アントナン・アルトーの栄光の身体
――ロデーズにおける神と性――
佐 々 木 泰 幸
序 アルトーからの手紙
気違いであるとの烙印を押されてアイルランドから送還されたアルト ーは,フランス各地の病院を転々としながらおよそ八年間,監禁を強いら れたまま生活し,思考し,「治療」を受けた。様々な自由は奪われ,戦争 のさ中食料すらままならない状況で,書くことだけはかろうじて許されて いた。医師の中にはむしろそれを勧める者もいたのだが,作品と呼べるも のに比べ夥しい数の手紙が残されている。そしてその宛名は母親はもちろ ん,作家,編集者,友人やその家族など様々である。
手紙は通常,その宛名にのみ向けられ(差し出され)たものなのだか ら,その点ではおそらく「私的」なものだ。宛先以外の人間に読まれるこ とはまるで想定されておらず,不特定多数のために出版されることも前提 としてはいない。相手にだけ伝わればいい用件,体裁のない不平や不満,
直載な感情表現,懇願や告白などが訂正される機会すらなく残されていく。
つまりそれは明らかに対象を持つ。目的の場所へと差し向けられ,特定の 読者に語られた言葉であるのだ。
ジャック・リヴィエールがアルトーとの書簡を出版しようと提案した ことは,アルトーの手紙が「作品」として書かれたからではない1)。アル トーの書いたものが公と私,作品と私信,完成されたものと材料となるも の,書くことと考えること等を分割する線をかき消し,横断し,歪ませな がら自らの思考を「直に」,すなわち何ら抑制も定型化も誇張もすること なく写し出しているからである。だがそれはやはり言語表現への意思が欠 けているという意味ではない。アルトーにとって言語を欠いた思考も,思 考なしの言語もあり得ない。よく考えることはよく書くことなのだ。思考 とは思考する過程そのものであり,思考されたものとしての「作品」では ない。そしてそれはもちろん書くことと同時になされることなのである。
手紙であれ,シナリオであれ,ノートに書きつけられた単語であれ,アル
トーの思考の密度によって圧縮と変形を受け,硬度を増した言語がうねり を描いて紙の上にこすり付けられるのだ。アルトーはいかなる形にせよ,
自らの思考が可能になる地点を見出そうとしていた。それはいっさいの誇 張を抜きにして「常に」試みられ,行われたことだったのである。
例えば
1945
年9
月10
日のジャンポーランあての手紙では明白に手紙 そのものの出版を求めている。だがこの手紙だけが特別に書かれたという 意味ではない。リヴィエールとのやり取りの上でも「作品」というフィク ションと「手紙」というドキュマンを区別したリヴィエールにアルトーは 反駁している。アルトーにとって手紙は「生の叫びそのもの」なのであり,書くことすべてがそうであったと言える。「魂の根こそぎにできぬ実質か らできているもの」こそが出版される必要があるのだ。書くことが常に試 みであり,選択の余地のないぎりぎりの行為であるように,それが読まれ ること,より多くの読者の目に触れることはアルトーにとって必然であり,
書かれた物自体の持っている力動性,受け手に向かっていこうとする力に 従った否応のない道なのである。そしてアルトーは出版される必要のない ものなど書く気はなかっただろう。誰かにだけ読まれればいいもの,読む ことが思考を強いることのないものはすなわち書かれる必要のないものな のだ。むろんそれは手紙であっても例外ではない。アルトーの手紙はその 受取人にちょうど届くように投げられた球状の物体ではなく,それを読む 者すべてに衝突し,動き続けるべく投じられた《魂》の塊であるだろう。
そこでこの論考ではロデーズ時代の手紙を通して,特に性の問題と神 の問題,そして晩年へとつながる身体の問題について考察を進めてみた い。
1.性という欲望
ロデーズ時代の,特に前半期の手紙には性
(sexe, sexualité)
