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本郷プランにおける社会科教育の展開と帰結

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本郷プランにおける社会科教育の展開と帰結

佐藤 隆

第一章 戦後初期地域教育計画論研究の        意義と課題  教育学研究における重要な課題の一つに、何を 対象にどのような方法で学ぶ(教える)のかとい う教育内容編成にかかわる諸問題を整理するとい うことがある。とりわけ、社会科教育では、他の 領域以上にこの問題は常に論争状況にあるといっ ても過言ではない。この点では、本稿で取り上げ る大田尭をリーダーにした本郷町教育計画(以 下、本稿では通例にしたがって、本郷プランとい う。)などが展開された戦後初期は、誕生まもな い社会科の模索期でもあり多様な実験が可能で あったことからも、教育史的アプローチがこれま で多くの論者によってなされてきた。本郷プラン に限ってみても、社会科教育史の側面から問題に した先行研究は相当数に上る。それらの多くは大 田の当時の教育観の検討と紹介に焦点を当てたも のとなっている。その代表的な例に水内宏の研究 がある。水内は、教科書中心の伝統的教育観とそ の対極の児童の興味や経験から出発する教育観を 同時に批判する見地を大田の教育観は示している として、大田の言葉を次のように引用している。

  「『子供達が離し難く結びついている大人を含めた  現実の地域社会の中で如何に生きるか、従ってまた  現実の社会生活の一員として子供が如何に社会生活  を改善してゆくかと云う子供の生活問題解決のため  に(一)それを解決するために人類の蓄積した文化

 財が伝達されなければならないし、(二)子供の能力  に応じた興味や衝動が尊重せられなければならない  と云う教育の大原則が基本となって学校編成が成立  するものと考える』と述べ、『地域社会の中での学校  編成の手続き』として『(一)社会の課題の配列(二)

 それを解決するための文化財の選択(三)それらは  究極的に子供の問題の配列である』と結論してい

 る」1)。

 この引用を含めた水内論文は、たしかに大田の 教育観と本郷プランの中枢を看破しており、それ として重要ではあるが、いわば紹介の域にとど まっている。本郷プランを、1950年代半ば以降の 国家による教育統制が厳しくなる以前になしえた 実践の一つというほどの位置しか与えていないと いうのが研究の現状のように思われる。しかし重 要なのは、本郷プランをはじめとする戦後初期の 社会科教育を模索する実践がもつ意味を、今日の 状況にいかにひきつけて考えるのかということで はないだろうか。

 大田が提起し、水内が確認したように「子供達 が離し難く結びついている大人を含めた現実の地 域社会の中で如何に生きるか」を社会科教育の出 発点の一つということができるならば、そこにお ける「地域社会」を「生きた教枷として取り上 げる意義がいかなるものであったのか。同時にそ の手続きとして重視された「(一一・一)社会の課題の 配列(二)文化財の選択(三)それらは究極的に 子供の問題の配列」が、妥当なものだととしても

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 16 教育科学研究 第14号 1995年8月 そこでの教授・学習過程における、「子供の興味 や衝動」のとらえ方に問題はなかったろうか。こ の点とかかわって先行研究は、本郷プランの実践 の展開にみられる問題性にはほとんどふれていな い。このことが、社会科教育研究にとっての本郷 プランの位置づけのあいまいさを生んでいる原因 となっているように思われる2)。この点で、先行 研究が本郷プランを社会科教育研究にとっていか なる意味をもっていたのかを確定する上で過不足 なく問題をとらえていたといえるのかどうかを問 い直す必要があろう。

 大田は、自らの地域教育計画論についてたびた び自己批判的に総括している。

  「得体の知れぬ社会科という教科のカリキュラム  をだしにして、中央集権を教育から排除して、地域  住民の意志にもとつく下からの学校づくりをという  身の程も心得ぬ野望をもって、町の若い先生たちの  民主化への情熱とエネルギーに支えられての仕事で  した。ですが、地域の問題の背後にある日本社会の  体質そのもの、これをとりくんだ先輩たちの重い、

 苦しい民主化運動の歴史やほんとうに目下の人々の  心根にある願い、怒り、悲しみに学ぶことにはなお、

 うといままの冒険でした」3)。

 大田の総括の要点は、(1)「子どもの切実な悩み とのとりくみから」発して地域との結びつきへと いう展開方向が実践的に貫き得なかったこと

(1952年)(2)各専門部会および地域懇話会のサロ ン化(1952年)(3)実現しようとした民主教育を、

伝統からの断絶において、考えていたこと(1959 年)(4)一つの理想と信ずる教育計画を、地域と学 校の上にいきなりおおいかぶせる結果となったこ

と… 現実の問題点からの遊離(1959年)、など である。

 先行研究の大部分は、大田の自己批判の追認で

その紹介を終えているが、しかし、ここにこそ、

社会科教育研究の課題として、踏みとどまって検 討すべき内容がある。とりわけ、「『子どもの切実 な悩みとのとりくみから』発して地域との結びつ きへという展開方向が実践的に貫き得なかった」

のはなぜか、大田があれほと望んだにもかかわら ず、「学習の主人公としての子どもの問題」が本 郷プランの実践過程では浮かび上がってこなかっ

たのかはどうしてなのかを、大田に代わって解き あかすことを先行研究は第一の課題とするべきで あったと考える。大田自身はその理由を、当時の 自分の「国勢論的」な教育観と「教育復興意識」

に求めている4)。しかし小論での検討を通じて明 らかにするように本質的には当時の大田の実学を 基調とした教育観の根幹部分にかかわる問題から 必然的に導かれるべき問題である。

