杉浦大黒屋における経営幹部の系譜 : 別家への経 営委任江戸から平成
著者 植田 知子
雑誌名 同志社商学
巻 63
号 5
ページ 976‑945
発行年 2012‑03‑15
権利 同志社大学商学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000012876
は じ め に
Ⅰ 大 黒 屋 の 概 要 1 店 舗 と 事 業 内 容
︑ 2 経 営 規 模
・ 資 産
・ 信 用 度
Ⅱ 別 家 へ の 経 営 委 任 1 別 家 の 役 割 の 変 化
︑ 2 勤 番 の 制 度 3 勤 番 の 質 の 維 持
Ⅲ 明 治 期 の 勤 番 1 勤 番 就 任 ま で
︑ 2 明 治 期 の 京 都 勤 番
・ 東 京 勤 番
Ⅳ 店 内 重 要 行 事 に お け る 勤 番 の 役 割 1 経 営 関 連 の 職 務
︑ 2 店 内 重 要 行 事
﹁ 勘 定
﹂
Ⅴ 重 役 の 推 移
│ 大 正 後 期 1 大 正 後 期 の 職 階
︑ 2 勤 番 か ら 重 役 へ 3 取 締 役 へ の 就 任
Ⅵ 友 岡
・ 三 大 寺 に よ る 経 営 体 制 の 構 築 1 社 内 に お け る 両 家 の 地 位
︑ 2 別 家 に よ る 出 資 3 大 三
㈱ へ の 社 名 変 更 お わ り に
は じ め に 近
世商 家に おい て店 制の 中心 をな した 別家 制度 は︑ 一定 の奉 公期 間を
勤 め 上 げ た奉 公 人 が 別 家 を 許 さ れ
︑自 分 家 業 を 営 む と い う も の で あ っ た
︒け れど も︑ 商家 大店 では 経営 規模 の拡 大や 業務 の多 様化
・複 雑化 に 伴 って 店舗 の管 理・ 監督 者が 必要 とな り︑ 別家 後の 進路 は勤 務を 継続 し て 主家 の店 舗の 管理
・監 督業 務に 就く とい うよ うに 変化 して いっ た︒ こ の よ う にし て 別 家へ の 経 営委 任 が 進 み︑ 別家 制 度 は︑
﹁主 家 の 経営 幹 部 を 輩出 する シス テム とい う性 格1
﹂ を強 くも つよ うに なる
︒ 別家 への 経営 委任 は商 家の 近代 化の 過程 で新 たな 展開 を見 せる
︒例 え ば
︑明 治以 降も 別家 制度 を維 持し 続け た近 江系 繊維 企業 の西 川で は︑ 大 正 後 期〜 昭 和初 期 に 別家 は
︑﹁ 長 年勤 続 の 重 役な い し 役付 き 店 員と い う 性 格2
﹂ に変 化し
︑稲 西で は︑ 大正 一〇 年に
﹁高 級店 員﹂ とい う通 勤を 許 可 さ れ た別 家 の 制度 が 設 けら れ
︑こ の 制 度の 導 入 は︑
﹁名 実 と もに 別 家 制 度 の 重 役制 度 へ の移 行3
﹂ を 意味 し た と され る
︒つ ま り︑
﹁別 家 の ポ ス ト は︑ 実質 的に 重役 のポ ス ト4
﹂に 近づ いて いっ た︒ 本稿 で取 り上 げる 大黒 屋杉 浦三 郎兵 衛家 は︑ 寛文 三︵ 一六 六三
︶年 創 業 の呉 服太 物小 間物 類を 取扱 った 商家 であ る︒ 大黒 屋は 大正 一二
︵一 九 二 三︶ 年に 株式 会社 杉浦 商店 に改 組し
︑昭 和一 九︵ 一九 四四
︶年 には 大
杉 浦 大 黒 屋 に お け る 経 営 幹 部 の 系 譜
│
│ 別家 へ の 経営 委 任
江 戸 から 平 成
││
植 田 知 子
1(976)
三株 式会 社へ と社 名変 更す るが
︑そ の事 業は 業種 に変 更は ある もの の︑ 現在 も大 黒屋 の別 家の 後裔 によ り継 承さ れて い る5
︒ 大 黒屋 では 初代 の頃 から 別家 制度 がと られ たと 見ら れる が︑ 四代 の頃 には 別家 への 経営 委任 が勤 番の 制度 とし て確 立す る︒ 勤番 は役 名で ある と同 時に
︑大 黒屋 の経 営幹 部を 意味 した
︒勤 番の 制度 は明 治以 降も 維持 さ れ るが
︑大 正 中 頃 に 別 家 制 度 が 一 部 改 変 さ れ て 勤 番 の 役 名 は な く な る︒ かわ って 経営 幹部 には 支配
・支 店長
・副 支配
・副 支店 長な どの 役名 が付 けら れ︑ それ らは 重役 と総 称さ れ た6
︒そ して
︑大 正一 二年 一二 月の
㈱杉 浦商 店へ の改 組時 には
︑別 家の 経営 幹部 三名 が取 締役 に就 任し た7
︒ 本 稿は
︑大 黒屋 から
㈱杉 浦商 店︑ そし て大 三㈱ に至 る同 社の 経営 幹部 に焦 点を 当て
︑別 家へ の経 営委 任が 近代 へど のよ うに 接合 し︑ 同社 の経 営に どの よう な影 響を 及ぼ した か︑ その 点を 明ら かに する こと を課 題と する
︒ な お︑ 本稿 の基 礎史 料と して は︑ 江戸 期〜 明治 初期 の部 分は
﹃杉 浦家 歴 代 日 記
﹄︵ 京 都 府 立 総 合 資 料 館 所 蔵
︒本 文 お よ び 注 で は
﹁日 記﹂
︵府 資︶ と略 記︶
︑ 明治 初期
〜大 正初 期の 部分 は杉 浦三 郎兵 衛著
﹃日 記﹄
︵同 志 社 大学 経 済 学部 所 蔵︒ 本 文お よ び 注 で は﹁ 日 記﹂
︵同 経
︶と 略 記
︶を 用い た︒ 両日 記と も部 分的 に欠 落し てい る時 期が ある ため
︑欠 落部 分は
﹁ 杉浦 家文 書﹂
︵東 京大 学法 学部 法制 史資 料室 所蔵
︶の 中に 含ま れる 日記 の仮 記お よび
︑﹁ 竹 下氏 旧蔵 京都 関係 文書
﹂︵ 京都 府立 総合 資料 館所 蔵︑ 館 古 53 0︶ の う ち︑ 杉 浦 家 関 連 の 日 記 類 を 利 用 し て 補 足 し た
︒た だ し︑ 補足 が不 可能 な時 期も ある こと を予 め断 って おく
︒
Ⅰ 大 黒 屋 の概 要 1
店 舗と 事業 内容 まず
︑大 黒屋 の店 舗と 事業 内容 につ いて
︑江 戸期 から 現在 まで の変 遷 を 述べ てお こう
︒ 寛文 三年 創業 の大 黒屋 は京 店を 本店 かつ 仕入 店と し︑ 江戸 石町 店を 販 売 店と して 成長
・発 展し た︒ そし て︑ 文政 七︵ 一八 二四
︶に は江 戸本 所 店
︑幕 末期 に岐 阜店 と大 坂店 を開 店し
︑あ わせ て五 店舗 を有 する 大店 で あ った
︒ 明治 期に は明 治四
︵一 八七 一︶ 年に 岐阜 店︑ 同九
︵一 八七 六︶ 年に 東 京 本所 店︑ 同一 三︵ 一八 八〇
︶年 頃に 大阪 店を 閉店 し︑ その 後は 京都 店 を 本 店︑ 東 京 店︵ 旧︑ 江 戸 石 町 店︶ を 支 店 と す る 二 店 舗 体 制 が と ら れ た
︒ 大正 期に は大 正七
︵一 九一 八︶ 年頃 に杉 浦商 店と 商号 を変 更 し8
︑同 九
︵一 九 二〇
︶年 の 第 一次 世 界 大戦 後 の 財 界混 乱 期 に際 し て は︑ 販売 制 度 を 現金 販売 に一 転し て経 営形 態を 益々 堅実 なも のと し た9
︒同 一一
︵一 九 二 二︶ 年八 月︑ 東京 店に 近接 する 柏原 洋紙 店の 旧綿 布店 跡を 借用 して 地 下 一階
︵一 部︶ 地上 三階
︵将 来四 階︶ の鉄 筋コ ンク リー ト店 舗の 建築 に 着 手し
︑翌 一二
