ガウディの学業成績
鳥 居 徳 敏
スペイ ンの建築家アン ト二 ・ガ ウデ ィ・クルネ‑ トAntoniGaudiCornet(1852‑ 1926)は異様な建築の作者 として知 られている。その異様 さにもかかわ らず、 と いうよ りも、余 りの異様 さのゆえに、1984年その3作品は100年 も経過せず して世 界遺産 に登録 された。すなわちパ ラウ ・グエイ (グエル館1886‑90)、パーク ・グ エイ (グエル公園1900‑14)、カザ ・ミラ (カサ ・ミラ1906‑10)の3作品である。
そ して20年後 の今年 (2005)、サグ ラダ ・ファミリア聖堂 (1882年着工)、カザ ・ ビセ ンス (カサ ・ビセ ンス1883‑85)、 カザ ・バ リョ‑ (カサ ・バ トリョ1904‑06)、 クローニア ・グエイ教会堂 (コローニア ・グエル教会堂1908‑14)の4作品が同遺 産 に追加登録 された。異様なはず の このガ ウデ ィ建築 の造形世界は、しか し、『ス ター ウオーズ』や 『東京デ ィズニー シー』で再現 され、ガ ウデ ィの創案 になるタ イル を割 いて使用す る破砕 タイル の手法はイ ン ド、 あるいはイタ リアやオ ランダ を含む世界各地 に広 ま り、 日本ではその市販化す ら見 られ る。 また、夏 のバルセ ロナ に行 けば、公開されているガ ウデ ィ作品の前に、『デ ィズニー ラン ド』でのよ うに入館 を待つ長 い行列 に驚かされ ることであろう。 にもかかわ らず、 日本の建 築界、すなわち一般の専門家たちの間でガ ウデ ィが受け容れ られているかいうと、
さほどで もないと言わざるを得ない。「その存在は認める、しか し私は別だ」とい う考えのように見受け られ る。
いずれ にして も、ガ ウデ ィのユニー クな存在は誰 もが認めようO鬼才、奇才、
天才な どと呼ばれるガ ウデ ィはまた、典型的な出世物語の主人公のよ うに、貧 し い家の出で苦学 して学校 に行 きなが ら、「できの悪 い学生」であった とされている。
この 「できの悪 い学生」が優等生では考 え られない作品を生み出 した ことが、一 般大衆 には快挙 として歓迎 され る。 もっとも 「できの悪 い学生」 という評価は晩 年のガ ウデ ィ自身の発言 に由来す るのではあるが。
そ こで本論では、資料不足で これ まで暖味にされてきたガ ウデ ィの学業成績 を 全面的にチ ェックし、 当時の学生の社会的地位 な どを考慮 しなが ら、学生時代の ガ ウデ ィをどう評価すべきか を再検討す ることにす る。
ノ
1.ガ ウデ ィの初等教育
ガ ウデ ィの小学校 時代で知 られて いる ことは、 フランセス ク ・バ ランゲ‑ル (FrancescBerenguerフランシス コ ・ベ レンゲ‑ル) とラフアエル ・パ ウラのそ れぞれが レウスで開設 していた2つの学校で初等教育 を修 めた ということだ。 ま た幼少時代は リュウマテにかか り病弱であった との情報 も伝わっている。残念な が ら、 当時の一次資料は何 ら発見 されてお らず、学業成績 も全 く不 明である。 し か しなが ら、次のような点は十分 に留意す る必要があろう。
午 人 口 文 盲 数 割合 % 1860 15,655,467 ll,823,008 75.52 1877 16,634,345 ll,978,391 72.01 1887 17,565,632 ll,945,871 71.51 1900 18,616,630 ll,875,790 63.79 1910 19,995,686 ll,867,455 59.39 1920 21,388,551 ll,167,806 52.23 1930 23,677,095 10,529,204 44.47
表 1. スペイ ンの文盲者数 年 学 校 数
1870̲ 22,711 1880 23,132 1908 24,861 1917 25,469 1923 29,487 1929 30,904 1931 35,989 表2.初等教育公的機 関
ス ペ イ ンの教 育 制 度 は 1812年のカデ ィス憲法 によ り初めて制定 され、翌年、
初等 ・中等 ・高等教育の3 レベルが規定 された。義務 教育の前者は市町村 の運営 とな り、後者高等教育は国 立の大学でな され る。 中等 教育は中流階級 の子息 を対象 とした大学への準備教育 とし、その教育機関は国立で各県庁所在地 に設置 され ると定め られた。ただ しこれは、ナポ レオ ンのスペイ ン侵 入 に対 し、史 上 初 の 民衆 蜂 起 にな る独 立 戦 争 (1808‑14)時 に発布 された革新的な憲法であ り、1814 年 フエルナ ン ド7世 (‑1833)が空席 になっていた王位 に就 くと廃止 されて しまった。その後、 1835年 には中 等教育機関の創設があ り、 1857年 には教育法が制定 さ れ、市町村が運営す る初等教育 (6‑9才の3年間)、県 の財政負担 となる中等教 育 (10才か らの6年間)、そ して国立の大学、およびエ ンジニアや獣医な どの専門 学校での高等教育な どが規定 された。 1859年以来頻繁 に教育改革がなされ るもの の、財政的裏づけが得 られぬまま、地方 も国家 もこの法律 に応 えることができな かった。結局、地方公共 団体や国は試験な どを通 して資格認定の業務 を堅持す る だけに留 まった。 この結果は表 の文盲者数 の比率や公立 の小学校数1に如実 に反 映 している。
2
この文盲者数 (表 1) はスペイ ン語 の読書 きので きない数で あ り、できる人数 には読みだけの人 も含 まれ る。例 えば、表3は1887年 の統計結果 の内訳2である。
こうした数字 を見 る限 り、ガ ウデ ィの小学校時代 (1860)での文盲者 の比率は4 分の3に達 し、教育 を受 ける ことが容易な時代ではなかった ことが判 明す る。初 等教育 を受ける ことが既 に選ばれた子供 と言 って も過言ではない。 カタル一二 ヤ 地方 の主都が位置す る
バルセ ロナ県 の文盲率 が1887年統計でスペイ ン最 低 の37‑60%で あ るのに対 し、ガ ウデ ィ
男 女 合 計
読 の み 221,613 380,392 602,005 読 書 き 3,317,855 1,686,615 5,004,470 文 盲 5,067,098 6,878,773 ll,945,871
表3.スペイ ンの明盲 ・文盲者数 内訳 (1887) が育 ったタ ラゴナ県 は60‑75%だが、 出身地 の レウス市 がバルセ ロナ に次 ぐそ の 地方第2の都市で あった ことを考 える と、文盲率 も多少低下 されて いたであろう ことが推測 され る。ガ ウデ ィ家の経済環境が決 して恵 まれて いなか った ことを考 える と、他 と比べた場合 の地域環境 の良 さも考慮すべ きで あろう。
2.ガ ウデ ィの中等教育 ガ ウデ ィの中等教育 履 修 期 間 は1863‑69年 (1卜17才)であ り、こ れは 日本 の現教育制度 の中 ・高等学校履修期
学年期 公立学校 私立学校 家庭教育 合 計 1865‑66 13,576 10,164 2,693 26,433 1866‑67 18,335 6,688 1,936 26,959 1867‑68 18,903 6,385 3,410 28,698
表4. スペイ ンの 中等教育生徒数 (人)3
間 に相 当す る。 もちろん義務教育ではな く、 したが って、学生数 もきわめて限定 されていた。 この ことは収集 した下記データか らも明 らかで あろう。例 えば1860 年代後 半、スペイ ンの全人 口約1,200万 に対 し中等 教育履修 中の生徒数 は2万8 千人程度 に過 ぎない。 また これ らの統計デー タか ら判 明す る ことは、 当時の中等 教育は普通科 と応用科 の2つ に大別 され、それぞれ公立学校、私立学校、そ して 家庭での個人教育で構成 されていた ことだ。 きわめて少数なが らも、応用科では 教員、会計士、化学技師、機械技師、土地鑑定士 の資格が得 られ る。 また入学者 のすべてが卒業 して いるわ けではな い ことも判 明す る。 1865‑1866学年期 を例 に す る と、この時の総学生数は26,433人、単純計算す る と1学年4,405人 となる。 し :)'
午 生徒数 1868 28,698 1878 31,479 1890 38,811 1900 42,439 1910 34,006 1920 52,445 1930 70,876 表5.スペイ ン中 等教育生徒数 の変遷 (人)4
資 格 1865年 1866年 1867年 中等教育課程修 了者 2,115 2,181 1,323 ラ テ ン 人 文 学 教 員 ‑ ‑ 44
会 計 士 53 64 68
化 学 技 師 2 ‑ 4
機 械 技 師 ‑ 3 1
土 地 鑑 定 士 130 161 104 表6.スペイ ンの 中等教育課 程修 了者 資格別人数 (人)5
か し、1866年 の卒業 生、す なわ ち資格取得者 は2,409人 に過 ぎな いか ら、ほぼ 半数 の2,000人弱が途 中で履修 を放棄 した ことにな る。 また 中等 教育 履修 者 の総 人 口 に対す る割合は、 1877‑78年 を例 にす る と約0.2%弱、 バルセ ロナ の場合 は (1877 年 の人 口‑345,794人 に対 し)約0.8%弱 と全 国 平 均 の4倍 で あ る。 また 同年 代
