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使徒言行録におけるペトロの弁明演説

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(1)

使徒言行録におけるペトロの弁明演説

著者 原口 尚彰

雑誌名 東北学院大学論集. 教会と神学

号 36

ページ 15‑44

発行年 2003‑03‑25

URL http://id.nii.ac.jp/1204/00024310/

(2)

1

使徒言行録における ぺ ト ロ の

弁明演説

原  口  尚 彰

第 l 節   序論

使 徒 言 行 録 が 描 く と こ ろ に よ れ ば

ぺトロが様々な機会に行つた八 つ演説は

最初期の教会の歩みに決定的に重要な役割を演じた ( 使 1 : 16

-

2 2 ; 2 : l 4

-

4 0 ; 3 : 1 2

-

2 6 ; 4 : 8

-

1 2 ; 5 : 2 9

-

3 2 ; 1 0 : 3 4

-

4 3 ; 1 1 : 5

-

1 7 ; 1 5 : 7

-

1 l )

私は以前に, 使 徒 言 行 録 中 に 報 告 さ れ て い る ぺ ト ロ の三つの伝道説教を, 修辞学の視点から分析してみた  ( 使 2 : 1 4

-

40;

3 : l 2

-

26;10:34-43)

' 。 

これらの演説は

,

聴衆に対して回心という

定 の 行 動 を と る こ と を 働 め て ぉ り

,

修辞学的には助言演説の種類に分 類 出 来 る ( ア リ ス ト テ レ ス 『 弁 論 術 』 1 3 5 9 b

-

1 3 6 0 b ; ク ウ ィ ン テ ィ リ ア ヌス

弁論家の教育』3.8.1

-

9 ; 4 . 2 . 3 ; 9.4.130)2

こ れ に 対 し て , 本 論 文 は法的場において行われたぺト ロの三つの演説を修辞学の視点から検

拙満使徒言行録の修辞学的研究  (1)  ぺ ト ロ の 伝 適 説 教」 「束北学院大学キリ スト教文化研究所紀要第 2 0 号 ( 2 0 0 2 ) 6 l

-

100頁。

J.Martin,Antike Rhetorik  ( M

u

nchenBeck,1974)  167

-

1 6 8 ; R . V o l k

-

mann,Die Rhetorik der Griechen und ROmer(Leipzig:Teubner,l885;Nach

-

druck:HiIdesheim:GeorgOlms,1987)294

-

299;H.Lausberg,Handbook of Literary Rhetoric:A Foundation for LiteraryStudy(ed.D.E.0rtonand/R.D.

Anderson;Leiden:Bril1,1998)32

-

3 3 Ci6 1 ) ; 9 7

-

1 0 2 (Sll224

-

238).

-

15

-

(3)

討 を 加 え る こ と と す る ( 使 4 : 8

-

1 2 ; 5 : 2 9

- 33; 

l 1 : 5

-

17)

。 

三つの演

説の内の二つは

ダヤの最高法院で行われた審間においてなされてい

る が ( 使 4 , 8

- 12;5,29 -

33)

他の

つは

ルサレムの教会の信徒達の 前でなされている(使11:5

-

l7)

本考察において私は

,

三つの法的性

格を持つぺトロの演説が

異なる修辞的状況においてどのように機能 しているのかを吟味してみたい

第 2 節   使徒言行録4:  8 - l2の修辞学的考察

(1)  修辞的状況

ぺ ト ロ と

ハネは

ルサレムの神殿の庭で

人の障害者の人に癒し

を与えた(使3:1

-

8)

この奇跡的な出来事は

,

神殿に居合わせた

ヤ人群衆を驚かせた(3:9

-

10)

彼らは説明を求めて使徒達の下に駆 け 寄 つ て 来 た ( 3 : l l )

ぺトロは彼らの疑間に答えて

,

スの名に よって行われた病しの出来事を説明する演説をし

群衆達に回心を勧 め た ( 3 : l 2

-

26)

。 

この演説においてぺトロは

スの名

の信仰が 奇 跡 的 癒 し を 招 来 し た こ と を 強 調 し た ( 使 3 : 1 6 ; さ ら に, 3 : 6 も 参 照)

