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會澤正志齋の教育思想

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(1)

はじめに

第一節 弘道館の教育理念  (一)弘道館設立の背景  (二)文武教育制度

第二節 會澤正志齋の教育理論  (一)會澤正志齋の道藝論  (二)會澤正志齋と『周礼』

第三節 『泰否柄鍳』における歴史智  (一)會澤正志齋と王安石

 (二)「聖賢」の養成と「祖宗ノ旧法」

おわりに 注 参考文献

はじめに

 本稿の目的は,會澤正志齋の教育思想の淵源 を明らかにすることである。そのために先ず會 澤が深く関与した藩校弘道館における理念と諸 問題を概観し,それらに伴う諸制度を考察して ゆく。次に具体的な會澤の教育理論に触れ,そ れらが會澤の歴史認識との関連において,如何 に理解されていたのかを探ってゆく。

 會澤正志齋は水戸学を諸藩へと波及させ,幕 末維新期を語る上で欠くことのできない人物で ある。しかしながら,藤田東湖と比べ全集,関 係文書等も刊行されておらず,著作に関しても 活字化されたものは限定されている(1)。このた

め,本稿で用いた国立国会図書館所蔵の書翰 や(2),茨城県立歴史館所蔵の会澤家文書等は,

管見の及ぶ限り利用されていない。また,先行 研究では『新論』や「国体論」を中心とした政 治面の論考が主であり,教育論を扱ったものは 限られている。

 そこで本稿では,次の三節に分けて論証を行 う。第一節では,弘道館設立までの歴史的推移 と,水戸学が諸藩へ与えた影響を述べ,学館内 における諸問題に対する会澤の対応策を分析し てゆく。第二節では,弘道館における文武教育 の背景にあると考えられる会澤の道藝論を紹介 し,「文武一途」に込められた思想を検証して ゆく。加えて,そうした会澤の教育理念は,『周 礼』を参考としていると考えられ,『周礼』に ついて会澤が詳細に論じた『讀周官』について,

中でも教育論に注目し会澤の教育思想の特質を 考察してゆく。最後に,會澤が宋代の歴史を中 心に叙述した『泰否柄鍳』を用い,そこで述べ られた歴史的思索と教育思想との関係性を解明 してゆく。

*早稲田大学大学院社会科学研究科 博士後期課程6年(指導教員 島 善髙)

論 文

會澤正志齋の教育思想

関 口 直 佑

(2)

第一節 弘道館の教育理念

(一)弘道館設立の背景

 水戸弘道館は9代藩主である徳川斉昭が天保 12年(1841)に開設した,所謂水戸学の精神を 体現した学館である(3)。斉昭は襲封当初から藩 校設立の意向を持っており,同8年に藤田東湖 に対して建学の精神を示した記文の草稿を示 し,これを基に起草するよう命じた(4)。記文は 佐藤一斎,青山拙斎,會澤正志齋の意見も容れ られ,斉昭の裁定により決定された。こうして 完成した「弘道館記」には,神儒一致,忠孝一 致,文武一致,学問事業一致,治教一致の五 大方針が示されている。この中で文武一致は,

斉昭が神儒一致と共に特に重視した理念であ り,記文では「文武不岐」と表現している。ま た,「弘道館記」の解説書として,藤田東湖に よる『弘道館述記』と會澤の『退食閑話』があ り,その建学精神が詳しく述べられている。そ の後,青山延于,會澤正志齋を総教に,青山延 光,杉山忠亮を教授として,天保12年に仮開設 式を終えた弘道館であったが,天保15年に斉昭 が幕府の嫌疑により退隠謹慎を命ぜられると,

弘道館を含めた斉昭の諸事業は頓挫することと なる。

 弘道館全体の歴史を概観して,十四歳から弘 道館に入学した名越漠然氏は,「要するに弘道 館は建立以來多難の時勢に會し一盛一衰,喜ぶ べき時代は少なく悲しむべき時代が多分であつ た。しかしながら是れが明治維新といふ中興の 大勢を馴致した所以である。水戸學の主張が全 國に反響し,弘道館の盛名が一世を風靡した とゝもに,幕府の壓迫は水戸に集中して,爲め に多大の犠牲を拂つた次第である。弘道館の教

育としては不幸であつたが,又一方からみれば

『學問事業不殊其効』といふ教義の下に,直接 に進退死生を決すべき實際問題に觸接しつゝ心 膽を鍛錬し,志氣を淬礪したものとも言はれや う」と回顧している[名越

1981

:

9]。また,名 越氏が語る「明治維新といふ中興の大勢を馴致 した所以」という言葉にも説得力があるように 思われる。実際,弘道館を主軸とする水戸学の 影響は全国の藩校においても強かったようであ る。『日本教育史資料』によれば,諸藩の学校 における水戸学関連の教科書使用は,「大日本 史」56校,「皇朝史略」18校,「新論」7校,「弘 道館記述義」「保建大記」「国史纂論」各2校な ど水戸学者の著作を含めると相当の数に上る

[北條

1932

:

546]。

 加えて,水戸学に影響を受けた人物は多岐に わたり,梅田雲浜,橋本左内,真木和泉,松平 慶永,吉田松陰等,枚挙に遑がなく,橋本左内,

佐久間象山,西郷隆盛と藤田東湖の交流は周知 の通りである(5)。なお,水戸学の拡大要因に関 し辻本氏は,「会沢が,近世武士の君臣意識を,

国体論に組み込んで,国家との関係の意識を自 覚させて説いたところに,注目すべき特質をも つ。すなわち君臣関係の頂点に,天祖―天皇 を据え,(天祖)―天皇―将軍―邦君―武士 の関係を,国体論に意味づけ,しかもこの国体 的秩序を内面からささえる当為的実践倫理とし て,忠孝道徳を提示したのである。かく会沢の 国体論や忠孝道徳論は,近世武士一般に通底す る意識や道徳にもとづいて,それと違和感なく 構成されていたのである。だからこそ,天保以 後,藩を越えて全国の武士の心に訴え,深く染 み込むだけの真実性(リアリティ)をもつこと ができた」と分析している[辻本

1990

:

303]。

(3)

 このように,水戸学は諸藩へ影響を与えつ つ,またその理念を体現するために設立された のが弘道館であった。しかしながら,その内部 には様々な問題が付随していた。本開館に先立 つ安政3年(1856),9人の訓導が藩当局へ提 出した建議書には,当時の学館の実態が記され ている[水戸市

1976

:

1133]。それは,偏文偏 武,恩賞偏向,漢書偏重,治教不一致,諸生遊 惰の5項目であった。會澤正志齋を中心とする 弘道館関係者の主要課題は,これらの問題の克 服に向けられていたと言ってよいであろう。特 に會澤については,こうした問題は切実に意識 されていたと考えられる。

 例えば,會澤が弘道館設立前の天保8年

(1837)に,斉昭からの質問に対して封書をもっ て答えた「對問三策」にもこのことが論じられ ている。「諸家の學校多くは文具のみにて實功 少なし(中略)諸士の風儀を取直すの大眼目は,