 小論ではこの点の検討を中心に行い、必要に応 じて戦後初期社会科の論争課題の整理を試みる。

第二章 初期社会科教育をめぐる論争と        本郷プランの位置

 ここでは、大田の地域教育計画論の生成過程で の鍵的概念であった「近代人」の形成という教育 目標が、戦後初期の社会科教育をめぐる論争のど の文脈に位置していたのかを検討する。先行研究 との重複は承知しつつも、まずは大田の発想を概 観するところからはじめることとする。

 当時、本郷プランは一一一s般的には「生活からの教 育編成」を唱えた海後宗臣の中央教育研究所と川 口市助役であった梅根悟によって指導された川ロ プランと同系列に位置づけられていた。たしか に、大田自身もその著書『近代教育とリアリズ ム』(1949年)において海後の指導に謝辞を表し ていることに明らかなように、教育計画および教

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育内容編成の考え方において、本郷プランと川ロ プランには共通性が強くみられる。たとえば、

(イ)教育内容の編成はその地域社会の生活を基 盤としてなされるべきこと(ロ)その構成の主体 はその土地の人々すべてにあること(ハ)計画立 案は調査をもとにした客観性をもったものである こと、といった主張は、双方に全く共通するもの であった5)。更に以上のことに規定されて教育方 法についても同様な認識を見いだすことができ る。川ロプランは、「国定教科書による教師中心 の注入的教授に代わるあたらしい教授=学習実践 のありかた」として現実生活に学ぶ方法的観点を 打ち出し、伝統的教育方法を否定していた6)。大 田も、戦前および戦後を通じてなお根強く残って いる「教科書信仰」を批判して次のように述べて

いる。

  「教科書を通じて一一一i定の文化財を伝達しようとす  る方式はすでに何人かの少数者によって決定された  教科内容がもっともたしかな教材として教科書中に  盛り込まれてあってそれをそのまま子どもにのみこ  ませるにすぎない1。

 そしてその方式を承認していることは「今なお 封建的専制的社会生活の仕組みを意識的にも無意 識的にも承認していること」にほかならないので ある。したがって「法文の教育目標がいかに民主 的人間形成を絶叫し、教科書に民主的な内容が盛 り込まれ、教師が口に民主化を強調しようとも、

教育の仕方そのものが封建的であるならば、その 仕方のなかで『民主化』の絶叫が熾烈であればあ るほど、封建的人間形成に拍車をかけるという皮 肉も成立しそうである」と述べていた7)。これは 教育内容と教育方法の不離一体性を、逆説的に強 調したものにほかならない。

 「教科書信仰」を基調とする「伝統的な教育」の

否定の上に計画された二つのプランは、r学習指 導要領一般編』(1947年)が打ち出した「子ども の生活経験・自発性や地域の特性を生かす」観点 と適合する学習指導方法の具体化の一典型と見る ことができる。他方、多くの研究が認めているよ うに、f学習指導要領』は、こうした画期的な意義 を持つ反面、「地域の特性を生かす」ために、「地 域社会学校」(コミュニティ・スクール)の理念を を適用しようとしたが、それはかえって既存の前 近代的な秩序をも許容する傾向をもたざるを得な かった8)。これに対して大田が、r学習指導要領』

には希薄な、現実の否定的側面にあえて焦点をあ てて、そこから教育内容の編成を行うことを強調 している点での相違は、無視できない。大田は、

「子供たちが具体的に直面している生活問題のう ち、もっともきびしく社会の仕組みと深くかみ あっている問題を選択して、カリキュラムとして 編集する」9)視点を重視した。この視点のもと で、地域社会の前近代性や封建的慣習の克服を課 題としていたことは、川ロプランをはじめとする 当時の諸プランには容易に見いだせない、大田の 地域教育計画論における顕著な特質であった。地 域をどう見るのか、そして地域と教育の関係をど う考えるのかは、「学習指導要領」をめぐる当時 の社会科教育の論点の一つであったことからすれ ばきわめて重要な意味を持つものである。そこで 次に、この論点をめぐる問題状況を簡単に振り 返ってみよう。

 大田のコミュニティ・スクール論への注目は、

本郷町教育計画の実践に実質的に関わっていた時 期(1949年半ば)までに集中している。その間に 執筆された三つの著書と約三〇本の論文はほとん どコミュニティ・スクール論の検討にあてられて いる。大田の戦後の第一作目の論文(それはまた

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  18 教育科学研究 第14号 1995年8月 本郷での実践以前の唯一の論文でもある)「地域 社会における学校教育計画」は、きわめて短い間 に完成されている。そのことは、大田が学部卒業 研究としてとりあつかった実学主義の系譜として の近代科学論を研究の足場にすえなければならな いことを意味していた1°)。このことがかえって、

後述するような大田独自の地域教育計画の思想と 実践が生成される上で、大きな役割を演じること

となる。

 戦後の出発にあたって、大田は、科学と人間形 成の関係をどのように見ていたであろうか。論文 集『地域社会と教育』の序章ともいえる「近代社 会の人間像と教育」のなかでこの点を次のように 説明している。

 「近代人は、洪手して事態を無条件に服従する ことを、全ての被支配者の習性たらしめていた中 世的封建社会の姪桔を打破することから歴史の舞 台に登場した」(9ページ)、「ヨーWッパの世界に 18世紀末より19世紀にかけて、市民社会の成立 をもたらした新しい民衆層(産業ブルジョア