(ll‑16才)で の割合 では全 国で約1.5%、バルセ ロナで約7.8%の子供 たちだけが 中等教育 を受 けて いる計算 にな る6。 こうした数字 か らも、中等教育 を終 了 し、大 学へ の進学資格 を得 る ことはエ リー ト的存在 と見 るべ きで あろ う。
学年期 普 通 科 応 用 科 合 計
公立
学校 私 立学校 家庭教育 Ld 公 立学校 私 立学校 家庭教育 速記科 二 二
1871‑72 659 988 1,647 187 155 ‑ 342 1,989 1872‑73 488 1,190 1,678 159 73 ‑ 232 1,910 1873‑74 344 1,309 1,653 191 76 ‑ 267 1,920 1874‑75 347 1,453 107 1,907 166 103 13 ‑ 282 2,189 1877‑78 444 1,822 91 2,357 164 157 18 22 361 2,718 1878‑79 350 1,359 ‑ 1,709 160 100 ‑ ‑ 260 1,969
表7.バル セ ロナの 中等教育生徒数7
したが って、 中等教育 を受 け、 それ を修 了 させ たガ ウデ ィは既 にエ リー ト的存 在 といえる。 しか し、 これ もまた様 々な幸運 が重 な って可能 になった。 実 は、 レ ウス には公立 の中等教育機 関が1875年 まで存在 しなか った。 しか しなが ら、そ の 設置 に向けて の努 力は一部 の レウス市 民 によ りな されてお り、 1844年 には 旧フラ ンシス コ会修道 院が国か ら市 に譲渡 され た。 そ して、 1858年貧 困児教育 を 目的 と
4
したエスコラピアス修道会がその 施設 を利用 し中等教育 を教え始 め、
この機関は私立学校であるにもか かわ らず、1860年 に公立学校並み の資格が与え られ、1870年 まで存 続 した8。1860年 と言 えば、医学 を修 め た 兄 フ ラ ンセ ス ク ・ガ ウ デ ィ (1851‑76)が9才、弟のアン
ト二 ・ガウデ ィが8才の時であ り、
一般 的 には10才 で 中等 教育 に進 むか ら、兄は翌年、弟は2年後 に 入学でき、両者 とも同学校で卒業 できる年齢 にあった。 この学校が 出現 しな ければ14Km離 れ た県 都 タラゴナの公立学校 に行かざるを 得ないし、寄宿舎生活が強い られ た ことであろう。 同時に2人の子 供 を抱えたガ ウデ ィ家にはかな り 厳 しい経済的負担 になったに違 い ない。 したがって、エスコラピア ス学院の開設は将来のガ ウデ ィに は幸運以外 の何物で もなかった と
想定できよう。 また この学院は貧 表 8. ガウデ ィの学業成績
困児教育 を目的 とした修道会の経営だが、授業料が免除 されているわけでな く、
公立学校 同様 の国が定 めた授業料 を納める必要が あった9。ガ ウデ ィは1年遅れ て11才の1863年 に入学す るものの、 この学校では5学年の1868年 まで履修 し、最 終学年はバルセ ロナの公立学校 に履修登録す る。表8は この時代 の学業成績'Oで ある。
学年期 は10月‑6月であ り、試験 は6月 と9月に実施 され る。前者 を定期試験 ExAmenesordinarios、後 者 を臨 時 試 験Examenesextraordinariosと称 し、学 5
生 には2度 の試験チ ャンスが与 え られ る。評価 は落第 の 「不可suspenso」と合 格 に大別 され、後者 は優 秀 な ものか ら 「優sobresaliente」、 「良notablemente aprovechado」、 「良一普通bueno」、 「普通mediano」および 「合格aprobado」 に 分かれ る。
入学試験 (1863年9月14日)はキ リス ト教教理、カステ イ‑ リヤ語文法、格言 もしくは総合文、および算数よ りなる。教理では洗礼 に関す る質問、文法では前 置詞、固有名詞 に冠詞不要 の理 由、および再帰動詞despertarseの活用、格言では
「教会 に入 るときは、帽子 を取 らなければな らない」、算数では6789356×38の掛 け算 と678+135+467+158の足 し算が出題 内容であ り、3人の教師の判定で合格 となる'1。表8の学業成績 を見て明 らかな ことは、1‑2年生 に比べ3‑4年生で 成績が向上 していることだ。ただ し、 これだけでは他 の生徒 との比較ができない。
そ こで別 の資料 も少 し紹介す る ことにす る。
科 目 履修生 科 目 履修生
算数、原理 と演習 45 ギ リシア語翻訳演習 9
幾何、原理 と演習 23 ラテン語翻訳とギリシア語の基礎 15 算数 と数学 23 ラテン語とカステイ‑リヤ語 Ⅰ 33 幾何 と三角法の基礎 14 ラテン語とカステイ‑リヤ語Ⅱ 20
キ リス ト教教理 .聖史 33 フランス語 19
世界史 とスペイ ン史 の初歩 16 会計 と簿記 9
地理学の初歩 28 製図 9
表9.レウス、エスコラピアス学院、 1863‑64年度開設科 目と履修登録者数12
倭 良 良一普通 普通 合格 不可 欠席 合計
聖 史 1 3 4 6 ‑ 3 5 22
算数の原理 2 2 6 7 ‑ ‑ 7 24
幾何の原理 3 4 7 4 ‑ ‑ 1 19
表10.レウス、エスコラピアス学校学業成績 1865‑6613
先ず学生数だが、表9の1863‑64年度 を例 にす ると、多 いクラスで45人の履修生、
少ないところでは7名が見 られ る。履修者 の少ない 「会計 と簿記」、 「製図」、 「測 量図」 は普通科ではな く、応用科 の科 目に属す。 ただ し、普通化 の科 目であ りな が ら少人数のクラス もあ り、1866‑67年度 の 「世界史」では2名、同年 「フランス 語」で1名 というクラス も存在 した。生徒たちが 自由に科 目履修 したであろうこ
♂
とが推測 されるが、別 の例 としてガ ウデ ィ の 幼 馴 染 ア ド ウア ル ・トー ダ (Eduard Tbda 1855‑1941エ ドゥアル ド・トーダ) の 場合 (義 ll)を見 ると、両者の履修科 目は かな り類似 して もいる。だ とす ると、少人 数 クラスの存在は学生の半数程度が中途退 学 している結果であろうと推測 され る。
ガ ウデ ィと トーダの履修科 目の比較で著 しく異なるのが、前者が 「キ リス ト教教理 ・ 聖史」 を2回 と 「宗教 ・道徳」 を1回に対 し、後者は1回 と2回 と逆 になっているこ とだ。すなわち前者が 「宗教 ・道徳」 の Ⅱ だけを受講 しているのに対 し、後者は Ⅰと
Ⅱの両方 を履修 している。おそ らく 「キ リ ス ト教教理 ・聖史」 も ⅠとⅡがあった と解 釈すべきで、修道会経営の学校であること か ら、 こうした科 目が含 まれていたに違 い ないが、国が定める中等教育課程の必修科 目ではない'5。 また両者 の履修科 目は15と 17でガ ウデ ィの方が2科 目
(
「スペイ ン史」と 「生理 ・衛生」)が少ないが、その理 由は
レウス市エスコラピアス学院 1学年 :1864‑65 (9‑10才)
宗教 .道徳Ⅰ 倭
ラテン語.カステイ‑リヤ語Ⅰ 倭 算数、原理 と演習 良‑普通
2学年 :1865‑66 (10‑11才)
地理学の基礎 倭
ラテン語.カステイ‑リヤ語Ⅱ 倭 幾何、原理 と演習 良一普通
3学年 :1866‑67 (1卜12才)
修辞学 .詩学 倭
宗教 .道徳 Ⅱ 良一普通 4学年 :1867‑68 (12‑13才)
心理学 倭
地理 .世界史 倭
数学 倭
キ リス ト教教理 .聖史 合格 5学年 :1868‑69 (13‑14才)
論理 .倫理 合格
スペイ ン史 合格
博物学 合格
生理 .衛生 合格
物理 .化学 合格
表11.トーダの学業成績'4
判然 としない。
さて成績 に関 してだが、表10によると 「キ リス ト教教理 ・聖史」 と 「算数、原 理 と演習」 は欠席まで含 めると 『普通』 に、 「幾何、原理 と演習」 は 『良一普通』
に平均があろう。 これか ら、1‑2年 のガ ウデ ィは普通以下 の成績、3‑5年では 成績の良い生徒であった と推測できよ う。ただ し、優等生の成績は 3才年下で 9 才入学 し5年で卒業 した トーダの例 に見 られ る。 この優等生に対 し、ガ ウデ ィの 方が優れた評価 を得たのが 「幾何」 と 「算数」であ り、特 に 「幾何」では唯一の
『優』を獲得 している。 また両者 とも1868‑69学年期 に成績が良 くないのは当時の 政治情勢に密接 に関係 していた。 1868年9月に革命が勃発 し、イサベル2世を廃 7
位 に導 き、翌年 6月には新憲法のもと民主制が確立 し、翌 7月には同 じレウス出 身のプ リム将軍 による革命政府が樹立 しているのである。
こうした特別な事情な どを考慮す ると、ガ ウデ ィは中等教育 を修 了す ることの できた少数派であ り、そのなかで も優等生 とはいえないものの、できの良い部類 に入る生徒であった と想定できよう。
3 .
