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皮脚絆物語再び/皮脚絆物語を越えて : The pathfinderが拓いた道

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pathfinderが拓いた道

著者 林 以知郎

雑誌名 同志社大学英語英文学研究

号 100

ページ 111‑134

発行年 2019‑03

権利 同志社大学人文学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2018.0000000415

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-The Pathfinderが拓いた道

林   以知郎

はじめに「なぜここに身を置くのか、パスファンインダー」

 その悪文のゆえにか、あるいは不経済なほどに厚い紙幅のゆえなのか、

深く読みこまれることなしに文学史上の位置づけのみが語られることの多 いJames Fenimore Cooperの皮脚絆物語連作の中でも、The Pathfinder、or The

Inland Sea(『道を拓く者-内陸の海』、1840)はもっとも論じられることの

少ないロマンスであろう。この連作第四作の「不評」ぶりをNina Baymは、

Cooper研究史が蓄積してきた批評装置、方法的あり方から派生するものと

捉えなおしている。“The book fits very poorly into the logic of the series as it has been developed in the criticism, and it is generally omitted in critical discussions”

(701)。たとえばBalzacのようにCooperの手になるロマンスのうちでも「後 世まで残る作品」(Rust 177)と評する向きもあるものの、The Pathfinderに 現代批評の食指をそそる「批評の論理」が欠けていることは否定しえない。

The Pioneersに描き込まれた建国期アメリカ辺境開拓地の厚い社会史的記述

もなければ、The Last of the Mohicansが覗き込んだ暴力と性の欲望が穿つ深 みもない。The Prairieを彩った神話的崇高と滅びゆく者のパセティックな叙 情もなければ、The Deerslayerが切り取った無垢の喪失に直面する青春の慄 きもまた、ない。

 だが、Baymがいう「Cooper批評が反復してきたこれらの批評装置」から 離れたところで皮脚絆物語第四作を読み返してみるならば、このロマンスに

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は連作中の他の作品と比べて異色なプロット設定が見えて来ることは確かで ある。それはNatty Bumppo が一番似つかわしくない振る舞い、すなわち若 い娘を口説くにおよぶことである。恋をしたNattyがどんな言葉で娘を口説 くのか、いささか下世話な関心から先回りして覗いてみる。 Mabel Dunham への求婚の意を直截に口にすることに躊躇を覚えるNattyについて、語り手 はこう説明を加えている。「不本意ではあるが苦し紛れに、口にしてはなら ぬことを露わにはせず、かといって、まったく隠しおおす訳でもない、とい う折衷策(“a middle course”)に逃げた」(188)。なかばほのめかしながら、

なかば隠しこむ、ある種のdouble talkをもって娘を口説く中年男Natty―当然 のことに、その意は伝えきれない判じ物と化してしまう。のちにMark Twain が格好の風刺の対象とした、寡黙が期待される場面でしばしば饒舌に耽っ

てきたNattyであるのに(182)、そのNattyが見せる言い淀みは物語の後半で

次のような諭しの言葉を引き出す。「言っていることが分からん、パスファ インダー。言いたいことがあるならば、もっと分かりやすく話してくれ(“I trust you will be more plain”)」(452)。Nattyの韜晦に満ちた物言いに登場人物 が抱くこのもどかしさは、ロマンスそのものに対して読み手が感じるもどか しさと重ねることが出来るのではないか。なにかをほのめかしながら、なか ば隠しこむ、この煮え切らなさ、韜晦ぶりは、ひょっとすれば「不人気な」

The Pathfinderがはらんでいるレトリック特性に関わるものなのかもしれな い。まずはこのロマンス執筆に関わる事情から見てみたい。

 Cooperが七年におよぶヨーロッパ滞在から帰国するのは1833年のことであ るが、帰米以降のCooperには「文学的失敗」の様相がつきまとい始める。た とえば形成期アメリカ小説史としてはもっとも新しい業績といえる、Philip F. Gura, Truth’s Ragged Edge: The Rise of the American Novel が捉えるCooper周 辺の文学状況を見てみたい。“Cooper is, unquestionably, a major early American novelist, but a number of his contemporaries did more to advance the form, because they were attuned to their times in ways that Cooper was not...”(40)。新しい作

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家世代の小説作法が時代の要請に応じて洗練に向かっていく中で、帰米後

のCooperの手になるヨーロッパ滞在記群や所有地の占有権をめぐる訴訟を

主材としたHome連作は読者への訴求力を失っていく。“By 1840 the terrain had shifted beneath Cooper, severely curtailing his relevance to both the place of the novel in American culture and his social views” (64)。ジャクソン時代後半期の社 会変動を相手にした世相批判と係争に明け暮れ、Steven Wattsの言う「1830 年代に向けられたエレミヤの嘆き」(66)に没入することにより、変化して いく読者の「期待の地平」からも、また同世代作家たち、たとえばCatherine Sedgwick、 Lydia Maria ChildやJohn Pendleton Kennedy、John Nealといった文 学世代の方法意識からもずれていく旧弊なロマンス作家、というのがGuraの Cooper評価である。もはや過去の作家と目されていた感もあったそのCooper が1840年になってThe Pathfinderを刊行したとき、NattyとFenimore Cooper双方 が復活再生を果たした、として読書界に迎えられたというのもまた、文学史 上での語りつくされた話である。Southern Literary Messengerのある書評子は、

こう歓迎の意を表している。“We welcome Mr. Cooper back to his old ground..., We are proud of Mr. Cooper. We are sorry for what we deem his deviations from his true course as a novelist ”(Harthorn 212)。