︵一 九二 三︶ 年八 月に は外 観が 完成 する が九 月の 関東 大
か ね
震 災で 崩壊 す る10
︒そ のた め︑
﹁ 予て 計画 中の 法人 組織 を急 遽実 現 し11
﹂︑ 同 年 一 二 月 に 株 式 会 社 杉 浦 商 店︵ 資 本 金
:
弐 拾 萬 円︵払 込 済
︶一 株 五 拾
杉浦大黒屋における経営幹部の系譜(植田) (975)2
円︑ 目 的
:
内 外 織 物 服 装 品 委 託 販 売 加 工12︶ に改 組し て︑ 東京 支店 を本 店︑ 京都 本店 を 出張 所︵ 支店
︶に 改め た︒ 昭 和期 に入 ると
㈱杉 浦商 店と は別 に︑ 昭 和 一 四
︵一 九 三 九
︶年 一
〇 月
︑﹁ 土 地 建 物 売買 賃貸
︑食 料品 製造 日用 品雑 貸販 売13
﹂ を 目的 とす る株 式会 社大 三洋 行︵ 資本 金一 九 万五 千円
︶を 設立 する
︒こ れは 中国 南京 市 に事 業所 をお いて 清涼 飲料 水・ 製氷 の製 造 販売 を行 った もの で︑ 新事 業の ため 経営 は 不振 であ った が南 京工 場は 第二 次大 戦の 終 わり まで 存続 し た14
︒ 同 一九
︵一 九四 四︶ 年六 月に は㈱ 杉浦 商 店の 社名 を大 三株 式会 社に 変更 し︑ 京都 出 張所 を廃 止︒ その 後︑ 同二 五年 一二 月に 五 百万 円︑ 同二 六年 四月 に二 千万 円︑ 同三 八 年一 一月 に五 千百 万円 に増 資し た︒ 同四 五
︵ 一 九七
〇
︶年 に は 日 本 橋 本 町 の 土 地 と 建 物を 売却 し︑ 中央 区大 伝馬 町に 本社 社屋 を 新築
︑別 に日 本橋 に地 上一
〇階 建て のオ フ ィス ビル を建 設し 不動 産賃 貸業 の併 営を 始 め る15
︒そ して
︑平 成一 六︵ 二〇
〇四
︶年 か
第1表 杉浦三郎兵衛の資産・商内高・信用度(東京店)
時期 姓名 職業 店舗又は
住所所在地 取調年月 正味身代 商内高 或ハ収入
取引先信用 の程度 明治
32年 西京 杉浦三郎兵衛
支店
呉服木綿 日本橋本石町
四ノ二三 32.6 K
(20万〜25万円)
本支店G
(50万〜75万円) Ba
37年 京都 杉浦三郎兵衛
支店
同上 同上 35.10 J
(25万〜30万円)
支F
(75万〜100万円) Ba
44年 京都市 杉浦三郎兵衛
支店
同上 同上 44.6 Ⅹ
(未詳)
F
(75万〜100万円) Ba 注:取引先信用の程度は高い方から、Aa(最多)、Ba(多)、Ca(普通)、Da(少)、Ea(無)、Fa(取引
停止)に分類されている。
出所:『明治大正期 商 工 信 用 録』第Ⅰ期 第1巻(明 治33年)・第2巻(明 治37年)、第3巻(明 治44 年)、2011年、クロスカルチャー出版。
第2表 杉浦三郎兵衛の資産・営業状況・信用度
時期 職業 住所 調査年月 正味身代 信用程度
明治42年 呉服太物卸 下京区三條柳馬場東入 42.10 ろ
(75万円以上〜100万円未満) 以
44年 同上 同上 44.8 ろ(同上) 以
45年 同上 同上 45.5 ろ(同上) 以
大正4年 呉服太物仕入 同上 4.2 ろ(同上) 以
7年 同上 同上 7.8 H
(75万円以上〜100万円未満) A
10年 同上 同上 9.8 G(100万円以上) Aa
14年 同上 同上 14.4 G(同上) Aa
注:信用程度は、明治42・44・45・大正4年については高い方から「以」最厚・「路」厚・「者」普通
・「尓」薄・「保」無の5つに分類されている。大正7・10・14年については、高い方からAa・A・
B・C・D・E・Fに分類されている。
出所:『明治大正期商工資産信用録』第Ⅰ期第9巻(大正7年)、第11巻(大正10年)、第13巻(大正 14年)、2009年、クロスカルチャー出版。
同志社商学 第63巻 第5号(2012年3月)
3(974)
らは 併営 して いた 織物 卸売 業を 止め
︑不 動産 賃貸 専業 に一 本化 し16
︑ 現在 に至 って いる
︒ 2
経営 規模
・資 産・ 信用 度 大 黒屋 には 経営 帳簿 の類 が残 存し てい ない ため
︑そ の経 営規 模を 数字 で明 示す るこ とは でき ない
︒し かし
︑ど の程 度の 商家 であ った かは 長者 番 付 な ど か ら 推 測 す る こ と が 可 能 で あ る
︒宮 本 又 郎 教 授 は
︑文 久 四 年
︵ 一八 六四
︶〜 明治 三五 年︵ 一九
〇二
︶に 連続 して 長者 番付 に記 載さ れた 商家 の一 つに 大黒 屋杉 浦三 郎兵 衛を 挙げ て︑ 安政 五年
︵一 八五 八︶ の開 港・ 明治 維新
︵一 八六 八︶
・ 松方 デフ レ期
︵一 八八 一〜
︶・ 明治 一〇 年代 末か らの 企業 勃興 期・ 明治 三七
〜三 八︵ 一九
〇四
〜五
︶年 の日 露戦 争前 の工 業化 の時 期︑ この 五つ の時 期を 乗り 越え た老 舗の 一つ に数 えて おら れ る17
︒ ま た︑ 明治 末年
〜大 正期 に関 して は︑ 第1 表と 第2 表に 杉浦 三郎 兵衛 の資 産・ 商内 高・ 信用 度な どを 示し た︒
Ⅱ 別 家へ の 経 営委 任 1
別家 の役 割の 変化 ま ず︑ 大黒 屋の 別家 制 度18
がい つ頃 から 採ら れ︑ そし て︑ 本家 大黒 屋の 別 家 に期 待 す る役 割 が ど の よ う に 変 化 し た の か に つ い て 整 理 し て お こ う︒
大 黒 屋 の 別 家 制 度 は
︑初 代 内 海 清 兵 衛 義 清
︵法 名︑ 道 照
︒元 禄 一 一
︵一 六 九 八︶ 年没
︒以 下
︑当 主 の名 は 江 戸期 に 限 り 初出 以 外 は法 名 を 使 用 する
︶の 頃か らと られ たと 見ら れる が︑ その 頃に 別家 とな った 者の 別 家 後の 動向 につ いて はよ く分 かっ てい ない
︒一 般的 に江 戸期 の商 家奉 公 人 は︑ 一定 の年 季奉 公を 終え た後 に別 家と なり
︑つ まり 暖簾 分け を許 さ れ て自 分家 業を 営む こと を目 標と した から
︑お そら く大 黒屋 の奉 公人 も 別 家後 の独 立開 業を 目指 して 奉公 にあ がっ たも のと 思わ れる
︒ 二代 杉浦 三郎 兵衛 利次
︵法 名︑ 道有
︒享 保八
︵一 七二 三︶ 年没
︶の も と から は︑ 一七
〇〇 年代 初頭 に別 家大 黒屋 饗庭 又兵 衛19
と 分家 大黒 屋坂 江 吉 右衛 門20
が でて おり
︑両 名と も江 戸で 独立 開業 して 成功 した
︒両 者は そ の 経営 規模 と明 治以 降も 事業 を存 続し た継 続性 の点 で︑ 大黒 屋の 別家 の 家 業経 営者 の中 では 卓越 した 存在 であ る︒ 二代 道有 のも とか ら彼 らの よ う な有 力別 家・ 分家 が出 た一 因と して
︑本 家大 黒屋 に起 こっ た相 続問 題 の 影響 が指 摘で きる
︒と いう のも
︑初 代道 照か ら二 代目 への 相続 は︑ は じ め道 照が 後継 ぎと 頼ん だ人 物が 商売 を嫌 って 家を 出た ため
︑結 局︑ 道 照 の親 戚筋 にあ たる 坂江 家か ら四 男の 三郎 兵衛
︵
=
後の 二代 道有︶を 迎 え て大 黒屋 の身 代と 商い を継 がせ るこ とに な る21
