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雑誌名 東北学院大学論集. 教会と神学

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(1)

復活の神学――W. パネンベルクのキリスト論――

著者 佐々木 勝彦

雑誌名 東北学院大学論集. 教会と神学

号 14

ページ 1‑69

発行年 1983‑03‑25

URL http://id.nii.ac.jp/1204/00024367/

(2)

‑W.パネンベルクのキリスト論一

佐々木勝彦

われわれは先にパネンベルクの神学概念について論じたが'), 本論 文では彼のキリスト論の内容を明らかにしてみたい。パネンベルクは G漉泥"z"gE ff"C"7‑iS"ZDgie2)においてキリスト論を詳細に展開し ているので,本論文ではまずその内容漣丁寧に跡づけて, 次に彼の立 場の特色をより明確にするためにJ.モルトマンのD"GEfrezJJzigre Gort3) との対比を試みてみたい。

I.

『キリスト論要綱』は「イエスの神性の認識」 (第一部), 「イエス:

神の前にある人間」 (第二部), 「キリストの神性と人間イエス」 (第三 部)の三部から構成されており,全部で十章から成っている。本書に おいては各章のはじめにその章の内容老要約したテーゼが示されてい る。従って本論文でもまずこのテーゼ老提示して,次にその内容を明 らかにするという仕方で論述を進めてみたい。

第一のテーゼ: 「キリスト論はイエス馨, 彼は神のキリストである という告白と信仰の根拠として取り扱う。」

第一章(「出発点」)は「キリスト論の課題」 (1), 「『キリスト論』

という名称の正当性について」 (付論), 「キリスト論の方法」 (11)の

(3)

二節から成っている。

キリスト論がイエスについて論ずるものであることは当然であるが,

その方法は様埼である。キリスト論はイエス自身からはじめるべきな のであろうか。それとも教団のケリュグマからはじめるべきなのであ ろうか。後者の立場は周知の如くM, ケーラー4)以後に影響をもつ ようになった考え方である。しかし彼が最初にこの立場を取ったとい うわけではなく, シュライエルマッハー, エルランゲン学派, A. リ ッチュルなどもすでに同じ考え老示唆していた。パネンベルクによれ ばケーラーが正しいと言えるのは次の点だけである。つまりイエスの 人物像や告知を歴史的に再構成するには, 原始キリスト教のキリスト 告知がどのようにしてイエスの運命5)から発生することができるよう になったのか老説明しなければならないこと, イエスと原始キリスト 教のケリュグマとの矛盾を強調する立場は,依然として歴史的にも不 十分であることを主張した点である。今日要請されているのは,使徒 達のケリュグマの背後にある史実のイエスに遡ることであり, それは

「可能である。」6)われわれはこのようにすることによってのみ,新約 聖書の諸文書の内的統一性ぞ理解することができるようになる。ケー ラーの主要な関心は現在において経験される信仰のキリスト老確立す ることにあり, この現在のキリスト経験を大切にする点では, ケーラ ーを批判したW.ヘルマンも同じである。この傾向はシュライエルマ ッハ一考中心とした十九世紀の神学に見られただけでなく,今日でも R, ブルトマン,0.ヴェーバー, P, アルトハウスなどの神学に見ら れる。しかしながらもしもキリストについての告知が史実のイエスに 基づいていないとすれば, その告知は信仰の産物にすぎなくなってし

(4)

まうであろう。 イエスが高挙の主として今も生きておられることをわ れわれが知ることができるのは,現在の経験ではなく過去に起こった 事柄を拠り所とする時である。従ってアルトハウスの考えとは反対に

「信仰はまず第一にイエスが何で『あった』かということに関わるの であり」?), そうする時にはじめて,今日イエスはわれわれにとってど ういうお方であり, また彼についての宣教がどのようにして可能とな るのかを知ることができる。キリスト論の課題は, イエスの歴史に基 づいて, この人間のうちに神が啓示されているという場合の彼の意味

(重要性)に関して,真の認識を根拠づけることにある。そしてこの 課題には次の二つの側面が含まれている。 それは, 1) イエスの歴史 から,彼に関する一定の洞察を純粋に体系的に導き出すこと, 2) イエ ス自身に関する原始キリスト教の諸辱の言表が, キリスト論的伝承の 形成過程の中で−たとえこのキリスト論的信仰告白の伝承史的由来 が原始キリスト教の文献の中に反映されていない場合にも−どのよ うにして生まれてきたのかに留意することである。 このことはその後 の教会におけるキリスト論の教義的発展にも妥当することであり, こ の種の言表はすべてイエスの歴史の光の中で吟味されなければならな b,8)。

従ってパネンベルクは,キリスト論の方法論は「下から」のキリスト 論でなければならないと主張する。これに対して「上から」のキリス

ト論とはイエスの神性から出発するキリスト論であり, そこでは受肉 の思想が中心となっている9)。 「下からjのキリスト論はまずイエスの 使信と運命に関わり,歴史的人間イエスから彼の神性の認識に到ろう とする。 「上から」のキリスト論の問題点は次の三点にある。 1)まず

(5)

第一に「上から」のキリスト論はイエスの神性毎すでに前提としてい る。しかしキリスト論の最も重要な課題は, まさにこのイエスの神性 に対する告白の根拠老明らかにすることにあるのであり, イエスの神 性はまず探究の対象で鞍ければならない。2)ロゴスの神性から出発す る「上から」のキリスト論は,結局ナザレのイエスという史実の人間に 固有な決定的意味窪把握することができない。 イエスとイスラエル及 び旧約聖書との関係は決して補足的なものではなく, 華本的なもので ある。 3) もし「上から」のキリスト論の立場に立とうとするならば,

われわれは神御自身の視点に立たなければならないことになってしま うであろう。しかしながらわれわれは,いつも歴史的に限定された人 間の状況から考えざる窪得ないのである。

第二のテーゼ: 「イエスに対する信仰告白は, われわれにとっての イエスの意味(重要性) と不可分である。しかしながら救済論的な関 心はキリスト論的教説の原理とはなりえない。」

第二章は「キリスト論と救済論」の関係を論じており, この章は

「神と救い主としてのイエス」 (1), 「神学史におけるキリスト論の救 済論的モティーフ」 (I1), 「キリスト論における救済論的傾向の問題 性」 (1I1)の三節から構成されている。

パネンベルクは神学史に登場したキリスト論の救済論的モティーフ 壱次の七つの型に分類している。 l)受肉による神格化一イレナエ ウス アタナシオス, ナジアンゾスのグレゴリオス, アレクサンドリ アのキュリロス, 2)神との倫理的同一化による神格化(ホモイオー シス・セオー)−オリゲネス, アンテオケのルキアノス, モプスエ ステイアのテオドロス, 1.A. ドルナー, 3)代理満足説のキリスト論

(6)

