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(1)

中村信書郎 中撫川村

太 田光五郎

岡山頻令高崎五六殿 」

次に,地租改正に対する鹿民斗争

K

ついてであるが, Lf岡山県 の歴史』 に よると

,

「′J田県では備

前 ・美作にみ られるほ ど強力では なか ったようである. まず,地主制の最 も進展 している都字 ・鍵屋 (覗,都窪郡お よび食政市)の二郡が,収礎並 ・地価を受諾 して配賦を完了 した。 ついで各郡 とも版 次に配賦 を完了 してい った ようである. ただ,賀陽郡 (現,吉備郡)の数か村 で姓氏 の抵抗が あ 9, 各戸長数名を免職 して地価 の決定 をこな ってい る。」 と記され ている。

注1 岡山頻拍典 昭和5 7年発行

『岡山頻の歴史』 497頁 注2 井上滑著 昭和46年発行

『日本の歴史 中』 12 5頁

注5 岡山県史桐谷係細鮎 昭和42年 発行

『岡山保見満 本土』 52頁 荘 4 字垣 武治若

『庭瀬帝改革妃』

荘 5 荘 5と同 じ 10 5頁 注占,7注5と同 じ 222頁 住 8 岡山県編典 昭和42年発行

『岡山県政史』 57責

任 9 阿部真琴 等舶娘 昭和45年発行

『入門日本史下巻』'55頁 琵 10

5と同 じ 1 78再

任 11

5と同 じ 2 4 4頁

注12 岡山県史舶宰 係栴妹 昭和42年発行

『岡山腺史楠本下』 9頁 注15 注目 と同 じ 9‑ 1 0頁 江 14

8と同 じ 14 0貫 注15,16注8と同 じ 14 5頁

(山本成子)

‑ 170・‑̲

(2)

2

地 方 自 治 の 展 開

㈹ 大区小区制の施行

旧来の藩制禎榊 を解体 し,新た なる中央集樺的官僚機柵の亜 節をはかる中央政府 は,明治4年7月 廃藩温県を実施 し'それ に伴い新 しい末鞘地方行政棟樹 の確立化が行 なわれることに75:つたo

O明治2年 の王政復古に よ

D

,渚候封土を奉潰 して帝 を放 き,川入村 ・延友村 ・申出村 ・平野村西 ・ 平野村 沖分・西花尻村 ・束花尻村は庭瀬藩 の管拘, 日畑村東銀 ・大内田村 ・下撫川村 ・中瓶川村は倉 数原の管柏であ勿 ;,明治4年 の原潜忠県に 上 って,庭瀬群は磨瀬腺 と75:95郡5 1ケ村,倉敷腺 は1 5郡5 8 0ケ村を骨相 していた。

C明治4年1 1月,県廃合の布告があD, 備中国一円お よび備後 d郡の1 1鼎 を統一 して薙韓腺が設 置され,明治5年vcは庭瀬県 ・倉激腺共 VC廃 まれで,鍵醇県に合併 され たo

C明治5年 5月,探津

にかいては,備中国1郡 ・備後国の内 占郡の管樽地を分割 して, 17大区 ・ 5 5a,」、区 を設歴 したが,同年 9月,小田県 (明治5年6月7日,深津県 を′」、田原 と改称)におい て,元岡山県の当分管楯地である怖中国の内87ケ村 を併合 したため,再びその区制を改定 して

5 9 7小区 とした。そ して,将来吉備町 となる話村杖,次の ように位健づけ られたO (1)

第15大区 賀陽郡

小1 6区 板倉村 ・官内村両村 (板倉村 9川入村 卜合併夷金村 卜改称′」、12区二更新) 小17区 川入村 (板倉村 ・官内村 卜合併素金村 卜改

J、12区二更新)

小1 8区 庭瀬町両町 ・川崎町 ・中田村 ・三 田村 (ニケ町ニ ケ村合併庭瀬村 卜改小1 4区 二更新)

・J、19区 西平野村 ・東平野村 ・西花尻村 ・東花尻村 (東西平野村東西 花尻村合併 甲南村 卜改小 15区三更新) ・延友村両村 (両 村合併延友村 ・ト改吏二甲南村 二合併) 。押分 (甲南 村‑合併 )

第1 4大区 都辛郡 小15区 大内田村

・J、2 1区 日畑村酉組 ・日畑村乗組 小2 2区 下撫川村

小25区 中撫川村

o「 ‑

.笹屋名主年寄等総テ相廃止戸長副戸長 卜改称 シ ・・・・・・ 搬 略)(2)」をる太政官布告第.,7 7 号VE基づV'て,小田県では明治 8年1 2月

.

「正風戸長 保長詩締方聴務制限」 を制定公布 し,正 副戸長お よび保長の耽捗について規定 したO それ忙 上ると,正副戸長の職務 qi,次の通 りであ っ

171‑

(3)

,

正租雑税 を取立上 納の期限 を不徳様専 ら井貫に任 す る串。

‑ ,官林 を保護す る臥

位 ,損木或は山焼串有之節は速 に上 申可致弘 一,僻川筋 を汝旅 す る番O

‑ ,区 内節義 籍行 の模範 と漁るへ 尊者は検査 の上達に上 申可致弘 一,道路捷防橋梁修繕 を不 怠畢O

‑ ,区内若 し不 良の徒有之は厚 く数静 を加はへ遊子逸惰 之者無之家業出精益 良 の風儀 に移

b

候 様来 て注意可故 事O

‑ ,区 内

孤独廃疾の者 等総 て窮乏 の者 には精 々扶助の術策 を し自然属兼た る時は之 を腺 へ上 申す る事。

促,棄 確背等を処分す る草O

‑ ,死 生頗 嬰等人 口の出入は戸姫 の制規

K

牌 し厳密に可取調事O 世,訴 訟等 を始 め総 て公裁vc属す る件へ は鵬渉せ さる串。

‑ ,徴兵年齢 の検査学校生徒の敢闘を始 め学至純 給す る等の串 を掌 る事O

‑ ・猟銃税 を始め華燭僕稗 税等一切其他芸娼井芝居相模 等緒興行物 の税金無遅延取組 め候

‑ ,隣区親和互に扶助保護 して柳か も隔絶在へか らさる畢O 但,区内時 々立 回 b万串取締 Dを厳 にす る事。

‑ ,保長井諸締 り方敵 情正否 を し其 進退 申請 する事O

‑ ,諸御布告諸規則 類一区中不洩様懲翰籍遷 し且配下の錯節伺届 を受次 卿 も下情を 蔽す る等の 相成ケ間数俄有之 間数草。

,

諸罰則に惇 戻す る者 は連作之を上 申す る事。

‑ ,管内1 7郡 を1 7大区VZ:分けて一 大区一名 つ ゝ惣代 として各区正副戸長 より一月更番忙 下

‑相詰 め御布告類 の伝達 を始め各区に関す る大小の事件 を悉 く受次配遵す る執 。

また'保長職分 として 「正副戸長

指揮 を受け区内の学務は勿論道路 捷防橋梁等 の修繕 を専注意 す る

」(4)を規定 している。

明治 8年4月当時 の正副戸長 ・保長を第15大区賀陽郡小区でみれば,次の通 Dである。 (5)

・」、1 6区 (事務取扱所位置 宮内村)

戸長 森安静天

保 長 板倉村 坪井興四 郎 ・仲逮 久次 郎

宮内村 藤井会一 ・内山寄興太 .浅宿鶴 男

・」、1 7区 (事務取扱所位置 川入相)

戸長 犬飼 弘

劉戸長 犬飼小藤太

‑172‑

(4)

保長 川入村 脇本徳三 ・高木要道 ・高額 勝太郎

小18区 (事務取扱所位置 中田村 ・庭瀬村) 戸長 波辺純 ・野崎通稚

副戸長 沢 田龍雄 ・脇本変敬 保長 庭瀬町 域尾尚郎 ・深井 作次郎

中田村 安井甚遣

J、19区 (事務取扱所位盤 西平野村)

戸長 太田直温 ・森安直三郎

副戸長 太田締宜 ・太 田伝四郎 ・姓波賄太郎 保長 西平野村 国吉初次郎 ・野崎音青

菜平野村 太田宗一郎 ・吉田春造 西花尻村 水 島才次郎

東花尻村 森安要八郎 沖分 森安要八郎 延友村 桶野平十郎

C朗治 9年1月,小田県 を廃 し岡山県に合併 の後,明治10年1 18日岡山県 は,県内各会議所 よびノJ、区串務所 女らぴK区 ・戸長 ・保 甲長 をすべて廉止 し.新たに区務所 (県内25ヶ所)お よび 戸長役場 (1区務所管内に 5‑ 1 1ヶ所計15 8ヶ所) を設置 し,区務所 VCは区長1名,戸長役場 には戸長2名,各町村 には副戸長 を置 き,人民の帯厩 は総て副戸長において, とbしめ差 し出す も のとした。将来吉備町 となる諸村は第8区拝所 と弟 15区務所 に管轄 され,当時役VEついてV,た人 は次の通 Dである。 (6)

第8区務所 (元第1 4大区 ・第15大区で都宇部 ・鍵屋郡 を管坤す る.) 区耕所の位置 倉敷村

戸長役場数 9

区長 林 一 明治10年1 1月8日申付 明治1 1年 9月20日展収 戸長 河島丈四郎 明治10年1 1月 8日中村 明治= 年 9月2 0日廉聴

, 第5戸長役場 (元1 4大区の′」\13区か ら小28区 までを管噂す るO) 戸長役場 の位置 松島村

‑ 175‑

(5)

