• 検索結果がありません。

布教資料 第05集 現代の教化をもとめて

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "布教資料 第05集 現代の教化をもとめて"

Copied!
184
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

布 教 資 料 第5

現代の教化をもとめて

0

浄 土 教 の 未 来 像

O

仏教の

二重構造

O

寺 院の 教 化 戦 略

現 代 人 へ の 教 化

竹 中 信 常 袖 山 栄 真 坂 野 泰 巨 土 屋 光 道

(2)
(3)

布 教 資 料 第5集

現代の教化をもとめて

目 次 浄土教の未来像 竹 中 信 常 (1) 阿弥陀1弗・念{弗・往生のとらえ方 仏教の二重構造 袖 山 栄 真 (39) 寺院の教化戦略 坂 野 泰 巨 (69) 現代人への教化 土 屋 光 道 ( 111) あ と が き (176)

浄 土 宗 総 合 研 究 所

(4)
(5)

│ 阿弥陀併・念悌・往生 のとらえ方

(6)

皆さまお忙しいところをご苦労さまでございます 。 きょうは、浄土 宗の未来 像という題 でお話することになったのですが、 そんな難しいことではなくて、浄土宗が、浄土教がど うあるべきであるかということは最後のほうにお話しすることにいたしまして、その前に 浄土宗の問題点につきましてお話させていただきます 。 いま駒沢大学で近代自由悌教懇話会というのがあって、毎年 一 回ずつ研究会をやってい ます 。 去年ゃったものをまとめまして、近々に ﹁ 世界の悌教 ﹂ という論集が出るのです が、その第 二 回目として ﹁ 日本の併教 ﹂ という表題で各宗の宗門の我々のような者に、浄 土宗について書いてくれというので、 それを半ベラでもって 二

1

O

枚書いたのですが、 それが下敷きになっております 。 ですからきょうの話しの道筋はいずれその論集に出るも のに準じておりますので、何だ同じことをまたやっているじゃないかとお叱りを受けるか もしれませんが、私もそう種はなく、やはり、 いろいろと昔のものを掘り起こしていま す 。 前置はそのくらいにいたしまし 家 派 制 悌 祖 師 供 信 (図) 図)に入ります 。 檀 宗 本 度 教

I

f

弗 ト一 一 → 教 先 祖│ の 現 在 養 仰 │ 的

信ィ│状

信 ベ │ 況

養 教 て、きょうの表題のプロット(上

(7)

日本悌教の現在的状況

﹁ 日本悌教の現在的状況 ﹂ ということで、最初の ﹁ 宗派俳教 ﹂ その横にそれぞれ﹁檀家制度 ﹂ 祖師信仰﹁ ﹂ ﹁ イベン ﹁ 先祖供養 ﹂ 俗 ト悌教 ﹂ の 三 つ の 柱 で ご ざ い ま し て 、 信 ・ 教養 ﹂ の 三 つが入ります 。 そこで、こういうたてかたでございますけれども、 日 本 の 悌教をこういうふうに簡単に性格づけるということは非常に乱暴なことなんですが、しか し、理由のないことはないのでして、併教というとインド、中園、 日本、韓国も入ってお り ま す が 、 これで見ますと日本の併教というのは、結局のところは ﹁ 宗派俳教 ﹂ で す 。 宗 派を抜かして日本に悌教はない 。 どのお寺でもみんな何かの意味で宗派に関連している 。 なかには単立もありますけれども、単立でも何かのかたちでもって宗派との絡みあいがあ ります 。 結 局 、 日本の悌教というのは分解してみると ﹁ 宗派併教 ﹂ で あ る 。 宗派のうえに 浄土教の未来像 日本悌教というのは 一 口にまとめてみると、宗派の併 成り立っている併教 。 し た が っ て 、 教 。 宗派から成り立っている併教だと 。 これもずいぶん乱暴な言い方ですが、このことに ついては先ほどらい申しております、従来の私の論文に十分その点は書いてあります 。 そ の宗派ということは何かというと、現実の教団形態からいうと檀家制度の上に成り立って

(8)

いるということになる。檀家をもたないお寺もたくさんあるかもしれませんけれども、大 部分のお寺がこの檀家制度のうえに、これは皆さん方よくご承知のとおり、中期から日本 併教の制度的なものとして檀家を底辺とした悌教寺院ができあがってきます 。 A ですが、これは後ほどいろいろと話が出てくるのですが、 日本の併教をみますと天台宗は伝教大師、真言宗は弘法大師、日蓮宗は日蓮上人、真宗は その次の ﹁ 祖師併教 ﹂ いまの 親鷺聖人といって、お祖師様のほうが表へ出ているのです 。 浄土宗では法然上人というこ ですから、浄土宗では阿弥陀様よりも法然様のほうが表看板で とに なるかもしれない。 す 。 これは後ほど申しあげますが、皆様方は専門家だから申すまでもないのですが、知恩 院へ行きますと大殿というのがあります 。 いちばん大きい 。 あそこのご本尊様は何かとい うと法然上人です。あれを御影像と称しているでしょう。本尊じゃないのです 。 御影像な んです 。 と こ ろ が 、 一 般 の 人は知思院の本 尊だと思ってお参りするわけです 。 お参りをす るのはけつこうですが、 ところが本物の阿弥陀様はその横の阿弥陀堂です 。 一 般の人は阿 弥陀堂は知らないでお参りしないで、御影像を本尊だと思ってお妻銭をあげてお参りして ﹁ きょうは知恩院にお参りしてきた ﹂ と、知思院の浄土宗の本尊だということにな 帰る 。 る 。 何はからんや、拝んでいる相手は阿弥陀様ではなくて法然上人です 。

(9)

このことは、浄土宗ばかりではなく真宗がそうです 。 東本願寺を

ζ

覧になっても ζ 承知 のとおり、まん中のいちばん大きい建物はみんな 御影像です 。 日蓮宗の本門寺もやはり 御 影像が本尊のかわりになっている。かわりというと語弊があるけれども、 一 般の人はそう 思っている 。 そ う す る と 、 日本の悌教のお寺の形式というものは、祖師悌教なんです 。 ぉ 祖師様を拝ましているわけです。 いつのまにかそういうことになってしまっているので す 。 その祖師ということから出てくるのが ﹁ 先祖供養 ﹂ ということになる 。 祖師というのは 宗派のご先祖ですから、 それに準じて各信者の、個々の先祖という連想が出てくるわけで す 。 そこで、横に並べてみたわけです 。 三 つ 目 の ﹁ イベント併教 ﹂ 。 これは 言 葉は悪いのですが、 こういう言葉はよくないので す 。 とにかくいま併教教団が行っていることは、開祖宗祖の年忌法要等々もございます 浄土教の未来像 が、それと同時にいろんなかたちでも って行事を 行 っ ているわけです 。そこ に俗信と教養 と書いてありますが、俗信というのはようするに水子供養、 オカルト、神秘、霊界物語な ど俗信と結びついたいろいろな行事 。 そのさいたるものが教団でいえば阿含宗です 。 こ れ は日本俳教ではないといわれればそうですが、広い意味の日本の 宗 教のひとつの特色を表

(10)

し て い る の は 、 こういった俗信と結んだイベント的、 いろいろなことを行 っ て いるわけで す 。 そ れ と 、 それに準じて近来、さかんに宗教関係のいろいろな方向が出ております 。 本 も 出 て い る し 、 こんなのは数のうちに入りませんが、とにかく各所で 宗 教ないしは併教の 講習会、講演会等々が行われて、大勢の人が教化センターといいますか、 カルチャーセン タ ! と い う か 、 そういうかたちでもっていろいろな教養を中心とした会合がもたれてい る 。 これもひとつのある意味ではイベントです 。 そういったかたちでもって日本の併教と いうものは行われているのではないかというわけです 。 ︿信仰の個人化 ﹀ そこで三つの柱がぺアになっております が 、 ﹁ 宗 派併教 ﹂ ﹁ 檀家制度 ﹂ というものが あります 。 これは近来日をす っ ばくしていわれているように、 いわゆる都市化の問題、あ るいは人口集中の問題等々で、菩提寺離れをしているということがあります 。 いわゆる都 市集中の人口動態のために、従来の檀家制度というものが崩れるというと語弊があるけれ ども、非常に歪んだかたちになってきている 。 これは否定することができないわけです 。 そのうえに乗っかっている日本のいわゆる寺院、教団というものが否応なしに影響を受け