−カンタベリーのアンセルムス, 4)ただ神の働き (恵み) として のキリスト論一ルター, 5)宗教的人間の原像一シュライエルマ ッハー, 6)道徳的完全性の理想一カント, リッチュル, 7)純粋な 人格性のキリスト論一F.ゴーガルテン,G.エーベリング。この分 類から出てくる問題は,結局それぞれのキリスト論はイエス自身につ いて語っているのではなく,人間の願望を投影しているだけではない のかとの疑問である。パネンベルクの念頭にあるのは, いかにしてフ ォイエルバッハのテーゼを乗り越えつつキリスト論醤展開するかとい うことである。一般にわれわれは救済論的関心の故にイエスについて 問うわけであり, その意味ではキリスト論と救済論を分離することは できない。しかしティリッヒが言うように「キリスト論は救済論の一 つの機能である」'0)のではなく, むしろ「救済論はキリスト論に従わ なければならない。」'1)さもないと,救済の信仰は全く根拠のないもの となってしまうであろう。キリスト論はナザレのイエスから出発しな ければならないのであり, キリスト論の諸伝承と種毎の救済論的関心 老批判的に吟味する基準は, イエスの歴史的現実の中にある。従って まずイエスと神の関係が論じられ(第一部), その次にはじめて人間存 在一般の成就者としてのイエスが論じられ(第二部), 最後にイエス の神性と人間性との関係が問題とされるのである (第三部)。

11

第一部「イエスの神性の認識」は「イエスと神の一体性の根拠とし てのイエスの復活」 (第三章) と「父の神性との関連におけるイエス の神性」 (第四章)の二章から構成されている。

(7)

第三のテーゼ苫 「イエスと神の一体性は, イエスの復活以前の活動 に含まれた要求によって根拠づけられる, と言うことはできない。そ れは死人からのよみがえりによってはじめて根拠づけられるのであ

写戸 j fpo」

第三章は「復活以前のイエスの全権要求における先取りの特質」

(1), 「原始キリスト教の伝承史的状況におけるイエスの復活の意味」

(11), 「死人からのよみがえりの表象」 (111) , 「イエスの復活の歴史 的問題性」 (IV), 「イエスの復活の意味に対する再臨遅延の意義」

(V)の五節から成り, さらに補遺として「現代の教義学におけるイ エスの復活の評価」が付け加えられている。

現代神学においては,例えばW.エラート,P.アルトハウス> E.

ブルンナー, F.ゴーガルテン,H.ディームなどにみられるように,

史的イエスに関してはイエスの復活以前の全権要求(Vollmachts‑

anspruch)が問題の中心となっている。 このような方向づけ醤与えた のはE, ケーゼマンの論文「史的イエスの問題」 (1954)である'2)。

ケーゼマンの関心はケリュグマとイエス自身の連続性老問うことにあ り,彼はこの連続性ぞイエスの使信の中に見ている。 この問題意識は さらにE. フックス,G.ポルンカム,H. コンツェルマン葱どによっ て受けつがれて, それぞれの立場から展開されてい愚。その中でパネ ンベルクは次のよう葱ポルンカムの見解考高<評価する。つまり 1)

ケーゼマンの理解と違って, イエスは黙示文学の地平の中で考え, そ して語った。2) イエスの人格において究極的決断をするという現在 性とこの世の終わりという将来性との間に見られる緊張関係は,将来 においてイエスの要求が本当に確証(嘉納) されるのかどうかという

(8)

問題軽残している。このようにイエスの告知には現在と将来の間の緊 張関係が見られ, イエスの要求には先取りの性格が含まれている。 イ エスの要求は将来においてはじめて期待される確認を先取りしており,

そしてまさにこの先取りの構造の故に, イエスの全権要求は黙示文学 的歴史観とよく似ている面老もっていろ。しかしながらイエスの活動 はとの黙示文学的歴史観と全く同じものではない。 1)イエスは自分ぞ 隠すことなく, 自分の使信を−救済史̲この重要な人物の名前ではな く−自分の名前で告知しており, 2) これはイエスが洗礼者ヨハネ と同じように終末をきわめて切迫したものと考えて,悔い改めだけを 要求したことと関連している。 3) しかもイエスの招きにおいては洗 礼者ヨハネの場合と違って,終末時の救済が今すでに臨在していると 考えられている。従って将来の救済は, イエスの人格に対する態度に よって決定されることになる。だがイエスの全権要求はあくまで先取 りの構造をもつものであり, この意味においてイエスの全轤要求をキ リスト論の根拠とすることはできない。 「すべてはイエスの要求と神 によるその確証との関係を問うことにかかっているのである。」'4)

パネンベルクによればイエスの復活こそこの「確証」に外ならなく,

イエスの復活には次のような六つの意味が含まれている。 1) イエス の復活とともに世界の終末が始まっている。死んだ者たちの普遍的復 活と裁きの時が間近に迫っており, イエスをよみがえらせた神の霊が 今やすでにキリスト者のうちに働いている (ローマ5:12ff., 8:29, 第一コリ 15:20)。 2) イエスが復活したということは, ユダヤ人に とっては,神御自身が生前のイエスの行為を是認されたことを意味す る (使伝2:36, 3: 15, 5:30f. ,第一テモ3:16)。 3) イエスは死

(9)

人から復活したことによって「人の子」にきわめて近くなり, 「人の 子」は再び来たりたもうイエスに外ならないとの洞察がうまれた。

4)復活したイエスが神のもとに挙げられ, それと共に世界の終末が 始まっているとすれば, 神はイエスのうちに究極的に啓示されてい るのである'5)。 5)異邦人伝道へと方向転換をさせたのは, 十字架に つけられたお方の終末論的復活である'6)。 6)復活したお方の言葉と して伝承されているものは,結局原始キリスト教が復活それ自身の固 有な意味に対して与えた説明に外ならない。言葉と出来事は同じ内容 を表現するという仕方で共に全体の一部を構成しており,復活者の言 葉は, 出来事それ自身に含まれている意味に何か新たな要素睡付け加 えるものではない。復活者の言葉はむしろこの意味を言い表わそうと しているのであるエ7)。

第三節は「死人からのよみがえりという表象」の意味について論じ ている。その必要性は, このことによってのみイエスの復活の問題を 深くとらえることができることにある。死人からのよみがえりについ て語る場合, われわれはその問題としようとしている現実が死のこち ら側にいる人間の経験塗超えていることを忘れてはならない。その本 質がわれわれに隠されている出来事について言及しようとするならば,

それは比噛的な言葉と葱らざるをえない。原始キリスト教もこの質的 な差異を知っていたのであり, パウロは「肉のからだでまかれ,霊の からだによみがえる」 (第‑‑コリ15:44. ) と述べている。従って死人 からのよみがえりというキリスト者の希望と,古代の文献に表われて いる奇跡的な蘇生とは, 明確に区別し葱ければならない。死人からの よみがえりは「根本的な変容」'8)である。パウロは復活それ自体を変

(10)

容と考えている。 これは彼が,復活は信仰者にのみ起こる出来事であ ると考えていることと相応する。だが彼の変容の概念それ自体は伝統 的葱ものである。パウロは黙示文学に由来する歴史の終わりに関する 伝統的な待望のうちに生きていた。そして彼はこの待望に基づいて,

自分の経験した特殊な出来事醤復活の生命に風する出来事と呼んだ。

彼は死人のよみがえりの待望灌イエスの復活ぞ承認するための前提と して特色づけており (第一コリ 15: 16) , この黙示文学的待望は異邦 人の教会にとっても拘束力老もつものであった。 というのはイエスの 意味考認識するには, イエスの歴史がもともと持っている黙示文学的 な地平を理解しなければならないからである。

しかしながら, この黙示文学的世界観は今IJのわれわれにとっても 妥当性老有するものなのであろうか。パネンベルクはこの問題老現代 の人間論の視点から解決しようとして,次のような論旨ぞ展開する。

