大坂干鰯屋近江屋市兵衛の経営(2)
著者
白川部 達夫
雑誌名
東洋大学文学部紀要. 史学科篇 = Bulletin of
Toyo University, Department of History, the
Faculty of Literature
号
40
ページ
111-129
発行年
2014
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00006997/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja一一一 大坂干鰯屋近江屋市兵衛の経営(二)
はじめに
近江屋市兵衛家は、文政末年から天保初年に本家近江屋長兵衛家から分家して、干鰯屋仲間の古組(問屋組)に属し た干鰯屋であった。同家の文政・天保期の経営については前稿で検討し た )( ( 。ここでは続いて、安政・文久期の経営につ いて分析す る )( ( 。 近江屋市兵衛家は、天保末年に当主の死去で、残された幼少の姉弟は本家に引き取られて養育されることになり、商 売は断絶した。市兵衛家が再興されるのは安政二年(一八五五)のことであった。以下、再興の事情から検討を始める こととする。大坂干鰯屋近江屋市兵衛の経営(二)
白川部
達
夫
一一二
一
近江屋市兵衛家の再興
近江屋市兵衛家の再興にあたって、本家と取り交わされた証文をまず検討しよ う )( ( 。 ① 証 一 、 分家市兵衛死跡遺書之廉ヲ以、 文并市蔵幼少ニ付、 本家引取養育、 既ニ昨年元服為致候ニ付、 改分家為致度処、 近来改革訳柄在之、 旁々相送り候、 此度何呉と市蔵事先代市兵衛家名相続ニ付、 当月廿五日幸ひ宜敷日柄表札懸、 本人自宅為引取可申候、尤元手銀之義一同ニ取揃遣シ可申処、前書之通即 斉 (カ) 難差遣義、先方ニも承知候へは、兼 て頼入候廉も在之故 、 銀子調達出来候ハヽ、其内ヲ以当時銀五貫目差遣シ、余ハ本分之間柄ニ付、 敢 (カ) 捨置候訳柄 無之、前書之通、其元殿取扱約定致候事、異変無之候、仍て如件、 安政弐卯歳 名 正月廿二日 □□ 名 太右衛門殿 ② 近江屋市兵衛二子一件為取替之写 証 一 、 文 ・ 市蔵死跡後、 姉弟共本家之御養育預り成長致、 既ニ市蔵事昨年元服、 此度速ニ分家被成下候段、 御取扱被下、一一三 大坂干鰯屋近江屋市兵衛の経営(二) 尚文事縁談ニ付於本家不一形成御世話被下、 文事何れへ縁談相極り候共、 私方ハ本家へ人別寺送り等差送り候間、 御趣意御取計被下度、同人事ニ付彼是等一切申間敷候、尤同町同寺候故、今日ニても寺送り人別等御勝手御引取 被成、此度其元取扱ヲ以前書之。通約定致置、異変無之為後日仍て如件 安政弐卯 まつ 正月 伊太郎 印 太右衛門殿 ① は近江屋市兵衛家の再興についての一札である。本家に養育されていた市蔵が前年元服して市兵衛家を継ぐこと、 正月二五日が日柄がよいので表札を出して、自宅へ移ったことが確認された。また元手銀が渡される筈であったが、本 家が不振のため、まず銀五貫目を渡し、残りは本分の間柄なので、必ず渡すと約束されている。別の下書きによると差 し 出 し 者 は「 長 」「 栄 」 と あ る )( ( 。 近 江 屋 長 兵 衛 と 稲 葉 屋 栄 蔵 の こ と で あ ろ う。 稲 葉 屋 栄 蔵 は、 近 江 屋 で 干 鰯 屋 に 進 出 し た長兵衛(道順)の子供で、干鰯屋であった稲葉屋の株を買って名跡を継承していた。初代市兵衛(宗順)の兄弟にあ たり、安政五年(一八五八)に死去したとされ る )( ( 。 ②は市蔵の姉文の縁談を本家が世話して進めることについて、母まつが異論のない旨出した一札である。 母 ま つ は、 嘉 永 四 年( 一 八 五 一 ) に 子 供 二 人 の こ と で、 「 自 分 勝 手 申 募 り、 長 々 御 心 配 相 掛 ケ 」 た と し て、 近 江 屋 長 兵 衛 と 稲 葉 屋 栄 蔵 に 詫 び、 「 御 親 類 中 御 取 極 儀 御 座 候 ハ ヽ」 子 供 両 人 の こ と を 万 事 頼 む と 一 札 を 出 し て い る )( ( 。 市 兵 衛 家 の再興をめぐり、この頃から、生母と本家の間に行き違いがあったのであろう。母まつにとっては、待望の市兵衛家の
一一四 再興であったわけである。 ところで近江屋長兵衛家の記録によれば、干鰯屋を開業した長兵衛(道順)の子供であった初代市兵衛(宗順)は天 保九年(一八三八)に亡くなってい る )( ( 。その後、二代市兵衛が継いだが、天保一三年頃に亡くなり、近江屋市兵衛家は 中絶を余儀なくされたと考えられる。 天 保 一 三 年 頃 と い う の は、 市 兵 衛 が「 御 二 家 」 へ 宛 て た「 預 り 物 」 の 一 札 に、 「 壬 寅 四 月 」 と い う 干 支 が あ る こ と か ら推定したものであ る )( ( 。一札には「病中」の文言や「妻お松分預り」銀の項目があるので、市兵衛は自分の死後の処理 のために、この一札を作成したことがわかる。現存する近江屋市兵衛家文書も天保一四年(一八四三)を最後に安政二 年(一八五五)まで断絶が見られるので、二代目市兵衛の死は、天保一三年(壬寅)ないし天保一四年(一八四三)と 見るのが妥当であろう。 安政二年(一八五五)に市兵衛家を再興した市蔵は、その前年に元服したとある。明治時代になって大阪商工会議所 会 頭 に な る 近 江 屋・ 田 中 市 兵 衛 は 天 保 九 年( 一 八 三 八 ) 生 ま れ と さ れ る の で、 年 頃 か ら い っ て、 こ の 市 蔵 が 後 の 市 兵 衛 で あ っ た と 見 ら れ る )( ( 。 