(11)

ています。そうした都市集中の人口動態の変化による信仰の形態の方向性が変わってきて いるということは、内実的には、それまでの家を中心とした何々家菩提寺という信仰形態 から、個人の自由選択による宗教選定 H セ レ クト、いわゆる信仰の個人 化とい うことに なってくるわけです。信仰の個人化ということについては、これは非常に重要な問題でし て、いいとも悪いともいえないのですが、 これはまたそれなりのひとつの論議があります が、とにかくかたちのうえでは、信仰というものがいままでは何々家の菩提寺ということ で、浄土宗あるいは真言宗のお寺ということが、今度は都会へ出てきてそういったしがら みとあるていど疎遠になってくると、自分の信仰を中心とした個人信仰にかわってくる 。 そこに出てくるのが近来いわれている新興教団の繁栄ということになるわけです 。 ︿ 祖 供 養 ﹀ 浄土教の未来像 ﹁ 祖師併教 ﹂ 。 いわゆる ﹁ 先祖供養 ﹂ ということは、これもしきりにいわれて その次の いることですが、死者に対する追善供養ということです 。 このことについてはのちほど申 しあげますが、これは 二 年ばかり前に、私が教学布教大会(現在は浄土宗総合学術大会) で 、 ﹁ 先祖と祖先 ﹂ という題目で話したことがありますが、そのときにも申しあげたので

(12)

すが、望月併教辞典にしても宇井さんの併教辞典にしても、先祖とか祖先という 言 葉はな いのです 。 ということは、もう 一 ついうと、僻教では本来先祖とか祖先という概念はもた なかった 。 それが日本へきて、 いまいったようなかたちで祖師悌教になり先祖供養という ことになる 。 結 局 、 この祖先とか先祖というのは何かというと、 これは先祖、祖先を供養 するというか追善のための対象になるわけです。この場合の祖先とか先祖というのは、こ れは厳密な 言 葉でいうとたいへんな問題ですが、常識的にいうとごく近い先祖です 。 親や おじいさんぐらいまで、 二

1

三 代 、 三

i

四代前の先祖に対する追 善供養 。 春や秋のお彼岸 のお参りにはご先祖のお参りをするんだというようなかたちになる 。 先祖崇拝ということは、結局、死んだ先祖の死霊、死んだものの霊魂に対する崇拝とい うことで、死霊崇拝とつながってくるわけです 。 これも簡単につなげでは危ないと思いま すが、関連のないこともありませんので、 そういうかたちも辿れるわけです 。 ︿俗信・オカルト ﹀ それから、先ほどいった俗信との結びつき、これも私からとやかくい う までもなく、例 の水子供養の問題やオカルト、あるいは霊界物語もしくは近頃話題になっている臨死体験

(13)

な ど 、 いわゆる神秘主義的な傾向というものが、近来しきりに日本の併教のひとつの性格 づけとなっているということがいえるのではないでしょうか 。 そういったいろいろな傾向がこの日本の現代的な状況のなかから拾い出されるわけです が、とりまとめて申しますと、皆様方、教化の立場から ' 申 し あ げ ま す と 、 これは私からい うまでもなく、近来しきりにいわれている、とくに浄土真宗本願寺派の例のポストモダニ ズムの問題、ポスト教学の問題等です。教学と現場との対立 。 現場というのは大衆の側か らの受け取り方 。 われわれが教学として高い次元で(というと語弊がありますが、これも のちほど最後にしめくくりに言います)言うのと、それを受け取る側では、 そうは受け 取ってくれていない 。 依然として、最後の俗信と結びついたきわめて泥臭い信仰形態で も っ て 、 これを受け取っているのが現状ではないかと思います 。 そこを突いたのが、西本 願寺の教学研究所の 一 連の問題でございます 。 浄土教の未来像 これもだいぶ真宗では問題にしておりまして、なかには反論もありますし、また肯定も あるし、これから発展したいろいろな論議もありますが、ようするに現場と教学との禾離 ということで、これが日本の併教の現状ではないかということです 。 では浄土宗というのはどういうことになっているのか 。 これを皆さん そ こ で 問 題 は 、

(14)

方、あたりまえのことだからぜんぜん関心なしに通りすぎていると思いますが、試みに浄 土宗の 宗 綱をみますと、第 一 条から第 三 条まであります 。 第 条 こ の 宝 小 は 、 ﹁ 浄土宗 ﹂ ( 以 下 ﹁ 本宗 ﹂ という 。 )という 。 第 一 条は当然のことですが、第 二 条です 。 第 二 条 本 宗 は、法然上人の開宗にもと づ き 、 その教旨を信ずる個人、寺院、教 会、その 他 の団体をもって組織する 。 これは問題ない 。 問題は第 三 条 で す が 、 寄与す』iあるとる」ここ

(15)

これも宗綱としては立派なものです 。 非の打ちどころもない 。 ︿ 現場と教学 ﹀ そ こ で 問 題 は 、 サブタイトルに出てくる念併と阿弥陀併と往生浄土 。 は た し て 、 これが そのままといいますか、 いわゆるわれわれ教団の側が考えているお念併であり、阿弥陀様 であり、極楽浄土へと、 それを大衆がそのまま受け取っているか受け取っていないかとい う問題 。 ここに先ほどいった現場と教学とのズレがあるというのは、 ここをいうわけで す 。 で す か ら 、 いちばん最初の宗綱宗規のいちばん最初の肝心なところに、もうすでに浄土 宗 の 問題性があるのではないかということです 。 これをあまり突きつめるといろいろ問題 が出てまいりますが、そこに少なくとも 三 つ の問題性があるということだけをいっておき 浄土教の未来像 そういったいわゆる 宗 綱宗規に立 っ て、第 二 条 、 第 三 条 に 立 っ て 、 で は 、 ます 。 そ れ で は 、 現代の浄土宗はどのような対応をしているかという 。 これもいろいろな対応の仕方がある し、個人的にも集団的にもいろいろな対応をしています 。 ですから、個々の問題はそれぞ れ取り上げたらきりのないことですから、私はそこで次の四つをあげたいと思います 。

(16)

浄土宗が現代社会に対する対応といいますか、これはどんなことをしているのかという と、第 一 番目は、皆様方にも毎々ごめんどうをお願いしている教学布教大会です 。 これも ひとつの浄土宗の対応の仕方です 。 平成元年度の教学布教大会の目玉は、 一 つ は ﹁ 宗門子 弟教育機関のあり方 ﹂ 。 これは内部の問題です 。 これからの子弟をどうやって教育してい くかという問題です 。 これはどちらかというと宗門教育の問題です 。 二 つ目の柱と し て 、 ﹁ 現代人に極楽をどう説くか ﹂ というシンポジウムがあった 。 こ れ はまさに浄土宗が現代の社会に対応するひとつの指針を、目標としてどう説くべきである かということをこのシンポジウムでやったわけです 。 ところがそうでない 。 別に私はけち をつけるわけじゃありませんが、中外日報の浄土宗教学布教大会についての社説では、 はっきりいうとどうもピンとこないというのです 。 ﹁ 極楽という言葉は現代人にはピンと こないからどういうふうに説くかという意見が求められたかと思うが、法然上人は地獄に 対して極楽を説くというようなことはあまりしなかった云々 。 浄土があるとかないとかと いうのは常識的な判断であって、宗教的な英知をとおして語られれることではない云々 ﹂ と 書 いてあります 。 し た が っ て 、 これはこういう対応の仕方を取り上げること自体に対す る中外日報の社説としてのひとつの 批判だと思います 。 そういう取り上げ方では、けっし

(17)

