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『鉄道と観光の近現代史』

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文献研究

『鉄道と観光の近現代史』

老川慶喜/河出書房新社/ 2017 年/ 226p.

山口 耀平

YAMAGUCHI Yohei

pp.3-8.

1. 本書の目的

 老川は,日本鉄道史研究の第一人者ともいえる 人物である.彼の研究成果として,近代日本の鉄 道のシステムをつくりあげた井上勝の生涯と鉄道 の発展を実証的かつ通史的に論じた著作(老川,

2013)や,近代日本における鉄道の通史的叙述(老 川,2014,2016)がある.そのなかで,本書『鉄 道と観光の近現代史』は,日本鉄道史における観 光分野を中心に取り扱ったものといえよう.そし てこの本は,近代以降における鉄道の開通が「多 くの人々を旅に誘うこと」になると同時に「苦し くてつらい拷問のような『旅』を『楽しみ』のた めの『観光』」に変えたとする視座のもと,近現 代日本における鉄道と観光の関係性を様々な事例 とともに論じている.

 また,本書は老川の講義ノートをもとに執筆さ れたものであり,初学者でも読み進めやすい内容 となっている.加えて,明治初期から 1980 年代 という幅広い期間に鉄道が観光に対して果たした 役割を通史的に論じたものであり,観光史研究を 進めていく上でも非常に知見に富んだものである.

 本書の目次は以下の通りである.

はじめに

第 1 章 「行楽」となった社寺参詣 第 2 章 回遊列車の流行

第 3 章 湯治場から温泉観光地へ 第 4 章 海辺と高原のリゾート 第 5 章 私鉄経営者の戦略と観光開発 第 6 章 日帰りの「行楽」

第 7 章 外国人観光客の誘致 第 8 章 戦時から戦後へ おわりに

2. 本書の概要

(1)第 1 章 「行楽」となった社寺参詣

第 1 節「川崎大師の『初詣』」では,「初詣」が 明治期の鉄道開通とともに生まれた正月の参詣行 事であったことを,川崎大師の事例をもとに論じ ている.江戸期の正月参詣は宗教的動機によって ルールが決められていた.しかし,鉄道の開通に よって正月の参詣行事は宗教的性格を弱め,行楽 的性格を強めていった.このような背景のもと,

川崎大師において宗教的な慣習にこだわらない

「元日の川崎大師詣」が定着したとする.それが 次第に初詣と呼称されるようになった.

 その後,1900 年代に入り鉄道が郊外へと路線 を伸ばしていくなかで,東京と大師のあいだを運 行する私営の「京浜鉄道」が開通する.当初,東 京から川崎大師に旅客を運ぶ鉄道は官営鉄道のみ であったが,京浜鉄道の開通により両者のあいだ で旅客獲得競争が引き起こされることとなる.そ の競争のなかでサービス向上や運賃割引がおこな われ,より初詣の行楽的要素が強められていくの である.

 第 2 節「成田山新勝寺への参詣」では,明治期 における成田山新勝寺への参詣客輸送をめぐる私 営鉄道と官営鉄道の争いのありようを論じてい る.1900 年代,東京から成田のあいだを佐倉経 由で運ぶ「総武鉄道」と我孫子経由の「成田鉄道」

が開通する.結果,両者の間で参詣客獲得競争が 引き起こされる.しかし,1906 年の「鉄道国有法」

によって両鉄道は国有化され,両者の競争は終結 を迎える.しかしその後,1926 年に東京圏内か ら成田まで「京成電気軌道」が路線を延伸するこ とで,官営鉄道とのあいだで再び参詣客獲得競争 が引き起こされる.そのような競争のなかで各鉄 道会社は大幅な運賃割引やサービスの向上を図っ

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ていく.

 第 3 節「日光の復興」では,鉄道の開通が日光 へ「資本主義の競争原理」を持ち込み,それによ り引き起こされる観光地としての日光の変遷を論 じている.江戸期,日光は東照宮などに代表され るように,幕府との関係性が強く,このため大名 から庶民に至るまで多くの参詣客で賑わってい た.しかし明治維新後,江戸幕府の滅亡により衰 退を余儀無くされる.やがて,私営の「日本鉄道」

や官営の「東海道線」などが開通することで,外 国人観光客を中心に遊覧者が増加し,観光地とし ての需要が再び高まることとなる.こうして日光 が観光地として繁栄していくなかで,1890 年に 日本鉄道は地元の有志とともにさらなる路線の延 伸をおこなった.しかし,それによりかえって宿 泊客は減少し,地元の旅館などは打撃を受けるこ ととなる.これらの旅館をはじめとする地元勢力 の衰退の一方で,日本鉄道は観光資源を有効活用 することで独占的な利益をあげていった.