︒し かも
︑二 代道 有は 初 代 の身 代を 無傷 で受 け継 いだ とは 言い 難い 状 況22
にあ り︑ 商い に一 入奮 起 し た
︒こ の 点 は二 代 道 有が の ち に︑
﹁杉 浦 家 中 興の 祖23
﹂ と 称え ら れ て い る こと にも 裏付 けら れる
︒こ うし た当 時の 背景 から
︑饗 庭又 兵衛 と坂 江 吉 右衛 門の 独立 開業 は二 代道 有が 両者 と協 業体 制を とろ うと した ので は な いか と見 られ
︑要 する にこ の時 期の 別家
・分 家に は︑ 本家 大黒 屋の 発
杉浦大黒屋における経営幹部の系譜(植田) (973)4
展の 一翼 を担 うと いう 役割 が期 待さ れた と考 えら れる
︒
とし の り
三 代杉 浦三 郎兵 衛利 軌︵ 法名
︑宗 夕︒ 延享 元︵ 一七 四四
︶年 没︶ は︑ 杉 浦 家の 家 則 であ る
﹁定 目24
﹂︵ 享 保 一 九
︵一 七 三 四
︶年
︶を 制 定 し
︑杉 浦一 族お よび 大黒 屋奉 公人 の物 故者 を祀 る墓 碑の 建 立25
︵寛 保元
︵一 七四 一︶ 年︶ を行 なっ た︒ また
︑三 代宗 夕は 奉公 人の 中か ら人 を選 んで 分家 杉浦 次郎 右衛 門家 を創 設し た︒ この 杉浦 次郎 右衛 門家 は商 いを 一切 行わ ず︑ 本家 当主 の補 佐役 とし て本 家と 大黒 屋の 統轄 管理 に徹 して おり
︑大 黒屋 の経 営の 進展 に伴 って 別家 や分 家に 求め られ る役 割が 変化 した こと がわ かる
︒三 代宗 夕の 事蹟 は︑ この 頃を もっ て大 黒屋 杉浦 家の 商家 とし ての 基礎 固め が完 了し た時 期と 位置 付け るこ とが でき
︑大 黒屋 の店 制も この 頃ま でに 整備 され たと 考え られ る︒
とし た か
四 代杉 浦三 郎兵 衛利 喬︵ 法名
︑宗 仲︒ 文化 六︵ 一八
〇九
︶年 没︶ は︑ 天明 二︵ 一七 八二
︶年 に三 代宗 夕に よる
﹁定 目﹂ を一 部改 定し て﹁ 家内 之 定26
﹂と
﹁家 業之 定27
﹂ を記 した
︒四 代の 頃に なる と︑ 日記 類や 残存 史 料28
から 別家 制度 の中 身が 見え てく る︒ 第1 図は 天明
〜天 保期 頃の 職階 と昇 進の 目安 を示 した もの であ る︒ 幼少 奉公 人︑ いわ ゆる 丁稚 は大 黒屋 では 小者
︵あ るい は子 供︶ と呼 ばれ
︑元 服を 済ま せた 者は 若手 と呼 ばれ た︒
手 代の うち 店内 最上 位の 者を 支配 役︵ 一名
︶と し︑ その 補佐 役と して 支 配 加役
︵一 名︶ をお いた
︒昇 進は
﹁登 り29
﹂ の制 度を 軸に
︑初 登・ 二度 登
・ 三度 登が 行わ れ︑ 支配 役は 退役 登を 済ま せる と別 家と なっ た︒ 四代 の 頃 には
︑支 配役 の退 役者 には 別家 後も 勤務 を継 続さ せて
︑各 店舗 の管 理
・ 監督 業務 に就 かせ る勤 番の 制度 がと られ た︒ 2
勤 番の 制度 勤番 の制 度は 四! 代! の! 頃! にと られ たと 述べ たが
︑こ れは 残存 史料 の中 で 勤 番の 役名 を確 認で きる のが 四代 宗仲 の代 の明 和八 年︵ 一七 七一
︶の 文 書 で30
あ るた めで
︑上 述の よう に店 制が 整え られ たと 見ら れる 三代 の時 期 に 制度 が存 在し た可 能性 もあ る︒ けれ ども 四代 以前 の状 況に つい ては 不 明 のた め︑ ここ では 四代 以降 を中 心に 検討 を進 めて いく こと にす る︒ まず
︑勤 番の 制度 がど の程 度浸 透し てい たか
︑そ の点 を見 てみ よう
︒ 大黒 屋四 代以 降に 別家 を許 され たの は︑ 支配 役の 退役 者と 古参 の手 代 で あっ た31
︒ 両者 の違 いは 別家 後の 進路 に明 らか で︑ 支配 役退 役者 が別 家 後 も勤 番と して 勤務 を継 続し たの に対 し︑ 古参 の手 代は 別家 を許 され た 後 は自 分家 業を 営み
︑勤 番を 命じ られ るこ とは なか った
︒で は︑ この 二 種 類の 別家 が四 代以 降ど の程 度の 割合 で存 在し たの であ ろう か︒ 天明 二︵ 一七 八二
︶年
〜慶 応三
︵一 八六 七︶ 年の 間│ これ は大 黒屋 四 代 の後 半〜 九代 の初 頭の 時期 にあ たる ーに 存在 が確 認で きた 大黒 屋の 別 家 総数 九 一32
家に つい て︑ それ ぞれ が別 家と なっ た経 緯を 調べ てみ ると
︑ 支 配役 退役 者が 五八 名︵ 六三
・七
%︶
︑ 古参 の手 代が 一名
︵一
・一
%︶
︑
第1図 天明〜天保期の職階
(住居) (職階) (昇進の目安)
宿持ち 勤番 別家
住込み 手 代
支配役 支配加役
40才頃 退役登
↑
35才頃 三度登 29才頃 二度登 20才頃 初登 若手 16才頃 元服 小者 11、2才頃 入店
同志社商学 第63巻 第5号(2012年3月)
5(972)
経緯 不詳 が二 八名
︵三
〇・ 八%
︶︑ そ の 他33
が四 名︵ 四・ 四%
︶で あっ た34
︒
﹁ 経 緯不 詳
﹂に 分 類し た 者 は︑ 別家 を 許 さ れた の が 天明 二 年 以前
︑も し く は﹁ 日 記﹂
︵府 資
︶の 欠 落時 期 に あた る た め︑ 別 家と な っ た経 緯 が 把 握で きな い者 であ る︒ この 結果 から
︑大 黒屋 では 少な くと も四 代以 降︑ 支 配 役退 役 者 に対 し て 勤 番 へ の 就 任 が 義 務 付 け ら れ て い た と 考 え ら れ る︒ 勤 番を 義務 付け るに あた って は︑ これ を制 度と して 定着 させ
︑円 滑に 運用 する ため の調 整が 行な われ た︒ 特に 重視 され たの が人 材の 安定 的確 保で あっ た︒ それ とい うの も︑ 支配 役退 役者 の中 には 別家 後の 独立 開業 に強 い意 欲を もつ 者や
︑家 業経 営者 の子 弟で 家業 の補 助・ 継承 を期 待さ れた 者な どが 存在 した から であ る︒ 特に 親が 家業 経営 者の 場合
︑こ れを 見越 して 手代 の段 階で 子弟 を﹁ 相続 暇﹂ など の理 由で 退店 させ る者 も出 てく るよ うに なる
︒そ のよ うな 奉公 人が 頻出 すれ ば︑ 店側 とし ては 将来 店舗 の管 理・ 監督 業務 に就 かせ るは ずの 優秀 な奉 公人 を失 うこ とに なり かね ない
︒そ こで 設け られ たと 見ら れる のが 別家 の初 代格
・二 代目 格の 格付 けで あ る35
︒こ れは 親が 大黒 屋の 別家 では ない
︑つ まり 支配 役を 退役 して 新た に別 家と なっ た別 家初 代︵ 初代 格︶ の者 には 勤番 の就 任を 義務 付け るが
︑親 がす でに 大黒 屋の 別家 であ る者
︵二 代目 格︶ に対 して は︑ 希望 すれ ば一 定期 間奉 公し た後
︑手 代の 段階 で中 途退 店し て家 業に 就く こと を許 可し たも ので ある
︒ さ て︑ 勤番 の職 務内 容は 制度 の定 着と とも に徐 々に 明確 化し てい った が︑ それ は多 種多 様で 職務 領域 も広 範に わた った