つまl)人間は他の動物と違って世界との関連で開かれた存在であり,

環境から自由な存在である。人間は自らの衝動をいつも新たに方向づ けて,規定しなければならない存在である。人間は自らの衝動蓮成就 してくれるもの,つまり彼の「規定」19)老求めて問い統ける。従って死 考越えて自らの規定の成就,つまり自己の存在の統体性の成就ぞ求め ようとすることは,人間の存在構造の特質である。人間だけが自分が 死ななければ葱ら葱いこと鞍知っている存在であり, この故に死の先 にあるものを問うことができる。人間は自分の存在を他者との交わり の中でのみ実現することができるにもかかわらず, 人間の規定の故に その時毎の交わりや社会を越えて問う。霊魂不滅の思想と死人のよみ がえりの表象は,死證越えて問うとの希望の構造から生まれてきたも

(11)

のである。霊魂不滅の思想を哲学的に展開したのはプラトンが最初で あるが, このように霊魂の不変性,霊魂と肉体の分離巻主張すること は,現代の人間学的洞察からみて不適切である。今日では死後の生命 は魂の不死性を意味するのではなく, 「『全体的な』人間の別の存在様 式」20)を表わすものと考えられている。そしてこれこそが死人のよみ がえりという表象の内容である。 「死人のよみがえりの待望は,今日の 思想の諸前提からみて,人間の規定の哲学的に適切な表現と考えられ る。従ってまさに今日,黙示文学的希望との連続性が決定的な点にお いて可能なのである。 これと共にイエスの復活の出来事に関しても,

原始キリスト教との連続性が可能となるのである。j2')

次の問題は「イエスの復活の歴史的問題性」である。原始キリスト 教は「復活者の出現」 と 「イエスの空虚鞍墓の発見」 という二つの異 なった復活伝承を残している。福音書の伝承史は, 明らかに両者を一 層緊密に結びつけようとする方向に発展してきた。 しかし伝承の最古 の層では両者は別々に取り扱われており,歴史的には両者を分けて考 えるべきである。 1) 「復活者の出現」−との記事はパウロの書簡だ けで葱<福音書にもみられるが,福音雷の場合には伝説的要素が大変 強く, その中に史実的な核を見い出すことが困難である。従って歴史 的に問題と悪ろのはパウロの残した記事(第一コリ15:1‑11)である。

パウロの年代と伝承の様式から考えて,原始キリスト教団の人瘤が復 活者の出現巻現実に経験したことは, 「歴史的に十分基礎づけられ る。」22)それ故宗教史的分析は不必要である。復活者の出現の内容は 次の通りである。 1)パウロは主イエス老見た(第一コリ 9:1)。 2)

パウロはダマスコ途上で霊のからだを見た。 3)その「出現jは天か

(12)

らのものであり,4)使徒行伝第9章3節以下にあるように「光の現象」

であった。5)パウロのキリスト顕現は「聴くこと」 と結びついてい た。 このような内容轟もつ復活者の出現は異常葱出来事であった。パ ウロの従者は誰もその出現蓮見ることができなかった。Grassの用語 を用いるならば, それは「幻」 としか言いようのない光景であった。

しかしこれはいわゆる空想ではない。確かに「幻」という言葉は主体 的経験様式にかかわる表現であり, それはこの様式において経験され る出来事の実在性を表現するものではない。しかし宗教史的現象を説 明するのに精神病理学の概念筵用いることは, テキスト自体がそれと の接点老提示している時にのみ許されることである。D.F・ シュトラ ウス以来, 「出現」は弟子たちの熱狂的なイマジネーションの産物であ るとする考えがあるが, それは不可能である。 というのは,弟子達の 復活信仰から「出現」を説明することは不可能だからである。それとは 反対に復活信仰は「出現」から起こったのであり,弟子達はそのことに よってはじめてイエスの死という危機を乗り越えることができた。ま たこの「出現」が複数の人ノマに,しかも時間的にずれて起こっているこ とは,いわゆる「心理的連鎖反応」による説明が不可能であることを 示唆している。 イエスの復活は終末論的な待望の言葉によってのみ表 現可能となる「歴史的な出来事」23)なのである24)。 2) 「イエスの空虚 な墓」−パウロはこの記事についてどこにも言及してい葱いが, そ れによってこの記事の信悪性が失われることはない。それはイエスの 運命の特殊性に属しており, たとえそれを記録しているマルコによる 福音書第16章がヘレニズム教団に由来するものだとしても, その重 要性は変ら葱い。マルコのテキストにおいて問題となるのは, 8節が

(13)

元来の結びであるのかどうか, また7節と8節の関係はどう葱ってい るのかということである。7節の最初はallaという言葉で始まってい るが, これは14章28節の場合と同様に7節が付加であることを示し ている。 また8節の内容は不統一であり, 8節bは8節aを繰り返し ているにすぎ葱い・従ってもとの話は6節から直接8節に統いて終っ ていたのであり, 7節と8節bはマルコが知っていた「出現伝承」を 暗示している。彼がこれを取り入れなかったのは,空虚な墓の発見の 話と結びついていた受難物語が,すでにエルサレム地方の伝承として 完結していたからである。 これはまた出現伝承がもともとエルサレム に由来するものでは悪いことと関連している。空虚な墓はもちろんエ ルサレムで発見されたが,基本的な「出現」はガリラヤで起こった。

イエスの弟子達がガリラヤへ帰ったことと空虚な墓の発見は別埼に独 立して起こったことであり,弟子達はエルサレムに戻った後に, この 墓についての報告を知ったと考えられる。 もし彼らがエルサレムに留 まっていたとすれば, 彼らはイエスの十字架刑25)と埋葬について記 録を残していたはずである。そしてもしこのように二つの伝承が別埼 に存在していたとすれば, それによってむしろイエスの復活の事実の 歴史性はますます高まるのである26)。

第五節は「イエスの復活の意味に対する再臨遅延の意羨」を論じて いる。パネンベルクによれば, キリストの出来事と人間学的に解釈さ れた黙示文学的待望の意味における世界の終末との関係を論ずる場合 に必要葱のは,二つの出来事の間の時間的隔たりの程度蓮問題とする ことでは葱い。それはイエスと共にすでに起こっている事柄と黙示文 学的待望が究極的将来から熱望している事柄との内容的類比から判断

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することである。大切葱のはイエスの出来事と終末論的待望の内容的 一致である。マルコによる福音書第8章38節の「人の子の言葉」を問 題とする場合にも,問わねばならぬのは将来の裁きとイエスに対する 現在の態度との内容的一致である。過去において真理であったものが 現在においても真理であるのかどうかということは,「そのつど全体と しての神学(Theologiealsganze)によって」26‑b決められる。 イエス おける神の啓示と死人からのよみがえりにおいて完成された彼の高挙 について語るとき, われわれはいつも先取りという仕方で語っている のであり,弟子達の証言において重要なのは, イエスの復活と世界の 終りが共に一つの出来事と考えられていたことである。再臨遅延の問 題によってキリスト者の希望がむなしくなることはないのである27)。

第四のテーゼ: 「イエス自身の神性ぞ形成しているのは, イエスと 神との啓示的一体性である。しかしそれと同時に, イエスは依然とし て彼の父である神と異なった存在である。 ここに三位一体論の端緒 がある。」

第四章は「イエスにおける神の臨在の様式」 (1), 「イエスと神との 本質的一体性」 (11), 「三位一体論の端緒とロゴスキリスト論の問題」

(111)の三節から成り, さらに付論「イエスの神性についての言明の 構造」が付加されている。

第四章の課題は,第三章において論述された事柄に基づいて,教会 の諸毎のキリスト論ぞ批判的に吟味することにある。パネンベルクは

「イエスにおける神の臨在」を表現しようとした神学史上の諸々の見 解を次の五つに分類している。1)聖霊の臨在・…原始キリスト教団は 生前のイエスの活動の中に申命記第18=15節以下に約束されている

