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『宗教研究』175号(36巻4輯)

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(1)

――目次――

論文

1,

宮の座と株:宮座のいろいろ, 原田敏明, Various Types of Miyaza (宮座), Toshiaki HARADA, pp.1-12.

2,

原始神道と仏教の融合:八幡神成立の源流について, 中野幡能, The Syncretism of Ancient Shinto and

Buddhism: On the Origin of Hachiman (

八幡)Cult, Hatayoshi NAKANO, pp.13-38.

3,

キリスト教と哲学(承前):哲学の位置について, Christianity and Philosophy: On the place of

Philosophy, Kiyoshi

ŌSUGA, pp.39-56.

4, Sainkh

āra を中心とする五蘊無我説の解明, 風間敏夫, An Interpritation of the Buddhist Theory of

Non-Ego of Five Elements With Reference to Samkhara, Toshio KAZAMA, pp.57-74.

展望

5,

東南アジアの宗教学研究, 平井直房, Naofusa HIRAI, pp.75-84.

6,

菅博士に答う, カール・マイケルソン, Karl MICHERSON, pp.84-85.

書評

7, Karl. Jaspers, Der philosophische Glaube angesichts der Offenbarung,

田丸徳善, Noriyoshi TAMARU,

pp.86-96.

(2)

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(3)

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(4)

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のそれらの間には草分と新来とか、本家と分

とかがあり、それによって階級的な差別があ

ることになる。しかしそ

︵ 絹

座 と 株 対して区別をするのである。しかし部落のうち でも分家とか転入などによって、その部落が次第 に 膨張して来ると、 いろいろな点で部落内部での差別が出来る。 地域によって上座と下座、東 座と西 座などと 分 かれるのもその一つであるが、それは組といって も 同じことにな る 。しかもそれも決して平等無差別ではなく、 何 等 かの点で組と何との間にも差別があるので、 それが同時に上下の 階級的, な 差別でもある。 同じようなことが血縁をもとにして、それに ょ って座が分化していくという場合もある。京都 府 綴喜郡田原村で は 、村中に多くの座があり、そのうちには田原 一族 座 とか荒木一族 座 というのがある︵京都 古 習志 、新版七九頁︶。 また相楽郡瓶原村には御霊天神のぽかに蛭子、八 幡の両社があり、御霊神社には秋田氏と 炭竃氏 の 一族 座 があり、 蛭 子 神社には朱雀瓜、八幡神社には和田氏と黒田 氏 の一族 座 があって、それぞれの神社を支配経営 している︵京都 古習 志 、新版一四頁︶。 ちろと それをまた諸 声 ︵また諸人、諸 頭 、諸天、守人、 節人、師 統 とか諸子、諸 古 、あるいは物頭、物 党 、室 徒 、室 人 、 村人、村生人などと書いたり、云ったりしてい る ︶、 刀祢 、公文、乙名などといい、また特別に 神事に関与するとこ ろから、それを社人、神人、社家、神家、また は神役などといって、特権的な宮座を示している 場合がある。 そうした 座 ,すなわち結果 は 、それ自体として は 成員相互の間に差別があるのでなくて、むしろ それ以外のものに

のであって、 結衆 というのもそうした意味を持 っ たもので、 座 ともまた似通ったものであり、 座 衆を指すのである 0 一 一 ヰヱ

(5)

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座 というのは行事においての座席によって名づ けられたものであり、かつ一堂に会するものは 多 くは地縁的に結合 個 独立にあるのでは無く、むしろそれらのす。 へ てが相互に関連し、統合されて、始めて全体の組 織 が形成されるし、 それによっていろいろの行事も遂行されていく のである, 一 一 ていく。 そうした特権集団も 、 新しい時代の政治的な経 済 的な変化の激しいところでは、それに支配され て、 座の持って い た 特権が次第に部落のもの全体に開放されて 来 る 。神社での行事など特権を持った人びとだけで なく、部落全体に ょ って執り行われることになる。その場合には神社 の 祭りに関する座の持った特権的な性格は次第 に 無くなって来るの で、こ う いうことはむしろ新しく出来た部落 や、 部落の性格を喪ったようなところに起って来る 現象といってよい。 しかしそれとはまた反対に他の一面には、一つ 0 集団の特権的な性格が強くなって来ると、その 部落の全体ではな くして、そのうちの少数のものから成る特権 階 級が 出来る。それと同時に、その集団の間にもま た 職能とか身分、 お るいは血縁などによって 、 いろいろの特権を持 った 階級が分化して来る。 そういう場合には同じ氏神に対しても幾つかの 多くの 座 や緒衆の組があることになるか、それは お 互に 佃 関係に個