ジー)」(12ページ)がそれである。その近代人を 封建社会から解放したのは科学なかんずく自然科 学であると大田は述べる。「近代自然科学の成立 とともに、自然を動かすこともできるという自然 変革の確信」(10ページ)を拠り所にして、「自然 や社会や生命はその仕組みの全体を変革し前進す ることに確信をもつ」(10ページ)にいたったと いう点である。もちろん大田は、この歴史的な概 念としての近代人=産業ブルジョアジーの形成 を、戦後の日本社会の中で意図したわけではな い。むしろそのような科学性・前進性・民衆的連 帯性を近代以降に歴史の変革者として登場する階 級・階層に共通する社会的性格であるととらえて いた。それは1930年を中心とする大恐慌のなかで

の悲痛な体験を経て台頭してきた「油にまみれた 民衆層」(13ページ)が「自らの要望する社会秩 序の中にこの巨大な機械とその人民的管理を要求 している」(13ページ)ことを評価していること で裏づけられる。戦後B本社会の荒廃のなかから 新しい社会秩序の再建とそれに適応した人間とそ の形成とを近代人の生活論理に求めたのであっ た。そして大田は、大恐慌期にデューイらによっ て指導された社会変革をも視野におさめたプログ

レッシヴィズムのコミュニティ・スクール論のな かに近代実学主義の精神を読みとり、これを日本 の現実に対応させようとした。しかし戦後改革期 の日本に紹介され、学習指導要領とも相互補完の 関係にあったコミュニティ・スクール論は、大田 にいわせれば「牧歌的」なオルセンのそれであっ た11)。オルセンのコミュニティ概念は、著書『学 校と地域社会』12)に示されているが、この規定は 社会学者クックのコミュニティ概念をそのまま引 き継いでいる13)。それは(1)一定の住民からなる 人口集団であること(2)…定の地域をもつこと

(3)共通の経験によって結合していること(4)F一 定の社会施設や機関を備えていること(5)住民が 統一一性を意識していること(6)危機に際して集団 的な統一行動をとり得ることを特徴とする基礎集 団である、というものだった。これはいかにも静 態的であると同時に、相互依存関係を基調とする 予定調和的なとらえ方であり、大田がいうように

「牧歌的」である。これをそのまま地域概念とし て踏襲して、石山修平、坂元彦太郎(当時、文部 省初等教育課)、森東吾(同、岡崎高等師範教授)

らが、「地域社会学校」論を展開した14)。とりわ け石山は、『学習指導要領」の作成に関わるかた わら『社会と学校』誌を中心に精力的に論を展開

したが、オルセンの静態的コミュニティ概念をき

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わめて忠実に日本の「地域」にあてはめようとし た。そこでは、地域を学校教育にいかにして有効 に利用するかというところに重点がおかれたため に、現実の地域社会をそのまま肯定する傾向をも つものとならざるを得なかった。

 ところでこうした相互依存関係を強調する社会 機能論に基づく『学習指導要領』の発想は、アメ

リカ流の「新教創にあきたらずマルクス主義的 な立場から教育学研究を推進しようとする団体や 研究者、実践家との鋭い対立を生み出したのであ る。そうした団体の一つである日本民主主義教育 協会(民教協)は、機関誌『あかるい教育』を中 心に「新教育」批判の活動をおこなった。その批 判は「プロジェクト型の授業が読書算の基礎学力 の低下を導き出したという点に向けられ、やが て、知識に対する系統的学習を困難にしていると いう点に向けられた。またアメリカ教育学の理論 的根拠としてのプラグマティズム哲学の批判に向 けられた」15)と評価されるような内容であった。

 その代表格であった矢川徳光は、著書『新教育 への批判』16)のなかで、「学習指導要領」に示さ れている地域概念およびコミュニティ・スクール 論について、大要三点にわたって批判している。

それは(1)資本主義社会体制においては不可能な 同質的社会の問題を設定している。(2)したがっ て重視される「生活学習」の「生活」は「プチ・

ブル(または大ブル)たちの身分に相当した「生 活」であること。その意味で、「学習指導要領」で 想定されているコミュニティ・スクールは「資本 主義的個人主義をその精神の本質としているとこ

ろのr利益社会』学校」(80ページ)である。(3)

総じていえば、「その本質においては、現実の社 会とは異質なものである。それらのコミュニ

ティ・スクー. 一ルの中における子どもたちのいわゆ

る社会生活は、現実の社会生活とは連続していな い生活である」(80ページ)とその虚構性・非階 級性を問題にした。

 しかし、民教協や矢川の批判は、地域の中の対 立・矛盾を日本社会の階級対立と関連づけてとら えるという視点を提供したことは事実だが、一方 で民教協自身も「人間関係とその発展に対する科 学的な理解を与え、真に実質的な民主主義的社会 生活を建設し、実践していくところの正しい態度 と能力を養うji7)ための具体的な実践の構想を示 すにはいたらなかった。「日本の現実の社会生活、

児童が経験し関心をもっている具体的な事実か ら」題材を「選び出す」としてはいるものの、今 井誉次郎による「西多摩プラン」などいくつかの 例外をのぞいては、いきおい既存の社会科学の知 識体系に依存する傾向を持たざるを得ない構造を その主張に含んでいた18)19)。

 やや図式的な紹介となったが、本郷プランは、

このような「論争」状況のなかでの実践の模索で あった。くり返しになるが、1930年代のプログ

レッシヴィズムの系譜に属するコミュ:ティ・ス クール論への着目は、大田をして現実の地域社会 は、矛盾と混乱に満ちていることを確認させたの である。大田の地域教育計画論の特徴である、

「もっともきびしく社会の仕組みと深くかみ合っ ている問題」と教育内容編成を結合させようとい

う発想は、オルセン=石山のコミュニティ・ス クール論への、したがってまた『学習指導要領』

への批判鳶識の上に成立しているといっても過言 ではない。その意味で部分的にではあるが矢川ら の議論を支持する発想であったといってよい。大 田が求めた「近代人の形成」によせて掲げた三つ の指標のなかには、この点がより具体的にしめさ れている。