市 蔵 が 天 保 九 年( 一 八 三 八 ) に 二 代 目 市 兵 衛 と ま つ と の 間 に 生 ま れ た と す れ ば、 天 保 一 三 年 (一八四二) には四歳であり、 安政二年 (一八五五) には一八歳となる。少し遅めの元服は、 本家に預けられていたことと、 元服させれば分家再興の必要があり、商売の訓練の進み具合、当時本家長兵衛家が不振で再興資金の調達が困難だった ことなどの障害があったためであろう。母まつと本家長兵衛との行き違いも、この辺の事情であったと考えられる。二 代目市兵衛はまつに自分の死後、本家に幼少の子供二人を預け、実家に帰るように遺言していた。また市兵衛家の再興 のために、資金となるもの五一品をまつの実家錫屋へ預かることを命じていた。このことは後日、本家との間で問題に なり、まつはその品を本家へ引き渡してい る )(1 ( 。こうした事実もあって、まつは市兵衛家の再興を本家に要請していたも
一一五 大坂干鰯屋近江屋市兵衛の経営(二) のと思われる。 以上、市兵衛家再興のいきさつについて、やや詳しく説明した。明治になって大阪経済界のリーダーとして活躍した 近江屋 ・ 田中市兵衛が天保九年生まれで、 明治元年 (一八六八) に家業を継いだという所伝もある が )(( ( 、安政二年 (一八五五) に同家を再興した市蔵が、後の田中市兵衛であり、したがって明治元年(一八六八)に家業を継いだとするのは誤伝で あったことがわかる。なお市蔵は、文久元年(一八六一)の干鰯屋仲間書き上げには、近江屋市兵衛と名乗っているの で、この頃には襲名したようであ る )(1 ( 。
二
安政・文久期の干鰯買付
近江屋市兵衛店は、安政二年(一八五五)に家業を再開した。安政二年の文書も若干残されているが、まだ整ったも のではなく、 分析がむずかしい面がある。ことに買付状況を示すものは少なく、 安政 ・ 文久期では、 文久二年(一八六二) の「 干 鰯 買 日 記 」 と 安 政 六 年( 一 八 五 九 )「 買 付 帳 」 だ け で あ る )(1 ( 。 そ こ で こ こ で は 両 者 を 分 析 し て、 再 興 期 の 市 兵 衛 家 の動向を検討する。 文久二年(一八六二)の「干鰯買日記」を分析したものを表1に示した。この買日記は、大坂とその周辺での買い付 けを記録したものであり、江戸との取引は買付帳に記録された。したがって当該年の買い付けの全体を示すものではな いが、後で分析する買付帳もあるので、大体の様子は把握できる。 ま ず 総 額 は、 銀 七 一 四 貫 匁 余 の 買 付 額 と な っ て い る。 天 保 元 年( 一 八 三 〇 ) の 買 付 額 は 銀 七 五 一 貫 匁 余、 天 保 二 年一一六 表1 文久2年の仕入れ状況 場所 仲間 品目 俵 重量(貫) 代銀(匁) % 大坂 干鰯屋 干鰯 ((( (,((( ((.( 〆粕 ((( ((,((( (0(,((( 鯡粕 (,(0( ((,((( 羽鯡 (,((( (,((( 鱒粕 数子 その他 (( ((,((( (0,((( 小計 (((,((( 松前組 〆粕 ((,0(0 ((,((( (( 鯡粕 ((,((( (((,((( 羽鯡 ((( (,0(0 鱒粕 数子 ((( (,((( 玉粕 その他 ((,(0( (((,((( 小計 (((,((( 大坂周辺 (兵庫・泉州・紀州) 干鰯 (.( 〆粕 (,((( ((,((( 鯡粕 羽鯡 鱒粕 玉粕 その他 小計 ((,((( 不明 干鰯 (.( 〆粕 鯡粕 (,((( (0,(0( 羽鯡 ((( (,((0 鱒粕 (0( (,((( 白子 (( (,0(0 数子 (0( (,((( その他 (,((( ((,0(( 小計 ((,((( 小計 干鰯 ((( (,((( ( 〆粕 ((( ((,((( (((,((( ((.( 鯡粕 ((,((( (0(,((( ((.( 羽鯡 (,((( ((,((( (.( 鱒粕 (0( (,((( 0.( 白子 (( (,0(0 0.( 数子 (,((( (,((( 0.( 玉粕 その他 (( ((,((( (((,((( ((.( 合計 (((,0(( (00 出典:東洋大学井上円了記念博物館所管:近江屋市兵衛家文書、4(番。 注:干鰯屋・その他の目刺((束、不明の白子は((丸の単位である。
一一七 大坂干鰯屋近江屋市兵衛の経営(二) ( 一 八 三 一 ) は 銀 八 二 五 貫 匁 余 で あ る の で )(4 ( 、 名 目 上 は 一 定 の 回 復 を 示 し た と い え る。 た だ こ の 間 の 魚 肥 価 格 の 上 昇 が あ るので一概にはいえない。鯡粕について見ると、文久二年(一八六二)には銀二〇九貫匁余で買付重量は四万一四四四 貫目であるが、天保二年には銀一四九貫匁で重量七 万 一五七二貫目となっている。文久二年(一八六二)には鯡粕一〇 貫目が平均銀五〇 ・ 六匁の価格になっているが、 天保二年 (一八三一) では銀二〇 ・ 九匁であったので、 この間に価格が二 ・ 四倍も上昇しているのである。したがって銀額では名目上回復を示したものの、魚肥の価格上昇もあり実際の取引重量 では、半分程度の回復と考えられる。 買付品の構成では、鰯〆粕(以下、〆粕は鰯についてだけをいうことにする)が二六 ・ 八パーセント、鯡粕が二九 ・ 四 パ ー セ ン ト、 そ の 他 が 三 八 ・ 九 パ ー セ ン ト と な っ て い る。 そ の 他 が 高 い 比 重 を 占 め て い る の は、 産 地 名 だ け で 〆 粕、 鯡 粕いずれもと判断が付かないものが多数入っているからである。タルマイ・厚田・マシケ・ヲショロ・ネモロ・南部粕 といったものである。蝦夷地では鯡粕だけでなく、鰯〆粕も生産されたので、地名だけでは判断ができない。この点を 踏まえると、〆粕と鯡粕で大半を占めたとすることはできよう。