 本章では,川崎大師における初詣の創出や,成 田山をめぐる旅客獲得競争の結果生じたサービス 向上と運賃割引,日光における日本鉄道の観光資 源活用といった事例を取り上げることで,社寺参 詣が「鉄道の開通を通して庶民の『行楽』として 定着」していく様が明らかにされている.

(2)第 2 章 回遊列車の流行

第 1 節「さまざまな回遊列車」では,「沿線の 観光資源を利用した団体旅客列車」である「回遊 列車」のありようを,多くの事例をもとにして論 じている.1900 年代に入ると観月列車や松茸狩 り列車などの回遊列車が日本各地で企画された.

松島では仙台ホテルの主人大泉梅五郎が観光客の 誘致のために回遊列車を活用した事例があげられ ている.一方で,これらの回遊列車に対する批判 が存在したことを本書は指摘している.西洋では 回遊列車の旅行は,目的地に到着してからのみで なく,鉄道の移動中も「楽しみ」の一つであった.

しかし,日本の場合は鉄道での移動中に趣向が凝 らされておらず,目的地のみを楽しむような「純 粋の旅行」と変わらないものであると西洋の視点 から批判されていたことを論じている.

 第 2 節「国有鉄道の回遊列車」では,官営鉄道 による経営戦略の一環として位置付けられた回遊

列車のありようを論じている.官営鉄道による回 遊列車の企画は,1902 年運行の「京都回遊列車」

をはじめとして鉄道作業局の官僚である木下淑夫 を中心におこなわれた.また,その背景として,

木下による「団体乗車」の「構想」があったとす る.それは「乗車の際には降車を優先する」こと や「老幼婦女には席を譲る」といった「団体乗車 の方法」を「発達」させた上で,安全で低廉な鉄 道旅行を「比較的下層の人々」にさせようとする 構想である.そして,この団体乗車の構想を実現 したものが回遊列車であった.その後,木下の構 想のもとに進められた回遊列車は「好況を呈する」

ことになる.

 本章では,私営鉄道が経営戦略の一環として回 遊列車を走らせるなかで観光地の充実が図られて いくありようが論じられている.また,官営鉄道 の回遊列車では,木下による団体乗車の構想とい う「重要な営業戦略」のもとで運営されていたこ とを明らかにした.

(3)第 3 章 湯治場から温泉観光地へ

 第 1 節「草津温泉と草軽電鉄」では,草津の伝 統的な旅館主らによる鉄道の敷設を契機として,

草津が湯治場から温泉観光地へと変遷していくあ りようが論じられている.江戸期から草津はすで に著名な温泉地であった.その後,明治期に入る と「病気療養の地」としての性格を強めていった.

しかし,草津には暮坂峠といった「難所」が多く 存在しており関東圏からのアクセスが非常に悪 かった.それを克服したのが 1912 年に開通した

「草津軽便鉄道」であった.その後,同鉄道が草 津温泉までの乗り入れを果たし,東京から草津ま でのアクセスは一層向上することとなる.このよ うな鉄道整備の進展により,観光客数は飛躍的に 増加した.大正期に入るとスキーによる観光開発 が進められ,昭和期に入ると「かなりのスキー客 が訪れるように」なった.しかし,草津軽便鉄道 の開通が必ずしも草津の旅館に繁栄をもたらした わけではなかった.同業者が増えることで利益が 分散し,負債を抱えるものが現れるようになった のである.そこで草津の有力者達は,信用組合を 設置するなどの施策を講じることで地元の権益を 守ろうとした.その一方で,観光開発も重点的に おこなうことで温泉観光地として発展していった

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とする.