大家・巨室・具瞻の位に在ものを先とすべし。

當時諸士の頭となる御番頭など,風儀の惡敷 事,平士には遙に劣れり。」とし,その原因で ある「三の弊風」を次のように述べている[神 道大系

1986

:

187]。

一には古は御番頭の人物を撰給ひ,其器に 當るものは,物頭などよりも,直に進み,

厚禄にても,其器に當らざれば,いつまで も,寄合にて差置れたり。近世は厚禄の家 は人物に構はず,膝順にて,諸士の頭とも なる事故,假初の口上にも,寢て居ても番 頭にはなると云事通言となり,生まれなが ら,行跡を磨く心は會てなし(中略)。

二には厚禄の子,生まれながら尊大にて,

諸士と交る事なく,下女・下男など計を相

手にして育立故,下男・下女の鄙劣なる事 のみ見覺,又常に追從輕薄の爲に崇めら れ,驕慢甚しく,諸士おば螻蟻の如く心得,

人情世態も不知,飲食・衣服・婦女・殺 生・植木・飼鳥などの話のみにて,身を終 る也。

三には右の如く,追從輕薄にて育立られた るものが,少年より御小姓に召使はるゝ 故,追從輕薄のみよき事と心得,(中略)

互に巧佞を競ひ,巧言令色の習,天性の如 くになりて,假初の談話にも,戲言のみ多 く,實情の話は拙陋也とする習しに成,風

俗益□( 虫 欠 )□偸薄になり行,鼻の先の利口ばか

りを貴び,(中略)外人に向ては,君側の 威を假て,人を輕侮し,驕慢・傲惰にて,

惡口雑言媿を極む。

 ここでは特に「厚禄の子」において,人材を 欠いていることを問題視し,「追從輕薄」の教 育が原因であること述べている。藩校弘道館は 主として,上級藩士を教育対象にしており,會 澤の教育説も彼等を念頭に置いたものが多い。

 そこで以下では特に,會澤が重要視した「偏 文偏武」と「諸生遊惰」を主として焦点を絞り 論じてゆくこととする。

(二)文武教育制度

 先に指摘した偏文偏武の実情は,訓導の石河 明善によると,「只今之通ニ而ハ偏文偏武之弊 如何とも成し難し」として,入学当初より強制 的に文武の兼修を義務づけるなどの制度を提言 した。また下野隼次郎も「文館武館ト岐レテ文 館ノ教職ハ書生ノミヲ親ミ,武人ヨリハ全ク文 人書生ノ如ク称シ(中略)武官ノ師範ハ武芸ノ

(4)

ミニ片向キ,芸ノ稚拙ヲ論シテ士道ヲ奮励ス ルコト少ナキノ弊」を指摘している[水戸市

1976

:

1134]。

 このため「偏文偏武」の是正に関しては,開 館当初より教授並びに文武師範へ対して,次 のように伝えられていた[吉川弘文館

1970

:

905]。

御家中文武之諸生修業振之儀,此度より朝 文夕武と御定に相成,朝五ツより九ツ時迄 一日之星に相定,一統文館へ相詰可申,又 九ツ時より夕七ツ時迄を一日ト相定,武場 へ罷出一統可致修行候

但炎暑之儀は,文武共晝前修行之儀時宜に 寄,可相達候

一寄宿之儀に付,先年被仰出候振も有之候 處,御小姓寄合組猶又布衣並三百石以上之 嫡子十八歳以上寄宿被仰付候條,正月十六 日より三月晦日迄,又十月朔日より十二月 廿日迄之内,壹ヶ月十五日詰各割合を以 順々相詰文武可致修行候

一文武之諸生廿五歳以下之族,文武兼學候 義は勿論に候處,近比片寄一方へのみ罷出 候族も有之哉に候處,學校御造立之尊慮に も不被爲叶如何之事に候條,以來は右日割 丈之日数は文武等分に必出精罷出片寄不申 候樣屹と相心得可申候

但御日割之外は文武共勝手次第罷出猶更出 精可致候(以下略)

 諸生に対する文武教育制度を「朝文夕武」と 定め,時間,寄宿,年齢などの方針が提起され ている。そして,このような「朝文夕武」を主 体とし,学則では

一習文武之藝者,當以文武之道爲本,不可 徒爲技藝之士,天朝素尚武,而近古所稱武 士之道者,重節義,明廉耻,文道者叙彝倫,

修德業,莫不皆出於忠孝仁義,即文武同歸 者,學者不可不知也

と定めている[吉川弘文館

1970

:

912]。9カ条 からなる弘道館の学則は會澤が起草しており,

同僚教職の意見等も容れながら補正され完成し た[鈴木

1987

:

355]。

 そこで関連する會澤の書翰案に目を向ける と,「朝文夕武」の法について,その意向を更 に深く推察することができる[国会図書館「会 沢書翰123」]。ここで強調されているのは,

文武同刻にてハ修行之爲不宜候儀を御見定 朝文夕武之御制度ニ被遊候儀ニ御座候,ヶ 樣御定ニ候へハ諸生晝前ハ文,晝後ハ武ニ て偏文偏武之弊無之候処,文武同刻ニ而ハ 晝前も氣を詰候方へ出候者ハ少く成武へ出 候者計多く相成,文ハ衰候而偏武ニ成ハ,

指見候事に道ハ最初ニ立返り候而ハ烈公様 折角御制度御立被遊候深き思召ニ奉背候事 ニ相成,臣下之身奉恐入候次第ニ御座候

とあるように,偏文偏武の弊害や修行の時間 的配慮に加え,「烈公」の遺志を違えることな く,継承してゆこうとする會澤の意図である。

後節で触れる『学制略説』においても,「先王 ノ法服ニ非ザレバ敢テ服セズ,先王ノ法言ニ非 ザレバ敢テ言ハズ,先王の德行ニ非ザレバ敢テ 行ハズ」とあるように,烈公以前から続く祖習 の伝統を遵守する思想を会澤は抱いていた。ま た「只今烈公様御逝去被遊候迚,御遺業を相破

(5)

思召ニ奉背候様,同様相成候而は何共歎敷次第 と奉存候」とあり,「烈公」こと斉昭は万延元 年(1860)に逝去しているため,これはそれ以 降に認められたものであろう。本開館から3年 以上が経過してもなお,基本方針の一つである

「朝文夕武」に関し,思索を巡らす必要があっ たということは,本開館後も学館運営は円滑な ものでは無かったと考えられる。

 他方,「諸生遊惰」についても無視できない 問題であった。下野隼次郎は「学校私議」に おいて,高位高官における人材の不在が水戸 藩第一の憂いであり,「大臣」の子弟ほど学業 に怠惰である現実を批判している[水戸市役 所

1982

:

667]。これについて鈴木氏は,「諸生 の勉学意欲の欠如は,何より彼ら自身の問題で あるとしても,次の二点はそれを助長する結果 になったと思われる」として,「教師と諸生と が親しく接する機会が少なかったこと」と「学 館の蔵書と武具の貧弱さ」を挙げている[鈴木

1987

:

351]。このうち第一の点に関しては,そ れと関連する以下の書を確認することができる

[国会図書館「会沢書翰122]。これによると,

文武指南役は「繁勤ニて指南行届兼」という現 状があり,これが「師弟の交」りを阻害する要 因になっているとしている。また「指南を譲可 申と見込候人も無之,無理ニ譲候而ハ門人も力 を落」すことになり,「文武御引立之御主意ニ」

反するとしている。そして教師と諸生の関係に ついては,

古より師弟之道ハ至而重き儀ニて君臣父子 と並ひ在三と申而,師の爲ニハ心喪三年と 立候而,君父之喪服ニ並ひ候程之儀ニ御座 候(中略)是迄致指南来候御制度を御変革

ニ相成候而ハ師弟之道軽く相成(中略)学 校ニてハ師弟之道ハ格別ニ御立,古来より 之御主意ヲ取,失不申様後日之爲厚く御論 定相成居候方と奉存候

として,従来の制度の変更に反対し「師弟之道」

の重要性を強調している。会澤によるこのよう な問題意識は,何よりも「師弟の道」を厚くし,

両者の交流を深めることで「諸生遊惰」の風潮 を是正しようとする配意であると考えられる。

そしてここでも「朝文夕武」と同様,「文武御 引立之御主意」や「古来より之御主意」といっ た表現が見られることから,学館設立の理念を 基底とした学制の確立を目指していたと考えら れる。

第二節 會澤正志齋の教育理論

(一)會澤正志齋の道藝論

 本章では會澤正志齋の教育思想について,道 藝論を切り口として論じてゆく。ここで,會澤 に関して簡単に紹介したい。會澤正志齋(1782

-

1863)の字は伯民,元服して恒蔵と改めた。号 は正志齋・欣章齋,弘化2年(1845)致仕して 憩齋とする。水戸城西南下谷の宅に恭敬の長男 として生まれた。幼少より学を好み,寛政3年

(1791)十歳の時,藤田幽谷の門に入り,儒学・

史学を学び,その高弟となった。同11年彰考館 に入り『大日本史』の編纂に加わり昇進し,23 歳で徳川斉昭ら諸公子の侍読を命ぜられた。文 政7年(1824)水戸領内大津浜に英人が上陸し た時は,筆談役として英人と接触する。幕末尊 攘運動に思想的影響を与えた『新論』は,その 翌年に脱稿した。同9年彰考館総裁代役,天保 の藩政改革にあたっては,改革派の中核として

(6)

活躍した。天保元年(1830)郡奉行,同2年御 用調役,ついで彰考館総裁の就任。特に藩校弘 道館の建設に尽力し,同11年弘道館の初代総裁

(教授頭取・督学)となる。弘化元年,斉昭が 失脚すると,その雪冤運動に加わり翌3年に蟄 居を命ぜられた。多くの著作はこの間になされ ることとなる。嘉永2年に赦され,同6年学校 教職となり,安政2年(1855)には弘道館総裁 に復した。文久3年7月14日,82歳で没する。

水戸藩では抜群の儒学者であり,教育者であっ た。彼の家塾や弘道館でその教えを受けたもの は藩内ばかりでなく,全国に及んだ[吉川弘文 館

1979

:

8]。

 先に確認したように,會澤にとって弘道館諸 生の「実態」は無視できないものであり,その 改善策を模索していた。そして,その施策は暫 定的方法によるものではなく,「古来より之御 主意」という言葉に表現されるように,伝統的 教育理念に範を求めるものであった。「偏文偏 武」の風潮を「朝文夕武」という具体策によっ て解決を試みた會澤であったが,その根本とな る思想は,師である藤田幽谷より教授されたも のであった。幽谷の教えを記した『及門遺範』

では,

一,先生謂へらく,「古は文武一塗,未だ 嘗て分つて以て二と為さず。海の内外を論 ずる無く,其の致相同じ。故に男子に生る れば,則ち桑弧蓬矢を以て天地四方を射 る。天地四方は男子事有る所なり。孔子曰 く,『文事有る者は必ず武備有り。』と。而 して其の齊人驕慢の氣を折きて,樽爼の間 に折衝し,陳恒君を弑すれば,則ち之を討 たんことを謂ひ,大義を天下に明かにす。

後世惟を下し塵を揮ひ,徒文不武なる者と 同じからず。況や神州太初より勇武を崇尚 す。而して當今武家の禄を食む,豈徒に文 墨を事として以て武士の本業を失ふべけん や。」と。是を以て門人をして武技を兼習 せしめ,白面の書生好んで軟弱の態を為す に傚はざらしむ。

として,幽谷の言葉と,論語を引用し解説して いる[會澤『及門遺範』

:

6]。そして,「弘道館 記」の理念を平易に述べた解説書である『退食 間話』では次のように記している[會澤

1842

:

253]。

問,鹿島の神は武神也。孔子は文徳の聖人 なり。然れば,神社は武夫の拝する神と し,聖廟は文学の士の拝すべきに似たり。

今,社・廟,共に文武の士をして同じく拝 せしめ給ふは,如何。

曰,今人の文武といふものは,文武の藝 也。古人の文武は,文武の道をいふなり。

刀鎗弓銃等の術は武藝なり。礼義・廉恥を 知て,士道を守り,節義を励し,国家の干 城となるは,武道也。文字を読,伝注を説 き,博聞強記にして故事を知り,詩文書算 等を能くするが如きは,皆文藝也。忠孝仁 義を本とし,神聖の大道に通じ,国家の事 体に明にして,公侯の腹心共なるべきは,

文道也。故に藝を論ずる時は,文藝と武藝 と各異なれ共,道を論ずれば,文道・武道,

車の両輪ありて,一車の用を成し,一輪相 離れては,行事あたはざるがごとし。是に よりて,古は道藝とて,道と藝とを一にし て人を教ふ。藝ありて道なき時は,羿が射

(7)

などの如く,藝も却て害となる也。(中略)

故に孔子も「有文事者,必有武備」と仰せ られ,(中略)本より文武両塗に非るなり。

(中略)今,神州の道を奉じ,西土の教に 資て,子弟を教え給ふに,文学・武藝を論 ぜず,同く神社・聖廟を崇敬して,其始に 返り,其本に報ずる事を知らしめ,文武を 一にして,有用の人材を成就し給ふ。これ に依て,記にも「文武不岐」とは仰られし 也。

『退食間話』は,設問に対して解答する形式が とられており,弘道館の教学を一般少年のため に仮名交じり文で認められている。また文中の

「聖廟」については,『南梁年録』において「孔 堂御立被遊間敷思召候所,會澤憩齋建議ニ而,

凡學校ニ孔廟無之ハ不承及候事之由因而出來候 由」とあり[小宮山

1857

:

27],會澤がその建 立に尽力したことが窺える。

 教育を「道藝」とういう視点で論じることに 関しては,草創期の文部省創設に尽力した江藤 新平も「道学」「芸学」として構想していたこ とが毛利氏の研究によって明らかになっている

[毛利

2002

:

245]。そして江藤は,「道学」は神 祇官に専任させ,大学を中心とする学校体系で は「芸学」のみを追求するとし,「江藤の構想 においては,文部省はあくまでも『芸学』を担 当する機関であって,『道学』はその管轄では なかった」と先行研究では論じられている[大 間