ここには干鰯は現れないが、これも江戸問屋から相当 量が買い付けられたことは後に検討する。 買 付 先 に つ い て み る と、 大 坂 の 干 鰯 屋 か ら の 買 付 銀 高 は 三 一 ・ 三 パ ー セ ン ト、 松 前 問 屋 か ら は 五 五 パ ー セ ン ト、 大 坂 周辺では兵庫から四 ・ 六パーセント、不明が九 ・ 一パーセントとなっている。不明には、大和屋仁三郎・鷲屋与兵衛・飴 屋徳兵衛・兵庫屋六左衛門・阿波屋金兵衛・油屋喜右衛門・佃利(佃屋利兵衛カ)など干鰯屋仲間や松前問屋によく見 ら れ る 屋 号 を 持 つ も の が 多 く、 仲 間 帳 な ど で 確 認 で き な い も の の、 名 義 変 更 か そ の 関 係 者 で あ っ た と 見 ら れ る。 し た がって例外的に兵庫から買い付けることはあったものの、ほとんど大坂の干鰯屋や松前問屋から仕入れていたことがわ か る )(1 ( 。天保初年には、紀州などから積極的に仕入れることがあったが、中絶後はそうした広がりはもつことができてい
一一八 ない。再興後日が浅いので、大坂干鰯屋仲間の与えられた枠組みのなかでの 買い付けが中心にならざるを得なかったのであろう。そのため大坂での買い 付けの比重が天保二年(一八三一)より高くなっているが、なかでも松前問 屋 の 比 重 が 天 保 二 年( 一 八 三 一 ) に 二 五 ・ 二 パ ー セ ン ト だ っ た の が、 文 久 二 年(一八六二)では五五パーセントと倍以上になっている。蝦夷地産品の流 入が増加しているためであろう。いっぽうで大坂干鰯屋による靫市場での取 引 は 天 保 二 年( 一 八 三 一 ) が 二 一 ・ 一 パ ー セ ン ト だ っ た の で、 一 〇 パ ー セ ン ト程度しか伸びなかった。 内容を見ると、靫市場は〆粕が中心で、松前問屋からは鯡粕を中心に買い 付けている。ただ干鰯屋仲間が靫市場で売買する〆粕も静内鰯粕など蝦夷地 産のものが半数程度占めるようになっている。もっとも近江屋は江戸干鰯問 屋からも干鰯・〆粕は買い入れていたので、関東産の干鰯・〆粕を靫市場か ら調達する必要はあまりなかったともいえる。ほかでは佐伯・宇和粕などが あった。 松前問屋からは、当然、蝦夷産品を買い付けることになるので鯡粕が中心 である。〆粕もあるが、これは単位が蝦夷地産で見られる本であり、同地産 であったと考えられる。近江屋惣七・同熊蔵・飴屋惣七・布屋和助・昆布屋 伊兵衛などから買い付けているが、近江屋惣七・同熊蔵からの買い付けが中 表2 江戸・浦賀問屋からの仕入れ 所属 屋号・名前 俵数安政(年代銀(匁) 俵数万延元年代銀(匁) 俵数文久元年代銀(匁) 銚子場組 和泉屋三郎兵衛十一屋藤蔵 (((((( (0,(((((,((( (0((((0 (0,((((,0(( ((( ((,((( 元場組 喜多村富之助 ((0 ((,((( ((( ((,0(( (((( ((,((( 東浦賀 宮原屋治兵衛宮原屋与右衛門 (((((( (,((((,((( 合計 (((( ((,((( (0(0 ((,(00 (0(0 (0(,((( 出典: 東洋大学井上円了記念博物館所管・近江屋市兵衛家文書、安政(年正月「買付帳」 (((番)。干鰯問屋の所属は江戸は、原直史『日本近世の地域と流通』(山川出版 社、((((年)表((。浦賀は横須賀市編『新横須賀市史』資料編近世1、(横須賀 市、(00(年)(((~(((頁。 注: 代銀はその年の大坂相場で両建てから銀立てへ換算した。岩橋勝「近世米価・貨 幣相場一覧」(『日本歴史大辞典』4、小学館、(00(年)にしたがった。
一一九 大坂干鰯屋近江屋市兵衛の経営(二) 心であった。 大 坂 周 辺 で は、 兵 庫 の 魚 屋 惣 左 衛 門 か ら 南 部 中 羽 粕 が 買 い 付 け ら れ た。 同 人 は、 嘉 永 三 年( 一 八 五 〇 ) の 兵 庫 津 の 粥 施 行 記 録 で あ る「 補 助 簿 」 に 宮 前 町 居 住 で 名 前 が あ る が )(1 ( 、 明 治 三 年( 一 八 七 〇 ) の 兵 庫 干 鰯 屋 仲 間 の 名 簿「 戎 講 印 形 帳 」 に は 見 え な い )(1 ( 。 正 規 の 干 鰯 屋 仲 間 で は な か っ た の か も 知 れ な い。 大 坂 湾 岸 地 域 か ら の 仕 入 れ は、 こ れ 以 外 な かったので、 この時期は例外的なものであったようである。 つ ぎ に 江 戸・ 浦 賀 問 屋 か ら の 干 鰯 の 買 い 付 け に つ い て 見 てみよう。その状況を表2に示した。安政六年(一八五九) か ら 文 久 元 年( 一 八 六 一 ) ま で 連 続 す る 三 年 間 の も の で あ る。 万 延 元 年( 一 八 六 〇 ) ま で 二 年 間 は 二 〇 〇 〇 俵 台、 文 久 元 年( 一 八 六 一 ) は 四 〇 〇 〇 俵 台 に な っ た。 内 容 は す べ て干鰯で〆粕はない。 大坂で干鰯について根強い需要があっ た こ と を 指 摘 し た こ と が あ る が、 近 江 屋 が 江 戸 問 屋 に 求 め るものも、 やはり干鰯であったといえる。江戸問屋は当然、 〆 粕 も 扱 っ て お り、 伊 勢 な ど で は 天 保 期 に は 〆 粕 が 中 心 と な っ て い た )(1 ( 。 大 坂 で も 〆 粕 へ 移 る 傾 向 は あ る も の の、 内 容 表3 江戸積みと大坂着の重量差 大坂着月日 銘柄 俵数 着重量a大坂 (貫) b江戸 積重量 (貫) a-b (貫) (両 当たり 俵数 代銀 (匁) 運搬船主 (月((日 本場前寒引 (( (.