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『尾道志稿』と千光寺山南麓の史跡 : 行為的直観と 歴史

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

『尾道志稿』と千光寺山南麓の史跡 : 行為的直観と 歴史

荒木, 正見

福岡女学院大学 : 教授

http://hdl.handle.net/2324/1660827

出版情報:地域文化研究 : 地域文化研究所紀要. 16, pp.18-31, 1989-03-31. 梅光女学院大学地域文化 研究所

バージョン:

権利関係:

(2)

, 尾 道 土~台~司

~

稿

匙=

史I 

史 跡

(3)

18 

﹁ 尾 道 志 稿 ﹄

と千光寺山南麓の史跡

ー行為的直観と震史i

考察の方法と対象

小 論 辻

︑ 哲 学 的 場 所 論 を 実 践 の 一 端 で あ る

体的には︑以下概略する哲学的方法論に基づいて︑広島県鰭道官

丹念に歩き︑調査し︑感じて︑患道の本質的意味安穏解しようとす

るフ

i

ルド

iクと場所論的考察の試みの一環である︒紙一轄の限

られた小論では︑そのうち千光寺山麓の部の踏史的な跡を詳結に

る こ と に よ り

︑ 尾 道 端 を 理 解 し よ う と す の

その場合︑今日 る ︒

いが

︑特

に︑

尾道

ことはいうまでもな

いう

こと

で︑

文北

一一

一一

年︿

一八

二ハ

︶︑

搭祢本助︑字紀卿︶が著わした﹁尾道志稿﹄

すなわち︑いまか滑り百数十年前の罷道の様子を記

したテキストを手に現在の尾道を多くことで︑その巽同が体惑でき︑

それが︑尾道の本鷺理解に有効に作思すると思われる︒

まず︑哲学的場所論に基づく方法について概説する︒

筆者は先に︑吋思議という場所論i

・ 小 林 和 作

・ 大 棒 宣 彦 の

︵ 中 川 書 吉

︑ 一 九 九 三 年

︑ で 歩 く

場所論

i

﹂ 中 川 書 店

吋場

所論

と人

間行

i演劇・ドラマ・教脊桓談i﹂

中川書店︑二

00

0年﹀などで︑哲学的場所論を解釈や実践の方法

に活かす試みを論じてきた︒その論理的展開は各議

ι

述べられてい

ここでは小論心意露と内容に関する基本的な論理について

るの

小論の論理的基底をなす哲学的場所論は︑西田幾多部が唱えたも の

のに

端を

発し

てい

る︒

哲学的なテiマ絶対的な存在そのものを

場所

概念

につ

いて

﹁比

較思

想事

典﹂

︹現

代思

想ご

裏白

五年

︑﹃

西田

幾多

蕗全

九八八年︑二O八l一

た ︒

は唯一絶対無限な存在そのもの

結対

無限

性︶

場所

は自

己を

間限

定し

と名

け づ

a︶  中村元監諺/0

00

年︶にお

のために︑西田幾多郎﹁場所﹂

一四

巻﹄

岩波

書吉

︑一

九四

九年

などを用いて以下のようにまとめ

︵場

わち語別的な事柄壱生じる

(4)

一行為的重観と壁史−

︵場

所の

自己

限定

︶︒

C︶個は場所を表現するものとして場所を限定する︵個による

場所

の限

定︶

︵d︶以上のような場所と個の相互限定は︑相矛盾しつつ相互の

同一性を保つという性質︑すなわち絶対矛盾の自己同一と

いう性質を持つが︑その相互限定しつつ同一性を指向する

運動が歴史において示されていく︵場所の歴史性︶︒

︵﹃

比較

思想

事典

﹄四

二一

頁︶

このうち小論で特に問題にし︑探究の視点にするのは︵d︶であ

る︒とはいえ︑︵a

︶ ︵

b︶ ︵

C︶を無視するわけではない︒いま一

例をあげれば次のように説明される︒

尾道市土堂二丁目一Oに︑﹁住吉神社﹂がある︒その境内に一基

の石燈龍があり︑寛政九年︵一七九七︶に建立されたと記されてい

る︒この﹁住吉神社﹂は︑多くの他戸地域と同様に︑一帯の埋め立

てに際して勧請されたものである︒ここまでのところでは︑この石

燈龍

の存

在は

︑︵

a︶の︑絶対的な場所が︑︵b︶のように港湾に恵

まれた尾道という場所を限定的に生み出し︑その尾道という場所が

さらに港湾施設を整えるべく埋め立てを行なって充実し︑それに伴っ

て元文六年︵一七四一︶に﹁住吉神社﹂を﹁浄土寺﹂から遷座し︑

やがてこの燈寵の設置をみるということで︑場所が次々に場所自身

を限定して︑ひとつの石燈龍を生んだとみることができる︒ところ

で︑この石燈寵は昭和二八年︵一九五三︶に公開された映画︑小津

安二郎監督作品﹃東京物語﹄のはじめに登場し︑それまで形成され

てきた港町としての尾道を象徴したというくらい世界中に強い印象

を与えたのである︒それからは︑この石燈龍が映画の中で尾道を説

『尾道志稿』と千光寺山南麓の史跡

19 

明するものとされるようになった︒このことは︑この石灯篭が︵C

のように︑尾道とその背後の絶対的な場所を象徴的に表現し︑限定

することになる︒ひとびとが訪れて観光地となり︑この一帯を再開

発し︑雁木を修理してさらに観光地として充実してくることになる︒

こうして︑場所と石燈寵という双方がお互いを限定しあって歴史が

創られていく︒これが︵d

︶に

あた

る︒

ところで︑我々がいま尾道を訪れて感じるのはこの︵d︶の結果

である︒つまり︑歴史的結果としての風景なのである︒個々の史跡

について︑歴史的知識をもって歩けば︑単に文献や資料からだけで

はない︑尾道の本質が理解されるのではないだろうか︒

小論は︑このような意味での︑場所論の試みである︒

ところで︑かく歩くことによって歴史を辿り︑そこから対象の本

質を探るというのは︑以上のような場所に関する存在論という理論

的背景に基づくものだといえるが︑西田幾多郎は︑このような場所

論の展開と平行して︑我々の認識や行為について﹁行為的自己﹂

﹁行為的直観﹂という概念で考察している︒前者は我々自身の真の

ありかた︑後者は真の知りかたを指すものといってよい︒これらに

ついて筆者はすでに︑拙論﹁西田幾多郎の﹃行為的自己﹄と滝沢克

己﹂︵﹃思想のひろば9﹄創言社︑一九九七年︶で詳細に論じた

が︑ここでは特に︑歩き感じることの方法としての意味を概略して

おく

﹁行為的自己﹂とは︑﹁我々の真の自己というものは行為的でな ︒

ければならない︒現実に知る自己と考えられるものも︑行為的自己

の意味を有ったものでなければならない︒而して行為的自己の対象

界と考えられるものは単なる自然界という如きものではなくして︑

(5)

