る検討
著者 植田 知子
雑誌名 社会科学
号 79
ページ 17‑36
発行年 2007‑10‑20
権利 同志社大学人文科学研究所
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000011283
はじめに 杉浦大黒屋は寛文三年(一六六三)を創業とする商家で、呉服太物小間物類を取り扱い、江戸期には京店・江戸石町店・江戸本所店・岐阜店・大坂店の五店舗があった。 同家の江戸期の別家数は、基礎史料とした「日記 (1)」の江戸期の記述部分
天明二年(一七八二)四月~慶応三年(一八六七)一月(以降、文中で「検討期間」とした場合はこの期
間を指す)
から拾い上げたものだけでも九〇余家にのぼる。これを別家となった時期により、天明二年以前(=「検討期間」
以前)と以降(=「検討期間」内)に分けて比較した場合、前者には家業経営者と見られるものが多く、大黒屋又兵衛 (2)のように江戸で成功した商人も存在する。これに対して後者からは、小商人は見られるものの有力な独立営業者は出ておらず、別家後は大部分が勤番を務めるといった違いがある。 江戸期の商家大店では、経営規模の拡大や業務の多様化・複雑化等に伴い店舗の管理業務は上級の奉公人に委ねられていったが、杉浦大黒屋の別家に認められる変化も、その背景には管理業務に熟練した人材に対する要請の高まりがあったと考えられる。本稿は杉浦大黒屋における経営委任の状況を、勤番の実
京都商人杉浦大黒屋の別家制度( 2 ) 勤番に 関する検討
植 田 知 子
江戸期の商家大店では、経営規模の拡大や業務の多様化・複雑化に伴い店舗の管理業務は経験を積んだ上級の奉公人に委ねられていった。杉浦大黒屋では店舗の最高責任者として各店舗に支配役がおかれたが、この支配役を退役した者は別家の列に加えられ、そして、勤番(経営幹部)として大黒屋各店に配属された。勤番の役名が残存史料から確認できるのは四代の頃(一七七一年の文書)であるため、同家ではその頃までに勤番という職務が設けられ、さらに支配役退役者に勤番就任を義務づけた経営委任の仕組みができあがったと考えられる。本稿は、第一に、この仕組みが生み出された過程を店主の経営理念・経営の進展・経営体としての存続状況にたどり、その背景や目的について考察すること。第二に、勤番の実態検証からその仕組みがどのように機能し、その維持存続のためにどのような工夫・対応がなされたかを検討すること。以上の二点を課題とした。
態検証を通して検討することを課題とする。
一 初代~三代までの状況
大黒屋初代~三代頃までは商家としての土台が築かれた重要な時期であるが、基礎史料とした「日記」の記述以前に当るため未詳の部分が多い。ここでは当時の商いの様子や店主の経営理念を残存史料に窺いながら、四代以降に認められる支配役退役者に対する勤番の義務化へどのように繋がっていくのか考察する。
1 初代の頃
大黒屋初代内海清兵衛義清(法名、道照)は、寛文三年(一六六三)二月から江戸に商品を持下って販売し、寛文八年(一六六八)には江戸石町に店を設けた (3)。清兵衛の下で商いの修業をしたと見られる二代道有(大黒屋二代目杉浦三郎兵衛利次。法名、道有)によると (4)、当初石町店は三人で遣り繰りし、夜明けから午前一〇時頃まで「買人」相手に商いした後は、二人が店を片付け、一人は風呂敷包にした商品を江戸の方々端々まで持参し、売子衆や商人衆に見せて販売するといった地道な営業活動が行われたようである。それらの商人衆からは彼らが扱っている松屋や白木屋の島類の値段・模様等の商品情報を入手し、 良い物は買い受けて大黒屋の京店に送り、また、他の切れ売衆や商人衆を互いに教え合って新たな販路の開拓に役立てた。 取扱商品に関しては、最初は帯地・羽織地のみであったが、その後、着尺・うら地・綜龍文等も扱い、大坂で古手・古蚊帳・古帷子、堺で堺小間物・堺龍文・堺緞子類・下結等を仕入れ、船積みして江戸へ下すということも行われた。その他、京雪駄・京菓子楊枝・羅宇竹・西陣高機繻子・緞子類・茶宇等を販売し、木綿手拭と桐生絹手はり (5)は、石町店が最初に売り出したもの (6)であったという。 清兵衛の商いに対する姿勢は、「外より下直ニ売、此代り銀廻り早候様に心懸」け、「小商人衆を大切に仕」ることが「唯一ツ大損可仕気遣無之事 (7)」というもので、安売りにより資本の回転率を上げ、小商人の小口商いを大切にして大口商いによる大損の危険性を回避するという堅実で安定志向の強いものであった。この経営方針の下、順調に業績を伸した清兵衛は、貞享四年(一六八七)三月には白壁町(現、京都市中京区麩屋町通
り三条下ル)に家屋敷を購入し、以後はそこを本拠(京店)とした (8)。 このように、初代の初め頃は奉公人もわずかで江戸店もごく小規模なものに過ぎなかったが、徐々に取扱商品の種類や量も増えて業務も多様化し、奉公人の数も増加して、初代の終り頃には奉公人制度の基礎的な部分が形作られたと見られる (9)。そし
て、経営の進展に伴って管理監督者の必要が生じ、経験ある奉公人の当該業務への任用が進められたと推測される。
2 二代・三代の頃
嗣子に恵まれなかった清兵衛は、存命中に家督を甥の三郎兵衛(清兵衛の兄覚兵衛の嫡男。後、三郎右衛門と改める。法名、浄仙)へ譲るが )(((、浄仙は「家業を嫌 )((
(」がり、のちに不縁となる。よって二代目は、内海家の本家にあたる坂江五郎兵衛家の四男吉右衛門(後、三郎兵衛と改名。法名、道有)が継承することになる。大黒屋当主が杉浦三郎兵衛を名乗るのは、この二代目からである )((
(。 大黒屋を受け継いだ二代目三郎兵衛利次(法名、道有)は、上述のように清兵衛の下で商人としての薫陶を受け、清兵衛晩年には独立開業を許されるだけの商人に成長していた )((
(。道有は、「元直買出シ器量」(仕入れ価格を低く押さえる工夫・努力)、「少利」(薄利、安値での販売)、「発明」(才覚・工夫)を経営方針に、奢らず身の程を弁えて商いに精励することを生活信条としたが、これは清兵衛を模範としたものであった。のちに杉浦家中興の祖と称される道有のもとからは、別家大黒屋又兵衛や分家大黒屋(坂江)吉右衛門(道有の兄坂江重兵衛の長男新兵衛利勝。法名、
道和 )((
()が出ており、両者は江戸で開業し商人として成功した。 道有の嗣子三郎助が一二才で夭逝したため、三代目には道有 の兄坂江重兵衛の六男九兵衛が迎えられる。三代目三郎兵衛となった利軌(法名、宗夕)は、享保一九年(一七三四)大黒屋の経営方針や奉公の心得等を「定目二十五箇條 )((