に関する記 述が頻繁に見られる。しかもそれは全てが性を糾弾し,攻撃するものであ り,嫌悪や無関心などという生易しいものからはほど遠い,ほとんど呪詛 とでも呼べる激しさに満たされている。アルトーの言う「性」には,行為,欲望はもちろん,性器,生殖,性的区別をされた肉体にいたるまで様々な 意味が含まれているのだが,一体何がこの激烈な否認を生み出しているか はすぐには見えてこない。
もちろん神経症やヒステリーという言葉で,アルトーの元来持ってい たトラウマや監禁による精神異常に原因を帰してしまうことも可能だろ
う。たまたま「性」であったのだと。だがアルトーの性に対する態度は,
アルトーが「正気に返り」,監禁から解放された晩年にも変わることがな い。性の問題は長い時間をかけて深化し,押し進められた問題であり,決 して外から押しつけられたり,妄想や錯乱の産物として出てきたことでは ない。
では一体,アルトーがいう「性」とは何なのか。
性欲に身を任せることは,自分自身の監禁に身を委ねることであ り,その瞬間は自らの手で自己を拡張したと信じるが故に幸福を感 じるとしても,それは,実際には他の全てとまったく別の,完全に 際だった自我の中で自己自身をさらに高めているからであり,我々 が欲望に与える同意は,我々を他の全ての部分を犠牲にして生きる ようにしむけ,結局は自己自身において他の全ての衝動や現れを閉 じこめてしまうからです。
(O.C.X I, p55 )
それはまず欲望として表される。激しく,「他の全ての衝動や現れを閉 じこめて」表出する欲求。確かに生理的ではあるのかも知れないが,それ は欠乏に対する充足という面ばかりではない。常に失われたもう一対の体 を求めているというよりは,「自己の拡張」,すなわち身体の共有意識や一 体感,さらには生殖に伴う自己増殖,自己の連続性への恍惚を感じるのだ。
ただ自己の内部で完結し,自らの生命の維持にのみかかわる欲望ではなく,
相手とともに抱き,ともに満たし,さらには新しい自己の一部を一個の生 命として誕生させるという快楽の拡張としての欲望なのである。
アルトーはそこに幸福感があることは認めている。だがおそらくそれ がまやかしに過ぎないと言っているのだ。性欲が至上のものとなり,「他 の全ての部分を犠牲にする」ならば,それは「自己の拡張」などでは決し てない。自己が性欲だけに満たされるとき,結局それは性欲のみを無限に 再生産していく行程に過ぎなくなる。アルトーは性欲が性欲を生むという ことに我慢がならなかったのだ。しかもそれは人間の皮を被り,主体性と 自己犠牲に伴う純粋性を持っていると主張するのである。性欲は個体への 充足をやめ,まるで独立したシステムによって起こされる運動であるかの ように振る舞うのだ。そしてこの性欲とつながりを持ち,さらには混同さ れやすい「愛」についてアルトーははっきりと区別をつけている。
なぜなら彼らは性交のうちでしか,性的な身体に浸され,自らの 胸と心臓の中にまでその放射を受けていることによってでしか,愛 を理解せず,ついには汚らわしい感覚や極度の喪失の感覚が彼らに 提供し,与えるであろうもの以外には愛への奉献(それは彼らの心 の魂から生まれた)をもはや理解できないからです。
(O.C.X, p228 )
本当は憎むより愛する方が,拒むよりも与える方が,恍惚の内的 な陶酔の中で悪魔のごとき欲望の気まぐれに身を委ねるよりも,事 物 の 独 占 的 な 引 力 か ら 身 を 引 き 離 す 方 が 無 限 に 簡 単 な の で す 。
(O.C.X I, p45 )
ここでアルトーは,いわゆる肉体的な交わりを欠いた精神的な性愛の ことを言っているわけではあるまい。なぜならそれはただ「欠いて」いる のであって,行為が実行されるかされないかの違いでしかないからである。
異同を問わぬ性愛はやはり肉体の交わりを前提としているのだ。そしてそ うした「愛」がその主体から分離し,超越的な運命や宿命として位置づけ られることもあるだろう。性を伴った愛がその主体の感情と行動を決定し,
身体も精神もそれにつき従うだけになる。さらに愛と性は生殖へと結びつ き,愛ですら目的への手段と化してしまう。(今や性の主として遺伝子が その座に着いている。2))アルトーは全てが意識的だと言うつもりはないだ ろうし,宿命という言葉を肯定的に使ったこともある。しかしそれは宿命 の決定者たる超越者を認めることではない。ましてや身体が性に従い3), 奉仕し,利用されることでは決してない。
