――目次――
論文
1,
宮の座と株:宮座のいろいろ, 原田敏明, Various Types of Miyaza (宮座), Toshiaki HARADA, pp.1-12.
2,
原始神道と仏教の融合:八幡神成立の源流について, 中野幡能, The Syncretism of Ancient Shinto and
Buddhism: On the Origin of Hachiman (
八幡)Cult, Hatayoshi NAKANO, pp.13-38.
3,
キリスト教と哲学(承前):哲学の位置について, Christianity and Philosophy: On the place of
Philosophy, Kiyoshi
ŌSUGA, pp.39-56.
4, Sainkh
āra を中心とする五蘊無我説の解明, 風間敏夫, An Interpritation of the Buddhist Theory of
Non-Ego of Five Elements With Reference to Samkhara, Toshio KAZAMA, pp.57-74.
展望
5,
東南アジアの宗教学研究, 平井直房, Naofusa HIRAI, pp.75-84.
6,
菅博士に答う, カール・マイケルソン, Karl MICHERSON, pp.84-85.
書評
7, Karl. Jaspers, Der philosophische Glaube angesichts der Offenbarung,
田丸徳善, Noriyoshi TAMARU,
pp.86-96.
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座 というのは行事においての座席によって名づ けられたものであり、かつ一堂に会するものは 多 くは地縁的に結合 個 独立にあるのでは無く、むしろそれらのす。 へ てが相互に関連し、統合されて、始めて全体の組 織 が形成されるし、 それによっていろいろの行事も遂行されていく のである, 一 一 ていく。 そうした特権集団も 、 新しい時代の政治的な経 済 的な変化の激しいところでは、それに支配され て、 座の持って い た 特権が次第に部落のもの全体に開放されて 来 る 。神社での行事など特権を持った人びとだけで なく、部落全体に ょ って執り行われることになる。その場合には神社 の 祭りに関する座の持った特権的な性格は次第 に 無くなって来るの で、こ う いうことはむしろ新しく出来た部落 や、 部落の性格を喪ったようなところに起って来る 現象といってよい。 しかしそれとはまた反対に他の一面には、一つ 0 集団の特権的な性格が強くなって来ると、その 部落の全体ではな くして、そのうちの少数のものから成る特権 階 級が 出来る。それと同時に、その集団の間にもま た 職能とか身分、 お るいは血縁などによって 、 いろいろの特権を持 った 階級が分化して来る。 そういう場合には同じ氏神に対しても幾つかの 多くの 座 や緒衆の組があることになるか、それは お 互に 佃 関係に個
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が重要な位置を占めないことにもなる。
また古くは狭い耕地が山間や自然湧水のほとり に 散在しているが、それらも幾つかが集まっては 一つの集団を形成 している場合が多い。そういう場合には比較的 に 広範囲にまたがって結集し、しばしば地縁的で はあっても、その 条
集団を形成することがある。
すなわち水田でなくて、畑作農耕の場合などに は 住居が聚落をなしていなくとも、地域的に広範 囲 に結合して一つの