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それてもっと、集団形成のための必須の条件と なるものは、むしろ共同の目的を持った生活行事 に 参与するという 株 ことである。共同の生活を営み、共同の行事に参 与することによって、そこに集団が結成される っ それを具体的 座 に示すものが、すなわち集合し参与する 座 席 であり、座席の座がそれである。 のしかしこの座は、もとより座席の座ではあ るが、それが同時に集団そのものを表示するこ とにもなるのてある。 す ⑨ 宮 なわち座席の座は一つ一つの座席を指すこ とから、全体の座席、したがって一座を意味する ことになるので、それが 5

が重要な位置を占めないことにもなる。

また古くは狭い耕地が山間や自然湧水のほとり に 散在しているが、それらも幾つかが集まっては 一つの集団を形成 している場合が多い。そういう場合には比較的 に 広範囲にまたがって結集し、しばしば地縁的で はあっても、その 条

集団を形成することがある。

すなわち水田でなくて、畑作農耕の場合などに は 住居が聚落をなしていなくとも、地域的に広範 囲 に結合して一つの

成 に大きな役割を果たすことになる。しかしそ ぅ した部落だけでなくして、いろいろな場合にも 集団は形成される。 それと同時に、地縁的な結合は多くの場合には 自然の結果としてそうでもあるのであって 、 必ず しも必然的な条件 ではないが、しかし農耕社会、それも日本の場 ム ロ のように 濯 潮水田の農耕生活では心殊の結果と して地域を同じう す ることになるので、これが部落という形をとっ て 来る。そして部落であるかぎり、地縁的集団で あるために、日本の 農村社会のような場合には地縁的条件が必須な ものとされるのである。 そこで集団の形成には、むしろ地縁的結合が重 要 な素 要 となり、ことに水田農耕の生活において は 、その部落の形

したものであるか、また血縁的に結合したもの であることもある。しかもその多くの場合には、 血縁的な結合という のは自然の結果としてそうではあっても、決し て座 というような集団の結合に対する必然的な条 件 ではないのであ る 。 ・ 中革

(7)

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志 ︶。八瀬でも明治のころまでは神殿株が三十八 軒あクて 、これをダ イケと いりていた︵京都 古 習志 ︶。あるいは大家 ということであるかも知れない。 南部の相楽郡川西村植田では名主体といい、 こ れをまた神主 株 ともいっている︵肥後和男﹁宮座 の 研究﹂四五頁︶。 また丹波加佐郡東大浦村野原では、昔は七、八 軒の ホーリ︵ 祝 ︶株があり、一年交代で祝を勤め 、神官ともいって い た ︵ ひだ びと、九巻六号三一頁︶。 それが奈良県吉野部では一帯に公事局 株 といっ ている︵宮座の研究︶。和歌山県でも那賀郡麻生 津村にはこれと 同 じく、昔は六十一戸の公事家という座があった。 これによると 株 といっても 座と 同じことになる といってよい。 福井県敦賀市香具では十二軒の宮株があり、 ま たこれを 宮 百姓とか 宮 講中、諸戸などともいって いる︵昭和十二年 セ月 十四日調︶。鳥取県東伯郡三徳村坂本部落で も本家と分家七軒で持つ神人株というのがあっ て 、それが祭を営み、 最近では隣村の東、西小 鹿村 のものを入れて 北 座 とし、南北二座となっている︵山村生活の研究 四一 0 頁 ︶。 また当屋が特別の家である八戸から成っている ために、岡山県美作の真庭郡美和村 樫東 では、 , ﹂れを当屋 株といい ︵岡山県神社資料、真症一四二頁︶、久米郡 塀和 村中 塀和 でも当金 株 というのがある︵同上、久米 上 八四頁︶。 兵庫県では、広く正月の座の行事を頭︵と う ︶ といっている。当番で経営することから、そう いったのであろう が 、有馬部地方では、それに参与するものを 御 党株 といった。有馬 部 蓋付大川瀬では、古くから 御先度 に 御免株があ り 、それ以外のものはこれに加入せしめない 習 慣 である︵兵庫県神社誌上巻八五一頁︶。人参 村 下 小名田では 党株と いって、一般の氏子に卓越した祭儀の執行権を もつ二十軒のものがいる︵同上巻七五 セ頁 ︶。 貴 志村上内神でも頭株 というのが六株、出番 株は千 株からなり、株数 の 増減を許さない︵同上巻八四七︶。そこで三輪 町 桑原では現在頭株 が 二十七名であり、いずれも 幸 原村主︵すぐり︶ の 血統だといって︵同上巻八二一四︶、その特別は 家柄を誇っている。 同じようにして加東都来往 村 あたりでは、﹁ ま と う ﹂神事といって的を射る行事があり、それに 出るものは 氏 ・子の ㏄ 82) 牢

