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歴史 鳩山町観光ガイド/鳩山町ホームページ

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History

歴史

鳩山町の

10 HATOYAMA HATOYAMA 11

History

 鳩山町は奈良・平安時代、須恵器や瓦の生産 で栄えた「焼き物の里」でした。当時の窯跡が、 鳩山町をはじめ周辺の比企丘陵地帯にたくさん 残されています。それらの遺跡からの出土品の 数々を、町の展示施設で見ることができます。

南比企窯跡群

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 今から約8,000年前、氷河期も終わり、気候の温暖化が進ん でいました。比企丘陵も日本列島と合わせて、遺跡が増えてき た時期です。鳩山にも最初の定住者(1∼2家族規模)が現れ、 丘陵に点在して暮らしはじめていました。

 縄文海進がピークを迎え、沿岸部の集落では貝塚もみられ た約6,000年前になると、鳩山の野山では栗やクルミやイモ 類などが採れ、シカやイノシシを捕獲し食料としていました。こ の時期になると、鳩山にも本格的な定住集落が作られ、丘陵 の縄文時代はピークを迎えました。

縄文時代の比企地方

 縄文時代から飛鳥時代にかけて、比企地方は良質な土と窯 に適した環境から徐々に焼き物が盛んになっていき、比企地 方南部は焼き物の一大産地となりました。南比企窯跡群と呼 ばれる東日本最大の窯跡群では、5世紀末から10世紀前半に かけて、主に須恵器が作られていました。

 瓦の生産は7世紀後半に石田窯跡や赤沼古代瓦窯跡で開始 されました。8世紀後半の武蔵国分寺創建期には、鳩山で大量 の瓦が生産され、40km離れた国分寺まで運ばれました。こう して鳩山は、一大窯産業地へと発展していったのです。

須恵器と瓦の流通から生まれたムラ

奈良∼平安の土器(須恵器)

 鳩山町の歴史を一口で言うと「焼き物のサト」と言えるほど、古くか らこの地方では、窯業生産が盛んに行われてきました。鳩山町を中心 に遺る古代窯業遺跡の規模は東日本最大級で、おそらく関東・東北で は最大とされています。奈良時代中頃から平安時代初期の最盛期に は窯の数は500∼1,000基といわれており、丘陵のあちらこちらか ら窯煙が上がり、焼き物のサトとして賑わっていたことと思われます。  鳩山ではとくに「須恵器」と「瓦」の生産が盛んでした。鳩山で窯業が 隆盛した理由の一つには地質条件、つまり大量の粘土が埋蔵されてい たからです。また鳩山丘陵の風土は窯をつくるのに適していたことで、 かつての比企地方南部は須恵器の一大生産地となりました。鳩山の窯 業の輝かしい足跡は「南比企窯跡群」として今に残されています。

焼き物のサト鳩山

∼丘陵の古代史

 須恵器とは釉薬をかけていない陶器で、5世紀に朝鮮半 島から伝わった「陶器の起源」といわれる古代の焼き物です。 比企丘陵の豊富で良質な粘土は、須恵器や瓦の良質の原料 となり、丘陵の地形と地質は窯を作るのに適していました。  6世紀初め頃から工人たちは、

須恵器工房を兼ねた竪穴住 居に住み、手回しのろくろ などを使うことで質 の 高い製品になります。 こうした生産活動によ り、須恵器は関東に広 く知られるようになりま した。もともと須恵器は

古墳に納める副葬品として 広まりましたが、時代の変化と

ともに瓶(かめ)・壺(つぼ)・鉢(はち)・水瓶(すいびょう)な ど生活用品や仏具も作られるようになりました。

 7世紀後半、鳩山の丘陵内に最初に造られた石田窯跡は、 寺院や役所のための瓦や硯(すずり)を焼く窯でした。この石 田窯跡を引き継ぎ、瓦の量産体制を確立したのが、県指定史 跡赤沼古代瓦窯跡です。これらの窯では主に、平瓦・軒丸瓦・ 丸瓦などが生産され、坂戸市にあった勝呂廃寺へ供給され ました。