だが愛は何も性と不可分であるとは限らない。友人への,知への,自 然や社会,さらには自己に対してですら愛は抱かれる。ではアルトーの言 う愛とは純度を高められた,人間の肉体を考えることのない「神」への愛 だろうか。後に見ることになるが,ロデーズからの手紙には性と同様「神」
という言葉も頻出し,性とほぼ完全に対立する概念として用いられてい る。
神は事物の始まり以来,肉を断罪してきました。その禁止は断固 として全面的なものです。神は人がセックスによる生殖の方法で子 をつくることを望んでいませんし,人間の接近の手段としてのセッ クスも絶対的に禁じました。神がセックスを地上の楽園で禁じたの
は我々の父たるアダムと母たるイヴに対してであり,厳密にはアダ ムの犯した過ちと罪は,このただ一点で神に背いたことなのです。
(O.C.X, p 78 )
楽園には性欲は存在していなかった。人間の肉を作ったのも,自然と しての性を分けたのも神の仕業であるには違いないが,禁断の実を食べた こと,すなわち性欲を持ったことが人間の罪なのだ。しかしアルトーがた だ快楽を罪悪視したと考えることは難しい。アルトーが非難するのは性の 非純潔性であり,決してそれが享楽的であるからではない。性のタブー化 は抑圧ではなく,権力によって仕組まれた性欲の生産装置であり4),アル トーはその権力に異議申し立てを行ったと考えることはできるかもしれな い。ことさらに言わせられ,考えさせられ,欲望を増大させられた上で抱 く性欲。それは無理矢理着せられた衣服のようにこの皮膚に密着し,身体 を覆い隠し,その下からでしか自らの外部に接触できないようにしてしま う。性について説明すること。性によって説明すること。それらは本来の,
そして本来という意味での性を歪ませる。増大のみを続け,繁殖の安定と 活発化を促す装置としての性は人間の役割をただ次世代へとつなげるため の連結部に決定し,生を先送りしてしまうのだ。アルトーは何より思考を 強いられること,すなわち自らの思考の無力化を強いられることに抗い,
性の強制を憎むだろう。
そしてこの性とは人間自身の罪であり,人間社会の権力によって増幅 させられたものである。つまり「悪」であるのは人間の側であるのだ。神 は人をそのようなものとしてつくらなかったし,人が勝手に神を裏切った とアルトーはいったんは考えた。文明,国家,支配者,教会,集団的意識
…。だがやがてアルトーの批判の対象はそうしたものにとどまらず,さら に逸脱し,そこから外れていく。神と人という対立は崩れ,神もやはり間 違った人間の創造者として告発されることになるのだ。
2.神
アルトーの神に対する態度は,信仰から決別へと対極の間を大きく振 れ,手紙に記されている言葉だけとっても同一人物のものとは思われぬほ どである。
ある時には以前の自分の作品を涜神的であると否定し,週三回聖体拝 領を行うことで心の平安を得ていると述べ5),その二年後には神を信じた
ことがないと宣言している。一体何がアルトーと神の関係を変えたのだろ う。アルトーの信仰も一時の錯乱の故と片付けてよいのだろうか。それと もアルトーの思考の過程で必然的に起きた変化なのだろうか。
何故なら神がまさしく善く,正しいものだとしても,神自身がつ くった諸存在はそうではないからです。そしてそれは,諸存在が神 の心から出てきたときには不正の方へ,つまり神の憎しみの方へ傾 いているからです。神は愛であり,諸存在は憎しみです。神は彼ら がどこでその憎しみを抱いたのか理解できませんでした。というの も,神は憎しみなどつくらなかったし,それについて考えることも できなかったからです。
(Ibid., p49 )