(10)

株か 血縁的集団てあるのと同しく、またそれ 以 上に血縁的関係を示しているのに、 筋 とか分とい ぅ ことかある。 当 屋筋 といったり、頭分︵社会と伝承、二巻 三呈 二八頁︶といって、血縁的な家筋や身分を示して いる。 林家筋や身分を示すのに、刀禰ともいった が 、また 待 とか、俗にダイ ケ ︵大家︶ともい うと ころかある。すてに京都 と 市右京区嵐山の松尾神社では、古く﹁ 侍 座上 八人祭礼 ノ 常灯油 ヲ 備進﹂︵ 嘉祓 三年九月東寺 百 ムロ文書︶とあるか、中京

座区

壬生の壬生寺では、十人衆のことを十人 待 といって︵京都吉留 志 、新刊三三 0 頁 ︶、普通 とは違った士分のもの て のあるとしている。また奈良県山辺郡部分の 都 介 山口神社ては、氏神の子孫と称するものを 宮 侍 座乗といい、他村他国 拘

宮から

来 た百姓や商人を平百姓といって区別 した ︵大和志 料 ︶。

株 、獅子株、御食 株 、御座 株 、楽 株 というよう に 、職能による分担が複雑になって来ると、それ ぞれの役割を担当す ることの出来る特別の家柄が生じたのである。 , ﹂れらはすでにも述べた座と同じく、また村とい ぅ のとも同じもので あるが、ただ 株 という場人口には、多分に血縁的 なものとしているのである。 もともと 株 ということは血縁集団を示す場合が しばしばあるが、株ということで部落の行事に参 与する特権集団を 示しているのは、まず京都府、奈良県の地方か ら 兵庫県あたりに多く、また岡山県あたりにも 少 なくないといってよ 五 か よ う にして京都府何度 郡東 八田村 於 手技の 八 幡 宮では、分担する役目に従って祐宣 株 、御輿 株 、小袴 株 、 鼻長

︵兵庫県神社訪中巻四二五頁︶。また岡山県浅田 郡 金光町 須 恵では、八幡宮の灯明 株 といって 十 五軒の特殊な家があ り 、それから当屋となって勤める︵昭和二十年 四月二十一日 瀬良 益夫氏 報 ︶。

うち特にまと 5 株と称する セ 軒の家から、男子 が 一人ずっ出仕したが、現在ては株を廃して 氏 子 申の輪番役とした

(11)

Ⅰ "" それらにはいずれも血統的に差別したものがあ る 。しかしそれももともと血統的なものであった というのではな い 。たとえ実際において血縁関係によって結合 されていても、それは自然の結果として血縁的に なっているのであ る 。したがって、ここに挙げた 株 やその他の血 締約身分、家柄を示したようなものにしても、 そ のすべてのものが、 そうであったともいえない。 またそれらは必ずしも古くから血統的であった とはいえない。むしろ古くは血統に よ る家柄、 身 分などを余り問題 にしなくて、それよりも、部落のように地域に よって統合された社会では、その部落の各個人の 間 、もしくは各家々 の間には、階層的な差別が極めて少ない。した がって部落のすべての 人 ひどが同様にその行事に も参与することが 出 釆 、そこから除外されることもない。すなわち 部落集団に個性があり、そのほかの部落や人 ぴと に 対して、部落とし 習志 、新刊 二 0 六頁︶。 同じようなことが兵庫県有馬 部 大沢村田西原の 天満宮では、 昔 京都の北野神社から分霊を勧請し た 岩村の宗家元 大 家があり、これを年番 祀宣と 称していたが、 後 にはそのうち二大家が絶滅して セ 大家となった ︵兵庫県神社誌上巻 セ セ 八頁︶。 同じようなことが大阪府北河内郡津田村津田の 一 二宮神社では、祭祀は昔から一定した氏子百三十 九軒が 掌 どるが、 この家柄を古 軒 といい、寛永七年の記録によれ ば 津田村に六十九軒、 藤 坂村に十 ゼ軒 、杉村に 六軒、官廷 村 に十二 軒 、 穂 谷村に二十六軒の古 軒 があった︵大阪府 神社 誌 資料下巻 一 0 五九頁︶。 志 、新刊一九五頁︶、八瀬でも同じくダ イ ともい ぅが ︵社会と伝承六巻三号一六頁︶ 、グィケ とも いっている︵京都