戸長 古谷省三邸 明治1D年1 1月 8日申付 明治1 1年 9月2 0日贋聯 内田亭造 明治1ロ年1 1月8日申付

明治1 1年8月10日依鹿免職 副戸長

大円田村 坪井御蔵 明治1 0年1 1月 9日申付 明治1 1年9月1 9日依願免職 龍治竹太郎 明治1 1年 9月1 9日娘務 申付

第4戸長役場 (元第1 4大区の小2 1区か ら′J、2 7区 までを管頼するO) 戸長役場 の位置 下撫川村

戸長 片 山光右衛門 明治18年1 1月8日申付 明治1 1年9月20日展職 大森孫九部 明治1 0年1 1月8日申付

明治lD年1 2月 8日転第1戸長役場戸長 聞野乗太郎 明治1 0年 12月8日申付

明治11年9月2 0日原敬 劇戸長

日畑村酉鹿 央尾谷八郎 (日畑村組

下森川村 森本惣平

難波盛大邸

中掛 目村 太 EEt光五郎

明治1 0年1 1月 9日申付 明治1 1年1 1月2 8日原職 明治 18年1 1月 9日申付 明治1 1年8

2 1日依願免職 明治1 1年8月2 1日申付 明治1 1年1 1月2 8日廃職 明治1 0年1 1月9日申付 明治1 1年1 1

2 8日廃職

第15区番所 (元第 15大区で賀陽郡を骨格す る。) 区務所の位 匪

戸長役場教

区長 和気辰 包 明治1 1年5月 8日申付

明治11年 9月2 0日転 賀陽郡寄託 副区長 和気辰包 明治10年1 1月8日申付

明治1 1年5月8日区長中村

‑174

(6)

戸長 土岐改作 明治1 01 1月 8日申付

明治1 1525日第7戸長役場 二転 平 田謙五 郎 明治 1 1年 3月25日申付

明治1 1年 9月2 0日展職

4戸長役場 (元1 2 ・ 1 4 ・ 1 5区を官職する。 ) 戸長役 場の位僚 其金村

戸長 黒住菩五郎 明治1 01 1月8日申付 明治1 1年 9月2 0日廃城 渡辺始太 郎 明治101 1月 8日申付

明治1 14月2日依願 免職 渡辺純 明治1 1年4月2日申付

明治1 14月50日依 厨免職 保 田臣孝 明治1 1年4月50日中付

明治11年 9月2 0EI贋聯 副戸長

英金村 大 賀磐人

武 南帝大

滑水武平

中山捨 五 郎

藤 原延 文

武 南東一郎

庭瀬村 竹村 新

深井作次郎

甲南村 太 田直温

難 波浦太郎

明治18年 1 1月 9日申付 明治1 11 12 9日廃城 明治1 01 19日申付 明治1 1年4月5 0日依願 免職 明治1ロ年1 19日申付 明治1 11 12

9

日原敬

明治10年19日申付 明治1 11 12 9日原職 明治1 1年5月2 9El申付 明治1 11 12 9日廉職

明治1 1年4月50日申付 明治1 11 129日舞聴 明治10年 1 19日申付 明治1 11 12 9日原 職

明治1 01 19日申付 明治1 11 12 9日官 職 明治1ロ年1 19日申付 明治1 11 12 9日深 職

明治18年 1 19日申付

‑175‑

(7)

明治11年11月29日摩職

(。)郡区町村執別法の施行

廃藩置腺後の地方行政改革 において,従来の町村 は行政単位 としての性格 を喪失 して′」、区の中VE 埋没 して しま うもので あ ったが,現実の社会的 .経済的生活関係 の場 として堅 く結束 されていた町

吋を無視 しよ うとす る変革には,さまざまな無 理が生 じ,結局地 方 自治か ら抹殺するこ とはで きな いこ とであ った。

その対策 として制定 されたのが,郡区町村編制法であるo

C朋 治11年9月20日,本年7月に布告 された郡区町村締制法に基づ き,岡山県下従前の区 画を 廃 して郡 ・区役 所が定 まi), 38ケ村 を擁 する都字郡 は下撫川村 K. 5 1ケ村 を琳 する賀陽都 は 高松村 にそれぞれ郡 ・区役所 があ った. そ して郡 .区VCは郡長 。区長,各町村VEは町村 の公 選VE

よる戸長が 置かれたが,その間の移行 精髄 として,役所開 設迄は従前の区務所において幼帝 を取

D

扱 うこ と,戸長役場

K

かLlて取 り扱 って きた事務は, 当分副戸長 が取 9扱 うことが指示された。

次に当時 の各村の戸 長を列挙 す る。(7)

者障 部

下撫川村 難波謙太郎

申出川村 吉田光五郎

太 田多次郎

大 内田村 坪井柳造

久山丈太

坪井柳造

明治1 1年1 1月2 8日申付 明治1占年 2月15日展職 明治1 1年1 1月2 8日申付 明治1 2年2月15日依願免職 明治12年2月2占日申付 明治1占年2月15日廃職 明治1 1年1 1月28日申付 明治1 2年1月15日免職 明治12年 5月1日申付 明治15年 5月2 9日依願免職 明治1 3年5月1 7日申付 明治1 6年2月15日廃敬

畑村乗組 矢尾谷八 郎 明治1 1年1 1月28日申付 (西組 明治15年2月2 8日依戯 免職

灘波輿 昔 明治15年5月18日申付 明治1 6年2月1 5日 展

‑17d‑

(8)

賀陽郡

平野村 野村 広 大

太 EEl始 四郎

延 友村 ′」、野 八 十八

東 花 尻村 森安 骨大

西花 尻村 太 田直温

甲南村 難波 浦太郎

庭 瀬村 渡辺純

脇本変敬

川入村 犬養 当弘

美 金村 冊水 武平

藤 原延 文

藤 原 延 文

明治1 41 012日中付 明治1 518月19日依

E

免職

明治1 51 11 1日申付 明治1 6年2月1 5日展職 明 治1 41D月1 2日申付 明治1占年2月1 5日廃職 明治1410月1 2日申付 明 治16215

E l 展

聯 明治1 41 01 2日中付 明治1占年2月15日魔職 明治1 11 12 9日申付 明治14年9月2日分村原職 明治1 11 1月29日申付 明治1 21 11 5日依巌 免職 明治1 21 21日申何 明治1占年2月15日廃城 明治1 41 01 2日中付 明治1 6年2月1 5日尾瀬 明治1 11 12 9日申付 明治1 2年8月5 0日聯死 明治12年7月15日中付 明治 14年 9月2日分村廃 敬 明治1 41 01 2日申付 明治18年2月1 5日原戟

また,戸長職務の概 目は次の通 Dであ った。(8) 第‑ 1 布告布達を町内に示す歩

第二 . 地租及諸税を職 め上納 す る串 窮三 . 戸薪 の歩

第 四・ 徴兵下調の・S

A'五 . 地所 建物 船舶 質入審 人並 に売

に 奥宙 加 印 の畢 第 六 ・ 地券台帳の車

第 七 ・ 迷子捨児及行族病人変死人其他事故あるときは昏察署に報知 の翠 第八 . 火災又は非常の腰 Lで逝ひ 目下窮 迫の者 を異状す る卓

‑ 177‑

(9)

第九 ・ 孝子節妻 其地籍行 の者 を具状す る串 第十 . 町村 の幼童就学勧誘 の畢

第十一. 町村 内の人民印影薄 を亜倍す る郡 第十二 ・ 諸帳滞保存保管守 の蔀

第十三・ 官費府県 費に係 る河港道路 捷防橋梁其他修繕保存すべ き物 に就 き利害を具状す る専 右の外府 知事腺令又は郡 ・区長

b命令する所 の事務は規制又 は命令 qE依て従郡 すべ き事 .其 他町村

b道路棟梁 用

水の修繕掃除 等凡そ協議鎖 を以て支弁す る堺件 を幹理するは此K掲 ぐる 所 の隈に在 らず.