ガウデ ィの高等教育当時、スペイ ンには10大学 しかな く、すべてが国立であった。表12‑15は1860年 代後半の大学 ・学部別学生数、および資格取得者数‑6を示す。
すべての学部が4年制ではない。少 し年代 は下 るが、 1920‑21年では哲文 と科 学学部が4年、法学 と医学部が6年、薬学部が5年であった。各学部 とも修 了者 は修士課程ではな く、博士課程 に進み、前者は存在 しない ‑7。大学卒業生は学部 に
大 学 哲文 科学学 法学 神学 部医学 薬学 唇 人 合 計 マ ド リ ー ド 1,837 2,558 2,714 215 2,698 546 44 10,610 バ ル セ ロ ナ 313 268 379 ‑ 298 123 50 1,431 グ ラ ナ ダ 151 108 245 ‑ 134 42 26 706 オ ビ エ ド 65 ‑ 104 4 ‑ ‑ 1 174 サ ラ マ ン カ 104 ‑ 124 33 ‑ ‑ ‑ 261 サンティア‑ゴ 37 71 109 30 152 31 ‑ 430 セ ビ ー リ ヤ 279 77 323 34 164 ‑ ‑ 877 バ レ ン シ ア 154 129 237 ‑ 217 ‑ ‑ 737 バ リヤドリー ド 169 205 286 ‑ 202 ‑ 25 887 サ ラ ゴ サ 199 ‑ 202 31 ‑ ‑ ‑ 432
表12.スペイン全大学の学生数 1865‑66年度
大 学 哲文 科学学 法学 神学 部医学 薬学 l公証人 合 計 マ ド リ ー ド 544 1,100 1,730 114 1,357 433 68 5,346 バ ル セ ロ ナ 330 406 421 ‑ 422 152 82 1,814 グ ラ ナ ダ 164 433 285 ‑ 182 44 41 849 オ ビ エ ド 64 ‑ 124 3 ‑ ‑ 9 200
♂
サンティア‑ゴ 26 96 126 29 196 27 ‑ 500 セ ビ ー リ ヤ 159 92 366 38 178 ‑ ‑ 833 バ レ ン シ ア 123 168 350 ‑ 317 ‑ ‑ 958 バ リヤドリー ド 115 196 327 ‑ 276 ‑ 30 944 サ ラ
ゴ
サ 123 ‑ 241 23 ‑ ‑ ‑ 387表13.スペイ ン全大学の学生数 1866‑67年度
大 学 哲文 科学学 法学 神学 部医学 薬学 l公証人 合 計 マ ド リ ー ド 280 411 1,427 106 2,736 660 87 5,707 バ ル セ ロ ナ 72 473 458 ‑ 700 213 78 1,694 グ ラ ナ ダ 30 9 338 ‑ 308 82 44 811
オ ビ エ ド ‑ 141 ‑ ‑ 8 149
サ ラ マ ン カ 22 ‑ 156 26 ‑ ‑ ‑ 204 サンティア‑ゴ 136 319 28 ‑ 483 セ ビ ー リ ヤ 56 20 414 27 263 ‑ ‑ 780 バ レ ン シ ア 29 436 ‑ 502 ‑ ‑ 967 バ リヤドリー ド 341 ‑ 759 ‑ 29 1,129 サ ラ ゴ サ ll ‑ 273 61 ‑ ‑ 345
表14.スペイ ン全大学の学生数 1867‑68年度
学部 資 格 (タイ トル) 1865年 1866年 1867年
哲文 大学前期課程修 了者学士 (修士) 12612 15325 30235
博士 1 5 7
(計) 139 183 344
科学 大学前期課程修 了者 44 70 64
数 学 学士 (修士) 1 ‑ 4
博士 1 2 ‑
物 理 学 学士 (修士) 5 4 6
博士 2 2 ‑
自然科学 学士 (修士) 3 2 2
博士 1 1 ‑
Ll)
法学 教 会 法民 法 . 大学前期課程修 了者 360 379 382 学士 (修士) 330 492 345
博士 16 20 29
行 政 法 大学前期課程修 了者学士 (修士) 11803 18727 111239
博士 14 8 4
公 証 人 公証 人 ・9 21 24
(計) 922 1,134 1,026
神学 大学前期課程修 了者学士 (修士) 2717 2321 159
博士 2 8 6
(計) 46 52 30
医学 大学前期課程修 了者 225 213 154 内科 .外科学士 (修士) 203 227 217
博士 24 22 29
医学士 (修士) 1 2 ‑
外科学士 (修士)Licenciadoencirujia 3 20 12 二級医師 Medicodesegundaclase 1 ‑ ‑ 二級 医師 Facultativodesegundaclase ‑ ‑ 4
溶血外科医 ‑ ‑ 1
外科学士 (修士)Licenciadoencirujiamedica ‑ ‑ 2
溶血師 28 35 20
一級外科医 ‑ ‑ ‑
二級外科 医 2 ‑ 1
三級外科 医 2 3 4
四級外科医 ‑ ‑ ‑
病 院助手 ‑ ‑ 2
医療士 141 186 247
助産婦 5 9 ll
(計) 635 717 704
薬学 大学前期課程修 了者学士 (修士) 10396 19408 111046
博士 8 4 6
(計) 207 206 226 表15.スペイン10大学で取得 した資格者数 (人)
ノ♂
よっては学士ではな く、修士 に相 当す る ことか ら、表 では 「学士 (修士)」 と表記 す る ことに した。 またガ ウデ ィの時代 には 「大学前期課程修 了者」 が存在 し、例 えば、ガ ウデ ィの場合、 建築学校入学前 に科 学学部で の履修 が義務付 け られて い た。 そ のため、科学学部 での 「学士 (修士)」 の数が激減す る もの と推測 され る。
同様 の傾 向が哲文学部 に も見 られ る ものの、他 の学部 では 「大 学前期課程修 了者」
と 「学士 (修士)」の数 が近似 して いる ことか ら、 前者 の ほ とん どが 「学士 (修 士)」 にな って いる と推定で きよ う。
学年期 技術者工学 業校 絵 画彫刻学校 建築学校 音楽 .声楽 学校 外交官学 校 工芸学校図案
音楽 声楽
男 女 男 女
1865‑66 175 642 141 472 435 30 52 25 63 1866‑67 47 591 143 320 310 30 40 46 608 1867‑68 88 603 113 350 300 40 40 27 710
表16.スペイ ンの各種高等教育機 関での学生数
スペイ ンの高等教育 は大学 のみな らず、高等 学校escuelassuperioresで もな さ れた。 1860年代後半 には表16の高等 教育機 関 の他、表19に見 られ るよ う専 門教育 ensenanzaprofesional機 関 も存在 した。 こう した学校 で取得 で き る資格 とそ の 取得者数 が表17‑18に見 られ る。 これ らは前掲 した大 学 関連 のデ ー タ と同 じ統 計
資格 (タイ トル) 年 度 1865 1866 1867 工業技術者 機械 技師化 学技師 144 495 488 農業技師 1 1 //
商 科 教 員 4 15 12
建 築 家 〟 17 9
工 匠 54 52 62
農 地 測 量 技 師 53 40 55 農業技師.農地測量鑑定士 7 9 8 作 曲 家 // // //
作曲以外の音楽.声楽教師 〟 〟 〟
表17.各種高等教育機 関での資格取得者数
資格 (タイ トル) 年 度 1865 1866 1867 男子 教師 上級基本 577 3132 1089 4764 136 普通 33 22 33 女子 教師 上級 134 119 156 基 本 515 411 604 獣 医 一級 74 94 75 二級 86 95 131 家 畜 牛 蹄 鉄 工 9 12 13
表18.各種 専 門教 育機 関での 資格取得者数
ノノ
学年期 師範学校 獣医 商業 美術 工 匠 .建設監理 航海術 男教師 女教師 学校 学校 学校 士 .測量士学校 学 校 1865‑66 4,680 1,906 1,060 ■239 3,709 525 .532 1866‑67 2,449 890 861 183 4,044 597 599
表19.スペイ ンの各種専門教育機 関での学生数
年鑑 に掲載 された資料18だが、 内容 的 に理解 に苦 しむ箇所 が散見 され る。例 えば、
高等教育機関で取得す る工 匠の資格 だが、 これは専 門学校 の工 匠 ・建設監理士 ・ 測量士学校で得 られ るはず だ。 ちなみ に、工匠maestrodeobrasは建築家 と相違
し、公共建築 には携わ る ことがで きな い。 また建設監理士aparejadorは建設 の 現場監督 を意味 し、設計図に従 い建設す る ことを監理す る役割 を担 う。 当然なが ら、 これ ら2つの資格 は建築家 とは異な り、教育期間 もそ の課程 も異な り、 した がって、学校 も相違す る。商科教員 もまた専 門学校 の商業学校 で取得で きる資格 であろう。後述す るバルセ ロナの例 を見て も明 らかなよ うに、高等学校 と専 門学 校では余 り明確 な区別がないよ うで、両者が混 同 されて使用 されて いるケースが しば しば見 られ る。建築学校 の場合、 明 らか に高等教育機 関で あるにもかかわ ら ず、最初期 は特別学校escuelaespecialを使用 し、バルセ ロナ の場合 には県立学 校escuelaprovincialな どの名称 を持 つ こともあった。そ の建築分野 を見 る と、
