教育心理学の方法論的反省 : 教育状況の現象学 を模索して
その他のタイトル A Methodological Reconsideration of Today's Educational Psychology : Searching for
"Phenomenology of Educational Situation''
著者 山下 栄一
雑誌名 教育科学セミナリー
巻 7
ページ 20‑33
発行年 1975‑12‑07
URL http://hdl.handle.net/10112/00019566
教 育 心 理 学 の 方 法 論 的 反 省
‑"教育状況の現象学"を模索して一
山 下 栄
はじめに
大学の教師として「教育心理学」という学科 目の講義を担当しはじめてから、いつのまにか
10年の歳月が流れた。かえりみると、当初この 講義を担当することは心楽しいものに思われて いた。だが年を追うごとにそれはむしろ苦しみ に変っていった。それというのも教師としての 生活をはじめた当初、先輩研究者の作成された テキストなどを参照しつつ準備した私の講義ノ ートが実は矛盾だらけであり、一個の学問体系 としては破産しているとしか思えない状態にあ ることが、次第に自覚されてきたからである。
このような自覚をもたらすのに影響した要因 は様々である。そのひとつは、
'6'8年から
'69年 にかけて経験した大学闘争において学生諸君か ら出された問題提起であり、関大に赴任して後 は、解放教育に努力する方々と出会い、大きな 示唆を与えられたことも重要な要因となってい る。そうした中で特筆すべきことは、加藤誠一 氏を中心とする小学校の先生方とのグループ研 究での経験である。私的なことにわたって恐縮 だが、加藤氏との出合いは、私がまだ大学院生 であった頃にさかのぼる。加藤氏は現場人の立 場から、現在の日本の教育における人間不在の あり方に深刻な危機意識をもち、正木正の教育 心理学にその危機をのりこえて人間らしい教育 のあり方を打ちたてていく手がかりを求めよう
としていた。たまたま、私の所属していた教室
に加藤氏が内地留学ということで
1年間を過ご されることになり、指導教授の紹介で、私は氏 にひき合わされる機会に恵まれたのであった。
正木は、今日からふりかえってみるとき、現 象学的人間学ともいうべき方向に、教育心理学 を展開しようとして、その途上に他界したので あった。われわれは正木心理学を共通の基盤と
しつつ、まず互いのおかれた状況を卒直に語り 合うことを月に
1度くらいの割りで定期的にや
るようになった。やがてこの話し合いの輪をも う少し広げたいと願うようになり、問題意識を 同じくする現場人数名によびかけて、小さな研 究サークルヘと発展させていったのである。こ の研究会は、各人の日常の実践体験を卒直に語 り合うことと、現象学の勉強とを交互にやると いう形で進められていった。ここでは、何より もまず参加者それぞれが、現象学の勉強を軸と した語り合いを通して、明日の教育実践のため の糧を得ていくことがねらいであった。従って グループとして、何かまとまった成果を出すと いうことも考えられていなかった。各自が、少 しでも子どもを理解できるものへと自己変革を とげていくことが、月々に集まる意義であると 考えて進んできたのである。この経過の中で、
私はみずからの教育心理学研究のあり方の誤り
に気付かされ、さらにそれは、従来の教育心理
学そのもののあり方を現象学の視点からもう
1度問い直してみることをうながした。それには
やはり、われわれの考えを同学の方々に知って もらい、批判をあおぐことが必要であると考え、
4年ほど前から、日本教育心理学会総会の方法 論部会で研究発表をすることにふみきったので ある。(註
I)大変ささやかな試みにしかすぎない が、その後は毎年学会への発表論文をまとめて みることが、われわれの研究活動にその時点で の一つの 節 をつけていく契機となった。な お第
1回目の発表のあと、このグループ研究を 背景にした、私なりの教育心理学についての方 法論的考察を、 「現象学的教育心理学」と題し て 、 「児童心理」誌に寄稿したのである力《註
2)その折に、加藤氏より、 やぶにらみ的「現象 学的教育心理学」批判 (註
3)と題するかなり長 文の好意ある批判を寄せてもらった。この加藤 氏の批判をふまえて、再度教育心理学の方法論 的反省を試みたいと願っていたが、なかなかそ の折をえずに過してしまった。今教育科学セミ ナリー誌に執筆の場を与えていただいたのを機 に、加藤氏の批判に対する答えともいうべきも のを綴ってみたいと考えたのである。
以上のような事情から、この小論は、前記「現 象学的教育心理学」の続編ともいうべきものと なっている。同論文を合せてご参照いただき、
卒直なご批判をよせていただければ有難いと思 う 。
I
われわれの問題意識
(1)
「教育心理学の不毛性」という視点の不十 分さ
「現象学的教育心理学」において私は、教育 心理学が教育実践に対してその理論的基礎を提 供すべき役割をおわされていながら、現実には 実践に役立っていないという、いわゆる「教育 心理学の不毛性」(註
4)という視点から、現象学 的方法の必要性を説きおこしたのであった。こ
れに対し加藤氏は やぶにらみ批判 において、
私の論述が不徹底であり、現象学に向かわざる を得ない必然性が十分とらえられていないとい う批判を寄せてくれた。正直にいって当初は、
この加藤氏の批判の真意がどこにあるのかを十 分理解できずにいたのであるが、最近になって ようやく氏の批判の核心ともいうべきものが理 解できるようになった。その間の経緯を詳細に 述べることは紙数の制約もあって省かざるを得 ないが、結論のみをいうと、教育をどうとらえ るかという点での私の立場の不徹底さ、それと 密接にからんだ形で、心理学を一種の「技術学」