0明治1 6年12月15日,戸長役場 区域 や戸長以下の配置方法が改定 され,前の戸長一同は解職 し, 従来毎町村 に置Lnてい た戸長を町村 の

大 /

」、K応 じて, 1‑数町村 の迎 合で置 くこととしたO また戸 長役場

作用掛1名を置 き,戸兵役場所在村 を除 く各村 に村務用1名 を置vlたO そ して戸長 は県 令が選任 し,用掛はすべて郡 。区 長の許可 を得て戸長 が任命 したO

この改定 を将来吉備町 となる藤村 でみれば次 の通

D

である。(9)

賀陽郡

第1部戸長役場 (延友村 ・平野村 ・東西花尻村 を管幡す る。) 戸長役場 の位置 平野村

戸長 太 田始四郎 明治1 6年2月16日申付

第2部戸長 役場 (庭瀬村 ・川入村 を管轄す る。) 戸長役場の位碇 庭瀬村

戸長 中西政変 明治16年2月1 6日申付

第5部戸長役場 (真金村 を管轄するO) 戸長役場 の位 値 真金村

戸長 渡辺始太郎 明治1 6年2月1 6日中付 明治18年1月2 9日依願 免官 林康夫 明治18年1月2 9日任官

都字郡

第8部戸長役場 (二子村 ・山地村 ・西尾村 。日畑村西組 ・日畑村束組 ・矢部村 を管轄す るO) 戸長役場の位置 山地村

戸長 内田泰遣 明船 1 6年2月16日申付

第 9部戸長役場 (中瓶川村 ・下軌 I肘 ・大 内田村 を菅柏す る. )

‑178‑

(10)

戸長役場の位 駐 下撫川村

戸長 難波譲太郎 明僧 16年2月16日申付 明治 19年8月1 6

日死亡

間野 繁太 郎 明治19年9月2 5日任官

明治2 0年5月5 1日依願免官 林憐七 郎 明治2 0年 5月5 1日任官

〔) 町村制の施行 一 庭 瀬村 ・撫川村 の成立 ̲

明治22年6月1日,町村 制 が実施 され次の よ う

K

在 ったO す なわ ち下撫川 村 ・中撫川村 ・大内田 村 ・日畑村乗組 を合併 して撫川村 とし,従来 の庭瀬

に延 友村 ・平野村 ・西花尻村 ・東 花尻村・川入 村をあわせ て庭 瀬村 と したO撫 川村役場 は撫 川村 作 ,廃 液村 役場は平野 に置 き,合併 当時 ,D村 長は撫 川村が林供 七郎,庭瀬村が太 田始 四郎 であ った。

(現在の吉 備地 区 の町村 廃置分合 の歴史 をみ る と次に示 した如 くであるa

ー 179‑

(11)

表6‑ 2‑ 1 町村廃歴分合

下撫川町 (1割 Il) 中撫 川町 (撫川) 大内 EEl村 .・.(食感 ) 日畑村乗組 (帯川 )

中EEl村 (庭瀬) 中田村 の内庭 漸町 中田村 の内何時町

‑.̲:̲̲:I̲̲ ‑≡ ‑

̲ ∴ ̲

‑∴ ≡一

廷友村 (機尾) 延友村 (庭 瀬) 平野 相乗 (三須) 平野 村西 (庭 輝) 平野村 仲分 (腰 麻) 西托尻村 (虞 轍) 東花尻村 (庭 瀬) 中田村飛地

JIL^村 (庭 瀬) 宮内村 (庭瀬)

宮内村 (音場韓宮社領) (倉 敷県

‑ 撫川村 一瓶川町 ‑ (M22.6・1合併)(M57,6・1改称)

吉備町 岡山市 吉備 12・515合併)(S4占5・8合併 )

庭 瀬 村

‑庭町 ‑

2 i ・ 1 台

群)(M542占鮒

(M14・912分村) 宮内村

束金村 ‑

1228㈱ (独 11・4台併

)

版倉村 (磨 瀬)⊥ ‑

̲」

用人村 ‑

英金村 ‑ ≠

鹿町

(S4・8・1㈱

証) 『岡 山朋 晒

鼓 L

t巻)』 (岡山県 ・昭和.5年8月1日発行),5 4頁。 156頁 よ9転磯

‑180

(12)

明治2 1年4月 17日に布告 きれた法紳弟 1号K 上れば,町村会 の

決すべ き事件の横 目は次の通 りである。(10)

l 一・ 町村条例及規則 ヲ設ケ並 二改正3ル尊 一

I

. 町村 焚ヲ以テ支弁 }可 キ事業但第69粂 二掲 クル事務 ノ、此限 二在 ラフ

. 歳入出予井 ヲ定 メ予井外 ノ支出及予井超過 ノ支弁 ヲ認定 3ルtTl 四・ 決井報告 ヲ認定 メノレ事

五・ 法律勅令 二定 ムルモ ノヲ除 クノ外使用料手 政科町村我及夫役現 品ノ既決徴収 ノ法 ヲ定 ム

六. 町村有不動産 ノ売見交換譲渡並質入哲人 7為3畢 七 , 基本財産 ノ処 分 二鵬 .7ル串

A. 歳入 出予算 ヲ以 テ定 ムルモノヲ除 クノ外新 二義務 ノ負趣 ヲ為 シ及権利 ノ棄却 ヲ為 3恨 九. 町村有 ノ財産及営造物 ノ管理方法 ヲ定 ムル 鼻

十. 町村吏負ノ身元保 証金 ヲ徴 シ並其金額 ヲ定 ムJt・事 十一.町村二係ル訴訟及和解 三関ヌル串

そ こで明治25年 9月29日の撫 川村臨時村会LR串虫 を次に記 してみ よ う。 (11) 明治甘三年九月廿九 日鯨時村会議弔意

恵 良 拾窄名 内

出席人名 難汲特三 価 荒木周次蝕 太 田光五郎 公森広次郎 太 田多次郎 袖 同相一郎 難波伊三郎

平 川 源 曹 I >

欠席人名 岡 政 次 野 茂沼弥八郎 曾我孝 太郎

本 日午後一時開会議長蔚席訣長日 ク尋常*川,」、学訓辞 二異動 ヲ生 シ随テ給料 三彩帝 ヲ及 シクル ニ付臨時村会 ヲ開法 シ追加予井 ノ議案 ヲ凍 出シ タル所以 ナ リ議長又 日 ク姓 ヨ リ本案 二取掛 ル各 員 何 レモ第一二三次会共異動ナ ク原案 二決3チ時午後二時二十 分開場7

難波猪三 郎 荒木周次招 大 田光五郎 公兼広次郎 印 大田多か飴 印 蓮霊碧三業 印 平 川 源 盲

‑ 181‑

(13)

これでみ ると撫)1困一には当時目 名の村会議員がいた こ とがわか るが,それでは一 体村会議 員 とは 誰が との ように して

をb

得 た ものであ ったのだろ うか.

前述 の法律第1号に よれば

,

「町村会議員‑其町村 ノ選挙人其被 選挙権 7ル者 ヨ リ之 ヲ選挙 ヌ」(12) るこ とにな っている. そ して選挙 権 ●被 選挙権 を有す るのは町村公民 であ9,町村公民た るべ き条件 紘

,

「凡帝国臣民 ニシテ公権 ヲ有ヌル独立 /男子 二年来H町村 ノ住民 トナ 1)fj其町村 ノ負連 ヲ分任 シ 及 (∋ 其町村 内二於テ地租 ヲ納 メ若ク‑直接国税 二円以上 ヲ納 ムル者」(15)であるとい うことをので ある。

ついで明治2 5年度 岡山県 賀陽郡庭瀬村 の 「歳入歳 出予井議案参考

」 (14)竜

け て,当時の村 財政の一端 を知る手 がか Dとしたい。

陳者 明治二 十五年度 漸村之税歳入出予:̲#通常会 ヲ来ル本月廿九 日役場 内に於 テ開設致鹿候 間同 日 午 前九時御 出頭相成皮付テ ‑予算表及 明細昔相添へ此段及御 通知候也

世 ,成規 ノ議案‑開会 ノ節及御配布候也 明治二十五年三月 廿五 日

庭瀬村村 長 太 田始四郎 庭瀬柵 会議長

岡崎小太 郎巌

これVCよ ってわか る通

D.

次に掲げ る史 料は正規 の議案 ではな く,予算通常会 当 日までに村 会読点 があ らか じめ予弟を検討 で きる ようにとの配慮 で も って配布 された と思える議案 の 「参考啓」 である。

従 って史料 中棒線 を引V,て訂正 した

b

した箇所 もあ D,そのせ いか どうか予算額があわない所 もあ っ た。 そ こでそれぞれの項 目が全体 の中で 占める割合 を求めることは断念 して.歳入歳 出が どの ような 項 目か らな ってい るのか,またそのお よその金額 はい くらかを示 してみ よ う。

岡山県繋船都庭 瀬村明治2 5年度歳入 予算議案参考甘

塊第1款 使用料及手数料金 D 第2款 雑収 入金 1 14円8 0銭

1・ 小学校授業料金 108円 2・ 雑収入金 (売尿代金) 8円8口銭

5・ 土木費雑入金

0

4・ 役場推入金 (売尿代金) 2円 第5款 前年度繰越 金見込類 45円

4款 地方税補助金

0

第5款 寄附 金

0

第 占款 国庫地方交附金 25円 1・ 国犀 交付 金 1 0円

‑182‑

(14)

2. 地 方税 交 附金 第7款 村 税金

1. 地価 割 金 2・ 営英割金 5. 戸 別割 金 4・ 反 別 割 金

合 計 金

15円

2 0 0 5円5 8銭 8度 1D83円7 7銭2厘 占 5円5 7銭5厘 5 占7円9 2成 487円94鏡 1厘

2 19 1円8 0銭 8厘

岡 山県 賀陽 郡 庭 瀬村 明治2 5年度歳 出予井領案参考郡

第 1款 役場費 第1項

1. 助役 給 料 2. 番 記給 料 5. 収 入 役 給 料 4. 使丁 給 料 第2項 雑 給 金 1・ 旅 費金 2・ 報酬 金 5・ 実 費 J・ 同人 料 金 第5項 ':B用費 1. 備品 費 2. 消粍 品 焚 5. 一賄費 4, 通 信遥搬 費 5, 雑 費

4項 常時修繕費 第2款 会議費

640円2銭 2 9 1

70銭

dd円 6 0円

8 0円 10 5円78銭

2 5 7円4 4&

18円 16占円

19

2 0銭 5 4円2 4成 1 4

5円

7 0威 8厘

5 8円4 7銭 5 8円7 3戯 28円1 0銭 4円 2 口銭 1 9円8口銭

5円 28円2 0戯 1, 議員契費井倍板金 11円 2. 寄 託 給料

5. 消耗 品 費 4. # *

5円72鏡 五円50銀 5

・・一・・183‑

(15)