古簿

ダ イケ が大家であるかどうか、これは明かでな いが、京都市北区議 原 では社家の株をまたダ イと もいい︵京都吉留 如

(12)

現在の担当者に対して、それが当番であれ

、その前の担当者を﹁

当﹂︵

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どといって、当番を済ま

ての意味もあるが、当番を助けて部落の行

に参与し特別な役割を果たす。しかもこの役割

決して余人を以て換えⅡ

株 て 、特別のものとされる。

この行事に参与する場合の役目の分担が直ちに 階層の分化であるともいえない。役柄や身分は個 々人に違って未て も 、それはまず午食その他の順位に よ るもので あって、終身とか世襲というのとは違っている。 決して家や個人に 附 いた特権的な性質のものではない。むしろ役柄 や 職分の差異に基づくものであって、個人や家の 職能や技能に よ るも のでもない。それでもこれまた一種の階層の差 別 であるということも出来よう。 すなわちそれらの人でげが、ほかの一般人とは 区別されて、部落のいろいろの行事においても 特 別な 身分を持って 来 る。誰にでも出来ることがらであっても、 特 定の人に限ってその役目を担任することが出来る わけで、そういう 意 味 では、これも一種の特権的な階層であるとい ってよい。 それも特に一人だげに限るということもないが、 部落の行事が素朴で、複雑でもないような 場ム ロ には、そうした 時 別の身分を持ったものは、行事の中心となって 指導的な役目を担当するものだけであるのが普通 でもあろうが、しば しばそれに附随している い ろと協力的役割を果 たすものがあり、それらのものがその他一般のも のからも区別され

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一号所載の拙稿﹁宮座のいろいろ﹂に続くものであり、 参照してもらえ ぼ 幸である。 奈良県宇陀郡大宇陀町官臭の飼主神社では氏子 はわずかに二十一戸、それが四組の垣内に分れて いる。当年の当屋 を 本宮サンといい、来年の当屋を若宮サン とい い、その次の年の当番を再来 些 という。そのほか 祭典に関与するもの 六、セ 人を当人といい、これらが当屋 座 をつと める当人、すなわち当屋を中心にして特別の役割 を 担当している︵ 昭 和 十二年九月十三日調︶。これは一種の長老 制と いうことにもなるが、それがまた宮座を経営する のである。 実際において素朴な段階では、特別な職分とか 身分を規制するようなこともなく、部落の行事は 一人の当屋または 当人がすべての行事を担当するにしても、その 任務が複雑になったり、重大な意味を持つ 25 に なると、当番一人。 た げ でなく、幾人かの協力者が出来て、ここに 一 つの祭祀 団 が出来る。これをさして宮座という 場 合 がある。 ることがある。 きな祭礼行事などが執り行われるのである。 そ ぅ した場合に、この祭礼担当者の一団がしばしば 官産 と称せられてい

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(16)

原始神道と仏教の

融合

このように仏教の渡来は欽 明 十三年以前に民間 各地に受容されていた事がうかがわれるのである が 、この仏教は書 紀 によると 欽明 十三年十月十三日百済聖明王に よる仏像経論等の献上により、蘇我稲目が向原 の家を寺としたに 始 る 。従って固有神道をもつ為政者皇室の仏教 受 容 については天皇自らも決し得ず、群臣の意見も 賛否両論であった。 しかし敏達天皇を経て用明天皇の御代になると 事態は変って来た。書紀養二十一、用明二年︵ 五 八セ ︶ 丁 朱夏四月 乙 已朔 丙午 D 一日︶の条によると次の如くある。 足日大畠 得病 遠人 宮 、群臣 侍焉 、天皇 詔 群臣 日 、 挨 思欲 帰 三宝、柳箸議定、群臣入朝雨 議 、物部 守屋大連 年 中臣 勝 海道、違 諮 議日、何 背 園神 敵他 神位、由来不識 若 期央、蘇我馬子宿禰大臣 日 、可 随詔 前奏功、 誰 生兵 計 、 於是 皇弟 子繋梯町姥 ㌻ 鮫鵜 郡司豊国法師 棚

昔人

於 内裏、物部 守屋大連 耶 現人悪︵以下略︶ ︵ 4 Ⅰ︶ この・条は元興寺縁起所収の丈一八光背 銘 にある 銘 文 によ ると確実な史料と云われている。同縁起に よると天皇の態度 は 確立しているが、ことさらに群議にかけた ょ う に書紀生記されているのは書紀編纂の時の造作 であるという説もあ るが、問題は為政者皇室が公的に受容する為に は 群臣にはからなければでぎなかったことと、 物 部 、申 臣 に反対され (48 たが蘇我氏の賛成により皇弟は直ちに﹁豊国法 師 ﹂を内裏に入れている。 この史料からみると、天皇の態度は既に決って いた事も 5 な づかれるが、畿内にも多くの法師が いたであろうと