20 

私と汝との世界でなければならない︑社会的・歴史的でなければな

らないよ︵西田幾多郎﹁哲学の根本問題﹂︵昭和八年︑﹃西田幾多郎

全集第七巻﹄岩波書店︑一九四九年/一九八八年︑一七七頁H

下︑

﹃西

田全

集七

O頁と表記する︒︶と述べられるように︑自己を

社会や環境との行為的な関わりにおいて考えようとするものである︒

自己を全体との関係で考えるということだけであれば︑社会学な

どのごく常識的な考察方法であるが︑ここで注目すべきは︑知る行

為を含めて︑その関わりを﹁行為﹂として捉えた点である︒これは

先に述べた場所の構造から展開することができる︒

自己の存在︑自己の認識︑自己の行為のすべては︑その因果性を

辿れば︑絶対的存在たる場所全体へと広がる︒ということは︑単に

知るというだけの行為にしても︑主観と客観の対立という︑一般的

な知の図式では成り立たないことになる︒現実に︑先の石燈龍ひと

つの意味が︑場所全体のダイナミズムの結果出現した一本の映画で

変化したのである︒従って小論のように︑対象の本質的意味を知る

という行為にしても︑本質的には﹁行為の世界と考えられるものは

主客を包むものでなければならない﹂︵﹃西田全集七﹄一七八頁︶

と述べられるように︑どこからが主観︑どこからが客観などという

ことはできないものである︒むしろ本来の認識は︑主客が溶け合っ

たと

ころ

に成

立す

る︒

もちろん︑筆者は合理主義の伝統を否定するわけではない︒事実︑

かく論文を著す行為は︑知的行為そのものであり︑その限りでは主

客対立の図式の中で苦闘しているのである︒しかし︑その背景に行

為的自己の立場がある︒少なくとも︑論文執筆という限定的な知的

実践の背後で︑行為的自己としての実践を行なわなければならない

ので

はな

いか

そこで求められる情報取得の方法は﹁行為的直観﹂と呼ばれるも

のである︒これまで述べられたような意味での行為を遂行しつつ得

られる知識とは︑根本的には直観によるものだというのがその立場

である︒主客対立︑すなわち︑知るものが知られる対象に対立的に

迫っていくのではなく︑主客対立が消滅したところで知る行為は︑

﹁物を身体的に把握すること﹂︵﹁哲学論文集第一四行為的直観﹂

昭和一二年︑﹃西田幾多郎全集第八巻﹄岩波書店︑一九四八年/

一九八八年︑五四九頁H

以下

︑﹃

西田

全集

八﹄

O頁と表記する︒︶と

述べられるように︑もはや感じる︑すなわち︑直観するしかない︒

しかし︑いったんそれを論文執筆のような知の地平に移そうとす

ると︑単に印象を羅列するばかりでよいのか︑という批判にさらさ

れることになる︒そのとき︑行為的直観の成立を振り返ることにな

先に述べた場所論の各項目のうち︑︵d︶の歴史性がその手がか る ︒

りとなる︒個と全体との相互限定が歴史を作るのであり︑行為的自

己も歴史において成立している︒さらに﹁認識作用というのも︑歴

史的世界において生起するもの﹂︵﹃西田全集八﹄五四二頁︶とさ

れるように︑行為的直観も︑そして︑我々と我々を取り巻く全体は

歴史的な結果として表現されている︒従って︑考察の手がかりを歴

史的な視点に求めることは︑対象の本質把握に有効であるといえる︒

以上の理論的背景に従って︑ひとつの地域の本質的意味を求めよ

うとするが︑直観するためには現地を歩くのが最もふさわしい方法

である︒筆者は︑今回の地域を︑小論のような目的と方法によって

十数年︑年に数回ずつ歩いてきた︒小論では四季おりおりの風物を

(6)

述べる紙幅はないが︑

缶 え る

重観的印象の一関語を

一行為的産畿と歴史一

さて︑尾道の艦史的地点とい

る︒それらは歴史的変化を受けにくい

に関

して

は特

に壁

史に

深く

根を

降ろ

して

いる

︒岡

地道

市は

明治

一一

広市制が施行されたが︵人口二一︑七九二人︶︑昭和一二年け

時と古和村を︑続いて昭和一四年に︑沼限郡山波村を合許して︵人口

五七

︑一

一一

五五

人﹀

︑今

日の

人口

約一

O万人の広域尾道市になる基と

詰った︒その田市内にかつて八一帯あったといわ紅る寺院辻明治維

新時の賂仏設釈など奇経て誠少したとはいえ︑なお一一五寺が養を連

ね て い る

︒ 麗 史 を た ず ね て そ れ ら の 寺 社 を 中 心 軸 と し て

まず寺社をあげることができ

で も が 罵 年 道

巡れば︑皇道

は︑吉寺めぐりコiスとして紹介されているルlト沿いに

てく

る︒

寺社を巡りつその罵辺

その範聞は︑小論の紙一輔の許される範鴎ということで︑さ

ほど広く誌ない︒﹁

J

R路道駅話﹂から千光寺山腹を東に︑直線で

は数吾メiトルの範囲である︒しかし︑そ

ちは

ある

るというしかた

F尾道芸麓Jと千光寺山富麓お史跡

国宝

は︑特に新らない隈ち︑尾道市教育委員会編

九八八年︶による︒さらに︑歩く経路について

八蕗解説ピヂオ﹃尾道散策其壱﹄︵平成元年

が︑筆者が実際に歩いたコiスという個人的意味合いが濃い︒また︑

の分類と説明

の文

化財

﹄︿

こと

よる額刻ろうじ

21 

版︑錆後郷土史会︑昭和九非発行のものを舟いた︒

T

尾道市千光寺山麓概愈臨〈這道市発行の f建議観光案内地間JJこ筆者が予を加えた。〉

(7)