スペイ ン全土で1865年不 明、 1866年17名、そ して1867年9名 しか建築家 のタイ ト ル を取得 していない。ガ ウデ ィの学業成績 を云 々す る前 に、建築家 にな る ことが 既 に選ばれた少数派で あった ことを先ず認識 してお く必要があろう。
1865年スペイ ンの全人 口は1,600万人弱、 これ に対 し建築家総数301名であ り、
前掲資料では不 明で あった同年 の建築 家 の資格取得者数 は7名で あった19。 また ガ ウデ ィが建築家のタイ トル を取得す る前の年、すなわ ち1877年、 スペイ ン人 口 1,700万弱に対 し、建築家総数は397名 に増 え、単純計算では毎年7名強 の増加 に なる20。 この時のマ ドリー ド在住 の建築家数105名 に対 し、バルセ ロナは44名で あ り、それぞれの人 口は前者の約40万 に対 し、後者は約35万であった。バルセ ロナ では8,000人 に一人の建築家の割合 になるO
実は、ガ ウデ ィが中等教育 を受 けていた1860年代 にはバルセ ロナ に建築学校 は なか った。建築家 を志望す るので あれば、首都 マ ドリー ドに上京 しなければ な ら 12
ず、ガ ウデ ィ家の経済事情か らそれは不可能であったに違 いない。 しか し、産業 革命 をいち早 く導入 し経済成長 を続 けていたバルセ ロナは農村部か らの人 口を吸 収 し、都市が急成長 してお り、建築家の不足は深刻な問題 になっていた。 こうし た状況下の1868年、9月革命 に乗 じ、バルセ ロナの美術 アカデ ミーは建築学校の 新設 を申請 し、 1870年、前年9月に創設 されたバルセ ロナ県立工科学校 に属 して それが実現 した。翌1871年 には工科学校が廃止 され、建築学校 の独立 をみるが、
建築家の資格 (タイ トル)発行はマ ドリー ド建築学校 の手 にあ り、独 自では発行 できないでいた。 この発行 も1875年よ り可能 とな り、名実 ともにバルセ ロナ建築 学校が独立す る21。 この学校 の1期 生建築家たちは1877年 の8名、 1878年 の2期 生が4名で、 この4人にガ ウデ ィが含 まれていた22。
ガ ウデ ィが建築家志望 を明 らか にした最初の公文書は1869年9月11日付 けのバ ルセ ロナ文学大学への履修登録 申請書である23。 これは県立工科学校創設の翌 日 の 日付であ り、 当時の教育事情 に敏感 に反応 しているガ ウデ ィを読み取 ることが できる。そ こで、表20に当時 (1870年代)バルセ ロナ に存在 した高等教育機関に 在籍 した学生数 を示す ことにす る。
学年期 バルセ ロナ文学大学 高等学校 県立学校
哲文 科学 薬学 医学 法学 工業技師 公証人 美術 航海術 建築 絵画 .刺 .版画彫 1871‑72 104 152 245 1,243 639 75 141 546 384 14 69 1872‑73 144 174 239 1,284 591 77 139 547 383 17 135 1873‑74 63 122 202 1,123 469 95 100 629 304 32 122 1874‑75 76 159 228 1,020 563 100 102 551 160 25 83 1877‑78 64 132 394 1,075 628 145 168 786 200 59 ‑ 1878‑79 66 150 210 1,000 473 92 100 825 165 64 ‑
表20.バルセ ロナの高等教育機関在学生数24
残念なが ら、 1875‑76年度 と1876‑77年度 の資料が不足す る。県立絵画 ・彫刻 ・ 版画学校は美術高等学校 に付属 し県 の財源で運営 されたが、 1877‑78年度以降の 記録はない。後述す るように、 この表の うちガ ウデ ィが履修 した機関は大学の科 学学部 と県立建築学校である。
13
3‑
1.建築高等学校履修規則1887年 当時のマ ドリー ド建築高等学校長 によると、 1864年制定の履修規則が現 行法 として生きてお り、それは1868‑69年の革命時 における 「教育の 自由」におい て も変更 される ことはなかった25。 この規則 に従 うと、建築教育は 7年制であ り、
予科 の3年 を科学学部で、本科 の4年 を建築学校 で履修す る26。ただ しナバス ク エスによると、予科制度は1875年のカ リキ ュラムで廃止 され、 1885年 に復活 した という27。 いずれ に して も、 1875年以前 に入学 したガ ウデ ィは1864年 の履修規定 に従 うことになる。 この予科 システムが前述 した大学科学学部修 了者 のほ とん ど を前期修 了者 にす るのであろう。
予科での必修科 目は 「代数、幾何、および直線 ・曲面三角法補遺」、 「二 ・三次 元分析幾何」、 「差 と変動微積分学」、 「力学」、 「図法幾何学 (図学)」、 「測地学」、
「実験物理」、 「地質学の基礎知識 を含み、動物学、植物学、鉱物学」、および 「あ らゆる建物の詳細 を水彩で模写できるまでの製図力習得」 の計9科 目である。
本科への入学条件は、1.25才以下、2.中等教育修 了者、3.科学学部で予科科 目を優秀 に修 了 した者、4.入学試験合格者、であ り、学年期は10月1日始業、5 月30日終業、祝祭 日を除き毎 日7時間授業、9月後半2週間入学試験、6月前半 2週間学年末試験 と規定 され る。学校 は講座制で、 1.力学、 2.石裁術、3.建 築 ・装飾材料、4.一般芸術論、創作、平面計画、装飾、5.芸術論への図学応用、
6.合法建築、監理、建築経営、の6講座 よ りなる。 また、本科4年間の授業内容 も次のように定め られた。
1学年 :
1.建築構造応用力学、材料強度、建築構造基準 に関わる公式の解説 とその応 用、頻繁 に使用 され る原動機の学習、水利 と水理計画 (毎 日1時間半講義) 2.測量、理論 と演習 (隔 日1時間半講義)
3.石材、木材、金属の裁断術 (加工法)、陰影図、透視 図、測定図への図学の 応用 (毎 日1時間半講義)
4.製図 :建物、およびその主要部分の模写 (毎 日全 自由時間) 2学年 :
1.鉱物学 と化学の基礎知識、および建築材料への応用、それ らの分析 と生産 方法 (週2回、1時間半講義)
1 4
2.材料 の加工 と使用法。構造や装飾 としての材料 の組合せ、縄張 り、原寸図、
および新 旧公共施設 ・水利施設計画 (毎 日1時間半授業、 隔 日に講義 と演 習)
3.様 々な様式 の提示 と比較、お よび古代 ・近代 の建築や土木 ・水利施設 の構 造、平面計画、な らび に装飾 の検 討 に基づ く一般芸術論 (毎 日2時間講義) 4.製図 :建物 の部分、 もしくは装飾全体 の創作試案 (毎 日全 自由時間) 3学年 :
1.都市 の安全 と維持、建物 と公衆衛 生、合法建築 (週3回講義)
2.製図 :第二種建築 の創作、計画、および装飾へ の芸術論応用 (毎 日全 自由 時間)
4学年 :
1.技術、見積作成、建物 の測定 と図面化、見積査定、覚書 き (仕様書)、契約、
建築 に関わ る現行法への適用 (週 3回講義)
2.製図 :全種建築、 および公共建築 の創作、 計画、および装飾への芸術論応 用 (毎 日全 自由時間)
そ の他 の規定では、学生の義務 として出席の義務が あ り、年間8日の欠席、 ま たは遅刻16回でそ の科 目は不合格。 この場合 の遅刻 は15‑30分 の遅 刻 を指 し、そ れ以上遅れた場合は欠席扱 い。2年留年で退学処分。病欠は30日まで可能で、そ れ以上は留年、 ただ し病欠 の場合、留年は何年で も可能。 15分以 内の遅刻は4回 で遅刻一回に換算 され、30回の授業欠席は留年 となる。授業時間内の外 出は禁止、
製 図に関 してはその開始 と修 了時 に教授 による 目付 とサイ ンを必要 とす る。夏期 休暇 を利用 し、建設現場へ の実習、及び建築モニ ュメン トへ の訪 問が義務付 け ら れ る。
学業評価 は、 中間試験、学年末試験、卒業試験 が実施 され、優sobresaliente、 良bueno、普通mediano、不合格reprobadoの4段階評価。進学 には最低2科 目 以上の 「良」 を必要 とす る。不足す る場合、9月前半 の臨時試験 を受験できる。
留年 した場合 には、全科 目への出席義務が課せ られ る。
校長 の年間給与3万レアール (‑7,500ペセ タ) に対 し、学生の授業料 は100レ アール(‑25ペセ タ)、その半額は始業式前、残 り半額 は学年末試験前 に納付す る。
15
3‑2.