他方

,

彼は

ダヤ人達が殺書したイ

スを

,

神が復活させたと述 べて

スの十字架の死に対する

ダヤ人の責任を強調した(使3:

l 3

-

l5)

。 

この演説の主日的は

ユダヤ人群衆に悔い改めを勧めること であった(3:l6,26)

。 

この演説は大変効果的であり

,  エ

ルサレム教会 の信徒は短期間に增加し五千人にのっ た と い う ( 4 : 4 )

しかし

,

使 徒達の神殿における宣教と癒しの活動は

祭司やサドカイ派の人

々の

怒りを買つた

それは

,

神殿で民衆を教えることは祭司の専権事項で

-

l 6

-

(4)

使徒言行録におけるぺトロの弁明演説  3 あ る と 彼 ら が 考 え て い た の と ( マ タ 2 1 : 2 3 ; マ コ 1 l : 2 7 ; ル カ 2 0 : l を参照)

,

サドカイ派が死者の復活の教理を認めていなかったためであ ろ う ( マ タ 2 2 : 2 3 ; 使 2 3 : 6

-

9を参照)

彼らは使徒達を神殿で捕らえ て

,

留 置 し た ( 4 : l

-

3)

翌日に最高法院が招集され

,

使徒達

の審理 が 直 ち に 開 始 さ れ た ( 使 4 : 5

- 7,

さ ら に 使 4 : 2 5 を 参 照 )

彼らは使徒 達に対して

, 「

お前たちは何の力で

または誰の名においてこのことを 行つたのか?」と 問 い 詰 め た ( 使 4 : 7 ; さ ら に

,

マ タ 2 l : 2 3 ; マ コ 1 1 : 2 8 ; ル カ 2 0 : 2 ; 使 5 : 2 1 を 参 照 )

そ こ で

,

ぺトロが使徒達を代表し て行つた弁明がこの演説である(使4:8

-

12)

。 

こうした経緯が示して

い る よ う に

この演説は

ダヤの最高法院という公的な場においてな さ れ

法的な性格を帯びている

。 

使徒達は

ルサレム神殿という宗教 的 に も

政治的にも

ダヤの中心的な場所において行つた宣教活動の ために逮捕され

裁判にかけられているのであるから(使4:5

-

7)

れは

ルサレムの宗教勢力による最初のキリスト教迫書の試みと言え る で あ ろ う

。 

しかし, 奇 妙 な こ と に

,

大祭司の審問の言葉は

,

使徒達 の神殿における宣教活動に向けられることはなく

専ら癒しの業の根 拠を問うものであった3

。 

この間いは問責に近く, 使徒の側の答え方次

3 H

.

Conzelmann

.

Die  Apostelgeschichte (TObingen:Mohr,1972)  4 3 ; G . Schille,die Apostelgeschichte des Lukas (ThHKNT5Berlin:Evangelische Verlagsanstalt, l989)  133;G.Schneider,Die Apostelgeschichte  (2 Bde;

Freiburg:Herder,l980

-

8 2 ) I , 3 4 2 ; R . l1

'

lesch,Die Apostelge.hichte(2Bde;

EKKV/l

-

2 ; 2 .  durchgesehene  Aufl

.

;Solothumund  D

o

sseldorfBenziger;

Neukirchen

-

Vluyn:Neukirchener,1996)I,l62;A.Weiser,die Apostelges chichte (2Bde;TKN5/l

-

2;GOtersloh:Mohn;WOrzburg:Echter,1980

-

85)

I , l 2 2 ;  J.A.Fitzmyer,The Acts of the Apostles (AB3l;NewYork:Doub.

leday

.

l998)300;M.L.Soards,The Speeches in Acts(Louisville, K T : W e s t

-

minster/John Knox,l994)44;C.K.Barrett,The Actsof the Apostles(2vols;

I C C ; E d i n b u r g h : T & T  Clark;1994

-

9 8 ) I , 2 l 7 ;  J. Jervell,Die Apostelges

-

chichte (KEK;GOttingen:Vandenhoeck&Ruprecht,1998)177

.