22 

引用は︑顕著に忠実に行なったが︑旧援名︑出漢字の多くは現在

のも

のに

諒し

た︒

持光噂日輪出金剛台競浄土宗

︿西

土堂

町九

古寺めぐりコlスとして紹介されている道誌︑﹁

J

是R

道駅

欝所町一﹀かるはじめに﹁持光寺﹂に参り︑そこから東に舟かつて

歩く歩き方と︑逆に﹁尾道駅前﹂から鵠道二号線を東行するパスに

乗り

︑約

O分

で﹁

浄土

寺下

いに

着き

︑﹁

浄土

寺﹂

︿東

久保

町一

一O︶

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ぐ東

にあ

る﹁

海龍

寺い

︿東

久保

町場

二一

一︶

を起

点と

して

諸に

向か

て歩く歩き方とがある︒本書では前者のルi

ト告

とる

Jn

山陽本線﹁罷道駅いから︑北関斜面を見上げれば︑千光寺山k

の南斜面にせり上がる住宅群が昌に映る︒その多くは昭和時代前半

に建築されたもので︑産道出身で路道をキャンパスとして秀作映踊

安譲り続けている大林憲章監督作品﹁ふたりい︿一九九一年﹀では︑

﹁猫のいる石段﹂﹁山干の石段﹂﹁電柱むある坂道﹂などのややレト

ロで

部象

的な

iンが撮影されたが︑車が入らないなどの不便さか

ら︑現在誌空き家もE

立ち

始め

てい

る︒

﹁躍進駅講口﹂を出れば︑自の読には︑土木工事が継続している

新しい駅前広場むすぐ先に屠道水道む海の帯があり︑手が届くよう

な距離に︑対岸む向島が造船所を並べている︒数分で結ぷフェザー

も数般行き来している︒右手に自を向ければ近代的なホテル︑渡船

場︑真新しい市民ホ

11

N

﹁しまなみ交流館・テアトロシェルネいや

高震の⁝発ピル﹁ベルポ

iルL︵マンション部分辻﹁パブリコー

つ近代都市の風景がある︒しかし︑視線を左に向ければ

なつかしいこで通りの路地風嫌が広がる︒これちの風景誌︑

九九九年泰︑笠戸自動車道︿瀬戸内しまなみ海道どの開通φ

に︑都市機能充実のために大々的に再開発された結果である︒この

一帯

は︑

一九

九九

年五

足一

日か

ら一

O月一七日まで開かれた識戸内

海大揖完成イベント﹁しまなみ海道〆九九いの拠点会場にもなった︒

なお︑これらの変貌とその意味について誌機会を故めて詳述する︒

駅南口から左に向かって︑一九九八年に放挟大M

た大

品杯

宜彦

総監

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マ作

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Yヌケ先生﹄までは映畿に映つていた﹁

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パス

乗場

を適

過し

て約

一 一

O m出の最初の踏.切︑土堂踏切を渡れば︑正面

m w

﹁喫

茶孔

雀荘

︵西土堂均四﹀の前に出る︒また︑北口を出れば右に向かって﹁喫

の前

に出

る︒

は︑かつて画家小林和作土八八八

i

よう

に通

って

iヒ

lを

飲ん

だと

いう

冨廊

嘆茶

であ

る︒

尚一初の発足は︑昭和八年︵一九三三﹀である︒かつて内部には︑小

林和作記念窓として︑和作の絵やゆかりの品などが展示してあった︒

この

一 月 末 を も っ し ば ら く 空 家 に な っ て い た が

︑ 現

夜の自主が平成七年︿一九九五︶一二月から翌二丹まで改装工事を

行い

︑平

成八

年一

一一

足に

開業

した

︒内

部は

現代

嵐の

画廊

喫茶

にな

った

HN

のま

で最も敬愛されている画家といえる︒毎年 ま

︒自まで開催される和作忌協賛街頭震は︑昭和田九年

一一月間自に逝去した小林和作を祈念して昭和五二年

九七七︶から関鑑されているものである︒この時期に罵道を歩

けば︑街頭のショlウインドウに思い思いの絵が飾られ︑

小林

和作

誌︑

月一

一己

から

,,.... 

l

(8)