としてみていく現代の行動科学的発想から十分 脱けきっていなかった不徹底さこそ加藤氏が批 判しようとした内実なのである。
このことは冒頭に記した、教育心理学の講義 を準備する過程で私が感じてきたしんどさの直 接の理由ともなっている。一方で私は、すでに 学部学生の頃より、みずからを一個の自然科学 として位置づける現代心理学に対し根本的な違 和感を覚え、そこから次第に現象学へと傾斜し ていったにもかかわらず、他方では学部から大 学院を通して学びとった行動科学の方法論とそ の発想の仕方に、自分自身の思考様式を深く規 定されていた。しかもこの対立する思考様式を 徹底して問いつめる努力を怠って、中途半端な 妥協をやってきたところに、加藤氏から鋭い批 判を受ける理由がひそんでいたのである。
加藤氏よりの批判を私なりに受けとめつつ、
今あらためて、なにゆえにわれわれが現象学の 勉強に向い、現象学的研究の開拓に非力をもか えりみずのり出すに至ったのかをとらえ直して みたいと思う。
(2)
「行動の科学」としての現代心理学の本質
周知のように現代の心理学は、みずからを「行
動の科学」と規定している。これは、
19世紀の
心理学が意識の科学と考えられていたのに対し、
人間の心の理解のために、具体的な行動をもみ ていこうとしている、その限り本質的な前進を 意味するものとされている。私自身も最近まで そのように考えてきたのである。だがとらわれ ない眼で現実の心理学研究のあり方そのものを 見つめてみるとき、行動の科学としての心理学 は、はたして意識心理学よりの本質的な前進を 意味するものなのか、大いに疑問を感ぜざるを 得ない。
行動の科学という規定が一般的となった背景 として、直接には、
1913年のワトソン
(Watson)の提唱にはじまる、アメリカ心理学における行 動主義
(Behaviorism)の台頭という事情があ った。ワトソンはヴント
(Wundt)によって代 表される
19世紀のヨーロッパに成立した実験心 理学を、いまだ科学としての客観性を十分達成 していないとして批判し、厳密に客観的な手続 きで研究できる行動のみに、心理学の研究対象 を限ってしまうことを主張したのである。では、
行動を客観的に研究するとは、具体的にいかな ることを意味するのであろうか。行動を客観的 に観察していると、全ての行動は一定の刺激に 対する反応として生ずるものとしてとらえられ てくる。この刺激と反応の間にみられる規則的 な関係を可能な限り数学的に記述してとらえる ことが、すなわち科学としての心理学の研究に ほかならないと考えるのである。しかもワトソ ンにおいては、行動はきわめて微視的なレベル で、ほとんど生理学的反射に近いようなところ で考えられていた。さすがにこれはあまりに極 端であるとして、基本的にワトソンの構想を受 けつぎつつこれを修正したいわゆる「新行動主 義」へと移行していくことになる。新行動主義 と称される人々の間では、行動は分子的
(Mo‑lecular)
なレベルでなく総体的
(Molar)なレ
ベルでとらえられているといわれる。ここでは もはやワトソンの極端な立場は克服されている と考えられてきた。
だが新行動主義においても、実は行動主義の 基本的理念、すなわち、心理学の研究を行動の 客観的観察に限ること、しかも行動を刺激によ ってひきおこされる反応としてとらえ、刺激一 反応の間の法則的関係を追究していくという心 理学の本質的なあり方はいささかも変っていな ぃ。この基本的な心理学研究のあり方は、新行 動主義に立つ研究者のみでなく、広く一般の心 理学研究者の間にも浸透し、 「行動の科学」と
しての心理学の根本的特徴となっている。この ようにいうと、あるいは次のような反論がかえ ってくるかも知れない。 「行動の科学」は決し て全てを「
S‑R」の図式に還元してはいない。
新行動主義以来、
Sと
Rの間にある生活体内の 要因を「媒介変数
(interveningvaluable)」と して考慮に入れるようになっている。
S‑(0)‑ Rという図式で示されるものへと研究のあり 方が大きく発展してきているので、その点でも 先にあげた批判はあたらない、と。だがこれに 対しても、たとえ
(0)という媒介変数が考慮さ れていようと、やはり本質は少しも変っていな いと答えざるをえない。ここでは一見
(0)とし て行動の主体が考慮されているかにみえるが、
S‑(0)‑R
の図式においては、
(0)は「主体」
ではなく、単なる SとRを媒介する「変数 ( V a ‑
luable)」にしか過ぎないからである。人間が世 界の内に住みつき、そのおかれた状況において 人や事物と意味に満ちた交わりをなしつつ生き ているという、本来の意味での人間の主体者と しての実質は、媒介変数によっては少しもとら えられていないのである。
専門家でない一般の人々が、心理学という学
問に素朴に期待するものは、人間の心の本質に
対する理解を深めるような知見を与えてくれる ことである。ところが行動の科学としての心理 学は、そもそも「心の理解」など問題とさえし ていない。なるほど行動の科学として自己を規 定している心理学のテキストなどにも、心理学 研究の目標は行動の理解、予測、統御にあると
いうように、一応理解ということもうたわれて いる。だがここにいわれる理解とは、理解とか 了解とかいうことばが、人と人との親しい交わ りの中でたたえているあの豊かな意味は少しも はらんでいない。一定の反応がある刺激事態の もとで生起することを予測できるとき、われわ れはその行動を理解できたと考えようというに すぎない。換言すれば、行動の科学にあっては 行動の理解は、行動の予測可能性にすりかえら れてしまっているのである。さらに、行動の科 学の信奉者は、心理学研究の結局の目標は、単 なる行動の予測にとどまるものでなく、予測可 能性をふまえて、行動を望ましい方向へ統御す ることにあるのだと主張する。こうして現代の 科学的心理学は、学としての存在意義を、人間 の心の理解にではなく、行動の予測とそれをふ まえた「統御