成 に大きな役割を果たすことになる。しかしそ ぅ した部落だけでなくして、いろいろな場合にも 集団は形成される。 それと同時に、地縁的な結合は多くの場合には 自然の結果としてそうでもあるのであって 、 必ず しも必然的な条件 ではないが、しかし農耕社会、それも日本の場 ム ロ のように 濯 潮水田の農耕生活では心殊の結果と して地域を同じう す ることになるので、これが部落という形をとっ て 来る。そして部落であるかぎり、地縁的集団で あるために、日本の 農村社会のような場合には地縁的条件が必須な ものとされるのである。 そこで集団の形成には、むしろ地縁的結合が重 要 な素 要 となり、ことに水田農耕の生活において は 、その部落の形
したものであるか、また血縁的に結合したもの であることもある。しかもその多くの場合には、 血縁的な結合という のは自然の結果としてそうではあっても、決し て座 というような集団の結合に対する必然的な条 件 ではないのであ る 。 ・ 中革
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志 ︶。八瀬でも明治のころまでは神殿株が三十八 軒あクて 、これをダ イケと いりていた︵京都 古 習志 ︶。あるいは大家 ということであるかも知れない。 南部の相楽郡川西村植田では名主体といい、 こ れをまた神主 株 ともいっている︵肥後和男﹁宮座 の 研究﹂四五頁︶。 また丹波加佐郡東大浦村野原では、昔は七、八 軒の ホーリ︵ 祝 ︶株があり、一年交代で祝を勤め 、神官ともいって い た ︵ ひだ びと、九巻六号三一頁︶。 それが奈良県吉野部では一帯に公事局 株 といっ ている︵宮座の研究︶。和歌山県でも那賀郡麻生 津村にはこれと 同 じく、昔は六十一戸の公事家という座があった。 これによると 株 といっても 座と 同じことになる といってよい。 福井県敦賀市香具では十二軒の宮株があり、 ま たこれを 宮 百姓とか 宮 講中、諸戸などともいって いる︵昭和十二年 セ月 十四日調︶。鳥取県東伯郡三徳村坂本部落で も本家と分家七軒で持つ神人株というのがあっ て 、それが祭を営み、 最近では隣村の東、西小 鹿村 のものを入れて 北 座 とし、南北二座となっている︵山村生活の研究 四一 0 頁 ︶。 また当屋が特別の家である八戸から成っている ために、岡山県美作の真庭郡美和村 樫東 では、 , ﹂れを当屋 株といい ︵岡山県神社資料、真症一四二頁︶、久米郡 塀和 村中 塀和 でも当金 株 というのがある︵同上、久米 上 八四頁︶。 兵庫県では、広く正月の座の行事を頭︵と う ︶ といっている。当番で経営することから、そう いったのであろう が 、有馬部地方では、それに参与するものを 御 党株 といった。有馬 部 蓋付大川瀬では、古くから 御先度 に 御免株があ り 、それ以外のものはこれに加入せしめない 習 慣 である︵兵庫県神社誌上巻八五一頁︶。人参 村 下 小名田では 党株と いって、一般の氏子に卓越した祭儀の執行権を もつ二十軒のものがいる︵同上巻七五 セ頁 ︶。 貴 志村上内神でも頭株 というのが六株、出番 株は千 株からなり、株数 の 増減を許さない︵同上巻八四七︶。そこで三輪 町 桑原では現在頭株 が 二十七名であり、いずれも 幸 原村主︵すぐり︶ の 血統だといって︵同上巻八二一四︶、その特別は 家柄を誇っている。 同じようにして加東都来往 村 あたりでは、﹁ ま と う ﹂神事といって的を射る行事があり、それに 出るものは 氏 ・子の ㏄ 82) 牢
株か 血縁的集団てあるのと同しく、またそれ 以 上に血縁的関係を示しているのに、 筋 とか分とい ぅ ことかある。 当 屋筋 といったり、頭分︵社会と伝承、二巻 三呈 二八頁︶といって、血縁的な家筋や身分を示して いる。 林家筋や身分を示すのに、刀禰ともいった が 、また 待 とか、俗にダイ ケ ︵大家︶ともい うと ころかある。すてに京都 と 市右京区嵐山の松尾神社では、古く﹁ 侍 座上 八人祭礼 ノ 常灯油 ヲ 備進﹂︵ 嘉祓 三年九月東寺 百 ムロ文書︶とあるか、中京
座区
壬生の壬生寺では、十人衆のことを十人 待 といって︵京都吉留 志 、新刊三三 0 頁 ︶、普通 とは違った士分のもの て のあるとしている。また奈良県山辺郡部分の 都 介 山口神社ては、氏神の子孫と称するものを 宮 侍 座乗といい、他村他国 拘宮から