県立バルセロナ建築学校前述 したように、ガ ウデ ィは中等教育修 了に不足 していた2科 目、すなわち 「博 物学」 と 「物理 ・化学」 をバルセ ロナ中等教育公立機関で1868‑69年期 に取得 した。
そ して、 1869年9月には建築学校への進学 を目的 としてバルセ ロナ文学大学科学 学部 に履修登録 を申請 し、表21に示 した単位 を取得す る。 「有理力学」を除 く4科
目は各学年末の定期試験 ですべて評価 「合格」で 終えている。
現在知 られている建築 学校時代のガ ウデ ィ最古 の資料は1873年6月6目 付けの入学試験 申請書で あ る28。 ま た、翌1874年 10月20日付け公文書では ガ ウデ ィ自身が同校在学
学年期 科 目 評 価
定期試験 臨時試験 1869‑70 代数、幾何、直線 .球面三角法補遺 合 格 ‑ 1869‑70 2.3次元解析幾何学 合 格 ‑ 1870‑71 微積分 合 格 ‑ 1870‑71 図法幾何学 合 格 ‑ 1870‑71 有理力学 (履修登録)
1872‑73 ‑ 試験 申請
表21.バルセ ロナ大学、科学学部 : ガウデ ィの学業成績 生である ことを表明 して いる29。ガ ウデ ィの科学学部での学業成績は、前記 した 履修規定である予科での科 目数、 また優秀な成績 という面 において も、それ らの 条件 を満た してはいない。 この疑 問を解消す るため、 「バルセ ロナ建築高等学校 EscuelaSuperiordeArquitecturadeBarcelona」が発行 したガ ウデ ィの公式学 業成績 を表22(翻訳) に示す。 この表で原本 と相違す る点は科 目名通 し番号 を示 す 2番 目の 「T」列 を挿入 した点である。 この通 し番号 3(以下 「T‑3」と表記) が抜けているが、 これは 「フランス語翻訳」 に該当す る。逆 に原本 にあって掲載 した表 に不足す る内容は、科学学部での 5科 目履修証明書 と中等教育最後 の 2科 目履修証明書が建築学校 に提出された こと、および建築家のタイ トルが1878年3 月15日付けでマ ドリー ドか ら発行 された2点である。 タイ トルは最終的にはスペ イ ン政府 (当時は勧業省) の許認可権 に属す ことか らマ ドリー ド発行 となる。
この成績表分類では建築学校 に 「予科」が存在する。実は前述 した履修規定の 最後 の条項 に、移行期の処置 として、予科 の図面関連 の科 目は建築学校でなされ る、 と追記 されている。 したがって、 これ を含 める と予科3年、本科4年の規定 を満足することになる。ただ し、予科で履修すべき科 目数9科 目の うち、以下の ノ♂
4科 目 「測地学」、 「実験物理」、 「地質学 の基礎知識 を含み、動物学、植物学、鉱 物学」、お よび 「あ らゆる建物 の詳細 を水彩で模写で きるまでの製 図力習得」に該 当す る科 目がない。少な くとも最後 の製 図関連 は建築学校 の予科 の科 目に読替え 可能だが、残 る3科 目に対応す るものがな い。敢 えて読替 える とすれば、 中等教 育履修証明書 の2科 目 「博物学」 と 「物理 ・化学」 が 「地質学 ・・・」 と 「実験 物理」 に対応 させ る ことがで きる。だか らこそ、証明書が提 出された もの と推測 され る。残 る 「測地学」 は本科4群T‑22「測量」 で読替 えている可能性が高 い。
後述す るよ うに、この科 目の履修登録 は1872‑73年期で あ り、建築学校入学以前の
分 類 T 科 目 定期試験 臨時試験 学年期
入学試験 1 製 図 合格 1873‑74
2 デ ッサ ン 合格 1873‑74
予 科 45 石膏デ ッサ ン建築詳細 (図) 合格合格 11873873‑7‑744 6 陰影 と透視 図 合格 1874‑75
第 1群 7 切石術 合格 1874‑75
8 応用 力学 (材料強度) 合格 1874‑75
9 建築材料 合格 1875‑76
10 建築史 合格 1875‑76
ll 建築製図 合格 1873‑74
第 2群 1123 施工一般芸術論 合格良 11875875‑76‑76
14 水 力学 合格 1874‑75
15 建築設計Ⅰ 倭 1874‑75
第 3 群 1167 機械 と原動機公共建築 (学) 合格合格 11875874‑75‑76
18 技術 合格 1876‑77
19 建築設計Ⅱ 良 1875‑76
第 4 群 2021 建築への物理学応用合法建築 合格合格 11876876‑77‑77
22 測量 合格 1875‑76
23 建築設計Ⅲ 良 1876‑77
資格試験 24 スケ ッチ 合格 1877.10.22 表22.県立バルセロナ建築学校 :ガウデ ィの成績表
ノ7
登録 であるか らだ。
予科 の初年度 が1869‑70年、本科 の最終年度 が1876‑77年で あ るか ら、ガ ウデ ィ は建築課程修 了に8年 を要 し、規定 の7年 よ りも1年 のオーバ ー とな る。
次 に成績 の最終結果 だけではな く、 そ の履修課程 を見 るため に表23を作成 した。
この表 を見 る限 り、建築学校 で の在籍期 間は5年 とな り、予科1年 と本科4年 の 計5年 に合致す る。 したが って、成績 表 に現 れ な い1871‑72年期 の1年 が無学籍 の期 間で あ り、 これが期 間オーバー の1年分 に対応す る。 この1年無学籍 の原 因 は定かではない。例 えば兵役だが、ガ ウデ ィは1874年7月 に兵役 に服 し、 1875年 2月か ら1876年12月までバルセ ロナ歩兵 隊 に所属 した後、1年 間 の兵役免除 (た だ し半年 は現役、 半 学年期 ∩ 科 目 t定期試験 臨時試験評 価
187I2
1873 1 製 図 不合格
3 フランス語翻訳 試験 申請
4 石膏デ ッサ ン 不合格
5 建築詳細 (図) 不合格
7 切石術 (履修登録)
8 応用 力学 (材料強度) (履修登録) ll 建築製 図 (履修登録)
22 測量 (履修 登録)
1187387I4 1 製 図 合格
2 デ ッサ ン 合格
3 フランス語翻訳 合格
4 石膏デ ッサ ン 合格
5 建築詳細 (図) 合格
6 陰影 と透視 図 不合格
7 切石術 不合格
8 応用 力学 (材料強度) 不合格
9 建築材料 (履修登録)
ll 建築製 図 合格
12 施工 (履修登録)
15 建築設計 Ⅰ(スケ ッチ) 合格
15 (最終案) 不合格
19 建築設計Ⅱ (履修登録)
18
年 は 予 備 兵)、 1878 年1月6ケ月間の兵 役免 除、 これは予備 役 に も適用 され、 同 年4月末 トル トーサ 所 属 の 予 備 役 と な る31。 した が っ て、
この兵役期 間 とは一 致 しな い。逆 に、ガ ウデ ィの学業成績 は 兵役期 間 を通 じて好 転 して いるよ うに見 え る。 1872‑73年 期 は4科 目の履修登録
と3科 目の試験結果、
お よび1科 目の試験 申請が あるにもかか わ らず 、 1科 目も合 格 して いな い。次 の 1873‑74年 期 は6科
目合格、4科 目不合 格、4科 目試験結果 な し。本科2学年 に 相 当 す る1874‑75年 期 は6科 目合格、そ の一つ 「建築設計Ⅰ」
は優 の成績、1科 目 不合格、3科 目試験 結果 な し。3学年 の 1875‑76年 期 は 全7 科 目定期試験 で合格。
この うちT‑19「建築 設計Ⅱ」 も定期試験 で合格 しているか ら、
臨時試験 の必要はな い。 にもかかわ らず、
受験 したのは成績 を 改善す るためで あ り、
この結果 「優」 を取 る ことによ り、 同科 目の年間賞への応募 資格 を得 た。 この履
187l4
1875 6 陰影 と透視 図 合格
7 切石術 合格
8 応用 力学 (材料強度)̲ 合格
9 建築材料 試験 申請
12 施工 試験 申請
13 一般芸術論 (履修登録)
14 水 力学 合格
15 建築設計 Ⅰ(スケ ッチ) 合格
15 (最終案) 倭
16 機械 と原動機 合格
22 測量 不合格
1875【
1876 9 建築材料 合格
10 建築史 合格
12 施工 良
13 一般芸術論 合格 17 公共建築 (学) 合格
19 建築設計Ⅱ 良
19 建築設計 Ⅱ(スケ ッチ) 合格
19 (最終案) 倭
22 測量 合格
1876l
1877 18 技術 合格
20 建築へ の物理学応用 合格
21 合法建築 合格
23 建築設計Ⅲ (スケ ッチ) 合格
表23.バルセ ロナ建築学校 :ガ ウデ ィの学年期別履修表30
修表 には表記 されていないが、年間賞 にも応募 し、『桟橋』を課題 とす る計画 を作 成す るものの、「該 当者な し」と評価 され、ガ ウデ ィは受賞 を逃 して いる。 この学 年 は余裕 を持 って学業 に望 んで いるよ うに見 える。 そ して、最終学年 の1876‑77 年期 も4科 目すべて、定期試験で合格す る。
前述 した兵役は1874年7月に始 まって いるか ら、時期 としては1学年の臨時試 験 (9月) の時か ら学業 と重なって いる ことにな るが、 この時期か ら勉学 に取 り 組む姿勢が見 られ る。 したが って、ガ ウデ ィに とって兵役 は肯定的な影響 を与え た もの と推測 され る。おそ らく、将来 の 自分 を考 えさせ る絶好 の機会 になったの 19