(」にあらわした。 「定目」の特色は、「家業興隆の心掛第一」(「定目」前文)に店内の和合一致や上下秩序の重視が説かれる一方で、奉公人の登用に関しては能力主義や適材適所の考え方が示されている点にある )((
(。また、「定目」の後文には、「善悪無依怙贔屓万事致評議」とあり、合議による隔意のない意見交換や公平公正な案件の処理が指示されている点も注目される。 宗夕のもう一つの事績は、奉公人の中から人を選んで分家杉浦次郎右衛門家を創設し )((
(、本家の後見役としたことである。分家坂江吉右衛門家が有力商家として名を成したのに対し、杉浦次郎右衛門家は商いを一切行なわず本家当主の補佐役として本家と大黒屋の統括管理に徹した。ここからは分家間における役割の違いが窺えると同時に、三代当主の注意や関心が経営体の保守・補強に向けられていたことが判る。 以上のように、大黒屋は二代・三代によって経営基盤の構築と商家としての基礎固めがなされた。三代宗夕の手になる「定目」は、二代道有の忌日逮夜に当る毎月七日、別家・店中の会合での読み聞かせが指示されており、この点は「定目」が先代の経営理念を伝授・継承したものであることを如実に物語っている。
「定目」の特色
店内の和合一致・上下秩序の重視・能力主義・適材適所の考え方・合議による議決
の延長線上に見えてくるのは、奉公人各自の能力や経験を適正に評価しようという姿勢である。すなわち、商人としての資質・能力のある者には商人への道を拓き、規定の昇進経路を経て管理者としての経験を積んだ者には経営幹部としての道を与えるというもので、奉公人の管理業務への登用は、二代・三代の経営理念を現場に反映させたものといえる。その具体的な規定は依然明らかではないが、二代・三代の時期には初代の頃よりも一層明確な形で奉公人への経営委任が進められたとみてよいと思う。
二 勤番の仕組み
1 勤番のはじまり
前述のように、大黒屋の奉公人制度は初代の頃その萌芽が見られ、二代・三代の時期に整備されたと考えられるが、初代~三代頃の具体的な職制は未詳である。 【図1】は、四代以降にあたる江戸後期(天明~慶応期)の職制を示したものである。支配役を退役した者は別家の列に加えられたが、天明期以降はそれらの者が別家後も引き続き勤番として本家の経営に携わるあり方が定着していく )(((。これは経営規模の拡大や業務内容の多様化・複雑化に伴って経営を委任す る人材を確保する必要性が高まり、その結果別家の管理業務への任用が別家制度の中に定められたためと考えられる。 では、勤番がいつ頃始まったものであるのか、これも現時点でははっきりしたことはわからないが、その役名を残存史料 )((
(で確認できるのは四代の時期である。
2 就任状況
次に、支配役退役者の勤番就任状況、勤番を務めていない者の動向、勤番の就任辞退が可能であったかどうかについて見ておこう。 「日記」の記述に拠ると、「検討期間」内に杉浦大黒屋各店で支配役を務めた者は、慶応三年一月時点に在職中の五名を除き六三名が確認できる )(((。そのうち支配役退役者は五八名、非退役
図1、杉浦大黒屋の職制 (天明期~慶応期)
宿持ち 勤 番
住込み 手代 支配役 支配加役 手代 若手 小者(=子供)
出所;拙稿「京都商人杉浦大黒屋京店 の店員組織・職制・昇進 江 戸後期の事例から 」(同志社 大学人文科学研究所)『社会科 学』第72号、2004年2月。12頁。
者は五名(内訳
」各落欠中「職在名、一店職坂大京・が亡死中 ; 在
が本所店一名、退役の確認が取れない者が本所店二名)存在する。 【表1】に支配役退役者の退役後の動向を店舗別に掲出した。店舗によって支配役退役者数にかなりの差が見られるのは、開店時期が異なるためである )((
(。退役後の動向をみると、勤番に就任した者が四〇名と圧倒的に多いことが判る。 勤番を務めていない者の動向については、「他家へ養子」は特殊な事例と見られ )((
(、「その他」の者も、各々の事情を店側が了承した上で家業の再開等が許されている。これらの事例から、別家は別家後の進路を自由に選択することはできなかったことが窺える。なお、「動向不明」の中には若干考慮すべき事例が含まれており、この点については後述する )((
(。 勤番の就任辞退が可能であったかどうかという点については、江戸勤番任命後に就任を辞退した事例を参考に考えてみたい。この時の経緯は、従来二人体制をとっていた江戸勤番(石町
店)を、新たに支配役を退役した一名を加えて三人体制へと増員を図ろうとしたものであった。けれども、増員対象となった支配役退役者が「自分渡業」を強く望んだため )((
(、結局、勤番辞退が聞き入れられて現行の二人体制を維持することに決着している。この結末は勤番辞退の可能性を示唆しているようにも受け取れるが、留意すべきは勤番二名が既に確保されている点である。これが仮に欠員補充という状況であったならば、辞退が
表1、支配役退役後の動向(単位;人)〔検討期間;天明2年~慶応3年〕
支配役としての所属 店舗(開店時期)
支配役退役後の動向
京店
(寛文3年)
(1663)
石町店
(寛文8年)
(1668)
本所店
(文政7年)
(1824)
岐阜店
(天保末年)
1840代
大坂店
(文久・元治)
1860年頃
合 計
支配役退役者数 21 29 4 4 0 58
内、勤番 14 22 2 2 0 40
内、他家へ養子① 0 2 1 0 0 3
内、その他② 1 1 0 1 0 3
内、動向不明③ 6 4 1 1 0 12
註①;「養子」は、支配役退役後の身の振り方として養子入家した者を指す。別家後、数ケ月~数年経って杉浦大 黒屋の既存別家に養子入家した者は含めていない。
註②;「その他」は、休業中の家業再開や家職の継承など、特殊な事情のあるもの。
註③;「動向不明」は、勤番を務めておらず、別家後の動向もつかめない者である。
容認されたかどうか疑問と言わざるを得ない。勤番就任を辞退した事例はこれ以外には見当らず、それは原則として就任辞退ができなかったことを意味しているように思われる。
3 就任の仕組み