2006

:

39]。

 同様に會澤と共に後期水戸學を代表する学者 であり,弘道館設立に際し深く関与した藤田彪

(東湖)も「文武」教育を重視し,「文武は水火 の如く,又陰陽にも譬へ,又車の兩輪にも譬へ,

何れも武士の大道に御座候」と述べている[吉 川弘文館

1970

-b:

275]。そして,文武いずれか に偏頗している者を「一切御召使」いしないこ とを斉昭に上申していた。また「徳行道藝」を 兼備した人物は稀としながらも,それらを「斟 酌」することが肝要とし,バランスのとれら 人材挙用を主張している[吉川弘文館

1970

-b:

274]。

 更に嘉永元年の蟄居中に記された『泮林好 音』は,弘道館の教学に関するものであり,會 澤の教育思想も読み取ることができる。ここで も會澤は,「文武一途」を強調し,「道藝」に「徳 行」を加えて,次のように述べている。

教育ノ法ハ徳行道藝ノ二ツヲ分別スヘシ,

徳行ハ知仁聖義中和ノ六德ト孝友睦婣任恤 ノ六行ト也,内ニ德アレハ外ニ發シテ行ト ナル,其ヶ條ヲ分テ何レモ六ト立タル也,

是ヲ以教ヘ,其徳行成就シタルヲ賢者ト 云,爵位ヲ貴クシテ,人ノ頭役トス,道藝 トハ礼樂射御書數ノ六藝ニ皆ソレゾレニ其 道アル也,道ハ天地ノ大道ニシテ人倫日用 ニ踏行フ所也,藝ハ道ニ就テ,其作業ノ道 アリテ藝ナケレハ空理ニシテ用ヲナサス,

藝アリテ道ナケレハ藝者ニテ小人ノ藝トナ リ,甚キハ羿カ射ノ如ク反テ害トナル也,

故ニ道ト藝ト相離レス道藝成就シタルヲ能 者ト云

 ここにおいて會澤の教育思想は,「弘道館記」

に謳われた「文武不岐」から『退食閑話』で論 じられた「文武」と「道藝」,そして上記で述 べられた「徳行道藝」へと考察を深めてゆく必 要があるであろう。

(8)

(二)會澤正志齋と『周礼』

 前節で論じた「徳行道藝」を基本とした教育 制度は,十三経の一つである『周礼』が参考に されていると考えられる。會澤の著作の中で,

『周礼』の学制について論じているものとして は,『学制略説』があり(6),その概要が詳しく 記されている[文部省

1903

:

458]。また,弘化 4年に綴られた會澤の学問の集大成である『下 學邇言』においても,その「論學」編において 再度『周礼』の教育制度が叙述されている[會 澤

1847

:

254]。

 『周礼』は天地春夏秋冬に則って官制を立て,

その職掌述べており,作者は不明とされている が,周王朝創立の功労者である周公旦の行政典 範であるという評価がある。その一方で,戦国 乱世の陰謀家の作とする意見もあり,見解の相 違がある。『周礼』は出現と同時に古文学派に 尊重されたが,安定した学術的評価を確立した のは,後漢の鄭玄からである。元来特定の国家 の行政法典として作られたのではないこの書 は,理念法典として一種の超越的な権威をも ち,現実の政治行政への批判の拠りどころと なった。古くは王莽がこの書によって「新王 朝」の建設を試み,宋代では王安石が『周官新 義』を著わして新法是認の根拠ともした。わが 国では古代令制下の大学寮の教科書中にその名 があり,鄭玄注を用いた。また後節で触れる が,會澤は『周礼』について詳細な考察を述べ た『讀周官』を残している[吉川弘文館

1986

:

403]。

 そして,會澤が『周礼』に接することとな り,そこから多くを学び取るきっかけを与えた のは,やはり師である幽谷の教えによるもので あった。『及門遺範』では,次のように述懐し

ている[會澤『及門遺範』

:

12]。

先生好んで周官を讀む。謂へらく,「聖人 天地を經緯し,國家を綱紀するは,悉く此 の書に備はれり。其の發明の説,大抵前賢 未だ發せざる所,而して其の説軍令を内政 に寄せ,管仲齊を治むると同意なり。司馬 の軍政は即ち司徒の六郷,之を治するの法 多く今制と合す。(中略)」安此の言を聽き,

恍然として蒙を發する有るが如し。始めて 此の書の實用に切なるを知る。信に先生の 厚貺なり。

「之を治するの法多く今制と合す」とあるよう に,幽谷は幕府による現行の封建制度と一致す る点が多いことを認め,理想的な国家体制の姿 を『周礼』の中に求めたのである。また,先行 研究によると,會澤が『周官』を研究した理由 は,「『周官』は変革者にとって魅力にみちあふ れるものであったのである。それは『周官』が 一王のために具体的な法を設けるという性格を 有していたからである。会沢もこのような『周 官』の本質をみぬいていた。」として,それは

「天皇親政を合理化しうるもの」であり,「天皇 親政下における封建制」を実現するための理想 像を具示したものとし[間嶋

1994

:

83],そう した『周官』とははまさに「水戸学的理想に合 致する点が多」く含まれていたとされている

[今井

1973

:

543]。

 そこで以下では,『周礼』における教育制度 を概観してゆきたい。先にも述べたように『周 礼』は天地春夏秋冬の六官府からなっており,

また民の教育に関しては,次のように説いてい る[本田

1977

:

303]。

(9)

郷の三物を以て萬民に教えて之を賓興す。

一に曰く,六德。知・仁・聖・義・忠・

和。二に曰く,六行。孝・友・睦・婣・

任・恤。三に曰く,六藝。禮・樂・射・

御・書。數。

このように,六德六行六藝の郷学による三種の 教法で萬民教化の法を記している。

 前節で論じたように會澤が主張する「教育ノ 法」とは「德行道藝」を主体とするものであっ た。それらの内容は,これまで確認した『周 礼』における教育論と符合する点が多く,先行 研究においても,「会沢の立論の根拠には常に 聖人の聖経が援用されるが,その聖経の内でも 尚書・周官・周易の三経が最も有力である。会 沢の経伝研究において,この三経に特にその精 力を傾倒している所以でもあるが,その三経の 中でも特に周官に対して努力を集中している」

と指摘されている[今井

1973

:

536]。またそれ らは,藤田東湖の遺稿からも看取することがで き[藤田「弘道館述記」

:

327],後期水戸学の教 育理念は,その多くに『周礼』の要素を確認す ることができる。

 『周礼』における教育法を『学制略説』を参 考に通観してみると[文部省

1903

:

463],「國 子ヲ教養スルノ法ハ,德行・道藝ノ二ツニ出デ ズ」と述べ,「師氏」が「德行」を担当し,「保 氏」が「道藝」を教授するとしている。そして 国子の「德」には,「至德」「敏德」「孝德」の