(15)

終末論的預言者を見い出した。 イエスの洗礼とその場合の聖霊による 塗油の伝承は, もともとこの文脈で理解されており,後者はのちに終 末論的な預言者としてのイエスとキリスト称号を結びつける役目を果 している。ヘレニズムのユダヤ人キリスト教団は, イエスのカリスマ 的な行為の故に彼を「神人」 と理解した。そこでは旧約聖書の理解と ヘレニズムのtheioianth,Dpoiが融合してしまい,やがて復活者に用い られていた「神の子」の称号が生前のイエスに適用されるようになっ た。それはもともと神的本質への参与を意味するものではなかった。

そのような意味老もたせたのは異邦人キリスト教である。ユダヤ教に おいては, それは養子縁組と神の霊による神の臨在を意味していた。

マルコによる福音書にはイエスを神の子の顕現として表現する傾向が 見られるが, これはへしニズム的な思惟方法への転換を示している。

他方ローマ人への手紙第1章3節以下の「二段階キリスト論」はユダヤ 的葱思惟方法に近い。 ここでは,神の霊によって根拠づけられた「神 の子であること」は高挙の主に属している。死人のよみがえりと霊の 結びつきはユダヤ教の終末論に由来しており,復活と霊の働きは一つ の全体に属している。しかもローマ人への手紙第8章3節, ガラテヤ 人への手紙第4章4節, ピリピ人への手紙第2章5節以下の記事は二 段階キリスト論とキリストの先在を結びつけている。後に, この肉と 霊によるイエスの二重の評価は両性論の基盤とされるようになったが,

神の霊とイエスが結び合わされている場合は, これを二世紀に問題と きれた養子論の意味で理解しては葱ら葱い。 2)実在の臨在・…これは 特にアレクサンドリア学派にみられる教父たちの受肉論を表わしてい る。今やイエス・キリストは単なる人間ではなく,神的人格であり,

(16)

それ故イエスに関与する者は神御自身の生命,即ちその不死の本性に あずかることに葱る。 このような考えをうみ出すきっかけは, まずイ エスが神の子であることがヘレニズム的な仕方で理解され, 次にアラ ム語の「主」がギリシア語で「キュリオス」と翻訳されたことにあった。

3)仲保者キリスト論….このキリスト論の最も単純な形式は,イエス のうちに肉体をとった先在的な天の存在は神御自身ではなく,人間よ りも高い位置にいる,神iこ従属する存在であると述べている。 イエス は神と人間の間に立つ存在であるが故に,両者の橋渡しをすることが できるというわけである。 この考え方はオリゲネス, アリウス主義な どにみられるが, 後には両性論の教義と結合されて発展した28)。 4)

出現の臨在・ ・ ・ ・これはグノーシスのキリスト論にみられるいわゆる仮 現論的キリスト論やサベリウスの様態論を指している。 さらにまたキ リスト論的定式密「象徴」や「暗号」と解する立場もこの型に属する。

現代では例えばティリッヒ, F. ブリなどがこの立場をとっている。

5)啓示の臨在・…これは4)の立場と違ってイエスと神との本質的一 致の思想を含んでいる。啓示の概念は出現と本質が不可分離であるこ とを示しているが, この啓示の概念を神の自己啓示に限定するという ことは, きわめて近代的な現象である。 このような考え方はドイツ観 念論,特にヘーゲルに由来する。黙示文学では神の自己啓示は神の栄 光と呼ばれ,新約聖書でも,キリストの出来事におけるその自己啓示の 先取りは神の栄光の概念で表現されている。 キリストの出来事は神の 啓示であると言うとき, それは次のことを意味している。 つまり,

1) イエスが死人からよみがえったこと−これは終末のはじめであ る。2)それは唯一の啓示であること, 3)啓示者と啓示の内容が一致

(17)

していることである。従ってキリストの出来事は神御自身の本質に属 している29)。人の子キリスト論やヘレニズム的な顕現思想に方向づけ られた諸概念は「上から下へ」と動いているが,原始キリスト教のキ リスト論的思惟は「下から」つまり復活の出来事によって証示された イエスの全権要求から生じている。原始キリスト教におけるキリスト 論的諸伝承の生成の研究から明らかになることは, イエスの道老「上 から」表現している言明の基盤には, その表現上の意味とは相反す る「下から」 という動機連関があることである。従ってパネンベルク によれば「啓示の臨在の思想はますます…イエスにおける神の臨在の 内容にふさわしい理解であることが明らかになってくるのである。30)」

第二節は「イエスと神との本質的一体性」を「啓示の一体性と養子 論」,「処女降誕と受肉」,「受肉思想の真理」の視点から論じている。パ ネンベルクが問題とするのは, イエスは彼の身に起こった出来事の故 に神の啓示であると言う場合に,彼はその出来事においてはじめて神 と一つになったのか, それともはじめからそうであったのかというこ とである。原始キリスト教においてはこの一体性は様ノマの仕方で表現 されており31),それぞ統一的に理解するには,原始キリスト教の伝承史 の統一性から出発する必要がある。最古の層は明らかにイエスの死人 からのよみがえりをイエスと神との関係における決定的葱点と考えて おり,復活の故に彼は今や来たるべき人の子,メシヤとして期待されて いる。ローマ人への手紙第1章3節以下のいわゆる二段階キリスト論 も,結局は復活以前のイエスと復活したイエスとの関係を論じている。

ただしここで「神の子と定められた」 と言うとき, いわゆるキリスト 論論争の中で主張された養子論の概念巻持ち込んではならない。 イエ

(18)

スは復活以前に「ダピデの子孫」 として他の人埼から区別されていた。

従ってパウロにおいては「復活以前のイエスと高挙者との連続性カヌ考 えられていた」32)のである。復活の出来事は「過去に働きかける力」33)

をもっており, それは生前のイエスの要求巻「確証」する。復活の出 来事は確かに新しい事柄を含んでいるが, それは同時にイエスの生前 の活動を確証する.このようにある出来事が「過去に働きかける力」

巻もつという考え方は,普通の存在論的思惟には理解でき葱いことか もしれない。ギリシア的な思惟からすれば本質は時間を超えた不変な るものであるが,他方聖書的な理解からすれば将来は開かれたもので ある。出来事の内容を決定するのは将来である。人間,状況,世界一 般の本質ぞ決定するのは将来である。 この意味でイエスの存在は彼の 復活によって根拠づけられれる。 もしも彼が復活し葱かつたとしたら,

彼は生前も神と一体ではなかったことになる。彼は復活によって神と 一体であると共に,彼はすでに神と一体であったのである34)。イエス の洗礼記事もこの視点から理解しないと,十字架と復活は第二義的な 意味しかもらえなくなってしまうであろう。 イエスのうちに神が啓示 されていると言うことができるのは,彼の死人からのよみがえりによ

るのであって,受洗や聖霊受領によるのではない。 イエスと神との一 体性の根源はイエスの受洗にあるのではない。復活の光は彼の全生涯 ぞ照し出すのであり, イエスの受洗は神との一体性を先取りしたもの にすぎないのである。

では,聖霊による処女降誕はどのように理解したらよいのであろう か。この物語はイエスの個性を強調するとともに, マリヤの懐胎によ ってはじめて神の子となったとと老示そうとしている。 ところがパウ

(19)