(control)」においていることが 明らかとなる。心理学は人間の自己理解の学で はなくして、 「行動統御のための技術学」(註
5)となったのである。
(3)
「行動の科学」と教育心理学
このような現代心理学の技術学としての本質 は、教育心理学にも深く浸透している。否、現 実はほとんど全ての教育心理学者が、単なる行 動の科学の研究者でしかないというのが実態で あろう。そのような教育心理学は、教育を「行 動統御の過程」に還元し、より効率のよい行動 統御の技術を開発することに狂奔してきたので ある。古くは心理テストヘの熱中、(注
6)そして 近年は教育工学的研究の流行などに、上述した
教育心理学の技術学としての本質がよく示され ているといえよう。ここでは人間は、きわめて 複雑ではあるが主体性をもたない単なる有機体 として、 「行動統御の対象」におとしめられて しまっているのである。・
私が以前から、それと十分明確に表現できな いままに感じてきた違和感は、実にこうした現 代心理学に、したがってまた教育心理学そのも のに内在する「人間疎外のあり方」を感じとっ ていたためであった。それならば何ゆえにこの 違和感から行動科学の徹底した批判にまで私自 身進むことができないでいたかが今は問われて くる。それは結局、 「科学への信仰」ともいう べき先入見が、私自身の中に根深く巣食ってい たからであるといわざるをえない。
考えてみると、行動主義と、ヴントに代表さ れる
19世紀の意識心理学との間には、実は本質 的差異はないともいえる。むしろ行動主義の構 想は、ヴントの心理学を支えていた学問の理念 を、一面的に徹底化したものにすぎないのであ る。では
19世紀の心理学を支えていた学問の理 念とは何であるかといえば、それはフッサール のいう「物理学的客観主義」であったと考えら れる。
( 4 ) 近代科学における客観主義の理念 近代の初頭において、人間の思考様式はガリ レイに代表される「物理学的客観主義」とデカ ルトに代表される「主観主義」に分裂し、以来 両者は統合されることなく
20世紀を迎えてしま った。これこそ現代の人間性の危機の深い意味 なのだという考えが、フッサールにより、その 最後の大著「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的 現象学」(註
7)において詳細に展開されている。
フッサールのこのような思想にふれるまで、私
は素朴にも、自然科学の描く世界像こそ唯一の
客観的な現実であるという信念を自明のものと
考えてきたのである。だがガリレイによって樹 立され、その後の科学の模範となった近代の物 理学は、自然を理念化することにおいて成立し ているものなのであり、その学の究極の妥当性 の根拠は、実に「生活世界
(Lebenswelt)」に あるのだということをフッサールにより教えら れるに及んではじめて、自然科学の描く世界像 を唯一の現実だと見る見方が、実は、ひとつの 先入見にしかすぎないことに気付かされたので あった。フッサールの指摘に目醒まされた眼で、
自然科学の本質を見つめなおしてみるとき、実 に自然科学の描き出す世界像は唯一の客観的現 実などではなく、それのみか、世界に対する人 間の多様なかかわり(世界投企、
Weltentwurf)のたかだかひとつにすぎないものであり、それ 故に、全ての学問を自然科学に還元してしまう
ことは、ギリシャ以来伝えられてきた学問の理 念を矮少化するものとして批判されねばならな いことに思い至る。
物理学的客観主義は、結果として様々な技術 を生み出してきた。この技術によって、人間の 世界は一見きわめて豊かなものとされるに至っ たのであるが、それはほとんどつぐなうことの できない犠牲を代償としてである。その代償と は、人間の「世界喪失」である。
人間はもともと世界の中にあって、その周囲 の事物との根源的な相関関係において生きてい る存在である。ところが客観主義の思考態度は、
実にこの根源的な事物と人間との親しいかかわ りを断ち切り、数学的に抽象化した世界像を、
あたかも真の実在であるかの如く人間に思いこ ませることによって、実在の世界との生き生き した親しい関係を破壊してしまうからである。
この客観主義の思考様式が心理学をも根本に おいて支配してきたのである。このような客観 主義の心理学によって描かれた人間は、もはや
その当人にとってもよそよそしい、えたいの知 れぬ怪物か、あるいは外からの力によって制御 されるロボットにまで変質してしまうほかない であろう。
現象学は実に、近代の初めから続いている客 観主義と主観主義の分裂をのりこえ、人間と世 界との根源的な相関関係を回復しようとする思 考態度として登場してきたのである。
(5)
教育心理学の再構築を目指して
以上のきわめて粗雑なスケッチからもある程 度理解されるように、われわれが現象学的研究 に向った背景には、ひとつの危機意識がひそん でいたのである。教育心理学が教育実践にとっ て有効でないから、それを補うために現象学に 向かうという安易な発想では包みきれないもの が、実は共同研究を発足させたわれわれ自身の 胸の中にうごめいていたのであった。
ここに至って私は、教育心理学という自己の 専攻する学問領域ははたして何のために存在し ているのか、その存在理由はどこにあるかを、
あらためてかえりみたいと考える。私が学部の 学生であった頃から、これが教育心理学だとし て講ぜられてきたものは、すでに上に批判した 行動の科学としての現代心理学の成果とその存 立基盤を自明の前提とし、その成果を教育実践 に「応用」しようとする立場のものであった。