(( (0.( -0.(( (.( ((( 西田市蔵 本場前寒引 (( (.(( (0.( -(.(( (.( ((0 西田市蔵 本場前寒引 (( (.(( (.( 0.(( (.( ((( 西田市蔵 本場前寒引 (( (0.(( (.( (.(( (.( ((( 西田市蔵 本場前寒引 (( (.(( (.( -0.(( (.( ((( 西田市蔵 本場前寒引 (( (.(( (.( 0.0( (.( ((( 西田市蔵 小計 (( ((.(( ((.( 0.0( (,((( (月(日 本場前寒引 (( (.(( (.( -0.(( ( ((( 大津屋源太郎 本場前寒引 ( (.(( (.( 0.0( (.( ((( 大津屋源太郎 本場前寒引 (0 (0.(( (0.( -0.(( (.( ((( 大津屋源太郎 本場前寒引 (( (0.0( (.( 0.(( (.( ((( 大津屋源太郎 本場前寒引 (( (.(( (.( -0.(( (.( ((( 大津屋源太郎 本場前寒引 (( (.(( (.( 0.(( (.( ((( 大津屋源太郎 小計 ((( ((.(( ((.( 0.(( (,((( 出典: 東洋大学井上円了記念博物館所管・近江屋市兵衛家文書、安政(年正月「買付帳」 (((番)。 注: 代銀はその年の大坂相場で両建てから銀立てへ換算した。岩橋勝「近世米価・貨 幣相場一覧」(『日本歴史大辞典』4、小学館、(00(年)にしたがった。
一二〇 は蝦夷地産〆粕で、干鰯については関東産の需要も強かったのである。 ところで靫の干鰯屋仲間が出した報告では、大坂への関東干鰯の移入は安政四年(一八五七)で四万七八九一俵、安 政五年(一八五八)で一万二八八九俵であっ た )(1 ( 。したがって近江屋の仕入れ俵数は大坂に入荷する関東干鰯の相当数を 占めたことになる。近江屋は安政六年から干鰯を買い付けたので、 年が重ならず比較ができないが、 安政四年 (一八五七) 程 度 の 大 坂 入 荷 量 が あ っ た と す る と、 そ の 四 ・ 六 パ ー セ ン ト の 比 重 を 占 め た こ と な る し、 安 政 五 年 を 基 礎 と す る と 実 に 一 七 ・ 二 パ ー セ ン ト に も な る。 近 江 屋 だ け で 一 万 俵 を 越 え た 天 保 期 に 比 べ る こ と は で き な い が、 そ れ で も 大 坂 入 荷 の 相 当数を占めたようである。 取引相手についてみると、銚子場の和泉屋三郎兵衛と元場の秋田屋・喜多村富之助とは天保期にも取引があった。和 泉屋は泉州在住の江戸店持ち商人であっ た )11 ( 。また秋田屋は関宿出身で江戸干鰯問屋株を持って進出してきた商人で、大 坂にも北新堀に出店があり、近江屋長兵衛家などと取引があっ た )1( ( 。十一屋は、喜多村家と同じく下総関宿の干鰯商で江 戸に進出したものであっ た )11 ( 。また宮原屋治兵衛・同与右衛門は東浦賀の干鰯屋で、嘉永四年(一八五一)の問屋再興の 願いに名前が見え る )11 ( 。ことに治兵衛は仲間惣代などを勤めた有力者だった。かって取引のあった和泉屋や喜多村を中心 に関東産干鰯の仕入れが行われていたことがわかる。 関東干鰯の仕入れは正月から五月までが中心で、寒引き、余寒引き、冬引きといわれた冬期の漁であがったものを干 して出荷していた。産地は、本場が中心で、ほかに下総日在、下総・西方・東良見・常陸・常陸矢田部などの名前があ がっている。 ま た 安 政 六 年( 一 八 五 九 ) の 部 分 に は、 「 手 前 」 と 近 江 屋 市 兵 衛 が 買 い 付 け た 記 載 が 見 ら れ る。 そ の 後、 万 延 元 年 (一八六〇) ・文久元年(一八六一)ともに記載が一切ない。すべて市兵衛が買い付けたので区別する必要もなかったの
一二一 大坂干鰯屋近江屋市兵衛の経営(二) であろう。天保期には、御手前ものや某分と手前ものとは区別された江戸問屋やその関連商人の送り荷があったが、再 興期にはそれがなくなってい た )14 ( 。取引が中絶したため、送り荷を受けるだけ関係の再構築ができていなかったと考えら れる。 と こ ろ で 万 延 元 年( 一 八 六 〇 ) の 買 付 帳 で は、 十 一 屋 藤 蔵 か ら の 干 鰯 に つ い て、 江 戸 積 み 時 点 で の 干 鰯 の 一 俵 当 た り 平均重量と大坂着時点での重量が記載されている箇所がある。これを表3に示した。二月一七日着の西田市蔵船の場合 と三月三日着の大津屋源太郎船の場合である。両者の重量差を a─ bで比較すると、多いもので一貫目前後の差が出て いることがわかる。マイナスは、江戸積み時点より大坂着時点で減量したことを示し、プラスは増量したことを示す。 マイナスは乾燥や俵よりの目こぼれ、抜き取りなどが考えられる。乾燥でも自然ではなく、意図的に濡れさせて重量を 増したものが、船で運んでいる内に乾燥して軽くなる場合もある。また増量した場合は、海水に触れたか、船底で湿気 を含んだことが考えられよう。いずれにしても状況により、江戸から大坂へ運送過程で量目の変化があり、干鰯屋とし ては把握しておく必要があったであろ う )11 ( 。
三
安政・文久期の販売の動向