であろう。
ただ し、ガウデ ィは1873年9月30日付けの申請書で 「予備役 によ り反復的に兵 役 に服 した」ことを理 由として入学試験等実施 の特別配慮 を申出ている32。継続的 な正式兵役 とは相違 して断続的であった ことを考 えると、 申請書 の理 由をもって、
学業成績 の悪 い根拠 にす ることは難 しいであろう。
次 に1864年の法律で定め られた履修科 目とガ ウデ ィの履修科 目を比較検討す る ことにす る。
ガ ウデ ィの成績表 に記 されている科 目名は便宜上の名称であ り、正式科 目名は 相当に長い。そ こで各科 目の正式名称、 この場合、科 目別成績表な どで使用 され ている詳 しい科 目名 と同時に、判明 した範囲で各科 目別 の受験者数や他学生の修 めた成績評価 を紹介す る ことにす る。
T‑1.製図 :「あ らゆる種類の建物の詳細 を水彩で模写す る製図」、 これは1872‑ 73年度定期試験 (1873年6月11日)成績表 に記 された科 目名であ り、ガ ウ デ ィを含む4名の受験生全員が不合格。1873‑74年度臨時試験(1874年10月 24日)では 「製 図、入学」 の名称 でガ ウデ ィを含 む2人 の受験 生が共 に
「合格」。
T12.デ ッサ ン :ガ ウデ ィの成績表でFiguraと唯一手書 きで記 されている 「入 学試験」科 目のひ とつであ り、人物な どのデ ッサ ンと推測 され る。
T‑3.フランス語翻訳 :ガ ウデ ィの1874年10月19日付け申請書 によると、建築学 校 に提出すべ き履修証明書 の1科 目であ り、その不足か ら建築学校での受 験 を申請する33。事実、同年同月24日の試験では建築学校校長 ロジェン、教 授 フアン ・トー ラス とビラセカの試験官3名に対 し、受験生はガ ウデ ィ1 人で 「合格」 となる。
T‑4.石膏デ ッサ ン :ガ ウデ ィの成績表 にのみ出現す る科 目 T‑5.建築詳細 (図):ガ ウデ ィの成績表 にのみ出現す る科 目 T‑6.陰影 と透視図 :ガ ウデ ィの成績表 にのみ出現す る科 目
T‑7.切石術 :「石材、木材、金属の裁 断術 (施工図)、図法幾何学 (図学) と日 時計幾何学の応用」、1874年10月24日の1人試験不合格、翌年6月30日定期 試験で8名中4人の1人 として 「合格」 を得 る。
T‑8.応用力学 :「建築構造応用力学、材料強度、建築構造基準 に関わ る公式 の 20
解説 とその応用、頻繁に使用 され る動力機 の学習、水利 と水理計画」、1874 年10月24日臨時試験不合格、 この 日は1人受験だが、 同学年期 同科 目臨時 試験全体では 6人中 3人が不合格。1875年 6月28日定期試験ではガ ウデ ィ
を含む5名全員が 「合格」。
T‑9.建築材料 :「鉱物学 と化学の基礎知識、および建築材料への応用、それ ら の分析 と生産方法」、1876年6月10日定期試験 「合格」、 同科 目同定期試験 では受験生6名全員合格、友人のカスカ ンテのみが 「良」。
T‑10.建築史 :ガ ウデ ィの成績表 にのみ出現す る科 目
T‑ll.建築製図 :「製図。建物、あるいはその主要部 の模写」、1874年11月5日1 人受験で 「合格」。
T‑12.施工 :「材料の加工 と使用法。構造や装飾 としての材料 の組合せ、縄張 り、
原寸図、および公共施設 ・水利施設計画」、1876年6月13日定期試験 「良」、
同科 目同学年期定期試験では9人中2人が 「良」、6人が 「合格」、1人が不 合格 となる。
T‑13.‑般芸術論 :「様 々な様式の提示 と比較、および古代 ・近代の建築や土木 ・ 水利施設 の構造、平面計画、な らび に装飾 の検討 に基づ く一般芸術論」、
1876年6月28日定期試験 にて合格、 同科 目同学年期定期試験では8人全員 の受験生が合格 し、その半数が 「良」 の評価 を得 る。
T‑14.水力学 :ガ ウデ ィの成績表 にのみ出現す る科 目
T‑15.建築設計 Ⅰ:「製図。建物の部分、もしくは装飾全体 の創作試案」,これは
「演習 Ⅰ、スケ ッチ案」 と 「演習 Ⅱ、最終案」 よ りな り、1874年の臨時試 験では11月 6日の前者は合格す るものの、11月17日の後者で不合格 となる。
この学年期 の同科 目臨時試験は5名中2人のみが合格。翌75年9月21日と 30日の臨時試験では、前者は7名中2名、後者は3人中2名が合格 し、ガ ウデ ィのみが 「優」 を取 る。
T‑16.機械 と原動機 :ガ ウデ ィの成績表 にのみ出現す る科 目
7‑17.公共建築 (学):これ もガ ウデ ィの成績表 にのみ出現す る科 目だが、直訳 は 「社会 目的の観点か ら見た建物 の検討」 となる。
T‑18.技術 :「技術、見積作成、建物の測定 と図面化、見積査定、覚書 き (仕様 書)、契約、建築 に関わる現行法への適用」、1877年6月15日定期試験で合 21
格。 この試験では6人全員合格、その うち1人が 「良」で もう1人が 「優」 を獲得す る。
T‑19.建築設計Ⅱ :「製図 :第二種建築の創作、計画、および装飾への芸術論応 用 一第3学年」、1876年6月30日定期試験、同年度 同科 目定期試験では4人 受験で、3人が 「合格」、ガ ウデ ィのみが 「良」 の成績 を修 める。既 に述べ たように、同科 目年間賞への応募資格 には 「優」 を必要 とす るため、臨時 試験 (同年9月16日と10月11日)を再受験。結果、「優」を獲得 し、年間賞 に応募す る。 この年間賞 に関 しては3・4学年の各科 目別 に1・2等賞が規 定 され、前者 には200レアール (50ペセタ)、後者 には100レアール (25ペセ タ)の褒賞が与え られる34。後者 の金額は年間授業料 に相 当す る。
T‑20.建築への物理学応用 :ガ ウデ ィの成績表 にのみ出現す る科 目
T‑21.合法建築 :「都市 の安全 と維持、建物 と公衆衛生、合法建築」、1977年6月 14日定期試験、7人受験 中6人 「合格」、残 る1人のみ 「優」。
T‑22.測量 :「測量、理論 と演習」、1875年9月13日臨時試験では1人受験で不合 格、翌年6月8日定期試験で 「合格」、同科 目同年度定期試験では4人の受 験生全員が 「合格」 の成績。
T‑23.建築設計Ⅲ :「製図 :全種建築、および公共建築の創作、計画、および装 飾への芸術論応用」、定期試験1877年6月12日の 「スケ ッチ」に合格、同月 30日 「最終案」で 「良」 の評価 を得 る。両者 とも1人受験。
以上の県立バルセ ロナ建築学校 の科 目内容 を1864年公布 の履修規定 と比較す る と、次のような対応関係 になる。
1学年 :1⇒T‑8応用力学、2⇒T‑22測量、3⇒T‑7切石術、
4⇒ T‑11製図
2学年 :1⇒T‑9材料、2⇒T‑12施工、3⇒T‑13芸術論、
4⇒T‑15設計Ⅰ
3学年 :1⇒T‑21合法建築、2⇒T‑19設計Ⅱ 4学年 :1⇒T‑18技術、2⇒T‑23設計 Ⅱ
これ ら対応科 目以外では、T‑1製図 とT‑2デ ッサ ンは入学試験科 目、T‑3フ ランス語は入学以前の履修科 目、T‑4石膏デ ッサ ンとT‑5建築詳細は試験記録 に出現 しない科 目名であ り、内容的にはT‑11製図に含 まれ、しか も同学年期 に合 22
格 して いる ことな どか ら、履修 規 定1学年4「製 図」の分割科 目と推測 され る。 同 様 にT‑6陰影 と透視 図はT‑7切 石術 に、T‑10建築 史 はT‑13芸術論 に、T‑16機 械 と原 動機 はT‑8応 用 力学 に含 まれ る内容 で あ ろ う。他 方、T‑14水 力学 はT‑
12施 工 に、T‑17公共 建築 はT‑21合 法建 築 に、T‑20建 築 へ の物 理学応用 はT‑8 履 修 規 定 0 Ⅰ‑1Ⅰ‑2 Ⅰ‑3 Ⅰ‑4 Ⅱ‑1Ⅱ‑2Ⅱ‑3Ⅱ‑4 Ⅲ‑1Ⅲ‑2ⅠⅤ‑1ⅠⅤ‑2 T 1 8 22 7 ll 9 12 13 15 21 19 18 23
科 目 名 冬読学 応用力 刺里Eヨ 石切 築逮製 建築材 施工 1柿三H三一 設計 法建A口 =I計巨又IJ 柿技 巨=計又IIJ
験 学 柿 図 料 請 Ⅰ 築 Ⅱ Ⅲ
八
±
毒 臨時読顔 倭 良
合格 6 2 1
不 可 4 1 2 1 1
計 10 2 1 2 0 1 0 0 2 0 0 0 0
八七四
年 時読験臨 倭 良
合格 4̲̲二: 3 二子̲̲ 4 1 2 1 不可 I̲'3 1 辛.十二 3 3p 3
計 4 6 1 2 7 4 3 1 5 0 3 0 1
八七
五年 定期読験 倭
良 1 1
合格 5 3 ・4 3 3 2 2 1 1 1
不 可 1 4 1 1 1 2
計 5 4 8 1 4 4 2 3 3 1 1 1
八七
五午 読験臨時 倭 ∴1
良
合格 5 1 1 2 1 1
不 可 1 1 1 2 4 1 2
八 七 六
午 期顔定読 倭
良 1 1 4 4 3 ;"̲̲1 1
不 可 1. 1 1
表24.県 立バル セ ロナ建 築 学校 、 定期 ・臨 時試 験 結果 一 覧表 (人 数) 2 3