思騰

︵ 3 ︶ 開かれたと伝えている。

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(18)

Ⅰ 4

幹は巫僧

ではなかったかという事が想像され る 。 簗 更に禰宜 尼 より古く八世紀初頭における 重 且 前における沙門で最も著名であり 又 唯一の正史 に 現れる人物に法 蓮 があ 睦 五日︶の条に砒石。浅薄はその医術によってぬ一旦前因

四十︵

0 ︶ 野 町を賜っている。続紀養三、文武天皇大宝三年 ︵ セ 0 三︶九月 奏丑 ︵二十 (49 姶 原 施僧浅薄豊前因 野 四十軒、褒医術 也 、 @-,. @ . ...

. - - .-. ...,@-@,@,,, ,.-r-l- .. ,@@ , .-.'@7.@.,'-' ...@@ 豊下手 に 対してであり、 奇 巫への期待はその 医 術 であった事は明である。その点豊国法師の入内 とその目的を一にし たものであろうと推定されるが、ここにみる 奇正とは 奇 なる 巫 者でありシャマニズムにおけ る 中心である。勿論玉音 には男女両性があり、日本ではみ こ 、かんなぎ、 玉依姫、命婦、いち こ 、わか、あかた、 さュ は た き 、わた 、 05 、 などが歴史的にも現実的にも各地に存在した。 従って天皇小子にわざわ ぎ 筑紫から巫を召上げる 必要はない筈である のに、特に豊国から而も﹁奇正﹂として召上げ た 理由が考えられなければならない。 五世紀の末に豊国の・巫を奇正といわれた事は他 地方の巫 と異 っていたためでなければならない。 このようにみてく ると、時代は八世紀に下るが、奈良時代の宇佐 八幡宮の禰宜が同時に尼僧であった事に思い至る のである。続紀天平 隣室元年十二月十五日の条に次の如く出ている。

︵中略︶ 尼 社友 授 従五位下、主神大神朝臣 田麻 目界 従 八位下、 これは八幡神を神輿に奉じて上京した時の記事 であるが、宇佐の禰宜は託宣を行 い 宇佐官では 最 も 要職であるから 仕女は従五位であるが、主神は従八位で禰宜の 地位の高さが う なづかれる。この時の状況を伝 , えたと覚しぎ資料が 奈 良 手向山八幡宮の鎌倉時代の転 害 会の絵巻物に 残っているが、その服装は尼僧の姿で馬に乗って るまで八幡宮の託宣に 当る 禰宜は尼僧であった。 いわば八幡宮では 尼 神主が奉仕していたわけで ある。斯の如 き 事は 恐らく他社にはみられない点でなければならぬ。 ここに於て宇佐官の官社成立の神亀二年前の八 幡の禰宜は巫女僧 ス

(19)

とされている

との関係から︵

3 、棄民と新羅 ︶

するとその仏教の伝釆は新羅人を通して既に六世

初頭に民間に伝っ

が 考えられ、その受容は奏氏を中心に行われた 25 であるが、飛鳥の百済仏教よ蘇我・ 漢 Ⅱ都市 的 貴族的であるのに 対して白鳳の新羅仏教Ⅰ 秦 Ⅱ在地的土豪的であ り、 更に新羅仏教の受容は遺物の上では文武二年 ︵六九八︶を以て上

とあり、

僧法

蓮の褒せられた点は医術であり、

0 周明大畠の時に白げられた豊国法師や豊国

巫の場合と同様の事㎎

がみられる。港運はそれから十八年後の養老

五年には再び褒せられ三等親以上の親に宇佐若を

賜ったのである。

祭 者の氏族から沙門が出るという事は当時

役小

角 等々にもみられる。

従ってこの

蓮も沙門ではあるが司祭者の一族

でもあるのでこれも一種の巫

ではあるまいか。

浅薄

と 同時に総称

され伝えられている人聞菩薩というものも恐ら

くこのような

巫僧

集団でほあるまいかと考えられ

る 。

もし以上の推定を許されるならば

巫の系譜を

引くものが豊国法師であり

又 浅薄でありその性格

既に

巫僧的

存在

ではなかったかと想像されるのである。然ると

ぎは奇正がみえる雄略天皇は四七九年に崩じてい

て 豊国法師は五八

年に現れているのであるが、少くとも

五 ?