再 興 期 の 近 江 屋 市 兵 衛 で 概 要 を 把 握 す る こ と の 可 能 な 売 日 記 は、 開 業 後 二 年 た っ た 安 政 四 年( 一 八 五 七 ) か ら 万 延 元 年(一八六〇)まである。買付帳より、開業に近い時期の実態がわかる。魚肥は、購入後、時を経ないで売ることが普 通で、何年も蔵に入れておくことはないので、販売品から仕入れ事情をうかがうこともできる。表4に販売品目の動向一二二 を示した。 全 体 の 動 向 で は、 安 政 四 年( 一 八 五 七 ) に は 売 り 上 げ 総 額 が 銀 三 五 二 貫 匁 余 で、 そ の 後、 安 政 五、 六 年 と 二 〇 〇 貫 匁 台 に 低 迷 す る が、 万 延 元 年 (一八六〇)には五〇四貫匁 余 と 回 復 し た。 買 日 記 帳 で は 文 久 二 年( 一 八 六 二 ) に は 銀 七 一 四 貫 匁 余 と な っ て い る の で、 万 延 元 年 頃 か ら は 商 売 が 軌 道 に 乗 り 始 めた様子がうかがえる。 売 り 上 げ 品 目 の 構 成 で は、 安 政 四、 五 年 ま で は 干 鰯 の 比 重 が 低 く、 〆 粕 が 高 か っ た。 ま た 蝦 夷 地 産 の 鯡 粕・ 羽 鯡 な ど が 中 心 と な っ て い た。 し か し 安 政 六 年 (一八五九) 、万延元年 (一八六〇) 表4 近江屋市兵衛の肥料販売品目の推移(単位:匁) 分類 品目 安政(年 安政(年 安政(年 万延元年 干鰯 干鰯 (( (,((( (,((( (,((0 関東 (,((( (,((( ((,((( ((,((( 蝦夷地・日本海 (,((( 佐伯 ((( ((( その他 (,((( ((( (,((( 小計 (,0(( ((,((( (0,((( ((,((( 〆粕 鰯粕 ((,((0 ((,((( ((0 ((,0(( 関東 (,((( (,((( (,((( (,((( 蝦夷地・日本海 (,((( ((( ((,0(( (0,((( 佐伯 (,((( (,((( ((( その他 (,((( (,0(0 (,((( (,((( 小計 ((,((( ((,((( (0,((( (0(,((( 鯡粕等 鯡粕 (((,0(( (((,((( ((,((0 (((,((( 羽鯡 (0,((( ((,((( (,((0 (,((( 数子 (,(00 (,((( (,(00 鱒粕 ((,((( その他 (,((0 (,((( ((( 小計 (((,((( ((0,((( ((,((( (((,((( その他 その他 ((,((( ((,((( (0,((( (0(,((( 合計 (((,((( (((,((( (((,0(( (0(,((( 構成比率 干鰯 (.0 (.( ((.( ((.( 〆粕 (0.( ((.( (.( ((.0 鯡・鱒 (0.0 ((.( ((.( ((.( その他 ((.( ((.( ((.( (0.( 合計 (00.0 (00.0 (00.0 (00.0 出典: 井上円了記念博物館所管・近江屋市兵衛家文書、((、((、((番。各年度の「干 鰯売日記』。大阪大学経済史経営史資料室所管・田中市兵衛家文書、安政(年正 月『干鰯売日記』。 注: 代銀はその年の大坂相場で両建てから銀立てへ換算した。岩橋勝「近世米価・貨 幣相場一覧」(『日本歴史大辞典』4、小学館、(00(年)にしたがった。
一二三 大坂干鰯屋近江屋市兵衛の経営(二) には干鰯が回復して、〆粕・鯡系の比重が低下している。 また全体にその他の比重が高いが、 この中身は、 蝦夷地産のタルマイ ・ 茅部・マシケ・厚田など産地記載しかない粕類で、鰯〆粕か鯡粕か判別 がつかないものである。これらを考慮すると蝦夷地産の比重がかなり高 かったといえる。 安政四、 五年は干鰯の比重が低く、 ことに関東物は安政四年 (一八五七) では二二〇俵、安政五年(一八五八)では二四五俵に過ぎなかった。俵 数からいって、江戸問屋との取り引きはまだなく、靫市場に入ったもの を買い付けて販売したと考えられる。おそらく江戸との取り引きを再開 できる交流や信用がなく、靫市場や松前問屋からの仕入れに頼っていた のであろう。 安 政 六 年( 一 八 五 九 )11 ( )、 万 延 元 年( 一 八 六 〇 ) の 両 年 に つ い て は、 関 東 干 鰯 の 江 戸・ 浦 賀 問 屋 か ら の 買 い 付 け が 本 格 化 し て、 そ の 比 重 が 高 く な っ て い る。 安 政 六 年( 一 八 五 九 ) の 買 い 付 け 干 鰯 は 二 二 一 三 俵 で あ っ た が( 表 2) 、 販 売 量 は 一 八 七 三 俵 と 三 本 で あ っ た。 ま た 翌 万 延 元 年(一八六〇)には、仕入れ二〇七〇俵にたいして、三三九一俵を販売 した。万延元年(一八六〇)は江戸問屋からの仕入れにたいして、関東 干鰯の販売量は一三二五俵も多くなっている。靫市場で買い付けたか、 表5 近江屋市兵衛の取引先(単位:匁) 地域 区分 安政(年 安政(年 安政(年 万延元年 大坂 干鰯屋 ((,(0( (0(,((( ((0,((0 ((0,((( 市中 ((( ((( 東成・西成 ((,(0( ((,((( (0,(0( ((,((( 小計 ((,(0( (((,((( (((,((( (((,((( 大坂周辺 摂津 ((,((( (,0(( ((,((( (,((( 河内 (,((0 ((( ((( 和泉 (((,((( (((,((0 ((,((( (((,((( 小計 (((,((( (((,((( ((,((( (((,((( その他・不明 (,((( (,((( (,0(( (0(,((( 合計 (((,((( (((,((( (((,0(( (0(,((( 構成比率 (%) 大坂 ((.( ((.( ((.( ((.( 大坂周辺 (( ((.( ((.( ((.( その他・不明 (.( 0.( (.( ((.( 合計 (00.( ((.( (00.( (00 出典:表4に同じ。