 第 2 節「箱根の観光開発と中央資本」では,中 央資本によって開発されていく箱根の変遷を論じ ている.具体的な観光開発の主体として「小田原 電気鉄道」,「小田原急行鉄道」,「箱根土地会社」

などの中央資本をあげている.一つ目の小田原電 気鉄道は,1910 年に箱根から強羅のあいだに登 山鉄道を開業し,1914 年から強羅での別荘地開 発を推進した.これらの開発により,第一次世界 大戦期に箱根は外国人観光客で賑わうことにな る.二つ目の小田原急行鉄道は,1920 年,実業 家の利光鶴丸により新宿と箱根のあいだに開業し た.また,往復割引切符の販売,乗合自動車と山 岳鉄道の経営により観光客の誘致に努めた.1935 年には,のちのロマンスカーの原型となる「週末 温泉急行」を走らせた.三つ目は,堤康次郎の箱 根土地会社である.この会社は,電気鉄道の敷設 や新中間層向けの貸別荘を販売することで箱根の 開発を推進した.こうした中央資本主導の箱根開 発のありようを論じる一方で,本書は地元を主体 とした「箱根振興会」の観光客誘致にも着目して いる.箱根振興会はパンフレット発行などの宣伝 事業により観光客誘致をおこなったとしている.

これらの観光開発の結果,箱根は 「今や温泉郷と しても遊覧地としても天下に誇る地上の楽園」 に なったと締めくくっている.

 本章は,草津温泉や箱根温泉といった江戸期か ら湯治場として親しまれていた温泉が,鉄道の開 通を契機に温泉観光地へと発展していくありよう を論じている.しかしこのような発展において,

草津温泉は地元主導であったのに対し,箱根温泉 では中央資本に依存していたという差異が指摘さ れている.

(4)第 4 章 海辺と高原のリゾート

 第 1 節「湘南の開発」では,藤沢,鎌倉,葉山,

逗子を中心とした 「湘南」 と呼ばれる地域が,鉄 道の開業を契機として,小さな漁村から海浜リ ゾートへと変貌していくありようが論じられてい る.湘南の開発は官営鉄道の「東海道線」や「横 須賀線」,私営鉄道の「江ノ島電気鉄道」による ところが大きかったとしている.1900 年代にお ける東海道線と横須賀線の開業は,江ノ島と鎌倉 が東京近郊の観光地として発展する可能性をもた

らした.そして 1902 年,地元有力者を中心に藤 沢から片瀬のあいだを運行する江ノ島電気鉄道が 開業した.同鉄道は東京などの市街地から来訪す る,避暑や海水浴目的の旅客を多く運んだ. また,

官設鉄道と連絡運輸の契約を結び,共通切符の販 売をすることで観光客誘致に努めた.

第 2 節「避暑地軽井沢の大衆化」では,「新中 間層」の登場を背景に鉄道の開通と箱根土地会社 の開発が軽井沢を宿場町から避暑地へと変えてい くありようが論じられている.江戸時代,軽井沢 は宿場町であり観光資源となりうるものは存在し なかった.しかし,明治初期になると外国人が別 荘地として活用するようになる.その後,明治後 期から大正前期にかけて,碓氷峠のような難所は,

官営鉄道の開通により克服される.こうした鉄道 の開通を契機に,東京から軽井沢へのアクセスが 容易になり,別荘の数が急増していくこととなる.

大正期に入ると軽井沢は「開発の時代」を迎える.

新中間層の登場を背景として堤康次郎の箱根土地 会社は,比較的低価格な別荘を販売し,軽井沢の 開発を推進した.また,先述の草津軽便鉄道の開 通は,軽井沢を経由して草津を目指す旅行者を増 加させ,軽井沢周辺の沿線開発がさらに推進され る契機をもたらした.

 本章では,湘南と軽井沢を事例として,上流階 層や外国人を対象としたリゾート地が,新中間層 の登場とともに鉄道の開通を契機として大衆化を 遂げていくありようが論じられている.

(5)第 5 章 私鉄経営者の戦略と観光開発  第 1 節「小林一三の宝塚開発」では,「日本型 私鉄経営」を確立したといわれる小林一三が,宝 塚を「大衆娯楽の理想郷」に仕上げるまでの過程 を論じたものである.産業革命により 1900 年代 には,大阪は商業都市から工業都市へと変貌した.