大世

紀の頃豊国に於ては氏族の司祭者とそのもつ原始

神道と仏教が融合し

ている事実がみられる。

さてこの仏教は如何なる仏教であろうか。白鳳

の不毛宇佐の寺院

肚が

新羅様式の瓦を出す事は

新羅仏教の受容

(20)

二 、北九州と大和朝廷の関係

ム 融

豊国奇正

が 参内し、その系譜を引く豊国

法師、更に

文 法蓮の褒賞などによって豊国と宮廷

との関係が密接であった

て釆 たか、乃至は新羅の個盲信仰が入ったもの ではあるまいかと考えられる。 ︵ 1 ︶西田長男博士﹁宇佐八幡成立の周 遍 ﹂︵神道 史 の 研究第二、一三六頁︶ ︵ 2 ︶ 橋 川正氏﹁日本仏教 史 ﹂ ︵ 3 ︶ 豊鐘善鳴録 ︵ 4 ︶西田長男博士前掲 ︵ 5 ︶続日本紀 巻 一四文武二年九の条﹁豊後園真先天 々﹂

二 、三九頁︶ ︵ 9 ︶奈良東大寺手向山八幡宮 蔵 ︵ 印 ︶奈良には浅薄なる地名があるが、宇佐では京に 摺 れた時に出来た名であるとも伝えられている。 ︵Ⅱ︶八幡宇佐官御託宣 集 、法銃手文書︵大分県史料 第八巻︶ ︵は︶八幡宇佐官御託宣 集 ︵㎎︶平野邦雄氏﹁ 秦 氏の研究 け ﹂︵史学雑誌 七 0 ノ 二 、三四頁︶

(21)

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繁之 奇 巫を迎えて 御 病を救ったので 巫 部の姓を 賜ったのである。ところが 巫 部の姓では 巫 現の種 に 呼ばれる事を忌ん 初 で、当世情 称 の 新姓に 改められるよ う 申請うた のである。 そこで真榛大連をみるとこれは物部氏の一族で あった。物部氏は長髄彦の系統を引く旧族で、 朝 廷 では、久米、斉 部に伐 って勢力を有する一族であるが、この 物 部 氏と筑紫の関係はどうであろうか。旧事記天神 本紀にみる天物部 二 十五部の一である筑紫間物部の本拠は豊前国企 救郡 にあったといわれる。この事からすると筑紫 奇 巫を率いていたの は 物部であり、物部氏が豊国の巫規を部民とし て 率いていたのであろうと言う事も考えられるの である。而して豊国 法師が奇巫の後身とすれば、先の雄略天皇薄儀 における仏法の問題にも豊国法師を案内した事に もこのような配慮が もたれていた事がみられるのである。 このように北九州就中豊国と朝廷との関係をみ ると、大和朝廷は始め九州経営のために豊前京都 郡長 峡 県を拠点に したといわれる。そのためか安閑二年紀︵五三 五︶にみえる屯倉は二十六ヵ所があるが、その中 東国、吉備、九州に 最も多く、九州にはハ力所がある。その中正屯倉 が 当時豊国にあるといわれる。豊前︵ 現 福岡県︶ 京都、仲淳郎地方に ある。その位置にっいては古来諸説があるが、︵Ⅰ︶ 佐伯有蓋 氏は肝等 屯倉を豊前京都郡苅田、大故 さ 豊前全教 郡貫 、戟塵 ︵ 2 ︶ を 豊前田川郡 赤 、桑原を同じく田川郡桑原、 騰 崎を 全教都門司、としている。その外、筑紫 国胆 山部については私は 豊前下毛郡藤山脚 に 想定している。︵ 3 ︶このように 典 垂訓北部の企 救 、京都、田川の三部 に 限られてい る 。いずれにしても 北九州と大和朝廷の深い関係のあった事はこれ で 判明できるのである。 そこでこれを等北九州と朝廷の関係を更に遡っ てみると、 旦 秀行 紀 十二年の条に次の如くある。 熊襲 反之 不朝貢、八月二元朔旦 酉 ︵十五︶ 幸筑 紫 、九月甲子 朔 戊辰︵五︶、 到 周君 波磨 、時天皇 南 望之 語辞 卿日 、 於 南方 咽 菊多趣、 必 賊将 在 、則之、先遣 多 直視 武 諸本、国前車東名手、物部 君祖 夏花会祭具状、

(22)

原始神道と仏教の

融合

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豊後 な る る 。争臣氏族は神武天皇後背といわれ、人君、阿 後、豊後即ち九州の 中央部を伊予にかけての人国、阿蘇 回 、大分国 に 繁栄していた豪族系統の一人である。それに 対 して物部氏について