アルトーにとって神はまず「純潔」であり,人間の性や肉と完全に対 立する存在であった。というより人間が本来の神の下から離れ,神を裏切 り,性欲の中に溺れていったということなのだ。人間をつくったのは神で あり,もちろん神に似せてつくったのだろうが,性も性欲もその対象とし ての肉体も人間が自分たちに付与していったのである。そしてアルトーは そうした付加されたものを徹底的に否認した。
アルトーの持っていた違和感,本来あるべき働きが十分になされてな いという焦燥感は,思考ということに関してごく若い時期から付きまとっ て離れなかったことはよく知られている。だがおそらくアルトーのその違 和感は思考にとどまることがなかった。思考と身体は分かち難く,思考の 行われている場が身体であり,思考の制限,拘束は肉体的な苦しみとして 受け止められたのだ。何か思考を阻むものがあるように,人間の体を覆い,
その自由を奪ってしまうものとして性がある。性は人間を規定し,目的の ための役割を与え,そこから逸脱しないように統御している。
神への信仰を表明した時期のアルトーにとって,そうした性の束縛を 解いた状態,思考が本来の力を取り戻し,身体が強いられた役から離れた 状態が純潔であり,その状態を具現化した存在が神であったのだ。思考と 身体が夾雑物なしに動き,作用する地点へと達するために得た一つの解答 が神であったのであろう。この神は全能の力によって人間の思考や意識,
身体などを拡張するというより,その原初の姿,神自身の手でつくった時 の状態へ戻そうとするものなのだ。西洋文明の中で社会的な存在として生 殖や家族制度を奨励,強化してきた教会のキリスト教とも対立し,文明以
前,歴史以前のところまでいったん遡ること。それはアルトーが求めた,
自由と強さを持った思考と身体を見つけるために必要な過程であっただろ う。
そして身体をめぐる問題は,性を持つ存在としてより鮮明な形でアル トーの前に現れてきた。思考はおそらく単に精神に属するものではなく,
精神と身体は分離したものでもない。思考が精神の側でなされると仮定し ても,精神が身体から現れたとすれば,思考も身体を出発点に持つに違い ない。
〈…〉何故なら《純潔》の観念を精神に委ねること,まず初めに 引き渡し,それから身体なき精神に委ねること,それは自動的にひ とつの性を生み出させることなのです。〈…〉というのも精神は身体 の広がった延長以外の何物でもなく,身体は完全な還元不可能性の 原理の,無限に小さく近付き難い原子であって,この原理は精神で はないのです。何故ならそれは目に見えぬひとつの点であり,思考 することも動くこともないからです。実はそれは身体であり,身体 から精神が現れたのであって,その逆ではありません。すなわち人
格
(personne)
として生まれる前にまず身体の目に見えぬ物の総体によって身体にふさわしいものにならねばならず,神であれ,精霊で あれ,欲望や精神であるものは全て身体の憎しみの前で消え去るよ り他はありません。その身体とは人間のうちで苦しみ,ある日人間 にふさわしいものになるのですが,精神はその名に値しません。何 故なら意識的な思考であるためには身体の縮小に苦しまねばならな いからです。
(O.C.XI, p73 )
だが身体は考えることはなく,思考のためには縮小しなくてはならな いと言う。目に見えぬ点となるには純潔でなければならない。純潔である ためには性を持つことはできないのだ。アルトーはこうも言っている。
ただ内的な純潔だけが自我から,死や神から救いの手をさしのべ ることができるのです。つまり身体を持つという欲望から離れよう とする身体であるためには,まず自らの身体という夢やイマージュ から離れなければなりません。しかし,精神において離れるだけで は十分ではなく,身体においてそうしたものから離れなければなら
ないのです。
(Ibid., p72 )
身体を持とうという観念を捨てること,それはすなわち性を捨てるこ とに他ならない。性質,性別,性欲,生殖…。人間のつくり上げてきた形 式を一度消し去り,「無限に小さく,近付き難い原子」から始めようとア ルトーは考える。思考をやり直すために身体へと立ち戻り,さらにその原 型を求めて身体を持とうとしないこと。人間のつくられた肉体も人格すら も持たぬ精神へと延長される前の原点として,身体を所有することもその 維持と拡張のみ図ることもやめて,再び新しい思考と身体を手に入れるた めの定点として,アルトーは神の名を口にするのである。