 奈良時代、8世紀前半になると鳩山の須恵器工人たちは、 須恵器づくりのムラをつくるようになりました。折しも奈良 時代最大の国家事業であった国分寺建立が始まると、武蔵 国分寺(東京都国分寺市)の 瓦が鳩山で生産されるように なります。こうして鳩山は武蔵 国最大の国分寺瓦の生産地 となりました。窯業が発展す るにつ れ 、須 恵 器 の ムラ は 徐々に鳩山の丘陵各地へと 広がっていきました。現在の 地名に「須江」を残していると ころからも、かつての隆盛が 偲ばれます。

鳩山の窯業「須恵器と瓦」

鳩山で出土した最古の土器

500年

538年

600年

645年

672年 694年

700年

701年 710年

741年

794年

800年

900年

935年

百済から

仏教が伝わる 桜山窯(高坂)

●南比企窯跡群の成立 日本史上のできごと 南比企窯跡群の動向

●丘陵内へ窯が進出

●「工人集落」の成立

●「雷瓦屋」の設置

●窯跡群のピーク

●窯数の減少 根平窯(高坂) 舞台窯(高坂) 小用窯

石田1号窯

赤沼古代瓦窯

山下6号窯

新沼窯

久保・石田瓦窯

境田窯 大化の改新

壬申の乱

藤原京遷都

平城京遷都

平安京遷都

平将門の乱 国分寺造営の 詔が出される 大宝律令

窯数の推移イメージ

鳩山町の窯跡群は 東日本最大規模 なんだって!スゴイ!

先人たちの鼓動が今に、

悠久の歴史に彩られた古の里。

主な文化財

 石田1号窯跡から出土した 仏像や経巻を納めるための 厨子です。7世紀後半に作ら れたもので、全国でも極めて 数少ない希少品です。

●陶製仏殿

 柳原遺跡より出土した 奈良時代の須恵器です。

香を焚く際に用いられ た物とされていますが、

その独特な形状は他 に類もなく、大変貴 重な資料です。

●須恵器香炉

 蓋状製品

町指定有形文化財

縄文の土器

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History

歴史

鳩山町の

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 眼下に須江の集落が広がる、眺望のすば らしい笛吹峠は鎌倉街道で一番の難所で、 南北朝時代には新田氏と足利氏の最後の 決戦の場となった由緒ある場所です。

笛吹峠

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 鎌倉街道とは、鎌倉に幕府が開かれたことによって発達し た交通路です。鎌倉を起点に関東各地やその周辺国を放射状 の3路線で結んでいました。鳩山のほぼ中央を縦断していたの は、埼玉県の中央を縦断し上州経由で信州方面へと通じる「上 道」で、ほかに東京都を横断して古河(茨城県)を経由して奥州 へと通じる「中道」、横浜から東京を経て松戸(千葉県)を経由 して常陸へと通じる「下道」がありました。「上道」は鎌倉市から、 府中市(東京都)と所沢市(埼玉県)を経て、鳩山町、本庄市とた どり、藤岡市(群馬県)から上信越へと通じる幹線道路でした。

鳩山町を縦断していた鎌倉街道

、 中世の土器・陶器

 江戸時代の天明5年(1785)、鳩山町熊井に住んでいた根岸 仙之助が、淡路島から来た医師より楽焼の法を伝習し、開窯し たといわれる焼き物で、窯跡が今も根岸家の屋敷の隣に残さ れています。窯跡からは、椀、皿、急須、平鍋、徳利など、絵付け 品も含む多くの焼き物が出土しており、いずれも最高級のろく ろ挽きや削り込みの技が施され、釉薬や焼きも見事で、高い技 術力が伺えます。明治以降は、陶器のほかにレンガや土管、瓦 も焼いていましたが、7代を数えた昭和30年代に、その長い窯 の歴史を閉じました。

近世の鳩山で生まれた焼き物・熊井焼

町指定有形文化財

「窯元根岸家熊井焼伝世品」と窯跡

吹峠でした。尊氏軍8万人に対して、義宗軍はわずか2万 人と勢力差は歴然でした。劣勢となった義宗軍は笛吹峠 の地形を利用し、尊氏軍を平野に見下ろしながら、自分た ちの姿を見せずに射手を進める「鳥雲の陣」を布くことで 善戦しましたが、義宗軍は敗れ、越後へと敗走することと なります。この笛吹峠は、新田義宗と宗良親王が足利尊氏 を打ち損じ、万斛の涙を呑み敗退した由緒ある場所なの です。