-

l 7

-

(5)

第では,直ちに彼らの罪責を示す手だてともなり う る も の で あ っ た

イ エスの名前の故に使徒達や信徒達が迫害を受けることは

既にイ

ス がその地上の生涯において予告していたことであった ( ル カ 1 2 : 1 2 ; 2 1 : 1 2 ; さ ら に

,

マコ 1 3 : 9 ; マ タ 1 0 : 1 7

-

19)4

ぺ ト ロ は 聖 1 霊 に 満 た さ れ て 語 り 始 め た ( 使 4 : 8 a ) 。 最高法院におけ るこの弁明は

彼がかつてぉこなったぺンテコステ説教と同様に

,

望 に 導 か れ た 演 説 で あ っ た ( 使 2 : 1 4

-

39)5

従つて

ぺトロは自分の知

恵ではなく

神が霊を通して与える知恵によって法廷の証言を行つて

い る こ と に な る ( ル カ 1 2 : 1 2 ; 2 1 : 1 5 )6

望に満ちた彼の証言は

,

そ の 自 由 奔 放 さ に よ っ て 聴 衆 を 驚 か せ る こ と に な っ た  (使4:13.29.3l;

2 8 : 3 1 ; さ ら に, 9 : 2 7 . 2 8 ; 1 3 : 4 6 ; 1 4 : 1 ; 1 8 : 2 0 . 2 6 ; 1 9 : 8 ; 2 6 : 26を参照)7

(2)  配列構成

4 : 8 b   序 言 ( :;lpo o iµtot

,

;exordium):民の最高位者や長老達

の語り掛け

4 : 9

-

10  叙 述 (

a

t

-

17γ117,0:t f';narrati0) :

v.9

-

10a  イ

スの名による病人の癒し

'

Weiser,I,127

-

128; Jerveli, l 7 8 .

Weiser,I,127;Barrett,I,226;E.Haenchen,Die Apostelgeschichte( K E K ; 13.durchgesehene und erweiterte Aufl.;GOttingen:Vandenhoeck&Ruprecht, 196l) 175,177;B.Witherington 

m

, T h e  Acts of  the Apostles:A  Socio

-

Rhetorical  Commentary  (Grand  Rapids:Eerdmans;Carlisle:Paternoster, l998)193.

Conzelmann,43;Fitzmyer,300.

7 p e s c h , I , l 6 6

-

1 6 7 ; W e i s e r , I , 1 2 8 ;  Jerve11,179-180;Fitzmyer,302;Bar

-

rett, I,226.

-

l 8-

(6)

使徒言行録におけるぺトロの弁明演説  5

v.

10b  イ

スの十字架上の死と復活

4 : l 1  

論証(ztonf;probatio/argumentatio

) : 練 梁 達 に よ っ て捨てられた隅の頭石イ

ェス 

(詩1l8,22).

4 : 1 2   結語(,

i

n

, a

oyof

;peroratio/conclusio):救い の唯 一 の源

であるイ

ェ ス

この短い演説は

四つの部分から構成されている ( 4 : 8 b 序 言 ; 4 :

9 -

l 0 叙 述 ; 4 : l 1 論 証 ; 4 : 1 2 結 語 )

序言は(:lりooo111µ

eov;exordium)

大変簡潔であり

聴衆に対する語りかけの言葉しか含んでいない

。 

こ の場合

,

聴衆とは最高法院の議員達, つ ま り

,

民の最高位者達と長老

達であった

。 

修辞法において序言は

聴衆に対して本論の中で展開さ

れる議論に対する準備を与える機能を果たす ( ア リ ス ト テ レ ス

弁論 術 』 1 4 l 4 b ; ク ウ ィ ン テ ィ リ ア ヌ ス

弁論家の教育』4

.1.