今にして思えば、このような教育心理学のあり
方は、まさに学問としては、本末を転倒してい
るといわぎるを得ない。研究対象たる教育の本
質についての深い反省がまずあって、それにふ
さわしい研究方法が創り出されていくべきであ
るのが、逆に研究方法についての枠組みがまず
あり、この枠組におさまる限りでの教育の側面
をとらえようとしてきたからである。このよう
な教育心理学のあり方が続くかぎり、教育心理
学の研究が進展するほど、現代心理学のもつ「行
動統制の技術学」としての本質が、教育実践そ のものを歪め、その非人間化を促進してしまう のである。
では、教育心理学とは無用なもの、否その存 在を否定されるべきものなのであろうか?私は しばしばそのような懐疑に悩んできた。それは 一個の研究者としての自己のアイデンティティ
を根底からつきくずしかねない衝撃であった。
しかし今は一応それをのりこえた気持でいる。
教育心理学の学習をはじめた頃から漢然と抱い てきたこの学問の問題点を、自分なりにつかみ えたと思うようになったからである。だが、教 育心理学が、これから積極的な存在理由をもつ ためには、既成の成果をいったん全て解体し、
新たな存立基盤の上に構築し直すことが必要だ と考えられる。そのためには、近代科学が共通 にもつ「客観主義」の先入見を捨てて、教育と いう現実の人間の営みそのもののもつ人間的意 味をとらわれない眼で見つめていくことからは
じめねばならない。
教育とは、人が人との交わりの中で、それぞ れが相互に主体者としてみずからをつくりあげ ていく営みである。そのような教育にかかわる 人間の自己理解の学としてのみ、教育心理学は 存在理由をもつものと考えるのである。
II
現象学の本質をどうとらえるか
前項では、われわれがなにゆえに現象学的研 究に向うのかを大まかにスケッチしてきたので あるが、次にとりあげておきたいのは、現象学 というものをわれわれが今どうとらえているか という点である。
現象学という概念がきわめて多義的であり、
フッサール自身の著作においても様々な用法が 区別されるといった事情については、 「現象学 的教育心理学」で簡単にふれておいたが、そう
した説明のあとで、われわれとしては現象学を 第一義的に「方法」としてとらえるという考え を示しておいた。だがこの点についても、今か えりみると、現象学は単なる方法としてはくく りきれないものを含んでいることに気付くので ある。このような点を手がかりにして、グルー プでの研究討議の経過の中で次第につかみとら れてきた、いわば「われわれにとっての現象学 の意味」ともいうべきものを、ここで記してお
きたいと思う。
( 1 ) 探究の根本的態度としての現象学 フッサールが、 「算術の哲学」から「論理学
研究」(註 8) へと移行していったとき、一―—その
ときまさに現代的意味での現象学が誕生しよう として胎動していたのであるが一ーフッサール を動機づけていたものは、たとえば「数」とい うような「理念的存在者」の本質についての既 存の理論をいったん全て捨て去って、探究しよ うとしている当の事象そのものがどのようにわ れわれの経験に与えられているのかを、とらわ れない眼で見つめなおそうということであった。
この現象学の根本動機ともいうべき点を強調し て現象学の本質を規定しようとしたのが、有名 なハイデッガーによる「 現象学 という名称 はそれゆえ 事象そのものへ/"と公式化する ことができる、ひとつの原則(マクシーメ)を 表わしています。」(註
9)という説明である。こ のテーゼは、われわれにとっても研究活動を一 貫して導いていく根本理念となってきた。
ところで、既存の理論等によらず、探究しよ
うとする事象そのものに立ちかえるということ
は、ほかならぬ自己の経験そのものを見つめ直
すことを意味する。ここから現象学とは、根本
において研究者が自己の経験そのものを反省す
ることにおいてすすめられる研究という意味を
になってくるのである。現象学はその言葉の構
成—Phenomen の Logos という一ーからも分
るように、何か特定の対象領域を措定するもの ではない。その点、たとえば心理学が「心」を 対象にし、 「生物学」が「生命」を対象とする というように、固有の研究領域を含意している 場合と本質的にことなっている。対象領域にか かわらず、全てを「現象」一意識に立ちあら われるもの一において解明していくその限り 現象学は「方法」を意味するといわれるのであ る。だがここでいう方法とは、通常の科学研究 でいわれる方法とただちに同一にみることはで きない。現象学とは、何よりもまず、事柄をど のように探究するのか、事象の研究に向う研究 者の根本態度を意味するものと考えられる。
( 2 )「現象学的還元」の意味
ところで、自己の経験を反省していくとして、
そこには反省の様々なレベル、さまざまに度合 を異にする深さの次元ともいうべきものが認め られる。これはまた先に述べた「事象そのもの に立ちかえる」というテーゼの実質的意味とも 深くかかわっている。事象そのものへ立ちかえ る、といわれるが、その事象とは何であるかは、
実に探究の結果はじめて明らかになるというア ポリアがここには内在している。そこで現象学 の研究の具体相は、第一に探究されるべき事象 そのものに立ちかえろうとして、認識態度をラ ジカルに変更することからはじまることになる。
このことをフッサールは「現象学的還元」
(phふ nomeno log is che Reduktion)とよんだ。
現象学的還元ということばも大変誤解をよび やすい表現である。(註
11)また還元なるものの実 質的意味と評価をめぐっても、現象学者の間で の論議はつきない。シュピーゲルバーグ(
Spie‑gelberg, H.)