応用力学 またはT‑13芸術論 に合致す るものの、合格年次の相違、および成績評価 の相違 も見 られる。 したが って、現在判明 している資料 のみでは、最後 の3科 目 について理解す ることは困難 と言わざるを得ない。他方、現在判明 している学業 に関わる資料の中には、各年度 の定期 ・臨時それぞれの試験結果 をまとめた一覧 表が存在す る。そ こには科 目名、全受験者氏名、および評価が記 されている。表 24は現在 までに発見 されている一覧表 をまとめた もので、表の1・2行 目は論者 が挿入 した項 目であ り、「履修規定」は1864年公布履修科 目の学年別 (ローマ数字) の科 目番号を、「T」はガ ウデ ィの成績表 に挿入 した科 目名の通 し番号 を指す。網 掛けの枠はその人数 にガ ウデ ィが含 まれ ることを意味す る。
この表で明 らかになることは、試験科 目は法律で定め られた科 目、すなわち入 学試験 と本科の12科 目であ り、配列順序 も 「履修規定」 に従 っていることである。
また科 目別試験記録 にも、前述 した 「フランス語翻訳」 を例外 として、 この表の 13科 目以外の記録が存在 しない。 さ らに、ガ ウデ ィは1872‑73年度 に4科 目 (切石 術、応用力学、建築製図、測量)、1873‑74年度 も同じく4科 目(建築材料、施工、設 計 Ⅰ、設計 Ⅱ)、 1874‑75年度 に 1科 目 (芸術論)、1876‑77年度 に 3科 目 (技術、
合法建築、設計Ⅲ)の計12科 目の履修登録 しか していない。入学試験は別扱いで あるか ら、 この履修登録 された科 目も法律で定め られた 「履修規定」 を遵守 して いることになる。
1977年バルセ ロナ建築学校 (現カタル一二 ヤ工科大学バルセ ロナ建築学部)創 立100周年 を記念 し、展示会が開催 された。そのカタログには 「教授陣 とカ リキュ ラム」と題 した一覧表の付録が挿入 されている35。 これ によると、カ リキュラム変 更は1875年、 1896年、 1914年、1933年、 1957年、 1964年、 1973年の計7回あった。
実は、ガ ウデ ィの成績表 の科 目配列は1896年 のカ リキ ュラム変更 に基づ く構成 に 一致す る。先述 したように、その前の1875年カ リキ ュラム には予科は存在 しない。
また同表 に従 えば、授業科 目T‑6「陰影 と透視 図 」 は1876年、T‑10「建築史」、
T‑14「水 力学」、T‑16「機械 と原動機」 の3科 目は1877年、T‑4「石膏デ ッサ ン」、T‑5「建築詳細」、T‑17「公共建築」、T‑20「建築への物理学応用」の4科 目は1889年、そ してT‑2「デ ッサ ン」は1899年 に開設 されている。 この情報が正 確 とす るな らば、ガ ウデ ィは これ ら9科 目すべてを開講前 に履修 していた ことに なる。
24
以上 のよ うに、現在知れて いる資料 には不 可解 な部分 が あ り、すべて を信 じる ことはで きない。 しか しなが ら、本科12科 目に関 しては試験 結果 の資料か らも裏 づ けが取れ、信用 に足 る もの と判 断で きる。表25は予科 ・本科 とも一次資料 に基 づ いたガ ウデ ィの成績表 (修正) で ある。
分 類 T 科 目 定期試験 臨時試験 学 年 期
予 科 代数、幾何、三角法 合格 1869‑70 2 .3次元解析幾何 学 合格 1869‑70
微積 分 合格 1870‑71
図法幾何学 合格 1870‑71
有理 力学 合格 1873‑74
3 フランス語翻訳 合格 1873‑74
入 学 試 験 1 製 図 合格 1873‑74
1 学 年 228 応用 力学測量 合格合格 11878754‑75‑76
7 切石術 合格 1874‑75
ll 建築製 図 合格 1873‑74
2学 年 192 建築材料施工 合格良 11875875‑7‑766 13 一般 芸術論 合格 1875‑76
15 建築設計Ⅰ 倭 1874‑75
3学 年 21 合法建築 合格 1876‑77
19 建築設計Ⅱ 倭 1875‑76
4学 年 18 技術 合格 1876‑77
23 建築設計Ⅲ 良 1876‑77
資 格 試 験 24 スケ ッチ 合格 1877.10.22 表25.県立バル セ ロナ建築学校 :ガ ウデ ィの成績表 (修正)
この本科12科 目のガ ウデ ィの成績 は2つ の 「優」、2つ の 「良」、残 り8科 目の
「合格」であった。表24では 「優
」
「良」それぞれ一つで あるが、1876年臨時試験 で 「設計Ⅱ」 の評価 を 「優」 に向上 させ、1877年 の定期試験 で 「施工」 と 「設計Ⅲ」 で 「良」 の評価 を得 る。規定では進学 には半分 の 「良」 を必要 としたが、ガ ウデ ィの履修 ではそれ は適用 されて いな い。バルセ ロナでは評価 名称 です ら 「優 sobresaliente」以外 の3評価 に規 定 とは異な る単語 を当てて いるよ うに、必ず し
25
も規定通 りには運用 されなかったよ うだ。かつ、表24で明 らかなように、半分が
「良」以上の成績であることを条件 とすれば、バルセ ロナの場合、誰一人進級で きないであろう。例えば、 1875年度は定期 ・臨時試験すべての評価がそろってい るにもかかわ らず、延べ人数で 「合格」の36人 と 「不可」が22人 に対 し、 「良」以 上の評価はわずか3人であるか らだ。 また 「履修規定」 にあった出席義務 をガ ウ デ ィが果た していた とも考 え られない。なぜな ら、 1876年11月末か ら翌年初めに かけて記 された唯一の 日記か らは、授業 に出席できないでいるガ ウデ ィの姿が認 め られるか らである。 この点で も、規定の条件 を満た していない。 アルバイ トの 必要があったガ ウデ ィには好都合であ り、 もし規定通 りであったな ら、建築家ガ ウデ ィの出現はなかったか も知れない。
同 じ表24で驚 くことは、既 に何度か触れているよ うに、各科 目の受験者数の少 ないことだ。一人受験 もしば しば見 られ、多い ときで も11名である。 これは建築 の学生数の少ないことを如実に示 している。 これだけで もガ ウデ ィが圧倒的な少 数派の一人であった ことが判明する。 さ らに成績の評価 を見た とき、ガ ウデ ィの 成績が決 して悪 くないことにも気付 くであろう。 同 じく表24で 「優」 を取得 した のは唯一ガ ウデ ィだけであった。 この成績は、少な くとも判明 している表の中で は、「不可」9人 と 「合格」9人をベース としている。建築家 として もっとも力を発 揮すべき科 目 「建築設計」のⅠ・Ⅱ・Ⅲで、ガ ウデ ィは2つの 「優」 と一つの 「良」
を得ているのである。 これは建築学生 としては、少な くとも当時のバルセ ロナ建 築学校のなかでは優等生 と呼べる成績 と言 うべきであろう。
結 論
19世紀半ば のスペイ ンの状況 を考 えると、初等教育 を受 けることが既 に少数派 的存在であった。 この少数派のなかか ら中等教育 に進み、その成績は優等生に比 べるな らば劣るものの、出来 のよい生徒 と評価できるものであった。 この学生ガ ウデ ィは、必ず しも経済的境遇 に恵まれた環境 にはなかったにもかかわ らず、高 等教育、それ も予科3年本科4年、計7年の建築学校 に進学す る。最後の3年 を 除 く4年間は決 して芳 しい成績 とはいえない。 もっとも、 1874年 までは他学生の 成績 も決 して良 くはな く、半分 ほどが試験で落 とされているよ うに推測 され る。
しか し、建築設計 という建築家 にとって本命 の演習科 目では他の学生を寄せ付 け 26
ない優秀な成績 を修 めている。ガ ウデ ィ本人が言 うように、理論的 な科 目では成績が悪かったのか も 知 れ な いが、他 の学 生 も同様 で あった ことを考 えると、彼だけを 出来 の悪 い学生であった とは言え ないであろう。 したがって、建築 学生 としてガ ウデ ィは優秀であっ た と結論 しなければな らないであ ろう。
ガ ウデ ィは、言葉 とは裏腹 に、
自らの学業 を誇 らしげ に思 ってい たに違 いない。現在残 されている 当時の唯一の写真 には、それ を証 明 しているかのよ うに、誇 らしげ に写 っている彼の姿が見 られ る。
残念なが ら、ガ ウデ ィは出来の 悪 い学生が優等生以上の実績 を残
… 血̲∴ .∴ ̲一.M " ..̲‥.̲"̲一...:̲. アン ト二 ・ガウデ ィ (1852‑1926)、
1878年 (26歳) 頃 MuseodeReus したケースには当 らない。彼は建築家の卵 として学生時代か ら優れ、その優位性 を保ち続けるために生き、その結果、他の人には達 し得ない境地 にまで進む こと ができたのであろう。
1 Martl'nezRuiz,Enrique;Maqueda,Consuelo,yDiego,Emiliode:Atlas hist6ricodeEsPan〜aII,Madrid,Istmo,1999,pp.152‑55
2 日LaHormigadeOroH,A点oX,Ndm・30,Barcelona,1893108・14,p・297
3Direcci6n GeneraldeEstadl'stica:AnuarioEstadisttcodeEsPan〜a:1866‑67, Madrid,1870pp.498‑503
4 注1参 照
5 注3参 照
6AyuntamientodeBarcelona‑Negociadodeestadl'stica,padr6nyelecciones:
27