て対応じゃないということまではいっていませんが、おそらくそういう意味あいを含んで いるのではないかと、 私は付度しているわけです 。 それから平成 二 年 度 、 ﹁ 現代人の宗教観と浄土宗 ﹂ というシンポジウムがございまし た 。 これもまさにそのものズパリの現代に対する対応ですが、中外日報の社説では、 布 教や儀式の面でもいろいろ教団内部の諸問題について討議が行われたが、あまり注目すべ きものはなかった 。 これは浄土宗の教団人が、(ここからが大切ですが)まだ 二 十 一 世紀 に向かっての浄土宗のあるべき姿に対して、十分に考えていない結果であって、教団人の そのような宗門改革の意識の低さにいささか失望された ﹂ 。 これは非常に痛い批判です 。 これは中外日報の 一 批判にしかすぎないといわれればそれまでですが、しかし、 そう い っ た批判も行われているということは、われわれの意識の念頭におかなければならな ぃ 。 そうい っ たことで、浄土宗が現代的な対応として第 一 番 目 に取り上げている教学布教 浄土教の未来像 大会の内容というものに対して、世間の評価というものはあまり芳しくないということで す 。 二 番目に教 化推進 会議のことですが、 これもご承知のとおりだと思いますが、十回にわ たってや っ てきました 。 これが第十回のものです 。 このなかにはお出でにな っ た方もおあ

(18)

りになるだろうと思いますが、 ﹁ 二 十 一 世紀に向けて教化活動はいかにあるべきか、 教 化 の現代的対応を考える ﹂ という、まさに浄土宗門の現代社会に対する対応の問題をとらえ て、今年は大阪でやりました 。 ここでは宮林先生その他参加して、助 言 者等をやってくだ さいました 。 このときの問題は都市化社会に対する教化者の取り組み方という大きい題の部で四つの 柱をたてて分科会がありました 。 それは結構なんです 。 細かく申しますと、都市化社会に 対する教化者の取り組み方の 一 番目が、寺院と住職の社会的役割を考える 。二 番目が、都 市文化との競合と共存ということ 。 三番目が高齢時代に対する教 化 者の取り組み 。 すなわ ち寺院と住職の社会的役割を考えると同じようなことなんです 。 それから高齢化社会に対 する教 化 者の取り組みの こ として、充実した生き方の教化をめざしてと、これがやや教化 的な面ですが、あとの問題はむしろ教団の問題 。 いかにして社会に対応するかというきわ めて受動的な消極的な態度で、 それの実態をつかもうというわけです 。 これは悌教大学の 先生がだいたいのプロットを考えたんです 。 た だ 、 その先生は社会学者ですから、社会と いうことを非常に重要視してこういうプロットができたわけです 。 それでは、われわれは 簡単に、都市文化とか、都市化社会ということはいったいどういうことなんだと 。 都市化

(19)

社会というのは、かたちのうえで人口あるいは産業その他が集中して、 ひとつの巨大都市 に な っ て い く 、 それが都市化社会だと 。 それは形態的な問題であって、 そう そ れ で は 、 い っ た社会に住む人々の意識はどういう意識をもっているか 。 いわゆる都市生活者と地方 生活者の意識の相違というものがぜんぜん考えられていない 。 そこに菩提寺の問題も出て くるし、新興教団の問題も出てくる。そういった都市 化とい うことを、あるいは都市 化社 その内実で 会 ということをかたちだけで、 いわゆる社会形態的にだけ勘でとらえていて、 あるそこに住む人々の意識内容にまで立ち入っていない。そういった会議などはいくら や っ ても同じです 。 そんなことをいうと怒られますが、 これを第十回でやっているので す 。 第 二 回目 の ときも私も参加してみたのですが、 言 い っ ぱ なしの聞き っ ぱ な し で 、 そ れ だけなのです 。 そこで、これは十回でやめになって しま っ た の で す 。 これ以上いくらや っ ても同じだと 浄土教の未来像 い う のです 。言 うことは言うけれども、誰も実際にそれを具体化していない 。 ということ は、具体的なといいますか、もっと現実的な状況把握ができていないから、 それに対する で す か ら 、 いたずらに抽象的な観念的な理論にだけす 具 体的な対応ができないのです 。 いわゆる 言 いっぱなしにな っ てしまう 。 聞くほうも聞き っ ぱなしになっ べ っ て し ま っ て 、

(20)

てしまう 。 効果が出ていない 。 十回でやめたかわりに、平和運動推進会議をはじめようと いうのです 。 いま、平和なんていうことは、 さんざん言い古したことなんです。否応なしに平和。湾 岸戦争といいますが、あれは戦争じゃないですよ 。 あれはひとつの領土的次元よりもっと 前の恨みの戦争です 。 い ま 、 日本が ﹁ 北方領土を返せ、返せ ﹂ と騒いでいますが、あれは 本来日本の領土だと 。 ところがソ連は ﹁ そうじゃない 。 しかし、しょうがないから 二 つ ぐ らい返してやろう﹂というのが、 今度のゴルバチョフさんのくるひとつの目玉ですが、 そ れと同じことなんです 。 イラクがクウェートを占領したのは何かというと、あれはイラク の領土だった 。 それをヤルタ会議でもって英、米、 ソが勝手に分離させてクウェートとい う国をつくってしまった 。 だ か ら 、 イラクにとっては憤癌やる方ない状態だったのです 。 そこでおこったのがクエ l ト 侵攻ということだった 。 幸いに戦争は終わったが色々の問題 が尾を引いている 。 そして何よりも注意しなければならないことは、 その陰に宗教のちが いということがあるのです 。 端的にいうならばイスラムとキリスト教ないしユダヤ教の抗 争ということです 。 ですからいま世界の各地でおこなわれている紛争の深い根は宗教聞の 乳蝶によるものです 。 このことについては機会を改めて考えてみたいと思っております。

(21)

それともう 一 つは、これも皆さん方新聞でよくご承知のとおりですが、 イラクが恨み骨 髄なのは国連です 。 国連のいうことを聞かなかったのはあたりまえです 。 それは何かとい , っ ム ﹂ 、 これもいうまでもないことですが、 イスラエルが独立しました 。 そのときに国連で はぜんぷそれを反対したのです 。 反対しながらも事後承諾的にあのイスラエルの独立を認 めてしまったわけです 。 そういうような国連憲章に反する行為を行っているイスラエルに 対しては何の罰則も加えないで、何で俺たちだけいじめるのかというのが、イラクの不満 だったのです 。 ただ表に出た石油の取り合いとか、領土の取り合いだけではない 。 もっと 根の深い、心理的な民族的な、さらには先ほど申しました宗教的ものがあるのです 。 で す から、戦争とか平和という時代ではなくなってきているのです 。 いまの時代はもう戦争は できません 。 私がこんなことをいってもしようがありません 。 そのくらいにしておきま しよう 。 浄土教の未来像 そういうわけで、平和運動推進会議というような、ものができるのだそうですが、 これは お手並み拝見というところです 。 このなかにご関係の方がおいでになったら暴 言 多謝でお 許しください 。 三 番目におてつぎ運動です 。 これもとやかくいう時期はすぎてしまいました 。 し か し 、

(22)

おてつぎ運動というのは、よその宗門からみると、あれは浄土宗の運動だと 。 天台の 一 隅 を照らす運動や、真宗の同朋運動と同じように、宗門があげてあの運動をして念併の輪を ひろげようとしているのだと思っているが、あにはからんや、内実はあれは知恩院 一 寺院 の運動にしかすぎない 。 それを何とかして全宗、浄土宗的な宗門的なものにまで育てあげ ょうという の が 、 いまの知思院さんの苦労しているところです 。 子供おてつぎ運動や青年 おてつぎ運動、全国行脚などいろいろや っ ております 。 ところが、どうしてもその枠がと りきれないというのが現状です。 ですから、おてつぎ運動、運動それ自身はけっして悪い ことではないし、推奨すべきだけれども、宗門としてはある程度の枠がとりきれないとい うところに、浄土宗の停滞がある 。 それもいろいろ問題があると思いますが、 それぐらい にしておきましょう 。 四番目に総合研究所 。 これは自分自身の問題で、あまりとやかくいうことはやめます が 、 現代社会に向けて浄土宗の対応の問題、現代の医療と宗教の問題等々やっています 。 こうした 宗 門の諮問課題については 一 応の答申はいたしましたが、具体的に対応しきれぬ 悩みがあります 。 しかし、今後共努力して宗門のお役に立ちたいと思っております 。 まとめて申しますと、 いまの浄土宗の現代的対応は、どれひとつとして現実具体的な機