支配役退役後、新たに別家となった者に勤番の就任が義務化されていたと考えられる証左として、初代格・二代目格の格付けがあげられる。 杉浦大黒屋では、別家に別家老分・平別家・准別家等の序列が付けられており、初代格・二代目格の格付けもその一環と考えられる )(((。基本的に初代格は支配役退役後新たに別家となった者、二代目格は重代別家の子弟(*通常、嗣子を対象)に対して用いられており、意図したところは別家組織内での立場や役割を明示することにあったと見られる。残存史料や「日記」の記述から見えてくる初代格と二代目格の違いは、勤番就任に関しては次のようなものである。 まず、支配役を退役して新たに別家となった者(新立別家=別家初代)を初代格とし、別家後は勤番を務めることを義務とした。勤番在職中に自分家業を営むことは禁じたが、その子弟には一定期間杉浦大黒屋で奉公した後に中途退店(「暇」)を許し、二代目格として家業の営業を許可した )((
((【図2】Aのア)。また、二代目格に該当する子弟の中には、本家での奉公に励み 父親同様支配役まで昇進する者も存在したが、その場合は支配役退役後、新規に初代格が与えられ勤番が命じられた(Aのイ)。 これに対して重代別家の子弟(二代目格)には、杉浦大黒屋で一定期間奉公した後は、中途退店(「相続暇」等)して家業に就くことが許されたと見られる(Bのウ)。しかし、重代別家の子弟(二代目格)の中にも奉公に励み支配役まで上りつめるものが若干存在したが、その場合は支配役退役後、新規に初代格を与えて勤番を命じた(Bのエ)。 つまり初代格は、支配役を退役して別家の列に加えられた者に対して本人一代限りに与えられた格付けで、別家後は勤番(経営幹部)として大黒屋の経営に専務することを義務とした。一方、二代目格は二代以上続く重代別家の子弟(嗣子=家業継承者)に与えられたもので、一定期間杉浦大黒屋で奉公した後は「相続暇」等の理由で退店し、退店後は家業経営が許されたが、大黒屋の経営からは退けられるという違いがあった。三 勤番の勤務実態
1 配置人員と勤務形態
ここでは、具体的な勤番の勤務状態について見ていく。 勤番の配置人員は、検討期間(天明~慶応期)の場合、京勤図2A 支配役退役→新立別家【初代格】→《勤番》
Aの子弟 ア、本家で一定期間奉公の後、「暇」→家業経営
【二代目格】 イ、本家で奉公→支配役→退役後、別家【初代格】→《勤番》
B 重代別家(家業経営者)
Bの子弟 ウ、本家で一定期間奉公の後「暇」→家業を継承
【二代目格】 エ、本家で奉公→支配役→退役後、別家【初代格】→《勤番》
番が京店に三名、江戸勤番は石町店と本所店に各二名の計四
名 )((
(、そして岐阜・大坂店は、後述するように京勤番にあと一名を加えた人員で兼務される場合が多かったようである。 勤務形態は、京勤番三名は京市中に居住して通年勤務の形態で京店へ日勤した。これに対して江戸勤番は、石町店二名・本所店二名が、それぞれ半年交代で出勤と休息
一人は江戸で勤務し、一人は在所(大部分が江州)へ帰郷して休息
を定期的に繰り返すという勤務形態がとられた。江戸勤番の交代時期は、次期「出勤」の勤番が三月と九月の「清帳」(決算報告)前に京店を発足し、在府中の勤番(=次期「休息」の者)は、同様に三月と九月の「店目録」(決算報告書)の完成後に上京するという日程になっていた。岐阜・大坂店の勤番は兼務される 場合が多かったため、状況に即した対応がとられたと見られる。
2 配 属 先
勤番の配属先(=担当店舗)は、勤番役の任命時に申渡された。 【表2】は、勤番が別家となる前に支配役として在職した店舗と、別家後勤番として配属された店舗の関係を調べたものである。表からこの両者がほぼ一致していることが判る。勤番が旧所属店(=支配役として在職した店舗)に配属されたのは、①管理面で店舗内の内情に明るいこと、また、②業務面では、店舗により業務内容(*京店は仕入店、石町店は販売店)や取引先・出入職人・顧客等が異なったため、各人の知識や経験、築き上げた人間関係や信頼関係を活かして職務の円滑な遂行と効率的な管理が図られたものとみられる。さらに、③職制面では、管理職内部での昇格(店舗の最高責任者→経営幹部)という見方もでき、そう考えると同一店舗への配属は、支配役在任中の業績に対する評価や管理者としての信任を得るという意味合いを含んでいた可能性も出てくる。 その他、指摘しておくべき点としては、勤番の中には複数店舗を担当している者も見られ、配置換えによる欠員補充が行なわれたこと。また、大黒屋全体の統括は京店(本店)で行なわれたが、さらに江戸石町店が石町・本所店を、京店が京・岐阜・大坂店を分掌する体制がとられており、勤番も各域内で連携して任務に当っている点である。例えば、幕末の人手不足の時期には規模の小さな大坂店に専従の勤番を置くことが難しかったため、京勤番による兼務、あるいは京と岐阜の勤番が互いの職務を調整して京・岐阜・大坂の三店舗を担当するというような変則的な人員配置がなされた。さらに、熟練した勤番には、江戸勤番を退いてから京勤番を務めるというような人事も行なわれた。
3 在職年数・退職理由・停年(定年)
《在職年数と退職理由》 次に、勤番はどれくらいの期間その職を務めたのであろうか。 【表3】は、勤番四〇名のうち現職の九名(京店三名・石町店二名・本所店二名・岐阜店一名・大坂目代一名)を除いた三一名の在職年数を示したものである。「不明」は、勤番の就任時もしくは退職時が「日記」の欠落部分にあたり、在職年数の確認ができないものである。これら三一名の在職年数は一~二〇年程度まで長短のばらつきがあり、中には三〇年に及ぶ長期在職者も見られた。そこで三一名の退職理由を調べたのが【表4】である。 まず目を引くのが、在職中の死亡者の多さではなかろうか。江戸時代には五〇才以上は老人とみなされたが )((
(、表中の勤番は
表2、支配役として所属した店舗〔旧〕と、勤番としての配属先〔新〕(単位;人)
旧所属店(支配役)
新配属先(勤番) 京 店 石町店 本所店 岐阜店 大坂店 小 計
京 店 11 0 0 0 0 11
石町店 0 16 0 0 0 16
本所店 0 0 2 0 0 2
岐阜店 0 1 0 0 0 1
大坂店 1① 0 0 0 0 1
複数店舗② 2 5 0 2 0 9
合 計 14 22 2 2 0 40
註①;該当者は支配役退役後、大坂店の目代兼支配として赴任。勤番とは記されてない。
註②;複数店舗に配属された勤番には、同時に2店舗以上を兼務した場合と、配置転換により複数店を 担当した場合の2通りがある。表中の9名は、京店と石町店の2店舗を3名、石町店と本所店の 2店舗を2名、京店・大坂店・岐阜店の3店舗を2名、岐阜店と大坂店の2店舗を1名、石町店 と岐阜店の2店舗を1名が担当している。この9名については、最初に配属された店舗の数の中 に含めて作表した。