5)8

ぺ ト ロ は 序言において

聴衆に直接語り掛けて

自分がこれから語る内容に対

して注意を引こうとしたのであった

能 ( 陳 述 ) の 部 分 に お い て ぺ ト 口は ( 使 4 : 9

-

l0)

,

神殿における

癒しの業を描写している

。 

古典古代の修辞法において

叙述(陳述)は 法廷演説には不可欠の要素とされている(キケロ

発想論

l.10.17; ク ウ ィ ン テ ィ リ ア ヌ ス

弁論家の教育

4

.2.6 -

30;4.2.66

-

84)9

但し

,

エスの名による癒しの業に関連して

ぺ ト ロ は イ

スの十字架上の死 と死人の中からの復活にまで説き及んでいる(使4: l0)

。 

この点は特 殊であるので

修辞学的な考察を必要としている

論 証 部 分 は ( 4 : 1 l )

,

詩 l l 8 [ l l 7 ] : 2 2 の 非 常 に 簡 潔 な パ ラ フ レ ー

8Martin,S

.

60

-

74;Volkmann,S.l27

-

l48;Lausberg,S.12l

-

l35 (S1ll263

-

288).

9Martin,S.58,75.

-

l g

-

(7)

ズである

'° 。

スは

,

練梁達に喩えられている

ダヤ人指導者達から 捨 て ら れ

十字架に架けられたが

神の力によって復活し

隅の頭石 と なったのであった(詩1l8:22)

。 

こうした聖書論証が有効に働くた めには

聴衆の側が旧約聖書の規範的価値を承認し

そこに書かれて いる言葉に

いての知識を持つているが前提となろう

。 

この審間の裁 判官である

ユダヤ人指導者は当然のこと

旧約聖書の規範的価値を 承認していたのである(4:8)

。 

ぺ ト ロ は

ダャ人聴衆相手の演説にお いては

,

このような聖書証明を度

用いている(例えば

,

使 2 : 1 7

-

21

=

ヨ エ 3 : 1

-

5 ; 使 3 : 2 5

- 28 =

詩 l 5 : 8

-

l 1 ; 使 3 : 2 2

-

23

=

申 l 8 : 1 5

-

20)

これに対して

,

異邦人聴衆相手の演説では

,

ぺ ト ロ は 主 と し て 自 然世界の観察から得られる洞察を論証手段として援用することがある (使17:24

-

30)

修辞学的に言えば,聖替論証は

,

聴衆の論理的思考に 訴えて

,

説得することを試みるロゴス と評価される ( ア リ ス ト テ レ ス

弁論術

1377b

- 1378a;l395a -

1396a)

'' 。

この演説の結語も(4:l2)非常に簡潔である

古典古代の修辞法の 慣例によれば

序言において弁論家は演説内容の重要なポイントを再 度要約し

,

主 張 を 明 確 に す る ( ア リ スト テ レ ス

弁論術

l 4 l 9 b ; キ ケ ロ

発想論

l,52,98)

'

2

。 

結語においては

聴衆の同意を獲得するため 感 情 に 訴 え る こ と が 常 で あ っ た ( ア リ ス ト テ レ ス

弁論術

1419b;ク ウ ィ ン テ ィ リ ア ヌ ス

弁論家の教育

」 6 , l , l -

2)

'

3

。 

しかし

,

ぺトロの演

'° 

この旧約引用にいて

使 4 :  llの本文が

構文や用語の点で七十人訳の本文 か ら 大 き く 乖 離 し て い る こ と か ら,Haenchen,S.l76;Weiser,I,127Schneider, I,348;Fitzmyer,30l;Barrett,I,230は

,

独 立 の 詩 l l 8 [ 1 l 7 ] : 2 2 の ギ'リシア語 訳伝承の存在を推定している

u描稿

視福と呪いの言: ガ ラ テ ヤ 書 と

プ ラ イ 的 レ ト リ ッ ク

」 「

新約学研究

第 2 7 号 ( l 9 9 9 年 ) 2 0 買

'

2Martin,147

-

l48;Volkmann,262;Lausberg,206

-

2 0 7 (SS434

-

435)

.

-

20

-

(8)

使徒言行録におけるぺトロの弁明演説  7 説のこの結語はあまり感情に訴える要素を含まず

非常に論理的な発 言に終始している

ぺ ト ロ は こ こ で

ェ ス

が救いの唯

の根拠であ る と 高 ら か に 宣 言 す る ( 使 4 : 1 2 )

この結語は

,

演説内容の論理的帰 結の表明であり

聴衆に留まらず

使徒言行録の読者に対して語り掛 け て い る と 言 え る で あ ろ う

(3)  修辞的種

2

l

ll

語られたのが

最高法院の審間の場であるので

この演説は法廷演 説の性格を持つ

'' 。 

法廷演説では

被告人の過去の行動が間題となる ( ア リ ス ト テ レ ス

弁論術

1358b;キケロ

発想論

l.5.7;クウィン テ ィ リ ア ヌ ス

弁論家の教育

」 3.4.