(23)

能を発揮していないということです。まだこれからだとおっしゃればそれまでのことです が、現状はそうではないかと思います。そういった浄土宗の現代的な対応は、やはり限界 があって、十分でないということは、皆さん方もご了解できると思います 。 ︿ 浄 土 宗 の 問 題 点 ﹀ いよいよ浄土宗の問題点として、念併が追善供養、阿弥陀併が神話化され教義 化された 。 それから往生浄土が往生ということを死もしくは浬繋と見る側と、これは併教 そ こ で 、 学の教義的な問題としてはいろいろ 問題があります 。 だいたい往生ということ自体でもた いへんな問題があって、私が生半可なことをとやかくいうべきではないし、私もかつては ﹁ 往生と成併 ﹂ という論考をまとめたことがありますが、 そう簡単につながるものではあ りませんが、しかし、 一般大衆の受け方は、往生といえば死ぬことです 。 これは文句なし 浄土教の未来像 にいえることです 。 そうすると、死ぬということは何かというと、すぐそこへ出てくるの は霊魂の問題です 。 死んだらどうなるんだと 。 教義のうえからいうと、私は宗教学の卒論 で浄土教の神秘主義をやったのですが、あのときに往生の問題もちょっと取り上げまし た 。 そのときに口頭試問があったのです 。 これはお年寄りの方はご存じかもしれません

(24)

が 、 真言宗 の碩学である加藤精神先生、この先生が学長のときに 、 そのころの口頭試問と 20 いうのは、先生がいるところに 一 人ずつ回っていくわけです 。 私が加藤先生のところに 行 っ た と き に 、 ﹁ 君は論文で往生について論じているが、じゃ往生って、何が往生するん だ ﹂ と 。 これは非常に痛い質問です 。 念ながら頭を下げてしまったのです 。 ﹁ 往生、往生って、何が往生するんだ ﹂ と 。 私は残 それは龍樹などがいっています 。 ﹁ 往生の生は、無 生の生だ ﹂ というのです 。 私にはわかったようなわからないようなことをいうのです 。 こ の体が行くのではない、 この魂も行くのではない 。 生まれるということは生まれないこと なんだと、無生の生で 。 生まれないで生まれる 。 こんなべらぼうなことは宗教学を専攻し た私にはわからないです 。 と こ ろ が 、 一 般の人聞はそうじゃないのです 。 死んだらすぐ考えるのは、人が死ぬと魂 が残るじゃないか 。 このごろは、死んでしまったら灰になるんだと 。 しかし、頭のなかで 割り切 っ て い ま す が 、 はたして自分が死んだ場合に灰になってそれでいいのかと 。 このあ いだの講演会のときに、私は発会式のときに、あえてライシャワー先生が 、 ﹁ 自分が死ん だら自分の灰は太平洋にまいてくれ 。 私は死んでも日本とアメリカの架け橋になる 。 だ か ら太平洋にまいてくれ ﹂ と 言 っ て 亡 く な っ て 、 その通りされたのです 。 ライシャワ ー 先生

(25)

で も 、 ﹁ 自分が死んだら ﹂ ということを考えられるわけです 。 考えると い うより感じて い るわけです 。 そ う す る と 、 一 般の人が往生は無生の生だなんていっても、 そんなこと承知 するわけはないのです 。 何かが、どこかで生まれるじゃないかという、何かがどこかにど うなるかというふうに受け取っている、 これが実際の問題です 。 そこに先ほどからいった 浄土宗の問題というのが、非常にややっこしいところがある 。 ︿ 念併は追善供養か ﹀ そこで、先ほどは先走って申しましたが、浄土宗の問題点をもう 一 回おさらいをしなお すと、お念併というのは追善供養と受け取られている 。 それは何かというと、現世利益的 なものです 。 これは実際、大地震があったときなどには、 浄土教の未来像 つ い ﹁ 南無阿弥陀俳 ﹂ というの で す 。 お念併を唱えると併さんが助けてくれる 。 そういうような現世利益的な受け取り方 をしているんです 。 それから先祖を供養をするために唱える 。 ところが、親鴛聖人が ﹃ 歎 のなかでこういうことをいっています 。 異抄 ﹄ ﹁ 親鴛にありては父母の孝養のために、 度たりも念併をしたることなし﹂とはっきりいわれている 。 ﹁ 私はお父さんやお母さんの 孝養、追善供養のために 一 遍 一 で も 念 併 し た こ と が な い ﹂ と 。 念併というのはそういうもの

(26)

ではないということをはっきりおっしゃっている 。 そのお師匠さんの法然さんですから、 22 法然様だってとこを見ても、父母の追善なんてこと 一 言 もおっしゃっていません 。 と こ ろ が 、 いまはそういったお念併の受け取り方をされているのです 。 これは皆さん方 が ﹁ お十念 ﹂ な ん て い っ て 、 ほんとうにお十念唱えるけれども、 これは何となく唱えて いるのですけれども、しかし 一 般の人々は、お念併というとご先祖に向かって感謝感激の お念併をする 。 それなんかまだいいほうです 。 ﹁ きょう 一 日無事にすまさせていただきま し た 。 南無阿弥陀悌 ﹂ といって寝る 。 これなんかまだ純粋なほうですが、 そのうらに入る と ﹁ お念併のおかげ ﹂ と 。 おかげということは功徳がある 。 お念併というのはそんなも のではない。どういうものかというと、これは私がとやかくいうと、間違ったことをいう と怒られるから難しいことはいいませんが、お念併というのは、法然様のお念併は極楽浄 土に往生するため、 ﹁ た め ﹂ というといけないのです 。 これは難しいところです 。 ょうす るに、本願を信じてお念併を唱えればいい、 ただ唱えればいい 。 往生したいと思ってお念 僻 し た ら 、 これは ﹁ し た い ﹂ という意識があるために自力になる 。 で す か ら 、 富 豆 不 か ら い わせると、浄土宗の念併は半自力の念併だというのは、こういうことです 。 それがいいと か悪いとかの問題ではなく、そういう状況です 。

(27)

ついこのあいだ悌教タイムスの記者がきて、 ﹁ 先生、何かしゃべれ ﹂ というから、研究 所のことを主にして勝手なことをしゃべったんです 。 そのいちばん最後に私はい っ たので す 。 いまわれわれが悌教だの宗教だのというけれども、宗教とは、あるいは併教とはとい みんな外側から考えているんですよ 。 と こ ろ が 、 う こ と で 、 ﹁ と は ﹂ なんていうようなも のがそこにあるわけではないのです。宗教というのは で わ ] ﹂ のなかにある。併教も念併も みんな心のなかにあるわけです 。 それを取り出して、念併とはこういうものであるとか、 こうでなければならないというのは、 ほんとうの念併ではない 。 ですから 、真宗の ことを ばかりいって、お前、浄土宗じゃないのかといわれるかもしれませんが、金子大栄先生と い う 有 名 な 先 生 が 、 ﹁ 念併が念併する ﹂ ということをおっし ゃ っ て います 。 人が念悌する のではな いのです 。 併様が何となしにいわせてしまうのです 。 それを金子さんは ﹁ 念備の 念併 ﹂ という表現をされているのです 。 これは、私は非常にいい 言葉 だと思います 。 浄土教の未来像 浄土宗はそこまでいかなくてもいいけれども、 そういうお念併なんです 。 それを ﹁ 死ん だ ら命があるよう に ﹂ なんていうお念併では浄土宗のお念併ではないです 。 父母の追善の ための念併なんていうものも本来の念併ではない 。 そ れ で は 、 い っ たい念併とは何か 。 ﹁ 念怖が念併する ﹂ の念仰とは何か 。 こ れ は 、 = 司 仁士7 力て