一二四 買付帳に出てこない紀州などの商人が中継したものを買い付けたかしたのであろう。ただこの時期まだ紀州との取り引 きは開けていないし、文久二年(一八六二)の干鰯買日記では、靫の干鰯屋からは干鰯二八九俵の買い付けしかしてい ない(表1) 。万延元年(一八六〇)の干鰯買日記が残っていないので、疑問の残るところである。 万 延 元 年( 一 八 六 〇 ) は、 安 政 六 年( 一 八 五 九 ) に 比 べ て 倍 以 上 の 売 り 上 げ 高 に な っ て い る。 蝦 夷 地 産 の 鯡 粕 に つ い て見ると、安政六年(一八五九)が一万三六五〇貫余にたいし、万延元年(一八六〇)には四 万 四八七八貫余となり実 際 の 販 売 重 量 が 三 ・ 二 八 倍 の 増 加 と な っ て い る。 価 格 が 上 昇 し た の で は な く、 実 態 量 が 増 加 し た と 見 て よ い で あ ろ う。 このなかで〆粕の増加と鯡系魚肥の増加が顕著に見られる。〆粕では蝦夷地・日本海産が中心で、関東産〆粕の比重は わずかしかないし、それも減少している。表2の買付帳では江戸問屋から仕入れるものには、すべて干鰯で〆粕は含ま れなかった。関東物の〆粕は俵数が少ないこともあり、ほかの干鰯屋が仕入れたものを買い付けて販売したと考えられ る。いっぽう鯡粕の増加が大きく全体に大きな役割を果たしていたことが明らかである。 販売先について表5に示した。安政四年(一八五七)では摂津・河内・和泉の大坂周辺地域が八二パーセントと他を 圧 倒 す る 高 い 比 重 を 占 め た。 と く に 和 泉 が そ の 中 心 で、 全 体 の 七 七 ・ 二 パ ー セ ン ト を 占 め て い た。 買 い 手 は 和 泉 大 津 の 和泉屋久三郎、岸和田の鱧屋甚兵衛、又野平助、貝塚の布屋清兵衛、沼島屋助治郎、松屋平兵衛、湊屋武兵衛、布屋七 郎右衛門、松屋嘉兵衛などであ る )11 ( 。その後、和泉の比重は低下するものの、当初は大坂湾岸の泉州の肥料商との強い結 びつきがあったことがわかる。大津・岸和田・貝塚の肥料商との取り引きは天保期では目立つほどではなかっ た )11 ( 。再興 期になぜこれほどまで買い付けがあったのかわからない。安政四年(一八五七)では、泉州以外は靫の干鰯屋に販売す ることも余りなく、大坂地続きの東成・西成郡などの農民を中心に、摂河泉の在村に販売したようである。東成・西成 郡では、靫にも近い市岡新田の農民への販売が中心となっているが、肥料小売商と考えられるのは一名だけで、直接消
一二五 大坂干鰯屋近江屋市兵衛の経営(二) 費者農民が多数買いにきている。在村肥料商は摂津池田と今津の肥料商が買い付けているのが目につく程度であった。 なおその他に、 阿波国板野郡佐藤塚村の農民への販売があったが、 これが最後で天保期のような発展は見られなかった。 また天保期に見られた尼崎とその周辺への販売がほとんどなくなってい た )11 ( 。 安 政 五 年( 一 八 五 八 ) に な る と、 靫 の 干 鰯 屋 へ の 販 売 が 倍 増 し、 和 泉 の 港 町 の 肥 料 商 と の 取 り 引 き が 減 少 し た。 和 泉 の肥料商の取り引きの減少はその後も続いていったと考えられる。安政六年(一八五九)は、江戸・浦賀問屋との取り 引きは再開されたが、取引量全体は振るわなかった。関東干鰯の販売では確認できる一八七三俵の内、八六五俵が靫の 干 鰯 屋 に 販 売 さ れ、 ほ か は そ れ 以 外 に 売 ら れ た が、 主 な 販 売 先 は 尼 崎 油 屋 長 兵 衛( 三 四 八 俵 )、 岸 和 田 の 鱧 屋 甚 兵 衛、 布屋清兵衛、薩摩屋伊兵衛(合計三二六俵)となっており、一一九一俵が大口の小売商との取り引きとなっていた。安 政六年(一八五九)の鯡粕の減少は価格の高騰によったようで、前後の大坂市場の鯡粕の一〇貫目当たり平均価格と近 江屋の販売平均価格を比較するとつぎのようである。 年代 大坂価 格 )11 ( 近江屋販売平均価格 安政四年 三六 ・ 四二匁 三六 ・ 四二匁 安政五年 四三 ・ 二八匁 四三匁 安政六年 四七 ・ 一五匁 五〇 ・ 二匁 万延元年 四四 ・ 二五匁 四〇 ・ 六匁 安 政 五、 六 年 に 鯡 粕 価 格 は 高 騰 し、 万 延 元 年( 一 八 六 〇 ) に 少 し 収 ま っ た こ と が わ か る。 こ れ を 受 け て 鯡 粕 販 売 が 低 迷 したようである。安政五年(一八五八)に幕府が箱館物産会所を設置して、松前物の一手取りさばきを行い始めたこと も価格高騰の原因であろ う )1( ( 。関東干鰯の仕入れもそのことと関係しているのかも知れない。また大坂価格と近江屋市兵
一二六 衛の価格差は余りなく、万延元年(一八六〇)では、大坂着価格の方が高いという逆転した現象も見られる。できるだ け安価な魚肥を仕入れたのであろうが、販売でも利益を余り見込まないで、販売量の拡大に努めたようである。 万 延 元 年( 一 八 六 〇 ) に な る と 販 売 額 は 増 加 す る。 関 東 産 干 鰯 の 増 加 も あ っ た が、 そ の 中 心 は 蝦 夷 地 産 の 〆 粕 や 鯡 粕 と な っ て い る。 価 格 を 抑 え た 販 売 が 万 延 元 年( 一 八 六 〇 ) の 販 売 量 の 増 加 に つ な が っ て い る の で あ ろ う。 万 延 元 年 (一八六〇) には、 その他が増加しているが、 これは所属の記載のない新しい購入者が増加したためである。和泉屋宇吉、 万屋栄治郎、 錫屋正太郎、 伝法屋吉兵衛、 木原屋安次郎、 近(近江屋か)勘四郎、 塩屋利八などである。出てくるのは、 一般の項目で、大坂干鰯屋との取り引きを記録した「地方」の部分ではない。当然彼らの名前を干鰯屋のなかに確認で きず、居所の記載もない。塩屋利八だけは紀州久保村の肥料商と確認できるがほかは不明であ る )11 ( 。大坂市中の商人では ないかと考えられるがはっきりしない。