第 5戯: 土木費 1. 道路 侮繕 糞 2・ 橋梁 修繕 費 5・細川夜藻費 4・ 嘘管 5. 堤防倦繕

第5款 土木費 2の部 1. 道路 侮繕曳 21 提防 修繕 塑 5. 軸川政雄焚 4・ 樋管

4款 教育費貸金

1 小学校蛍村税補助金 第5歌 衛生費

1. 伝染病予 備品費 2・ 雑費

第6款 救助費 1・ 行旅病者 費 2・ 他政 党 第7款 督 備吏 1・ 水防費 2. 消防餐 5, 番 備費 第8款 諸税及 負担金

11合 半聯 合 焚 2・ 4ケ合 聯 合 餐 5・ 本部銀合金戟 4・ 12ケ合聯合 焚 5・ dケ合 併 合 祭 ・ 葛等小学校組 合 費 第 9款 村公債資

1[敬 雑 支 出 第11款 予 備費

合計金

2 9 7円56鎖 5厘 7 8円2 4銭7厘 4 2円.5 8銭5厘 6 19 9銭 4厘 1 0 6円 2裁 4厘 8円6 9銭 5厘 12 9円 1鎖 2厘 8円4 4戯 5厘

dD銭 25円9 8銭 9 5円9 0銭7厘 485円1 6銭

4 9 9円5 6銭 55円2 0銭 1厘

5円

2 8円2口銭1厘 2 1円

5円 12円

9 5円 5円 12円 8 1円

5 5 5円90銭 7厘 55円4 4銭 9厘 2 4円6 9奴 4厘 5 6円7 9銭 5 5円4 2戯 d厘

9円95銭7厘

0 0

2J円

2 18 8円占 8銭5厘

‑184

(16)

F )

まとめ

明治22年 占月の町村合併に よb成立 した賀陽郡庭瀬村 と都字郡撫JII村は,明治55年4月1日の 吉備郡 ・都窪郡 の成立VCよって,吉備郡庭瀬町 ・都塵郡軌 "町 と改称 されたが,昭和1 2年5月再び

町の合併 に よ

b

都窪郡吉備町が発足 した。

明治5年 に始 まる画一的大区′」、区制の施行は

,

旧来 の地方組織 を打放 し地方団体を して国家行敵機 柵の一分枚 とする要求を も っていたが,現実陀聞 く根をおろ した旧来の村落構造 を抹殺することはで きないことであ ったOその対策 として登場 したのが郡区町村編制法である。従前の区画は廃 され,各 町村 Kは町村公選の戸長がおかれ,布告の伝達 ・地租の上納 ・戸鵜 .徴兵の調査にたずうわ ったO明 治1 6年の改定によ9,連合戸長役場の設置や腺令に上る戸長の適任が行 表われ るこ とと在るが,明 治22年 には 「区町村力人格ヲ有ヌル ヲ詑 ムル」(15)ところの町村制が施行 される作至 ったのであも

(1) 『岡山県君瞳 誌 U=巻)』 (岡山県 昭和.5年 6月 .日発行)154頁・156頁に よ るo

(2) 『岡山煉政見 (明治 。大 昭和前期網)』 (岡山県,昭和42年11月1日発行)107 頁の太政官布告第1 1 7号 よ

b

引用O

(5) 『岡山県郡治誌 (上巻)』 .59頁▲・,dD頁K よる。

(4) 『岡山県郡治話 Lt巻)』 ,‑ 頁

(5) 永山卯三郎鏑 『吉備都度 (下巻)』 緒 薯 出版・昭和4 6年 9月28日発行)4 ,8 5頁 忙 よる。

(6) 『岡山朋 瞳 誌 止 巻)』 226 ・22

8

。229 。24902 51。252の各頁

K

よ る。

(7) 同上, 5 5 7頁。5 56頁 による。

(8) 『岡山県政見 (明治 。大正 ・昭和前期

桶)

』 . 15頁 による。

(9) 『岡山県郡治

u 巷)』 45 7頁。445頁vcよる。

(.り 『岡山県政見 (明治 ・大正 ・昭和前期劉 』 ..d頁・..7頁の法律第1号 「町村制」

第55条 よb引用。

(ll) 『明治25年9月29日hJ榊 臨時村会諌草魚』 (旧著備町役場史料) よb引用 (12) 『岡山県政見 (明治 ・大正 ・昭和前期

騒)

』 1日 頁 よb引用

(15) 同io

(14) 『岡山頻 賀陽郡庭瀬村 明治25年度哉入予算鼓泰参考

凹 岡崎棄民所蔵

(15) 『岡山県都治誌 Ct巻)』 490頁の太政官布告第15 0号 (明治 9年'0月) よb引用

(谷 野 良 子 )

‑ 185‑

(17)

第 7 葦

経 済 構 造

1, 農 業 の 発 展

0

農 業 技 術 と生 産 力 の 発 展 は じめ

この項 目を考察 す るVCあた って笛音すべ きこ とは 曲集技術の進歩 と生産77の関係 で あろ うo盲 代社会に も・いては農業技術 とはいえ,それは生産 を可能 にす る必要不 可欠 の手 段であったハ それが 今 日では,土地47.在位 .労働生産性を高 め るためで あ9.あるい比姓産物 の晶 賓を維持,改 良す る 上で時代的要諦 として進歩 して きた

O

「生産力」は生産 の絶対長 と してでは な く, V・か VCして効翠 エく生産を可能托す るか とい う 「生を牲」 の高さ と して考え られ るo従 って,土地生産軌峯 を高め I 省力化す るこ とが 地 力を高め る上では.現乗 の日原 とた るわけで あ るo さ らVC生産 力 の発展 払

ただに座薬 の視点か らでは7kく(つ ま り.農業技術 の進 歩の結果 としてでは な く)経済 を支 え る諸 々の産業の一分野 として .他産業 の進 展 との関係 の甲で,不 可避的 vzc結果 され てきたo 生産力が発 展 した, あるいは発展 せざるを碑なか った t.との畢田 は.科学 と,笥二次,観三次壷井等 との相関 的繁栄 vC伴 う曲集技術 の進妙 のみ走 らす.産 だ棚遇の変化 vc上る労働 力の移 軌 生産物 の社 会的電 束等 々,その背紫vL'あ った社会経済状況 に も大 き く影響され てい る。具体的 には,良美 構造 の変化, 典薬耽菜構造 の変化 として現われ .前者 にあっては従来 の零細経営,地主制 か ら経営規模 の拡大,

共同経営, 自作地創設 ‑ と,後者では曲薬就業者の年令別補 成 ,曲家人 口,鹿家 戸数の変化 と して 原著 になっている。 こうした ことを考慮 しつつ近年の盛業技 術の変選 をみ. 生産 力の発展 を技術及 び時代状況 との関連 の甲 で考えてい くo

(a)曲集技術

(1)水稲 栽韓に おけ る品層の変遷

明治後期か らか ってなか ったその多収性

によ

って高い普及輩 を示 した 「神 刀」 は.岡山県に かい て大正 1年の作付南街琴は57・2罪を占d)た。 しか し,大 正 9年 には2占87D,昭和14 年vcは0.5% と淑少 してい るO舌備町iL小 では大 正ID年頃まで有力晶健で あった。その後

「神力」

エD

も良質で,耐 病性 VE依れた多堺棲品 原 の 「朝 口」が普及 し,岡山県の場 合.昭和 14年に 5 5・470, 20年に 4 0.570. 2 5年 に5 7.570と非常 に高い普及率 を維持 して きた。

この 「朝 日」 も昭和55年vcvi,繋一・位の座 を 「7ケポ ノ

に奪われ た

.

「7ケ'k'ノ」 吐以 後, 安定 した普及 を し, 5 0a/O前後 を保 っている。

岡山県の水稲 奨励離 層の変選 をみ ると.葵 7‑ 1‑ 1の通 Dで あるO (統計 に現 われた奨励 品席の うち.栽培南棟軍が各年毎vc笥三位 までVC入 る品種 を抜 き出 した。 )

̲ 187‑

(18)

表7‑ 1‑ 1 水 稲 奨 励 品 GEtの 変 速

荘 ) 「水 陸帝収笹 盛 累年統計智 」 S. 45. 8 姓林省 岡 山統 計調査事 務 所

盲備町で

,

「朝 日」が栽堵 され るよ うにな ったのは戦後で ある。昭和5 017・'‑頃か らは 「7 ケポ ノ」 も栽輯 され始 めたo昭和55年鑑の吉備町水稲雌子更新状況 をみ ると菓 7‑ 11 2の通

D

で あ る。

表7‑ 1‑ 2

朝 日 あけぼ の 美保鏑 姓林2 2号 しののめ栴

更 新 種 子 畳 15 0斗 5 1 14 4 7

(参考 ) ′J\西 部落vCおけ る水稲栽♯実態

(S.

54)

朝 日

けぼの 黄保鈍 大 正措 無記 入 吾十

荘 ) 「吉備町におけ る常盤の実態 とそ の検討」 吉備 町典惨組合

S.

55.3 エb この乗 か らみ ると

,

「朝 日」 は栽培両横翠が煉全体 では減少 しているのVE,以然 として更新優 子丑 は大 きい。

ま た附和55年産及 び5 4年産の品種Btl出荷数丑 をみ ると.