(28)

報 ﹄ にだいぶ前に書いたからご覧になった方もあると思いますが、 ﹁ 人間性と念悌 ﹂ と い 24 うことを書いたことがあります 。 これはだいぶ長いです 。 それをご覧になるとよくわかる のです 。 結局、念併というのは、併を念ずるということは、こういうことは非常に宗学的 には飛躍したといいますか、異安心的な発言です 。 しかし、根本さえきちんと守ってさえ いれば、これからは宗学や、宗乗の枠なんていうのはあまり考える必要はないのです 。 最近、藤吉慈海法主が ﹃ 法然法語を読む ﹄ (春秋社)という本をお出しになりました が、その中でかなり自由な発言をされております 。 それは何かというと、念併というのは 人間性なんです 。 ヒューマニズムなんです 。 そのさいたるものが例の、 よくいわれる言葉 ですが、法然様のおっしゃった阿波介の念併がそうです 。 ﹁ 阿波介の念併もわれの唱える 念併にも、念併にはいささかの異なりあるべからず ﹂ 。 阿波介という のは、頭の足りない というと語弊があるけれども、何も知らない、念併しか知らない、知らないというその阿 波介の念併と、知恵第 一 の法然坊の言った、学徳すぐれた法然上人の南無阿弥陀併は、ぜ んぜん違うように感じるけれどもそうじゃないということをおっしゃっています 。 これは 私がいうまでもないことです 。 念併においては人聞は 一 つなんです 。 キリスト教でも神の前においてはすべての人聞は

(29)

平等であるということをうたっている 。 そうすると、念併ということは、人間のいちばん ぎりぎり、決着の、 いわゆる私のいうヒューマニズム 。 ヒューマニズムという 言 葉も非常 に難しい 言 葉 で す が 、 ヒューマニズム H 人間性ということは 、 それを抜きにしたら人間で はないというぎりぎりの決着です 。 人間の人間たるあり方、 これがヒューマニズムです。 人間としてのあり方。念併はそこから出てこなければならないわけです 。 先ほどいった ﹁ 念併の念併 ﹂ というのはこれです 。 ま だ 言 うことはいっぱいありますが、進みましょう 。 ︿ 阿弥陀併と神話化 ﹀ それから阿弥陀様の問題ですが、神話化ということが書いてあります 。 併教には神話が ないといわれていますが嘘っぱちなんです 。 お経をみればぜんぶ神話です 。 ﹁ 如 是 我 聞 一 浄土教の未来像 ﹁ 併 あ る と き : ・ : ・ ﹂ と菩薩たちに説教した 。 その菩薩は何億何 時併在 ﹂ からはじまって、 千万なんて書いてある 。 そんなべらぼうな数はない 。 それは神話とはいわないで誇張で す 。 あれは中国的な誇張になるのですが、 それでなくても神話的な表現でもたくさんある わけです 。 例 の誕生のときに、お釈迦様がお生まれになって七歩歩 い て ﹁ 天上天下唯我独

(30)

尊 ﹂ を唱えた 。 そんなべらぼうな話はないです 。 生まれたばかりの赤ん坊がヒョコヒョコ 歩いてそんなことをいうわけがないはずです 。 そんな表現が、これは経典の表現としてや むをえないのですが、経典にはそういった神話的な要素が多いということです 。 これはと くに大乗併教からはじまっていることです 。 これはひとつの宗教の、 たとえばキリスト教 のバイブルにも神話的な要素がたくさんある 。 ここで申しあげたいことは、神話、神話とわれわれがいっているが、神話であるという ことがわかったら、もうそれは神話ではないのです 。 いわゆる神話人は、 その時代の人は それを神話と知らない 。 知らないというか、意識しないで ﹁ 天上天下唯我独尊 ﹂ を信じて い る 。 これが神話だと知ったとたんに、 それはたんなる神話にすぎないということにな る 。 ですから、神話は神話であることによって神話でないという非常にややこしい、 ロニカルな表現もできるのです 。 そういった時代が大乗併教の時代です 。 アイ そういった神話化を経まして、今度は阿弥陀様が神話化されるということは、阿弥陀経 でなくても浄土宗の宗義として阿弥陀様は法蔵菩薩といった、 いわゆる王子様だったのが 発心して法蔵菩薩になって、修行して、 四十八の願をたてて、極楽を建設された 。 これは 立派な神話です 。 そういった阿弥陀様というものは、神話化されてはじめて阿弥陀様にな

(31)

るわけです 。 ところが、阿弥陀様が神話だよ、といったとたんに阿弥陀様はいなくなって しまう 。 そのかわりに何が出てくるかというと、祖師という問題です 。 お祖師様 。 浄土宗でいうならば法然様です。それがなぜ出てくるかというと、これもや やこしい問題です 。 宗教の現代的な意味と宗教教育という、淑徳大学で長谷 川 良信先生の 追悼記念論文をつくったときに私が掲げた問題です。そこにも書いてありますが、キリス 卜教では神の死の神学というのがあります。神様は死んでしまったというのです 。 現代は 神様なんていない 。 いないというか必要ないのだ 。 現代必要なのはイエス ・ キリストであ る 。 それはアルタイザ

l

等々¢人たちが、 そこをしきりにいっております 。 それと同じように、 いまの浄土宗ももう阿弥陀様は死んでしま っ た 。 そのかわりといっ たらおかしいですが、現実にわれわれが崇拝の対象にしうる具体的な現実的な存在という のは、法然上人しかないわけです。ちょうどキリスト教が神の死の神学で、神にかわるも 浄土教の未来像 の としてイエス ・ キリストをあげたように、浄土教では阿弥陀様のかわりに、現実にこの 世界にわれわれと同次元の世界にかつて存在した実在的な人物という意味で祖師 H 法然様 ということが出てきた 。 これは浄土宗ばかりではなく、 日蓮宗にしても、真 言宗 にしても 大師様を 一 生懸命拝んでいる。

(32)

そういうわけで、神話化されて神話がはぎとられて、非神話化されて、結局何を 言 い た いかというと、実在性ということです 。 現実にわれわれと同次元のこの世界で、われわれ と同じように生老病死の苦をこの肉体をもって現実に味わった、 そういった、かつての宗 教 的 な 偉 人 、 それに 一 歩でも近づこうという 。 これはキ リ スト教でいう卜 l マ ス ・ ア ケ ン ビスの ﹃ キリストのまねび ﹄ という有名な本がありますが、 一 歩でもキリス ト 様に近づこ - つ ん ﹂ い ・ っ 、 そこにキリスト教があるんだという 。 われわれもほんとうなら阿弥陀様へ近づ くのですが、しかし現実的には 一 歩でも法然様に観念的 ・ 実践的に近 づ く 。 そういう体質 が本質的に現代の問題としてとりあげられなければいけないのではないかと思います 。 ︿ 往生と浄土 ﹀ 三 番目の往生ですが、往生ということは、捨此往彼蓮華化生です 。 これを捨ててかの国 に行くというのです 。 もう 一 つ の 言 葉でいうと、厭離横土欣求浄土ですよ 。 この横土を 嫌 っ て浄土を求める 。 ようするにこの土は棋士なんだと 。 罪汚れの世界だから、 それを捨 てて清い国へ行くんだという、 その意識がなければ浄土を求めないわけです 。 ところが現 状をみてご覧なさい 。 見方によっては、現代ほど、 これはいい古された 言 葉ですが、物は

(33)