︒特 に本 店で ある 京店
詰 めの 京勤 番筆 頭に は︑ 大黒 屋の 家業 全体 の統 括者
︑加 えて 杉浦 家の 家 宰 とも いう べき 権限 や責 任が 委ね られ た︒ 従っ て︑ 勤番 には 経営 実務 だ け でな く諸 問題 に対 する 的確 な判 断力
︑処 理能 力が 求め られ たが
︑そ う し た能 力は 一朝 一夕 に身 に付 くも ので はな い︒ 場数 を踏 んで 勤番 それ ぞ れ が識 見や 技量 を高 める こと を必 要と した
︒当 然店 側に もそ の認 識は あ り
︑そ のた めの 工夫 が規 定や 慣例 の形 で存 在し たこ とが これ まで の検 証36
か らわ かっ てい る︒ 主な もの を次 にあ げて おこ う︒ 3
勤 番の 質の 維持 第一 に挙 げら れる のが
︑経 験を 重視 した 勤番 の登 用方 針で ある
︒ 繰り 返し にな るが
︑大 黒屋 では 規定 の昇 進経 路を 経て 店内 最高 位の 支 配 役に 就任 し︑ それ を退 役し て別 家と なっ た者 のみ を勤 番に 任じ た︒ こ の 勤番 登用 の方 法は
︑重 代別 家の 子弟 にも 例外 なく 適用 され た︒ 勤番 の 中 には 父子 とも に勤 番を 務め てい る場 合も 見ら れる が︑ その 場合 もそ れ ぞ れが 規定 の昇 進経 路を 経て 別家 とな った もの で︑ 世襲 制が とら れた わ け では ない
︒こ こに 公平 かつ 経験 重視 を旨 とし た大 黒屋 の勤 番登 用の 方 針 が見 て取 れる
︒ま た︑ 支配 役に 就く には 長年 の精 勤と それ 相応 の能 力 や 努力 が不 可欠 であ った から
︑経 験重 視の 姿勢 は能 力主 義と 言い 換え る こ とも でき よう
︒ 第二 は︑ 勤番 をそ の職 に専 務さ せた 点が 挙げ られ る︒ 勤番 の役 割は
︑こ れま でに 培っ た管 理能 力と 豊富 な実 務経 験を 現場 で 発 揮す るこ とに あっ た︒ 職務 内容 は多 岐に わた り︑ 商い のみ なら ず杉 浦
杉浦大黒屋における経営幹部の系譜(植田) (971)6
家家 内や 大黒 屋一 統︑ そし て町 内・ 仲間 の事 情に も精 通す るこ とが 求め られ
︑そ の職 責37
も 非常 に重 いも ので あっ た︒ よっ て大 黒屋 では
︑勤 番在 職中 は自 分家 業の 経営 を一 切禁 じ勤 番の 職務 に専 念さ せた
︒ 第 三に 勤番 の在 職年 数38
の 長さ があ げら れる
︒ 勤 番が 何歳 くら いで その 職に 就い たか を見 てみ ると
︑大 黒屋 では 支配 役の 退役 年齢 が江 戸後 期は 四〇 歳頃
︑幕 末期 は三 二〜 四歳 頃︑ 明治 初期 は二 六〜 八歳 頃と 徐々 に若 年 化39
して おり
︑勤 番の 就任 年齢 もこ れに 従っ て若 年化 して いっ た︒ 注目 すべ きは 勤番 の年 齢構 成で
︑江 戸後 期の 京勤 番三 名を 例に とる と︑ 支配 役退 役直 後の 四〇 代︑ 勤番 とし ての 経験 を積 んだ 五〇 代︑ そし て管 理業 務に 熟達 し︑ 大黒 屋や 杉浦 家の 内部 事情 に精 通し て人 格的 にも 陶冶 した 五〇 代後 半と なっ てい る︒ これ は勤 番間 に適 度な 年齢 差を 設け て熟 練度 のバ ラン スを とる とと もに
︑次 代を 見据 えて 長期 的視 野に 立っ た経 営幹 部の 育成 が目 指さ れた もの と見 られ る︒ こう した 年齢 構成 を保 つに は長 期間 勤番 の役 に留 まる こと が求 めら れ︑ 結果 とし て在 職年 数は 長く なり 年齢 も高 くな る︒ 病気 など の特 別な 理由 がな い限 り︑ 勤番 は生 涯そ の職 にあ った と言 って も過 言で はな い40
︒ 第 四は 大黒 屋の 別家 全体 にも 関わ るが
︑本 家に よる 家産 と相 続人 の管 理が 行な われ た点 があ げら れる
︒ は じ め に︑ 江 戸 期 の 大 黒 屋 に お い て 別 家 か ら 本 家 に 差 出 さ れ た
﹁遺 書41
﹂ に つ いて 説 明 して お く 必要 が あ る︒
﹁ 遺書
﹂は 別 家 当主 の 死 後
︑資 産を 本家 へ返 納す るこ とと
︑継 嗣の 有無 にか かわ らず 相続 や家 族の 行く 末は すべ て本 家の 意向 に従 う旨 を書 面に 認め て本 家へ 差出 した もの であ
る
︒要 する に︑ 本家 によ る別 家の 家産 と相 続人 の管 理が 行な われ たこ と を 意味 する
︒ 一点 目の 資産 の本 家返 納に つい ては
︑も とも と大 黒屋 の当 主自 身に
︑ 店 舗や 資産 は先 代か らの
﹁預 り物
﹂で あり
︑そ れら を無 傷で 次代 へ引 き 継 ぐこ とが 自分 に課 せら れた 役目 とす る心 構え があ った
︒別 家の 資産 を 本 家に 返納 する とい う行 為も
︑同 様の 自覚 を別 家に も植 え付 けよ うと し た もの と考 えら れる
︒こ の意 識が 別家 各自 に醸 成さ れれ ば︑ 不正 な取 引 や 投機 的な 商い によ る多 大な 損失 の発 生︑ ある いは 浪費 によ る資 産の 費 消 を予 防す るこ とに なる し︑ 精励 恪勤 して
﹁預 り物
﹂を 増や せば
︑そ れ は 別家 に対 する 肯定 的な 評価 に繋 がっ た︒ この 心構 えは 一見
︑別 家の 家 業 経営 者に 向け られ たも ので
︑家 業を 営ま ない 勤番 には 無関 係の よう に 思 われ る︒ けれ ども
︑後 述す る別 家の 相続 方法
︑│ 血縁 関係 のな い他 人 に よる 相続
│が 増え てい った 実情 を考 慮す ると
︑右 の心 構え は広 く別 家 全 体に 向け られ たも のと 考え られ る︒ 二点 目の 別家 の相 続に 関し ては
︑本 家が 認め た別 家の 実子
︑あ るい は 養 子に よっ て相 続が 行な われ
︑適 当な 跡継 ぎが いな い場 合は 他の 別家 の 子 弟を 入家 させ るな どし て別 家の 家格 を重 んじ る対 応が とら れた
︒こ こ で 注目 すべ きは 別家 の相 続に 血! 統! では なく 家! 名! 重視 の姿 勢が 貫か れて い る 点で ある
︒こ の相 続方 法は 勤番 家の 相続 にも 影響 を与 えた
︒ 大黒 屋で は忠 勤を 励ん だ勤 番の 家名 はそ の勤 功を 称え る意 味で も存 続 が 望ま れた が︑ 実際 には 継嗣 の早 世や 幼少 のた め相 続に 困難 を来 す場 合 が 少な くな かっ た︒ その 場合
︑そ れら 勤番 の家 名は 支配 役を 退役 した 新
同志社商学 第63巻 第5号(2012年3月)
7(970)
立別 家に よっ て相 続さ れた
︒つ まり
︑勤 番の 家名 は新 進の 勤番 によ って 継承 され るこ とに なり
︑そ れが 重な ると 数代 にわ たっ て勤 番を 務め る︑ い わ ば﹁ 勤番 の 家﹂ を 生じ さ せ るに 至 っ た︒
﹁ 勤番 の 家﹂ を 相続 す る こ とを 新立 別家 が拒 否し た事 例は 見ら れず