ロはむしろイエスが他の人埼と同じであることを表現するために, 「神 は御子を女から生れきせ」(ガラテヤ4:4)と言い,しかも神の子は先在 していて, その先在者がイエスと一つになったと主張している。パウ ロは神の子の先在と,彼が復活によって神の子の機能を公けに果すよ うになることとの間に何の矛盾も感じていなかった(ローマ1:4)。だ が処女降誕の思想は御子の先在の思想とはっきり対立している。従っ てバルトのように,処女降誕を先在の神の子の受肉を指示する「徴」35)

と考えることはでき葱い。処女降誕の物語はキリスト論的には, イエ スははじめから神の子であったということを予備的に表わすにすぎな い。予備的と言うのは,このような関係諺究極的な形で表現すると 先 在の概念となるからである。アルトハウスがすでに指摘しているよう

に,処女降誕をイエスの無罪性の条件としては葱らない。 またそれ老 イエスの復活と同じ水準で考えてはならない。処女降誕の物語は神の 子という称号を説明するための原因弾的な関心老もつ非歴史的な物語 であるのに対して,復活は歴史的に確認できる要素鞍含んでいるから である。 イエスの復活の使信が重要であることは, キリストについて の使信が必ず復活の使信となっていることに表われている。従って使 徒信条にみられる処女降誕についての言及は,次の点においてのみ認 めることができる。つまり「聖霊によりてやどり」とは反養子論的思想 密表わし, 「処女マリヤより生まれ」 とは反仮現論的思想を表わしてい る。パネンベルクによればわれわれはこの二つの傾向の故に,現代に おいても処女降誕について告白することが可能である。今日では, イ ザヤ書第7章14節との関連老指摘することはもはや不可能であり,た だこの二つの傾向の故に処女降誕について告白することができるので

(20)

ある。ただし神学的にはこの様な意図は,処女降誕よりも受肉の思想 に一層適切に表現されていると言わなければなら葱い°

前述の通りパウロはイエスの派遣の思想38)をイエスの誕生と関連 づけることによって, 先在の思想と神の子の思想を結びつけている

(ガラテヤ4:4, ローマ8:3)。 この神の子の称号の伝承史37)から 明らかになることは, イエスは神の領域に属しているという認識が存 在することである。 イエスの復活がもつ確証という性格からみて, イ

エスがすでに常に神と一つであったことは「事柄の内的論理j38)に属 しており,彼は永遠の昔から創造において神の代理者であった。従っ て先在者である神の子の下降・上昇図式を単なるヘレニズム及びその 他の思想の影響の産物として片づけることはでき葱い・復活した主と 神との本質的一致は, それ自身の内的論理によって先在の思想に到る のである。古代教会の救済者の下降・上昇についての教理は, グノー シスに反対して神の子と人間イエスとの一致老強調している点で正し いと言うことができる。 ただし受肉の表象を旧約的・ユダヤ教的歴史 神学から分離してしまう鞍らぱ, それは単なる神話となってしまうで あろう。受肉の意味は旧約聖書,黙示文学的待望, そしてイエスの生 涯からのみ確立されるのであり, イエスの復活の認識が受肉の思想に 先行する時にのみ, キリスト論における神観念の聖醤的な意味が保証

されるのである。

第三節「三位一体論の端緒とロゴスキリスト論の問題」は,第二節 のテーマ老別の角度から論じたもので, イエスの神性と父の神性の違 いに焦点壱あてている39)。 もしもイエスの歴史と人格が神の本質に属 しているとすれば, イエスが確保している彼自身と父との区別も神の

(21)

神性に属しており,原始キリスト教はこの父と子の関係を「服従」 と してとらえた。神は父であるだけで葱<, イエスの復活を通して啓示 されるお方,つまり子でもある。神の本質はそれ自身のうちに父と子 の緊張関係を含んでおり, このことを明確にした点に, 様態論に反対 したいわゆるロゴスキリスト論の長所がある。弁証家たちのロゴスキ リスト論の第二の長所は, イエスのうちに臨在する神性諺古代後期の 人々の世界像に決定的な影響透及ぼす力として提示することができた 点にある。ロゴス論は先在の神の子が仲保者として創造にかかわった ことを,聖書とは別の伝統に従って説明することができた。 しかしな がら同時にここにロゴスキリスト論の弱点があった。まず第一に,プラ トン的な宇宙論の伝統の下では,神とロゴスの一体性を厳密に考える ことができなかった。 ロゴスは神から発出された神に従属する存在と 考えられていたからである。アリウス論争の核心は,このロゴスの神性 と父なる神の神性の均等性を確立することにあった。従って子の神性 と父の神性の同一性を確立したニケア会議の教義は, ロゴスキリスト 論の「表象構造」40)を破壊したのである。 アタナシオスはこの問題に ついて啓示の概念よりも救済論的関心一イエスを通して完全に神性 に参与すること−から議論を展開しているが, この破壊それ自体は 聖書的にも妥当性老もっている。ホモウーシオスの意味でのイエスと 神との本質的一体性は, イエス・キリストにおける神の啓示の概念に 固有なものである。第二の弱点は,子の神性とナザレのイエスとの関係 がゆるめられてしまうことである。われわれがイエスの先在する神性 について神学的に語ることができるのは,彼の具体的運命を考慮する ときだけである。第三の弱点は,その哲学的神概念一世界の不変で単

(22)

一な根源としての神一と密接に関連している。 ロゴスキリスト論は イエス・キリストにおける神の行為ぞ普遍的真理として宣言しようと した点で正しいが, そのとき用いた概念には限界があった。聖書の神 は自らを現象的な秩序の不変的根拠として啓示したのではなく,世界 の偶然的な出来事の自由な根源として啓示したからである。

弁証法神学者の主張する「神の言」の概念は弁証家たちの理解した 意味でのロゴスキリスト論とは異なっている。弁証法神学者が採用し たのは古代教会のロゴスキリスト論の中で主流となった見解ではなく,

イグナテイオスのロゴス概念一神は言において自らの沈黙を破ら れた−である。しかも 「神の言」の概念は,父なる神とならぶ独立 した実体という存在論的な意義をもっていない。パネンベルクによれ ば今日のキリスト論の出発点はロゴス概念ではなく,啓示概念でなけ ればなら慰い。弁証法神学の神の言の概念も, 啓示の出来事のための 比驍的葱表現にすぎない。 イエスと神との本質的な一致, そしてこの 一致にもかかわらず存在する両者の区別,−との洞察の根拠となっ ているのはイエスを神の啓示として認める認識である。 との認識のう ちにすでに二つの事柄が暗に基礎づけられているのである。また古代 教会がロゴス概念によって理解することのできたイエス・キリスト{こ よる万物の創造という思想は,次のことを意味する。つまl)イエスの うちに先立って表われた終末は, そこから創造が起こってくる時間と 場所に外ならない。聖書の理解によれば事物の本質はただ将来から決 定されるのであり,従って真の創造は「終末からの創造,究極的将来 からの創造」41)葱のである。

以上の如く三位一体論の教義がうまれてくる端緒は,父と子の区別

(23)

が神御自身の本質における区別であることにあったが, それでは聖霊 は一体いかなる理由で神性に属するのであろうか。旧約聖書睡見てみ ろと神の霊は生命の力として理解されており,終末論的な霊の働きと 現在の霊の働きとの違いは次のことにあると考えられている。つまり 終末には霊が注がれること,霊が人間の上にとどまること, そして霊 が人間に与えられることである。他方パウロの場合は,聖霊について の言及はすべてキリスト論的な刻印を帯びている。 イエスの復活につ いての使信を信ずる者はだれでもすでに聖霊を受けており, この聖霊 が来たるべき死人からのよみがえりを信仰者に保証する(ローマ8:2−