だがよく読んでみると,神という存在が完全に肯定されているのでは なく,相対化され,死や欲望,精神と同列に置かれていることがわかる。
たとえ神であっても「内的な純潔」でなければ,そして「欲望や精神」で あったとすれば否定されることになる。徐々にアルトーは神という概念か ら,再び身体と精神についての思考へと射程を定めていく。まさにまず身 体があるのであり,神なき身体からアルトーの思考が開始されるのだ。そ してアルトーは敢然と神からの決別を宣言する。
ご存知のことと思いますが,ある時期私はキリスト教の儀式にと らわれていました。しかし
2
,3
ヶ月前,そのために忌まわしい影 響に屈していたことに気づいたのです。その影響は神という諸存在 によって私の自我の力を閉じこめ,存在の愚かしい観念へと導いた のです。私はそのような観念を信じたことはありませんでした。そ れはキリストとかエホバとか,バラモンとかと呼ばれています。私 はひとりの人間であり,ひとつの身体です。私はその中に私の骨髄 や苦しみから生じるひとつの心を持っているのです。(Ibid., p91 )
そしてこの戦いは目に見えぬ原理としてより,現存するひとつの身体 の獲得へ向けて,神の「受肉」をめぐりながら激しさを増していくのであ る。神は,人類の体どころか精神までもつくりあげたとして断罪される。
性や肉の否定から,「意思」によって神との対決に臨み,肯定的な身体と 精神を見出そうとアルトーは決意するのである。
3.肉の位置
肉
(chair)
は性欲の源であり,性という罪の原因であるとアルトーは考えていた。
罪とは性と肉であり,それ以外のものでは決してありません。何 故なら,この世のあらゆる罪は肉の存在からしか生じないからです。
(O.C.X, p65 )
性の具体的なありようとして人間は肉を持つ。肉は他の肉と触れ合う ことに悦びを見出し,触れること以外に他の肉の存在を感じとることがで きない。だがそれも実際には自らの快楽を感じとるに過ぎず,互いの「生」
になど関わることはないのだ。いわば肉は物質としてあり,腐敗すること がなければ死体でも同じことなのだ。いや,生きながら腐敗しているのか も知れない。
そして人が愛するのは魂であり心であって,肉体
(corps)
ではあ りません。肉体を愛する者は実際,屍体を貪る者でしかなく,肉体 とは汗をかき,悪臭を放つものなのです。魂への愛は肉体であるも の全てに対して真っ向から反対し,肉体的な魅力の中では腐敗して しまうのです。肉体を欲すること,それは精神において自らを失う ことであり,精神をも失うことなのです。(Ibid., p208 )
ここでは身体
(corps)
という語は肉(chair)
と区別されることなく用い られている。精神の根源,純潔の原理としての身体ではなく,性にとらわ れたままの身体である。肉体と身体という対立にとどまらず,身体と呼び うるものの中でさらなる区別をアルトーは見つけようとしているのだ。肉 のついた身体を捨て去り,そしてまた別の身体へ。アルトーの思考は迂回 や逆戻りをしているかに見えて着実に前とは別の水準へと歩を進めてい く。アルトーの二十代のテクストの中にこのような記述が見られる。
知の叫び,骨髄の細さから生じる叫びがある。私が,《肉》
(chair)
と呼ぶのはまさにそのことなのだ。私は自らの思考と生を区別しない。私は私の肉の中で思考のあらゆる方法を自分の
langue
(舌=言葉)の振動の一つ一つへとつくり変えるのだ。
(O.C.I
☆☆, p50 )
ここでの肉体は思考する実質として,生の主体としてとらえられ,ア ルトー自身から切り離されてはいない。肉体の内部で起こった思考が言語 化される過程が存在し,おそらくアルトーの関心の焦点はそこにあった。