こうした動向のなかで小林は「箕輪電気鉄道」を 開業し,同時にその沿線に新中間層を対象とした 住宅地開発を推進した.しかし,宅地として定着 するまでには時間がかかるため,その期間は沿線 に遊覧施設を作ることで観光客の誘致をおこない 収益を得る必要があった.そこで 1910 年代に入 ると宝塚において,温泉の開発やそれに付随する 宝塚少女歌劇団の設立がなされた.そして,開発 の中心が宝塚へと移行していく.1921 年になる

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と西宝線が開通することで娯楽施設がさらに開発 され,宝塚は「大衆娯楽のメッカ」に仕上げられ ていった.

 第 2 節「『鉄道王』根津嘉一郎と日光の観光開発」

においては,実業家の根津嘉一郎による「東武日 光線」を軸とした日光における観光開発のありよ うが論じられている.1929 年,根津は東武日光 線を開業することで,浅草から日光に至る一貫輸 送体系を構築し面的な広がりをもって観光開発を 進めた.地域住民は「日光国立公園建設の第一歩」

と東武日光線開通に対して期待を寄せ,地元経済 の振興のために国立公園の請願運動を繰り広げ た.一方で,1927 年には中禅寺湖などの奥日光 を対象とした開発のために「日光登山鉄道」が設 立され,日光における交通網の整備を進めた.ま たスキー場やスケートリンクの開発もおこない日 光を有数の冬季スポーツの観光地へと発展させ た.また鬼怒川周辺を運行する「日光電気軌道」

を 1928 年に系列下に置いたことで,鬼怒川温泉 を日本有数の温泉観光地へと発展させたことも論 じられている.これらの開発において根津は「地 元優先主義」を貫き,地域住民との協調関係を維 持しながら開発を推進していったとする.

 本章では,堤康次郎と根津嘉一郎を中心に取り 上げ,日本有数の実業家たちによる観光開発のあ りようが論じられている.またそのような開発の 背景には新中間層の台頭があり,観光開発もその ような層を対象として推進されたのである.

(6)第 6 章 日帰りの「行楽」

 第 1 節「東京の『郊外』を探る」が論じられる 背景には新中間層の登場がある.彼らは少ない休 暇のなかで日帰りや一週間といった比較的短期間 の旅行を楽しんだ.本節ではそのような動向のな かで,郊外としての「武蔵野」がどう捉えられて いたのかを論じている.京都の郊外は歴史性や「美 しさ」を持っていたとされる一方で,東京近郊の 武蔵野は「荒削り」で「粗野」と形容されること があった.東京では都市の拡大と連動して郊外も その範囲を広げていくなかで,郊外とも都心とも いえない目黒や渋谷のような「中間地帯」が生み だされていく.またそうした拡大のなかで,海岸 や平野,丘陵といった鉄道沿線の地形を特徴とす る郊外が生みだされた.こうした特徴をもとに郊

外が分類され,多様化していったとする.

 第 2 節「武蔵野線と沿線行楽地」では,池袋か ら飯能のあいだを運行する「武蔵野鉄道」と,そ の沿線開発のありようが論じられている.1912 年に武蔵野鉄道は,飯能を東京と接続するために 飯能出身の平沼専蔵によって開業された.飯能で 採取される砂利や織物などの産出品を東京に輸送 するといった「地方的な利害」の強い路線であっ た.このように,商業目的で開通された路線であっ たが,次第に旅客輸送の収益が増加していく.そ の背景として,所沢や池袋などが郊外宅地化され たことを指摘している.1920 年代になると旅客 輸送による収益が貨物輸送を上回っていく.しか し,1930 年代の不況により営業収支は赤字に陥 り,結果として中央の資本家である堤康次郎に よって買収されることとなる.その後,堤は登山 客誘致などの沿線における観光開発を推し進め,

その結果旅客収入が 1937 年時点で運輸収入全体 の 80% を占めるようになっていた.

 本章では,新中間層の台頭により,短期間の旅 行がなされるようになるなかで,人気を博すよう になっていく東京の郊外を題材に論じている.そ のような背景のなか,武蔵野鉄道を事例として郊 外における沿線行楽地の開発が鉄道会社によって 推進される様が論じられている.