(6)

 20 教育科学研究 第14号 1995年8月

(1}前進性について

 大田は近代実学主義の系譜をたどって、近代人 の生活方式が「常に過去に実践の規範を求めるよ りもかえって現実の変革を通して未来への発展の 関心を集中する傾向にある」2°)ことを指摘してい たが、そこには封建的服従的な教育方法をあらゆ る意味で否定するという発想が貫かれていた。同 時にまた「歴史を押し進める近代的人間は、心の 持ち方などによって事態が処理できるものとは考 えない。現実を変革し、その甲斐あったときにの み、その変革的実践の価値を承認する」21)と述べ ている。このことは、『学習指導要領』が社会科の 任務を規走して「青少年に社会生活を理解させ、

その進展に力を致す態度や能力を養成することで ある」としていたのに対して、その態度や能力の 内容を問い直す契機を含んでいた。

 大田によれば、社会科の任務は、自然や生命な かんずく社会の仕組みそのものに「限りなく変革 可能の確信を持ってのぞむ」za)態度と能力の養成 にほかならない。それは単に「社会生活」の肯定 的な「理解」を前提にするのではなく、「青少年」

自身が、「社会生活」に参加し「変革的実践」を試 みることを通じて、「社会生活の理解」を深める

という教育方法論の提起でもある。

 ②民衆的社会的連帯性について

 いま述べたように、大田は近代人の生活方式の 変革的前進性という概念から、現実変革のモメン

トをとりわけ強調して抽出した。したがって、こ の前提のもとでの民衆的社会連帯性も『学習指導 要領』が強調していた「相互依存関係」と同じも のとは考えられない。それは現実を変革する主体 相互間における社会連帯性の強調なのであって、

古い社会秩序の維持を担う層との社会連帯性では ない。これは、大田の教育内容論を語る上での重

要な点である。本郷プランが地域社会に存在する 対立・矛盾のなかにこそ社会の課題をあきらかに する鍵があるとし、「地域を目的的に取り扱う」ts)

ことを通じて地域の現実を規定している日本社会 の問題をも教育内容に定位させようとしたこと は、後述するように、本郷プランの「学習指導案」

に明瞭にあらわれている。ただし、これも後で指 摘することになるが、必ずしもそれが大田の主張 する方法的視点で貫かれていたとは思われない。

しかし、いずれにせよ、教育方法が教育内容との 統一的な把握のなかで成立するとしていた点で、

先に見た、大田による「伝統的教育」批判を、よ り具体的に示して見せたものと考えられる。

 (3)科学性について

 大田は地域社会の「変革的実践」をおこなう上 で、それに必要な「文化財」の伝達を学校の最大 の任務であるとしていた。大田が、ここでいう

「文化財」をどのように把握していたかが小論で は特に重要な意味を持つので長いが引用してお

く。

  「文化財は我々の生活の中から抽出せられた記憶  の組織的な象徴として、整頓された種別や類型を   もっている」「我々が自然と対決する必要の中から   自然科学的な文化の一群が、社会と対決するための  社会科学の一群が、さらに我々の感動の表現として  の芸能的な文化財の…群が今日成立している。我々  が『どうするか』の課題解決にあたって、これらの  文化財はそれぞれ自己の対象領域の成果を我々に提  供している。これらの文化財は認識と表現の道具と   して、我々の課題解決に不可欠な役割を演ずる。こ  れらの認識および表現の道具としての文化財は、そ  の担当領域(自然、社会、芸能)に応じてそれぞれ  一組の論理的建築を構成していて、これらを実践的   に課題解決に利用する能力の修練は、実践的人間の

(7)

 錬成に欠くことができない。然もこれらの文化財の  建築は土台からその上層にいたるまでに一定の序列  が成立しているので先ず土台から順次に克服せられ  てゆかなければならない」。

 大田は、このように文化財の伝達にあたっては その科学性と系統性を重視した。

 その結果、「今日、進歩的と称するカリキュラ ム論の中には、カリキュラムとは経験そのもので あるとか活動そのものであるとか定義づけている けれども、学習計画の過程に関する限り、すなわ ち課題表の作成及び単元構成過程に関する限り該 当しない」と述べるなど、生活(経験)主義批判 をおこなっているM)。しかしその言い方は、必ず しも単純ではない。「今日の普通教育のなかにな お支配的な形で存在している諸学科は、19世紀中 葉以降の知識の整理の仕方」に基礎をおいている のであって、必ずしも今日の課題に見合うものと はなっていないas)。その意味では「従来の相互に 無関係な学科配列」は批判されなければならず、

地域社会の課題を中心に「全教科および学科構 成jがなされねばならない%)。社会科は今日の課 題を明らかにするという意味でその学科配列の総 括的役割を与えられた学科として存在すべきだと

いうのが大田の考え方であった。

 ここに社会科教育実践・研究にとっての一つの 重要な論点が浮かび上がってくる。このように

『学習指導要領』にも見られる「経験主義」的学習 を批判しながら、一方で「地域社会の課題」に即 応して、教科の再編成をも含みつつ、自然科学や 社会科学の系統的学習を強調する論理は、1950年 代以降今日までかたちを変えながら継続している

「問題解決学習」か「系統学習」かという論争を見 通す視点ともなりうるものであった。この点を中 心に次節では、実際の本郷プランの取り組みにお

いてこの視点がどのように有効に機能し得たか否 かを検討する。

第三章 本郷プランにおける

        社会科教育の展開と帰結 本郷プランでも地域社会の課題を把握する段階 では、川ロプランと同様に実態調査がおこなわれ ている。第一回調査は1947年8月に始まっている が、これを契機に本郷町地域教育計画が始まった のである。当時、大田はこの社会実態調査の目的 を次のように述べている。