︑む しろ それ は名 誉と 考え られ てい たよ うで ある
︒こ れは
﹁勤 番の 家﹂ が︑ 内面 的に は血 縁関 係の ない 他人 が家 名を 相続 して いる に過 ぎな いも のの
︑外 面的 には 勤番 を務 める 重代 別家 とし て家 格が 高ま り︑ 別家 衆の 中で も有 力別 家と して 発言 力や 影響 力を 増し たた めと 見ら れる
︒こ の相 続方 法は
︑上 述し た別 家の 家産 管理 の点 でも なん らか の意 味を もっ たと 見ら れる が︑ 具体 的に 勤番 の家 産が 新立 別家 にど のよ うに 相続 され たの かが わか る史 料は 今の とこ ろ見 当た らな い︒ とも かく
︑右 にあ げた 本家 によ る家 産と 相続 人管 理の 方法 は︑ 勤番 にと って
︑主 家へ の忠 節を 尽く し職 務へ の精 励を 促す 一つ の動 機付 けと なっ たと 考え られ る︒ 次 では
︑具 体的 に明 治期 の勤 番を 取り 上げ て︑ 江戸 期の 勤番 の制 度が 明治 期に どの よう に継 承さ れて いっ たの か検 討す る︒
Ⅲ 明 治期 の 勤 番 1
勤番 就任 まで 大 黒屋 では 明治 期も 別家 制度 が維 持さ れ︑ 勤番 の制 度も 続け られ た︒ よっ て︑ 支配 役を 退役 して 別家 を許 され た者 のほ とん どは 別家 後も 勤務 を 継 続 し た が︑ 自 分 家 業 の 道 に 進 ん だ 者 も わ ず か な が ら 存 在 す る
︒な
お
︑明 治中 後期 には 通勤 別家 とし て勤 番以 外の 職務 に携 わる 者が 出て く る が︑ これ につ いて は別 稿で 改め て検 討し たい
︒で は︑ 明治 期の 支配 役 退 役か ら勤 番に 就任 する まで の流 れを 簡単 に説 明し てお こう
︒ 支 配 役
︵明 治 一 五 年 以 降
︑番 頭
︑の ち 店 頭 と 改 称42
︶は 退 役 が 決 ま る と
︑江 戸期 と同 様に
﹁退 役登
﹂を 行な った
︒そ して
︑店 主か ら家 業元 手 金 目 録
・暖 簾 料・ 風呂 敷 料 が贈 与 さ れ︑ 同時 に 以 後 三年 間
︵実 質 二 年
︶ 准 勤番 とし て勤 務を 継続 する こと が申 渡さ れた
︒准 勤番 の期 間を 満了 す る と﹁ 宿這 入り
﹂と なり
︑店 外に 住居 を定 めて 妻帯 し︑ 改め て勤 番と し て 勤務 する こと が申 付け られ た︒ 明治 初期 には これ らの 段取 りに 多少 の 個 人差 が見 られ るも のの
︑明 治中 期頃 には ほぼ 右の 仕方 に落 ち着 く︒ こ れ ら一 連の 行事 は支 配役 から 番頭
・店 頭と 改称 され た後 も従 前通 り行 な わ れ︑ 処 遇 に も 変 化 は 見 ら れ な い︒ ま た
︑勤 番 は 経 験 年 数 に よ り 准 勤 番
︑勤 番に 分け られ
︑最 も老 練な 一名 を勤 番頭
︵あ るい は勤 番筆 頭︶ と す る格 付 け43
が行 なわ れた
︒ 第3 表は
︑明 治期 の京 都勤 番と 東京 勤番 の名 前を 五年 毎に 示し たも の で ある
︒姓 が記 され てい ない もの は︑ 入店 時の
﹁日 記﹂ が欠 落し てお り 姓 が確 認で きな いも ので ある
︒ま た︑ 別家 には 大黒 屋の 屋号 が許 され た の で︑ 文書 類に は屋 号と 名前 の組 合せ
││ 例え ば︑
﹁ 大四 郎兵 衛﹂
││ で 記 さ れ て い る 場 合 が 多 い︒ よ っ て︑ 以 下 の 勤 番 の 紹 介 に も 念 の た め
︑
﹁別 家
︵大 黒 屋︶ 福原 四 郎 兵衛
﹂と 記 し た︒ な お︑ 整 理 の 都 合 上︑ 勤 番 に は1 17〜 まで の通 し番 号を つけ た︒
杉浦大黒屋における経営幹部の系譜(植田) (969)8
2 明 治期 の京 都勤 番・ 東京 勤番
︽京 都勤 番︵ 整理 番号 1〜 7︶
︾ 明治 期の 京都 店に は常 時三 名の 勤番 が置 かれ た︒ 勤務 形態 は通 年勤 務 で
︑准 勤 番 の 間は 店 内 に居 住 し て業 務 に 携 わり
︑﹁ 宿 這 入り
﹂を 済 ま せ て 勤番 とな ると
︑京 都市 中に 居 住44
して 京都 店へ 日勤 した
︒表 中に 四名 の 時 期が ある のは
︑長 年勤 番を 務め て﹁ 勝手 勤45
﹂ を許 され た者
︑│
│福 原 四 郎兵 衛や 楠田 久兵 衛が 該当
││ も︑ それ まで 同様 に勤 番の 役儀 を務 め た ため であ る︒ 明治 期に は第 3表 に示 した 計七 名が 京都 勤番 を務 めて お り
︑そ れぞ れの 家系 や経 歴を 以下 に説 明す る︒ なお
︑江 戸期 に関 して は 京 店・ 江戸 店︑ 京勤 番・ 江戸 勤番 と記 した
︒ 1
:
別 家︵ 大黒 屋︶ 福原 四郎 兵衛 は大 黒屋 の重 代別 家の 一人 で︑ 明治 期 に 勤番 を務 めた 四郎 兵衛 は三 代目 にあ たる︒初 代四 郎兵 衛は 寛政 八︵ 一 七 九六
︶年
〜文 化二
︵一 八〇 五︶ 年ま で九 年間 京勤 番を 務め
︑在 職中 に 死 亡し た︒ 初代 四郎 兵衛 には 三人 の女 子が あっ たが いず れも 幼少 であ っ た ため
︑大 黒屋 江戸 店の 元奉 公 人46
を入 夫さ せて 四郎 兵衛 名跡 を継 がせ た
︵二 代目
︶︒ 三代 目は 嘉永 三︵ 一八 五〇
︶年 京店 支配 役を 退役 し別 家と な っ た佐 兵衛 に︑ 同四
︵一 八五 一︶ 年四 郎兵 衛家 を相 続さ せ︑ 名を 改め て 三 代 目 四 郎 兵 衛 と し た
︒三 代 目 四 郎 兵 衛 は 京 勤 番︵ 明 治 期 に は 京 都 勤 番
︶を 長年 務め
︑明 治一 三︵ 一八 八〇
︶年 には
﹁勝 手勤
﹂と なり
︑同 一 七 年︵ 一八 八四
︶に 勤番 勤続 の功 によ り賞 を47
受 けて いる
︒同 二四 年︑ 七 四 歳没
︒ 2
:
別 家︵ 大黒 屋︶ 藤原 与惣 兵衛 も重 代別 家の 一人 であ る︒ 表中 の与 惣第3表 明治期の京都勤番・東京勤番
時期 明治5年 同10年 同15年 同20年 京都店 福原四郎兵衛
藤原与惣兵衛 仁右衛門
楠田久兵衛(勤番助役)
福原四郎兵衛 藤原与惣兵衛 楠田久兵衛(番頭を 兼務)
福原四郎兵衛 藤原与惣兵衛 楠田久兵衛 三大寺正八(准)
楠田久兵衛 三大寺正八 藤原清七 東京店 八田作兵衛
新兵衛 友岡小兵衛
八田作兵衛 新兵衛 徳村為七 中村兵七
八田作兵衛 徳村為七(准)
中村兵七【病】
志村太七(准)
伝六(准)
徳村為七 志村太七 徳村定七 伝六(准)
同25年 同30年 同35年 同40年 同45年 楠田久兵衛
三大寺正八 藤原清七 彦七
楠田久兵衛 三大寺正八 藤原清七 彦七
楠田久兵衛 三大寺正八 藤原清七 彦七
楠田久兵衛〔没〕
三大寺正八 藤原清七 彦七
三大寺正八 藤原清七 彦七 志村太七
徳村定七 鏑木斎吉
志村太七 徳村定七 鏑木斎吉 水野栄次郎(准)
志村太七 徳村定七 鏑木斎吉 水野栄次郎
志村太七 徳村定七 鏑木斎吉 水野栄次郎
徳村定七 鏑木斎吉 水野栄次郎
注:表には京都勤番・東京勤番(東京石町店)を掲載し、明治初年にはまだ営業中であった東京本所・