 笛吹峠は鎌倉街道の中で唯一の峠で、街道一の難所と いわれています。慈光観音と岩殿観音の巡礼道が交差す るこの峠は現在、鳩山町と嵐山町の行政境にあたり、クヌ ギや松の雑木林などに囲まれて、今なお古き武蔵野の面 影を残しています。眼下に須江地区の集落が広がるこの 峠は、眺望のすばらしさでも有名です。

 平安時代から鎌倉時代にかけて、鳩山の近辺では大き な出来事が起こりました。1333年(元弘3)、後醍醐天皇 のもと足利尊氏や新田義貞らによって、鎌倉幕府を支配 していた北条氏が滅亡したのです。

 北条氏滅亡後、後醍醐天皇と足利尊氏は対立すること になります。そして、後醍醐天皇側についた新田義貞(南 朝)と足利尊氏(北朝)の争いは、武蔵野合戦へと繋がって いきます。南北朝時代に武蔵野を舞台に繰り広げられた 数々の争いの中で、鳩山も当然その渦中にあったのです。  新田義貞がこの世を去った後の1352年(文治元・正 平7)、義貞の子義宗と義興は、後醍醐天皇の皇子宗良親 王を擁して鎌倉街道を南下します。この進撃は一時鎌倉 まで達し足利尊氏を窮地に陥れましたが、尊氏も直ちに 反撃を開始すると、鎌倉街道沿いを北上しながら、次々と 義宗軍を打ち破っていきました。

 そして、この武蔵野合戦の最後の舞台となったのが笛

笛吹峠の合戦

∼鎌倉街道沿いの中世史

 寛徳年間(1045年頃)、この 地の日出薬師尊参者の御手洗い 井戸です。

舛井戸遺跡 10

 江戸時代後期建築の里修験で あった瑠璃光院(日野岡家)の長 屋門です。

日野岡家住宅長屋門 11

 赤沼地区の廻国供養塔の傍ら に立てられた道標(みちしるべ) です。

赤沼入口の道標

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 おしゃもじ山の山頂に建つ、 今宿出身の明治の経済人、平沼 専蔵の彰徳碑です。

平沼翁彰徳碑

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 岩に直接掘り込まれた横穴の 墓で、古墳の一種。古墳時代後期 に築造されました。

十郎横穴墓群

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 江戸から明治にかけて和算家 が考案した、数学問題を板に記 した絵馬の一種です。

円正寺不動堂の算学

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  応 永 3 2 年( 1 4 2 5 )の 銘 が あ る 高 さ

78cm、幅 2 1 c m の 石 製 の 供 養塔です。

円正寺の宝篋印塔

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 嘉慶2年(1388)の年号のあ る 数 少 な

い 十 三 仏 板碑ですが、 主 尊 を 欠 いています。

金沢寺の十三仏板碑

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 7世紀後半、付近の寺に瓦を供 養するため

に 造 ら れ た 大 規 模 な 瓦 窯 跡 です。

赤沼古代瓦窯跡

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 南北朝時代の寺用楽器として 使用された仏具で、埼玉県指定 有形文化財となっています。

円正寺不動堂の雲版

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円正寺不動堂の雲版 円正寺不動堂の算学

円正寺不動堂の絵馬 平沼翁彰徳碑

赤沼入口の道標

十郎横穴墓群 赤沼古代瓦窯跡

金沢寺の十三仏板碑 舛井戸遺跡 日野岡家住宅長屋門

円正寺の宝篋印塔

  江 戸 時 代 の 文 化 1 3 年 (1816)を最古に奉納された73

点の絵馬です。

円正寺不動堂の絵馬

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History

鎌倉街道

ハイキングマップ

他の地域では 見られない 貴重な文化財が 残ってるんだね!

 板碑は死者を弔うための石造物のことで現代 のお墓のことです。板碑は中世石造物の中では 一般的なもので、町内でも約800基が確認され ています。確認されている板碑は、主に鎌倉街道 沿いと寺院跡などに分布しており、武蔵野合戦で 命を落とした武士たちの弔いも行われていたも のと思われます。

●板碑

●板碑

参照

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