と記してある︒平成一

一時

︵ 一 一

00

0﹀

秋は

︑﹁

第二

ある西国寺で符われ︑活法要﹂が

月 四

自には一二

日か

一行為的産額と麓史ー

わた

って

行わ

れた

小林和作の人となりについては︑

若を見るかない︿創樹社︑一九八γ

く︑詳しく述べであるし︑筆者も揺著i志費

直哉・小林和作・大林宣彦の義景i

﹄ の で

︑ 詳 細 は 割 愛

するが︑明治一二年︵一八八八﹀に山岳黒秋穂で生まれた彼辻︑京

都や東京での絵麗修行を経て︑すでにそれなりの培位告得ていた昭

和九年三九五四︶西丹に満四五議にして尾道に移住し︑それから

問︒年謡︑罵道を基点に創作し生清した︒町の人速に絵を教えたり︑

貧しい家躍を援諒したり︑地元の人々と碁に興じたりと︑

の数々のエピソード

でもしばしば人々

F尾道志議Jと千光寺山南麓む史鉢

一丁

目︑

千光

寺山

上の

同﹁

西国

L

の輿

にあ

る︒

ここから線路沿いに東に数分ほど上ると︑﹁前谷援科﹂前︑土品7自の﹁中央商店街Lに蓋接降りることができる臨橋﹁うず瀬橋﹂

のたもとに着く︒その躍橋に入らずに左折すると︑﹁土堂小学校﹂

︿西土堂需六︶に上る石段の道︿映画﹃ふたりいでは文化祭の遮後

のシ

iンで下校蕗として用いられた︒︶を中心に︑一一つに別れ

に 上 れ ば る

の口

に上

る︒

なお

アトリエ

てい

る︒

でもあり大訴咲語にはし

︵一

九OO

﹀に

現在

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︿ ニ 0

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福山

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23 

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明治

一一

丁目

八︑

旧﹁

西呂

本毅

行﹂

の地に開校し︑明治と﹁尾道市立美術館分館・郷土館ふらつ

七年︵一九O四︶に現在地に移転した︒対岸

の斜詣に堂々と晃える大きな学校でおるが︑現在では全校児童が百

名程

度に

減少

して

いる

一一

一つ

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増の

一番

右︑

なつ

かし

い趣

の文

具店

﹁訟

開高

店い

過ぎると頭上に︑左の土堂小学技の校舎と右の体育館を結ぷ渡り藤

下があり︑それをくぐって持育館にそって宿に回り込むと︑四角い

五的問がある︒これが屠道の子ども違に﹁かたいもん﹂と現われた

弘化一一八四六︶に作られたとされる﹁持光寺﹂の山円である︒

巻之六によると︑﹁持光寺は京都禅林寺︑光明寺︑

とあるように創建は不明で

/剛\

両山末寺にし

ある︒もとは天台宗といわれる︒

一四世紀に捗土宗に改め再興したと伝えられるが︑青木茂繰

修賂道市史第六議いでは︑再興について寺記の応永年開︵一

i

一昨

一一

七︶

︑も

しく

は台

尾道

志稿

﹄の

永徳

二年

︵一

一一

一八

一己

︵善空上人﹀によるとの説告紹介して﹁年次的に疑問を残す﹂

とさ

れる

︵一

二 今 日 よ れ ば

︑ 平 安 時 代 に 伝 教 大 部 の 高 弟 持 光 上 人 が 開 い た と 伝 え ら れ

︿ 天 台 宗

︑ 鵠 頓 ア が 永 徳 一 に 改 め

とっ

てあ

る︒

本尊は五劫思堆阿弥詑如来︒

国宝謡本普鯖延命菩薩像︒﹁延命像仁平一一

日訣

護﹂

の墨

書認

市重要文化財木造開詐陀知来立象︒南北朝時︽以前︒

によれば﹁忠心噌蔀作いとあり﹁同宗西方寺本尊也︒−溌寺とな

一五

一ニ

︶四

月廿

(9)

24 

とあ

る︒

によ

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隣寺

金願

寺古

物也

され

る︒

木造

観点

目菩

薩立

畿︒

平安

時代

末期

︒ 文 化 財 画 橡

︒ 弘 安 七 年

︿ 一 二 八 四

本堂の酷にある二本の大蘇鉄は︑

i

一八

五五

いては︑入船裕二

︵一

の呼

び名

につ

ようせい︑平成七年︶に詳しく

八七

l一九頁︶︑﹁慈﹂を一般的には﹁う

ん﹂と読むしそのように呼ばれた形跡もあるが︑理道では古来﹁お

ん﹂と呼んでいる︒彼女が頼山陽をはじめとする文化文政頃の文人

達と才知をもっていかに係わったかは

一 一

111

一八

七頁

︶︒

﹁光

明寺

に向

かっ

考察してあるように︿

りで

ある

︵一

べら

れる

に名の知られた画家で

あっ

た︒

ある

の墓地にある︒墓碑銘は頼山麓の高弟

の人であった宮原節露

本堂

む右

︑庸

挫の

詰に

約一

m余りにわたって横たわるのが市天

記念物︑樹齢約四OG年の﹁臥龍の松Lでおる︒旧尾道には﹁尾

一一

一松

﹂と

して

この

﹁持

光寺

臥龍

の桧

﹂と

︑﹁

克明

寺蝿

龍の

絵︑

情善寺鷲の松﹂がある︒また︑財間八部出用道の文花財l青少

年のためのガイドブックl﹄︵屡遵文化財協会︑昭和田八年日以下

出販﹁尾道合文化財﹄と称する︒﹀による域の尾道の五松

3

し て

︑ の 太 閤 の 桧

L

が ︑

この

松に

加え

てあ

る︵

七四

頁︶

また︑持光寺では︑粘土をこねて自分だけの﹁にぎり仏﹂を作る

乾いた後に︑魂を入れて送ってくれる︒

こと

が と

光明寺溝浄山宝撞読

︵東

土堂

町二

浄土宗

の閉そ抜サ路地に下りに歩き︑

分岐で右む道をとればすぐ︑者下に墓地が誌がり︑そのまま自然に

﹁光

明寺

﹂の

境内

に入

って

いく

﹁光

明寺

﹂の

封建

につ

いて

︑﹃

尾道

五稿

﹄巻

之六

では

﹁中

京都

東山

林寺

︑高

山光

明寺

︑詞

山末

寺に

して

︑開

基し

れか

たし

︒﹂

︵六

一一

一貫

とあるように︑館建詰不明だとされているが︑﹁新修尾灘市史

第六巻﹂で辻︑創建は最和年間︿八手間l四七﹀︑円仁和尚により︑

もとは天台宗だったとされているつ二O頁﹀︒さらに﹁新接尾

道市史では︑社寺明細帳によって︑建武一一一年ご一一一三六︶

書士朝頃に道宗墾救上人が浄土宗に改

めたとしているつ二

なお︑今日残る一四世記に本堂を再建した折の棟札に誌﹁廷元元

年︿

z一

三六

︶一

一一

丹二

日﹂

の日

付と

とも

に道

宗上

人の

名も

記さ

れて

いるとされる︒現在の本堂は薙事四年︵一七四七一護瑞和尚治時

に栗原躍五郎衛門が寄進し再建されたという︵一二

︿設

分け

観音

G

代後期︒旧版の文北財いによると︑

長の船中念持仏で︑海上の安全を守ったが︑の

明寺に寄進したものだとされる一貰︶︒

(10)