  「我々の社会実態調査の目的は先ず地域の教育編  成のために土地の生活問題を総合的に展望すること  であり、それは同時にその地域社会の全生活を一層  改善するために生活問題の継続的な追求をすること  であった」「社会実態調査の発表が組織成立に大き  なモティヴェイションを与えている」27)。

 ここで注目しなくてはならない点は、第一に実 態調査が教育内容編成のためだけでなく、克服す べき生活の問題は何かという点を明らかにしなけ ればならないとしていたことである。これは「生 活からの教育編成」をめざした川ロプラン等と重 なるが、川ロプランが、果たすべき社会機能を基 準にして教育内容を編成しようとしたのに対し、

本郷プランが「土地の生活問題を総合的に展望」

し、「全生活」を改めていくことを一一方の柱とし て意識したという点で違いが見られる。大田は後 に「川ロプランの課題の捉えかたは平面的であ るjと述べたことがあるがas)、これは改造される べき社会の課題こそを教育内容として編成しなけ ればならないことを重視したあらわれであった。

 第二に、実態調査は地域の人々が日常無意識的 に見過ごしてきた「生活事実を数的に或いは記述 的に明らかにする」ことでもあったが、それ以上

(8)

  22 教育科学研究 第14号 1995年8月 に「生活を継続的に追求する」住民組織の結成を 眼目としていたことである )。大田は「地域内の 日々生起する生活問題をとらえるためには、地域 の人々が調査の主体とならなければならない。次 に日々変化する地域の生活問題を継続的にとらえ るためには、地域の人々からなる継続的な調査組 織が結成されねばならない」と述べている。この ことは、教育内容編成においても主体の重要性を 強調したことと重なっている。先に大田が教科書 を通じて一定の文化財を伝達する方式を、学習主 体とは無関係な「少数者によって決定された」も のであるという理由から批判したことを見た。同 様に地域社会の課題も、一それがいかに合理 的かつ重要な内容をもっていようとも   主体 による認識・実践の循環過程を経ずして主体の内 面に課題として位置つかないことを自覚していた からである。

 しかしながら、実態調査項目および質問の方法 等は川ロプランでの実態調査と同様の傾向をもつ ものであったことも否めない。試みに船木村にお ける調査項目のいくつかを見ておこうse)。項目は 多岐にわたっているが、川口同様に産業・政治・

教育・衛生・文化・家庭の各部門に分かれている。

また質問の仕方も「… するにはどうするべき か」式の川ロプランと同様の方法が用いられてい る。本郷プランもまた調査結果と本来果たすべき 社会機能の落差をうめるという意味での機能主義 的要素を多分に持っていたことは否定できない。

しかし「農業会から協同組合の発展についてどの ような問題があるか、農地改革はどのように進行 中か、改革に付随した欠陥はどうしたらよいか」

などの問題を調査に終わらせずに、教育懇話会で の検討の過程を重視したことの意味は大きい。こ れは調査に住民の要求の掘り起こしと課題の自覚

化への問題提起の意味を込めていたことのあらわ れである。「社会は根底から批判されねばならな い」ということ、そしてそれは「民衆の手によら ねばならない」という大田の着想が、本郷プラン の具体化の中で生かされた場面であり、他のプラ

ンとの違いを際だたせている点でもある31)。

 このような実態調査によって把握された地域社 会の課題は、教育懇話会の各部会によって検討さ れ、子どもの実態とのすりあわせをおこないなが

ら学校教育計画へと具体化されていった。その代 表的な事例が1949年の農薬使用実験へ向けた取

り組みであった。ここではこれを例にとって本郷 プランにおける社会科の教育内容がどのように確 定していったのかを検討しておこう。

 実態調査の結果および部会での検討を通じて、

教師たちは本郷町・船木村等中部地方の農業の問 題を次のように把握したsa)。

  「(1)全体として小規模経営(この地域の99パーセ  ントが2町歩以下の零細農である)。(2)手労働によ  る家内集約労働、四つん這い農業(耕地1平方キロ  メートルあたりの農業人口766人は日本全体の平均  650人に比して多い)。(3)人口過剰にして潜在的失  業人口を有し、低賃労働者を出している(人間価値  の下落を引き起こしている)。(4)以上のような農業  経営形態は、日本資本主義経済の特殊形態を維持す  るための安全弁となっている」。

 さらに子どもが農業労働力として家庭内におい て重要な位置を占めているにもかかわらず、農業 に関する科学的な知識はほとんど持っていない事 実を明らかにし、悪条件、因習に盲従している地 域の実態をあわせて指摘している。この解決のた めに、根本的には「農民の社会的地位を高めなく ては日本の民主化は望めない」のだが、そのため にも当面「労働生産力を高めるための生産過程の

(9)

機械化、技術体系の近代化こそ農業技術発展の方 向とされなければならない。その中でこれを阻む ものとしての小農経営と土地の所有関係を問題に し、作業の共同化、機械化および有畜(生産家畜)

農業を推進する」方向を示した。また「生産様式 の変革こそ意識の進歩的な覚醒をもたらすもので ある。したがって、合理的な機械化、有畜化、共 同経営こそ農村民主化、農民解放のカギである」

と述べ、変革の展望と手続きをこのように把握し た上で、教育内容にこの方針を具体化しようとし

た。

 49年2学期の学習指導に際しては、4年生は「土 壌の研究」、5年では「農業気象台」、6年では「機 械化農村の設計」というように、農業の近代化に 役立つと判断されるような単元を設定したのであ