(7)第 7 章 外国人観光客の誘致

 第 1 節「明治・大正期の『観光立国』策」では,

「喜賓会」の設立と「ジャパン・ツーリスト・

ビューロー」に対して鉄道作業局官僚の木下淑夫 が果たした役割に関して論じられている.喜賓会 は,国際親善や貿易立国を目的として,1893 年 に設立された機関である.しかし,会員からの寄 付や国家からの補助金に依存していたため,経営 は困難な状態であった.そうしたなかで,木下は 国際親善や富国増進を目的とした「外客誘致論」

を唱えていた.外客誘致論の背後には,日露戦争 後の不況により外貨獲得の必要性が高まっていた ことがあげられる.そのような背景のもと,1912 年にジャパン・ツーリスト・ビューローが設立さ れたのであった.また,設立当初は外客斡旋を主 とした機関であったが,次第に邦人観光客の斡旋 も業務のなかに組み込まれていく.

 第 2 節「国際連絡運輸」では,欧米や日本の植

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民地における観光開発と輸送網の発展を論じてい る.日露戦争後,満洲や台湾,朝鮮における「帝 国鉄道網」が形成されていく.そうしたなかで満 洲を事例として,南満洲鉄道株式会社の観光開発 のありようを論じている.また,1910 年の国際 運輸会議によって,シベリア経由で欧州と日本を 結ぶ「欧亜連絡運輸」が形成され,国際間での移 動が円滑化されていく.その後,1911 年には太 平洋を渡って日本およびシベリア経由でイギリス に至る「世界周遊券」など,世界旅行を可能にす る乗車船券が鉄道院から販売されるようになって いった.

 第 3 節「外客誘致と国際的孤立」では,1930 年代以降における日本の国際的孤立を背景として 展開された外客誘致政策のありようを論じてい る.1930 年代初頭の不況により国際収支の改善 が喫緊の課題となる.そこで鉄道局の外局に外客 斡旋を目的とした「国際観光局」が設立される.

また,ジャパン・ツーリスト・ビューローはアメ リカ人観光客を外貨獲得の観点から重要視してお り,ニューヨークに支店を開設した.その後,満 洲事変以降における国際的孤立のなかで旅行者は 一時的に減少したが,1932 年の国際連盟脱退に よって円が暴落し外国人観光客は急増することに なる.こうして外貨獲得政策としての外客斡旋は 成功したものの,かつて木下が目指した国際親善 を図るような外客斡旋は実現しなかったとする.

 本章では,大正・昭和期における外客誘致政策 について論じられている.外客誘致は,経済的側 面が強く外貨獲得を目的としたものであった.ま た,日本国内だけでなく,植民地やヨーロッパな ど海外との国際連絡運輸が充実していき,世界的 に観光が展開していく様が論じられている.

(8)第 8 章 戦時から戦後へ

 第 1 節「軍需輸送の拡大と観光輸送の圧迫」で は,戦時下における旅行の位置づけに関して論じ られている.1938 年以降に日中戦争の影響で平 時輸送から戦時輸送へと転換していくなかで,旅 客輸送は圧迫されていく.その後,太平洋戦争に より,旅行は「不要不急」なものとして排除され ていった.そうした流れのなかで旅客運賃は引き 上げられ,駅弁の掛け紙には時局を反映した内容 のものが採用されていく.しかしその一方で日本

文学者の大和資雄は長期戦が予想されるなかでの

「次世代の育成」という観点から「家族旅行」の 必要性を論じていたとする.

 第 2 節「復興期から高度経済成長期へ」では,

戦後の復興期における観光開発のありようと,そ の変遷が論じられている.戦後,日本は復興を遂 げ高度経済成長期を迎える.そうしたなかで東京 オリンピックが開催され,同時に「東海道新幹線」

をはじめとする交通網の整備が日本各地で推進さ れた.これら一連の動向は戦後の日本が「経済大 国」へと変貌を遂げたことを象徴的に示すもので あった.しかし,1970 年に「大阪万博」が開催 され,その閉幕が近づくと,高度成長のあり方を 見直す風潮が台頭しはじめる.その一つの現われ として「ディスカバー・ジャパン・キャンペーン」

があげられており,それは 「日本の文化や観光資 本の新しい側面を発掘する役割をもっていた」 と する.

 本章は,「戦時から戦後の高度経済成長期にい たるまでの鉄道と観光の関係」を論じたものであ る.そして,本章は,以下の文章で締めくくられ る.

 両大戦間期の一九二〇〜三〇年代における 観光ブームは,一九三七年七月に勃発した日 中戦争と,四一年一二月から始まるアジア太 平洋戦争のなかで潰えた.しかし,戦後復興 期を経て高度経済成長期にいたると,両大戦 間期を上まわる観光ブームが到来した.