は、現象学の動向を展望した大 著の終りで、現象学的方法の要訣
(essentials)として
7つのステップをあげているが、還元に
つ い て は 、 必 ず し も 全 て の 現 象 学 者 に 受 け 容 れられていないということから、第
6番目に、
「存在についての判断を保留すること」
(Sus‑pending Beliefin Existence)
として、とりあ げているにすぎない。(註
10)しかし私のみるとこ ろ、還元は現象学的方法の中心をなすものとし て、きわめて重要なものに思われるのである。
たしかに、還元という表現は、一見きわめて 消極的、否定的な印象を与えやすい。しかし、
フッサール自身及びその後の多くの現象学者に よる研究の展開の中で、次第にその消極的ニュ アンスは捨てられていった、と考えられる。(註
12)初期のフッサールの構想では、探究しようと している対象そのものを自己の意識に与えられ るままにとらえていくために、その対象の現実 的な存在、非存在についての判断をさしひかえ
もっぱら関心を自己自身の上に向けることに限 ろうとした。このことを示すために、しばしば
「エポケー」
(Epoche,判断中止)ということ ばを使っているし、また関心を自己の意識に局 限する
(Beschranken)という意味で、還元
(Re‑ duktion)という表現を選んだものと思われる。(註
13)その限りこれにはある消極的ニュアンスがたた えられているが、その実質的意味は、むしろ自 己と対象との志向的関係自体を浮きださせるこ とによって研究の対象を主題化していくという 積極的意味をはらんでいるのである。
フッサールの著作の中で、総称的に現象学的 還元といわれるものについて、いくつもの異な るものが区別されている。たとえば、形相的還 元
(eidetischeRedukt‑ion)、超越論的還元
(transzendentale Reduktion)
、 間主観的還
元
(intersubjektiveReduktion)といったよう
にである。これらは後のものほどフッサール現
象学の発展した段階を示すものであるが、その
内容を私なりにとらえてみると、形相的還元と
は、事象のエイドス、つまり本質を主題化する ことに向けての態度変更であり、超越論的還元 とは、超越論的主観性へ向けての態度変更と解 釈される。最後の間主観的還元とは、超越論的 主観性とは実は相互主観性として与えられてい るものだという認識に到って後に、このあらた に予料的に見いだされた事象の領野を主題化し ようとする、より深化した段階での態度変更と
して理解される。
このようなフッサールにおける還元の理論の 展開に示唆を受けつつ、われわれ自身が共同討 議の過程で確かめてきたものを整理してみると 現象学的還元とは、事象そのものを見いだそう とする認識態度のラジカルな変更として規定で きるように思われる。それは一方において、様 様な先入見~究対象の真相に迫る上で妨害
としてはたらきかねないもの一~こと、
「括弧に入れ」てはたらかないようにすること、
を意味するのであり、他方では、後にふれる志 向的分析の進展によって予料的に見えてくる対 象のあらたな局面を主題化しようとする、いわ ば対象とのあらたなかかわりにはいろうとする 態度変更を意味する。したがって現象学的還元 ということばで示されているものは、その名称 はどうであれ、
1回限りなされればそれですむ というものではなく、事象の意味の読みとりで ある「現象学的分析」と不可分にかかわりつつ、
いくたびもくりかえされていくものだといえる。
ここには、たえずあらたにより根源的なものに さかのぼっていくという現象学のきわめてダイ ナミックな性格が、端的に示されているように 思われる。
(3)
「志向性」という視点の重要性
精神病理学における現象学的人間学の開拓者 として著名なビンズワンガー
(Binswanger, L.)は、現代心理学の根本的欠陥として、 「 志
向性への盲目」という点をあげている。(註
14)実に志向性は、現象学の根本概念のひとつであ り、とりわけ心理学の学としてのあり方を左右 する本質的な視点と考えられる。
フッサールが批判したデカルト的主観主義と、
ガリレイにはじまる物理学的客観主義の分裂と いう思想状況の中で展開されてきた哲学及び心 理学は、人間の意識的生の基本的特質たる志向 性
(Intentionalitat)に対して盲目のままであ った。とりわけ
19世紀に成立した実験心理学は、
当初から物理学的客観主義の理念に導かれて研 究を進めてきたために、部分的例外はあるにせ よ、大勢としては志向性を切りおとしてきたと 考えられる。
では志向性とは何であるのか?
この概念もまたおどろくほど多義的であり、
現象学の研究を根本的に導きつつ、志向性とい う概念の内実そのものが、現象学的研究の進展 をまって、次第に解明されてきたという事情が ある。それゆえに、たとえばフッサール自身の 研究においても、志向性の概念は、いくたびも
とらえなおされているのである。(由
5)われわれがみずから現象学的研究を進めてい こうと苦心してみるとき、この概念の重要性を ますます痛感するとともに、その正確な意味の とらえがたさに、ほとほと困惑をおぼえてきた。
したがってこの小論において、志向性概念その ものを詳細に考察することはとてもできないが、
基本的な論点の若干にふれておきたい。
第一に指摘したいことは、心理学の研究が人 間の心の本質的なあり方を解明していこうとす るなら、志向性に着目しなくては、研究は一歩 も前進しないということである。
志向性は、現象学の展開の中で、まず「意識
はつねに何ものかについての意識である」とい
う形で規定されていた。
人間は意識をもつというあり方において、常 に何らかの対象とかかわり、その対象とのかか わりを体現するという形で行為している。この ような人間の行為は、そのおかれた場の条件に 規定されつつ、意識の構成的はたらきにもとづ く意味付与のはたらきが加わることによって、
人間の生きる場を、意味に満ちた「状況」たら しめている。それ故に人間の行為は決して単な る刺激に対する反応には解消できないものであ る。行動は、それがいかなる刺激事態でひきお こされるのかという点のみからは決して理解し えない。客観的には同一の刺激によってひきお こされるかにみえる行為も、志向的にかかわっ ているものが何であるかという点からみると微 妙にその意味を異にしてくるからである。
たとえば、ひとりの子どもが誰かの発言に対 して非常にエキサイトしたというような場合、