 ロマンス前半部分の執筆を終えた段階で着想したと思われる“Pathfinder”な る題名はCooperの手になる造語とされるが、1 この造語に込められた、「失 地回復」、「起死回生」への思いをおもんばかってみることは、難しくはない だろう(Letters & Journals III 433)。しかしながら、ロマンスの紙面に眼を 凝らせてみれば、30年代末に至る時期のCooperを捉えていたであろう、失敗 の感覚、落伍と孤立の感覚がそこかしこに滲み出していることもまた、否 めない。とにもかくにも、主筋となるのはNattyの求婚失敗譚(failed courtship narrative)であるし、さらにまた、The Pioneersにおいて「職務代行人」(“locum

tenens” 441)としてEffingham家資産の管理を託されていたことが象徴的に物

語るように、来るべき世代への秩序の継承を担保する、「代理的父」である

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ことが皮脚絆物語を通してNattyに課された役割であるならば、そのNattyが

Mabel に対して父的存在であるとともに求婚者でもある、という近親姦的ア

ポリアを抱えることとなるこのロマンスは、あらかじめ失敗を約束された難 題求婚譚(courtship challenge narrative)でもあった。なによりも、フロンティ アの荒野と森をこそみずからの生きる場とし、けもの道に残された足跡を読 み取る「鷹のごとき」眼差しを与えられたPathfinderたる Nattyが、船の航跡 のほかに読まれるべき跡を残しはしない湖水の環境に身を置くこと自体から して、この冒険ロマンスのヒーローはみずからが居るべき場の選択に失敗し ているといえるのだろうし、このアイロニーは、Natty自身の次の言葉に集 約されている。“‘Your question would have been more Na’ral, had you said, why are you here, Pathfinder?—The Sarpent is in his place, while I am not in mine’” (187 強調は筆者)。

 「なぜここに身を置くのか、パスファンインダー」というNattyの自問を、

一度は作家廃業まで考えたCooper自身の失敗と孤立の感覚と重ねてみても、

的を外してはいないだろう(Franklin, The Later Years 153-84)。だが同時に、

このNattyの言葉が、「むしろ、こう訊ねるのがよりふさわしい」と、相手の

問いを前にして問い返す「反問」の形をとって発せられていることには着目 してみるべきだろう。ひとり取り残された孤独な自問の中で失敗の感覚をま さぐる営みが、やがては自己を見つめる新たな眼差しの立ち上がりへと転 じ、新たな表現の可能性を拓くpathfindingへの契機となっていく、そのよう な蹉跌から反転へと向かう軌跡が文字通り「道なきところに道を拓く」遅々 たる営みであるからこそ、このロマンスは言い淀みと韜晦の言葉遣いととも に語られなければならなかったのではないだろうか。本稿で試みてみたいの

は、The Pathfinderを皮脚絆物語連作の先行作品およびやがて書かれるべき連

作第五作双方との間の引証・言及関係の中に置いて読んでみることで、文学 的失敗の感覚を新たな方法的模索へと転じようとする、晩年のCooperが失意 の中で引き受けた反転のダイナミズムをたどってみることである。以下、第

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1節で先行ロマンス作品群において反復されてきたジャンル定型の再活用に より読者への訴求力回復を果たそうとする目算をCooperのロマンス執筆構想 に見とりながら、手持ちのジャンル定型への依拠が、のちにMark Twainによ

るCooper批判を呼び込むこととなる造型の平板性・平面性の際立ちへと転じ

ていくイロニーをLee Clark Mitchellのウェスタン映像論を補助線とすること で見ていく。第2節では、TwainによるCooper批判の辛辣さが寄って立つレ トリック的過剰をCooperのロマンス執筆のスタイル自体へと転位し、先行 ロマンスにおける定型を過剰に増幅して自己戯画化してみる自己言及性を、

Cooperが偏愛する「生きながらの彫像化」モティーフを介して先行ロマンス と本作品の間に探りあてる。第3節では「生きながらの彫像化」のモティー フを結節点として設定することを通して、敵と対峙するMabelの孤独な戦い の描写においてNattyに体現される冒険ロマンスの定型フォーミュラが反復 されながら脱構築を思わせる手つきによって吟味・再編され、外界と対象を 遊戯的感覚のもとに造型構図として組み換え捉えなおしていく、新たな眼差 しの立ち上がりをみとる。そして、みずからのロマンス定型を自己言及的に 脱構築していく眼差しが向かうべき対象にNatty Bumppoそのひとを据えてみ ることで、ロマンス技法の平面性・定型性という「文学的失敗」の感覚その ものに言葉をまとわせ、新たな表現形態を切り拓こうとするCooperの反転の ダイナミクスを探りあて、一年後に書かれる連作最終作へと架橋してみるこ とを試みたい。

1 皮脚絆物語再び―「海洋と湖水とフロンティア冒険ロマンス」

 読書界からの好評を博することとなった、十三年の年月を隔ててのNatty Bumppoの再登場が文学市場での受け狙いからであったかというと、Steven P.