11)。復活者の現実と関係する者はすべて神の霊の生命力に満されて いる。聖霊は信仰者と生けるイエス・キリストとの交わりを保証する。

従ってパネンベルクによれば「われわれはもしも聖霊の神性を理解し ようと望むなら, キリストの使信によって認識されたイエス・キリス トの神性から出発しなければならない。」42)キリストの出来事は終末 論的な出来事であり, それ自体が霊的なことがらである43〉。従ってキ リスト者は聖霊によってイエス逢主と告白する (第一コリ 2:3)。

神の啓示であるイエス・キリストは神の本質と一つであるが故に, イ エスから出てキリスト者のうちに住んでいるキリストの霊は神御自身 の霊である。聖霊の神性はイエスの神性に依拠している。「どの霊がキ リストの霊であるのか」 との問い(第一コリ12:1ff. )に対する答えの 基準は, キリスト告白にある。 このように神は父と子であるだけでな く聖霊でもあり, それ故「神はわれわれの意識の『対象』であるだけ でなく, われわれ考御自身の現実の中へと受容して下さるお方であ る。」44)神は主観と客観の対立を超えている。神は両者を結合する非

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対象的なお方である。聖霊はイエスを通して神との交わりを開示す る。聖霊は「神の子とする」霊であり, 「父と子の交わりの霊」45)で ある。聖霊を人格として告白することは, キリスト者が自分は自分 自身の主ではないという経験老表白することである。 キリスト者の行 為の人格的中心は聖霊である。三位一体論における聖霊の独立した位 格という極めて困難な問題に答えることができる視点は, このキリス ト者のうちに働いている聖霊の人格的なあり方にある。パウロと異な ってルカやヨハネは聖霊を独立した存在として描く傾向が強いが, こ れは復活の出来事からますます時間的に隔たり, 終末接近待望が希薄 となってゆくことと関連している。教会史においてはこのようにして

「神の本質における第三の自立的契機」 )が受容されていく。 ヨハネ はこれ考「子の栄光」 (ヨハネ16: 14) と結びつけて, またパウロは キリスト告白(第一コリ 12:3) との関連で考えている。聖霊はわれ われに子と父に対して栄光を帰すようにと促し, そうするととによっ て自らの独自な存在を証示する。しかもパウロやヨハネが聖霊と高 挙の主を統一的に考えている事実は, われわれに神性の一体性を思い 起こさせる47)。三位一体論についての言説はE. シュリンクの言う

「栄光論的な言説」 ) とならざる考えない。なぜなら,無限なる神につ いての言説は有限なる表象の明断性を超えざる逢えないからである。

キリスト論的な言説が栄光論的な言説となる根拠は, その先取りの性 格にある49)。 イエスの活動と運命が神の啓示であると考えることので きる理由は,終末接近待望に根拠づけられた復活の出来事と来たるべ き終末との関連にある。個メマの出来事が神について何かを語ることが できるのは, それが現実の全体をとらえているときだけである。聖誓

(25)

の理解によれば, この全体ば歴史的全体を意味し,神について語るこ とは,すべての出来事の終末を先取りすることによって可能となるの である。

111.

第二部「イエス;神の前にある人間」の課題は,第一部を受けてイ エスと神との一体性がわれわれ人間にとって何を意味するのか老問う ことにある。従って第二部はイエスが人間であったことを問題とする だけでなく,彼の人間存在の救済論的な力を問うのである。第二部は

「まことの人」 (第五章), 「イエスの職能j (第六章), 「代理的刑罰苦と してのイエスの十字架上の死」 (第七章)の三章から構成されている。

第五のテーゼ: | イエスは神の啓示として同時に人間の本性つまり 人間の規定の啓示である。」50)

イエスがもたらした終末論的な救いとは, 人間がその全存在をかけ て追求している究極的規定の成就にほかならない。 この救いは人間が 現在において自分の過去と将来を一つにすることを可能にする 「生命 の全体性」である。神の啓示は同時に人間の神開放性老意味している が故に,神の啓示は人間の救いと葱ろ。われわれはこの関連老イエス の生涯とその業の中に見ることができる。 イエスは自分の職能5')に 献身し, 自分に与えられた運命に服従し,最後に復活によって神の新 た鞍生命へとよみがえった。しかも彼はこれらのこと老すべての人海 のために経験したのであり, その意味で彼は神の前にある人間の代表 者となったのである。しかしながら教理史的な視点から考えてみると,

このような理解は多くの問題憩含んでいることも事実である。 という

(26)

のは教理史を知る者にとって,結局人々は自分自身の理想像をイエス 像の中に見てきただけでは葱いのか との疑問はさけがたいからであ る。パネンベルクによればこの問いに答えるには, まずイエス像と結 びついた人間の本質についての諸概念が, イエス御自身の歴史像とど のような関係にあるのか老問わなければならない。パネンベルクはこ の問題意識に基づいて,教理史上の様埼なキリスト論の内容密検討し ている。そしてその結果として,次のように言う。 「真の人間について のその時々の理想が, イエス御自身と何の関係もなくイエス像に投影 されているなどということは決してない。むしろイエスが真の人間と 考えられているところではどこでも, ・ ・ ・その普遍的意義の中で認識さ れた彼自身の特別な個性の特色が問題となっている。確かにイエスの 人間存在についての教会の教理の課題は, イエスの特別な個性…の 普遍的人間的意義老指摘することにある。」52)イエスはイスラエルの 終末論的約束を先取りという仕方で成就することによって, 人間の普 遍的希望を成就したのである。

第六のテーゼ: 「イエスの職能は, 人間をイエスと共にすでに出現 した神の支配へと招くことである。」

第六章(「イエスの職能」)は「三職能論の批判」 (I), 「神の支配へ の招き」(II), 「イエスの出現における普遍妥当性と時代的制約」 (III) の三節から構成されており,最初に取り上げられているのはいわゆる 三職能論の問題である。職能の概念をキリスト論の中心に据えたのは プロテスタント神学である。宗教改革者たちが職能の概念逢用いて表 現しようとしたことは, イエスの業は徹底的に神から理解すべきであ るということであった。彼らが職能と言うとき, それはOpuSの概念

(27)

よりも広く, イエスの生涯全体を意味していた。三職能論老鰻初に唱 えたのはルターではなくAndre"Osianderであり, 彼は聖書の引用 鞍もとにして(マタイ23;8笛.,ルカ1 :32H. ,詩110:4),預言者,王,

祭司としての三職能を主張した。三職能論はカルヴァン轄経てやがて 一般に受け入れられるようになったが, もともととの三職能論はキリ ストという称号の言語上の意味から引き出されている。 しかしながら パネンベルグの理解によれば,三職能論をキリスト称号から根拠づけ ることは不可能である。それはまず王に対してのみ用いられた称号で あり,やむ老えない場合には祭司に対しても用いられた。 しかし預言 者に対して用いられることはほとんどなかった。 イエスを古代イスラ エルの意味での預言者と呼ぶことはできない。 というのは預言者{こ特 有の「言葉の受領」53)が欠けているからである。 イエスの時代には預 言者の伝統と黙示文学は緊密に結合しており, イエスは古い意味での 預言者よりも黙示文学家に近かった。だが彼は黙示文学家では葱かつ た。彼は黙示文学を書かなかった。彼は洗礼者ヨハネと同様に歴史の 終末の接近と悔い改め毎告知したのであり, しかも彼は洗礼者と違っ て将来に期待されていた救い巻人々に与えることができた。彼は自分 の登場と共に将来の救いが現在起こっていることを知っていた。 イエ スが黙示文学を遇して古いイスラエルの預言者の伝統に触れていたこ とは確かであるが,彼は預言者でも黙示文学家でもなかった。従って イエスの派遣逢預言者の概念で把握することは不適当である。ただし イエスの活動は他の二つの職能と比較するならば,預言者の伝統によ り近いということができる。生前のイエスは王であること老要求しな かった。王について語ることが意味壱もつようになったのは, 弟子た