刺激ー反応の図式では、これこれの言語刺激が しかじかの情動的反応をひきおこしたと記述さ れるにすぎない。だがその子どもの、一見怒り とみえる情動表現が志向的にさし向けられてい るものを読みとろうとしないなら、その行為を 理解したとはいえないのである。さらにはまた、
実験事態での行動の研究成果について考えてみ ても、志向性に着目しない方法論によるかぎり、
これを現実の生活場面にあてはめようとすると、
そこに大きなギャップが生ずることはさけがた ぃ。実験的研究は、観察対象となる行動にかか わる刺激条件を可能な限り統制することによっ て成立するといわれる。だがはたして、個々の 刺激を要素的に抽出して操作することが現実に どれだけの意味をもつのかは大いに疑問なので ある。実験者の側から客観的に条件統制をした つもりでも、その事態におかれて行動する被験 者にとっては、そのつど独自な状況として体験 されているからである。ここでも被験者自身の
実験状況の体験を志向的に分析していくことを 欠いては、本来の意味で行動を理解できたこと
にはならないと考えられる。
このように行動のリアルな意味の理解には、
行動する主体の意識の志向性に着目してすすめ
られる解明—つまり、志向的分析という方向がとられねばならないのであるが、その場合導 きとなるのは、一般に人間の意識のあり方がき わめて錯綜しており、志向的重層構造をなして いるということである。この点に注目すると、
われわれの経験に与えられている事象の意味は、
潜在している志向性に支えられ、これを指し示 しているという形でわれわれが事象の意味を読 みとっていく上での手引きとなるものである。
なお意識というとらえ方において志向性とし て記述されるものは、人間存在というとらえ方 からするなら、人間が常に世界の内に住みつい て、一定の状況の中を生きているという人間の 存在性格を意味するものとなる。このようにみ るとき、ハイデッガーの「世界内存在」という 人間の規定は、志向性の存在論的とらえ直しと して位置づけられる。フッサール自身も晩年の 著作では、身体の志向性というものにまで、志 向性の概念を深化させていたのであった。(註
16)( 4 ) 実践的研究における現象学的方法 以上のように現象学をまず基本的に事柄を探 究していく根本態度としておさえ、その具体的 な方法については、現象学的還元と志向性に着 目しつつすすめられる現象学的分析とが中心と なる、というようにわれわれは現象学を理解し てきた。このような現象学の理解の上に立って 教育心理学の研究を進めていこうとするとき、
そこには当然多様な可能性が開かれている。そ
のことをふまえた上で、われわれとしては、ま
ず教育実践にたずさわるものが、自身の体験を
反省してみること、とりわけ児童理解とは何を
意味するかを解明していくことを課題として研 究をはじめたのであった。こうした研究方向の 第一段階として一応の整理を試みたものが、「現 象学的児童分析」という構想であって、その概 要は日本教育心理学会第1
5回総会に報告されて いる。(註
I)だが、この構想のひとつの具体例と して、われわれの研究グループの
1人である山 村常隆氏が、
1年生を担任しての
1年間の実践 記録を共同討議し、そのまとめを試みる過程で
「児童分析」の限界に気づかれるようになり、
第1
7回総会では、 「児童分析より教育状況の現 象学へ」という形で、はじめて教育状況の現象 学という構想を発表したのであった。(註
I)その間の経緯のあらましは、総会発表論文集 に記したのでそれにゆずりたいが、基本的な点 をとらえなおしておくと、現象学的研究という ものが本来もっている、くり返えし出発点にた ちもどって主題のより根源的な意味をとらえ直 す、という性格がここにもあらわれたものと考 えられる。つまり、現象学的児童分析という構 想にみちびかれて、われわれの経験の意味を読 みとる努力を続ける過程でわれわれが当初から そ れ と 十 分 気 づ か ぬ 形 で い だ い て い た 研 究 課 題の一層本来的な次元が露呈されてきたこと、
それはもはや「児童分析」という構想ではくく りきれない広がりをもつものであることが明ら かとなった、ということである。このあらたに 自覚されるに至った研究課題は、個々の児童の みをみていくことによって児童の存在様式の特 質を解明していくにとどまるものではなく、む しろ児童と教師が寄りそってつくり出している 学級共同体としての教育状況そのものを、教師 の体験に現われるままに記述していくこととし てとらえられる。こうして教育状況の現象学と いう主題がえられるに至ったのである。
m
教育状況の現象学を模索して
様々な曲折を経てわれわれは、今ようやく教 育状況の現象学という主題に到達した。この主 題を具体的に展開していくことがわれわれの共 同研究の当面の課題なのであるが、ではこれを どのようにすすめていったらよいのかとなると、
まだ確たる見通しは得られていない。この主題 のもつ意味の深さと広がりを予料的にとらえつ つ、具体的な展開の方途を模索しているという のがいつわらない状態である。以下残こされた 紙数のゆるす範囲で、模索しつつある問題点の 若干にふれておきたい。
(1)
この主題の方法論的意義
教育状況の現象学という主題は、われわれに とって少なくとも次のような二重の意義をにな っているように思われる。
ひとつは、現に教育実践にたずさわっている ものとして、この主題にそって現象学的探究を 深めていくことが、実践そのものを変革してい くうえに役立つであろうということである。こ の点からするなら、教育状況の現象学とは、わ れわれにとってひとつの「研究的実践の方法論」
という意義をもっているわけである。なおこの 面でのさらに具体的な論点については、後にも
う一度ふれるつもりである。
ふたつめに、教育心理学の再構築という目標 にとっても、教育状況の現象学は本質的に重要 な意味をになっているということである。教育 心理学はこれまで固有の体系化の視点を欠いて いた。その結果ほとんど無批判に、現代心理学 の様々な領域での理論と知見を雑多にとりこん で、その内容を形づくってきた。極論するなら、
教育心理学の現状は、学習心理学,発達心理学、
人格心理学などの領域からの雑多な内容を単に 寄せ集めたにすぎないといってよいほどである。
しかもその学習や発達の研究領域そのものの内
容が、これまたきわめて混乱しているのである。
学習についても発達についても、様々な相互に 矛盾するとさえいえる理論が併存していて、途 方にくれるほど錯綜した状態が出現している。