絹本淡彩揚柳観音換︒一世紀半ば以前︒

県重要文化財鶴本著色地蔵菩譲十王橡︒明の年号で嘉靖壬或年

︵一

五六

二︶

とあ

る︒

県重要文化封絹本署色法然上人数︒室町時代初期︒﹁建磨ニ年

という日付がある︒出販吋尾道の文化財﹂によると︑法

平重盛の五男時議の子︑勢観一虎諒智が蔀の姿を写

られているとされる︒また︑この欝影︵みえい︶は

の 路 一 木

したもの

﹁智

恵銘

文の

戸の櫛影﹂とともに

と呼

ばれ

︑つ

水観

堂の

一御

影と

称さ

れて

いる

とさ

れる

一行為的蓋観と震史一

金堂阿弥陀如来及び再脇持立像︒室町時代中態︒

︿一語六九﹀に信州善光寺の本噂そヰし︑融印が安置した

と伝えられる︒南之坊︵麗寺︶に安置されていた︒

県重要文化財金堂蓮花輪

戊戎︵一五九八どの錯あれJC

市重要文化財絹本著品

﹁尾

道の

文化

財﹄

によ

ると

ると

され

f尾道志議Jと千光寺山南麓む史跡

南北

朝時

代︒

〜一

一一

尊﹂

の箱

書が

に栗原屋五郎喬円が

寄進したとされる

市 重 要 文 化 信 一 尊 十 六 善 神 画 像

︒ 市 重 要 文 化 財 該 位

︒ 平 安 時 代 末 期

以上の文化財の多くは秘議されているが︑本堂の十

文化財の省造宝箆印塔は露外におり︑経悶仰に見ることができる︒こ

れは室町時代もしくは南北朝時代に作られたもりとされ︑道宗隻救

上 人 の て い る

25 

また

六訟の高さにそびえ

され

る︒

﹁シ

ンパ

一段

下が

った

とこ

松﹂がある︒樹齢約問︒︒年︑約三Om

松︑もしくは五松のびとつでるる︒

本意に向かって左︑数基の慕沼がある

と躍われた﹁第一二代接調陣幕久五郎︿一八ニ九i一九O

一 一 一 ︶

がある︒出諜出身でありながらその腕と人柄を見込まれて︑久採町

の初汐久五郎の幾子となり︑やがて大坂相撲から江戸相撲に転じ︑

輝かしい或轄を議した︒これら戦績や入轄については沼地道今昔﹄

いむ

で︵

O八

ー一

一一

一一

一員

︶省

略す

るが

︑墓

の蔀

に為

る障

の句碑﹁うけながち患の押す手を柳かな﹂誌梧撲のみなら

で あ ろ う

︒ な お

︑ だ 碑 辻

︑ 千 光 寺 山 の 文

さら

に︑

﹁播

龍の

そり

千日積荷入り口の高居向かっ

るのと︑久保二丁目一五む﹁厳島神社﹂

また︑客殿裏にあ

の士

とし

にあ

の露

誌の

畔に

は︑

︵栗原東一丁目二

﹁亀

も来

て患

災か

あった物外︵一七九四l一

海福寺無鏡山時東

︵謹

土堂

町一

四︶

﹁光

明寺

﹂の

出張に出かける父親を見送るシlンにも出ていた光明寺の山門でお

る︒

この

山内

をく

ぐっ

て︑

J

一号

線を

跨ぐ

謹壌

映画

﹃ふ

たり

﹄の

はじ

め︑

(11)

26 

手前を右に曲がれば︑すぐ在手が﹁海福寺い

つい

て辻

では

︑﹁

常称

︶遊行ニ裡上人弟子︑

とされ︑吋新修尾道事史

O

頁︶

︒﹁

尾道

散策

八﹀他同上人の開基とされている︿

正に

つ一

一ツ

首さ

ま﹂

道に

実在

した

一二

人の

公八二八︶に処飛された折り︑

たため︑住職が彼らの苦

病気平惑に霊験ありとし

一五

応年

中︵

注一

一一

位同

弥陀

仏の

開基

なり

﹂︵

五五

でもその説がとられている

では

嘉暦三年︵

本堂

に向

かっ

これ

辻︑

る︒文致

住職の夢枕に立つ

った

もの

であ

る︒

その

後︑

でも

信仰

を集

めて

いる

︒ 四

古同

構津

諺神

︿東

土堂

一町

九︶

一宮

︷い

っき

ゅう

︶神

正面参道の中央あたり︑薬鰐堂と墓地との間を東に向

って

鍵型

に曲

がる

かうと︑道は

穿の中が﹁吉備津彦持社いである︒

﹃罷道志稿﹄犠之大では︑﹁宝土寺﹂の項に︑吉備津明

持︑毘沙門天︑弁財天︑八播宮︑合殿﹂︿六回とあるように︑

は寺戦記あったが︑明治時代︑神仏分離で現在む状態になった︒

苦 構 津 諺 神 社

﹂ の 祭 神 は

︑ で あ る

によると︑吉嬬津彦命は崇神天皇が各端

わした四道将軍のひと

とさ

れる

岡 山 を 中 心 と し た

の中山山頂の前方後円壌が御陵とされる︒

備中側に吉積吉構的中山山麓の識語翻に嬬前 誇神社がありそれぞれ壮大な社殿を誇っている︒の吉備津産神社の創建は不明であり古くかちあったという説もあるが︑社記によれば︑南北朝時代︑後小松本人皇の五徳年間︵一三八西i

一 一 一 一

八 七 ﹀

に祭

を奉

納し

たと

も一

一一

一口

われ

︑こ

の壌

に勧

請し

たの

では

ない

かと

の説

もあ

る︒

月 五 日 を 中 心 に 行 わ れ っ ち ゃ

i祭

り﹂

一 社 の 祭 り で あ る

︒ 一 一 ハ 月 一 日 午 後 六 時 か ら神興渡御が行︑われ︑二日午前一は大祭式典︑午後八時か

ち奉納ベっちゃ!太鼓︑そして︑日に誌午前八時半に神興が出発

し︑センター街l

一一

一軒

家町

!天

満町

l西御所町i東欝所町|センター

i市役所l久保l臨時i長江小学校l中央窮iセンター街と練り

歩き︑午後六時から︑宝土寺境内で︑勇壮な神輿まわしなどが行わ

れた︒市長の関心の高さは当然であるが︑町内が一捧となって︑さ

まざまな準舗や後片付けにいたるまで完壁にこなす力は︑市民め文

化的な意識の高さを感じさせるとともに伝統ある祭りならで誌のも

ので

ある

毎部

は︑

︵一

八O

七 ︶

て捨まった祭りだと伝えられる︒出版﹃尾道の文

によると︑当時の﹁吉錆津彦神社Lの輯宮平田志麻守忠安が

散の祭りを行い︑溝騒の自に神輿をかいて病家を見舞ったと

記されている︵七八頁﹀︒識しく揺する神輿の豪快さはもちろんで

あるが︑行列先払いの獅子頭や︑ベタと呼ばれる政悪語︑ソパと呼

大蛇語︑ショウキと呼ばれる猿田諺部が︑朝時いうちから夜

るまで︑悪道中を練り歩きつつ︑﹁ぺっちゃi︑ベっちゃ

iL

てる見物人を︑獅子頭はぱくぱくと街え︑その他は手にし

この

祭り

は︑

(12)