1

-

16)

'

5

文脈が示すように

この演 説は

使徒達が神殿で行つた行動について尋ねる

大祭司の審間の言 葉 に 応 え て な さ れ て い る ( 使 4 : 5

-

7 ; さ ら に

,

4,25を参照)

'

6

この演

説は弁明演説の性格を持つが

'

7

,

弁明演説は

,

告訴人による告発に答え て被告人が行う法廷上の答弁であるので

事柄の性質上常に対話的な 性格を持つ

'

8

大祭司は

,

使徒達がぉこなった神殿における1應しの業の 法 的 根 拠 を 問 う て い る ( 使 4 : 7 ; さ ら に

,

マ タ 2 l : 2 3 ; マ コ l l : 2 8 ; ル カ 2 0 : 2 ; 使 5 : 2 l を 参 照 )

ぺ ト ロ は

,

使徒達が神殿で

人の障書 を持つ人を癒した事実を争うことはしないが

この癒しの行為が正当

'

3Martin,l48

-

149;Volkmann

.

262.27l; Lausberg,266

-

2 6 7 (

SS

436

-

439).

''

G.A.Kennedy,New  Testament InterpretationthroughRhetoricalCriti

-

cism (ChapelHill:The University of North Carolina Press,l984)  1 l 9 ; Soards,44.5l;Witherington III,l93

.

'

Martin,3l

-

32;Volkmann,38;Lausberg,64(

S

l44)

.

'

Schneider,I,342.

l

'

Schille,133;Pesch,I,l66;Fitzmyer,296;Witherington III,l93.

'

8 Lausberg,43(S 8 3 ) ; 6 5 (

S

l47)

.

-

2 l

-

(9)

8

なものであることを主張している ( 使 4 : 9

-

1 l )

(4)  修辞的

メ ン ト

( 4 : 8 b )   この序言は非常に短く

聴衆

の語り掛けだけから構成 されているのは

後に最高法院でなされるステファノの演説の場合と 同 じ で あ る ( 使 7 : 2 を 参 照 )

聴衆は最高法院の議員達であり

こ こ では審理における裁判官の役割を演じている

。 

彼らは

当時の

ダヤ の高位聖職者と長老達であったのであるから

,

宗教的事柄においても

,

社会的事柄においてもイスラ

ルの民を代表する権威者達であった ( 使 4 : 5 . 8 ; 6 : l 2 )

この聴衆に向かって語られたぺトロの演説は

,

間 接的には

,

イ ス ラ

ルの民全体に向けられていたと言える(4:l0を参 照)

( 4 : 9

-

l0)  演説の叙述(陳述)部において(使4:9

-

l0)

ぺ ト ロ は

自分たちがなした神殿での廳しの業に

いて短く言及する

。  一

般的に 言つて

,

叙 述 ( 陳 述 ) 部 に お い て

,

告訴人が告発を裏付ける過去の事 実を列挙するのに対して

被告人は

自分が無実であることを示す証 拠 と な る 事 実 を 並 ぺ る ( ア リ ス ト テ レ ス

弁論術

1416

-

14l7b; ク ウ ィ

ン テ ィ リ ア ヌ ス

弁論家の教育

」 3.8.

l 0

-

11;4.2.31)

'

9

。 

この弁明演説に

お い て ぺ ト ロ は

神殿で癒しを行つたという事実そのものを争うこと をせず

この行為が正当であるということを示す証拠として

それが イ

スの名によって行われたことを強調している ( 4 : 9

- lOa

)

つま

この場合の争点は

神殿での癒しの事実の有無ではなく

それが

'

Volkmann,123

-

l27;Martin,57

-

58;Lausberg,l57(

S

33'「)

.