教育心理学が学習心理学の既成の成果に学ぶこ とは当然であるとしても、そのためにはまず、
摂取していくための観点をもたねばならない。
換言すれば、教育心理学の学としての存立基盤 を確立することが、まず必要だということであ る 。
フッサールの超越論的現象学が解き明かした ところによれば、一般に科学的認識の妥当性を 究極において支えている基盤は「生活世界」に あると考えられる。これを教育心理学について 考えてみると、教育心理学の内容を形成する理 論や知見の妥当性の根拠は、教育の実践にたず さわる人々の経験に求められるということであ る。ところで教育実践者の経験世界とは何より もまず具体的な教育状況.としてとらえられる。
ここから教育状況の現象学的研究の成果が、教 育心理学をあらたに構築していくための基盤と
なりうるものであることが見通されるのである。
(2)
教育状況の諸相
ーロに教育状況といっても、そこには当然様 様な位相や局面が考えられる。これをどのよう
な広がりにおいてとらえていくかについても多 様な可能性が開かれているわけだが、われわれ としては、個々の教育実践者が、自己の実践を 反省してみるとき、そのみかえりの中に焦点づ けられて浮かびあがってくる状況体験をとりあ げていきたいと思う。このような次元で教育 状況を考えるなら、実はこれまでのわれわれの グループ研究における共同討議の中に、すでに 教育状況の本質的な意味についての考察は豊か
に含まれていることに気づくのである。
たとえば、日本教育心理学会第
17回総会にも
報告した山村実践において、教育環境というも のが、何よりもまず子どもたち相互の人間的交 わりを触発し進展させる契機として積極的に構 成されていったのであるが、ここには、教育状 況を成り立たせ展開していくうえでの本質的契 機の一つが、意味深く描き出されていたと考え
られる。
あるいはまた、
50年度のグループ研夏季研究
合宿注17)に報告された、青木純子氏の
2年間に わたる
1つの学級を担任しての学級共同体の歴 史ともいうべき実践記録には、現実の教育状況 が、常に激しくゆれ動くものであることが、き わめてダイナミックに描かれている。そこには 親しい交わりとともに、交わりを阻む争いやね たみなど否定的感情の交錯もさけがたく生じて くること、しかもなお、そうした争いや対立を こえて、子どもたちと教師とをともに一つに凝 集させ、一つの共同体を成り立たせている共通 の存在の地平ともいうべきものが潜在している ことが、意味深くさし示されているのである。
これらはわれわれのグループ研に報告された 内容の一端にふれたにすぎないが、これからも ある程度うかがえるように、われわれの実践を 基盤とした現象学的研究は、従来心理学者と現 場人が共同で試みてきたいわゆる「授業研究」
とは趣きをことにしている。グループ研究は、
全てメンバー
1人
1人の自発的な問題意識とそ の自由な展開をあくまで尊重する原則で進めて いるので、一校時での授業展開に焦点をおいた 実践報告もこれまでいくどか出されている。し かし大勢としては、むしろ
1年間なり
2年間な りかなり長期にわたって
1つの学級を担任し、
その学級の共同体としての生成の跡をたどりつ
っ、そこに展開される状況の本質的意味を解明
していくという方向にすすんでいる。ここから
当然子どもと教師のかかわりだけでなく、親と
のかかわり、家庭や地域とのかかわり、さらに は学校をとりかこむ社会状況にまでも考察の視 野が広がっていくことが見通される。ただその 場合にも、われわれとしてはあくまで個々の教 師の学級における子どもたちとの日々の具体的 かかわりという地盤をしっかりと踏まえている ことが重要だと考えるものである。
( 3 ) 研究の具体的展開にかかわる若干の論点 このようにしてわれわれの考えている教育状 況の現象学は、教育実践者がみずから実践に参 与しつつ、実践において体験される~ 況の意味 を先入見を排して読みとっていこうとするもの であり、その限り、被教育者たる子どもの姿と それにかかわる教師自身の内的な体験、教師と 子どもを媒介する教室環境や教材などを一つの 統一体としてとらえていこうとするものである。
そこでは教師は、実践者であると同時に研究に たずさわる観察者でもある。ここから実は方法 上ひとつの問題点が指摘されてきたのである。
それは、日本教育心理学会第
17回総会でのわ れわれのグループの発表の折に、東北大学の黒 田正典氏により出された、 「現象学的方法の本 質を観察におくのか行為におくのか」という質問 に端的に集約された問題点である。幽
8)これはつ とにわれわれの研究会でも話題になっていたこ とであったが、その時点ではまだ十分煮つめると ころまで論議がかわされていなかったので、会場 での質問に対する答えとしては、加藤氏と山下が それぞれいく分ちがったニュアンスで感じていた ことを発言するにとどまった。今この点をあらた めてとらえ直してみると、加藤氏もその折に述 べたことであるが、われわれの実践的研究にお いては、観察と行為は裁然と分けられるもので はないことがまず指摘される。ただ、現象学的 方法そのものは、基本的には事象を見つめてそ の意味を読みとっていくことであるから、その
限り全体としてのわれわれの現象学的方法は、
「実践的観察」として一応規定できるように思 われる。ただしその具体的展開においては、い わば「行為的位相」と「反省的位相」ともいう べきものが区別されるのであり、この
2つの位 相は互いに他を媒介しつつダイナミックに展開
されていくものと考えられる。
この視点からする方法の具体的展開について さらに若干の予備的考察を加えておきたかった が、もはや紙数もつきたので、他の機会にゆず らざるをえない。ただ一言ふれておくと、この ような実践における現象学的方法を開拓しよう として心を砕いできた過程で、教育における認 識の本質にかかわるいくつかの論究されるべき 点が浮かびあがってきたことである。
そのひとつは、分析的思考と綜合的把握の相 補性ともいうべきもので、フッサールもすでに、
志向的分析と志向的綜合との関係として問題に していた点である。(註
19)現象学的探究はその主 たる位相においては、事象のかくれた意味を
1つ
1つ明るみにもたらすことであり、その限り
「現象学的分析」とか「志向的分析」といわれ るのである。だがそこでの事象の意味の読みと りは、あらかじめ研究者のうちに、事象とのか かわりに先立って了解され、会得されている全 体的・根源的なものへの予了的な見通しに導か れていることを感ぜざるをえない。換言すれば、