岐阜・大阪の3店舗の勤番については省略した。なお、(准)は准勤番の地位にあることを意味す る。【病】は病気療養中。
同志社商学 第63巻 第5号(2012年3月)
9(968)
兵衛 は三 代 目48
とみ られ
︑安 政元
︵一 八五 四︶ 年に 京店 支配 役を 退役 して 別家 とな り勤 番を 命じ られ た︒ 慶応 元年 には 大黒 屋の 他の 別家 を相 続す る話 が持 ち上 がる が49
︑ これ は取 り止 めと なる
︒明 治一 三︵ 一八 八〇
︶年 六一 歳で
﹁隠 居50
﹂︑ 同二 六年
︑七 四歳 没︒ 3
:
別家︵大 黒屋
︶楠 田久 兵衛 も重 代別 家の 一人 であ る︒ 久兵 衛家 の元 祖 は 祐 清51
とい う 人 物で
︑残 存 文 書52
や﹁ 日 記﹂
︵府 資
︶に 記 さ れ た 久 兵 衛 家 の 家 系 を た ど っ て い く と︑ 表 中 の 久 兵 衛 は 六 代 目 と 見 ら れ る
︒し か し︑ 六代 目は 五代 目の 実子 では なく
︑明 治四
︵一 八七 一︶ 年に 京都 店支 配役 を退 役し て別 家と なっ た清 水定 助が 久兵 衛家 を相 続し
︑名 を改 めた もの であ る︒ 六代 目久 兵衛 も京 都勤 番と して 長年 勤め
︑同 三二
︵一 八九 九︶ 年一 二月 に勤 番二 五年 勤続 の功 によ り賞 を53
受 け︑ さら に同 三五 年一 一月 には
︑商 家店 員奨 励会
︵会 長︑ 内貴 甚三 郎︶ から 職務 に勉 励し 後進 の模 範と すべ き店 員と して 表彰 され た54
︒ 同四
〇年
︑六 四歳 没︒ 4
:
別家︵大 黒屋
︶仁 右衛 門は
︑は じめ 佐治 兵衛 とい い初 代 別55
家と みら れる
︒嘉 永五
︵一 八五 二︶ 年に 岐阜 店支 配役 を退 役し て別 家と なり
︑安 政元
︵一 八五 四︶ 年に 親の 名跡 を継 いで 仁右 衛 門56
と改 名︑ 同年 岐阜 勤番 を命 じら れる
︒そ の後
︑大 坂勤 番を 勤め
︑明 治五
︵一 八七 二︶ 年に は改 めて 京都 勤番 を申 付け られ てい る57
︒ 同一 五年
︑六 三歳 没︒ 5
:
別家︵大 黒屋
︶三 大寺 正八 は幼 名を 徳太 郎と いい
︑入 店年 は不 明だ が慶 応二
︵一 八六 六︶ 年に は小 者徳 太郎 の名 が見 え る58
︒明 治四
︵一 八七 一︶ 年一 月一 六歳 で元 服し て正 八と 改名
︑同 一一
︵一 八七 八︶ 年二 三歳 で京 都店 の支 配役 とな り︑ 同一 三年 一二 月末 二五 歳で 支配 役を 退役 して
別 家 を 許 さ れ た︒ 初 代 別 家 の 正 八 は
︑同 一 四 年 に
﹁准 勤 番 兼 仕 入 方 後 見
︑并
出 役﹂ を 命 ぜ ら れ る
︒同 三 九︵ 一 九
〇 六︶ 年 三 月 五 一 歳 の 時 に
︑勤 番二 五年 勤続 の功 によ り賞 を受 賞︒ 6
:
別 家︵ 大 黒 屋︶ 藤 原 清 七 の 旧 姓 は 西 田︒ 清 七 は 明 治 一 七︵一 八 八 四
︶年 に京 都店 番頭 を退 役し て別 家と なり
︑京 都勤 番藤 原与 惣兵 衛家 に 養 子入 家59
︒ 別家 後は 京都 勤番 を務 め︑ 同四 二︵ 一九
〇九
︶年 に勤 続二 五 年 の賞 を受 賞︒ 7
:
別 家︵ 大 黒 屋︶ 彦 七 は 幼 名 を 辰 二 郎 と い っ た が 姓 は 不 明︒明 治 三
︵一 八 七〇
︶年 の 京 都店 小 者 の中 に 辰 二 郎の 名 が 見え
︑入 店 は 明治 元 年 か 二年 頃と 思わ れ る60
︒同 五年 に半 元服
︑同 六年 に元 服し
︑同 七︵ 一八 七 四
︶年 に彦 七と 名を 改め た︒ 昇進 は順 調で 同一 七︵ 一八 八四
︶年 に京 都 店 店頭 に就 任︒ 同二
〇︵ 一八 八七
︶年 に退 役し て別 家と なり
︑同 二一 年 に 准勤 番を 申渡 され た︒
︽東 京勤 番︵ 整理 番号 8〜 17︶︾ 東京 勤番
︵旧
︑江 戸石 町店 に配 属さ れた 江戸 勤番 に該 当︶ は常 時三
︑ 四 名61
が 置か れ︑ 明治 初期 には 江戸 期と 同様 に半 年交 代62
の 勤務 形態 がと ら れ た︒ しか し︑ 明治 中期 以降 にな ると 東京 店の 重要 度が 高ま り︑ 勤務 形 態 に変 化が 認め られ る63
︒ 明治 期に は第 3表 に示 した 計一
〇名 が勤 番の 職 に 就い た︒ それ らの 面々 につ いて 見て いこ う︒ 8
:
別 家︵ 大黒 屋︶ 八田 作兵 衛は 初代 別家 とみ られ︑万 延〜 文久
︵一 八 六
〇〜 六三
︶の 頃に 江戸 石町 店の 支配 役を 務め
︑維 新前 に支 配役 を退 役 し て別 家と なり
︑勤 番を 命じ られ たと 見ら れる
︒東 京勤 番筆 頭と して 在
杉浦大黒屋における経営幹部の系譜(植田) (967)10
職中 の明 治一 九︵ 一八 八六
︶年
︑六 三歳 で病 没︒ 9
:
別家︵大 黒屋
︶新 兵衛 は︑ 元治 元︵ 一八 六四
︶年 頃に 江戸 石町 店支 配役 を退 役し て別 家と なり
︑以 後石 町店 勤番 を務 めた
︒ 10
:
別家
︵大 黒屋
︶友 岡小 兵衛 は重 代別 家の 一人 で︑ 表中 の小 兵衛 は二 代目 にあ たる
︒初 代小 兵衛 は天 保元
︵一 八三
〇︶ 年に 江戸 石町 店支 配役 を 退 役 し て 別 家 と な り︑ 同 三 年 に 江 戸 石 町 店 の 勤 番 を
︑ま た 嘉 永 五 年
︵ 一 八 五 二︶ か ら は 京 店 勤 番 を 務 め︑ 安 政 元
︵一 八 五 四
︶年 に
﹁隠 居﹂ を申 付け られ た︒ 二代 目小 兵衛 は初 代小 兵衛 の忰 で︑ 江戸 店で 奉公 して いた 新八 が名 を改 めた もの であ る︒ 新八 の支 配役 退役 時期 は﹁ 日記
﹂の 欠落 時期 に当 るた め不 明で ある が64
︑ 明治 四︵ 一八 七一
︶年 の史 料65
に は大
︵ 大 黒屋
︶新 八 の 名が 見 え るこ と か ら︑ 退 役時 期 は 慶応
〜明 治 初 頭の 頃 と 考 えら れ る︒ 明 治五 年 に は小 兵 衛 と 名を 改 め66
る が︑ 同 九︵ 一 八 七 六︶ 年に は病 気を 患い
︑同 年一 二月 二八 日病 没︒ 11
:
別家
︵大 黒屋
︶徳 村為 七は 重代 別家 の二 代目 であ る︒ 為七 の父 初代 徳村 金右 衛門 は初 代別 家と して 天保 末年
〜嘉 永期 に京 勤番 を務 め︑ 嘉永 二︵ 一八 四九
︶年 には
﹁勝 手勤
﹂を 許さ れる が同 五︵ 一八 五二
︶年 に病 没し た︒ 在職 中の 勤 功67
が顕 著で あっ たこ とか ら︑ 嘉永 五年 の杉 浦家 恒例 の年 末仏 参で は大 黒屋 当主 が異 例の 供養 を行 なっ てい る︒ 息子 の徳 村為 七 は 明 治 五︵ 一 八 七 二︶ 年 に 東 京 石 町 店 の 支 配 役 を 退 役 し て 別 家 と な り︑ 同一 五︵ 一八 八二
︶年 から 東京 店准 勤番 を務 めて いる
︒ 12
:
別家
︵大 黒屋
︶中 村兵 七は
︑重 代別 家大 黒屋 兵助 家の 四代 目に 当た る︒ 二代 目兵 助は 享和 三︵ 一八
〇三