Harthorneが跡づけているように、実際に執筆を開始した1839 年夏にCooper

の念頭にあったのはNattyの復活ではなく、新作ロマンスのジャンルをどの

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ような結構にするかという形態論の問題であった。

Even in its final form, The Pathfinder in several portions suggests potential origins in the ‘nautico-lake-savage romance’ that have little to do with Natty;

strip away his presence, and the outlines of a mere ‘conventional’ romance along the lines of Cooper’s nautical tales emerge. ( 204)

出版社に宛てた書簡でCooperは、“nautico-lake-savage romance”を書こうとい う言い方で、自分がこれまで手掛けてきたロマンスのサブ・ジャンルを交差 させてみたい、という抱負を吐露しているが、Nattyの再登場という構想は この段階では胚胎してはいない(Letters & Journals III 393)。

 「 海 洋 と 湖 水 と フ ロ ン テ ィ ア 冒 険 ロ マ ン ス 」 執 筆 と い うCooperの ア ジェンダに沿って、ロマンスの設えを眺めてみる。三番目に挙げられる

savage romance、すなわちフロンティアを舞台とした冒険ロマンスとして

The Pathfinderを読むならば、プロットの設定はGeoffrey Ransが指摘するよ うに、皮脚絆連作中の先行作品、とりわけThe Last of the Mohicans(以下 Mohicans)を意識的に上書きしていると、一読して分かる。“There are many moments in The Pathfinder where the reader is led to recall Mohicans by Natty’s specific or oblique memory of events and themes from the earlier book...all call up a comprehensive memory of Mohicans” (178)。フレンチ・インディアン戦争の 下、Mohicansに続く時期のカナダ国境地帯に舞台設定され、イギリス軍要塞 からオンタリオ湖畔の駐屯地に移動する白人女性を守る任を帯びたNattyと Chingachgookという設定も、さらには指揮を執るDunham軍曹の娘Mabelに対 して敵に内通している案内人のネイティブ・アメリカンArrowheadが性的欲 望を抱き、その身に危険が迫りながらNattyらの働きで救出される、という インディアン捕囚譚原型が反復されるのも既視感覚、上の引用でRansの言う

「記憶総体の想起」感を抱くほどである。このようにフロンティア冒険ロマ

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ンスとしての定型を反復しながら、Cooperが手掛けてきた異種のジャンルの 設え、すなわちCooperが呼ぶところの「海洋と湖水のロマンス系列」もまた そこに交差していく。副題The Inland Seaに謳われたオンタリオ湖の水系が物 語の中心的空間となり、湖畔の砦に立てこもったイギリス軍分遣隊がフラン ス軍およびネイティブ・アメリカンに包囲され危機に瀕するクライマックス では、その名もEau douce(オデュース淡水)のあだ名を冠せられた湖の船 乗りJasper WesternがMabelの叔父であり、かつての外洋船水夫Charles Capを 傍らに快速小帆船Scud号を操って湖面から反撃を加え、湖畔の戦闘はイギリ ス軍側の勝利で決着する。

 このようにみてみれば、“nautico-lake-savage romance”というキャッチコピー に込められたのは、Michael Bellが言うように、「1820年代のロマンスで使い なじんだ手持ちのカードのすべて」(“all the cards that had proved so winning in the1820s”)(91)が披露されるはずの目論見であった。あるいは、手慣れた ロマンス定型が駆使されるべき、Harthornのいう「なんでもござれの鉄板本」

(“a sort of do-everything book for Cooper”)(205)となるはずであった。実際、

これら手持ちのサブ・ジャンル定型が収斂しあうところでロマンスは終結を 迎え、それとともにKay Seymour Houseが言うように、「結末に至ってやっと

Natty本来の振る舞いが取り戻された」という印象がロマンスにクロージャー

の感覚を与える(312)。

 Natty Bumppoの「再生」とともにロマンスに実質的な結末部分を用意し

ているといえる29章末から30章の冒頭で、戦い終えて愛用するライフル銃

Killdeerを携え佇むNattyは、Houseに言わせれば冒険ロマンスの世界に舞い

戻ってきたNatty本来の姿、戦士の 極ボウ・アイディーアル致 である。

When last in view, the sinewy frame of this extraordinary man was as motionless, as if it were a statue set up in that solitary place, to commemorate the scenes of which it had so lately been the site and the witness....The

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rigidity of his limbs seemed permanent, and none but a man accustomed to put his muscles to the severest proof, could have maintained that posture, with its marble-like inflexibility. (461-62 強調は筆者)

「最後に見とったのは、その孤独な場にあって彫像のごとくに静止し、大理 石像のごとく微動だにせず佇まう、強靭にして類まれな男の姿だった」と 描写されるNattyの立ち姿の映像性をLee Clark Mitchellは、「沈黙において停 止した律動、生気を凝縮した沈黙」(“silent animation, animated silence” 37)

という撞着語法的表現で捉えている。静と動の両極をともにはらみこんだ Nattyの身体の様態、すなわち戦士の身体の統御が極限にまで高められた瞬 間に凝縮される沈黙、無言語、静止の様態、引用末に強調を施しておいた、

いわば「生きながらの彫像化」といえる身体制御について、Mitchellの刺激 的な西部劇ジャンル論を今少し引いてみる。The Pathfinder冒頭がそうであ るように、Cooperの冒険ロマンスが真骨頂とするのは、濃密な風景描写がプ ロット展開との関連を希薄にしたままにパノラマから細部へと繰り広げられ ていき、この描写の厚みゆえに、そこに突然挿入されるアクションがいかに 荒唐無稽なものであっても「現実感のイリュージョン」という、だまし絵的 な説得性を読み手に感じさせていく描写技法であって、それはIan Flemingの

James BondものについてUmberto Ecoがみとった「あてどなくさ迷う眼差し」

(“aimless glance”)の技法と同質のもの、とMitchellはいう。そして引き延ば された風景描写の果てに瞬間的なアクション(超絶的な銃操作や身体技法、