来 た百姓や商人を平百姓といって区別 した ︵大和志 料 ︶。株 、獅子株、御食 株 、御座 株 、楽 株 というよう に 、職能による分担が複雑になって来ると、それ ぞれの役割を担当す ることの出来る特別の家柄が生じたのである。 , ﹂れらはすでにも述べた座と同じく、また村とい ぅ のとも同じもので あるが、ただ 株 という場人口には、多分に血縁的 なものとしているのである。 もともと 株 ということは血縁集団を示す場合が しばしばあるが、株ということで部落の行事に参 与する特権集団を 示しているのは、まず京都府、奈良県の地方か ら 兵庫県あたりに多く、また岡山県あたりにも 少 なくないといってよ 五 か よ う にして京都府何度 郡東 八田村 於 手技の 八 幡 宮では、分担する役目に従って祐宣 株 、御輿 株 、小袴 株 、 鼻長
︵兵庫県神社訪中巻四二五頁︶。また岡山県浅田 郡 金光町 須 恵では、八幡宮の灯明 株 といって 十 五軒の特殊な家があ り 、それから当屋となって勤める︵昭和二十年 四月二十一日 瀬良 益夫氏 報 ︶。
うち特にまと 5 株と称する セ 軒の家から、男子 が 一人ずっ出仕したが、現在ては株を廃して 氏 子 申の輪番役とした
卸
Ⅰ "" それらにはいずれも血統的に差別したものがあ る 。しかしそれももともと血統的なものであった というのではな い 。たとえ実際において血縁関係によって結合 されていても、それは自然の結果として血縁的に なっているのであ る 。したがって、ここに挙げた 株 やその他の血 締約身分、家柄を示したようなものにしても、 そ のすべてのものが、 そうであったともいえない。 またそれらは必ずしも古くから血統的であった とはいえない。むしろ古くは血統に よ る家柄、 身 分などを余り問題 にしなくて、それよりも、部落のように地域に よって統合された社会では、その部落の各個人の 間 、もしくは各家々 の間には、階層的な差別が極めて少ない。した がって部落のすべての 人 ひどが同様にその行事に も参与することが 出 釆 、そこから除外されることもない。すなわち 部落集団に個性があり、そのほかの部落や人 ぴと に 対して、部落とし 習志 、新刊 二 0 六頁︶。 同じようなことが兵庫県有馬 部 大沢村田西原の 天満宮では、 昔 京都の北野神社から分霊を勧請し た 岩村の宗家元 大 家があり、これを年番 祀宣と 称していたが、 後 にはそのうち二大家が絶滅して セ 大家となった ︵兵庫県神社誌上巻 セ セ 八頁︶。 同じようなことが大阪府北河内郡津田村津田の 一 二宮神社では、祭祀は昔から一定した氏子百三十 九軒が 掌 どるが、 この家柄を古 軒 といい、寛永七年の記録によれ ば 津田村に六十九軒、 藤 坂村に十 ゼ軒 、杉村に 六軒、官廷 村 に十二 軒 、 穂 谷村に二十六軒の古 軒 があった︵大阪府 神社 誌 資料下巻 一 0 五九頁︶。 志 、新刊一九五頁︶、八瀬でも同じくダ イ ともい ぅが ︵社会と伝承六巻三号一六頁︶ 、グィケ とも いっている︵京都
古簿
ダ イケ が大家であるかどうか、これは明かでな いが、京都市北区議 原 では社家の株をまたダ イと もいい︵京都吉留 如と
現在の担当者に対して、それが当番であれ
ば
、その前の担当者を﹁
所
当﹂︵
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ての意味もあるが、当番を助けて部落の行
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に参与し特別な役割を果たす。しかもこの役割