肉体が,つまり身体が思考の場であることは十分に認識されていたが,身 体にこそ問題があるという意識にはまだ至っていない。アルトーはどこに も支点を見出せなかった思考の,漠然とはしているがある種の場として
「肉体の位置」を発見したのだろう。思考は髄から来て,再び
langue
(言 葉=舌)の振動として肉体的に顕在化することになるのだ。振動としての 叫び,思考という震え,そして絶えず動き,震え続けるlangue
,運動と しての思考は肉体を揺さぶり,その外へと波動を伝える。その後アルトー は自ら演劇によってこの思考と振動を実践するのだが,自己の肉体の監禁,拘束を経て,こうした思考と身体の関係,そして身体という暗闇自体を問 い直さねばならなくなるのだ。
すでに見たようにそこでアルトーは身体を,特に肉としての身体を徹 底的に斥ける。そしてあらゆる「悪」の源たる性欲と性行為による生殖か ら人類を救うために,キリストが降臨したと訴える6)。神は人間を性のた めにはつくらなかったし,さらには道を過った我々を回心させるためにキ リストは磔にさえなったのだ。アルトーは確かに回心し,神の望む通り肉 体を捨て,すでにある身体をすら捨てて純潔なる身体を得ることを目指し た。神のうちにアルトーは到達すべき地点を,ひとつの真理を見出したか に見えた。
だがアルトーがひとつの地点にとどまらず,神をさえ捨て去り,激し い対決の準備をすることになる。そしてその萌芽は,神の受肉のうちに垣 間見えることになる。
存在の超越論的な顕現のうちには性やその誘惑の精神を無に帰す る状態があるのです。何故なら神たるキリストのように純潔で貞節 であることは,永遠の星々の間に位置し,もっぱら精神における解 脱を図ることではなく,生まれ来る肉体をこの眼で見つめ,《教 会》が《受肉の神秘》と呼ぶものの基底にあるこの原理の《純潔 性》を見つめることだからです。私はキリストの《原理》は本質よ
りも受肉を愛することだと思います。何故なら本質の存在が証明さ れるのは受肉によってであり,キリストにおける星の輝きの招きは,
この本質の,雷のような実体変化にのみ役立ったからです。そして この実体変化は,はるか昔からあらゆる存在が栄光の身体のただ中 で受肉するよう促してきたのです。
(O.C.X I, p157 )
肉化すること。あれほど攻撃し続けた肉体を,キリストが得ることの 根底に「純潔性」があるというのだろうか。罪として糾弾し続けた肉を受 け取ることがキリストの原理だというのだろうか。
神は身体など持たない。だがキリストは人間の肉体を持ち,人間の眼 前へと現れた。もし受肉がなければ神はもっぱら星々の間で精神の側にと どまるのである。やはり身体なのだ。身体から精神へと拡張するのであっ て,その逆ではない。実体としての身体をキリストが持ち,さらには我々 の身体に属する眼がそれを見つめるという関係だけが「本質」の存在を証 明するのである。性を捨て去ることは身体を放棄することではなかったの だ。アルトーは汚辱にまみれた身体と絶縁するかに見え,だが実際には身 体そのものを決してあきらめることはしない。キリストの受肉は,身体そ のものを消滅させてしまう神の仕業などではなく,純潔と肉体をつなぐ奇 蹟,《受肉の神秘》であるのだ。
ところがそれでも神は,アルトーが進もうとした方向とは別の道をた どるかのように見えてくる。
神という夢は身体の精神に欠けています。何故なら神は苦しみが 猥褻なものとなるその地点を恐れたからであり,あらゆる猥褻なも のをそこから遠ざけるために,身体の内側に入り込む代わりに身体 から遠ざかってしまったからです。そして猥褻なものとは死と苦し みからあふれる夢なのです。
(Ibid., p72 )
猥褻なものも夢であり,それを恐れる神もまた夢となる。だがアルト ーにとって身体は夢とはまるで正反対の実在であって,そこから遠ざかる ことは生を捨てることに等しかったのだ。身体なき精神などあり得るはず もなく,もしただ精神をのみ思考の場とするならそれは夢の世界,死の世 界の幻に過ぎない。アルトーはまやかしのつくられた身体の夢を打ち壊す ために,身体から離れることなく,身体の内側へと進み,そこから新たな