極度の暴力性など)が挿入され、その後に来るのがヒーローのこの生きた彫 像化であると(37-40)。あてどなくさ迷う眼差しがなぞりだす空間の広がり と、そこに脈絡なく陥入するアクション(“spurts of action”)、そしてヒーロー の彫像化 (“stationary instant”)から成る映像論的連鎖はCooperのロマンスの定 型フォーミュラであるとともに、男性読者のための理想化された身振る舞い を教える作法書(“conduct book”)として、後の西部劇ジャンルへと継承さ

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れるマトリックスとなる、というのがMitchellによる「Nattyすなわちウェス タ―ン・ヒーロー祖型論」の骨子である(28‐54)。そして急いで付け加える ならば、冒頭に引いたGuraの初期小説史に見たように、1820年代の読者を魅 了したこのフォーミュラが、時代が新しいリアリティ感覚と表現技法を求め ていくにつれて、その深みの欠如、James Russell Lowellの言う「大平原のよ うなフラットさ」(“flat as a prairie” Dekker and McWilliams 239)ゆえに訴求 力を失っていき、文学的失敗の趣を深めていくであろうこともまたおおいに 考えられよう。Twainに至るCooper批評史における、その造型の平面性批判 の始まりである。

2  過剰のモードとその反転

 半世紀ののちに“Fenimore Cooper’s Literary Offenses”(「フェニモア・クー パーの文学的犯罪」)においてMark Twainが「芸術を統制する規則」への 十八項に及ぶ違反として数え上げ、揶揄するところとなったCooperのロマン スの笑止千万な平板さ、平面性の典型こそが、その第四項として配されてい る「ヒーローの生きながらの彫像化」であったのだろう。

4 [The rules governing literary art in the domain of romantic fiction] … require that the personages in a tale shall be alive, except in the case of corpses, and that always the reader shall be able to tell the corpses from the others. But this detail has often been overlooked in the Deerslayer tale. (181)

柴田元幸訳を引用すれば、「4 登場人物は、死体の場合は別として、生 きていること。そして読者がつねに死体と死体でないものを区別しうるこ と。この点も『鹿殺し』ではしばしばないがしろにされる」(182)。The Pathfinderの結末部分におかれたNattyの彫像化―あるいはTwain初期の風刺

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エッセイの題名を引けば「石化人間」(“Petrified Man” 1862)化であろうか―

をあげつらうTwainであるが、同時にTwain特有の過剰さゆえに、Cooperのロ マンスを読み直す手がかりを提供してくれるかもしれない。十八項におよぶ

とされるCooperの罪状を列挙するTwainの過剰さ、過剰化としての揶揄と同

質のものを、向けられたベクトルは異なってはいても、Cooperのロマンスに もまた感じ取ることは出来まいか。すなわち、風刺がその対象の属性を過剰 化することで成立するレトリックであるとしたならば、Stephen Carl Archが 指摘しているように1830年代において「過剰のモード」(“a mode of excess”

 194)を通してエレミヤのごとくに祖国に向けた一連の風刺を発信してき

たCooperが、定型と化したみずからのロマンス・フォーミュラに対して自己

意識的な過剰化、自己戯画化を引き受けている、と考えてみることは出来ま いか。なぜ、みずからに向けられた過剰な自己意識、自己戯画化なのか、と 問われるならば、失敗の感覚をわれわれの経験知の中に置き戻してみればそ の理由を思い描けよう。失敗がなぜ耐ええぬ苛みであるのか、それは失敗の 感覚というものが、まさぐられ反芻される中で単に選択の過誤という一過的 な行為である以上に過剰化・肥大化し、卑小なみずからの姿を増幅させてい く性質のものであるからだろう。エレミヤ・タイプの人格にとって、嘆きの 情動がみずからの内側に向かうとき、至らなさと失敗の感覚がおのずから 過剰化していくであろうことを実感するためには、たとえば病弱ゆえに牧 師職を担いきれぬ自らの弱さをエレミヤのペルソナで覆った、いにしえの Michael Wigglesworthを想起してみれば十分かと思う。

 The Pathfinderにおいて「過剰のモード」が作動している様を垣間見てみる

ために、たとえば、皮脚絆物語においてキーワードとなる言葉、“gifts”「固 有の資質、天与の才」を例にとってみよう。Nattyが体現しているのは戦士 にのみ賦与された身体技法(warrior’s gifts)であろうが、それにしてもこの ロマンスにおける“gifts”の語の使用は過剰であろう。Mohicansにおいて“gifts”

の言葉は36回用いられていたが、The Pathfinderにおけるこの語の使用は119

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回におよんでいる。白人優位意識や人種の単起源/複起源説と絡まり、“gifts”

の概念がCooper論における問題系であることは承知の上ではあるが(Fisher

22-86)、たとえばNattyが早朝に予定された行軍出立に遅刻した言い訳をす る場面で、“I have not felt that it was my gift, this morning”(「今朝のおれは早 起きの才に恵まれていない」 121)として“gift”の語が持ち出されるとき、

Terence Martinが言うように“gifts”の概念は過剰な反復を通してその意味内容

を「空洞化」させてしまっている(80)。ここにCooperにはそぐわない自嘲

めいたplayfulnessに近いものを感じ取れないだろうか。

 定型の過剰化という着想を前提にして、先ほど取り上げた「生きながらの 彫像化」のモティーフを追ってみよう。ロマンス前半、砦へと向かう一行が Oswego川の急流にはばまれ、敵の眼を欺くために川岸の木立の中に潜む場 面はロマンス前半部の山場となるが、明らかにMohicansのGlenn’s Fallを想起 させる設定になっている。即席で設えた樹木の覆いの奥に潜んで息を殺して 敵をやり過ごす場面の描写はこうである。“...when the forms of the concealed party met his gaze, resembling so many breathing statues” (64 強調は筆者)。ここ での言葉遣い、とりわけ下線部「息づく彫像の群れに似て」はMohicansの後半、