行為的直観と歴史−

た祝い棒とササラでつつき回すという奇祭である︒衝えられたり︑

つつかれたりすると一年の無病息災が約束されるという︒また︑最

後に﹁宝土寺﹂境内で行われる神輿まわしは感動的な激しさで秋の

夜を

彩る

また︑﹃尾道散策其壱﹄によると︑今日の祭りの形式になった

のは明治時代︑神仏分離になってからとされ︑各面の名称の由来に

ついて︑ベタはべったりとした面から︑ソパははじめてその面をつ

けた人︵鍛冶川福松︶が蕎麦粉生産を職業としていたから︑ショウ

キはこの面を最初につけた人が宝土寺大門近くに住んでいた庄吉と

いう名前だったからという説を紹介している︵一五貰︶︒

宝土寺浄土京

︵東

土堂

町一

O︶如意山光明院

F尾道志稿』と千光寺山南麓の史跡

吉備津彦神社の前が﹁宝土寺﹂である︒土堂一丁目あたりの商店

街から見上げれば︑崖の途中に建設されたといってもよいほどで︑

境内からは尾道水道や向島に手が届くようである︒

﹁宝土寺﹂の創建については︑﹃尾道志稿﹄巻之六に︑﹁京都禅林

寺︑光明寺︑両山末寺にして開基しれず︒﹂︵六四頁︶とあるように

不明である︒また︑再興については︑﹁融海意観という僧︑貞和年

中に再興せりと云︒﹂︵六四頁︶とされている︒﹃新修尾道市史

第六巻﹄では開基知れず︑としながらも寺記の嘉慶元年︵一三八七︶

一一月融海法印の設立説︑貞和年中︵一三四五|五O︶融海意観の再

興説

など

が併

記し

てあ

る︵

一二

二頁

︶︒

市重要文化財銅板張蓮花唐草文説相箱︒江戸時代初期︒

市重要文化財木造阿弥陀如来坐像︒南北朝時代︒

27 

応永二七年︵一四二O︶に漢城︵ソウル︶・京都聞を往復した朝

鮮使節︑宋希環︵一三七六l

一四

四六

︶が

著し

た﹃

老松

堂日

本行

録﹄

には﹁宝土寺海雲山上有仙家仏殿僧窓傭大河﹂つまり﹁海雲山上

に仙家あり︒仏殿僧窓は大河に僻したり︒﹂などと︑高い標高から

尾道水道にその姿を写す様子が述べられている︵岩波文庫︑

七年

︑二

二二

頁及

び一

四八

頁︶

一九

....L. 

志賀直哉旧居︵おのみち文学の館︶・文学公園

︵東

土堂

町八

﹁宝土寺﹂境内の海側の築地塀に沿って東に向かえば︑石段が墓

地に沿って下り︑豆菓子を製造している﹁木谷製菓﹂を左に回り込

むと白い石畳の﹁千光寺新道﹂に出る︒それを上りながら左手の小

さなお堂を過ぎればすぐ右側には階段に沿って大きな古い蔵がある︒

この辺りは大林監督映画﹃転校生﹄︵一九八二︶でもロケされたよ

うに︑路地を通して見える尾道水道や向島が情緒的である︒蔵を過

ぎるとすぐ左の細い路地に入る︒右側の酢瓶を埋め込んだ垣を見て

そのまま進み︑開けたところが﹁文学公園﹂である︒そしてこの文

学公園の右上の三軒長屋が﹁志賀直哉旧居﹂である︒

﹁文

学公

園﹂

には

︑倉

田百

三︵

一八

九一

ーー

一九

四一

二︶

の﹁

光り

ういのち﹂の碑︑林芙美子︵一九O三!一九五一︶の﹁放浪記﹂の

碑︑志賀直哉︵一八八三一九七一︶の﹁暗夜行路﹂の碑が設置さ

れている︒﹃出家とその弟子﹄﹃俊寛﹄﹃愛と認識との出発﹄などで

著名な劇作家・評論家の倉田百三は明治三九年︵一九O

六︶

︑一

歳の時︑県立三次中学︵旧制︶を休学して一年間尾道に滞在した︒

その時の尾道がどれほど都会的で彼の憧れであったのか︑また︑そ

(13)