-

22

-

(10)

使徒言行録におけるぺトロの弁明演説  9 正当な行為かどうかにあった

。 

修辞学的に言えば

ぺ ト ロ が 用 い る 論 法は

,

事実認定をめぐる議論(

genusrationale

) で な く

法的評価を めぐる識論(genuslegale) で あ った ( ク ウ ィ ン テ ィ リ ア ヌ ス

弁論家 の教育

」 3.6.83 -

85)2

°

こ こ で

,

議論の焦点が

,

ぺ ト ロ らの宣教活動で はなく

,

癒しの活動であることは注日に値する2

' 。

ぺトロら使徒達が

,

神殿で群衆を教えたために(使3:l2

-

2 6 ; 4 , l

-

2)

大祭司らの指導者

達の怒りを招いたのが

彼 らの逮捕の直接のき

かけであった

。 

それ は

大祭司が神殿で教えることは自分たちの専権事項であると考えて い た た め で あ ろ う ( 使 4 : 1

-

7 ; さ ら に

,

マ タ 2 1 : 2 2

- 23;マコ

l 1 : 2 7

-

2 8 ; ル カ 2 0 : l

-

2を参照)

と こ ろ が

,

大祭司が最高法院の審理におい

神殿における癒しの活動に

いてしか尋ねなか

たために

争点 は癒しの活動の法的根拠の問題に限られることなった(使4,7)

。 

こ う した論点の移動は

使徒達に有利に働いた

。 

陣害を持つ人をイ

ェ スの

名によって癒した事実は

彼らが神の使者である日に見えるしるしで あ っ た か ら で あ る ( 使 3 : 6 ; 4 : 9

-

lOb,l6,30)2 2

。 

旧約聖書や初期キリ

スト教の伝統的考え方によると

,

奇跡的行為を行うことは

,

神の使者 としての正当性を証明するしるしであった(出3:l2;4:8.9.28.30;

7 : 3 ; 申 4 : 3 4 ; 7 : 1 9 ; 2 6 : 8 ; 2 9 , 2 ; マ コ 1 6 : l 6 . 2 0 ; 使 4 : l 6 , 3 0 ; 5 : l 2 ; l 4 : 3 ; l 5 : l 2 ; ロ マ l 5 : 1 9 ; I コ

リ l : 2 2 ; I I コ

リ l 2 : 12)2 3。このような議論の仕方は,ユダヤ人聴衆や初期キリス ト教徒聴

Martin,3l

-

32; Volkmann,39; Lausberg,32(

S

6 l ) ; 4 3 (S 8 4 ) ; 6 5 (

S

l46)

.

a Schneider,I,342;Pesch,I,l62;Weiser,I,l22;Fitzmyer,300;Soards, 44;Barrett,I,2l7; Jervell,l77.

Haenchen,182.

:n拙著

パウロの宣教

(教文館, 1 9 9 8 年 ) 8 4

-

85買

-

23

-

(11)

l 0

衆に対しては非常に有効であったと推定される

使徒達が神殿におい て行つた癒しの業は

大祭司達も否定することが出来なか

たのであ る ( 使 4 : l 4 . 1 6 : 3 0 ):u

彼らは使徒達を有罪とする罪状を見つけ る こ とが出来なかったので

スの名によって教えてはならないと言い 渡して釈放したのであった ( 使 4 : l 7 )

他方

スの名による活動について述ぺる中で

ぺ ト ロ は イ

ェ ス

の十字架上の死に対する

ダヤ人たちの賣任について言及している ( 使 4 : l 0 )

ぺトロの言葉によれば

, 「

あなたがたは木に架けて殺した が

神が復活させたイ

スの名によって

この人は健常者となったの である

」 

(使4:lOb)

。 

この級述(陳述)部は

弁明的要素だけでなく

,

審間者である

ダヤ人指導者達

の告発の要素を含んでいる

。 

被告人 が告発者となり

告発者が被告人となっているのである(使7:39

-

53

を参照)

使徒言行録では

ユダヤ人聴衆に対する演説においてイ

ェ ス

の十字架上の死に対する

ダヤ人達の責任を間うことは通例である ( 使 2 : 3 6 ; 3 : l 3

- 1 6 ; 5 : 3 0 ; 1 3 : 2 8 -

30)