‑188

(19)

表7‑ 11 5 水 禰 内 局 洲 出 荷 教 法

5 5年産 54年 産

朝 日 2,7 58僚 朝 日 9.9 78俵

山 m 錦 2 1 7 ケ ポ ノ 4.7占 8

柵 1,5 16 棄 保 錦 4 5 1

朝 日 9 4 5 千 本 旭 5 0 0

シ ノノメ 2 28 Bt林2 2号 20 0

大 正 8 7 夕 映 106

広 島 4 0 日 之 出 選 7 7

岡コ トブキ山 151 そ の 他 55 6

法 ) 「舌備 町にかけ る営農の実態 とその検嗣」 S.3 5上り

55年か ら5 4年 tR:かけて出荷数舟 が4倍

VE増加 してい るO 殊

「朝 日」 綻,id倍,出荷 のみ られ なか った 「7ケポ ノ」 は約5 0欝を占め るに守 ってしハる。

硯包 栽培 されてい る主 な品握は 「7ケポ

J

」 と 「ヤマ ピコ」 で あ る。

(2)苗代 (育 苗法 )

苗代は5月10日頃 を甲心 vc作 らn. 1 5日以前 にはほ とんどの鹿家が作

b

終 えてい るO現在 とられている方法 として扱,

か育代, あぜ苗代,水 薗代,畑苗代 .折衷苗 代,豊作 苗代 な どで あ り, 1畝 当 b約1 0kgの藤庫丑であ るO

表7‑ 1‑ 4

代 形 態 (小西

S.

3 4 )

点 数 l 25

任 ) 「舌備 町におけ る常典 の実態 とその検

エb

表7‑ 1‑ 4は小西 部落 の場合で ある坑 水苗代が蚤 も多 かったO現在 は苗代 を作 る鹿家は少 な く, 直播が約6割 を占めて い るO また,保温新凄 苗代.通 し苗代 慣 熟苗代 な どはほ とん ど利 用 され てい たho

(5) 水田の耕 起,整地作業

水田の桝超は.伝統的な牛鰍 (唐禦 )を用い る牛緋 であった。 これVCは備甲鍬 が使用 され, 田 起 しVC大 きな役割 を果 してい る。 牛併紘大 正末期 まで統 いた.そ の後,動 力耕 転駿 トラク jZ‑ 杏 逸速 く導入 す るこ とに エって機械化は進 んだo Lか し農業の機械化促進 vCは農 道 の奄傍 .良地 の 区画整理の推進,盤地集 団化等 の土地条 件 を魯備す ることが必要 であ った

「吉備 町にかけ る営 農 の実態 とその検討

忙 よると,水稲本B]の増収を阻害 してい る技術的要因 と して土地 問題vc か

いては 「①土 地が多価多様 であ る。⑦耕地亜理 がで きてい ない。①多毛作 Eflの割に腐植.が少 ho

④ 耕土が浅す ぎる

」 な どをあげ てい る。 自ガ的賓因 としてVi④ vE関 して 「腐植が少いためVC底

‑ 189

(20)

土が締 まって深耕がむつか しい」 こと,人的要 田 として 「深耕す ると稲 ので きす ぎを恐 れて

ヤ9

に くい」 ,経営外的嬰因 として 「耕転機 による桝串 に頼 るか ら連年柳土は湧 くな る」 ことなどを あげてい る。 そ して技術的項 因 に対 す る対策 と して県有大型 トラク クーの使用推進が 考え られて いた.

表7‑ 1‑ 5 耕 転 概 の 所 有 台 数

駆 動 型 耕 転 糠 牽 引型耕転横 .トラクタ ー

年 次 総台数 台 数 他人有 共 有 台 数 個人有 共 有

55 570 5 64 521 45 6 A

4(

8 0 8

17 7 166 l l 4 3 1 4 11 20

任 ) 「世 界農林英 センサス」 エb

昭和4 5年 の統計 払 「動力耕転椴 ・姓用 トラククー」項 目の数 字であるか ら,恩動型 と牽 引塾の桝転機 の台数 は明 らかで仕をいが.耐用年数 を平均5年 と考え ると. 昭和45 年の時 点で 払 牽 引塾が ほ とん どで あると考え られ る。

表7‑ 1‑ 5をみ ると,昭和壬5年で は,廊動型耕転機 の台数 は,牽 引型 をは るかに上回 り, 9 8・4ヲ岩を占め る. この駆動型 の特徴は.,」、属九 汝桝性 ,嘩能性 等 であるが.牽 引塾 も汎用性 はあるが馬力は5‑ 10を甲心 とす る′」、型 であって,深耕は困難 であ るO 先の,探耕化対策 と し て上げてい る大型 トラクターの導入に 上る解決熊 も.経営 の共同化 .協業化 VC結 びミル、た共同利 用体制 の下でその横 能は十分VC発 揮で きるであろ うo

聯和5 5年〜昭 和4 0年vcかけて耕転撤台数 は8 4・570の伸 びをみ せ てい る。 この時期は早業 盤家教 の急題 を減少期で あり,逆

に兼

業兵家数,殊 に第二億難美食家教 の増加期 であるo 耕転機,

トラク クーの普及状況 をみ ると.姓家100戸当 D,脚和55年に 45台, 40年に 74台.45 年に 7 4台 と在 ってい るO経済 の高度成長vcよって,安価 な労働力が都市‑流入 した ことや,工 業生産の発展 が,虎薬 の兼桑化 機械化 を促進 した と考え られ る。そ して戦前の機械化が定置作 業分野で進め られ,戦後 は管理遥澱作集分野で主 vcなされたので あ るが ,特 に別伝 過程 と病虫等 防 除面 が機械 化 されてい るo耕転御 人 による余剰労働力 の発 生か ら,月陳 鹿家数が増加 した と い う上りも. む しろ兼美化 す るた め

(柴本主燕的生産関係の甲で,前近代 的奇兵美経営の零細 性か らくるゆ きづ せ りが背景に あ るのだが )機械化 が必要 とされた というのが一般的傾向である

と思われ る。今 日では耕起,代掻 ともに機械力 で全 て作業 をしている。

(4)田植方法

正条椎が取 り入 れ られたのは明治4 0年境か らであるが. それ以 前は正三角形 の頂 点VC稚え る 白

に 上って楠え られ ていた 上うであるo正典租 で仏 経 縄を一方向vc張 D,その縄 に沿 って

8

寸 5分間隔 くらいVE植えてい くo これは・E)の草 取Dvこ 爪 を使用 してVlたL;Bと比べて, 田打車 の番人 VC有効 な植 え方で あったため取 られた方法で あ る0

‑190‑

(21)

直終止昭和5 5年頃か ら普及 し始めた。 粧稀の時期は5月末〜占月 にかけてであb, 苗代 を作 る場合 (5月10日前後)に比べて約半月の差が 参る.Ell椎 の時期 がほほ6月2 0日以降 である ことなどを考 え合わせ ると,作業 日数 吐大 巾に盈締せ られてい るo直好 の導入 によって除草作業 は良薬依存VC傾 き.刈取 り仕 コ二・パインに頼 ってい る。 労働能率 も反収 も高い直播 方法 は,現在 水稲栽培両横 の約6割 を占める忙挙 ってい るo 田植機 は, 昭和4 5年 にわずか2台 で ある これ は経営規模 の零細性 と.田植榛 の使用 VCよる労軌効率 が必ず しも高 くたい t.と.機械使 用の不経 済性 な どのためであろ うO

(5)除 草

田打卓が よ く使 われ出 したのはtF̲発根女性 じめてから約5年後 であ D, それまで は転爪が多か った。 その後 .EFfT車 は, 当初め l5‑ 20cmの爪 の ものか ら2‑5cmの爪 をも , 2筋同 時 に作美ので きる高能率の両尚式 のものに変 ってい った。 その後,手鰍が使用 され るようVr̲売9,、

これ を使 って平均2臥 この参と残 った草 を取

b

去 9,地面 をな らすための手塗

b

を5回行 って い る.昭和5 4年の小西部落 におけ る除草状況 は表7‑ 1‑ 6の逸 bo

表71 1‑ 6 除 草 方 法 (小西 )

①除草機 に よる除草 ② 2‑ 4‑ I) ⑤手取 b

1回 1

2 10

5 1 1

4 8

5 8

使 用 5 5 1 回 7

不他用 4 2 2

無記入 2 し

9

5 9 無記 入 2 1

3 9

無記入 1

5 9 位 ) 「書備町忙かけ る営虚の輿態 とそ の検 討」

エb

この数値か らみ ると.手取

D

のエ5な疲労 の大 きい,労働能率 の悪い方法 は少な く,曲率 に よ る方法が圧倒 的であ る.良薬の使用 は雑草 や.後忙み る病虫等vcよる淑収 を防 ぐ意味で土地生産 性 を高 める一方,除鼻や病虫脊防除に録 や音九 も労 幼淀 を醜少させ,労働生産性 を高 め る目的 も あったC 除草剤の使用VCよって.除草 に必塾 も蹄 働時間綻約 5分の1忙鱗 ってい る。 今 日,除草 機 に 上る除草,手取 り(・iほ とん どみ られ なV'。 ひえは手抜 きに よってい る.