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株 て 、特別のものとされる。この行事に参与する場合の役目の分担が直ちに 階層の分化であるともいえない。役柄や身分は個 々人に違って未て も 、それはまず午食その他の順位に よ るもので あって、終身とか世襲というのとは違っている。 決して家や個人に 附 いた特権的な性質のものではない。むしろ役柄 や 職分の差異に基づくものであって、個人や家の 職能や技能に よ るも のでもない。それでもこれまた一種の階層の差 別 であるということも出来よう。 すなわちそれらの人でげが、ほかの一般人とは 区別されて、部落のいろいろの行事においても 特 別な 身分を持って 来 る。誰にでも出来ることがらであっても、 特 定の人に限ってその役目を担任することが出来る わけで、そういう 意 味 では、これも一種の特権的な階層であるとい ってよい。 それも特に一人だげに限るということもないが、 部落の行事が素朴で、複雑でもないような 場ム ロ には、そうした 時 別の身分を持ったものは、行事の中心となって 指導的な役目を担当するものだけであるのが普通 でもあろうが、しば しばそれに附随している い ろと協力的役割を果 たすものがあり、それらのものがその他一般のも のからも区別され
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一号所載の拙稿﹁宮座のいろいろ﹂に続くものであり、 参照してもらえ ぼ 幸である。 奈良県宇陀郡大宇陀町官臭の飼主神社では氏子 はわずかに二十一戸、それが四組の垣内に分れて いる。当年の当屋 を 本宮サンといい、来年の当屋を若宮サン とい い、その次の年の当番を再来 些 という。そのほか 祭典に関与するもの 六、セ 人を当人といい、これらが当屋 座 をつと める当人、すなわち当屋を中心にして特別の役割 を 担当している︵ 昭 和 十二年九月十三日調︶。これは一種の長老 制と いうことにもなるが、それがまた宮座を経営する のである。 実際において素朴な段階では、特別な職分とか 身分を規制するようなこともなく、部落の行事は 一人の当屋または 当人がすべての行事を担当するにしても、その 任務が複雑になったり、重大な意味を持つ 25 に なると、当番一人。 た げ でなく、幾人かの協力者が出来て、ここに 一 つの祭祀 団 が出来る。これをさして宮座という 場 合 がある。 ることがある。 きな祭礼行事などが執り行われるのである。 そ ぅ した場合に、この祭礼担当者の一団がしばしば 官産 と称せられてい
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このように仏教の渡来は欽 明 十三年以前に民間 各地に受容されていた事がうかがわれるのである が 、この仏教は書 紀 によると 欽明 十三年十月十三日百済聖明王に よる仏像経論等の献上により、蘇我稲目が向原 の家を寺としたに 始 る 。従って固有神道をもつ為政者皇室の仏教 受 容 については天皇自らも決し得ず、群臣の意見も 賛否両論であった。 しかし敏達天皇を経て用明天皇の御代になると 事態は変って来た。書紀養二十一、用明二年︵ 五 八セ ︶ 丁 朱夏四月 乙 已朔 丙午 D 一日︶の条によると次の如くある。 足日大畠 得病 遠人 宮 、群臣 侍焉 、天皇 詔 群臣 日 、 挨 思欲 帰 三宝、柳箸議定、群臣入朝雨 議 、物部 守屋大連 年 中臣 勝 海道、違 諮 議日、何 背 園神 敵他 神位、由来不識 若 期央、蘇我馬子宿禰大臣 日 、可 随詔 前奏功、 誰 生兵 計 、 於是 皇弟 子繋梯町姥 ㌻ 鮫鵜 郡司豊国法師 棚昔人
於 内裏、物部 守屋大連 耶 現人悪︵以下略︶ ︵ 4 Ⅰ︶ この・条は元興寺縁起所収の丈一八光背 銘 にある 銘 文 によ ると確実な史料と云われている。同縁起に よると天皇の態度 は 確立しているが、ことさらに群議にかけた ょ う に書紀生記されているのは書紀編纂の時の造作 であるという説もあ るが、問題は為政者皇室が公的に受容する為に は 群臣にはからなければでぎなかったことと、 物 部 、申 臣 に反対され (48 たが蘇我氏の賛成により皇弟は直ちに﹁豊国法 師 ﹂を内裏に入れている。 この史料からみると、天皇の態度は既に決って いた事も 5 な づかれるが、畿内にも多くの法師が いたであろうと思騰