まとめ
近江屋市兵衛の再興期の経営について検討してきた。市兵衛家は天保末年に当主の死去により、残された姉弟が本家 長兵衛家に引き取られ、商売は中絶したが、安政二年(一八五五)に市蔵が成長したことにより再興された。再興の当 主市蔵が市兵衛を襲名したが、この三代目市兵衛が明治になって、第四十二銀行の経営に成功して、大阪商工会議所会 頭になる田中市兵衛であった。したがって田中市兵衛の慶応元年家業継承説は誤っていることが明らかになった。市兵 衛 に つ い て、 丁 稚 上 が り の 苦 労 人 と 対 比 さ れ て、 大 坂 干 鰯 屋 に 生 ま れ、 「 先 祖 以 来、 数 代 を か さ ね た 大 阪 は え ぬ き の 豪 商であって」と恵まれた環境で成長した人物といった受け止め方をされている面があ る )11 ( 。これも中絶・再興の事情を考一二七 大坂干鰯屋近江屋市兵衛の経営(二) えると、陰影があることが明らかとなろう。 近江屋は安政二年(一八五五)に再興されたが、 その仕入れについては、 文久二年(一八六二)しか干鰯買日記が残っ ていない。干鰯買日記は大坂での魚肥の購入記録であるが、これによれば〆粕・鯡粕を中心に仕入れていたことがわか る。またその仕入れ先は松前問屋を中心に、靫の干鰯商であった。いっぽう安政六年(一八五九)からは江戸・浦賀問 屋との取り引きも本格化し、次第に仕入れ範囲を拡大していることがわかる。江戸・浦賀問屋からの仕入れは、天保期 に比べるごくわずかであるが、 関東干鰯は大坂自体に入荷が減少しており、 そのなかでは相当の比重を占めるものであっ た。文久二年(一八六二)には、総額では天保期にならぶ仕入れ銀高になったが、これはこの間の魚肥価格の高騰によ るもので、重量ベースで比較すると鯡粕で半分程度の回復であった。 いっぽう販売については、安政四年(一八五七)より万延元年(一八六〇)までの売日記が残っており、再興直後の 様子がわかる。販売先では、当初和泉大津・岸和田・貝塚など和泉の諸港町の肥料商がほとんどを占め、その後、緩や かに比重は低下する。これ以外は、大坂の干鰯屋と西成・東成郡の大坂に隣接する地域の農民を中心にした販売であっ た。 天 保 期 に は 見 ら れ た 摂 津 尼 崎 周 辺 の 肥 料 商 へ の 販 売 は 回 復 し て い な か っ た。 安 政 五、 六 年 に は 鯡 粕 価 格 の 高 騰 が あ り、販売量も減少する。このことが関東干鰯の仕入れに乗り出す契機になったと考えられる。また魚肥の重要部分を占 めた鯡粕の大坂価格と近江屋の販売価格を比較すると、時には逆転する場合もあり、利幅を少なく売っていたことがわ かる。再興期には、顧客の獲得のため、価格を抑えて販売していたのであろう。 注 ( () 拙 稿「 大 坂 干 鰯 屋 近 江 屋 市 兵 衛 の 経 営 」( 一 )( 『 東 洋 大 学 文 学 部 紀 要 』六 七 集 史 学 科 篇 三 九 号 、二 〇 一 四 年 )五 一 〜 七 六 頁 。 ( 1) 以 下、 文 書 は 基 本 的 に は 東 洋 大 学 井 上 円 了 記 念 博 物 館 所 管・ 近 江 屋 市 兵 衛 家 文 書 に よ る( 以 下、 近 江 屋 市 兵 衛 家 文 書 と 略
一二八 称 す る )。 な お 一 部、 大 阪 大 学 経 済 学 部 経 済 史 経 営 史 資 料 室 所管の近江屋市兵衛家文書を使用した。 ( 1) 大阪市史編集所所管 ・ 近江屋田中家文書、九八一、 九八〇番。 以下、近江屋長兵衛家文書と略記する。 ( 4) 近江屋長兵衛家文書、九七九番。 ( 1) 拙 稿「 大 坂 干 鰯 屋 仲 間 と 近 江 屋 長 兵 衛 」( 『 東 洋 大 学 人 間 科 学 総 合 研 究 所 紀 要 』 一 五 号、 二 〇 一 三 年 ) 図 1 近 江 屋 長 兵 衛 家 略系図。 ( 1) 近江屋長兵衛家文書九八四─二番。 ( 1) 拙稿「大坂干鰯屋仲間と近江屋長兵衛」 (前掲)図1。 ( 1) 近江屋長兵衛家文書九八三─三番。 ( 1) 例 え ば、 高 村 直 助「 田 中 市 兵 衛 」( 『 国 史 大 辞 典 』 九 巻、 吉 川 弘 文 館、 一 九 八 八 年 ) は 田 中 市 兵 衛 の 生 年 を 天 保 九 年 九 月 六 日 と す る。 天 保 九 年 生 ま れ は、 諸 書 に ほ ぼ 共 通 し て い る。 典 拠 が 明 ら か で は な い が、 お そ ら く 著 名 に な っ て か ら 市 兵 衛 の 残した記録によると考えられる。 ( (0) 近江屋長兵衛家文書九八二─一番。 ( (() 例 え ば、 宮 本 又 次 編『 上 方 の 研 究 』 四 巻( 清 文 堂 出 版、 一 九 七 六 年 ) 六 一 五 〜 六 三 二 頁、 「 田 中 市 兵 衛 」 の 項 に、 田 中市兵衛を 「天保九年九月、 田中八郎の子として靫にうまれ、 明 治 元 年 に 父 祖 の 業 を つ い で 商 売 を は じ め た が、 生 来 の 誠 実 さ と 勤 勉 さ と を も っ て、 年 と と も に 問 屋 間 の 信 頼 を 得、 や が て 大 坂 だ け で は な く、 近 畿 一 円 に わ た る 広 汎 な る 地 域 ま で 肥 料を販売するようになり」と紹介している。 ( (1) 国 文 学 研 究 資 料 館、 祭 魚 洞 文 庫、 大 阪 干 鰯 商 仲 間 記 録、 文 久 元 年「 記 録 名 前 帳 」( 六 三 番 )。 以 下、 大 阪 干 鰯 商 仲 間 記 録 と 略称する。 ( (1) 近 江 屋 市 兵 衛 家 文 書、 文 久 二 年「 干 鰯 買 日 記 」( 四 一 番 )、 安 政六年「買付帳」 (三八番) 。 ( (4) 拙稿「大坂干鰯屋近江屋市兵衛の経営」 (一) (前掲)表1。 ( (1) 松 前 問 屋 に つ い て は、 原 直 史「 松 前 問 屋 」 吉 田 伸 之 編『 商 い の 場 と 社 会 』 シ リ ー ズ 近 世 の 身 分 的 周 縁 四、 吉 川 弘 文 館、 二〇〇〇年) 、 大坂干鰯屋については、 大阪干鰯商仲間記録、 文久元年「記録名前帳」 (六三番) 。 ( (1) 神 戸 市 教 育 委 員 会 編『 兵 庫 岡 方 文 書 』 二 輯 一 巻、 二 三 〇 〜 二三九頁。 ( (1) 神 戸 市 立 博 物 館 所 管、 干 鰯 屋 仲 間 印 形 帳 の 明 治 三 年「 戎 講 印 形帳」 。 ( (1) 拙 稿「 近 世 後 期 伊 勢 の 肥 料 と 農 業 経 営 」( 『 東 洋 大 学 人 間 科 学 総合研究所紀要』 一七号、二〇一五年) 。 ( (1) 拙 稿「 大 坂 干 鰯 屋 仲 間 と 近 江 屋 長 兵 衛 」( 『 東 洋 大 学 人 間 科 学 総合研究所紀要』一五号、二〇一三年) 、表2。 ( 11) 原 直 史『 日 本 近 世 の 地 域 と 流 通 』( 山 川 出 版 社、 一 九 九 六 年 ) 表 11、表 11。 ( 1() 原 直 史『 日 本 近 世 の 地 域 と 流 通 』( 前 掲 ) 表 ((、 表 ((。 大 坂 の出店については拙稿 「大坂干鰯屋近江屋長兵衛と地域市場」
一二九 大坂干鰯屋近江屋市兵衛の経営(二) (『 東 洋 大 学 文 学 部 紀 要 』 六 六 集 三 八 号、 二 〇 一 三 )。 な お 拙 稿 で、 「 秋 田 富 之 丞 」 印 文「 北 新 場 」 と あ る の は 誤 読 で、 「 富 之助」 「北新堀」が正しいので訂正しておく。 ( 11) 原直史『日本近世の地域と流通』 (前掲)表 11。 ( 11) 横須賀市編『新横須賀市史』資料編、 近世(一) (横須賀市、 二〇〇七年)四二九〜四三三頁。 ( 14) 拙稿「大坂干鰯屋近江屋市兵衛の経営」 (一) (前掲) 。 ( 11) 国 文 学 研 究 資 料 館、 祭 魚 洞 文 庫、 大 阪 干 鰯 商 仲 間 記 録、 文 久 元年 「記録名前帳」 (六三番) では、 関東以下の干鰯について、 「壱貫目違」 は 「軽俵戻り」 となっていて、 返却することになっ て い る。 た だ 肥 料 商 の 帳 面 で は 区 分 け さ れ て 安 値 が 付 け ら れ て い る も の も あ り 、事 故 俵 を 安 値 で 引 き 取 っ た 場 合 も あ っ た 。 ( 11) 安 政 六 年 の 売 日 記 は、 大 阪 大 学 経 済 学 部 経 済 史 経 営 史 資 料 室 所 管 の 田 中 家 文 書 で、 こ れ に つ い て は 中 西 聡『 近 世・ 近 代 日 本 の 市 場 構 造 』( 東 京 大 学 出 版 会、 一 九 九 八 年 ) 一 四 四 頁、 表 (─ (1に 分 析 が あ る。 た だ 中 西 の 分 析 で は 東 洋 大 学 井 上 円 了 博 物 館 所 管 近 江 屋 市 兵 衛 家 文 書 は 利 用 さ れ て い な い し、 市 兵衛家の再興も把握していないので十分ではない。 ( 11) 岡田光代 「幕末維新期泉南地域の肥料流通」 付表 (石井寛治 ・ 中 西 聡 編『 産 業 化 と 商 家 経 営 』 名 古 屋 大 学 出 版 会、 二 〇 〇 六 年) 。 ( 11) 拙稿「大坂干鰯屋近江屋市兵衛の経営」 (一) (前掲) 。 ( 11) 拙稿「大坂干鰯屋近江屋市兵衛の経営」 (一) (前掲) 。 ( 11) 大阪水産物流通史研究会編 『資料 大阪水産物流通史』 (三一 書 房、 一 九 七 一 年 )( 7) 肥 物 価 格 表 に よ る。 靫 の 干 鰯 屋 仲 間 は 毎 月 上 中 下 に 分 け た 魚 肥 の 価 格 を 大 坂 町 奉 行 所 に 報 告 し て い た。 鯡 粕 を 扱 う 松 前 問 屋 も こ う し た こ と は し て い た で あ ろ う。 こ の 資 料 が 基 に な っ て 本 資 料 が 作 ら れ た と 考 え ら れ る。 し た が っ て 大 坂 価 格 は 靫 市 場 や 松 前 問 屋 の 卸 価 格 と い え る。 近 江 屋 は 主 と し て こ こ か ら 買 い 付 け て、 小 売 り や 直 接 消 費 者 農 民 に 販 売 し た の で あ る か ら、 靫 の 市 場 価 格 に 利 益 分 を 上 乗 せ し て 販 売 し な け れ ば な ら な い。 そ れ が 価 格 差 が 余 り な かったり、 逆転すれば、 利益はなくなってしまうことになる。 ( 1() 宮本又次編『上方の研究』四巻(前掲)六一七頁。 ( 11) 岡田光代「幕末維新期泉南地域の肥料流通」付表(前掲) 。 ( 11) 田中市兵衛については、 宮本又次編 『上方の研究』 四巻 (前掲) 六一六頁。 付記 本 研 究 は 二 〇 一 四 〜 二 〇 一 六 年 文 部 科 学 省 研 究 費 補 助「 近 世 の 肥 料 商 と 農 業 経 営 」 の 研 究 成 果 の 一 部 で あ る。 調 査 に あ た っ て ご 協 力 い た だ い た 東 洋 大 学 井 上 円 了 記 念 博 物 館、 大 阪 大 学 経 済 経 営 史 研 究 所、 大 坂 市 史 編 集 所 以 下 の 方 々 に 記 し て 感 謝 の 意 を表す次第です。