MaguaによるUncasの糾弾場面をかたずを呑んで注視する聴衆の表情を描写 した「揺るぎない姿勢で息づく彫像」と酷似している(“As usual, every eye was riveted on his face. Each dusky figure seemed a breathing statue,so motionless was the posture, so intense the attention of the individual” 249 強調は筆者)。しか しながら、Mohicansからの場面を包む荘厳な雰囲気に比して、The Pathfinder の場面で強調されるのが設え全体の「人工性、薄っぺらさ」のイメージであ ることは、いくつかの引用をアトランダムに並べてみれば明らかであろう。2

MohicansでのGlenn’s Fallが底知れない深さと地の底から発せられるかのよ

うな轟きを湛えた神話性・崇高感に彩られていたのに対して、このOswego

Rapidの場面で反復されているのは、薄さ、平板さ、人工性のイメージである。

William P. KellyがThe Pathfinderに感じ取ったという「二番煎じな印象」(“the

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derivative nature” 147)は、先行ロマンスにおける定型を過剰に増幅して自己 戯画化してみる、屈折を帯びた自己言及性から発すると言えるのではないか。

 Cooperの過剰なレトリックがそのベクトルを転じて自らの定型へと向けら れていく、という自己言及的な反転は、ロマンスのタイトルからもうかがえ る。The Pathfinderがいまだ形を取りきらない段階からCooperを捉えていたの は、ロマンスに付されるべき副題The Inland Seaであった(Letters & Journals III 393)。この副題が喚起するのは、内陸の/海という撞着のイメージである。

Cooperのロマンスを読む際にわれわれに要請されるのはこの撞オ ク シ モ ロ ン

着語法的緊 張、テクストが表層で語っているそぶりに抗って漏れ聞こえてくる声に耳を 傾けることだといえよう。冒頭で述べたこのロマンスのもどかしさは、つま りはこの迂遠さから生じるのであろう。テクストの表層が帯びる意味伝達を 内側から切り崩していく背反性は、ロマンスにおいてはオンタリオ湖の水系 に特有の湖水環境を通して表象化される。海洋-湖水ロマンスの定型にのっ とって、一行を乗せた船は嵐に翻弄され制御不可能な窮地に陥るのであるが、

その際に湖水環境を熟知したJasperがとった判断は、船の漂流を阻止するた めに、湖の潮流に固有の「引き波」(“undertow”)を利して、海洋において はなされはしない錨の投げ入れを決断することであった。

The water that was driven up on the shore by the gale, was necessarily compelled to find its level, by returning to the lake, by some secret channels.

This could not be done on the surface,... This inferior current had received the name of the undertow,... In short, the upper and lower currents, in a manner, counteract each other.” (260 強調は筆者)

「引き波、すなわち互いに相反する流れによって相殺し合う波」―なかば脱 構築的と読んでみたい引用の下線部は、そのままThe Pathfinderが帯びている レトリック属性とみなしえよう。すなわち、ロマンスの定型フォーミュラを

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なぞりながらそこから距離どりしてそのフォーミュラ性を眺め返す眼差、と いう背反し合う二方向性を帯びたレトリックがここに作動している。Rans と並んでこの四半世紀の間でもっとも精緻な皮脚絆連作論を著したKellyが、

The Pathfinderにおける婚姻プロットの定型性にのみ限定した上ではあるが、

このロマンスがはらむ「脱構築性」について指摘しているので引用してお きたい。“Cooper prepares his readers for the revisionary force of his conclusion by submitting Natty’s character to the same deconstructive scrutiny he brings to bear on the conventional marriages of the first three Tales ”(147)。The Pathfinderの読者に 対してCooperが目配せしている「修正への促し」(“revisionary force”)と「脱 構築的な精査」(“deconstructive scrutiny”)とKellyが呼んでいるものは、ロマ ンスの定型に対してその定型性を意識した自己言及的な眼差しから再吟味し てみること、と言い換えられるだろうが、この眼差しは1839年のCooperがみ ずからのロマンス執筆のスタイルに対して投げかけていた詮索の姿勢でもあ る。

 3 皮脚絆物語を越えて―Natty Bumppoは二度死ぬ

 みずからの定型フォーミュラを失敗の感覚のもとに見つめ直すこの自己詮 索の眼差しがいかなる新たな表現の可能性へと向かわせるのか、この点を探 るために、いまいちど「生きながらの彫像化」のモティーフを取り上げてみ たい。MohicansにおけるクライマックスであるFort William Henryの虐殺に対 応する挿話をThe Pathfinderにおいて求めるならば、ロマンス後半、ヒューロ ン族戦士たちに包囲されトーチカ(blockhouse)にひとり取り残されたMabel が陣地の防御を試みる場面であろう。銃眼の視界に区切り取られた外の光景 に注がれるMabelの眼差しは、敵の姿を捉えようと知覚のすべてを研ぎ澄ま せる女戦士の眼である。

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The eyes of Mabel were riveted on this spot, for she now began to expect to see, at each instant, the horrible sight of a savage face at the hole....she might have been taken, at that moment, for a beautiful, pallid, representation of herself, equally without motion and without vitality. (343)