「三德」があり,「孝行」「友行」「順行」の「三 行」があるとしてる。これらが,万民に対して の「德行」である「知仁聖義忠和」の「六德」,

「孝友睦婣任恤」の「六行」と異なるのは,「仁 義忠和」は「至德」にあり,「知聖」は「敏德」

に含まれるとしている。そして「孝德」を別に 設けたのは,「貴人ノ子ハ多ク驕慢ナルモノナ ル故,父母先祖ニ不孝ナルノミナラズ,魯ノ三 植・晋ノ六卿ナドノ如ク,强僣ニ至リ易」いか らだとしている。また,「六行」の内「孝睦婣」

は「孝行」にあるとし,「仁恤」も重要である けれども,「貴人ノ子ノ驕慢ノ氣ヲ制スルニハ,

友行順行ニテ,重キヲ挾マズヨク賢良ノ士ヲ尊 ビ,師長タル人ニ事ヘ,年長ジテ政事ヲ聽ク時 ニ至リテモ,ヨク人ノ善ヲ容レ用フルノ下地ト スル事ナル故,此二ノ行ヲ重ンズル事也」とし ている。国子の教育における「德行」では,「貴 人ノ子」の「驕慢」を抑止することが重視され ているのがわかり,これは前章で論じた弘道館 の「弊風」と無関係ではないであろう。

 さらにここで,『讀周官』について考察して ゆきたい。『讀周官』は安政元年(1854)に成 り,會澤の儒教経伝の研究著作集である「思問 編」に分類される。これは学制について外部へ 対し纏めた前記の二著作と異なり,會澤自身の

『周礼』理解における思考過程を把握出来る点 で価値があると考える。『讀周官』については,

間嶋潤一氏による研究がほとんど唯一のもので あるが,教育論を扱ったものは管見の及ぶ限り 確認できない(7)

 先に述べたたように,弘道館は藩士の教育機 関であり,それ以前の教育は家塾において行わ れていた。そして,弘道館総裁に復帰した前年 に書き上げられたとされる『讀周官』は,弘道 館における教育制度を念頭に構想されたと考え るのは自然なことであろう。

 これらを踏まえ,『讀周官』の該当部と比較 してみたい。『讀周官』では會澤が独自に項目 を立てており,「師氏保氏」,「徳行道藝」,「國

(10)

中失之事」,「養國子以道」等において特に分析 がなされている。そこでは「天下之務,莫急於 教太子」[會澤『讀周官』

:

48

p

]と述べた上で以 下のように記している。

一曰,孝行以親父母,百行本於孝,故曰,

為仁之本,王公之子,於父母多尊而不親

(中略)愛敬親者,不敢悪慢於人,雖崇高 不生驕心(中略)故王公之行,以孝為第一,

而司徒六行,亦孝居其首,自天子至庶人,

未嘗不以孝為先也[會澤『讀周官』

:

52

p

會澤が「以孝為第一」とした理由は,「孝行以 親父母百行本於孝」とすることで,「雖崇高不 生驕心」という目的を遂げようとしたことが窺 える。また,「順行」を学ぶことは,最初に「師 長」に仕えることであり,「礼又曰,知事人然 後能使人,(中略)事師長以教他日使人也」と して,臣下を指揮する立場の者を想定した徳目 であることが理解できる。そして「友好」に ついては,「王公子弟豢養富貴,易生驕心,與 賢豪交疎,多不通物情」とし,そこで「師友之 教」が不可欠であるとしている[會澤『讀周官』

:

53

p

(8)。これら「三行」を教授する結果「使富 貴之子暁退譲謙下之道,其所以豫防驕逸者,可 謂至矣」[會澤『讀周官』

:

53

p

]と考察している。

これらの思索が『学制略説』に敷衍されている のは,先に見たとおりである。

 そして会澤は,「國子之学,而可不知國家得 失乎〉[會澤『讀周官』

:

54

p

]と述べているよう に,指導者の育成は「國家得失」と直接関連す ると考えていた。したがって,「國子」の教育 にとって有害となる「驕心」の克服こそが主要 課題であり,會澤の教育観を論じる上で軽視で

きないものであると考えられる。

 加えて『学制略説』では,「道藝」を教える

「保氏」について「『養國子以道,教之六藝』

とて,禮樂射御書數ヲ教ヘ,マタ『教之六儀』

トテ,祭祀賓客朝廷喪紀軍旅車馬ノ六ノ坐作進 退ノ容儀ヲ教ルナリ」と解説し,「六藝六儀ト モニ皆道ヲ行フノ節文ナレバ,只作法バカリニ ナリテハ役ニタタズ,故ニ六藝六儀ニ道ヲ寓シ テ,コレヲ習フ間ニ自然ニ道ニ染ムコムヤウニ 仕掛ルナリ」としている[文部省

1903

:

464]。

そして,『讀周官』では,「師氏」と「保氏」の 関係性について,「二者相湏以成其德器,故藝 之与儀,不止於飾外,必養之以道,然後乃教以 二者也,(中略)使世禄子弟,学有本末,而能 成有用之器也」[會澤『讀周官』

:

55

p

]と述べ,

「有用之器」となるための人材育成には,「師氏」

「保氏」の両側面による教育が肝要であり,常 に「道」の介在が必要だとしている。次節で触 れることであるが,會澤が理想としたわが国に おける教育の先例においても,やはり「師氏」

と「保氏」に相当する者が登場しており,この ことは方法論において主軸を成していると考え てよいであろう。

第三節 『泰否柄鍳』における歴史智

(一)會澤正志齋と王安石

 先に述べたように,指導者の育成こそが「國 家得失」に関わると認識した會澤は,教育の重 点を「驕心」の抑制に置き,「有用之器」を涵 養するために,その規範を『周礼』の学制に仰 いだ。これは師である幽谷の教えが基となって いることは確かであろう。しかしながら,會澤 の教育論において,晩年まで続けられた『周礼』

への思索は,それのみを論拠とすることは困難

(11)

のように思われる。ここで筆者はその糸口とし て,會澤の史観が少なからず影響していると考 える。

 そこで以下では,會澤の歴史的考察を読み取 ることができる『泰否柄鍳』を用いて探ってゆ きたい。『泰否柄鍳』は,會澤の「閑聖篇」に 属する著作としてその存在は知られているが,

その内容を主として論じた研究は見あたらず,

著作群の解説において簡単に触れられている程 度である[今井

1973

:

554

p

]。

 『泰否柄鍳』は嘉永元年(1848)に記された ものであり,周易の視点から宋代を中心にして その盛衰について會澤独自の視点で論じられて いる(9)。またその擱筆の辞として,

後世天下國家ヲ治平センニ泰否二卦ノ象義 ヲ深ク玩味シ,且之ヲ證スルニ歴代ノ君子 小人ノ内外消長ノ実迹ヲ以テ反復シテ思ヲ 致シ,是ヲ紙上ノ空言トセスシテ今日ノ実 事ニ施行ハヽ庶幾ハ過募カ,余泰否二卦ヲ 観テ深ク易象ノ空言ニ非ルコトヲ感ス,易 義ノ深奥ナルコト筆舌ニ及フ所ニ非ント モ,聊カ是ヲ略解シ,因テ古来ノ実事ヲ挙 テ象義ノ人事ニ的確深切ナルヲ證スルコト カクノ如シ[会澤

1848

:

