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叩 京 世 中
勝 龍 寺 城 跡
1 所在 地 一爪 都府 長 京岡 市 神東 足 丁二 目 2 調査 期間 一九 人 四年
59︵昭 二︶ 月
︱八 月 3 掘発 機 関 長 京岡 市 教育 員委 会
・卸 長 京岡 市 埋蔵 文化 財 セ ン
タ ー
4 調査 当担 者 岩崎 誠 5 遺跡 の種 類 城館 跡 6 遺跡 の年 代 室 町時 代
︵一 五七 一年 1 一五 人六 年︶ 7 遺 跡 及び 木簡 出 土遺 構 概の 要 勝龍 寺 城 は︑ 小 畑 川と 大 川 の合 流点 付近 に位 す置 る中 世後 期 の平 城 であ る︒ 築 城 に つい ては
︑ 暦 応 二年
︵ 三一 一九
︶ 細に 川頼 春
・師 氏 よに ると す る 説 と︑ 長 禄 元 年
︵一 四 五 七︶ に畠 山義 就 が乙 訓郡 役 所 と し て造 営 たし とす る説 があ る︒ 戦国 時 代末 期 には 松永 久秀 と 三好 三 衆人 属の 城 と な てっ いた が︑ 織 信田
長 が これ を攻 略 し︑ 永 禄 三年
︵一 五六
〇︶ には 細 川藤 孝 に 下さ れ る︒ 細 川 藤 孝 は 元 亀 二年 一︵ 五七 こ に城 を 再 整 備 す る が︑ 天 正 九 年 全 五人 一︶ 藤に 孝 は宮 津 城 に移 り︑ 翌年 の山 崎 の戦 いに お いて
︑ 明智 光秀 軍 の拠 点 とな り︑ 落 城 たし
︒ 今 回 の調 査地 Jは R長 岡京 駅 の南 東約 四
〇〇 mに 位 置 し︑ 長 岡京 跡右 京 第 一六 三次 調査 と し て実 施 たし も ので あ る︒ 木簡 は︑ 勝龍 寺 東城 辺外 堀 S D 一六 三 五〇 のC 期 堆積 層 から
︑
﹁憧 侍
﹂
﹁者
﹂ な ど の 墨 書土 師 器 皿と とも に出 土 し た︒ 東 辺外 堀 S D 一六 三
〇五 の規 模 は︑ 最大 約幅 五 m深 さ 二 mで 断︑ 面逆 台 形を 呈 す る︒ 上師 器 の特 徴 か ら︑ 一六 紀世 後半 期 と考 え られ 細︑ 川藤 孝 大が 改修 し た時 期前 後 の遺 物 と思 わ るれ
︒ 8 簡木 の釈 文
・内 容 ω
十証 著 転 読欧︹
剛 紀 E︵中 X こ 益 o解 大股 若 経転 読札 の断 片 あで る︒ 上端 を山 形 尖に ら せた 形態 で︑ ヒ ノキ の板 目材 用を てい いる 墨︒ 書 面 片は 面 のみ で︑ 平 坦 加に 工し て おり 裏︑ 面 板は 割 り時 の木 目 に沿 たつ 凹凸 が残 る︒ 左 側面 は欠 損 し てお り 欠︑ 損 部 の 一部 焼に 焦け げ と思 わ るれ 黒色 炭 化 が見 ら るれ
︒ 木簡 の出 位土 置 勝は 龍 寺城 の北 東 隅 あに た る︒ ま た︑ 出 土地 点 か 約ら 二五 m北 に西 接 す る土 塁 には 六︑ 世紀 末 の古 墳 封が 込じ め られ
(京都西南部)
2003年出上の木簡
てお り 今︑ 回 の木 簡 の出 位土 置 は︑ そ 用の 途 を考 え る上 で興 味 深 い︒ 9 係関 文献 長岡 京市 教育 委 員会
﹃長 岡京 市 文化 財 調査 報告
﹄ 一五
︵一 九八 五年
︶ 同
﹃長 岡京 市文 化財 調査 報告
﹄ 七一
︵一 九八 六年
︶
︵岩崎 誠
︶
﹁憧寺﹂﹁□﹂
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東辺外堀出土土器