引用後半、「その瞬間の彼女は、美しく、蒼ざめた、動くことも生命さえも 放棄した、みずからの似姿と映ったかもしれぬ」からうかがえるように、こ の眼差しとともにMabelの身体もまた、「生きながらの彫像化」を思わせる瞬 間を迎えるかのように思われる。しかしながら、その様態においてはこれに 続く戦闘場面で描写されるNattyのあの彫像化に似通ってはいても、Mabelを 描く語り手の筆致にはNattyの場合とは異質なものが感じられる。先に紹介 したMitchellが言うように、Nattyの彫像化は、戦いを終えるまでの戦士が究 極に至るまで統御し続けてきた個(self)が一瞬弛緩を迎える瞬間、つまり

「個の消失」(“self-effacement” 46)の瞬間だといえる。それに対して、Wayne

Franklinが見とったように、トーチカ防御の場面で前景化されるのは、生死

をかけた冒険のただ中にひとり投げだされたMabelの中で、しだいにその強 度をつのらせていく意識の内面、Cooper自身の言葉を引けば「覚醒しきった 意識」(“the full consciousness” 339)であり、挿話は冒険の経験が「内面のド

ラマ」(“an interior drama”)へと転じていく過程そのものを捉えようとする

(Franklin, The New World 64)。 Mabelの内面を捉えるCooperの筆致には、皮脚 絆連作の先行作品には見られない内的変容の描写、極限状況に置かれた意識 が新たな焦点のもとにみずからを再編成する過程の言語化がなされようとし ていると感じさせる。

Then came over our heroine, the full consciousness of her situation, and of the necessity of exertion ....

....This was one of those instants, into which are compressed the sensations

(16)

of years of ordinary existence. Life, death, eternity and extreme bodily pain, were all standing out in bold relief, from the plane of every-day occurrences ....

(339‐43)

引用の後半、「これこそ、送りきた長い日々を彩ってきた感情が一点に凝縮 される瞬間。生と死と永遠と肉体の苦痛とが日々の営みの地平からせり上が り、その輪郭をくっきりと浮き彫りにしていく」の部分が物語るように、冒 険の体験はMabelをして現実からの遊離・逸脱へ誘うのではなく、日常経験 と感覚所与が凝縮され、輪郭を際立たせられた現実の現前へ、個と世界との 間の「新しいリアリティ」感覚の立ち上がりへと向かわせる(Franklin、The New World 69)。

 Mabelの内面の焦点化は、どのような現実像の輪郭を彼女の意識のフィル ター上に結んでいくのか、銃眼から捉えられた光景を直接引用してみよう。

Mabel started involuntarily, when her eye at length fell on a group of three men, dressed in the scarlet of the 55th, seated on the grass in lounging attitudes, as if they chattered in listless security, and her blood curdled, as on a second look she traced the bloodless faces, and glassy eyes of the dead.

(362-63)

状況の大意を述べると、軍服に身を包んだ兵士たちが歓談する姿と見えてい た光景が反転し、実はこと切れ硬直した死体を生あるイギリス兵たちの歓談 風景に仕立て上げた偽装、頭皮を剥がれた頭を帽子で覆い隠し、釣り竿まで 手にさせた遺骸を配置した敵の罠と判明する。銃眼からの光景はたしかにお ぞましくはあるのだが、強調されているのはむしろ後半部分、「もういちど 見直して、死者たちの血の気のない顔と顔、ガラスのような眼と眼を彼女は 目でたどった(“on a second look she traced”)」とある、兵士たちの死体の部

(17)

位をなぞるように見やるMabelの眼差しのほうであろう。すなわち、人間の 死の現実をオブジェ化された身体部位の配置・構図として捉える眼、造型的 配置を吟味する眼差し(compositional glance)とでも言い表せようか。

 同質の造型的配置への眼差しを共有していたEdgar Allan Poeが奇しくも同 じ時期に書いていた「使い切られた男」(“The Man That Was Used Up” 1839)

における名誉准将John A.B.C Smithの、頭皮はおろか各部位まで剥がされた 身体がLegoのパーツのように組み上げられていく「残酷な遊戯性」をここで 思い浮かべてみるのは、牽強付会にすぎるだろうか。連想ついでに、この「残 酷な遊戯性」の感覚を、Twainの「生きながらの彫像化」批判へのCooperの 側からの「答礼」として読んでみたい誘惑に駆られる。「登場人物は、死体 の場合は別として、生きているべし」、という、Twainが課することとなる文 学規則に対して、「死体と区別しえないゆえにこの場合は許される、生きて いるように偽装された死体」、という過剰なほどに例外的な状況設定を重ね た、ある種ゲームめいた「規則」の遵守が引き受けられている、と読み取る ことは出来まいか。時間を錯誤したアナクロニズムを冒すことは承知の上で 言い換えるならば、半世紀後のTwainの揶揄をみずからのテクスト内に先ん じて引き受けるかのごとく、Cooperがみずからに課した自己パロディ化、と いえようか。さらに連想を重ねてみるならば、銃眼から捉えられたオブジェ 化された兵士の遺骸は、皮脚絆物語次作にあたるThe Deerslayerの中のある 光景、剥がされた頭皮をふたたび置き戻された姿勢で死んでゆくTom Hutter の姿をも髣髴とさせないか。

 PoeとTwainを補助線としてThe PathfinderThe Deerslayerからのふたつの

「残酷な遊戯」の光景を繋いでみれば、そこから浮かび上がってくるのは、

先行皮脚絆物語群にはみあたらなかった、新しい外界への眼差しであろう。

それは、目前の現実をその固有性や実体性であるよりも、配置関係や造型パ タンの相において捉え、組み直していく手つきといえる。あるいは、ロマン スの言葉に置き換えるならば、個体に固有な本質であるはずの“gifts”が、置