︵ 3 ︶ 開かれたと伝えている。影
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幹は巫僧
ではなかったかという事が想像され る 。 簗 更に禰宜 尼 より古く八世紀初頭における 重 且 前における沙門で最も著名であり 又 唯一の正史 に 現れる人物に法 蓮 があ 睦 五日︶の条に砒石。浅薄はその医術によってぬ一旦前因四十︵
0 ︶ 野 町を賜っている。続紀養三、文武天皇大宝三年 ︵ セ 0 三︶九月 奏丑 ︵二十 (49 姶 原 施僧浅薄豊前因 野 四十軒、褒医術 也 、 @-,. @ . .... - - .-. ...,@-@,@,,, ,.-r-l- .. ,@@ , .-.'@7.@.,'-' ...@@ 豊下手 に 対してであり、 奇 巫への期待はその 医 術 であった事は明である。その点豊国法師の入内 とその目的を一にし たものであろうと推定されるが、ここにみる 奇正とは 奇 なる 巫 者でありシャマニズムにおけ る 中心である。勿論玉音 には男女両性があり、日本ではみ こ 、かんなぎ、 玉依姫、命婦、いち こ 、わか、あかた、 さュ は た き 、わた 、 05 、 などが歴史的にも現実的にも各地に存在した。 従って天皇小子にわざわ ぎ 筑紫から巫を召上げる 必要はない筈である のに、特に豊国から而も﹁奇正﹂として召上げ た 理由が考えられなければならない。 五世紀の末に豊国の・巫を奇正といわれた事は他 地方の巫 と異 っていたためでなければならない。 このようにみてく ると、時代は八世紀に下るが、奈良時代の宇佐 八幡宮の禰宜が同時に尼僧であった事に思い至る のである。続紀天平 隣室元年十二月十五日の条に次の如く出ている。
︵中略︶ 尼 社友 授 従五位下、主神大神朝臣 田麻 目界 従 八位下、 これは八幡神を神輿に奉じて上京した時の記事 であるが、宇佐の禰宜は託宣を行 い 宇佐官では 最 も 要職であるから 仕女は従五位であるが、主神は従八位で禰宜の 地位の高さが う なづかれる。この時の状況を伝 , えたと覚しぎ資料が 奈 良 手向山八幡宮の鎌倉時代の転 害 会の絵巻物に 残っているが、その服装は尼僧の姿で馬に乗って るまで八幡宮の託宣に 当る 禰宜は尼僧であった。 いわば八幡宮では 尼 神主が奉仕していたわけで ある。斯の如 き 事は 恐らく他社にはみられない点でなければならぬ。 ここに於て宇佐官の官社成立の神亀二年前の八 幡の禰宜は巫女僧 ス
限
とされている
卸
との関係から︵
3 、棄民と新羅 ︶
人
するとその仏教の伝釆は新羅人を通して既に六世
紀
初頭に民間に伝っ
が 考えられ、その受容は奏氏を中心に行われた 25 であるが、飛鳥の百済仏教よ蘇我・ 漢 Ⅱ都市 的 貴族的であるのに 対して白鳳の新羅仏教Ⅰ 秦 Ⅱ在地的土豪的であ り、 更に新羅仏教の受容は遺物の上では文武二年 ︵六九八︶を以て上とあり、
僧法
蓮の褒せられた点は医術であり、
先
0 周明大畠の時に白げられた豊国法師や豊国
奇
巫の場合と同様の事㎎
柄
がみられる。港運はそれから十八年後の養老
五年には再び褒せられ三等親以上の親に宇佐若を
賜ったのである。
祭 者の氏族から沙門が出るという事は当時
役小
角 等々にもみられる。
従ってこの
法
蓮も沙門ではあるが司祭者の一族
でもあるのでこれも一種の巫
僧
ではあるまいか。
浅薄
と 同時に総称
され伝えられている人聞菩薩というものも恐ら
くこのような
巫僧
集団でほあるまいかと考えられ
る 。
もし以上の推定を許されるならば
奇
巫の系譜を
引くものが豊国法師であり
又 浅薄でありその性格
も
既に
巫僧的
存在
ではなかったかと想像されるのである。然ると
ぎは奇正がみえる雄略天皇は四七九年に崩じてい
て 豊国法師は五八
セ
年に現れているのであるが、少くとも
五 ?