( A )

施 肥

肥料 と して環 も古 くか ら使 用 され ていたのは人糞尿で参るが,大 正期 か ら範 職 に李 るまで仏 に しんかす,豆かす,綿実 かす, なたtl,抽かす等が主で あったo K しん かす紘豆 かす以前 に使 用 され, 19 5 0年頃まで続い たo北海道か ら多 くは送 られてきた もので あるo 綿実 かす は

輸入

vc上るもので あb,戦後絃ほ とん ど使 用 され ないが,現在で もい くぷん輸入され ている. 軌後の 物資不足 の状勢下 に†L 人糞尿がか な b使用された.堆肥 の使用は賊徒 も銃 いたが, コンバ イン の利用が盛ん になると,稲 の刈取

b

後,直 も忙茎は榔か く刻まれて田‑還 元され るエ うになった0

‑ 191

(22)

戦後,わ らVj:用途が多 く,重宝 であったが, コ ソ/(インの場 合は肥料 として

りも単 なる処理 の 要素が強い。 昭和5 4年の小西部落 の場 合 をみ ると,元肥 としては堆 肥が倍 も多,県水稲4号・

組合有樺配合肥札 硫 安が これ に続 くo追肥は億的 忙少 く.硫安,県水稲4号,塩化か )ウムな どであ る. また,れんげは緑肥 と しては使用 されていない。

昭和55年の 「書備町 にかけ る営農 の集態とその検討

」v

t上ると,化学 肥料 の普 及に エって,

1. 地力の低下は 自他共 vC認 める ところであ る。

2.耕土 のいきづ ま りを感 じてい る.耕転機の表土彩艇 を何 らかの手段 で深耕 (8寸以 上 ) (I(して も良い ので「tたいだろ うか0

5. 化学 肥料 のみの施肥技術でな く,土を作 ることを主 眼 にかいての施 肥法が綱み 出されて もvlhのでは なから うか。施肥 の うち有機物 の点vcつい て払 半数が切わ らを髄 して L^る。

有機 物の補給 について

一層

の努 力をこうものであ る。」

と記 してい る。 肥料 の選 び方 の悲 さvL 化学肥料 を単用 す ることや, 多種 多様 の肥料 の存在が.

かえ って選択 す る場合に不適切 な結果を解 き易いことな どに表われ る。施 肥壷 も自分最 に 上るこ とが 多 く

,

倣 い過 ぎの綿向が あるO 施 肥朋間が適 切でないため,災苛 を軽滅 できたい ことも度 々 であ る し,施肥法が惑 い と,肥料 がWL亡 した り,脱窒現象 を起 こ してい るO これ ら忙対処す るた めVtVi,各肥料 の有性 ,病虫軍 との関係,使用方法等を知 ることが必要 で あるo

(7)病虫等防除

稲 の病等の主 なものrL イモチ病, 白菜枯病,歓枯病 の三者 である。 イモチ病 の発病条件 払 特 vc窒東追肥の状態 で,出来過 ぎの稲 rL充填̲しやす い.窒素過 肥は,耕土 が浅い場合 には肥料分 布 も浅 く,根 も浅 くな るため に生す る。従 って,対策 と しては深耕 す ることが必零になるo また, イモチ病 は空繋伝染 をす るため病原菌は種 籾やわ らに潜 在す る.倒籾 は渦巻す る必零が

り, わ

らは焼却又は

堆肥v

Eすれば開店 は ないが,近年み られ るような堆肥 の少 ,tい傾向 は病原菌の横波 を的難 に してい る.種 籾の 消怒 れ 普通 VCは,

液浸軟 消栂法 を用い,渦巻用水僻剤vcは, ウス

●ル y, リオゲソ.錠 剤ルベ ロン. PMFなどを用 いた.昭利 54年に慮粗 消嶺 を した放家は, 7 1・870(′ト商部落 )であ り,消唾 しない鹿家は1乱 80/0,風 呂vcつけた (塩酸硝埼 )出家は 2 60%で あるO現在は, ウスプル ン, サ ッセンが消せ剤 の主節で, 5月初 め凪 1‑数 日浸 して い る。

白菜枯病 の発 生 しやす いのは暖かい地域,低湿地,台 周 の多い地域7iどが特vtそ うで あるれ また肥沃 な沖耕地vEも発rEす るo旭 系の品腐 (千本 旭等 )は弟 い. イモチ病 の場合 と同様 vtか ), ケイ酸 を充分 VL与え る必要が ある。 これは歓枯病 vcついて もいえ る。 か っての ようVC苗代作

D

の 多か った頃は,苗代 の育苗期が長 すぎて,苗が軟弱に伸 (jす ぎ.そのため旗抗性が弱 くな D, イ モ チ病にかか る場合が多かったo直体 の普及 した最近, この点は次第 に間昏 なくなって きてい る が,それだけ に球板消帯 と適切 な肥私 防除,それVEわ らの処理 が徹底 されねば な らないo

薬剤防疫 vCは噴蒋防疫 と微粉防疫があるがP)力噴 痔椴 と動 力散解繊の普及状態か らみ る と,最 近は後者 が多 い。

‑192‑

(23)

表7‑ 1‑ 7 動 力 防 除 横 の 普 及

年 次 総台数 普及率(A) 動 力 項 瑛 機 動 力 散 研 機

台 数 個人有 共 有 台 数 偉人有 共 有

5 5 12 1,5

5 5 16 1,9 1 0 8 2 a 5 5

40 5 1 占.2 4 8 8 4 0 5 2 1

江 ) 「吉備町VCかける営姓の爽態 とその検

」 , rtLi界農林瀬 センサス」 エD

昭和4 0年 には,動力頃宙掛が, な751で も共有台数が多いが,噴霧鋲は労働 を多 く零 し,機動 的 でたいため,共同防疫vcは適当で仕恐いo Lか し薬静鹿 が経済的1,燕削効果が高い (燕剤が 落 ちに くい )ため.他人防煙 に有利 である。 この能率は. 1日VC8 0‑ 10 0 aで 参 る. 昭和川5 年 には,動 力味虜機 の個人有台数 と,動力故切横の伸びが苦 しい.助力故紛横の背負型1人用 は 個人防疫に適 し.作美 能率は10 0a忙 5 8‑ 40kgの薬剤を5 0‑ 40分で散耕 しうるo大型 の ものVCなると.10 0

a

を10分強 で散掛す る。

動力散粉樺の普及宴払 昭和4 5年で払 4 71157乙で あるれ その導入に エって作薬時間は大 巾に短郎 れた。助力噴年機の IT,〜 前 の高能率であるOこうした慣向払 雛 述 べ る姓集 労働力の変化 機械化 とも関連が あるので

,

各 々の項 を参照 されたい。

また早生稽水稲vcは雀が群が り易いため.煙管器. ビニール防雀網 を使用 してい るO早期栽韓 の利点 として,ニ化娯虫や秋 うんかの被等を免れ ることが あげ られ る。

(8)管理 ・水利

舌備 urJの水利 は兎一輝半及び薗 一都半 の主水路 と.塵肺 水臥 親 日水路,平 野水路,社友水路

に負 ってい るO 度 々の畢魅にみまわれ る一方で,平埴地形 のため排水 も不 良であ ったが,略窮 水串英 の完成vcよって,乾田化 し 一毛作田は完全に二毛作招 となぅたO これ性病等対 策 と し

て も,

作 (僻に小変 の場合結穴播裁格 を落易化 した)可f).E地になった点で も, あ るいは機械の 導入の上で も有利 であ り,作薮 を能率的に してい る

O

頂 一細半用水土地改 良尊喋 計 酎

f F

」 (S.

5 5)では,確執 排 水 を目的 とした ものであ るが,完成後は湿n]の乾田化. 皐舷故

商研 870 を0%に,水稲の反当収鮎の0・1 5石の増収 を見込んでいる。 しか し最近 の二毛田の減少率の高 さか らみ る と(第7‑.1‑ T5),用水,略史排水は,早魁 回避 と良作集合理化 に貢献 しているエ

うである。詳細は 「水利tR行 と鹿渡用水」 の項 を参牌 盲れたho (9)収艶 脱穀 ,乾晩 調壕

稲刈 りは

,

「の こぎDが

」に よる辛労勤が重雄 である.近 範 動力刈取乱 コンパ イ/等 の

♯人に

エ9.

能翠Y:i向上 してい るo動力刈収鼓の全刈取作典 (娘 兎 結束を含む )の作菜能率yL

「かTi」 の場合の1,5‑ 2.0倍 で しかない。 しか し,作業綻楽で ある0 10

a

当 D,平均5‑ 4 時間を畢 している。

‑ 195 ‑

(24)

襲 7‑ 118 櫛 刈 取 機

脱穀 方法は,大 正初期か ら戦後数 年 閑 は足踏 み式脱僚機 が 主 で あ ったO それ以 前 は, 千歯,逮 帆 徴打 台 が用 い られ たO 昭和 抑期か ら発動榊 に上 る動 力脱穀機 が導入 さ れは じめ,昭和5 0年 頃 か らは 自動 脱穀機 も普 及 をは じめたO 石油発 動機 は昭和2 5年に 7 5 9台 で8 5・8ヲ岩の沓 及乳 5 5年に 757台 で 8alヲ岩を示 してい る。助 力脱救 機 は5 5年5 6 6台 で,沓 及率 はム 5・970 で あ るO この数字 は恵外 に低 く思 われ るが,共有台数 が5 5台あり,利用漁 家敏 は ほ とん どでは なか ったか と思 われ る。

乾燥 方法 につい て は, か っては迄 の上VC広げ ,天 日で施 燥 させ ていたが ,一皮 出す と.約5E] 間 くらいは要 す る状 態で あ った.小型 通風 機 は,旧来 の 火力乾 娘槻 にかわ って取 り入 れ られ, 昭 和5 5年2月vtは51台 普及 してい た。 軽 費は1台 当 り4万 P】で あった。 昭和4 5年 の乾換総台 数 は4 5ム台 で普及 率 は5 占,8罪であ るOが,新 し岬 兼業 介瀕 VE従 うと,兵家数 は5 5 5戸で あ り,その場 合 は82・2%で, かなり高ho 乾 換敬 を便 関す る よ うVCな って以来, 乾燥作業 が天 瑛 VE左右 されずKす み, また必 賓労働 時間 も短 赫 され てい る。 籾米 の乾 燥 たけで 7tく.両 軍 の乾 燥 等 vcも利 用 され てい る. 作薬 能率 は, 10伐 を約 5日で乾燥 させ る.