四、五〇代がその中心であり、まさに健康状態が気遣われる年頃にあった。また、「日記」に記された勤番の体調不良の訴えや、吐血・血痰・長病・中風・卒中による半身麻痺・老衰等の病症からは、勤番が高齢者であるという事実をより具体的に感じ取ることができる。 勤番に課された肉体的負担としては、半年交代勤務の江戸勤番の場合、京
走る延申し出て再建に奔期す者期も見られたほどであるのを (() 再建と営業再開に万難を排して取り組み、なかには自ら交代時
、店舗が類焼や焼失した際には店舗のであった。例え 担ば
それ以上に重かったのが管理監督者としての職責精神的負 一の回戸年の間復往れがあげらる。しかし、 − 江
(。豊富な経験と強い責任感をもち、実直で熟練した勤番は商家経営にとって不可欠な存在であったが、彼等はまた、老化や病気によりいつ不測の事態を生じるかもしれない不安定な存在でもあったのである。 その他の退職理由として、「違反行為」(三名)は規律違反により「役儀取上げ」等の処分を受けたもので )((
(、「依願退職」(二名)と「その他」(一名 )((
()はやや特殊な事例である。「確認不能」(一〇名)は、退職時期が「日記」の欠落部分にあたり確認できないものである。
表3、勤番の在職年数(単位;人)
配属店舗/在職年数 1~5年 6~ 10年 11 ~ 15年 16年以上 不 明 小 計
京 店 3 1 2 3 1 10
江戸店 3 4 3 0 6 16
岐阜店 0 0 0 0 1 1
複数店舗 0 1 1 2 0 4
小 計 6 6 6 5 8 31
表4、勤番の退職理由〔天明~慶応期〕(単位;人)
退職理由/在職年数 1~5年 6~ 10年 11 ~ 15年 16 ~以上 不 明 小 計
在職中死亡 1 4 2 0 1 8
病気養生中 1 1 1 0 0 3
隠居(退役) 0 0 0 3 1 4
違反行為 1 0 1 1 0 3
依願退職 2 0 0 0 0 2
その他(代役) 1 0 0 0 0 1
確認不能 0 1 2 1 6 10
小 計 6 6 6 5 8 31
《停年(定年)》 では、勤番に「停年」(定年)のようなものはなかったのであろうか。 【表4】の「隠居」(退役)に該当する四名のうち、「国隠居」を願い出て許可された者の年令は七一才 )((
(であった。また、「勝手勤」「隠居」が許された二名の正確な年令は不明であるが、仮に支配役退役時の年令を四〇才とすれば六七、八才となる。ただし、この二名は幕末の事例であり、幕末期には支配役退役年令が三二~三四才頃に下がっているので )((
(、六〇才頃と考えた方が適切かも知れない )((
(。 江戸時代の老年隠居の法定年令は、幕府法では七〇才、いくつかの藩では六〇才となっており、その判断の根拠は、その年令になれば「もう無理な勤めを強制できない」、「勤務能力が限界」という認識が幕府や藩当局にあったためと説明される )((
(。また、庶民には法定隠居年令というものはなかったが、実際の老年隠居の年令は武士の場合とそれほどちがっていなかったとされる )((
(。 大黒屋でも「隠居」や「勝手勤」は右とほぼ同様の理由で許可されており、これを「停年」と同義に解釈するならば、六〇才頃の退職をもって「勤番には停年があった」ということが可能である。けれども、検証結果からわかるように老化や健康状態の悪化のため中途退職する者が少なくなく、「停年」まで勤 め続けた者はごくわずかに過ぎなかった。四 勤番の役割
1 勤番の地位
勤番は、「勤番役之義、主人目代之事 )(((」とあるように、日常的店務の執行に関してかなりの権限が与えられていたと見られる。また、大黒屋の経営に関する重要案件は、本店である京店において店主・分家杉浦次郎右衛門・勤番衆(支配役が加わる
場合もある)寄合いのもとで合議された。協議後の議決事項に関する指図や店主、あるいは本店からの重要伝達事項は、多くの場合、店主→店主後見(杉浦次郎右衛門)→京勤番→江戸勤番(含、他店舗の勤番)へと指示・伝達されており、ここから本店詰めの京勤番は他の勤番より上位に位置付けられていたと考えられる。 さらに「日記」の記述から、京勤番には勤番老分・勤番頭・常勤番・准勤番・勤番助役・勤番の手伝い等の序列が存在したことが窺える。それぞれの具体的な地位や役割は現時点では詳しくは判らないが、助役や手伝いは就任後暫くの間、先輩勤番の補佐役を務めながら職務全般の習得を行ったらしい )((
(。勤番助役や勤番手伝いのような呼び方は、幕末期の記述に認められることから、幕末期に勤番就任年令(=支配役の退役年令)が低
下 )((
(したことと関係があるのかも知れない。いずれにしても新任の勤番は先輩勤番に従って場数を踏み、知識を深め、徐々に経営幹部としての地歩を固めていったのである。
2 勤番の役割
勤番は配属店舗の管理監督と支配役の後見を主たる役目としたが、実質的な職務内容は広範にわたり、とりわけ本店詰めの京勤番の職掌は、京店の管理業務はもちろん、杉浦大黒屋の経営全般の統轄、さらに京店に隣接した杉浦家本家と分家杉浦次郎右衛門家の家政、京店・本家・分家の属する町内関連の諸事・諸役、杉浦大黒屋一統・一門に関わる諸問題の処理にまで及んだ。従って京勤番には、多種多様な問題を適切に対応・処理する知識と力量に加え、杉浦家の内情に明るく、大黒屋一門・一統にも目配りのきく人物であることが求められた。しかし、そのような人材は一朝一夕に得られるものではない。よって、大黒屋当主から厚い信任を得、高い識見と陶冶された人格を持った老巧な勤番は、生涯その職に留まった事例も見られるほどである。 他の商家において日勤別宅・出勤別家・勤番等 )(((と呼ばれたものが大黒屋の勤番に類似する職掌と思われるが )((
(、商家により職務内容や勤務形態等が異なり、また、同一商家でも時期によって中身に変更が見られるので安易な比較は差し控えておく。で は、勤番の具体的職務内容を経営と家内・町内に関するものに分けて見ておこう。《経営関連》 本店であり仕入店であった京店詰めの京勤番と、販売店である江戸店(石町店と本所店)に詰めた江戸勤番とでは、その職務内容にも違いがあった。 まず、京勤番が担当した最重要行事は、京本店での総勘定(毎年三月と九月の決算報告書の作成)と金銀銭改め(毎年二月一日と八月一日)への立合いである。また「家業之定」には、京店における帳簿管理は支配役が当座帳(日々の商品の受渡しを記帳)、勤番は江戸店勘定を一〇日毎に帳締精算することと、大福帳(節季毎の精算=総勘定)を担当するよう指示されている )((