余っている、金は余っている、人は余っている、何もかもみんな余っているわけです 。 冷 暖房は完備しているし交通は発達している 。 言うことはないわけです 。 そうすると、厭離 する、嫌い捨てるべき械土ではなくなって、ここで死ぬんだという、物質面からそういう 面があるわけです 。 ところが、そういった現実の浄土、極楽、浄土とは申しません極楽です 。 と こ ろ が 、 は たして現代は極楽かどうか 。 ここまでいうと皆さんも、ああそうか、あるべき姿かとおっ しゃるとおり、例のゴミ戦争があるし、環境破壊の問題もあるし、 いろいろな問題がお こっている 。 けっして極楽ではありません 。 昭和六十 三 年の暮ですか、岩波文庫からギボンの ﹃ ロ l マ帝国興亡史 ﹄ という五冊本が 再版にな っ たのです 。 丸善へ何百冊か卸したところその日で 売 り切れにな っ てしまった 。 それはなぜかといいますと、 ローマが滅亡する状況と非常によく似 いまの日本の状況が、 浄土教の未来像 ているといいます 。 ですから、ちょっと心あるインテリはそれにとび つ い て 、 たちまちに して 売 れ切れにな っ た 。 日本の状況というのはそういう状況です 。 これもお読みになった方もあると思いますが、私もだいたい読んだのですが、講談社現 それがいまのギボンの 代 新 書 に ﹃ ロ

l

マはなぜ滅んだか ﹄ という文庫本があります 。

(34)

みになるといいです 。 ま さ に 、 ﹃ ロ e ・ e -マ帝国興亡史 ﹄ をもう 一 回現代的に考え直して、ごく簡単な本にした 。 これはお読 いわゆる先進国の状 30 いまの日本とは申しませんけれども、 況はそれにあたります 。 模範としてたらざるはなし 。 その話だけでおもしろいのですが、 やめておきましょう 。 別に本屋の宣伝をしているわけではありませんが、読んでくださ し、

いまの日本の現状というものが、世界を風廃して、世界をつくりあげた、あの七百年続 い た 大 ロ

l

マ帝国が崩壊する状況が、 いまの状況と非常によく似ている 。 こ れ は 、 そのま ま放っておけばいい問題ではない 。 この世の中というのは、 ほんとうは極楽だ、極楽だ、 楽だ、楽だなんていっている場合じゃないのです 。 それをはっきりいうと、末法意識とい うことです 。 いまの日本には現世が末法であるという意識がぜんぜんないのです 。 末法意 識がなければ浄土は求めません 。 いくら極楽浄土といっても、この世がよかったら向こう へ 行きません 。 と こ ろ が 、 この世が末法であるということ、なるほどうわ?りはロ l マ の 繁 栄 に似ているけれども、 一 枚はぐってみれば、 いつ何どき崩壊するかわからないとい ぅ、まさに危機状態にあるということを、 はっきり意識されることが末法意識の問題で す 。

(35)

だから、法然様はおっしゃっているのです 。 時機相応の教 学だと 。 時というのはまさに 末法なんです 。 機というのは人間の機根です 。 人間の信仰的な能力 。 機もまさに霊魂崇拝 だとか、祖先崇拝などとくだらないことをいって、 ほんとうの意味の人間性を失っている ということです 。 この時機相応の浄土が時機相応していないということです 。 これははっ きりいえる 。 それをどのように相応させるかということは、 これは私の器でないのでやめ ておきます 。 ︿ 二十一世紀の世界思潮と併教 ﹀ 二 十 一 世紀の世界思潮ということです 。 これも非常に問題です 。 だいたい 二 十 一 世紀な んてあと十年たたなければこな い の で す が 、 いったいそうなったときに、この世界はどう いうような思想をもつようになるのかというと、 これはある有名な歴史 学者がおっ し ゃ っ 浄土教の未来像 たことですが、それに少しつけ加えておきますが、第 一 番目はもうすでに歴史というもの は時間的な歴史ではなくて空間的な歴史にならなければいけないということです 。 そんな べらぼうな話があるかということです 。 歴史というのは過去から、古代から中世、近代、 現代と時間の流れではないか 。 だから、時聞を抜きにしては歴史なんてないだろうと思い

(36)

ます 。 そうじゃないんです 。 現代はすでに空間的な歴史の時代である 。 も う 一 つ いうと地 球は 一 つだということです 。 そういう時代になってきているのです 。 過去がこうだつたか らとか、あそこがこうだからではなくて、 空間的にいまイラクでは、あるいはアメリカで は と 、 この前のときにも騒がれましたが、 イラクでくしゃみをしたら日本はかぜをひいた なんて、地球全体が 一 体になっている、そういう時代だというのです 。 そういう歴史の時 代になってきたんだということです 。 次の、進歩 ・ 発展ということが調和 ・ 連帯の時代になった 。 これもよくおわかりになる と思います 。 進歩だの発展だのということはささいな問題です 。 それは科学の世界や自然 科 学 の世界、あるいは社会的な制度などはある程度進歩もし発展もするかもしれないけれ それよりもっと大切なことは、各民族、各国の調和と連帯の時代だと 。 それを裏書 きしているのが、最近のヨーロッパの状況です 。 東西の併合、調和、連帯 。 政治のほうは と も 、 あまり詳しくないから変なことをいって笑われるかもしれないけれども、 いまのバルト 国の民族の問題、あるいはソ連自体がそうでしょう 。 調和と連帯の時代です 。 そういう時 代にな っ てきている 。 ですから、宗教も宗教聞の協和、協調の時代です 。 併 教 だ 、 キリスト教だ、 イスラム

(37)

だ、神道だという時代ではなくなってきているということです 。 宗教というひとつの大き な枠組みのなかで考えるべき、 そういう時代になってきているのです 。 で す か ら 、 ﹃ 多宗 教の理解と対応 ﹄ という本が佼成出版から出ていますが、 いまはもうそういう時代なので す 。そう いう調和と連帯の時代です 。 その次は、国民的国家と大陸的複合国家。これも私から申すまでもなく、 いまの新聞の 一面、外国欄をみればおわかりになるとおりです 。 いままでは日本民族、 日本帝国だとか いっていますが、もういまはそういう時代ではなくなってきています 。 アラブがそうで す 。 アラブ連合というひとつの連帯国家をつくりあげる 。 ソ連がそうです 。 そういう形態 になってきている 。 それを政治形態的にいうと、独裁と専制の時代、 いわゆるマルキシズ ムとかあるいはヒトラーといった独裁専制の時代からいわゆるデモクラシーの時代 。 共和 の 時 代 、 そういう時代になりつつある 。 また 二 十 一 世紀というのはそういう世紀なんだと 浄 土 教 の 未 来 像 いうことです 。 これもひとつひとつ考えているとたいへんなことなんで、大雑把にこうい つふうに考えているのですが、しかし、 二 十 一 世紀の宗教あるいは例教というものを考え る 場 合 に も 、 こういった世界的な大きい思惣を頭のなかにおいておいて、 ﹁ そ れ な ら ば 、 併教はとうあるべきか ﹂ ということになるわけです 。 ﹁ 俳教はどうあるか ﹂ ' ということは

(38)

﹁ 浄土宗はどうあるべきか ﹂ ということです 。 つまり悌教もしくは浄土教のアイデンティ 34 ティの時代なのです 。 ひところ問題になっている宗教と社会の問題ですが、 そこにはごく簡単に社会から宗 教、これはどういうことを意味するかというと、社会が宗教を規制(コントロ ー ル )する 場合 。 これは宗教社会学の問題で、私が専門外のことを舌たらずでいうのは誤解を招くか もしれませんが、 ロ パ l 卜 ・

N

・ ベ ラ l が ﹃ 卜クガワレリジョン ﹄ という本を書いていま す 。 徳川時代の日本の宗教 。 そのときに徳 川 の政策によって日本の併教というのは非常に それからデュルケ l ム はご承知のとおり、 宗教社会学者ですが、宗教学者がいわゆる卜 l テミズムによる宗教の規制ということを 変化しているということをいっておりますし、 いっています 。 そういった社会が宗教を規制する場合 。 も う 一 つは、逆に宗教が社会を規制(コントロ ー ル )する場合 。 代表的にはマックス・ ウ ェ l ハ l

ウ ェ l パーが ﹃ プロテスタンテイズムと資本主義の精神 ﹄ という本を書いて おりますが、彼のいわんとするところは、 近代資本主義というものは、プロテスタンティ ズムの唱えるところの禁欲倫理主義です 。 それと資本の蓄積ということです 。 こ の 二 つ が 近代の資本主義を育てたもとだというのです 。 いわゆるキリスト教の倫理というのは、質

