている。 58 原文注では「1890年9月4日」と説明。 59 Mahbūbī-Ardakānī[vol.1, 1354:368-369]; Ringer[2001:123] 60 Rostam-Kolayi[2002:186] 61 Ringer[2001:122-3]
62 Delrīsh[1375:125-126] 63 Rostam-Kolayi[2002:186]
64 Rostam-Kolayi[2000:54]; Sattareh Farman Farmaian & Dona Munker, , New York: Three Rivers Press; rep. 2006, p. 59
65 Farrokhzād, Pūrān, Tehrān: Nashr-e Qatre, 1380, pp. 100-102, 234-235, 372-373; Rostam-Kolayi[2002:190-191] 66 Khosroupanāh[1381:246]; 拙稿『イスラム世界』73号、32頁 67 文脈から、カルデア教会信徒に限らず、「アッシリア人」を指すものと思われる。 68 Curzon[vol. 1, 1892:542] 69 Delrīsh[1375:125] 70 うちの1校は、1901年にAuguste Malaval神父により設立され、1904年の時点で95 人の生徒が在籍。 71 Ringer[2001:114] 72 Nāteq[1380:178-179] 73 Nāteq[1380:215] 74 Ringer[2001:124-125]
75 Mahbūbī-Ardakānī[vol.1, 1370:367-8]; Tārīkhche-ye Ma āref-e Īrān [1313: 361-3]; Delrīsh[1375:125]; Ringer[2001:125-6]
76 Ringer[2001:125]; Mahbūbī-Ardakānī[vol.1, 1354:367]; Qāsemī Pūyā[1377: 524]
77 Mahbūbī-Ardakānī[vol.1, 1354:367-8]; Ringer[2001:125-6]
78 Ringer[2001:125-126]; Qāsemī Pūyā[1377:524-5]; Nāteq[1380:197] 79 Qāsemī Pūyā[1377:529-530]
80 Ringer[2001:126]; Qāsemī Pūyā[1377:525] 81 Rostam-Kolayi[2002:184]
82 Mahbūbī-Ardakānī[vol.1, 1354:367]; Tārīkhche-ye Ma āref-e Īrān [1313: 361-363]; Delrīsh[1375:125]; Qāsemī Pūyā[1377:525]
83 Nāteq[1380:217]
84 Mahbūbī-Ardakānī[vol.1, 1370:367-368]; Tārīkhche-ye Ma āref-e Īrān [1313: 361-363]
86 Barūmand[1380:76] 87 Ringer[2001:114]
88 拙稿『イスラム世界』第64号、21 ∼ 46頁;『イスラム世界』第73号、29 ∼ 58頁;「『歴 史学研究』第873号、49 ∼ 60頁