籾槽 作業 机 古 くは 「幸ね

「木 うす」 で籾槽か ら柑 白iで一貸作業 で あった. そ の後 うす ず り法 VEよる エ うに な り. 大 正10年 収 までは, 直径約 1mの木穀 の うす を,牛 に引かせ て回転 さ せた 阿転棒 か ら8字 形 にベ ル トを連 結 させ て軸 力を伝 え て, 回 していた. さ らVC,土 うすが導入 され.昭和 2 5年境 まで利 用 され たO 土 うす vi,直径5 0‑ 60cm,原書 10‑ 1 2cm,重 さ55たgくらいの上 下 両 うすか らなD.上 うすの横木 に軌 木 をつ け て上 う寸 を回すn 雨 うナ の, す り而 吐木製 の歯が 並 び. 歯 のには粘土 をつめて歯 を固定 す る。籾米 を上 うすの穴 か ら入 れ.

腕木 で回す と.粉米 は玄米 と.籾が ら忙分かれ, うす の外 聞か らで て くるこれ を と うみ にか け て玄 米 を選別 す るの で あったo 土 うす 忙 上る能率比 .‑^ 用 の もので, 1時間 当 り1 5 0kgくら い で あったO 昭和5 5年 の動 力籾滞積台 数 は.他 人有5 7台 ,共 有4 0台 の計9 7台 であ るO こ

れ は動力脱穀 段 が5 日 台 で あ った こ とか ら比べ る と非 常 に少 いO今 日で vi, ロー ル式 の全 自動 籾 摺嶺 に 上る もので, 作薬能率 は ,大型 の もので1時間 当b l・5‑ 2・O tで あるO

(b)蝦 生産 力の 発展

盛 業 生産 力払 その 生産 柵適 が どの ようで あるか に 上って大 き く左右 され る といわ なけ れば な ら ないo 良薬 生産 力 を規 定す る電 束 と してVi,生 奮手 段 としての土地, 機械 等及 び労働 力で あ る。 こ

の項 目では水稲 の生産 vC関連 して,生産 力 と生産 構造 の関係 を考察 してい く。

‑ 194‑

(25)

(1)姓薬労勘力の変化

人九 番力 を甲心 忙 し7tか ってD姓薬か ら.取扱 の機械化 プ‑ ムを経 で きた今 日,点茶の主体 で ある労働 力vi省 力化に向 う甲でどのエ う左封 じをみせてい るで参ろ うかO

7‑ 1‑ 9 敬 叢 の 鼻 家 政 の 動 向

諒 ‑響

昭和2 5年 55 一 n 4 5 盤家 稔数 8 8 5 8 5 9 8 2 7 80 5

脊梁良家 5 5 1 5 5 6 149 10 0

兼弟妹家 5 5 4 5 05 67 8 7 0 5

罪‑遍 2 [l4 5 24 587 5 15

任 )

「世界叔林業センサス」

上i )

表7‑ 1‑ 9か らみ ると,出家株数 は淑少栢向 をみせてい るO殻か でも,卑罷典家の蔽少は息 故で 奉って.昭和55年〜 40年 の間 には約 58%の滅少で ある.一方で朗 軽業塊家が増加 して

囲 7‑ i‑ 1 専 兼 業 別 姓 家 教 の 推 移

5OOl

400

I .

. . て CI.C2I 掛 一価 兼薮 :.第二価発光 ≦.

, ′ . 、一 一 ノ 車 .

C‑2

′ 、 /:

500 C ∴ 了 ./了

■ 、 ■

C1

2LJDl

1

00. 二 ̲′ :ノ ′・′二.′

l ⊥一一 ‑I.I

b l

1

9〔

1

1

5 20 25 割〕 55 40 45 50 55 d〕 ム5 70 数年 (大

4

) (大14)(陶5)

(昭

25) (剛 5) (昭45)

(26)

か D,昭和5 5年〜 4 0年 の間 には約5 5茅の増 加がみ られ る。 そ して先兵鍵家のなかでも.昭 和2 5年〜 4 0年 vCか けては第一級 第二 鍾兼菜 とも増加 してい るのに, 昭和4 0年〜 4 5年 忙 かけてri,第二億兼桑血家は依 然 と して切 口してい るが, 第一便瀬薬曲家 政は減少 してい るO こ れは,専業 か ら兼題化 した良家 の多か った昭和40年頃すでに比へ 飯井鹿家数 の さほ ど増加 し ていをい40年以降は,表7‑ 1」で見 るようVE兼薬 良家の うちで も, 2 5年〜 5 5年 にかけ ては 増加翠の鈍か った第二億派兵 姓家が大 巾に増加 してvlる (つ Tib, 40年tでは曲家の兼業化 が新著 であ ったが, 4 0年以降 は第二席兼美化が進んだ とい う)ことで あ る。

表7 ‑ 1‑ 10

尊来薬

別姓家政 の割合 (狗

年次

大正1 6 l l 昭和2 5 5 5 4

0

4 5 専業曲家 da 5 8 4、5 8 ま 9 62̲5 4 1.4 1

aO

1 2.5

兼業鹿家 5 1.5 15.5 1 d.1 5 7.7 5a 6 8 2.0 8 7.5

読‑ 倭 2i 1 57,7 4 6.8 5 9.0

第二種 14.7 20.8 5 5,2 4

a

d

法 ) 「現勢調査 簿」 及 び rtLr界農林英 センサス」

り作 成

表7‑ 1‑ 10か ら明 らか なようvc肺和4 5年 vcは兼英鹿家数 は,出家 総数 の8 7.5罪を占め るK章 ってい る。 しか も筋二価兼 簸曲家政 が約半数 の4 8.占%で ある。

ところで,図7‑ 1‑ 1か らみると,大 正5 ( 19 14 )年 忙姓家総数 紘教練 してい るO大 正 2年に 885戸であ ったのが大正5年vcは, ム 8 6戸と2 2.5%の減少で あるo啓発良家の叔少 奉は7・7欝で あるが,兼集鹿家は実に 5 4 5貫の散滅ぶ Dであ るO これはなぜであろうか。後に 土地 の項 目で も考察す るが,大tF̲2年〜5年にかけて,所有耕地が10反未満の鹿家が減少 して い る反面, 1 0反以上 の鹿家は増加 してい ること,‑fた戯作 耕地か5反未満の腹家 が相加 してい るのVC比べ, 5反以上 の曲家は滅少 していることか ら推察す ると, 自作曲か ら′ト作人 vCか な りの 移 動が あった もの と考 え られ るし,柾捜 して,掛市で働 く者が増 えた ことが大 きを原因で あ った

と考 え られ る。

次vc,農家人 口の推移 をみ ると.戯家 政 と同 じく渡少 してい る。姓家 総数 の凍少峯が,昭和25 年〜 5 5年vcか

け て2̲9男,55 年‑ 4 0年3.7

, 4 0年‑45 年2̲9茅とそ れ ぞれ凍 であるの 忙対 し,農家人 口のほ 9は2 5 年 〜 5 5年5.5

衷 7‑ Il l 1 戯 家 人 口 の 推 移

年次

昭和2 5年 5 5 4 0 4 5

男 2.17 1 1.9 80 1.8 4 ム

女 2.2 5 6 乙 14 7 2.0 8 5 l

合 計 4.67 7 4.4 27 4.127 5.9 5 1

江 )「市町村 券嘗監」 「世 界出林業 センサス」

9作成

‑ 196‑

(27)

70, 5 5年〜 4 0年 占・8罪, 4 0年‑ 4 5年 4 770と淑少蛮はいづ九 も鐘家政 のそれを上回 ってV,る. とい うことは鹿家1戸 当 Dの^且が淑少 してい ることであ る.良家1戸当 り平均人員 紘,昭和 25年 5・5人, 55年 5・2人 4

8年

50人 45年 4.9人で 参 るo

7 1 2 点 家 人 口 の 推 移

●、、

ヽ ,iZl

r l \

/ \一一.

1P80

●●′

‑{ 〉 ノ 小 、・

′ .