伝道説教において

,

の死

の資任のテーマは

ユダヤ人聴衆に対する悔い改めの勧めを行

う 前 提 と なっ て い る ( 使 2 : 3 6 ; 3 : 1 3

-

l 6 ; 5 : 3 0 ; l 3 : 2 8

-

30)

しか

,

法廷の弁明演説において

,

この主題を演説者が採り上げることは

,

大変挑戦的な印象を与える

スの死と復活のケリュグマ(宣教)は

,

裁判官である最高法院の構成員達こそ

実は裁かれるぺき者達である ことを意味しているからである

( 4 : 1 l )   こ の 短 い 論 証 部 は ( 使 4 : l l )

,

練梁たちに捨てられた石 が

瞬の頭石になったという趣旨の内容を述べる詩ll8 [ l 1 7 ] : 2 2 の

Haenchen,177:Schneider,I,349,350; Pesch , I , l 6 8 , l 7 0 ;  Fitzmyer

.

303

-

24

-

(12)

使徒言行録におけるぺトロの弁明演説  l 1

パ ラ フ レ ーズ で あ る ( さ ら に

,

イ ザ 8 : 1 4 ; 2 8 : l 6 を 参 照 )

この個所 は

指導者達の策課によって十字架に架けられたが

神が復活させた イ

スの運命を預言する言葉として

新約聖書の様

な箇所に引用さ れ て い る ( マ タ 2 l : 4 2 ; I ぺ ト 2 : 4

.6 -

8)

他方

,

ぺトロは聖書証明を

ユダャ人聴衆に対して度

用 い て い る ( 使 2 : 1 7

-

21

=

ヨ エ 3 : l

-

5 ; 使

3 : 2 5 - 28=

詩 l 5 , 8

-

l 1 ; 使 3 , 2 2

- 23 =

申18,l5

-

20)

今回の聴衆である

最高法院の議員達が旧約聖書に造請が深い人

で あ る こ と は

,

ぺ ト ロ の議論に説得力を加える要素となっている

。 

さ ら に

スの復活の 事実は

,

議論の真正性を強める要因となっ て い る ( 使 4 : l 0 ; さ ら に

,

使 2 : 3 6 ; 3 : l 3 -

l 6 ; 5 : 3 0 ; l 3 : 2 8

-

30を参照)

スの復活こそ

,

そのメシア性を神が承認した証拠であるからである

。 

十字架の死に際 して

様梁たちに喩えられる

ダヤ人指導者達に捨てられた石である イ

スは

,

神が与えた復活によって隅の頭石になった(使4:l1;さら

,

マ タ 2 l : 4 2 ; I ぺ ト 2 : 4 . 6

-

8)

ぺトロら使徒達は

,

復活の主を目

準 し た 証 人 なの で あ る ( ル カ 2 4 : 4 8 ; 使 l : 8 . 2 2 ; 2 : 3 2 ; 3 : 1 5 , 5 : 32)

( 4 : l 2 )   この演説の結語は

論証内容の論理的帰結を与えている ( 使 4 : l 2 )

。 

その視野は神殿における癒しの業を弁明するという当面 の日的を越え

すぺての人の救いと幸いということに及んでいる

第 3 節   使 5 :   29 - 32の修辞学的分析

( l )   修辞的状況

ぺトロが最高法院における弁明演説を終えると

最高法院の議員で

-

25

-

(13)

ある大条司や民の長老達はその大胆さに驚いた

使徒達は

,

律法に

いても修辞法に

いても教育を受けたことがない無学な素人であった

,

最高法院で堂々 とした弁論を展開したからである(使4:13)2 S

その秘密は

ぺトロが弁明演説をなすにあたり

聖望に満たされてい た こ と に あ っ た ( 使 4 : 8 a)

使徒言行録において

,

使徒達は聖館に満 た さ れ て 宣 教 の 言 葉 を 語 つ て い る ( 使 2 : 2 9 ; 4 : 2 ; 2 8 : 3 l )

初代教 会の理解によれば

主が予告したように宣教者達がその宣教活動の故 に捕らえられて

法廷で審間された際には

聖量が語るぺきことを教 えてくれるのであった ( 使 4 : 8 a , 3 0

- 31;