AnuayioestadtsticodelaciudaddeBarcelona‑An〜oI.1902,Barcelona,1903,pp.97, 144,147
7"AlmanaquedelDiariodeBarcelonaparaelaao1873,p.166;idem parael a缶01874,p.113;idem paraela売o1875,p.117;idemparaela貞o1876,p.112;
I'dem paraela点01879,p.140;idem paraela丘01880,p.129;idem parael a丘01881,p.129
8 GuixSugranyes,JosepMa:Miscel.ldniaIICentenarideL'Institutd'Ensenyament Mit]'daReus,Reus;Institut…GaudiM,1976,pp.79‑82
Bau,P.Calasanz:HistoriadelasEscuelasPtasenCatalun〜a,Barcelona,1951, p.351.次 善 参 考 MartinellyBrunet,C6sar:Gaudt,suvida,suteoyta,suobra, Barcelona;COACB,1967,p.15
9履修登録 申請書 HcolegiodeEscuelasPl'asdeReus.Cursode1863a1864, No.48=お よ び Hidem.Cursode1864a1865,No.52日タ ラゴ ナ のⅠnstituto deEducaci6nSegundariaAn tonideMartl'iFranquとS資料室所蔵、複写 を レ ウス市立サルバ ドール ・ビラセカ博物館長 のマソー氏よ り提供 され る
10 Rafols,a.F.:Gaudi′1852‑1926,Barcelona;Aedos,1960 (Barcelona;Claret, 1999),pp.187‑88
Mass6Carballido,Jaume:"An toniGaudl'iEduardTodaM,次 書 収 録 Gaudt: Reusielseutemps,Reus;CentredeLectura,2003,pp.64‑65
学 業 成 績 資 料、 タ ラ ゴ ナ のInstitutodeEducaci6nSegundariaAntonide Martl'iFranquとS資料室所蔵
IlHcolegiodeEscuelasPl'asdeReus,incorporadoalInstitutoProvincialde Tarragona.ExAmenesdeentrada.En la Ciudad deReusa los 14 de septiembre dela缶0 1863 losProfesoresabajo firmadosprocedieron al examendelalumnoD・An tonioGaudl'yCornetH,I・E・S・Martl'iFranquとS 資 料 室 所 蔵。 図 録MuseuSalvadorⅥlaseca:Gaudl'&Rues,Reus;Ajuntament de Reus,2002,p・153, "An tologl'a d'articles i documents orlglnals"
(Transcrpci6deJaumeMass6Carballido)
12"cursode1863a1864:Relaci6nnominaldelosalumnosmatriculadosene1 28
ColegioprivadodeReusyasignaturasqueseexpresaenla§cualespueden presentarseaexamenesdepruebadecurso",I.E.S.Martl'iFranquとS資 料 室所蔵
13日ListadelosalumnosdelColegiodeEscuelasP1'asdeReus,quepuedenser admitidosaex孟menesordinariosdefindecursode1865a1866日,Ⅰ.E.S.
Martl'iFranques資料室所蔵
‑4Mass6Carballido,Jaume:…An toniGaudl'iEduardTodaH,次書収録Gaudi: Reusielsewtemps,Reus;CentredeLectura,2003,pp.64165
15"EnciclopediaUniversalHdeEspasa‑Calpe,T・21,p・1080
16Direcci6n GeneraldeEstadl'stica:AnuarioEstadtsticodeEsPan〜a:1866‑67, Madrid,1870pp.499‑501
17"EnciclopediaUniversalHdeEspasa‑Calpe,T・21,p・1081
‑8注16と同 じ年鑑、pp.502‑03
" ListadearquitectosindividuosdelaSociedadCentralen1866,"An uariodela SociedadCentraldeArquitectosM,A点oPrimero,pp・13‑20,Madrid,1865
20Listadelosarquitectosespan〜oles,♪ublicadaPorlaSociedadCentylal,Madrid,1878
〜‑Bassegoda Nonell,Juan:LosmaestrosdeobrasdeBwcelona,Barcelona:
Editorest6cnicosasociados,1973,pp.37‑40
22日Lista de promocions d'arquitectes",en ExZ,osici6 commemwativa del centenayidel'Escolad'wquitectwadeBarcelona1875‑76/1975‑76,Barcelona;
E.T.S.A.ち,1877,p.285
23資料番号N.0425236、カタル一二 ヤ工科大学バルセ ロナ建築学部 「ガ ウデ ィ記 念講 座」、資料箱 HDocumentosacAdemicos
Mercader,Laura:AntoniGaudi, escritosy documentos,Barcelona; EI Acantilado,2002,pp.241‑42
24"AlmanaquedelDiariodeBarcelona parII aela魚01873,p.166;idem parael a丘01874,p.113;Idem paraela免01875,p.117;idem paraela丘01876,p.112;
idem paraela缶01879,p.140;idem paraela灸o1880,p.129;idem parael a元01881,p.129
29
25LallaveyRavanal,doseJesdsde:EscuelaSuperiordeArquitectuyla,en…Boletl'n delaRealAcademiadeBallasArtesdeSanFernando…,AhoⅧ,TomoⅡ,No・ 71,pp.29‑31,Madrid,Enero1888
26ReglamentodelaEscuelaSuperioydeArquitectuyla(Gaceta,3deDciembrede1864), en"An uariodelaSociedadCentraldeArquitectos日,Madrid,Primeraao
(1866),pp.32‑41
27 Navascu6sPalacio,Pedro:SumaArtis,Historicgeneraldelartevol.
XX X T I ・
AyquitecturlaeSPan〜ola180811914,Madrid;EspasaCalpe,1993,p.54
28注23参 照
29資料番号N.5,423,032、カタル一二 ヤ工科大学バルセ ロナ建築学部 「ガ ウデ ィ 記念講座」、資料箱 "DocumentosacAdemicosn;注23の書、Mercader12002, p.244
30注23と29で指摘 した 「ガ ウデ ィ記念講座」の資料箱 "DocumentosacAdemicosM には、現在 (2005年8月) までに発掘 されたバルセ ロナ建築学校の学業成績 に 関わる資料が集め られている。その中か らガ ウデ ィに関連す る1871‑1877まで の学業成績 (各学年期 の定期試験 と臨時試験 の全受験生の成績一覧表、および 各科 目別受験生成績表) の調査結果 をまとめた ものである。
31BassegodaNonell,Juan:ElgylanGaudi,Sabadell;Ausa,1989,pp・24‑25
32注23資料箱、N.3141691;注23の書、Mercader‑2002,pp.244‑45
33注23資料箱、N.5,418,073;注23の書、Mercader‑2002,pp.245‑46
34注26の規定、第7条88項、p.40
35ExPosicio'cmmemorativadelCentenaridel'Escolad'ArquitecturadeBarcelona 1875‑76/1975‑76,Barcelona;E.T.S.A.B,1877,"Quadre de professors i plansd'estudis"
3'0