(39)

素であり、純潔であり、博愛であるということです 。 そういう精神のもとにあればとうぜ ん儲けたお金は余ってくるわけです 。 それを資本として蓄積するわけです 。 それまでは宗 教の世界では資本 H お金というのは貯めてはいけないのだといわれていた 。 ところがそう じゃないのだ 。 それをもっと貯めて、 いわゆる 資本として社会の発展に貢献しなければい けないというのが、非常に乱暴な言い方ですがプロテスタンテイズムの精神 。 そういうと ころに近代資本主義というものが発達してきたんだというのがウェ

l

l

。 ゾンバルトも だいたいそれに似た考え方をしております。その細かいことはまた別の機会に申します 。 ようするに、これは、プロテスタンテイズムという宗教が資本主義という社会を形成した というかたちです 。 もっといえば、宗教が社会を規制したということです 。 そういう方向 性がある 。 それならば、どっちがいいのか、われわれの立場としてはどのような立場をとるべきか 浄土教の未来像 と い う と 、 ウ ェ

l

l

的な宗教が社会を規制をしていくということ、ということは、宗教 が主体性をもっということになる 。 いわゆる社会に振り回されない 。 社会の変動、変化、 変遷というものに振り回されないで、宗教は宗教自体の主体性をもっていかなければいけ ないのではないか 。 それが最後です 。 宗教の主体性の回復です 。

(40)

︿ 宗教の主体性の回復 ﹀ それはどうしたらいいかというと、宗教的には僧俗 一 体と対話交流ということを書いて お き ま し た が 、 そんなものは皆さん方それぞれが、 それぞれの立場でもって考えていただ ければいいことなんですが、 ただここで申しあげたいことは、教化ということがいままで は、いかにもできあがったもの、与えることが教化だというのです 。 ﹁ 宗教とは ﹂ ﹁ 浄土 宗とは阿弥陀様の本願を信じて念併を唱える : ・ : ・ ﹂ の ﹁ とは ﹂ で す 。 できあがったものを 一 方 的 に 、 一 方通行の仕方で教化というものが行われてきた 。 ところが、現代はそうじゃない 。 諸宗聞の交流もそのひとつですが、もっと小さい次元 でいうならば、われわれが行うところの教化も一方的に与えるのではなくて、大衆のニ l ズを吸い上げて、相互交流するところにほんとうの意味の教化が出てくる 。 大衆のニ

l

ズ というのは先ほどから申しているとおり、念併と浄土とかそういうものが非常に低い次元 に あ る 。 それを、人間性に基づく念併とか、 あるいは末法意識に基づくところの往生と か、そういう次元でもって 二 つのものをコンデンスしていく 。 ひとつのものにまとめてい くところにこの浄土宗のやり方というか、仕方があるのではないか 。 それをどのように具 体的に説明していくかということは、 これは皆さん方が専門家なんだから考えていただけ

(41)

れ ば い い の で 、 そこまで私はよけいなことはいいません 。 ようするに、僧俗 一 体といいます 。 話すほうと聞くほうとがひとつになるということで す 。 これは新興教団でよくやっている法座とか接心とかいっています 。 みんなが 一 つ の 輪 になってお互いに 言 いたいことを言って、 そこでもっていろいろと問題を出し合い、解決 しあうというかたちの、 いわゆる対話が必要だというのです 。 ほんとうはこ い ま ま で は 、 の講義も対話しなければいけないのです。それではじめて 一 体になる 。 4 む ・ つ ♂コ いままで の宗教と いうものは、とくに併教は女性というものを論外にしてい ます 。 このごろでこそだいぶ世間の風あたりによって女性を尊重するようになったという けれども、しかし、どこに行っても女の人のほうが多いですから、現実には女性抜きにし たら現代の日本は語れないです 。 汽車に乗れば汽車に、 町を歩けば 川 に、女性のほうが多 ぃ 。 多い少ないの問題ではなくて、人間性の念併というのはそこにくるわけです 。 で す か 浄土教の未来像 こんなことをいうと宗門の当局者に怒 ら、浄土宗の 施策としても、 いまだに浄土宗では、 られるけれども、加行になるときにも頭を剃れというのです 。 だから若い娘が嫌がって坊 さんにならな いのです 。 そ ん な も の 、 いまはアデランスもあれば何でも あるんです 。 ま た 剃らなくた っ て いいですよ 。 真宗はそ れをや っ て い ま す 。 キリスト教のカソリックはまだ

(42)

女性の司祭というものは認めていない。そういう時代ではないと思います 。 それはよけい なことですが 。 私はだいたい元来フェミニストでございます 。 そういうわけです 。 このようなところで、 私の話しは終わりにします 。

(43)

(44)

はじめに

今日の研究会に当たりまして私に与えられました課題が 二 つごさいます 。 つは女性に 対する布教 。 も う 一 つ は ﹁ メディア ﹂ を通じた教化ということなのですが、 こ の 二 つの問 題を踏まえながら教化の底流に流れる仏教の精神といいますか、教化の基本的なことにつ いて話ができればと考えております 。

何からどう話したらよいか、まず九十六才まで長生きしたおばあさんの話をご紹介しま す 。 私のところの総代をつとめた家のおばあさんでして、晩年の 。 年ぐらいは目がみえ ないという状態でしたが、 ひょんなことから若いころの思 い出 話を聞かせて いただきまし た 。 長野から戸隠の方へ入っていきますと、 このごろ有名になりましたが鬼無里という村が ございます 。 一 度そこへ山菜をとりに行きましたら、文殊堂という 小 さなお堂があって、

(45)

そこのお坊さんが ﹁ このごろ普請ができたからちょっと見てくれ ﹂ と 言 います 。 中に入 っ ﹁ 長野市東 後町山田栄治 ﹂ と 書 いてある のです 。 実はこれが いま申しましたおばあさんの旦那さんでして、どんなご縁でこんなところまできて寄付し て天井を見ておりましたら、 ているのかと不思議に思ったのですが、あるとき、 その目が見えないおばあさんにこのこ とを申し上げたところ、 ﹁ いや、あのときは庫かった ﹂ とクスクス笑い出すんです 。 私 は ﹁ この間、鬼無里の山のお 堂に行ったらおじいさんの名 前がありましたよ 。 何しろおじい さんはあっちこっちへ寄付してまわるのが好きだったから、あんな山の奥までやったんで すかな ﹂ と 言 っ ただけで﹁あのときは痔かった ﹂ と笑われたのじゃ何の話か分からない 。 それでだんだん聞いていってみると実はこういうわけです 。 明治何年だったか知りませんが、 そのおばあさんが嫁さんにきまして、 はじめて身龍も 仏教の二重憾造 り、ある言い伝えを聞いた 。 鬼無里の山奥に文殊さんという非常に知恵の勝れた仏さんの そこで 一 晩お龍りして願をかけると頭のいい子供が授かるのだと 。 そのお お 堂 が あ っ て 、 堂と いうのは、今でしたら車で 三 十分も走らせれば行けますけれども 、歩 いての時代です と日帰りがかなり難しいような場所でございます 。 ましてお腹が大きいわけですから、結 局 は 一 晩泊まらなければいけない 。 ともかくそのお堂に行ってみたのですが、 上がって願 41

(46)

を懸けていると、驚いたことにザワザワとノミが集まって来たと 言うんで す 。立派な赤 ん 坊を授かりたいという 一 念で鬼無里の奥まで行って、 そこでお龍もりしていた らノミがゾ ロゾロ寄ってきて、攻められて庫かった、 そうだと思って ﹁ そういうわけですか ﹂ と聞い た ら 、 ﹁ そ う じゃない ﹂ と い ' つ ん で す 。 これはいろんなところに伝わっている俗信だと思いますけれども、お腹に赤ち ゃ ん がい あ ざ るときに火事をみると癒ができると信じられている 。 ところがこ のおばあさんの場合 には かなり具体的でして、どこかを掻くと、 その掻いた場所が癒になると信じておられた 。 し かもその晩鬼無里の村で火事があって、 ノミに集中的に攻撃を加えられる 。 そういう状態 に も 拘 ら ず 、 一 晩中掻くことができなか っ た 。 し た が っ て 、 それは七