四巻108

p

と記し,「歴代ノ君子小人ノ内外消長」と国家 の盛衰との関わりを主として論じている。

 同書の「巻之三」では,北宋第六代皇帝であ る神宗政権下での変遷を中心に,宋代の興亡を 述べている。ここでの會澤の言説からは,政権 内における「小人」の跳梁が,いかに国家の衰 亡と関連しているかが,詳しく描かれている。

また,會澤に関しては一般に『新論』をはじめ

として,「外患」に対して警笛を鳴らしている 著述の印象が強いが,ここでは特に「内患」に ついて述べているという点でも興味深い。

 具体的に観てゆくと,神宗に登用された王安 石の諸政策を中心としてその「泰否」を考察し,

安石に代表される「小人」の存在は,「君子ヲ 害スルコト只其悪ヲ生者ニ施スノミニ非,死者 ニ至マデ其棺ヲ破リ尸ヲ暴ントス」として「其 陰険深刻ナルコト実ニ甚シ」[会澤

1848

:

三巻 117

p

]としている。

 王安石の諸政策の詳しい内容に関しては先行 研究に譲るが(10),それらの政策を概観して會 澤は「論説スル所ハ皆財利ノ説ノミ也」[会澤

1848

:

三巻10

p

]とし,安石は「是ヲ周ノ泉府ノ 法也ト称スレトモ,実ハ経文ノ一両句ヲ擧テ 己カ私意ニ附會シタルナリ」[会澤

1848

:

三巻 14

p

]としている。また「小人ハ一身ノ利害ノ ミ謀テ,國家ノ善悪利害ニハ一切心ヲ留メサル 故,時ノ風向ニテイカヨウニモナル也」[会澤

1848

:

三巻22

p

]とその語気を強め己の利害のみ を重視し,国家の利害を度外視する「小人」を,

宋代の歴史を拠り所として危険視している。

 王安石については,會澤以外にも様々な評価 が多様な立場の者から論じられている。東一夫 氏の研究では,わが国における中世五山の禅僧 から,近世の儒学者にかけての言辞が整理され ている。ここでも同様に,王安石に対する評価 は批判的なものが多いものの,その背景として 東氏の分析を一瞥しておくことは,會澤の批評 を考察する上でも有益であるように思われる。

 例えば林羅山について東氏は,「要するに学 問的研究の上からではなく,政治的な,或いは 学閥的な風潮に立って結論を下し,王安石も王 莽も『周礼』を利用して悪政を行ったという点

(12)

において,同罪であると決めつけているので ある。」とその理由を指摘している[東

1987

:

313

p

]。また,頼山陽に関して同氏は,政論と それを導き出す諸要素に多くの共通点があるに も拘わらず,批判的であったのは,「山陽が『周 礼』についてどれ程研究をしたかも疑わしい」

とした上で[東

1987

:

344

p

],「筆禍を恐れる性 格と,彼の社会的地位が大きく作用しているの ではあるまいか」と安石批判における外的要因 を分析し,安石評の信憑性に疑問を提示してい る。

 そこで上記の点に関して述べるならば,會澤 はいずれにも該当しないであろう。学問的研究 においては,『讀周官』を含め他の経書につい ても詳細に研究した論考があり,「筆禍」とい う点に関しては,公的出版を阻まれた『新論』

を執筆しており,「政治的」立場云々を配慮す る「性格」とは言い難い。加えて,興味深いこ とに安石も『周礼』の「泉府の精神」を引用し て政策を遂行しており,『周礼』研究に余念の ない會澤の言葉は,注目に値するであろう(11)。 これらを踏まえ,會澤の安石論を考えるなら ば,そこには「風潮」等に左右されない独自の 視点があり,わが国における安石論者と比較し ても,その評価には一定の説得性が読み取れる ように思われる。そして,ここでの「視点」と は,彼自身が編纂に関与した『大日本史』で表 された史観とも無関係ではないであろう。これ は會澤が,各人名に「君子」,「並君子」,「並小 人」,「小人」と割注を施していることからも,

大義名分の理念により纏められた『大日本史』

における「列伝」の記述法と,無関係ではない ように考えられる。

 さて,會澤の主張した「驕心」がどのよう

に,安石をはじめとする「小人」と関係するか と言えば,「富貴ノ人驕慢ナラサル事少シ,驕 慢ナレハ己ニ誇テ人ヲ侮ル,故ニ甘言ノ疾ヲ愛 シテ苦言ノ薬ヲ悪ム,諌官ヲモ陽ニ敬シテ陰ニ 忌ム,然ルニ仁宗是ヲ親近スル事,実ニ賢君ト 云ヘシ」[会澤

1848

:

二巻31

p

]として,「苦言」

を呈する「君子」よりも,「甘言」を述べる「小 人」を徴用するようになるとしている。そし て,「安石初ヨリ甘言ヲ進メ論説スル所ハ皆財 利ノ説ノミ」[会澤

1848

:

三巻10

p

]というよう に,「小人」はやはり「財利」のみが重要であり,

「一身ノ利害ヲ謀」[会澤

1848

:

四巻26

p

]るた め,「人君」への「義」は軽んじられ,状況次 第で「夷狄ノ臣妾」にもなり,「遂ニ國家ヲ亡 ス」[会澤

1848

:

四巻70

p

]と結論づけている。

そこで宋代衰亡の歴史が,「小人」の周旋にあ ると考えた會澤は,指導者たる「人君」の教育 を重視し,「小人」に取り込まれることのない

「有用之器」を育成することを目的としたので ある。そして,そうした「器」を備えた「聖賢」

を教育する目的で書かれた『周礼』の学制こそ が,會澤の要求を満たすものであったと考えら れる。

(二)「聖賢」の養成と「祖宗ノ旧法」

 では,こうした北宋衰亡の要因となった「小 人」の周旋に鑑み,如何なる歴史的教訓を導 き出し,『周礼』の学制に依拠するに至ったの であろうか。それは国家の命運は「人君ノ明 暗ニ由テ相消長スル事ナル故」[会澤

1848

:

巻2

p

]と述べているように,指導的立場にあ る「人君」に左右されるとしている。そして,

神宗を評して「神宗実ハ美質ニシテ有為ノ君 ナレトモ,聖賢ノ大道ヲ不知,義利ノ辨ニ暗

(13)

節で論じたように,「烈公」の遺志や「先王ノ 法」に則るという意志の表明からも明らかであ る。その上,「聖賢ノ道」と「祖宗ノ法」を並 列していることは,『周礼』学制における「人 君」教育法の普遍性と,固有の歴史を背景とす る特殊性を「熟知」することが,教育には不可 欠であることを強調したものであろう。

 ちなみに,「人君」の国家の統治理念におい ては,「人君ノ國家ヲ治ルハ天工ニ代テ天職ヲ 行フナレハ,一己ノ私智ヲ以テセス,天然ノ道 ニ本ツキ天地相交ルノ象ヲ観テ是ヲ以テ天地ノ 道ヲ人事ニ施スナリ」[会澤

1848

:

一巻21

p

]と 述べており,国家を「人君」の私見において治 めるのではなく,「天地ノ道ニ本キ」掌握する ことを定めている。

 それでは,會澤が理想としたわが国における

「人君」教育の模範とは,どのようなものであっ たのであろうか。これは,先に述べた「人君」

教育法の普遍性とも関連するが,『学制略説』

等の會澤の著作には,その具体例を読み取るこ とができない。けれども『泰否柄鍳』には,以 下の例が記されている。

幼主ヲ輔導スルノ論,古周公ノ成王ヲ輔ラ レシ時ヨリ如此 台徳公ノ御時皆川老甫ト 云武功ノ老人ニ命シテ毎日西城ヘ出

竹千 代君(大猷公ノ御事)御心得ニナルヘキ雑 談ヲ仕,挨拶人ニハ林道春大橋立慶ヲ命セ ラレシモ是ト暗合ス,是幼主ヲ輔導スルノ 要務ナリ,如此ナル時ハ寺人宮女ト親ム事 自然ニ少ナクナリテ瑣末ノ語ヲ聞ク事少 ク,正大ノ論ヲ聞事多ク,幼君ノ徳智自 然ニ長シテ賢明ノ君トナルヘキ基本ナリ

(カッコ内は割注)[会澤

1848

:

三巻86

p

ク,利ヲ先ニスルハ必小人ナル事ヲ不悟」[会

1848

:

三巻73

p

]とし,「安石ニ迷テ暁ル事能 ハス,人ノ邪正ヲ辨セサリシモ其本ハ道理ニ暗 キ故也,孔子モ不知言無以知人ト仰ラル知言ト ハ道理ニ明ニシテ邪正曲直ノ言ヲ能ク辨明スル ヲ云,是人君学問ノ要ナリ」[会澤

1848

:

三巻 18

p

]と述べている。

 また,「人君ハ常ニ警戒優恤シテ安逸ニ流ル ヘカラサル事前ニモ諭セシカ如シ,然ニ安石己 カ僻説ヲ信用セラレン為ニ三不足ノ説ヲ主張 ス,天変,人言,祖法ノ三ハ人君第一ニ畏敬ス ヘキ事ナリ,是ヲ不畏時ハ何事モ心侭ニナリテ 人君ノ戒惧ハナキ事ニナルナリ,小人ノ是非 ヲ顛倒スル事甚しと云ヘシ」[会澤

1848

:

三巻 38

p

]として,「人君」が心得るべきものとして

「天変,人言,祖法」を挙げている。

 「祖法」に関しては更に「宋ノ天下ハ祖宗ノ 天下ナリ」[会澤

1848

:

二巻69

p

]とした上で,

以下のように記している。

小人ノ掯シテ先帝ノ政ト云モノハ神宗安石 等ニ欺レタル邪僻ノ弊政ニシテ,宋代祖宗 ノ旧法ヲ乱リタルナリ,宣仁ノ改タルハ其 祖宗ノ旧法ニ復シタルナリ,然ニ庸俗ハ一 旦政令ニ出タル事ヲハ後世ノ弊政ニテモ祖 宗ノ旧法ト同様ニ心得ル故,旧ニ復シタル ヲモ旧ヲ改ル様ニ云ナシ,是非ヲ混淆ス,

聖賢ノ道ト祖宗ノ法トノ美意トヲ熟知セサ ル時ハ離間ノ言モ入易キ事千古ノ通患ナリ

[会澤

1848

:

三巻108

p

 ここでは宋代における「旧法」を述べている けれども,會澤はこれを自国に投影して考察し ていることは間違いないであろう。それは第一

(14)

中,徳川斉昭の意向により,水戸学の理念を体 現する人材を育成するために設立された弘道館 であったが,偏文偏武,恩賞偏向,漢書偏重,

治教不一致といった問題もあり,特に厚禄の子 弟においては,「諸生遊惰」の風潮があった。

 これらの問題について會澤は,「偏文偏武」

に関しては,「朝文夕武」の学則によって是正 を試た。そして,その背景としては,逝去した 烈公の遺志を継承しようとする意図がはたらい ていたことが書翰より明らかとなった。また

「書生遊惰」の問題に関しては,師弟の交流を 深めることで解決を図ろうとしていた。

 次に會澤の文武教育論では,「文武の藝」か ら「文武の道」へと昇華することが意図されて おり,単なる「藝者」になることを戒めている。

さらに會澤の教育論を詳しく見てゆくと「德行 道藝」という考えが原点にあり,これは『周礼』

の学制を基にしている。

 會澤が『周礼』の教育理念を念頭においてい ることはこれまでも指摘されていたが,本稿で

『讀周官』を取り上げたことにより,「貴人ノ子」

の「驕慢」を取り除くことが第一であり,その 理由は,国家の盛衰と関係するからであると認 識していたことが明らかになった。こうした會 澤の教育理念は,歴史的考察に基づくものであ り,『泰否柄鍳』では宋代の興亡を論拠として 説明されていた。また,會澤は『周礼』におけ る普遍性を認めつつも,『祖宗ノ旧法』に精通 する重要性を述べ,わが国の教育における特殊 性も重視していた。それらを踏まえ,會澤が理 想と考えたのは,徳川家光の受けた教育であ り,そこでは『周礼』学制における「師氏」と

「保氏」に該当する者を認めることができた。

 會澤正志齋と言えば現在でも『新論』の作者 このように,會澤が日本において模範と考えた

教育は,「大猷公」こと徳川家光の受けた教育 法であり,「人君」とは家光を念頭に置いての ことであった。そして皆川老甫,林道春,大橋 立慶による教育は「周公」以来の教育法とも暗 合するとし,「人君」教育における共通性を提 示している(12)

 こうした『泰否柄鍳』によって導き出された 歴史的考察と,『周礼』に依拠した学制論,そ して教育における普遍性と特殊性の両立を勘案 すると,そこではやはり,水戸学の特長でもあ る「実践」に基づいた教育規範を読み取ること ができるあろう。「君子小人ノ情態古今一徹ナ レハ,古ヲ鍳トシテ今ヲ知ヘキコト勿論ナリ,

徒ニ古ヲ見テ今ヲ不知ハ百萬巻ヲ誦スレトモ無 益ナリ」[会澤

1848

:

三巻59

p

]という言葉に象 徴されるように,會澤は古に拘泥し,机上の遊 技を楽しむ学者ではなかった。『新論』によっ て示された思想と行動規範同様,會澤の教育論 は水戸学者として探求され続けた歴史的考察 と,現実社会の直面する諸問題への応用を,模 索することによって導き出された結論の産物で あったのである。

おわりに

 本稿では,後期水戸学における教育理念につ いて,會澤正志齋の教育思想を中心に論じてき た。それらを要約すると以下のように整理でき る。

 後期水戸学の影響は藩内に止まることなく,

諸藩の藩校においても水戸学関連の書籍が教科 書として使用された。また,明治維新を語る上 で欠くことのできない多くの人物においても絶 大な影響力を持っていたと言えよう。そうした

(15)