焦点づけられた当面の個々の事象の意味の読み
とりは、研究者の意識地平の広がりと深さに支
えられてはじめて可能となるものだということ
'である。これはつとに正木が、教育的技術に
対して教育的叡知とよんでいたものにおそらく
近いものなのであろう。(血)このような次元で
の教師の実践的認識の構造をさらに解明してい
くことも、今後ぜひ進めていきたい問題点であ
るが、基本的な点を先取りしておくと、一方で、
た と え ば 新 た な る 発 達 研 究 の 成 果 を 学 ぴ 、 あ る い は ま た み ず か ら の お か れ た 社 会 の 歴 史 的 状 況 を 学 び な お す な ど の 努 力 に よ っ て 、 た え ず 認 識 の 視 野 を 広 げ て い く こ と が 必 要 な の で あ り 、 他 方 で は 、 自 己 自 身 の 人 間 と し て 生 き る こ と の 意 味 を ひ そ か に 問 い つ づ け て い く 、 そ の 限 り 自 己 へ と 意 識 を 集 中 し 、 収 欽 さ せ て い く 努 力 と が な さ れ る べ き な の で あ ろ う 。 こ の よ う な 広 が り と 収 敏 と も い う べ き 相 反 す る 意 識 の 動 き を 統 一 す る も の が 、 教 師 と し て の 自 己 責 任 の 意 識 な の で はなかろうか。
教 師 と し て の 自 己 責 任 の 意 識 に 支 え ら れ て 進 め ら れ る 実 践 に お け る 状 況 体 験 の 意 味 を ね ば り 強 く 問 い つ づ け て い く こ と が 、 わ れ わ れ の 自 覚
し た 課 題 な の で あ り 、 こ こ に こ そ 教 育 心 理 学 の 本 来 の 存 立 基 盤 も ま た 求 め ら れ る べ き だ と 考 え
られる。
註1これについては次のものを参照されたい。
0山下栄ー 教育心理学への現象学的接近 日本教育心理学会第14回総会発表論文集 1972
0加藤誠一,山下栄ー 教育心理学への現 象学的接近(その 2) —現象学的児童 分析~日本教育心理学会第15 回総会発 表論文集, 1973
0日本教育心理学会第16回総会、全体シン ポジウム:教育実践と教育心理学(教育 心理学年報第14集1974年度 P.81‑86) 0山村常隆、加藤誠一、山下栄ー 教育心 理学への現象学的接近(その 3) —児 童分析より教育状況の現象学へ—日本 教育心理学会第17回総会発表論文集1975 註2 山 下 栄 一 現 象 学 的 教 育 心 理 学(1)及ぴ(2)
児童心理 27巻3号、 4号、 1973 註3 はじめ加藤氏よりの私信の形で寄せられ、後
にグループの研究会に資料としてそのコピイ
を配布した。
註41950年頃より、城戸幡太郎、正木正、続有恒 らを中心に、教育心理学者の間で真剣に論議 され、 1959年日本教育心理学会が発足して後 は、毎年の総会でも度々この主題がシンポジ ウムなどでとりあげられてきたという事情が ある。これについては、続有恒編、 「現代の 教育心理学」同学社1956,依田新「教育心理 学入門」有斐閣1963(とくに第1章)などが参 考になる。
註5ここでは特に説明を加えず「技術学」という 用語を用いたが、 「人間学」と対比されるも のとして考えている。人間学との対比におけ る技術学の意味を吟味することは別な機会に 果さねばならない課題であると思われるが、
この両者の性格を統合するところに教育心理 学の進むべき道を求めている吉田章宏氏の立 場は注目に値する。 {吉田章宏「授業の心理 学をめざして」国土社1975)
註6心理テストの背景にある思想的問題について は、やがて詳細にとりあげたいと考えている が、その一端にふれたものとして、山下栄一
「心理テスト」の底にあるもの", 「世紀」
1975年8月号。をあげておく。
註7 Husserl,E, (細谷・木田訳) 「ヨーロッパ諸 学の危機と超越論的現象学」中央公論社 1974 註8 この経緯については、
Husserliana IX Phiinomenologische Psycho‑ logie§3 にフッサール自身の考察がみられ
る。なお「論研」については、次の邦訳も参 照した。
Husserl, E. (立松弘孝訳)「論理学研究」1及 び2'みすず書房
註9 Heiddegar,M. (桑木務訳)「存在と時間」(J‑.) 岩波書店, 1960, 60‑61
頁
註10Spiegelberg, H. The Phenomenological Move‑
ment―A historical introduction, Martinus
Niihoff, 1971, chap. XIV
註11 この点については、 黒田正典「二つの還元
〜現象学的および自然主義的〜」 日本心理 会第38回大会発表論文集1974,が参考になる。
註12たとえば、 Christoff,D. (木田• 本間訳)
「フッサールー一事象への還帰ー一」大修館 書店 1974 に明快な論述がある。
註13Husserliana IX. S. 450 なお、 Husserliana
V I I I
を参照。註14Binswanger, L. (荻野・宮本・木村訳)「現象 学的人間学」みすず書房 1967, 3ページ 註15この点については、立松弘孝「現象学用語の
研究2」及び加藤登之男「志向性の諸層1」
(いずれも現象学研究会会報5, 1970 : 所収)
などが参考になる。
註16Husserliana IX, Ph恥amonologischePsycho‑
logie, §. 39.
註17 2年ほど前から夏季と冬季の休みを利用して 研究合宿を続けている。ここに引用したのは、
50年7
月
25日‑27日にかけて湯河原静閑荘で おこなわれたものである。筆者は事情で今回 は参加できなかったので、ここでの記述には、当日配布された青木氏の作成になるプリント 資料と、当日の討議の模様についての山村氏 の作成になるプリント資料を参照した。
註18この時の討論の概要については、教育心理学 年報第15集1975(編集中)を参照されたい。
註19Husserl, E. (船橋弘訳)「デカルト的省察」
(中央公論社世界の名著51,所収, 1970)
§18‑§20
註20正木正「教育的人間」同学社, 1953