28 

こでの一年が彼の人生にとってどれほど重要な意味を持ったかは︑

彼自身の﹃少年時代﹄に記されている︒

この長屋は︑大正元年から二年︵一九一二ー一三︶にわたって志

賀直哉が住み︑小説﹃暗夜行路﹄などを執筆した家だとされる︒ま

た︑﹁和解﹄﹃清兵衛と瓢箪﹄﹁児を盗む話﹄など尾道に関わる作品

もここでの生活が下地になった︒三軒棟割り長屋の一番奥が︑志賀

直哉が住んだ部屋で︑当時の状況を再現してある︒なお︑その前後

の志賀直哉の状況については︑拙著﹃尾道という場所論l志賀直

哉・小林和作・大林宣彦の風景|﹄で詳述したのでここでは省略す

るが︑拙著でも述べたようにここからの風景は︑若き志賀直哉にとっ

て︑ここで真の大人になったとさえいえる成長に少なからぬ影響を

与え

たと

考え

られ

る︒

かつては︑この建物を﹁文学記念室﹂と呼び︑林芙美子の資料や

尾道を舞台にした映画のパネルなどが展示してあったが︑平成一一

年︵一九九九︶三月に改組した︒現在は︑この﹁志賀直哉旧居﹂と︑

後述の﹁文学記念室﹂と︑東土堂町一五にある﹁中村憲吉旧居﹂と

の三施設をあわせて﹁おのみち文学の館﹂と称し︑共通の入場券を

発行

して

いる

なお︑旧﹁文学記念室﹂にあった林芙美子の資料は︑新﹁文学記

念室﹂に︑映画関係資料は︑平成一二年四月二二日に︑市役所前︑

久保一丁目一四の古い白壁の倉庫︵旧啓文社倉庫︶を改造して開館

した︑﹁おのみち映画資料館﹂に移されている︒

文学記念室︵おのみち文学の館︶

︵東

土堂

町一

三︶

﹁志賀直哉旧居﹂からもう一度﹁千光寺新道﹂に戻り︑﹁山白屋﹂

の塀に沿って石段を上れば︑路地の十字路にさしかかる︒ここを右

折するとさらに細い路地になる︒ここも﹃転校生﹄の撮影地で︑主

人公の二人が自転車を押して通っていた︒すぐ左に大きな門が現れ

る︒

これ

が︑

﹁文

学記

念室

﹂で

ある

この建物は伝統的な日本家屋で︑一九九九年に公開された大林宣

彦監督の映画﹃あの︑夏の日とんでろじいちゃん﹄の主要な撮影

地でもある︒おりしも︑持ち主が空家にしていたのを利用し︑その

後︑尾道市が借り受けて現在の状態になった︒なお︑撮影の際︑門

や築地にセットとして手を加えたまま残してある︒門や築地の一部

は合成樹脂で継いであるが︑一見︑本物に見える︒

この建物には︑林芙美子晩年の東京都新宿区中井の書斎を再現し

てある︒明治二一六年に下関もしくは門司で生まれたとされる林芙美

子は︑各地を点々とした後︑大正五年︵一九二ハ︶に二二歳で尾道

に移り第二尾道尋常小学校︵現在の土堂小学校︶の五年に︑遅れて

編入学し︑大正一一年︵一九二二︶に尾道高等女学校を卒業して上

京するまでを尾道で過ごした︒生活環境は楽ではなかったが︑文学

的な刺激には恵まれて︑文才を育んだ︒尾道を舞台とした作品は

﹃放浪記﹄や﹁風琴と魚の町﹄などがある︒なお︑一四歳の時に二

階に間借りした土堂町本通り宮地醤油店は︑今日の土堂一丁目一一

番二号︑﹁喫茶芙美子﹂の地であり︑奥の二階に資料が展示してあ

る︒そして︑その﹁中央商店街﹂の入り口には︑彫刻家高橋秀幸製

作による﹁林芙美子像﹂がある︒また︑尾道の林芙美子については︑

﹁尾道市立図書館﹂が創立八O周年を記念して発行した吉原暁/清

水英子編﹃尾道の林芙美子今ひとつの視点﹄︵尾道市立図書館︑

(14)

が興

味深

い︒

結 び

千光寺山麓の史跡と尾道合本髄

一行為的産欝と歴史ー

部を辿っただけではあるが︑

そ の 狭 い の 本 質 が 凝 縮 さ れ て い る

小論の序で述べた方法論安省みれば︑小論の一から七に一議る考柑

は︑議時的に歩持する筆者む意識的なスクリーンに映し出された橡

として刀打為的自己による行為的藍観いである︒その行為や認識は︑

直観という︑象徴的な認識に関わるものでありJ︑本来︑どこからが

五観でどこからが客緩ということは問えない性格のものである︒従っ

て︑いわば印象を述べるよち廷か出来江いものである︒小論ではそ

の 単 な に 伴 う 思 い

この

よつ

は羅道のほんの

れを

︑ f尾道志議jと千光寺山需麓由史跡

つわるエピソードを活かして

認の本質に関わると推察され

る 事 柄 を

︑ ベ た 場 所 論 の 方 法 に 却 し て い え ば

︑ 以 下 に 述 べ る

よう

に︑

︵ b︶嚇所の自己限定安ポすものとして︑︵

1︶培形に

関する印象が挙げられ︑︵c︶む詔による場所の限定を示すものと

して

︑︵

2︶ よ る 町 む 設 造

︑ す な わ ち 町 の 変 化 が あ げ ら

映時で利用されたシi

ンや

述べた︒それら

︵1︶地形に関する印象註特徴的である︒

一で

すで

に︑

り︶

︑高

2

山に校

三真︶と述べちれるように︑尾道は出と海に挟まれた町であ

︒ 駅 北 側 の 鍾 え 立 つ つ 在 宅 群 と 狭 い 路 地

︑ 再 開 発 に よ っ て

駅からいどこからも晃

子が罵くほど近い対岸の島に

広がる造船所などは︑用道が海と山に挟まれ︑島に踏まれた場所で

あり︑同時に坂を一マ思い上がり狭い路地が発

成長を経験してきた町だということと︑そ そう見通しが利くよう記なっ

ゆ え

の契機が潜と

てい

る︒

であるこ

︵2︶新旧の描禁からは町ゅの変化が読み取れる︒

海を除けば︑真新し

今回歩い いような駅

の対北誌︑いままさにこの町

が転機にさしかかっていることを意味する︒その変化誌︑﹁おのみ

館﹂に関する変化にも現れている︒これちは後の考察で明

らか

さて︑当然のことながち︑印象は大まかな性棒を持ち︑

ことから逃れ得ない︒そこ今一歩踏み込んだ考察が︑必

要に

なる

︒ 茅 に お け る 場 所 論 の 方 法 を 顧 み れ ば

︑ 特 に 場 所 の

関して︑小論のフィールドワークで辿った内容を臆史的な読点から

捉え直すことが求めちれる︒その視点に基づいて尾道の本震に関わ

るであろう事柄を整理すれば︑次のように述べることができる︒

密集する等社む開基︑文化財など告考察すれば︑

て ︑

奈長

時代

停を保ち続けていることが分かる︒もち

に盛衰があり︑特に明治時代初期の廃仏鼓釈においては︑大きな痛

手を蒙っているのではあるが︑それでも小論で辿ってきたような貴

それを維持する括部が継続しているのである︒こ

て信

それぞむ

(15)

るを得な

30 

れ は

︑ 信 仰 を 雄 持 す る だ け

文化的レベルがあってのことである︒

︵い︶次に︑文化的な側面を考えれば︑明治時代以前では︑

氏︑今川ア俊などの武将︑各寺院を開いた僧たち︑役人であり学者

であった亀山土網︑蕗家平田玉藩などの尾道在住の文先入︑頼山穆︑

管茶山︑田能村竹田︑槙鏑陣幕久五郎などの羅道を訪れた文化人な

ど︑人名会あげるだけで牧挙に暇がない︒また︑明治時代以障では︑

のみち文学の

公園﹂にまつわる︑志賀直哉︑中村憲吉︑

がそれぞれに毘道を舞台として表現し活躍している︒その土地が文

住的というだけではなく︑文化人が継続して訪問し︑小林和作のよ

う に 住 み つ い て さ え い る と い 脇 道 の 特 徴 で あ る

︒ ま た

︑ の よ う に

︑ 植 物 を 愛 す

} 

'