︶年
〜天 保初 年の 長き にわ たり 京勤
番 を 務 め た 功 績 の あ る 人 物 で︑ 天 保 六
︵一 八 三 五
︶年 兵 助 七
〇 歳 の 時
﹁国 隠 居68
﹂ を願 い 出 て許 さ れ た︒ 兵助 家 の 相 続は
︑二 代 目 の継 嗣 兵 七 が 天 保五
︵一 八三 四︶ 年に 病死 した ため
︑同 年春 に江 戸石 町店 支配 役を 退 役 した 伝右 衛門 を養 子入 家さ せ︑ 兵助 と名 を改 めて 三代 目と した
︒表 中 の 中村 兵七 は三 代目 兵助 の長 男で
︑明 治八
︵一 八七 五︶ 年東 京石 町店 支 配 役を 退役 し︑ 同一 四︵ 一八 八一
︶年 から 東京 店助 勤番
︵
=
准勤 番︶ を 務 めた︒し かし
︑同 一五 年九 月︑ 病気 のた め役 を退 いた と見 られ る︒ 13
:
別 家︵ 大黒 屋︶ 志村 太七 は︑ 重代 別家 大黒 屋太 兵衛 の忰 であ る︒ 初 代 と見 られ る人 物は 寛政 九︵ 一七 九七
︶年 に亡 くな って おり
︑太 七が 何 代 目に あた るの かは はっ きり しな い︒ 太七 は明 治一 一︵ 一八 七八
︶年 東 京 石 町 店 支配 役 を 退 役 し
︑別 家 後 は 同 一 五 年 か ら 東 京 店 准 勤 番 を 務 め た
︒ 14
:
別 家︵ 大黒 屋︶ 伝六 は明 治一 四︵ 一八 八一
︶年 暮限 りで 東京 店支 配 役 を退 役し
︑同 一五 年に 別家 とな り東 京店 詰准 勤番 役を 命じ られ る︒ 同 二 一︵ 一八 八八
︶年 一二 月に 脳膜 炎急 症の ため 死去
︒ 15
:
別 家︵ 大黒 屋︶ 徳村 定七 は前 出の 徳村 為七 の甥 であ る︒ 定七 は明 治 一 八︵ 一八 八五
︶年 東京 店店 頭を 退役 して 別家 とな り︑ 勤番 を命 じら れ た
︒同 四三 年︵ 一九 一〇
︶︑ 勤 番二 五年 勤続 の賞 を受 賞︒ 16
:
別 家︵ 大黒 屋︶ 鏑木 才吉
︵斎 吉︶ は初 代別 家と 見ら れる
︒入 店年 は 不 明だ が︑ 明治 六︵ 一八 七三
︶年 の京 都店 小者 の中 に才 吉の 名が 確認 で き る69
︒ 同 八 年 五 月 に は 東 京 店 へ 配 置 替 え と な り︑ 同 一 四 年 四 月 に﹁ 初 登
﹂を 済ま せ︑ 同一 九︵ 一八 八六
︶年 末に は東 京店 店頭 に就 任す る︒ 同
同志社商学 第63巻 第5号(2012年3月)
11(966)
二五 年に は東 京勤 番に 名を 連ね てい るこ とか ら︑ 退役 時期 は﹁ 日記
﹂の 欠落 して いる 同二 三年
︑も しく は二 四年 の下 半季
︵七
〜一 二月
︶と 考え られ る︒ 才吉
︵斎 吉︶ は︑ のち に才 吉郎
︵斎 吉郎
︶と 名乗 る︒ 17
:
別家
︵大 黒屋
︶水 野栄 次郎 は︑ 大黒 屋一
〇代 利挙 の代 にな って 最初 の別 家で
︑初 代別 家と 見ら れる
︒入 店年 は不 明だ が︑ 入店 後の 配属 先は 東京 店で あっ た︒ 明治 一八
︵一 八八 五︶ 年四 月に
﹁初 登﹂ を済 ませ
︑同 二五 年頃
︑鏑 木才 吉郎 の後 任と して 東京 店店 頭に 就任
︒同 三〇
︵一 八九 七︶ 年三 月東 京店 店頭 を退 役し て別 家と なり
︑勤 番を 命ぜ られ た︒ のち に栄 三郎 と名 を改 める
︒受 賞歴 あり
︒ 明 治期 の京 都勤 番・ 東京 勤番 の家 系や 経歴 から は︑ 次の よう な勤 番の 登用 の特 色が 見え てく る︒ 第 一に
︑支 配役
︵番 頭︑ 店頭
︶退 役者 を勤 番に 任命 した 経験 重視 の実 務型 の配 置︒ 第二 に︑ 規定 の昇 進経 路を 経た 者の みを 勤番 に登 用す る店 員評 価の 公平 性と 能力 主義
︒第 三に
︑血 統に 固執 せず
︑家 名の 存続 を第 一と した 勤番 の相 続方 法︒ 第四 は勤 番の 格付 けが あげ られ
︑特 に明 治期 には
︑准 勤番
↓宿 這入 り70
↓ 勤番 と段 階を 踏ま せる こと で昇 格の 意味 付け が強 めら れた よう に思 われ る︒ 第四 は勤 続年 数︵ 在職 期間
︶の 長さ があ げら れる
︒明 治期 には 産業 の簇 出に 伴う 雇用 機会 の増 大を 背景 に︑ 職場 移動 を防 ぐ意 味で も長 期勤 続が 勧奨 され たと 見ら れ︑ 明治 前期 の大 黒屋 で勤 番二 五年 勤続 の賞 が設 けら れた のも
︑長 年の 勤功 を労 う意 とと もに 長期 勤続 を勧 奨す る目 的が あっ たと 見ら れる
︒ 以 上︑ 明治 期の 勤番 には
︑Ⅱ 章3 節に 示し た江 戸期 の勤 番の 登用 方針
や 処遇 と共 通す る部 分が 多く
︑基 本的 には 江戸 期の 仕法 が踏 襲さ れた も の と見 られ る︒ それ に加 えて 明治 期に は︑ 当時 の社 会状 況や 雇用 事情 を 勘 案し た配 慮も なさ れた こと が窺 える
︒ では
︑大 黒屋 の経 営幹 部で ある 勤番 は︑ 具体 的に どの よう な役 割を 職 務 とし てい たの であ ろう か︒ 江戸 期に おけ る勤 番の 全般 的な 職務 内容 につ いて はす でに 別 稿71
で述 べ た が︑ 勤番 の職 務を 社会 状況 や経 済状 況の 異な る明 治・ 大正 期と 比較 す る こと はな かな か難 しい
︒そ こで 次で は︑ 江戸
・明 治・ 大正 期に 毎年 定 期 的に 実施 され た店 内重 要行 事の
﹁勘 定﹂ を取 り上 げて
︑勤 番の 経営
・ 管 理業 務へ の関 与や その 変化 につ いて 観察 して みた い︒
Ⅳ 店 内 重 要行 事 に おけ る 勤 番の 役 割 1
経 営関 連の 職務 ここ では 本店 であ る京 店詰 めの 京勤 番が 担当 した 経営 や管 理に 関わ る 職 務を 取り 上げ る︒ それ らは 次の よう に分 類で きる
︒
① 経営
・管 理業 務︵ 経営 方針 や経 営戦 略の 策定
︑重 要案 件の 協議 と その 処理
︑大 黒屋 全店 の統 轄・ 管理 など
︶
② 会 計 管理
︵﹁ 勘 定﹂ や﹁ 金 銀銭 改 め﹂ の 立 会 い︑ 褒 美 金 の 授 与 へ の立 会い など
︶︒
③ 人事 管理
︵店 員の 採用 や解 雇の 決定
︑役 替え
︑規 則違 反や 不正 の
杉浦大黒屋における経営幹部の系譜(植田) (965)12
吟 味と 処罰 の決 定な ど︶
④ 仕 入管 理︵ 商品 の吟 味︑ 仕入 の監 督︶
⑤ そ の他
︵自 分家 業を 営む 別家
・分 家の
﹁勘 定﹂ の監 査︑ 経営 や家 政 管理 に問 題の ある 別家
・分 家・ 親戚 など の指 導・ 管理
︶ そ
れ ぞ れ に つ い て 若 干 の 説 明 を 加 え て お く と
︑① の 経 営・ 管 理 業 務 は︑ 日常 的業 務と して 店舗 の管 理・ 監督
︒そ れ以 外に
︑そ の時 々の 重要 案件 に対 して 店主
・分 家杉 浦次 郎右 衛門
・京 勤番 が協 議し
︑案 件に よっ ては 江戸
・大 坂・ 岐阜 勤番 や京 店支 配役 など も交 えて 合議 の上
︑処 理し た︒
②の 会計 管理 は︑ 大黒 屋京 本店 で行 なわ れた