(。さらに、杉浦大黒屋の別家の家業経営者には年二回の勘定書の提出が義務付けられており )((
(、家政の管理を委託された商家からも勘定書が京本店へ提出されたが、これらの監査にも勤番が携わった。その他、「仕入方吟味役」(仕入商品の鑑別・検査)も勤番が担当している。つまり京勤番の第一の職掌は、会計監査・財務管理・仕入管理等の管理監督業務にあったことが判る。 上記以外の職務としては、経営資金や貸金、取引や商売に関するもの、類焼した店舗の普請、店舗の増改築や土地購入に関
する事案等、いずれも商家経営の根幹に関わる重要問題が談合のうえ処理された。対外的な役目としては、仲間との会合や奉行所への出頭などがあり、これらは勤番の中でも経験豊富な老分が担当した )((
(。さらに、経営不振の取引先の経営指導および家政改革の手助け等があげられる。 奉公人や別家に関するものとしては、人事考課(奉公人の新規採用と解雇)、店内風俗の矯正、規律違反者の取締(違反内
容の吟味、処分の検討、身柄の一時預り、説諭・訓戒)、奉公人在所の実態把握と対応の相談(火災・水害・地震・飢饉・疫病発生時の
実地調査、被災時の見舞と経済的援助、被災状況に応じた役目の免除
あるいは軽減等 )((
()、経済的に困窮した奉公人の実家や別家に対する援助、役所及び諸行事へ店主名代として出頭・出席、御得意先の接待(多くは江戸店の取引先・顧客による京・上方見物のため
の上京)等があげられる。これらには京勤番が関わったが、例えば江戸店の貸金が問題となった場合には休息中の江戸勤番が江州から上京して談合に加わり、江戸店奉公人の解雇が案件の際には、具体的な勤務状況を江戸勤番に照会するという具合に、江戸勤番と緊密に連絡を取りながら問題の処理が行われた。 江戸勤番の職務内容については、本稿が基礎史料とした「日記」が京店を中心に記されているため詳細はわかっていない。確認できる範囲では、江戸店(石町店と本所店)の管理業務以外に、奉行所等への出頭、江戸における仲間の寄合への出席な どがあげられる。とりわけ重要であったのは、幕府からの指示(御用金等)や法度の内容、仲間との取決め、江戸店の様子、仲間・取引先・顧客に関する情報、商況などをいち早く京本店に書状で知らせることである。《家内・町内関連》 京店は杉浦家本家(店主一家の住居)に隣接しており、京勤番の役目は本家や分家杉浦次郎右衛門家の家政にも及んだ。取り扱った内容も多岐にわたるが、勤番の活躍が目立ったのは、店主の縁談や養子縁組等後継者の選定、杉浦家親戚に関する相談事(家政や借金の依頼に関わる事由)等である。 町内に関わるものとしては、町寄合への出席・町内事務の担当・各種「講」や諸行事への参加(祇園祭・伊勢参宮・愛宕山参詣など)等があげられる。家督相続や店舗の普請、土地購入等に関しても町役は一定の権限をもっていたため町内との関係は重視され、大黒屋の奉公人たちにも町内の人々に対して無礼や粗相がないよう注意された。
3 経営体の存続と勤番の役割
最後に、杉浦大黒屋の存続という点で、勤番の果たした役割について考えてみたい。 【表5】は、江戸期の家督相続状況を掲出したものである(但し、九代は元治元年に家督相続。当主であった期間は明治期に 入ってからの方が長い)。初代から二代目への家督譲渡において初代の心算が頓挫し、改めて養子を迎えたことは既に述べたが、表から判るように江戸期の当主の半数は養子による家督相続が行われている。つまり、杉浦家は継嗣に恵まれなかったばかりか子供の数自体が少なく、夭逝した者もあり、八代目に弟が二人いた以外には成人後当主を補佐・加勢するような兄弟も存在しなかった。 杉浦家の家存続に認められる脆弱性は、経営体としての大黒屋の存続に対する危惧へと結び付いていく。三代宗夕による分家杉浦次郎右衛門家の創設も、こうした杉浦家と大黒屋の将来不安に根ざした事前の対応策の一つと考えられる。目指されたのは杉浦家の安泰と、大黒屋の停滞なき営業の継続と経営の安定である。同様の方向性は勤番の職務内容にも反映された。京勤番のうち信望のある老練な勤番は杉浦家の家宰ともいうべき役目を負い、また、当主が幼少・病時、あるいは病没後当主不在の期間等には、杉浦次郎右衛門と勤番らが合議によって経営を主導した。 具体的に杉浦家の実情に照らした場合、大黒屋の三・五・六・七代当主は二〇代~四〇代で早世しており、それらの嗣子はいずれも幼少であったから(三代の没時、嗣子一二才。五代の没時、嗣子二才。六代の没時、女子四才 )((
(。七代の没時、嗣子 一三才。※年令は数
え年)、当該時期に店主の果たすべき店務や経営の舵取りは、分家杉浦次郎右衛門や勤番らによって執り行なわれた。 こうした状況を当主自身はどのように認識していたのであろうか。例えば、四代利喬(法名、宗仲)の場合、彼は天明八年(一七八八)の京都大火により灰燼に帰した杉浦大黒屋を再建したのをはじめ、幾多の困難を克服し、「天性機を見る敏にして常に商策を誤たず。家運年と共に啓け、実に杉
表5、杉浦大黒屋の江戸期の当主と、その家督相続状況
代 名 前 法名 家督相続人 没年〔没年令〕
初代 内海清兵衛 (義清) 道照 元禄11年(1698)〔67才〕
2代 杉浦三郎兵衛(利次) 道有 養子 享保8年(1723)〔57才〕
3代 同 上 (利軌) 宗夕 養子 延享元年(1744)〔43才〕
4代 同 上 (利喬) 宗仲 3代目の実子 文化6年(1809)〔77才〕
5代 同 上 (利行) 宗行 養子 寛政4年(1792)〔38才〕
6代 同 上 (利義) 宗義 5代目の実子 文政2年(1819)〔29才〕
7代 同 上 (利為) 宗為 養子 天保12年(1841)〔40才〕
8代 同 上 (利用) 宗用 7代目の実子 大正元年(1912)〔84才〕
9代 同 上 (利貞) 宗貞 8代目の実弟 明治34年(1901)〔71才〕
浦家中興の祖 )((
(」と讃えられた人物であったが、父である三代宗夕の没時にはわずか一二才の少年に過ぎなかった。利喬は当時を次のように回顧している。
予御先祖乃家を相続し恙 つつがなく産 さんぎょう業勤り家内安心に暮す事、御先代の御高恩は申に及はす、惣中勤労乃功 こう疎 おろそかに不存候。不幸に宗夕様御早世なされ、其時ハ予十二歳にて何乃弁 わきまへもなく候に一統存らるることくむつかしき事もこれありたるを、次郎右衛門殿をはしめ老分別家衆店中の情力にて障なく事治まり候こと別て忝存る処なり(後略 )((
()