(28)

ちが復活の主に出会ったときであった。 イエスは復活後に,今や天に いる来たるべきメシア,人の子と同一視された。また祭司的職能につ いては,新約聖書においてイエスを大祭司と呼んでいる記事と, 彼の 十字架上の死をわれわれの罪のためのなだめのそ葱えものと理解して いる記事が問題となる。前者はヘプル人への手紙にみられるもので,ア レゴリカルな要素が大変強い。他方後者の元来の意味は, 神がイエス を死に到らしめたということにある(ローマ4:25)。パウロがキリス トぞいわばその死の主体と述べている場合でも (ガラテヤ1 :3ff. ),彼 はイエスの死をその高挙や派遣から考えている。福音書の受難物語も 同じ構造をもっている。 しかも神の前に民のためにとりなしをするの はイスラエルの預言者の任務であり (エゼキェル13 :5), イエスは 祭司的伝統と言うよりもむしろ預言者の代理的受苦の伝統の中に立っ ている。従って三つの職能のうちでイエスの地上の生活をある程度適 切に表現しているのは, 「預言者」の職能だけである。古プロテスタン テイズムの教義学が三職能論考展開することができたのは, 人間イエ スではなく,神人イエス・キリストがその職能の担い手であると考え ていたからである。それははじめからイエスの歴史的現実性という問 題を超越していた。しかしながらイエスはもともと人間として登場し たのであり, イエスの神性に対する告白の根拠は復活による派遣の確 証にある。 「イエスの復活はまさに彼の神性についてのわれわれの認 識のみならず, イエスの神性の存在にとっても本質的なのである。」64)

ではプロテスタント神学のイエスの三職能論は何の意味ももっていな いのであろうか。パネンベルクはこの疑問に答えて次のように言う。

つまりその特質は「イエスの出現および運命と古いイスラエルとの関

(29)

係を表現した」55) ことにある。古プロテスタンテイズムの教義学はイ エスの職能を旧約の神の歴史の成就と考えたが, この職能の図式は類 型論的な意味密もっている。それはイエスの出現がその中で可能とな った現実の伝統連関を示すというよりも, イエスの出現とイスラエル の伝統の関連老表現する象徴なのである。

第二節は生前のイエスの特徴を「イエスの接近待望」, 「救いの臨在」,

「神は良き父であること」, 「愛における生涯」の側面から明らかにしよ うとしている。 イエスは神の支配が接近していることを告知したが,

この待望はイエス自身の身に起こった死人からのよみがえりによって 成就されている。 イエスの告知は人々を日常生活の確実さの中から引 き出し,内世界的生活形成がすべて暫定的なものであること密暴露す る。しかも神の支配の接近についてのイエスの告知は, それを聞く人 毎にとってはそれ自体が救いである。救いは人間の規定つまり神開放 性の成就である。来たるべき救いはイエスの告知の中にすでに臨在し ており, それ故に彼は荒野ではなくて人々の問に入って行く。悔い改 めとは最初に戻ることではなく,神の将来にむかうことである。 イエ スは神を父と呼ぶことによってこの神の接近に対する信頼ぞ表わした (マルコ14:36)。われわれはこの「父」という呼びかけにおいてはじ めて,神の支配の接近に関する終末論的使信と, 日常生活の中から取 り出された知恵の言葉や菩という全く非終末論的にみえる使信を統一 的に理解する手がかり鞍得る。両者のテーマの関連性は, 双方におい て「父」 という用語が用いられていることから明らかである。 日常生 活の中で必要なもの壱求める祈り (マタイ6:8, 7:11) の中に示さ れている神に対する信頼と献身は,神の支配をめざしている姿勢と極

(30)

めて密接に関連している56)。 「これはイエスの告知において到来しつ つある終末の光の中で, はじめて創造の真の本質が開示されるとと 窪意味している。」57)万物の創造は,過去に属するものを含めて,究極 的将来(終末)から生起するのである。万物は神の支配の接近によっ て, もともと神の被造物として万物に属している神との関係に招き入 れられる。まさにここに, イエスの終末論的使信の普遍的真理性があ る。 イエスは約束に対する無条件の信頼,つまり子供のような信頼を 要求しただけであり, 彼はそれによって人間の被造物としての規定 (根本的開放性)へと招き入れた。神の支配の終末論的接近は全被造 物に対する神の切迫を開示し, 「人間存在の『自然的』規定」58)を明 らかにする。 この万物の神に対する自然的直接性はいわゆる自然的所 与ではなく, それは黙示文学的に基礎づけられた神の支配の接近につ いての使信によってのみ明らかになる。来たりつつある神の支配の使 信とそこに含まれている無条件の救いを理解した者は,神の意志の実 現にすべてを賭けようとする。罪の赦しは他者への愛を惹き起こす。

この愛は交わりをうみ出すことによって人間の規定の統一性を実現す る。赦しが存在しないところでは,交わりは存続しえない。愛は法と 対立するものではなく,むしろ積極的な法形成の根源となる。しかも それは理想的自然法ではなく, そのつど新たに状況に応じた法を創造 する力である。確かにイエスの使信には,人間社会の法形成をいかに根 拠づけるかといった問題意識は含まれていない。しかしそれにもかか わらずこの法の根拠づけは, イエスがユダヤの律法を愛によって解釈 しようとしたことから出てくる59)。従ってイエスの使信には政治的社 会的関心は含まれていないというK.ヤスパースの批判は誤りである。

(31)

それはイエスの愛の戒めの意義を誤解していると言わざる蓮え葱い。

愛の戒めは個人の倫理的地平に限定されず, どんな状況においても妥 当性蓮有する意志の方向性を開示する。確かに終末「接近待望はイエ スの時代の特殊葱性格であり, それはすでにイエスにおいて成就され ているが故に, 後の時代にとっては無くてもよいものと鞍った。」60)

だがそれは人間ぞ自らの究極的規定へと直面させるのであり, ここに イエスの活動の普遍的妥当性があるのである。

第七のテーゼ: 「イエスの十字架上の死は,彼の復活によって,われ われ人間の神ぞ冒涜する存在に代って受けた刑罰として啓示されてい る。」

第七章はイエスの「運命」について論じている。運命とはイエスに 対していわば外側から与えられたもののことであり, パネンベルクに よればその内容は十字架と復活である。第七章は「イエスの死の最古 の諸解釈」 (1), 「イエスの自己理解と彼の有罪判決の宿命的性格」(I1),

「代理としてのイエスの死」 (111), 「イエスの死の救済的意義に関す る諸理論」 (1V)の四節から構成されている。 イエスの十字架につい ての問い逢うみ出したのはイエスの復活であるが,最古の伝承(マタ イ23:37, ローマ11 :3,第一テサ2:14ff. )は, この十字架の死を