1 ./ 二 八

、\ヽ

9 1 0 1 5 2 8

25 50 55 40 45 50 55 60 65 70 (大4日 大 9)(大14) (昭25) (耶 5) (昭45) 良家数 の滅/i,と共 に曲家人 ロ も一層の淑少 をみせてい るが,縫糸新薬 人 口は さ らに大 き女波少 をしてい る。 (ここでい う腹業就集人 口とは.16才以上 の世僻負で, 自家典薬 たけの佐郡者及 び自家幽業 とその他 の仕草に従壊 した人 の うち. 自家

典が主の人の合計 であ る。 )胴部 45年 の曲黄就業人 口比 男 54 7人, 女 89 8人の計 1,4 4 5人で, これは鹿家^ 口の5 8.870 である。良薬就井人 口の姓家人 口に対 する削合 の低 さは第‑ vc専業曲家及 び弟一席兼業 姓家 の減 少 VCよる ものであ 9,‑第二には,若年労働力の後退が あげ られ よ う。

表 7‑ 1‑ 12vE上ると, 昭和5 5年に 15才〜 19才で あった者は1 0年 後の昭利 4 5年

v c

vi25才〜 2 9才になってい るわけであるが. この年令層の鐘家^ ロは,昭和55年で払 426 人 であった ものれ 昭和4 5年 Klも 261人 となってい る。 昭和55年に 15‑ 19才であ っ た者が ,その後 1 0年乱 死亡 もせず,家 庭が 穀家のまま留ま ってtJlたな らば, 萩少 を示す こと は ‑bhはずであるo Lか し,死亡輩 を考Eg.忙入 れ た としで も,座業か ら他産英‑の職 業移動が大

きな原田であるこ とは容易 に理解で きる。 しか も,昭和5 5年に 15才〜 19才で あった者 の滅

‑197‑

(28)

7‑ 1‑ 1 2

鹿家人口 の年令妙脈 動 (同年令屈の1 0年後 の移動状況 )

罪 女

S 55 S 45 増 浪率 S 55 S 45 増減基

吉† 2,171 1.84ム‑45

( ?)

.9 2,258 2.085 55(70).5

′、ー14 604 595 575 451

15

18.‑‑19 .

;.4i 15652 146:)「2‑.2i 14021

20‑ 24

25〜 29 ll:5421l lli 「;‑25‑02‑3tll̲モア̲2「 528 1: 昔 ̲ ̲27̲̲, 50‑ 59 :268l

i

‑‑ ‑ ‑‑‑1:247.I27l .8 :502 .l 1255:‑ 22.9

40‑ 49 l215l

l l

:254:r 5.2 I■270

l l I l

277.‑J a5

50‑ 59 J

L

2

̲

̲ l J

l l178ll l‑ 17.2 ■249 .L̲ ̲ ̲̲.I lL24CI IllI‑ll.1

S 55 S 45 増淑 翠

計 4.427 ち,951I‑5

( %)

8.7

‑ 14 1,177 82占

15 ,

: 三

日 ;26l: 55

16‑ 19 278

20‑.〉24

25〜 29 Il'670Il I:556:;̲‑L

50〜59 :570I

.

;500.l‑25.4

40〜 49 I・485

;

l:551'‑ 占.l

50一‑59 l・480̲ .̲」

:

I:418tI̲ 15.

60‑ 64 196 J iト 日)‑ 4a.

荏 )「世界怨林業 センサス」 エb作 成

少奉 は5a7ヲ乙と大 きく,殊に男の場合 は4 5・9ヲ乙と,ほ とん ど半

に近い 状態

である.また, 2 0才〜 2 9才であ った 者 も,その後 の1 0年陶 の うちvE2 5̲4 70も渡 り,やは 少女 エDも男 のほ うが 高 い減少率 を示 してい る。 ところが, 5 0 才〜 59才で あった者 の渡少峯 は6・2

と,前の両者 と比較 して大変低 い。そ し て こ場 合 だけ,女の減 少率が甥 を上回 ってい るので あるこ うした数字 か らみ る限

b

,若年労働力ほ ど他蓮井‑の派 出 が容易で参卿 に鮭缶率土大 きく.50才代 忙なる出牡典への定着傾向が強い ことである020代後半か ら4 0代 vtかけての女性 払 良薬 労働力 として エbも.いわ ゆる主婦 として,家庭内労働 に携わ る機会が多 くをるO従 って姓苑凝集人 口として紘数 え られない場合が多 く7Eるが,良家人 口 とし ては変 らない。年令層が さ らに高 くなると,再 び渡少を示 し, a0才を越 え るとそ の後1 0年樹 で半数 vcなって しま う。若年労働力の流 出が.鹿家戸数 の減少 のなかで一層進み,老人の退 出 も あって良家人 口yi渡少一方 で ある。

‑ 198‑

(29)

襲 7‑ 1‑ 15 Bt ( 1d才以上の世 帯jl)

年 次 鹿菜 だけの礎 併 良 薬 と に 従 兼薬 vC従 仕 事 にCE争 しな 中 ( ) (親 王 ) た けの従事 か つ た 老

弟 女 輿 女 男 衣 早 女 男 女

55 76

8

7 57 8 8 45 23 2 52 25 1 8 5 2 08 5 5 2 40 4 5 4 8 95 189 5 5 5 2 0 14 5 ー1 0 15 0 1 9占 4 18

法 )「甲間典薬 セ ンサス」 19 6 5

,

「世 界鼓林巣 センサス」 19 7 0

エ9

表7‑ 1‑ 15vEよると.典 薬だけの従秘書は男 の場合.昭和5 5年か ら4 5年vcかけ てt7.1

% と大 き く浪少 してい るOそ して, 80才以上 の徒歩者吐増 えてい るので あ るか ら, 1占才〜 59 才の従事者 の渡 少率は さらに大 きオものであ る0‑ 諺,女 の場合 仏 昭和5 5年 か ら40年 にか け ては逆 vC増加 し,増加率は2 t・4罪であ る。 1占才以上 の良家人 口 (女 )れ 昭和5 5年 に.

1,4 69人,40年vcl.6 4 1 人 で参るか ら, 172人の増 加 であるが, ほ とん どが新鋭学卒 者 であ ると考 え るな らば, おそ らく他産業 tR:就 職 した ことが予 想 され るか ら,点薬 だけの従事 者 の参加は,仕 事 Vt従事 しなか

表 7‑ 1‑ 14

16才以 上農家 人 口

男 女 言十

昭和5 5 1.52 5 1,4 69 2.9?4 4E3 1.65 占 1,64 1 5.27 7 4 5 1,4 19 t l,̀ 55 5,0 5 2

江 ) 前掲書 った者が,農業 vc従事 した こ と.

あるい払 臓 主 体 の紫苑者 が加え られた ことな どがそ の理 由で あろ う。 昭和5 5年 には男 よ り も少 なか った女 の専従者が.40年 には 男の2・0億, 45年 には2.1倍 に もなってい る。

虚 薬玉 の熊井着 払 昭和 5 5年か ら40年にかけ ては2倍近くVTLをってい るo 殊VE男 の場 合は 119・870の増 加ぶ り女帝 してい るo Lか し. 4D年か ら4 5年 にかけ てrj:逆 に執少 であ るQ 女 の場 合比緩 やかで仕 あるが, 増 加煩向 を示 してthも,

典薬従 の燐 者の増 加は若 し叫 申びをみせ てVtも。 昭和5 5年 2 82人 で あったのが4 0年 vc はd d5人Vr‑

り, 4 5年 vcは9 40人 と.5年間 VE各 々13 5・1

,41.8茅の増加率 で ある。

帝 VE女 の115合の伸 び率 が際立 ってい る。

英だけ の従4't者W.,男女 で全 く並の現 金 と なってい るのは何故 であ ろ うかO (2)良薬鮭常 と二ヒ地

離 耕地 融椴 は曲 産物 也産 の上 で丑的制限 を与 え ももので 参 る。土地 の利用 ・梶官 の変避仏 社会 との常 給関係 あるいは 生産 作物 との関係 で ち ちと思われ るo

‑ 1997‑

図 71 1‑ a 図 1 の 2 耕 地 面 研 年 内 移 動 紘醍 ○く つ ∠ゝ○○△○○△○○∠ ゝ0 0∠ ゝoO△OC∠ゝoO∠ゝ ∠ゝ○○ ∠ゝ∠ゝ△ 0 0 0 ∠ゝ ∠ ゝ△ o O O ∠ゝ
表 7 ‑ 5 ‑ 2 樹林地の人=林 ・天然林別林家裁 と面載 (農藁セyサス) 保 有 山 林 両 群 新稚 したこの1 年間に 総 面 硬 人 工 林 天 然 林 戸 数 両 横 戸 数 有 税 戸 数 両 税 戸 数 両 親 S55 14 9 戸 d4 .74 t 且 149 占4 .74 S4 8 215 59 .09 5 0 .55 214 58 .54 2 0 ,45 * 71 5 ‑ 5 経 営 形 態 別 林 野 面 耕 S 5 5
表 7 ‑ 4‑ 4 昭和 5 5 年 ‑ 1 0 0 とした ときの指数 昭 和 4 0 年 昭 和 4 5 年 l 一岡 山 県吉 備 町岡 山 県音 備 町第 1次産業8 1.499.2dd.ー8 9.2第2次産業117.411 5.0149,71占 2.9鉱業7 4.占di 1‑建設業115.71 15.818 5̲1ー7 5.0製造業11 9.a1 15,414 9.8140,0第 3次産業118.012 6.614 2.419 1.7分 類 不 能10 7.5100.03 95.8 1.500.
表 7 ‑ 4 ‑ 1 0 階層別V, 革作付面横及び動撒台数 ( 市町村) 「 ‑ 昭 和 3 占 年 昭 和 4 6 年 宿 l o‑ 5 0 灘崎町,山手村.汁音村,井原市 金光町 矢掛町 一宮町,足守町,早島町,船穂町,山手村,滑音村, 局刺 ha 井原市,金光町,落合町 ヽ レ̲ ′ ー 草 5 0 .1‑ 10 0 西大島 一宮町.福田相
+4

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