る。

 このような方向で実践された本郷プランは、た しかに、当時の社会科教育の論争課題に対して、

実践的な解決の方向を示すものとして以下のよう に一応は整理できよう。

 第一一一に、「もっともきびしく社会の仕組みと深 くかかわっている問題」を、調査による「数的、

記述的に明らかにする」という方法で科学的に探 求しようとしたこと。またそのことを通じて、地 域社会の問題を規定している日本全体の現実とか かわらせてとらえる視点を確保しようとしたこ と。これは、学習指導要領の社会機能主義的性格 をこえたものととらえることができる。

 第二に、今あげた第一の視点から抽出された地 域の課題を教材化することにおいて、系統的な知 識の教授との関係を明らかにしようと努力したこ

と。その際、社会科を軸にして教科の再編成をお こなうという教育内容編成原理を示したこと。こ れは、民教協の主張した科学の系統的な教授との

関わりにおいて、科学と生活現実との橋渡しを可 能とさせる意味をもつ。先にも見たように、民教 協の主張はそのままでは、科学性の名のもとにそ の枠組みの内に閉じこもる、あるいは現実の子ど もの生活や学習の状況から…気に飛躍して民主主 義や平和といったそれ自体は政治的価値を生のま ま、子どもに提示するという振幅の大きさを持っ ていた。これに対して大田はスペンサー以来の実 学主義の系譜のなかから「科学の論理的性格と実 用的性格とを生活を媒介にして統…的に把握す る」視点を高く評価しているが、この点で本郷プ ランの試みは意義深いものといえよう33)。

 第三に、今あげたこととかかわって本郷プラン における地域の課題の教材化は、その課題の克服 過程に結びつけるように配慮されていた。いいか えれば教育内容の編成をはじめとする教育実践の 質は、地域の課題に対する住民の目的志向的な実 践の質と深い相互規定性をもつこととなる。ここ にこそ、教育内容編成主体としての(地域)住民 が措定される積極的な理由があるといえよう。

 しかし第四に、こうした積極面を持ちながら、

「子供たちが具体的に直面している生活問題のう ち、もっともきびしく社会の仕組みと深く関わっ ている問題を選択して、カリキュラムとして編集 する」という本郷プランの中核をしめる教育内容 編成の具体化においては、本質的な問題点が露呈 したところでもある。まず「選択」し「編成」す る主体についてみれば、課題の設定においても次 に見る単元の確定においても、学習主体である子 どもは、調査され教育される対象としてのみとら えられていることである。さらにまたその切り口 についても、表現の生硬さに象徴されるように最 終的には地域の実態と実感から切断され、日本社 会一般の問題に還元される危険性をはらんでい

(10)

 24 教育科学研究 第14号 1995年8月

た。

 この点をさらに明らかにするために、大田の自 己批判のたどった道筋と重ね合わせながら、本郷 プランにおける社会科教育の本質的な限界につい て検討することにする。

終章本郷プランと

  大田による自己批判から学ぶべきこと  大田は地域教育計画の自己批判の過程におい て、農村青年のサークル活動やr山びこ学校』・恵 那の生活綴り方教育に注目しながら、子ども・青 年の生活一学習の問題をどのように把握するかと いう方法論の構築をめざした。前者は「農村の学 習運動   ロハ台のなかまのこと(1)(2)」(『教 育』1955年8,9月号)、後者は「公教育と生活綴方」

(r思想』1958年9月号)をはじめとする一連の著 作に結実してゆく。

 大田の関心は、「どうするかという取り組みに おいて科学を受けとめるにふさわしい人間関係を どう創造するのか、そのためには埋もれている自 我、自分の問題、疑問を具体的に掘り出す学習の

あり方」はなにかということの追究へとむかって

いく。

 こうした関心は、冒頭に見たように大田の自己 批判および先行研究では意外にもそれほど明示的 ではない。しかしこの点こそ、本郷プランの具体 的な実践過程において点検されるべき内容であっ

た。

 第一は、本郷プランにおいては、社会科学習へ の参加主体としての子どもの能動性・主体性が最 初から捨象されていたという問題である。

 大田が、主体による認識と実践の循環の中で課 題が明らかにされるという視点を重視したにもか かわらず、ここで社会科の内容として選定される

課題のそれぞれはおとなの目から見た地域の課題 であって、子どもたちの探求の結果発見されたも のではない。さまざまな調査はあくまでもおとな が主体となっておこなわれたものであり、子ども 自身による調査は、皆無といってよい。若干の調 査はたしかに子どもの手によってなされてはいる が、それらはおとなが出した結論を補足する、な いしはおとなが出した結論に導かれるように仕組 まれた調査にすぎないものであった。その意味 で、先の視点が、子どもの学習場面では有効に機 能しえなかった。

 たとえば、先の農業近代化を目標に設定された 6年生の単元「機械化農村の設計」の学習指導案 の構成は次のようになっているM)。第1に「社会 の課題」として、「日本の農業はあらゆる方面か ら危機に直面している。問題解決の鍵は一に農業 生産力の増大にある」と状況認識を示した上で、

次に「児童の実態」を「児童の環境」、「児童の経 験」、「児童の興味」という側面からの分析をおこ ない、最後に単元の設定をおこなうというもので ある。この単元の内容は以下の通りである。

  「現在の農民を非文化的な生活より解放し、生活  をより一一一層高度化にし、人間的文化的生活をなさし  めることは至上命令である。しかし現在の生産様式  では到底不可能に近いのみならず農村は益々窮状に  向かいつつある。この対策は生産様式の改善を除い  ては他にないと思われる。故に社会の課題、児童の  実態より問題単元として『農村の生産力を一層増大  させるには経営をどう改めたらよいか』を選び学習  単元として児童の興味をよびそうなr機械化農村の  設計』を選定した」。