﹁勘 定﹂ や﹁ 金銀 銭改 め﹂ など への 立会 いが 最も 大切 な役 目で ある
︒③ の人 事管 理は
︑奉 公人 の入 退店 の決 定︑ 規律 違反 や不 正を 働い た奉 公人 に対 する 違反 内容 の吟 味 お よ び
︑説 諭
・訓 戒
︑そ し て
︑処 分 内 容 の 検 討 と そ の 決 定 を 担 当 し た︒
④の 仕 入 管 理は
︑﹁ 仕 入 方吟 味 役﹂ と して 仕 入 商 品の 鑑 別
・検 査 に あた った もの で︑ これ も勤 番が 豊富 な実 務経 験を 有す るが ゆえ の役 目で ある
︒⑤ のそ の他 の職 務と して は︑ 別家 の家 業経 営者 およ び︑ 経営 状態 に問 題を 生じ た杉 浦家 の分 家や 親戚 の家 業経 営者 に対 して
﹁勘 定﹂ の提 出を 義務 付け
︑そ の監 査を 行な い︑ あわ せて 経営 面や 家政 管理 面で の助 言・ 指導 を行 なっ た︒ 右 の職 務内 容は
︑京 勤番 が大 黒屋 の最 高経 営幹 部の 立場 にあ った こと を示 して いる
︒ 次 に︑
②の 会計 管理 業務 のう ち︑ 毎年 定期 的に 実施 され た店 内最 重要
行 事の
﹁勘 定﹂ に着 目し
︑京 勤番
︵京 都勤 番︶ の役 割や 地位 が︑ 江戸
・ 明 治・ 大正 期へ と︑ どの よう に変 化し てい った のか 見て いこ う︒ 2
店 内重 要行 事﹁ 勘定
﹂
︽江 戸期
︾ 江 戸 期の 大 黒 屋京 店 で 毎 年 定 期 に 行 わ れ た 経 営 に 関 わ る 店 内 行 事 に は
︑一 月 四 日 と七 月 一 七日 に 行 われ た
﹁店 卸
﹂︑ 二 月一 日 と 八月 一 日 に 行 われ た﹁ 金銀 銭改 め72
﹂ など があ る︒ しか し︑ 何と いっ ても 最重 要行 事 は
︑毎 年半 季毎 に行 われ た﹁ 勘定
﹂で ある
︒
﹁ 勘 定﹂ とは 大 黒 屋各 店 の 営業 状 況 を 本店 に 報 告さ せ た もの で
︑各 店 で は勤 番立 会い のも とに 決算 報告 書で ある
﹁店 目録
﹂が 作成 され
︑京 店
︵本 店
︶へ 提 出さ れ た︒ こ れは 店 舗 の所 有 者 で ある 店 主 と︑ 日常 の 店 舗 業 務を 任さ れた 支配 役お よび
︑そ れを 管理
・監 督し た勤 番︑ つま り所 有 と 経営 が分 離し たた め︑ 経営 者は 所有 者に 対し て経 営状 況を 報告 する 必 要 が生 じた もの で︑ いわ ば商 家の 経営 委任 制を 象徴 する 行事 の一 つで あ っ た︒ 京 店・ 江 戸
︵石 町・ 本 所
︶・ 岐 阜・ 大 坂 の 五 店 舗 を 有 し た 大 黒 屋 で は
︑各 店で 店目 録が 作成 され て京 本店 に到 着す るま でに 日数 がか かり
︑ す べて の﹁ 勘定
﹂が 終了 する まで には 約二 カ月 余を 要し た︒ 第4 表は 江 戸 期の
﹁勘 定﹂ の日 程を 示し たも ので ある
︒な お︑ 表中 に示 して いな い 岐 阜店 と大 坂店 に関 して は︑ 江戸 店か らの 店目 録73
の 到着 前後 に︑ 両店 の 支 配役 もし くは 勤番 が京 店に 持ち 登っ た︒
同志社商学 第63巻 第5号(2012年3月)
13(964)
京 店で の﹁ 勘定
﹂に は︑ 店主 杉浦 三郎 兵衛
・分 家杉 浦次 郎右 衛門
・京 勤 番 が京 店 の﹁ 店 目録
﹂︵ 決 算 報告 書
︶の 作 成 に立 会 い
︑さ ら に
︑大 黒 屋五 店舗 の﹁ 店目 録﹂ の監 査が 行な われ た︒ すべ てが 終了 する と﹁ 店目 録披 露﹂ が行 われ
︑そ して
︑﹁ 店 帳祝
︵
=
店帳 振舞・店 帳披 露祝
︶﹂ が催 さ れ た︒
﹁店 卸
﹂や
﹁金 銀 銭改 め
﹂が 毎 年定 日 に 実 施さ れ た の に 対 し︑
﹁ 勘 定﹂ に関 わ る 行事 は 二 月・ 八月 頃 か ら 一︑ 二ヶ 月 の 間に 適 宜 行な わ れ︑ 立会 人の 都合
︵病 気・ 仏事 など
︶や 目録 の遅 延な どの ため 延引 され るこ とも 珍し くな かっ た︒
︽明 治期
︾ 明 治 期 の
﹁店 卸
﹂は 一 月 四 日 と 七 月 一 七 日 に︑
﹁金 銭 改 め
﹂
︵江 戸 期 の﹁ 金銀 銭 改 め﹂ を改 称
︶は 二 月一 日 と 八 月 一 日 の 両 日 に 行 わ れ て お り︑ 実 施 時 期 は 江 戸 期 と 同 じ で あ る
︒﹁ 勘 定
﹂ の 日程
︵第 5表
︶も
︑ほ ぼ江 戸期 の仕 来り を引 き継 いだ もの と な っ て い る︒ ただ
︑明 治 中 期以 降 に は︑
﹁ 勘 定﹂ に 関 し て 二 つ の 変化 が見 られ た︒ その 第一 は︑ 従来
︑東 京店 勘定 目録 は東 京勤 番が 京都 店に 持 参 して 京都 店で
﹁勘 定﹂ を行 って いた ので ある が︑ 明治 二五 年 下 半季 から はそ れを 止め て︑ 京都 勤番 筆頭 が直 接東 京店 に出 向 い て﹁ 勘定
﹂に 立会 う方 法に 変更 され た︒ この 改正 が行 なわ れ
ちょ う あ い
た 原 因 は︑ 東 京店 勤 番 筆頭 に よ る﹁ 勘定 帳合 不 取 締﹂ の 不 始 末 があ った ため で︑ 東京 勤番 筆頭 の為 七は 謹慎 処分 を受 け︑ 謝 罪 の末 に赦 免と はな るが 勤番 役を 罷免 され た74
︒ これ 以降 の﹁ 勘定
﹂は
︑ 前 半季 を例 にと って 説明 する と︑ それ まで は二 月中 旬に 京都 店︑ 三月 下 旬 に東 京店 と二 回に 分け て行 われ てい た﹁ 勘定
﹂は
︑一 月下 旬〜 二月 上 旬 頃に 京都 勤番 筆頭 が東 上し て東 京店 の﹁ 勘定
﹂に 立会 い︑ 京都 勤番 筆 頭 が京 都店 に帰 店後
︑京 都店 にお いて 京都 店分 と東 京店 分が 一括 処理 さ れ るよ うに なっ た︵ 第6 表参 照︶
︒ 第二 の変 更は
︑明 治四 四年 下半 季か ら京 都店 での
﹁勘 定﹂ に︑ 東京 勤 番 二名 の立 会い が始 まっ たこ とが あげ られ る︒ それ まで 京都 店で の﹁ 勘 定
﹂に 立会 うの は京 都勤 番に 限ら れて いた から
︑こ の変 更は 販売 店で あ
第4表 京店での勘定の日程(江戸期)
《前半季》 《後半季》 行事の内容
1月末日 7月末日 勘定
2月初旬 8月初旬 諸帳押合
2月中旬 8月中旬 店惣勘定寄(奥勘定)
3月中旬 9月中下旬 江戸店勘定目録到着 3月下旬 9月下旬 江戸店目録引合(本勘定)
第5表 京都店での勘定の日程(明治期;25年前半季まで)
《前半季》 《後半季》 行事の内容
1月末日 7月末日 勘定
2月初旬 8月初旬 諸帳面押合
2月中旬 8月中旬 店奥勘定
3月中旬 9月下旬 東京店勘定書到着 3月下旬 10月初旬 東京店勘定目録引合
第6表 京都店での勘定の日程(明治期;25年下半季以降)
《前半季》 《下半季》 行事の内容
1月末日 7月末日 勘定
1月下旬〜
2月上旬頃
9月中旬〜
10月中旬頃
京都勤番筆頭が東京店勘定 立会のため東上
2月初旬 8月初旬 諸帳面押合
3月中旬頃 9月中旬 京都・東京両店勘定引合 杉浦大黒屋における経営幹部の系譜(植田) (963)14