O

年程後になっても ﹁ あのときは庫かった﹂と忘れることのできない思い出となり、 それが因縁になって、 そ のお堂の改修再建のときにおじいさんが寄付をして、天井に名前が残るようになったとい うことでございます 。 お腹にいる子供に対して女の方が抱いている気持ちというもの、 それはやっぱり人間が もつ慈悲というものの基礎形といいますか、 具 体的な形として受け取っていいんだと思い ます 。 こういうものが慈悲なんですよということをお話しをしないで、突然、 ﹁ お慈悲は

(47)

そこでもうひとつ進めて考えていたただきたいのが、堀口大学さんの ありがたいんです ﹂ と 言 つでもなかなか乗ってきてくれないのではないでしょうか 。 ﹁ 温胎の時間 ﹂ ( 小 沢書店 ﹃ 消えがての虹 ﹄)という詩でございます 。 国よ その貴い時聞は 本当に在ったのですよ ! あなたの心臓と 僕のそれと ふたつの心臓が 呼び交わし 鼓動し合った その貴い時間は 母 よ 母 よ 仏教の二重機造 そのカダンス その協和音 そのリスム 母 よ 母 よ

(48)

ついにかえらぬか 八十年前のあの温胎の時間は 母 よ 堀口大学さんは、岨和六十年だったのではないかと思いますが、東大寺の大修理ができ あがった翌年の 二 月か 三 月に亡くなられているはずですけれども、 その年の正月にテレビ に出てしゃべっているのです 。 そのときのお話として、前年の九月十五日から東大寺の大 修理の落慶大法要があった 。 堀口大学さんは讃歌 H 讃える歌というのをつくっておるわけ ですから、当然出席する予定になっていた 。 ところが出かけようとしたちょうどそのと き、めまいがしてフラフラしてしまった 。 そうこうしているうちに、母親の声が聞こえた というのです 。 ﹁ 奈良行きはよしにしましょうね ﹂ と 。 それでハッと我に帰ったのです が、偶然にもその日はお母さんの命日にあたっておった 。 これは山かけて行って人様に迷 惑をかけちゃいけないからと思って、行くのはよしにしました、というようなことを話し ている 。 だけれども堀口大学さんのお母さんというのは、 三 蔵ぐらいのときに亡くなられ ているわけです 。 だから八十年も前のお母さんの声が聞こえるはずもない 。 そうかもしれ

(49)

、 lh

、 魚 、

ナ ル 、 I V A U そういうお母さんとのおつきあいのある方なのです 。 で す か ら 、 こういう詩が生 まれてくるのです 。 先程の母親の子供に対する愛というもの、 それを慈悲ととらえる 。 と同時に堀口さんの 詩のように我々自身が母親の子宮のなかにいたと、想像力を転換させる 。 何が言いたいか ル ﹂ い ・ つ ル ﹂ 、 つまり、慈悲というものには慈悲を与える者と、 それを慈悲と知らずに受ける 者がある 。 それと知って受けるのは我々の世界によくあるわけですけれども、 それと知ら ずに、庫くてたまらないけれども掻かないんだ、 そういうような強い意思をもった慈悲と いうものを、我々はかつて受けながらこの世に出てきたんだ 。 そういう腹のなかにいた自 分というものを想像してみる、観想してみるべきだと思うのです 。 大きな大きな慈悲を自分が受けておるのだけれども、 それについて知らずにい し か し 、 た時期が現実にあった 。 それと全く同じことが、 いま、如来蔵というような仏教を語るう 仏教の二重構造 えで最も重要な 言 葉にもいえるのではないでしょうか 。 ご承知のとおり如来蔵とはタタ l ガ タ ・ ガルハ、如来(タタ

l

ガタ) の 胎 ・ 子宮(ガルパ) で す 。 普通の常識で考えると、 我々のなかに如来(タタ l ガタ)が胎(ガルバ)として入っているのだとなる、これは理 解し易い 。 しかしそれだけじゃいけないのです 。 先程の母親の慈悲と共通する発想だと思

(50)

いますが 、 我々が母親の胎内にいたように、 気が付きにくいかもしれないが、 やはり如来 のガルパのなかにいるのだ 。 こ の 二 つの考え方が両立しないと如来蔵にはならない 。 タ タ l ガタ ・ ガルパのなかに自分達がおって、 であるからこそ自分達のなかにガルパ、 一 一 = つ てみれば仏性があるのだ 。 こういう仏教の考え方、 それを念頭において説いていかなけれ ば、仏の存在というものが実感としてイメ ー ジされてこない 。 仏の存在を説くということ は昔よりも、かなりやりにくくなっているのだと思いますけれども、仏というものの存在 を 説 か な い で 、 はたして布教、仏教と 言 えるのだろうかと思います 。 例えば ﹃ 観経 ﹄ に 説 く第十 二 普想観にしても、自分が西方極楽に生まれて、蓮華の花のなかに座っておるのを 想像せよ、蓮華が合するのを想像せよ、蓮華が開くのを想像せよ、 五百の光が自分を照ら しているのを想像せよと説いているし、九品往生にしても同じように蓮華の花の中にいる 自分を想像せよという 。 そうしてみますと蓮華の花とは如来蔵、 タタ l ガ タ ・ ガルパその ものなのではないかと理解できてくる 。 またそれに母親の胎内にいてそれと知らずに受け てきた慈悲のイメージが重なってくる 。 ﹃ 観経 ﹄ のなかに、母親の胎内にいたことを想像 せよ、とは直接説いてはいないけれども、共通性というのはかなりあるように思います 。 ただ単に、仏性が我々のなかにあるのだ、この仏性を開発していくのである、というそ

(51)

れだけの考えですと、孟子あたりの性善説の発想とほとんど選ぶところがないのではない でしょうか 。 自分のなかに 仏性があ る と いうことは 、 仏というものを想定しなければいけ ないのです 。 母親がお腹のなかの子供のことを思う、 それが慈悲ですよというのと、 そ れ からもっとものすごく大きな慈悲というもののなかに我々がいるんですよという、かなり 懸け離れた こ つのことを両方話さな いと、仏教ではなくな っ て し まい、中途半端な話に なっていくのではないでしょうか。

仏教 の 二 重 構 造 │ これは﹃歎異抄 ﹄ の言葉ですが、慈悲と言ったってこれは聖道門の慈悲と浄土門の慈悲 仏教の二重機造 という二つがあるのだというのです 。 聖道門は ﹁ 物を憐れみ悲しみ育むなり ﹂ 。 しかしそ の 次 に 、 ﹁ しかれども思うがごとく助けとぐ ること極めてありがた し ﹂ ( 正 蔵 八 三 巻七 二 九 頁

a )

と 言 うんです 。 これは具体的にどういうことかというと、我々自身の経験とし て、子供が幼稚園から小学校ぐらいのときに必ず起こるひとつの現象に、捨て犬だの捨て

参照

関連したドキュメント

現実感のもてる問題場面からスタートし,問題 場面を自らの考えや表現を用いて表し,教師の

※1・2 アクティブラーナー制度など により、場の有⽤性を活⽤し なくても学びを管理できる学

小牧市教育委員会 豊明市教育委員会 岩倉市教育委員会 知多市教育委員会 安城市教育委員会 西尾市教育委員会 知立市教育委員会

に本格的に始まります。そして一つの転機に なるのが 1989 年の天安門事件、ベルリンの

将来の需要や電源構成 等を踏まえ、設備計画を 見直すとともに仕様の 見直し等を通じて投資の 削減を実施.

 大学図書館では、教育・研究・学習をサポートする図書・資料の提供に加えて、この数年にわ

検索キーワード 編・章 節 見出し ページ 取り上げられている内容 海との関わり 海洋生物 多様性 生態系 漁業 水産. ○ 巻末,生物図鑑

 ライフ・プランニング・センターは「真の健康とは何