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かれた状況としての「場」(“circumstance”)次第で可変的に変動していくあ らわれを捉える、パフォーマティブな遊戯感覚とでも呼びうるものであろう。3

そして、Cooperにはそぐわないと思われる遊戯感覚にここでこだわる理由を、

The Deerslayerの読者ならば思いめぐらすことが出来るかもしれない。皮脚

絆物語最終作こそ、Sandra Tomcが読み解いたように、名前や相貌や皮膚の 色といった固有性の指標となるべきものが、まるで衣服―あるいは頭皮―の ように表層部分において着脱され、配置を組み替えられていく遊戯感覚と 構築主義的感覚に満ちたロマンスとして書かれていくことになるからであ る(Tomc 特に163-64)。本稿の射程を越えてしまうが、皮脚絆物語最終作 The Deerslayerにおいて、Cooperがロマンス・フォーミュラの反復から転じて、

新しいリアリティ感覚とロマンス表現の方向へと向かう道を拓き始めるその

萌芽が、pathfindingが、Mabelの眼差しに仮託されている、という印象は確認

しておいていいであろう。

 みずからのロマンス定型に「頭皮剥ぎ」を施すかのように組み換えるこ の眼差しが最後に向かうのは、Natty自身である。先行する皮脚絆物語にお いてそれぞれのロマンスを閉じてきたコーダ部分で反復されてきたのは、

西部劇ジャンルでおなじみとなる定型的構図である。すなわち、社会秩序 と倫理規範が新しい世代によって継承されていくのを見届けたNattyが共同 体のかなたへと旅立ち、物語空間から不在となることによって、揺るぐこ とのない倫理的中心として偏在し続ける、という、たとえばのちにGeorge Stevens制作のShane(1953)の結末に典型されることとなる、逆説的な秩序 確認の論理であった。The Pathfinderにおいては、このコーダ部分の機能をな ぞるかのように、ニューヨークで毛皮交易商人として成功し新興中産階層 の一員となったJasper Westernの妻としてMabelが時を隔てて湖を再訪し、川 岸の向うにこちらを見つめる人影を認めた、とロマンス末尾の章は伝える

(468)。そのおぼろげな人影がNattyその人であるのかは定かにされないが、

この「Natty Bumppoの影」がもはや実体をともなわず、変貌していくジャク

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ソン時代後期の社会において倫理的規範の役割をもはや果たしえない、文字 通り「影」でしかなくなっている、という事情は、二年前に書かれたHome as Foundで、かつてThe Pioneersの舞台であったオトシーゴ湖畔を再訪する いまひとりの女主人公Eve Effinghamがみとっているところである。“Natty’s hallowed memory...is untrustworthy—no longer part of the community’s collective imaginative life.... Even their reverence for Natty’s spirit takes the form not of active imitation, but of mourning ‘the passing of the days of the Leather-Stockings’” (Person

175)。The Pathfinderに戻るならば、湖畔における戦闘の終結とともに「生き

ながらの彫像」と化したNattyは、「影」あるいは「石化人間化」したままに ロマンスの終わりを迎えることとなるし、Nattyという「代理的父」から倫 理規範を継承すべきはずの世代もまた、ジャクソン時代産業社会の凡バナール庸な担 い手に変じてしまっている。すでに1826年出版のThe Prairieにおいて、そし てもう一度、1840年のThe Pathfinderにおいて、Natty Bumppoは二度死ぬこと となるのは、まことに「残酷な遊戯」の構図ではある。

おわりに 失敗感覚から言語表現化へ

 二番煎じのマイナー・ロマンスとみなされるThe Pathfinderであるが、こ の連作第四作の再評価を試みるためには、冒頭で言及しておいたこれまで

のCooper研究史が蓄積してきた「批評装置」に対して距離を設定する作業が

必要となるだろう。現在に至るまでのCooper研究に圧倒的な「呪縛」(“the spell” Axelrad 51)を課してきたのがD. H. Lawrenceによる、「原初の無垢への 立ち返りを願望する神話」(“a kind of yearning myth” Lawrence 55)解釈であ ることは否定できない。そのLawrenceはこのアメリカのアダム的神話構図に 沿って皮脚絆物語を発表時期を追う順序で読み進むことを説きながら、連作 群に「アメリカの神話」(58)造型へと収斂させる超越志向を押しかぶせよ うとするあまりに、発表時期に従って読むという読書行為を通して感知され

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るであろうはずの、連作ロマンス群相互の間に形作られる間テクスト的言及・

引用関係、さらには連作完結までの十四年という時間幅において生じるであ ろう、読者期待の地平の変化とそれに対してロマンス作家の側からなされる であろう自己言及的な調整・再編成の契機を見落としてしまっている。4 あ るいは、皮脚絆物語は寓話の形をとった社会批判であって定型フォーミュラ こそが文学テクストのイデオロギー機能を担う(Tompkins 44-45)、と言い切 ることで初期アメリカ小説解読のための斬新な視座を提供したJane Tompkins もまた、テクストの表層と深みとの間のダイアローグと読書記憶の蓄積によ るドラマティック・アイロニーの感覚を踏まえて読む「文学性」を希薄にし ていると思える。5 本稿が目指したのは、Cooperのロマンス群をめぐるこ れらの影響力ある批評装置から距離を置いて、The Pathfinder を対象にRans の言う「脱神話的・世俗的読解」(secular reading)を試みてみることであっ た。そうすることで見えてくるのは、十三年の年月を隔てて初期三作品を見 つめ直す再吟味の視座(alternative perspective)の設えであり、時には「残 酷な」、頭皮剥ぎを思わせるこの視座を通して先行ロマンスのフォーミュラ 性とヒーロー造型の定型性が組み替えられ再配置されていく様であると言え よう。The Pathfinderを「学び直しと備えの物語 (“a novel of relearning and of preparation” 80)と呼んだTerence Martinの言は的を射ている。若い娘への求 婚に失敗する失態を通して「なにをも所有せぬ永遠の単独者」というみずか