弱年当主を支えたのは、大黒屋の存続のために結集された「情力」(=精力。忠心からの誠意)であった。その中心は分家杉浦次郎右衛門と経営幹部としての勤番であったとみられ、ここに経営実務に熟達した忠信ある人材、すなわち、支配役を退役した別家の勤番就任が義務化されていく必然性がある。
おわりに 杉浦大黒屋における経営委任の仕組みを勤番の実態検証を中心に見てきたが、その結果を整理して本稿を締めくくる。1、支配役を退役した初代格の別家に勤番を義務付け、在職中 の家業経営は一切禁じて職務に専従させた。初代格を一代限りとして勤番に世襲制を採らなかったのは、特定別家への権力の集中を避けると共に、経営幹部の質的維持を心懸け、馴合いによる業務の形骸化を防ぐ意図があったものと推測される。さらに、規定の昇進経路を経た支配役の退役者を勤番に任じた点は、人材登用の公平・公正や能力重視の姿勢を明示したものと見られる。2、勤番は、いわば店主の代理という立場で配属店舗を管理監督し、さらに大黒屋全体の統括や経営体の維持存続に関わる役割も担った。勤番には序列があり、また、店舗間における地位の差は職務内容の質と量・職責の重さ等から見て、本店詰めの京勤番が江戸勤番ら他店舗の勤番よりも上位にあったと考えられる。3、初代格の別家の中には支配役退役後ただちに勤番に就任していない者が存在するが、これは勤番の空席がなかったことに因る。支配役の退役は江戸後期にはほぼ定期的に行われたが )((
(、勤番には定員があり、その上勤番の退職は健康状態等に左右される場合が多く退職時期は不定に近いものがあった。空席がない場合、勤番の義務が免除されたわけではなく、欠員補充や一時的代役を務める予備要員として他の別家とは別枠におかれた )((
(。これは勤番の店舗常駐が求められた反面、病死や病気、家庭の事情(親の病気・天災や火災等)により出
註(1)
本稿は『杉浦家歴代日記』(京都府立総合資料館所蔵)を基礎史料としており、文中では「日記」と略記した。「日記」の江戸期の記述部分は、天明二年四月~慶応三年一月迄(含、欠落部分)で、これは杉浦大黒屋四代の末期~九代の初期にあたる。なお、他の史料については、前号(拙稿「京都商人杉浦大黒屋の別家制度(1)」(同志社大学人文科学研究所)『社会科学』第七八号、二〇〇七年三月)の註3を参照。(2)
大黒屋又兵衛は、享保三年(一七一八)杉浦大黒屋二代利次(法名、道有)の代に別家したと見られ、江戸富沢町の店舗では古手・呉服・木綿・真綿等を取り扱った(拙稿、前掲「京都商人杉浦大黒屋の別家制度(1)」二頁)。(3)藤田彰典「京都商人大黒屋杉浦家の出自と系譜」『京都文化短期大学紀要』第九号、一九八八年三月。七五頁。(4)「道有様御書翰之写」(京都市歴史資料館所蔵「杉浦家文書」整理番号442)(5)「絹手はり」は、張 はり物 ものの中で「吟 ぎん出 で張 ばり」と呼ばれる工程を加えた物を指したものと考えられる。これは生地に澱粉類(糊)を揉み込んで生地を実質以上に良く見せるためにする張り方で、布地が厚手になり外見も著しく良好になるという。(参考:高橋新六『増補 京染の秘訣』昭和四八年復刻版(大正一四年初版)、京都書院。二三〇~二四四頁。および、『原色染織大辞典』淡交社、一九七七年。八五七頁)。(6)「是弐色ハ我等仕出しにて候。何方にて成とも尋見可被申 勤不能となる場合が少なくなかったため、そうした緊急時の対応策が予め講じられていたものと見られる。4、勤番を務めた初代格の別家の子弟には、二代目格として家業経営を許可した )((
(。既述のように勤番在職中の家業経営は禁じられており、同様の理由から予備要員として待機中に家業を始めた場合も、勤番を命じられた時点で休業、もしくは他者へ暫くの間家業を委ねざるを得なかった )((
(。ここには自分家業を断念させて勤番の職務に専念させようという店側の意向が感じられるが、家業経営を切望する者には不利であったし、一時休業や業務縮小は営業継続上の支障となった。従って、子弟に対する家業経営の許可は、先務すべき義務として初代格の別家に勤番を課した店側と、家業経営の熱意をもつ別家側との一つの妥協点であったのかもしれない。また、子弟に経営許可を与えた点は、勤番の勤務実態(死亡・病気休職の多
さ、退職年令の高さ)から見て、勤番本人が退職後や停年後に新規開業することは到底不可能であるから、きわめて合理的で現実的な判断といえる。5、家業経営を許可した二代目格の別家は本家の経営から退
け )((
(、逆に自分家業の営業状態を本家に報告させた。同じ大黒屋の別家でも、本家の経営に直接関与する経営幹部と家業経営者とでは明らかに別家としての立場が異なった。(続く)
候。石町よりも最初に売出し候所ハ無之候」(出所:前出、註4「道有様御書翰之写」)とされる。(7)前出、註4「道有様御書翰之写」(8)藤田、前掲論文、「京都商人大黒屋杉浦家の出自と系譜」七六~七七頁。(9)拙稿、前掲「京都商人杉浦大黒屋の別家制度(1)」の註5参照。初代の頃にも別家が存在したと見られ、寛文三年の創業から初代の没年(元禄一一年)までの三五年の間に、奉公人制度(別家制度)の基礎的部分が形成されたと考えられる。(
( 番号346) 10)「譲状」(出所:京都市歴史資料館所蔵「杉浦家文書」整理
( を相続した。 没年は元禄一一年。なお、浄仙は不縁となった後、神原家 と資料室所蔵「杉浦家書」)文さ海れ衛兵清の内代初る。 所史制法部学法学大京:東出妙」、題無「」(ひ貰を暇え照 11浄仙は、「元衛禄年中、清兵)死後私方之家を嫌而、養母業
杉さ室所蔵「浦家文書と刻」)れか衛兵てら清ここり、お 略所)」(「一 梵鐘」、出(:東京大学法学部法資下制史料 俗杉「鐘譽道照士、名ハ姓浦江ハ也兵衛清州当邑ノ人居 嶋郡太田村普潤山西方寺へ追善供養として納めた梵鐘には、 高閏五月廿五日、道照(内海清兵衛の法名)の一七回忌に 改姓時期を二代目からとしている。しかし、正徳三癸巳年 ら清兵衛の妻美喜(=見幾。法名、妙照)の旧姓杉浦への 拠り、内海姓か七七~七九頁。藤田論文では「由緒書」に 12)人藤田、前掲論文、」京都商「大出黒系と自譜の家浦杉屋 ( 婚後」とした。 の註4では、杉浦への改姓時期を美喜(=見幾)との「結 よって前号(前掲「京都商人杉浦大黒屋の別家制度(1)」 主が二代利次(道有)であることから内容に信憑性があり、 が「杉浦清兵衛」を名乗った可能性がでてくる。梵鐘の施