身体を見つけ出そうとするのである。だが神は,性を捨て去ると同時に身 体をも放り出してしまう。キリストは再び精神の側に戻っていくのである。
キリストの受肉という矛盾するかに思える体験を経て,アルトーは結局神 ではなく身体を選んだ。そしてさらにひとつの存在として身体をとらえ直 していくことになる。
魂は身体であり,身体もまた魂であるのですが,それは身体の有 限な側ではなく,魂の無限の側面によってなのです。魂は自らの無 限を超えることはありません。何故なら魂はまさに,常に自らを乗 り越える無限であるからで,それは無限を超越するからではなく,
墓の土のようにそれを盛るからなのです。詰め込み,吹き出す,私 は歩いている太った男を人がデブと呼ぶようにデブのことを言って るわけではありません。詰め込み,吹き出し,盛ること。それらは,
歩く身体がつねにより多くの身体の方へ吹き出すこの身体の測り知 れない魂が,ついにひとつの存在であることを,自らの身体全てに おける魂であることをかちとるための操作なのです。そしてその時,
身体であるのは魂であるが故に,身体はもはや魂でしかありません。
(Ibid., pp101-102 )
身体はまず魂として定義し直される。だが魂とは精神を意味しないだ ろうか。ここで魂は無限であると明言される。しかしこの無限は超越する ものとしての無限ではない。超越するものは実は無限から離れていくもの なのだ。精神は身体から生み出されるのだから,無論この無限に含まれる。
そして神はこの無限を認めることなく,アルトーにとっては超越者にとど まったのだ。無限を盛ること。それは一挙に達せられる行為なき到達では なく,動作と運動を持った実践であるだろう。身体は歩くものでなければ ならない。身体は消滅へと向かうのではなく,より多くの身体を獲得しよ うとするのだ。だがそれは「ひとつの」存在であり,ひとつの身体全体が 魂となるのである。
後にアルトーはこの無限の身体,無限の魂を盛り続けるために再び演 劇を用いることになる。それは自らの身体を動かす朗唱やデッサン,ラジ オドラマであるかも知れない。いずれにしてもアルトーは思考のために現 に存在する自己の身体を揺さぶり,詰め込み,吹き出させ,何度でも盛り 上げるのだ。それは存在としての身体,すなわち栄光の身体へと導くはる
かなる道程の上での歩みであるに違いない。
結 論
思考の問題を訴えたリヴィエールとの書簡以来,アルトーは一貫して いかに自由に思考するか,いかに実在としての思考を成しうるかを追求し てきた。ロデーズでのアルトーの思考は性と神とをめぐって,真の身体,
思考可能な身体を獲得しようと試され,練り上げられ,問い直され続けた。
演劇の創造を目指していたアルトーが監禁され,健康をも奪われ,飢えと 麻薬の禁断症状に苛まれながら身体へと目を向けた時,思考と身体との関 わりがはっきりとした実在としてアルトーの前に現れたのだ。性も肉もそ ぎ落とした身体を神の創造としていったんアルトーは受け入れるだろう。
だが神はもう身体には近付かない。神は身体を超え出てしまう。あるいは また,この身体,性器も脳もさらには精神も神自身の手によってつくられ たのかもしれない。アルトーはやはり自らの手によって身体を,身体の思 考を,思考の身体を発見するために実践の場所を演劇に求めるのだ。思考 を規定する言葉,思考を監禁する器官を破砕する演劇。それはもちろんア ルトー自身の生のうちにあるのだが,身体の内側から身体の夢を打ち破る ように,アルトーの生からその外へと放射される無限の力であるだろう。
注
1
)Antonin Artaud, Œuvres Complètes
(以下O.C.
と略す)I
☆, Gallimard,
1984, pp
21-
462
) cf.Michel Foucault, Histoire de la sexualité
1, La volonté de savoir, Gallimard,
1976,
1982, pp
102-
103,
「性の歴史I
知への意志」,渡辺守章訳,新潮社,102