ここには子ども自身による子どもなりの課題の 認識および課題の再設定の過程を決定的に欠いて いるといわざるをえない。このような単元の設定

(11)

は、地域の変革と教育の課題を直接につなぐこと によって、子どもがどのような質の社会認識を獲 得するのかという点をあいまいにする恐れが多分 にあったのではないか。たしかに子どもの興味や 関心についての一一定の配慮はなされてはいるが、

その配慮は、あくまでも子どもに農村の「近代 化」に必要な知識を定着させるための手段にすぎ ない。ある意味では社会問題をも知識の枠組みに 閉じこめてしまい、その結果、本郷プラン本来の 意図とは逆に、子どもの現実の生活とは切り離さ れた教育内容として固定される結果を招いたので

はないだろうか。

 したがって、教科書による知識の伝達という方 法を採らなかったにせよ、地域の特定の課題にし たがって教師(ここには広い意味では住民も含ま れる)の主観に基づく、教育内容の選定がおこな われていたという点では、大田の批判した伝統的 教育との本質的な違いは見いだせない。

 この点は大田が「近代人の形成」のなかで科学 を中核に人格を構想していたことと無縁ではな い。大田がこの時期、実学としての西洋近代科学 に大きな信頼を寄せていたことは、すでに見たと おりである。しかも、その内容は、「文化財はそれ ぞれの自己の対象領域の成果を我々に提供してい る。これらの文化財は認識と表現の道具として、

我々の課題解決に不可欠な役割を演ずる」と述べ たことからも理解されるように、知識そのものの 実践指示性ないしは価値摺向性を前提にしたもの であった。逆に言えば獲得される知識が一一一一一定の社 会的態度を指示するのは至極当然のこととしてと らえられていた35)。したがって、大田にとってみ れば、知識の獲得と認識および態度の形成は・一体

的なものであり、分割不可能なものとして前提さ れていたのである。それだけに何を課題と見るか は、教育内容(子どもにとっての学習内容)編成 の上で決定的な意味をもたざるを得なかったので ある。しかし、仮に地域の課題がおとなにとって 重要であったとしても、それが必ずしも子どもに 切実な課題として認識されなければ、この場合、

子どもの学習意欲の喚起を促すことは不可能で あった。「『子どもの切実な悩みとのとりくみか ら』発して地域との結びつきへという展開方向が 実践的に貫き得なかった」という大田の自己批判 は、ここに問題の根源を発していたといってよい のではないか。

 後に大田が、青年の学習サークルの実践分析に あたって、自分の抱えている悩みや課題をどう解 決していくのかという問題意識で粗雑ではあって も学習者自身が自らの学習内容を自主的に設計す ることの意義を強調したのは、こうした問題への 反省意識にほかならない。さらに、生活綴り方教 育の、自分のことばで事実や感情を表現し、認識 することを重視したのも、主観を通して事実や 知識の相対化をおこなうという方向への認識論 上の転回を遂げつつあったことの証左にほかなら

ない。

 生活綴り方教育への注目や青年の学習サークル の実践のなかでも、知識の実践指示性を強調する という枠組みの変更はなされていない。しかし同 時に知識の獲得における主体的契機に視点を移動 していくことによって、知識と認識の関係を、お よび知識それ自体の内容をあらためて問い直して いく視点を獲得していったといえるのではないだ ろうか。

(12)

26 教育科学研究 第14号 1995年8月

1)水内宏「カリキュラム運動の展開」(r戦後日  本の教育改革6』、東大出版会、1971年)。

2)たとえば、水内論文の他にも田中武雄f戦後  社会科の復権』(岩崎書店、1981年)等に本郷  プランの詳しい紹介があるが、筆者がとらえ  る社会科教育の課題を必ずしも満足させるも  のではない。管見では藤岡貞彦「『地域教育計  画論』の展開と帰結」(国民教育研究所、『国  民教育研究』第47号、1968年)および『教育  の計画化』(総合労働研究所、1977年)が教育  計画論の復権を求める筋道において、教育に  おける地域の意義の解明に向かっているが、

 逆にこれは藤岡氏独特の文脈に本郷プランを  位置づけるというレトリックのもとに成立し  ている点で、社会科教育にとっての地域の位  置の究明にはそれを読み解く手続きが別途求  められる。

3)大田 『地域の中で教育を問う』(新評論、14  ページ、1989年)。この他に大田による明示的  な自己批判論文としては、次のようなものが  ある。

①「地域の教育計画」、岩波講座『教育 日本の  学校(一)』所収、1952年。

②「本郷プランについての感想」『社会科教育の  あゆみ』、小学館、1959年。

③『教育とは何かを問つづけて』岩波新書、1983  年。

4)大田 前掲『教育とは何かを問つづけて』54  ページ。

5)東京大学カリキュラム研究会 『日本カリ  キュラムの検討』56ページ、1950年。

0水内前掲1)論文。及び中央教育研究所『社  会科概論』(1947年、金子書房)8へ㌧ジ D大田 「近代社会の人間像と教育」『地域社会  と教育』所収、4−5ページ、1949年。