出、註 貫に見え一、銀子弐拾る「目 」(吉:前所出へ門衛右 之同銀子」とは、譲年月日の「状」の「右こいてれかる。 )と書443都市歴史資料館所蔵「杉浦家文書」整理番号 (出所:京「自分ニ商内仕候ハハ右之銀子相渡シ可被申候」 衛(道名、法衛兵郎三目)有門となる吉右二について、代 13)初代道照による元禄九年子正月廿五日の「覚」には、後に
( 10)を指すものと考えられる。
( )参照。7)」註1商人杉浦大黒屋の別家制度( 右衛門以降、坂江吉右衛門家として存続する(前掲「京都 重兵衛の長男新兵衛利勝)であったためと見られ、この吉 はなく分家とされたのは吉右衛門が二代道有の甥(兄坂江 呉服・木綿・下り蝋燭等を取り扱う)を開店した。別家で でち、の屋(問綿繰町屋分通戸江に号屋を油黒大てしと家 14)坂江吉右衛門(法名、道和)は二代道有の下で奉公した後、
( )。744 杉市歴史資料館所蔵「家浦:京文書」整理番号都所 15」巻子〕「定目二十五箇條)〔出保一九年九月二五日。(享
( 大学紀要』第一六号、一九九一年一二月。六頁。 16田と藤期短化文都京」『営経法彰)の家浦杉人商都京典「家 る。です設創を家門衛右重江坂い継を跡名の心玄門衛右重 17)宗夕の父重兵衛(法名、善入)は、父坂江五郎兵衛の兄光
坂江重右衛門(善入)の名跡は浅見又兵衛の息重右衛門(法名、善継)によって継承されるが、この善継の兄で幼少より大黒屋で奉公していた浅見次郎右衛門(直義、法名、宗継)を迎えて創設されたのが杉浦次郎右衛門家である。(藤田、前掲論文「京都商人大黒屋杉浦家の出自と系譜」八〇頁)。(
( 六頁。 18稿、の拙~五)」1度(制家別屋前)大浦杉人商都京掲「黒
( )。学部法制史資料室所蔵「杉浦家文書」 札法学大京:東所出」、事之一候申置メ認相(「る。え見が 19)明和八年(一七七一)の文書に「勤番之役儀」という文言
( 長いため数名の未確認者が存在する可能性がある。 と、安政五年~文久三年迄の六年間は欠落している期間が 天保一三年~嘉永元年迄の七年間いうわけではない。特に 慶応三年一月迄の間に支配役を務めた者の総数が六三名と 20)既述の通り「日記」には欠落部分があり、天明二年四月~
( 支配役が在職中死亡したことに因るものである。 」となっているのは、開店時期が遅く、しかも0者数が「
な) を開店時期とした。頃お、大治坂店の支配役退役
元岐店(名が見える頃 久・阜天保末年)・大坂店(文 店岐阜・大坂店の正確な開店時期は未詳のため、史料類に である本所店の文政七年開店は「日記」から確認できるが、 の出自と系譜」七五~七八頁)とした。また、現金販売店 町店は寛文八年(藤田、前掲論文「京都商人大黒屋杉浦家 21)開店時期については、京店は創業年とされる寛文三年、石
22)養子を「特殊な事例」と見なした根拠は以下の通りである。 の号前り(おてっなとりま決註 定める:杉浦大黒屋では別家後の住居を「京か在所」に①
( 42料館所蔵「杉浦家文書」整理番号・3633・424。) 出継承している。(立所:京都市目歴史資を代りなと子二 役後、大黒屋杉浦三郎兵衛家の分家杉浦次郎右衛門家の養 がある。②:石町店退役者一名は特に人物を見込まれ、退 地の出身者には勤番以外の身の振り方が選択された可能性 て商家側・奉公人側双方の不便・不都合から、これら遠隔 は、勤番を務めれ京本店への出仕が不可欠となる。よっば 出身の本所店退役者一名の石町店退役者一名と、武州葛郷 (ママ)12崎岡州三が所在)、照参
( 後の身の振り方が定まっていない者も存在する。 勤番の空席がなく、別家性がある。また、支配役退役時に まれており、その場合、欠落時期に勤番を務めている可能 記」の欠落時期にあたるため動向の確認がとれない者が含 23とた動向不明」日が「期時しし役退を)「配支は、に中た役
( りニ在之」とされる。 ちいた家業を、「在所商売取ちめ、兄弟え預ケ置く申す積 業経営は禁じられていたため、清右衛門はそれまで営んで られ、その際は任務に就いている。なお、勤番在職中の家 は再度江戸勤番を申し付け七年後の文化一二年九月二日に 在所之目録遣之」とあり、で自分家業を始めた。しかし、 衛門は勤番を辞退し、文化五年一〇月二日には「自分渡世 24。清右「日記」文化五年八月二六日の条))清右衛門の事例(
店者の身分を示す際の「同格」や「○○の次の格」等、奉 改入中途」、げ下格や「」め格の「際たし勤再が者店離時 25)杉浦大黒屋で「格」という語は、病気や規律違反による一
公人の序列を示すために用いられ、また、別家格・准別家格・表出入格のように、地位(立場)や所属する集団を表わす場合にも用いられた。同様に「初代格」も、一代目を意味する「初代」とは異なることを明示する目的で用いられたと考えられる。(
( 由で中途退店して家業を継ぐ者が少なくなかった。 「奉公した後、続相で暇」等の理)まえ登初や服元、ばり し、支配役まで昇進する者は稀で、大部分は一定期間(例 配属され、他の小者と同様の待遇で奉公した。しか各店に 目見得し、一定の見習期間を経た後採用が決まると大黒屋 られていたと見られ、一一、二才になると上京して店主に 26大黒屋での修業が義務づけ)杉浦大黒屋では、別家の子弟に
( 店・本所店各二名の四名体制が整えられたと見られる。 時町石てっなに末幕り、あが期るす当担で人三を店所本 よる兼務、その後は石町店と店開店当初は石町店の勤番に ついては、文政七年の本所化がみられる。特に江戸勤番に 27)勤番の数は、京勤番・江戸勤番とも、時期よって若干の変
( 。一八二頁) 』5『老いの較家族史比三〇省収。所年。九九一堂、
リ 」(シ族ーズ家史して主と扶 老人題養問題をの れ竹大(る。たさとれら男「秀老江戸時代の人観と老後問 28)寛永頃を境に六〇才から五〇才へ、老人の境界年令が改め
のかどうかは定かではないが、孫兵衛はその年の九月二日 尽力した。その心労や過労に舗の普請と店の再開に因るも 戸勤番であった孫兵衛は春の勤番交代を秋まで延期して店 29)例えば、天明六年一月大尽の江戸石町店類焼の際、当時江 ( に死亡している。
( 「不埒」によるものである。 取とされた嘉助も「番役儀勤上あげ件一とは分。処の」 に」慢怠目役も「で件の他ら兵さし、認黙を業営屋質の衛 30勤番在職中、た質屋を始め)吉郎兵衛が「役取上」。吉郎儀
( 勤番を務めた者である。 勤「そ他」の一名は、病気のの番一のみ間年のてしと役代 し之て、家名取上げや「永受暇」の処分をけた。また、 はないかと推測する。しかし、両者とも開業後問題を起こ 、希望により自分家業が許されたのでば務(勤番)を果せ 兵衛のような事例は他の新立別家とは異なり、一定期間義 てるし番を命じられてい勤が(は伊市明不)、細詳の衛兵 に支該当する。市兵衛は、初配役退役後「代格」と格」) 31「二代目)「依願退職」の市兵衛と伊兵衛は重代別家の子弟(