らの“gifts”を再確認するに至るNattyの「学び直し」の物語はそのまま、道を

閉ざされたロマンス作家による自らのロマンス定型の学び直しと皮脚絆物語 最終作執筆に向けられた備えをなぞる、文学的な「道を拓く営み」の軌跡で もある。

 本稿の終わりに、冒頭に引いたGuraのCooper批判とほぼ同時期に上梓され た新しいアメリカ文学史記述から引用してみたい。

We will see how literature stands up in the face of failure because texts thrive

(21)

on the structural problems that disrupt and silence other kinds of discourse.

Rather than merely bearing the scars of unstable authorship, the texts that interest us here reveal formal problems that drive a concerted effort to give a language, or a grammar, to the idea and experience of failure. (15)

Gavin Jones, Failure and the American Writer: A Literary History の一節である。

「文学的失敗を前にして、安定した仕上がりを欠く書きものという疵を負う に甘んじるだけでなく、失敗の概念と経験に対して言葉を、表現の術を与え ようとしてそれぞれの表現形態を探る企てによりわれわれの興味を引き起こ す」とされる作家たち―すなわち、作品が内包する撞着、矛盾、錯綜、欠落 の相そのものに言葉をまとわせようとする試みを通して、「文学的失敗」に こそ表現スタイルの可能性とモダニティを探った作家群としてJonesが取り 上げているのはPoe, Melville, Thoreau, Crane, Twain, Jewett、Jamesであるが、

みずからの文学的失敗の感覚をロマンス表現の新たな可能性に転じる道を拓 こうとしたFenimore Cooperのための場所もまた、「失敗の文学史」のひと隅 に用意してやってもよさそうに思える。

 本稿は20151010日に京都大学において開催された第54回日本アメリカ 文学会全国大会における口頭発表に加筆・修正を加えたものである。

1 Online Etymology Dictionaryはこう記述している: pathfinder (n.) 1839 (Cooper), from path + finder.

2 例をあげるならば、たとえば、“artificial plantation” (53)、“ artificial cover” (56)、

“artifice … to mislead them” (57)、“artificial screen” (63)。

3 本体論として捉えられたgiftsの概念が当該の状況要因に応じて可変的に変動 していくという構築主義的発想へと転じていく経緯をなぞるかのように、The DeerslayerのNattyは以下のように述べている。“… gifts come of sarcumstances. Thus, if you put a man in a town, he gets town gifts; in a settlement, settlement gifts; in a forest, gifts of the woods” (439)。

4 皮脚絆物語連作解釈史に対して正統といえるほどの影響を及ぼしてきたLawrence

(22)

の『古典アメリカ文学研究』およびその影響下に形成された神話批評的読みに対 する批判的検証については、Rans 16-38およびAxelrad 50-72参照。

5 Tompkinsの皮脚絆物語連作解釈に対する批判的検証については、Rans 35-38参照。

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Synopsis

Leatherstocking Redux/Beyond Leatherstocking:

The Path as Found by The Pathfinder

Ichiro Hayashi

Although welcomed by readers and reviewers of the late Jacksonian era for its longed-for revivification of Natty Bumppo after his thirteen-year absence, James Fenimore Cooper’s The Pathfinder, or The Inland Sea (1840) has been the least discussed of his Leatherstocking Tales, and is considered by many critics a literary failure. This article attempts to reevaluate this fourth Leatherstocking romance as an outmoded romancer’s painstaking efforts to stand up in the face of stylistic mannerism and to look for a way of giving a language to the experience of failure, thus finding a new way forwards for his fiction.

Cooper, partly motivated by financial difficulties, initially conceived his new adventure tale as a “nautico-lake-savage romance” in which all the formulae and genre stock elements that had proved so winning in his earlier romances of the 1820s would be played out. Ironically, the shift in the horizon of expectation and the rise of a new generation of romance writers during the decade of Natty’s hibernation proved the outmodedness of his romance formula, ridiculed by James Russell Lowell as “all sappy as maples and flat as a prairie.”

Thus was initiated the vogue for Cooper bashing which would culminate in Mark Twain’s “Fenimore Cooper’s Literary Offenses” half a century after.

This article, however, proposes to map Twain’s hyperbole in “Literary

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Offenses” onto Cooper’s rhetorical strategy, attempting to read the romance as an exercise in self-conscious exaggeration and self-caricature. Cooper’s cherished motif of the stationary instant, one of his romance formulae, in which the warrior figure of Natty as a beau ideal culminates here in a petrified moment of arrested silence and death-like stillness, offered Twain the chief target for castigation. However, this figure of nature morte, if located in the intertextual network among the Leatherstocking Tales, functions as a node by which we can see how Cooper self-referentially revised his now outmoded cliché and tried to reconstruct it into a playful pastiche of his romance formula. Cooper’s exercise in self-caricature is finally directed toward the figure of his eponymous hero, Natty Bumppo, who, after his thirteen-year hibernation, came to be reduced to be a shadowy figure, and thus ironically underwent his second demise.

参照

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