(23)

三 、物部氏と中臣民 暴行 紀 によると天皇が豊前の討伐に際しては 多 祖 、 国 前 臣祖 、物部 君祖が 従って活躍したが、 曲 且後 直入郡の討伐に なると、すっかり様子も変り、その大畠 方 の 部 将 としては忘我、物部、中臣の三氏に 伐 っている 。暴行 紀 十二年十月 0 条には直入の上蜘蛛親征の途中城 原 に返りま して水上で ト い、その後兵を集め八田を禰宜野に 撃ち、更に賊を討つ ために 石トを 行っているが、その時 構 った神は士 心賀神 、直入物部 神 、直入中臣 神 であった。太田 亮 博士もこの点に注目 進んだという経過もみられる。 (49 旺 ︵ 1 ︶太田 亮 博士﹁日本古代氏族制度﹂︵五四 セ ︵ 八 頁 ︶にはその大部分を豊前と豊後直入郡地方に比定 し ている。 ︵ 2 ︶同上には 我 鹿は豊後直入郡三河鹿野をあててい ︵ 3 ︶平野邦雄氏﹁豊前条里と国府﹂︵ 九 工人 報 & 三八 号 ︶平野氏は京都郡諫止 郷 にあてているが、私は豊前 下毛郡諫止 郷 が適当 であろうと思う 0 又 回部には大家郷もあり、田部氏の ︵ 4 ︶太田 亮 博士﹁日本古代史新研究﹂三七五頁 ︵ 5 ︶太田 亮 博士﹁日本古代史新研究﹂第六編、六章 @ 七章 ︵ 6 ︶︵ 4 ︶に同じ ︵ 7 ︶拙稿﹁古代転換期の神道と仏教﹂大分県地方史 二五号三八頁 ︵ 8 ︶大宰管内患、豊前志 ︵ 9 ︶豊後園 誌 、豊前志、全教都詰御所 ケ谷 とし、 管 内 志は長尾 説 をとっている。 みやこ ︵ 叩 ︶平野邦雄氏﹁豊前条里と国府﹂︵九エ大紀要︶ 景 何組はは﹁天皇 遂幸 筑紫 到 豊前国長 峡県 、興行宮前屈 、放言其処 日 京也﹂ とある 0 てはこの地方を中心としたものであったろ う 。 , ﹂のように北九州を中心に豊後、速見、大分、直 大部︵大分県︶へと 勿

(24)

原始神道

と イム教の融合 る 。これを史実とすれば四世紀の初 項 直入地方 に物部 神 中臣神を祀った神社があった と せればな らな Ⅱ リ ﹂と舌口って い

をもっていた事が考えられ、もし史実でないに しても、これ等の伝承 が 朝廷側にも知られていた事は明である。 ともあれ朝廷の九州統治に志賀、物部、中臣の 諸族 が大きな力をもち、直入郡にまでその氏人が 分布していた事を 物語るものである。中臣民について黒田原沢 博 モ は﹁中臣民が建国の当初から皇室に接近し 、そ の神事にたずさわる 家柄として 具 えて来たという想定は殆んど確証 を 見出し得ないのである。むしろ 允恭朝か 雄略 朝 からボツボツ頭角を 現 わす よう になり、本居たる豊国の仲 津 地方か ら 四国讃岐を経て、和泉及び高河内の一部並び に 摂津及び北河内の ︵ 3 ︶ ︵Ⅰ 乙 ︶ 一部に根拠を占め、更に近江から東国 端 にまで 発 属 したものであろうと思 う ﹂として、太田 亮博 士の説をとって、中臣 氏は豊前作 津郡 中臣 村 に起ったとしている。 而 して中臣民が皇室に接近できたのは物部氏が陰に 陽 に成 護 したから で、 巫 部の伝えがよく物語っている。そしてそ の 起源は景打紐に現れる 頃 かも知れぬが、継体 朝 ︵五二七︶八︶にお げる磐井の乱における物部Ⅱ 廉 鹿火の戦功であ っ たろ うし 、その動機には中臣民のもつ ト 法にす ぐれた技術を利用し たのであろうことに触れている。 暴行 紀によ ると豊前の諸 酉 投降には、 多臣 、物 部 が用いられ、中臣氏は用いられていない。而も 又 ﹁ト占﹂もなか った 。所が長政行宮から豊後、直入に入ると 皮 々﹁ト占﹂を行っているし、その氏族も物部に 志 賀 、中臣という新し い 氏がみえる。何か﹁ト占﹂と中臣民に関係は ないかと疑われる。そこで中臣民をみると中臣民 はその家伝にみる 如 く 中臣烏賊使主は神功豊後にト事を以てト部 と して仕えている。而も中臣 枠 が現れるのは直入の 戦からであるが、 中 臣が 現れるのは京都郡長岐阜に行宮が定められ てからの後の事である。 さて中臣氏の発生の地とされる豊前仲達郎中臣 村 については和名抄には中臣 郷 とあり、中世 サ舎 目 によると宇佐官 領 になっている。豊後風土記によると、景行天皇 が 豊国 直 祖先名手に話して豊国を治めしめたが、 中臣 村 に着くと白鳥 23 (*97)