名,及び閲歴等から文政末年から天保2年以前と 推定している[瀬谷義彦 1942: 120p]。

⑺ 引用ページの表記については,原文書には項数 が記載されていないため,筆者が便宜的に付けた ものを使用する。

⑻ 筆者は,弘道館においてこの「師氏」に相当す る役職が「総教・教授頭取ト称ス」ではないかと 推察している。何故なら,その職掌には「小姓頭 ヲ以テ之ヲ兼ヌ,役料各二百石,学中一切ノ事務 ヲ総理シ経業ヲ教授シ,生徒ノ督課簡試スルコト ヲ掌り,兼テ侍講判読及国史ヲ監修スルコトヲ知 す,小姓頭実礼儀ノ職,幕府ニ執謁シ頗ル要職ト ス,凡大臣嫡子等近侍ニ列スル者皆指揮ヲ受,故 に門閥ニ非サレハ之ニ任スルヲ得ス,義公ノ時国 史総裁多ク之ニ任ス,後蓋シ絶ユ,此ニ至リ古ニ 復シ,儒生ヲ挙ゲ以テ本職ニ任ス,即教学深意ノ 在トコロ也」とあるように,経業の教授,大臣嫡 子は漏れなく指導を受けること,儒生からの選抜 によるものとしているからである(文部省 1892

『日本教育史資料一』347p 富山房)。これに関し ては,稿をあらためて論じてゆきたい。

⑼ 『泰否柄鍳』では『資治通鍳続編』と思われる書 籍等から適宜抜き書きし,それに対して會澤の意 見がそれぞれ付記される形式となっている。なお,

本資料のページは筆者の任意による。

⑽ 東一夫 1970『王安石新法の研究』風間書房等

⑾ 東氏は「結びの言葉」において,原稿を出版社 に届ける直前に會澤の安石評の存在を知ったと述 べておられるため,残念ながら同書に會澤に関す る分析はない。

⑿ 同趣旨の内容は徳川家康の「遺意」として,

次のように説明している[會澤正志齋 1848: 二 巻6p]。「東照宮戦争ノ世ニマシマシテ寸隙ナキ間 ニモ讀書ヲ好玉ヒ藤惺窩林羅山等を近付ケ,講論 ヲ聞聴セラレ遺書ヲ求メ有用ノ書ヲ刊行セシメ孫 謀ヲ胎シ,法憲ヲ示スモ文武忠孝ヲ本トシ,台徳 公ヲ始メ三藩ノ君モ皆学ヲ講セラレ 大猷公儲君 ニテオハセシ時モ,皆川山城守林羅山等ヲシテ談 論講究セシメラレシ類(皆川ノ事下ニ見ユ)皆学 ヲ勧メ玉フ意ニ非ルハナシ,我藩ニテモ 威公神 道ヲ学玉ヒ 義公神儒ヲ崇ヒ致仕ノ後モ書ヲ以テ  粛公ニ丁寧ニ告戒セラレシ類何レモ 東照宮ノ 遺意ヲ奉承セラレシ所ナリ,人君ノ学ハ古今ノ治 乱盛衰ノ機ヲ明ニシテ,当今ノ鍳戒トスル事泰否 として有名であり,実際に水戸学の名を全国へ

波及させたのは『新論』の力が大きかったであ ろう。しかしながら,彼は弘道館総裁であり,

後期水戸学を代表する学者であると同時に,教 育者としての一面を合わせ持っていた。こうし た事実と,これまで指摘されてきた明治維新へ 続く水戸学の影響を加味すると,幕末維新期に おける教育史の分野においても會澤の名は無視 できないように思われる。ゆえに本稿では会澤 に焦点を絞り論じてきたが,水戸藩の内外を問 わず,彼の思想に影響を受けた教育家の研究も 不可欠であろう。そうした視点も含めて,幕末 から明治へ接木された教育思想の継承過程の究 明も必要だと考える。

 なお,本稿では特に,『讀周官』と『泰否柄鍳』 を用いて會澤の教育思想の一端を解明した。し かしながら,會澤の「思問編」に分類される他 の経書研究書においても活用の余地が十分に残 されているため,今後はこうした著述を用いな がら研究を進めてゆきたい。

〔投稿受理日2013. 12. 21 /掲載決定日2014. 1. 23〕

⑴ 平成14年に序文や碑誌などをまとめた『會澤正 志齋文稿』が出版された。

⑵ 総数百八十通。なおこの書翰群に関しては,「国 立国会図書館デジタル化資料」として閲覧可能。

⑶ なお弘道館の概要,及び水戸学の教育について は荒川氏の先行研究が端的にまとめられている。

「水戸学の思想と教育」2003『人文論集』静岡大学 人文学部

⑷ 始めは會澤に依頼したが,何らかの事情でこれ を辞退した『水戸市史中三』1115p。

⑸ 『水戸市史中三』967p,及び北條重直 1932『水 戸學と維新の風雲』修文館,高須芳次郎『會澤正 志齋』71pを参照。

⑹ 『学制略説』の成立年代について瀬谷氏は,天保 10年とする説に疑義を唱えておられ,本文中の人

(16)

ノ由テ分ルヽ所ナレハ尤肝要トスヘキナリ」(カッ コ内は割注)

参考文献

會澤正志齋 1847「下學邇言」『水戸學大系二』水戸 學大系刊行会 1942

會澤正志齋『及門遺範』玉巖書堂

會澤正志齋 1842「退食間話」『日本思想大系53水戸 学』岩波書店 1973

會澤正志齋『讀周官地官』「会澤安之家文書」23-2 茨城県立歴史館所蔵

會澤正志齋 1848『泰否柄鍳』茨城県立歴史館 今井宇三郎 1973「水戸学における儒教の受容」『日

本思想大系53水戸学』岩波書店 国立国会図書館「会沢正志斎書翰122」

国立国会図書館「会沢正志斎書翰123」

小宮山南梁 1857「南梁年録」『茨城県史料幕末編Ⅱ』

神道大系編纂会 1986『神道大系論説編十五水戸学』

鈴木暎一 1987『水戸藩学問・教育史の研究』吉川 弘文館

瀬谷義彦 1942『會澤正志齋』日本教育先哲叢書第 一三巻,文教書院

大間敏行 2006『教育史学会紀要49』教育史学会 辻本雅史 1990『近世教育思想史の研究』

名越漠然 1981『弘道館大觀』常陸書房 東一夫 1987『日本中・近世の王安石研究史』

藤田東湖「弘道館述記」『日本思想大系53水戸学』岩 波書店 1973

北條重直 1932『水戸學と維新の新風』

本田二郎 1977『周礼通釋上』秀英出版 本田二郎 1979『周礼通釋下』汲古書院

間嶋潤一 1994「会沢正志斎『読周官』訳注稿(1)

解題」『香川大学国文研究19』

水戸市役所 1976『水戸市史中巻(三)』大日本印刷 株式会社

水戸市役所 1982『水戸市史中巻(四)』大日本印刷 株式会社

毛利敏彦 2002『明治維新政治外交史研究』吉川弘 文館

文部省 1903『日本教育史資料集五』富山房 吉川弘文館 1970-a『水戸藩資料上編乾』

吉川弘文館 1970-b『水戸藩資料別記下』

吉川弘文館 1979『國史大辭典1』

吉川弘文館 1986『國史大辭典7』

参照

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