3. 本書の意義

 本書の意義として,以下の 3 点をあげることが できる.1 点目は,鉄道を中心とした時代ごとの 観光地の位置づけと,その変遷を明らかにしたこ とである.この点については主に,第 1 章から第 6 章にあげられた多くの事例から明らかにされて いる.例えば,川崎大師や成田山新勝寺,日光な どの社寺参詣が鉄道により行楽的性格を強めて いったことや,小林一三による鉄道の開通と宅地 開発が宝塚を小さな寒村から「大衆娯楽のメッカ」

へと変貌させていった事例がそれである.このよ うな立場から現代観光を解釈し直すことは,これ

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からの観光を考えていく上で大きな知見をもたら すであろう.

 2 点目は,現代観光との連続性/断絶性を考え る上で有効な事例をいくつかあげていることであ る.例えば,喜賓会から始まる戦前の外客誘致政 策と現代のインバウンド政策の比較から,戦前と 現代の連続性を問うことは可能であろう.一方で,

戦前に日本が観光開発を進めた植民地は,現在そ れぞれの主権のもとで観光開発を進めている.こ うした戦後の状況からは,観光開発の主体をめぐ る断絶性を認めることができよう.このように戦 前から現代における観光の連続性/断絶性を考え ることは現代における観光の持つ意味をより明確 にしよう.

 老川は,本書のあとがきで 「近年は,航空機や 自動車に押されがちであるが,鉄道は近現代日本 の観光の発展に大きな足跡を残してきた」 と述べ ている.確かに老川が指摘するように,現代観光 において航空機や自動車は非常に重要な地位を占 め,鉄道の存在感は戦前に比べれば相対的に低下 としたといえる.本章の意義の 3 点目はこうした 状況のなかで,いまいちど「鉄道」が観光に対し て果たした役割を問い直す契機を提示したことで ある.

 一方で,観光史研究の課題を考える上で検討す べき重要な点も本書においては指摘できる.それ は,先に引いた「一九二〇〜三〇年代における観 光ブーム」が日中戦争やアジア太平洋戦争によっ て「潰えた」とする視点である.

 この「潰えた」とする評価に関して,例えば Ruoff は,1940 年の紀元二千六百年行事において 多くの日本人が日本国内において「自主的に」戦 跡観光に参加していたことを明らかにしている

(Ruoff,2010=2010).また,工藤は「太平洋戦争

(1941)に突入すると,『観光』は敬遠され,旅行 の自粛もさらに強化され,陸運非常体制下に入る.

しかしながら,それでも旅行意欲は衰えず,狡猾 な方法で当局の規制を回避して,楽しみのための 旅行を続ける者もいた」としている(工藤,

2011:60).

 これらの先行研究からもわかるようにアジア太 平洋戦争以後もどのようなかたちであれ「自主的」

で「楽しみのため」の旅行は存続していたといえ

る.こうした知見にもとづくならば「潰えた」と いう表現を用いることに評者はいささか慎重であ る.

 とはいえ老川が本書で試みたように,戦前・戦 後にまたがる観光の歴史を実証的に明らかにする ことは,現代における観光の位置づけを明確にす る上で有効な視点であり,ひいては「観光とはな にか ?」を問い直す上で重要な役割を果たすので ある.

【付記】

 本稿の内容には,評者がティーチング・アシス タントとして参加した「演習(2 年)A・B」(担 当者:千住一)での議論が反映されている.演習 でともに本書を講読した千住一先生、佐藤百合,

君波実祐,王峙凱,鷲尾圭登の各氏に深く謝意を 表します.

【参考文献】

工藤泰子(2011):戦時下の観光.京都光華女子大学研究 紀要,49,51-62.

老川慶喜(2013):井上勝―職掌は唯クロカネの道作に候.

ミネルヴァ書房,322p.

――――(2014):日本鉄道史―幕末・明治篇.中央公論 新社,227p.

――――(2016):日本鉄道史―大正・昭和戦前篇.中央 公論新社,228p.

Ruoff. K. (2010) Imperial Japan at Its Zenith : The War︲

time Celebration of the Empire's 2,600th Anniversary, Ithaca : Cornell University Press, 236p.

(= 木村剛久訳(2010):紀元二千六百年―消費と観光 のナショナリズム.朝日新聞出版,303p.)

参照

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