大世
紀の頃豊国に於ては氏族の司祭者とそのもつ原始
神道と仏教が融合し
ている事実がみられる。
さてこの仏教は如何なる仏教であろうか。白鳳
期
の不毛宇佐の寺院
肚が
新羅様式の瓦を出す事は
新羅仏教の受容
二 、北九州と大和朝廷の関係
ム 融
鮫
豊国奇正
が 参内し、その系譜を引く豊国
法師、更に
文 法蓮の褒賞などによって豊国と宮廷
との関係が密接であった
て釆 たか、乃至は新羅の個盲信仰が入ったもの ではあるまいかと考えられる。 ︵ 1 ︶西田長男博士﹁宇佐八幡成立の周 遍 ﹂︵神道 史 の 研究第二、一三六頁︶ ︵ 2 ︶ 橋 川正氏﹁日本仏教 史 ﹂ ︵ 3 ︶ 豊鐘善鳴録 ︵ 4 ︶西田長男博士前掲 ︵ 5 ︶続日本紀 巻 一四文武二年九の条﹁豊後園真先天 々﹂
二 、三九頁︶ ︵ 9 ︶奈良東大寺手向山八幡宮 蔵 ︵ 印 ︶奈良には浅薄なる地名があるが、宇佐では京に 摺 れた時に出来た名であるとも伝えられている。 ︵Ⅱ︶八幡宇佐官御託宣 集 、法銃手文書︵大分県史料 第八巻︶ ︵は︶八幡宇佐官御託宣 集 ︵㎎︶平野邦雄氏﹁ 秦 氏の研究 け ﹂︵史学雑誌 七 0 ノ 二 、三四頁︶
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繁之 奇 巫を迎えて 御 病を救ったので 巫 部の姓を 賜ったのである。ところが 巫 部の姓では 巫 現の種 に 呼ばれる事を忌ん 初 で、当世情 称 の 新姓に 改められるよ う 申請うた のである。 そこで真榛大連をみるとこれは物部氏の一族で あった。物部氏は長髄彦の系統を引く旧族で、 朝 廷 では、久米、斉 部に伐 って勢力を有する一族であるが、この 物 部 氏と筑紫の関係はどうであろうか。旧事記天神 本紀にみる天物部 二 十五部の一である筑紫間物部の本拠は豊前国企 救郡 にあったといわれる。この事からすると筑紫 奇 巫を率いていたの は 物部であり、物部氏が豊国の巫規を部民とし て 率いていたのであろうと言う事も考えられるの である。而して豊国 法師が奇巫の後身とすれば、先の雄略天皇薄儀 における仏法の問題にも豊国法師を案内した事に もこのような配慮が もたれていた事がみられるのである。 このように北九州就中豊国と朝廷との関係をみ ると、大和朝廷は始め九州経営のために豊前京都 郡長 峡 県を拠点に したといわれる。そのためか安閑二年紀︵五三 五︶にみえる屯倉は二十六ヵ所があるが、その中 東国、吉備、九州に 最も多く、九州にはハ力所がある。その中正屯倉 が 当時豊国にあるといわれる。豊前︵ 現 福岡県︶ 京都、仲淳郎地方に ある。その位置にっいては古来諸説があるが、︵Ⅰ︶ 佐伯有蓋 氏は肝等 屯倉を豊前京都郡苅田、大故 さ 豊前全教 郡貫 、戟塵 ︵ 2 ︶ を 豊前田川郡 赤 、桑原を同じく田川郡桑原、 騰 崎を 全教都門司、としている。その外、筑紫 国胆 山部については私は 豊前下毛郡藤山脚 に 想定している。︵ 3 ︶このように 典 垂訓北部の企 救 、京都、田川の三部 に 限られてい る 。いずれにしても 北九州と大和朝廷の深い関係のあった事はこれ で 判明できるのである。 そこでこれを等北九州と朝廷の関係を更に遡っ てみると、 旦 秀行 紀 十二年の条に次の如くある。 熊襲 反之 不朝貢、八月二元朔旦 酉 ︵十五︶ 幸筑 紫 、九月甲子 朔 戊辰︵五︶、 到 周君 波磨 、時天皇 南 望之 語辞 卿日 、 於 南方 咽 菊多趣、 必 賊将 在 、則之、先遣 多 直視 武 諸本、国前車東名手、物部 君祖 夏花会祭具状、