( 所に引っ越した。 在所へ戻ることが許可されたもので、兵助一家は江州の在 申請を出し、それが承認された後に京の住居を引き払って された。国隠居とは、京別家が杉浦大黒屋本家へ相続人の 32)大(大黒屋)兵助は、七一才の時「国隠居」を願い出て許
( 。号、二〇〇五年三月。七四二頁)
志との比較検討 」『同社期商学』第五六巻第五・六後
戸稿「江に下がっている。(拙幕末期の杉浦大黒屋 頃 頃であったが、幕末期(嘉永~慶応頃)には三二~三四才 33)支配役の退役年令は江戸後期(天明~天保頃)には四〇才 お勤てっか付仰を」役退店で「才一十六「」、れらえ考と 34)木綿問屋柏屋では「通勤別家のものは六〇才まで在勤した
り」、「一種の停年制の如きものがしかれていたようである」と述べられている。(足立政男『近世商人の別家制度』雄渾社、一九五九年。二五~二六頁)。(
( 35)大竹、前掲論文。一八四頁。
( 36)大竹、前掲論文。一八四頁。
( 史資料室所蔵「杉浦家文書」) 37」京申渡制法部学法学大:東安所)「月(九秋午戊年五政出
( 儀、京江州分両用の内ニ為勝手由申渡す」とある。 儀、此度別家申付る。元手銀暖簾風呂鋪料等遣す、居宅の 勤番之手伝申付」とされ、同年一二月には「店与惣兵衛に 間礼奉公之心にて宿不持、店ニ居ニて、奧台所諸雑用取調 38月は、安政元年一之年三両「衛に兵惣与)し役退を役配支た
(
討 」七四二頁。 39
)拙稿、前掲「幕末期の杉浦大黒屋 江戸後期との比較検
( た。 ればと伊勢店』吉川弘文館、一九六二年。六二二頁)と呼 番伊勢商長谷川家では「勤人」(江北商戸業著『編元正島 、四百年史稿本』一九六六年。三六および、四三~四四頁) 五家郎家では「出勤別編『」(下村冨士男西川川甚西人 宅』」(大丸二百五十年史『一頁九商近)、江八六年、七六 る下であろうが、例えばで村家(大丸)は「日勤別異な 40よって職務内容等が)呼称により、また同じ呼称でも商家に
歴考というよ資な意味とうえ:京ら料市都史所(る。れ出 「たもので、勤通いめの別」家れら別用と区いす目的でる 勤いる事例がある。これは他番をの別独立営業者等)家( 41)杉浦大黒屋の残存史料の中には、勤番を「通勤」と記して 館所蔵「杉浦家文書」整理番号
( り入家諸祝儀之事」) 90「稲田氏結納之諸事・あ
( )。044理番号 資ある。(出所:京都市歴史所料館蔵「杉浦家文書」整と 」事改め記し、勘定のあたりきは店詰の別家衆致さるへ相 銭等ハ店詰乃別家衆改め申さるへき事、尤当座帳は支配人 42諸勘定古格の通十日目に改め且金銀 「一)「家業之定」に、
( 。(「日記」天保九年二月二〇日の条)日に定められた。 きる。天保九年から提出日が、春は三月八日、秋は九月八 代の時に行なわれていたことは「日記」の記述から確認で 43出だ身上勘定差四屋黒大が、詳」不は)「嚆たれらめ始が矢
( )394蔵「杉浦家文書」整理番号 所家内之定」附録。出市:京都前歴史資料館所掲「」(事 44一 仲間名代勤の義、別宅衆)「中老分の人相勤らるへきの
( 済的援助や勤番交代の延期などの措置がとられた。 ら別家の住まいも数多くあったため、被災状況に応じて経 にも在所の安否が知らされた。また、同地域には江戸勤番 況を調査した上で金品の援助が行なわれ、江戸店の奉公人 あった。この他、大火等の発生時にも京店が在所の被災状 による水損や旱損被害の有無は奉公人の気になるところで 辺に集中しており、親元には農家が多かったために大雨等 45)杉浦大黒屋の奉公人の在所は琵琶湖西岸の西江州高嶋郡周
」は利義の婚外子で、のち塩小は未婚である。当該女子「 しほこ 町中へ婚礼披露の直前に「離縁」となった。従って、利義 文化八年二月にはが杉浦家に入家したが、文化九年八月松 しょう46化ま六代三郎兵衛利義は文り、と五まが談縁の)松田村年と しょう
に七代目利為の妻となった。(
( 一九三四年。二八二頁。 47内梅岩部、版出館命立』岩田誠)のてしと家育教一『石
( )973所蔵「杉浦家文書」整理番号 市所:京都料歴史資」(館出状」〔喬士居継宗〕「名題行記 48利 宗継居士行状之書 「明和九年壬辰夏五月)〔包紙の表〕
( 八頁参照。 49稿、の拙~七)」1度(制家別屋前)大浦杉人商都京掲「黒
:前出、註(出所不明。 いては、安政五年~文久三年まで「日記」が欠落しており つ勤番を勤めている。他の者に無役であるが、孫七は後に 永三年盆限退役)の四名である。彼らは嘉永四年時点では 不明)・孫七(*嘉・藤七(*嘉永二年一二月退役申付け) 四期時役退*郎(兵一右役退月二一年一)・保天*門(衛 50置かれているのは、作)嘉永四年の記録で「初代別宅」枠に
( 41)
『大阪大学経済学』第「近世後期における鴻池家の奉公人」 自の家督をつだ時だけに介分(家謙山廣いた。れさ許を業 旧来の別家子弟で鴻池善右衛門家に出仕していた者が別家 は新たな自分家業を営むことは許されず、わずかに時期に なることを意味し、鴻池姓を名乗ることを許された。この 別家を許されたものではなく、独立した権限を持つ番頭に 鴻池家では元服後一七~一九年で別宅となったが、これは 『西川四百年史稿本』三六頁)とされる。また、(前掲、る」 なと家別」営自家よ者は「出勤別り「」目あり、二代で 家郎五甚西川は、人商江で役「支配を終えて家となった別 51)別家初代と二代目以降の経路を区別した事例としては、近 ( 三二巻第二・三号、一九八二年一二月。三八六頁)
れた。具体例は、前出の註 られた時点で休業、あるいは一時的に他者へ家業が委ねら て自分家業を始める者もあったが、勤番として出勤が命じ 52)予備要員とされた初代格の別家の中には、店側の許可を得
( 24参照。
で差が設けられていた。 れ、諸行事での役割分担や参加順序、処遇等、様々な場面 代目以降の区別は「日記」の記述や残存史料の中にも見ら るというような問題もあったらしい。また、別家初代と二 53)この背景には、別家の家業経営者と本家の仕入役が結託す
*本稿で使用した史料類は読み易くするため句読点を加え、助詞および、変体仮名の部分(安→あ、江→え、可→か、須→す、天→て、而→て、那→な、尓→に、者→は、盤→は、免→め、毛→も、里→り、流→る、礼→れ、越→を、等)は平仮名に改めた。また、異体字も適宜改めた。