「預言者の死」の線で理解している。 しかもイエスの死は旧約聖書と の関連で「必然」であるときれている (マルコ8:31, 14:49)。彼は すでに自分のためにではなく, われわれのために死んだと考えられて いる。 イエスの復活は,彼は罪がないにもかかわらず処刑されたこと を明らかにした。 イエスは「『多くの人』のために流す…契約の血」(マ ルコ14:24, ルカ22:20) と呼ばれており, これはイザヤ護第53章

(32)

12節との関連茜暗示している。 コリント人への第一の手紙にあるパ ウロの言葉(15:3)は, ユダヤ教に広まっていた受苦と死がもつあが ないの力についての思想と, 旧約において預言された人の子の死の思 想が結びつけられたことを示している。 この結合によって神の僕の贈 罪的受苦のモティーフを取り入れることが可能と葱った。 このように イザヤ書第53章と関連づけることによって, 「イエスの死逢通しても たらされたあがない」の思想は「多くの人のため」 という普遍的な広 がり壱獲得するに到った。 さらに原始キリスト教にはイエスの死のあ がないの性格について, これとは別の解釈もみられる。 それはもとも と主の晩餐に由来するもので, イエスを「あがないの供え物」 (ローマ 3:25) と理解し, その死を「契約の血」 (マルコ14:24) と理解す る伝統である。またパウロはこのキリストの十字架を律法の終わり と理解した。山上の説教などにみられるイエスの行為は, ユダヤ人 にとって−彼らは律法の権威とイスラエルの神の権威蓮区別しな かったが故に−神を冒涜するものであった。 イエスが復活したと き,つまり神が生前のイエスの行為を確証したとき, このユダヤ人の 判決ははじめて無効となった。 イエスの復活と共に伝統的な律法は神 の意志老表わすのにふさわしくなくなったのであり, パウロはこの点 壱とらえている61)。従って律法からの自由の使信は,復活の視点から 出てきていると言うことができる。しかしパウロは神の「法意志」とイ スラエルの特殊な法伝統を明確に区別することができ悪かったために,

彼においてはイエスの使信と伝統的悪法との関係(連続と非連続の関 係)が大変暇味に葱っている。ユダヤの法伝統はイエスとの衝突によ ってその妥当性老失ってしまったが, もともとその中に生きていた神

(33)

の意志は,愛の戒めという新たな究極的形態をとったのである。 この 愛の力から,いつも新たな生活形態と新たな法秩序がうまれてくる。

伝統的な律法は神の支配の接近に基づく愛の戒めによってその妥当性 ぞ奪われ, この律法からの自由はイエスの復活軽通してイスラエルの 神御自身によって確証されたのである。

原始キリスト教においてイエスの受苦と死が代理の意味老もってい たことは,主の晩餐の伝承とイエスが弟子たちに仕えたこと(ルカ22:

27b, マルコ10:45)に記憶されている。 イエスの死は復活によって 裁く者と裁かれる者との関係諺逆転させたが, イエスは彼の裁判にあ たった当事者だけでなく,律法の権威に拘束されているイスラエル全 体のために死んだのである。 イエスは「すべての人のために死んだ」

(第二コリ5: 14)。パウロは罪と死の間の普遍的人間論的関連とユダ ヤの律法を結びつけることによって, イエスの死轟人類全体に関係づ けている62)。確かにキリスト者も死ななければならないが,彼は絶望 のうちに死ぬのではなく, 主イエスの中にすでに表われた死人からの よみがえりの命に対する希望のうちに死ぬのである。

イスラエルの民にとって罪責と刑罰の関係は, いわば一種の自然法 的関係であり, それは行為とその結果の関係であった。近代人は刑罰 や褒賞ぞ,行為者や行為の自然的本性とは何の関係もない理想的規範 の働きとみなすことが多いが, イスラエルの場合はそうではなかった。

不幸はいつも悪い行為に由来すると考えられていた。 「罪の支払う報 酬は死である」(ローマ6:23) との言葉も,この意味で用いられている。

死は, われわれ老生命の根源である神から引き離そうとする罪の本質 が極端に表われた結果である。へブル語では行為もその結果も同じ言

(34)

葉(@aw6n, hatta't)で表現されており,コリント人への第二の手紙 第5章21節の言葉も,われわれの罪から出てきた不幸がキリストにふ りかかったことを指している。 イスラエルにおける罪とあがないの関 係を理解するには, われわれはさらに当時の社会と個人の関係を考慮 しなければならない。 イスラエルにとって人間の行為−特に悪い行 為一は,行為者の人格をはるかに超えた独立した影響力をもってい た。だからこそ行為の主体が分らないときは若い雌牛を犠牲とするの であり (申21:1‑9),罪過を移譲することができるという考え方はイ スラエルのあがないの犠牲制度の前提となっている。従ってレピ記第 16章を理解するには,行為とその結果の自然的関係と,行為が行為者 から独立していることぞ知らなければならない。 この考え方は,捕囚 後の個人主義にもかかわらず,失われるととがなかった。パネンベル クの考えではこの基本的な考え方は, ソッツィーニ主義やリッチュル の批判にもかかわらず, 今日においても妥当性逢有する。 というのは 社会生活にあって代理は,行為においてもその結果においても普遍的 な現象だからである63)。 「代理それ自体は決してイエスの奇跡的超自 然的特殊性ではありえないからである。」64)

教会はイエスの十字架上の死を解釈して, 「罪と悪魔に対する支払 い(賠償説)」, 「充足説」,「キリストの刑罰としての受苦(刑罰説)j と いった考え諺生み出してきた。問題はこれらの見解が聖書の記述とど のように関係するのかということである。まずイエスの死によって罪 と死の力からあがなわれたという考えは,パレスチナ教団にさかのぼ ることができる(マルコ10:45,ガラテヤ3:13,4:5,第一コリ6:20)。

原始キリスト教にあっては「贈いの代金」の思想は, 「賭罪の犠牲」の

(35)

思想と同様にイエスの死の代理的性格を示すものとして, ただ比噛的 な意味をもっていたにすぎなかった。従ってその蹟いの代金は誰に支 払われたのか,といった問題は起こらなかった。この比聴的な理解から 現実的でしかも神話的な解釈へと移行していったのは2世紀になって からである65)。アンセルムスの場合はイエスの十字架の本質的意味ぞ 表現しようとしている。彼はイエスの死ぞイエスの業績と考えている。

彼は福音書の受難預言を文字通りに受取り, そこから充足説を展開し ている。しかしパネンベルクからみればこれは受難預言の誤解である。

それはいわゆるvaticmiumexeventuであり68), イエスの死は運命的 葱性格をもっているからである。 イエスの死の購いの性格は彼の復活 によってはじめて明らかになってくることである。ルターはたしかに

「イエスの死をその本来の意味において代理的刑罰苦として理解すべ き」67)ことを明確に把握したが,やはり彼も,イエスの十字架の意義に 関する言表はすべてイエスの復活からはじめて可能になることを, 明 確にとらえることはできなかった。彼はイエスの死の代理的性格老受 肉から理解してしまった。 この点で彼は古代教会と中世の伝統に従っ ていたのである68)。

1V.

第三部(「キリストの神性と人間イエス」)の課題は第一部と第二部 を総合することにあり, 「両性論のアポリア」 , 「イエスと神との人格 的一致」 ,「イエス・キリストの支配」の三章から構成されている。

第八のテーゼ: 「イエスと神との一体性は二つの実体の統合として 考えることはできない。そうではなく, この人間としてのイエスが神

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