(25)

:

北から飛び

った。みると鳥が餅になり、

芋になり数千株に繁殖した。余りに珍しいので

天皇に奏すると天皇

喜んで

名手の国を豊国、

名手に豊国直

わったのである。

豊後国者末年豊前国合

一国、昔者

向日代官

御宇大足

天皇

詔豊

直筆

之祖蒐

名手

治豊国、往

豊前作

津郡

中臣

、干時日

晩僑宿

、明日昧爽、

勿有

白鳥、

従北

飛来、

臭化

名手

即勒

侠者、道春

其鳥

化鳥餌片時

2

仕手草数千評林花葉冬柴、

名手具

偽果、

歓士

畳ム、化生芝手、未曾有見、実至徳

之感

乾坤

之瑞

既而

参上朝廷、

挙状奏聞、天皇族

歓喜之、即効英名手芸、

天之

端物、地

之豊草

治国司

豊国、重賜姓

豊国

日豊

、後方両国以豊後園偽名、

この白烏伝説は記紀、常陸風土記、近江風上記、

ぬ城

風土記逸文、又豊後風土記田野の条にもみ

える。奈良時代に

よく使われた表現様式である事には疑

余地は

ないが、直入には﹁ト占﹂がみられるので、豊国

の場合は当時の日本

一般の原始宗教にみられない独自の宗教技術が

, しの地方に既にみられたからではあるまいか。

名手が豊国直を

わったのは、中臣村の紹介

のためである、勿論

名手は皇族を称する吉備

であって豊国土

着の氏族ではない。しかしこうして北九州Ⅱ

と朝廷との関係は益々深くなって行ったあとが

伝えられている。

のことは天物部と中臣との関係も極めて深いも

のが明にみられる。

さて豊国の中臣民が朝廷に従って行くよ

たのも﹁ト占﹂技術や物部氏との関係ではなか

たかと思われ

。先述の雄略天皇小子についての豊国奇正

参内にしても、文代々天皇

治病

のための参内にし

ても物部氏の功は大

るまいか。用明二年︵五八

︶の豊国法師も

、西

博士も指摘する如く、当然豊国

巫の後身であ

が、月明二年の

場合は参内に法師を巫部連が奉らず﹁皇弟皇子

豊国法師、入胎内裏﹂とあるので、豊国の巫

は巫郡

部連には所属

4

(498) 24

(26)

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原始神道と仏教の

融合

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、豊前に於ける

硯の変容

︵ 1 ︶大田 亮 博士﹁日本古代史新研究﹂ ニ 二頁。同氏は この神は延喜式神名 帖 にみえないので、後世衰微した 事か 、両氏の氏が衰 徴 したか、他へ移った と せねばならないと言って い るっ 豊後目 志 によると物部神は大分県直入郡直入灯花 寒村の籾山八幡 社 ︵現存︶であり、中臣神は直入郡中野村の神であり 、忘我 神は通証 では筑前志 加 海神社といわれているが 、佐伯有妻 氏は 信じ難しと称しているし、私は土地の伝えに残って い る 如く大野郡朝地町志賀村の若宮八幡 社 であると思 う 。更に 柏趺 大野 は 竹田市正来の吉田八幡 社 に社地に石を伝えているの でこの地であろうかと思う。 ︵ 2 ︶黒田 源次 博士﹁中臣民政﹂︵大和文化研究四の 六号五四頁︶ ︵ 3 ︶大田博士前掲 ︵ 4 ︶西田長男博士前掲

@O

に 真杭 氏 てあるからその当時豊国奇 正が 皇室の 部民とは思われない。然し安閑二年︵五二五︶ 五 月 九日の筑紫の屯倉 については、豊国には少くとも四ヵ所の屯倉 か 考えられるの て 、それ以後奇 正が 部民になり得る 可能性はあるたろ

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Then it follows immediately from a suitable version of “Hensel’s Lemma” [cf., e.g., the argument of [4], Lemma 2.1] that S may be obtained, as the notation suggests, as the m A