の 一 ニ 松

﹂ や の シ ン パ

るのも文住的レベルの高さを窺むせる︒また︑

ちゃ

i祭りいなどの祭りもそれを物語る︒

︵う︶それら︑経語力や入の流れ︑文化的レベルなどの原国となる

のが︑壁史的には︑一貫して迭であったことによる︒フィールドワi

クで歩いた翻所から亘接知り得るのは︑歩いた千光寺山接の標高L

ら見える︑港や造船所の麗景︑墓地に刻まれた麗人たちの名から︑

かつての港町のいを感じることのみであるが︑ とれた﹁ベっ

之一で諸国往還の舟船か

であ

たことが

罵道

の議

の機

能は

なり︑中継港の機能は大⁝胞に縮小している︒小論のアィ1

ルド

1

︵え

︶そ

との連絡が中心と クむ範囲からも︑その変化を指摘することができる︒たとえばR尾道駅韻﹂の再開発である

お酒落江ホテル 貿易港のような港湾機能安めぎす

環模なホ!ルなど︑観光客向けの

ウォーターフロント開発を志向している︒この駅前再開発も﹁おの

みち文学の館﹂﹁おのみち映輯資料舘﹂立どの改組も︑一九九九年

春の﹁西瀬戸自動車道﹂通称﹁瀬戸内しまなみ海道いの開通に伴う

変化だとりつのがすべてを象徴している︒交通手段の変化や︑

能 力 の 発 壌 が

︑ 尾 道 の よ う と し て い る の で あ る

ので

大 ﹂

このように概略し

こと

こと

の本質的

の︵

b︶

は︑

︿1︶地形や︵う︶尾道

聖的にあちわれる︒良きにつけ悪しきにつけ︑地形や地理上

を変えること誌できず︑それは深く皇道を限定している︒

︵b

︶ は

︑ こ れ ま で 述 べ の も の で も あ り

︑ こ の た び ブ ィ

i

ルド

iる︒これらは後述するよう

る ︒ の 方 法 の の よ う な 人 々 の 手 に よ

る的作りや︑︵あ﹀や︵い︶のような信部や文化を導入し維持する

人々の努力があげ込れる︒

しかし︑本来この︵b

︶ ︵

C

は︑

よい例が︑︵あ︶の信仰せざるを得釜

し た 蕗 売 や

︑ 海 と い う 危 険

/同\

辻︑

︵2︶や

に作用しあうものである︒

い事情である︒梅運を当てに

のであるひこのよう

ぃ ︐ っ ︑

いう個によ が出ないことに対して

限定が︑借仰対象の建設と

の限定を導くりである︒ ことしかない︒この

(16)

一行為的重観と歴史一

の未来が推論できる︒それは︑上記の場所

の自己限定は変えられないということと︑それを活かす人間の側に

よる︑すなわち個による場所の諜定は自由に行えるという前提に立

たねばならない︒その一端辻次のように考えられる︒

まず

︑︿

1﹀から︑尾道は港であり続けるということであるc

しかに︑歴史が示すようにその機能は変化するかもしれないが︑場

所の自己限定は港を恋向しつづけてきた︒

そのうえで︑小論のすべての対象が成立している︒それらは今︑

農かな文化遺産として︑尾道の町を表現している︒港に裏村げられ

た文化遺産を生かして経済効果を生むとなれば︑まずは観光があげ

られる︒交通体茶の変化に即応して﹁しまなみ海道﹂を作り︑それ

を契機に時の機能を観光に向けて碍構成するのは︑方向としてはふ

さわしい︒倒は留として最高の自己表現をすることが︑場所昌体の

豊かさに通じるからで島る︒しかし飴方で︑場所自身の告ヰ賎定を

忘れたならば︑町の本賞が失われ︑何の魅力もない標準サイズの町

と化し︑ひいては選落することになる︒

このようなことを考えれば︑今回のフィールドワークの範関はそ

れぞれに︑その価値を発揮している対象だといえるのである︒

残された開題は多いが︑とりわけ︑尾道の︑小論の範盟以外のフィー

ルドワークを行い︑小論の坂説の検証を行うことが火急であろう︒

それそ繰り返すことでまた︑場所論の方法も磨かれるのである︒

最後に︑韓き取りでお世話になった多くの尾道C方々に心から御

礼申し上げるとともに︑尾道らしいご発展をお祈りする︒

福岡

女学

説大

学教

授﹀

そしてここから︑

F農道芸麓jと千光寺山南麓む史蕗

︵あ

らき

まさみ

31 

参考資料

村元

監諺

/趨

島嬬

雄寛

任編

集吋

比較

思想

事典

﹄東

京書

籍︑

一O

OO 年 ︒

西田幾多郎﹁場所﹂︿大庇一五年︶﹃西国議多部全集第四巻い岩波書店︑

一九

百九

年/

一九

八八

年︒

陸出幾多郎﹁哲学の根本問題﹂︿昭和八年︶﹃西部幾多郎全集第七巻い岩

技欝

時︑

一九

四九

年/

一九

八八

年︒

西国幾多郎﹁哲学論文集第一回行為的議観﹂︵昭和二一年﹀吋沼田幾多郎全集第八巻い岩波書店︑⁝九四八年/一九八八年︒

亀山

土綱

﹃毘

道中

高橋

﹄文

化二

ニ年

︵翻

刻版

︑備

後郷

土史

会︑

昭和

九年

発行

﹀︒

皇道

市教

脊委

員会

編設

地道

の文

化財

﹄罵

議市

教育

委員

会︑

一九

八八

年︒

鳥居勝製詐/慰問八部解説ビデオおよび解説番台尾道散策其者古寺め

ぐり

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筑紫敏夫

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2014 ~

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南山短期大学人間関係研究センターをふりかえる 南山大学名誉教授 

2013)や,近代日本における鉄道の通史的叙述(老