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原始神道
と イム教の融合 る 。これを史実とすれば四世紀の初 項 直入地方 に物部 神 中臣神を祀った神社があった と せればな らな Ⅱ リ ﹂と舌口って いをもっていた事が考えられ、もし史実でないに しても、これ等の伝承 が 朝廷側にも知られていた事は明である。 ともあれ朝廷の九州統治に志賀、物部、中臣の 諸族 が大きな力をもち、直入郡にまでその氏人が 分布していた事を 物語るものである。中臣民について黒田原沢 博 モ は﹁中臣民が建国の当初から皇室に接近し 、そ の神事にたずさわる 家柄として 具 えて来たという想定は殆んど確証 を 見出し得ないのである。むしろ 允恭朝か 雄略 朝 からボツボツ頭角を 現 わす よう になり、本居たる豊国の仲 津 地方か ら 四国讃岐を経て、和泉及び高河内の一部並び に 摂津及び北河内の ︵ 3 ︶ ︵Ⅰ 乙 ︶ 一部に根拠を占め、更に近江から東国 端 にまで 発 属 したものであろうと思 う ﹂として、太田 亮博 士の説をとって、中臣 氏は豊前作 津郡 中臣 村 に起ったとしている。 而 して中臣民が皇室に接近できたのは物部氏が陰に 陽 に成 護 したから で、 巫 部の伝えがよく物語っている。そしてそ の 起源は景打紐に現れる 頃 かも知れぬが、継体 朝 ︵五二七︶八︶にお げる磐井の乱における物部Ⅱ 廉 鹿火の戦功であ っ たろ うし 、その動機には中臣民のもつ ト 法にす ぐれた技術を利用し たのであろうことに触れている。 暴行 紀によ ると豊前の諸 酉 投降には、 多臣 、物 部 が用いられ、中臣氏は用いられていない。而も 又 ﹁ト占﹂もなか った 。所が長政行宮から豊後、直入に入ると 皮 々﹁ト占﹂を行っているし、その氏族も物部に 志 賀 、中臣という新し い 氏がみえる。何か﹁ト占﹂と中臣民に関係は ないかと疑われる。そこで中臣民をみると中臣民 はその家伝にみる 如 く 中臣烏賊使主は神功豊後にト事を以てト部 と して仕えている。而も中臣 枠 が現れるのは直入の 戦からであるが、 中 臣が 現れるのは京都郡長岐阜に行宮が定められ てからの後の事である。 さて中臣氏の発生の地とされる豊前仲達郎中臣 村 については和名抄には中臣 郷 とあり、中世 サ舎 目 によると宇佐官 領 になっている。豊後風土記によると、景行天皇 が 豊国 直 祖先名手に話して豊国を治めしめたが、 中臣 村 に着くと白鳥 23 (*97)
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