8)たとえば、前掲2)で挙げた諸論文の他、海後

 宗臣・岩浅農也「社会科教育」(r戦後日本の  教育改革7』、1969年)、船山謙次r社会科論  史』(1962年、東洋館出版)など。

9)大田 『地域社会と教育』、112ページ。

10)「地域社会における学校教育計画」は、1947  年5月の日本教育学会に中間報告として発表  されたものであるが、大田が復員するのは46  年6月であり、その後3カ月を郷里の本郷町で  過ごしているため、コミュニティ・スクール  についての研究期間は長く見積っても半年足  らずである。(もっとも大田によれば、エヴェ  レット等のコミュニティ・スクール論への注  目は、戦前、東大教育学科においてなされて  いたものでもあり、また本郷プランの実践に  あたっては海後ら東大教育学研究室の指導助  言があったとされる)。

  大田は1941年に卒業論文『自然科学の陶冶  価値』を東京帝国大学文学部に提出し、その  後「最近に於ける我国科学教育の動向」をr教  育思潮研究』1942年4月に、「米国における科  学教育思潮」をr教育』1942年11月に発表し

 ている。

11)大田 前掲『教育とは何かを問つづけて』37  ページ。

12)E,G,O}sen, 鋤ool副Co㎜塒 ,1945.オ  ルセンはワシントン州教育局で他の11人と共  に同書を著わした。石山によれば、現代民主  主義教育の最先鋒であるコミュニティ・ス  クールの方向の代表格とされ、日本に紹介さ  れた。

13)LACOok(クック)は、オハイオ州立大学  で社会学を担当し、『教育の社会的背景』(原

題(h㎜UI晦肱麹omd of舳㎝don.1938)を  著わしている。日本では西本三十二訳『教育

社会学』として「オルセンの著作とともにコ  ミュニティ・スクール論のバイブルともみな  されていた」。

14)坂元彦太郎、森東吾らはそれぞれ「『コミュ

(13)

 ニティ』の意味について」、「教育の背景とし  てのコミュニティ」をr社会と学校』誌(1949  年11月号)に発表し、オルセンとクックのコ  ミュニティ論を肯定的に紹介している。石山  も同様に「コミュニティ・スクールの理念」

 (同誌、1949年7月号)でその紹介につとめた。

15)城丸章夫「戦後教育運動論 教育基本法三  十年にあたって」、季刊『教育運動研究』No.

 4、あゆみ出版、1977年4月所収、27ページ)

10矢川徳光『新教育への批判』刀江書院、1950  年。

17)民教協・社会科部会「社会科教育に関する討  論報告」rあかるい教育』1948年4月。

18)今井誉次郎r農村社会カリキュラムの実践』

 牧書店、1950年、「社会科単元の選び方」、『あ  かるい教育』1948年5月。

19)前掲17)。

20)大田 『地域教育計画』福村書店、8ページ。

21)同上、8ページ。

22)同上、9ページ。

23)大田 「地域社会における学校教育計画」前  掲『地域社会と教育』103ページ。

24)大田 前掲『地域教育計画』74ページ。

25)大田 「地域社会における学校教育計画」、前  掲『地域社会と教育』107ページ。

26)大田 前掲『地域教育計画』100ページ。

27)同上、54ページ。

28)1984年10月の筆者によるインタビュウ。

29)大田 前掲『地域教育計画』45−・46ページ。

30)船木村特殊問題社会調査項目中の産業部会  の問題より。(調査は1947年10月から48年1  月にかけておこなわれている。)この資料は本  郷町に南接する船木村のものであるが、二つ  の調査は同時におこなわれており大田の指導  のもとにあった。本郷プランの一部といって  よい。

31)大田『近代教育とリアリズム』262ページ、

 (福村書店、1949年)。

32)本郷町『昭和25年地域教育計画・抄』お  よびr昭和24年学習指導の手引き』より。広  島県立教育研究センター所蔵。

33)前掲31)、75ページ。

34)前掲32)f第六学年学習指導の手引き』、「学  習単元篇機械化農村の設計、問題単元=農村  の生産か一層増大させる経営をどう改めたら  よいか」より。なお、ここで取り上げている

「児童の実態」についての記述を参考のために 以下に書き出しておく。

 〈児童の実態1>【児童のかんきょう(社会的

実態)】

 調査児童数 65名、農家 40名(内専業 4名)、商家 12名、無 1名、俸 13名。

  *児童の過半数は農家の子弟であり、他の 児童もほとんど農業と関係をもちしかも家庭 において菜園の手伝いをし若干なりとも経験 をもつ。*社会の課題の項で述べた如くきわ めて程度の農業生産様式を示している。*し かも農業経営のみでは生活が維持出来ずその 大半が賃労働或いは俸給取りとして働かなけ ればならないような零細経営である。

  *とくに本郷は過小飯米農家と云ってもい い程農家の存立を可能にしている。*故に農 業の技術経験も含めて極めて低い一時百姓で 原始的な手労働による経営である。*調製加 工部面での機械の導入が若干なされているに すぎない。*この労働集約営農に六年の児童 の大半は生活している。

〈2>【児童の経験】*児童の大半が労働集約的 な不合理な農営に参加している。*手道具の 種類及び用途は農家の子供は大半知っておる。

自分で使用とした経験もある。*脱穀調製機、

原動機を使っての作業に参加しているが、構 造とかその他の理解はない。*耕作部面の機 械については殆ど知らない。トラクターの名 を若干知っている。

学習経験、五年生の時農産加工(生産のス

(14)

 28 教育科学研究 第14号 1995年8月  コープ)を学習し、経営の合理化の面につい  ては多少の経験を有す。

 〈3>【児童の興味】*科学的な玩具遊び特に  モーターを使用しているものについては熱b  である。*構成的な活動に対しては興味を持  つ。*若干論理的な思考をすることに努力を  する。*歴史的面特に発明発見史に対しては  興味を持つ。

35)前掲31)62、75、182、194−201ペー…ジなど。

参照

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