さ ら に

,

マ タ 1 0 : 2 0 ; マ コ l 3 : 1 1 ; ル カ l 2 , 1 2 )2

° 。

建の助けこそが

,

ぺトロの弁明演説の大胆さ

,

自由さの源泉であった

。 

審間者達は

障書を持つ人の奇跡的癒しの事

実を否定することが出来ず(使4:13.l6)

最高法院は使徒達にイ

ェ ス

の名によって語ることを禁じて釈放することを余機なくされた (使4, l 7

-

l 8 ; さ ら に

,

5,28も参照)。しかし

,

人 よ り も 神 に 従 う ぺ き で あ る と主張して

,

ぺトロらはこの宣教禁止令を拒否し(使4:9)

,

以前と同 じ よ う に

神殿における宣教活動を続けた(5,12)

エルサレムの民衆 は

,

彼らを尊敬し

,

信徒達の群れは成長し

,

五千人に達した(5,l2

-

l4)

彼らの宣教活動の成功は

大祭司やサドカイ派の人

を怒らせ

使徒 達は再び逮捕

,

投 獄 さ れ た ( 使 5 : l 7

-

l8)

しかし

,

監獄の扉は夜のう

ちに天使によって開けられ

,

彼 ら は 容 易 く 逃 れ る こ と が 出 来 た ( 5 : l 9

-

24)

彼らは神殿で宣教活動しているところを発見され

,

再び捕らえら れて

,

最高法院の審理の場に引き出さ.れ た ( 使 5 : 2 6 )

大条司は

,

二S Schneider,I,348

-

349

Pesch,I

.

l62.

-

26

-

(14)

使徒言行録におけるぺトロの弁明演説  l 3 ず次のように尋ねる

。「

この名前によって語つてはならないと堅く言い 渡したのではないか?」(使5:28a)

今回は

,

前回の審間の際に下さ れた宣教禁止命令

の違反が

,

具体的な罪状であった

実際のところ

,

使徒達は宣教禁止命令を無視して神殿で宣教活動を続け

エルサレム

の都をイェスの死と復活に

いてのケリュグマで満たしていたので

あった(使5:28b)

初代教会の伝道説教は

イ ス ラ

ルの民に対して イ

ェ スの死 へ

の責任を問うていたので

ユダヤ人指;導者達の不興を 買 つ て い た ( 使 5 : 2 8 c ; さ ら に

,

マ タ 2 7 : 2 5 ; 使 2 : 3 6 ; 3 : 1 3

-

l 6 ;

5 : 3 0 ; 1 3 : 2 8 -

30を参照)

こうした背景の下に始められた大祭司の 審問の言葉に応えて

ぺトロは他の使徒達と共に立つて最高法院の前 で弁明演説を始めたのであった(5:29a)

(2)  配列構成

5 : 2 9 b   序 言 (

oo

i1t

o

t

, ;exordium):人よりも神に従うべき

原則の表明

5 : 3 0

-

31  能 ( 加':17

γ

1

r σ

t

f;narratio

) : イ

スの死と復活

,

昇天

と 即 位

イ ス ラ

の悔い改めと罪の故しを受ける機 会の提供

5 : 3 2   結 語 (

t

n

a oyo

,

s

;peroratio/conclusio

) : 救 いの出来事 の証人としての使徒

この演説は極端に短く

他の演説に通常見られる

冒頭の語り掛け の 言 葉 す ら な い ( 使 1 : l 6 ; 2 : 1 4 ; 3 : l 2 ; 4 : 8 ; 1 0 : 3 4 ; l l : 5 ; 1 3 : l 6 ; 1 5 : 7 ; 2 2 : 1 ; 2 3 : 1 ; 2 4 : 2 ; 2 4 : 1 0 ; 2 6 : 2 ; 2 8 : 2 6 を 参 照)

この序言は

,

人よりも神に従うぺき原則を確認するだけで

,

他の

-

27

-

(15)

14

こ と を 全 く 述 ぺ て い な い ( 使 5 :  29)

。 

叙述部分においてぺトロは

ま ず

スの死の事実を信仰告白定式に従つて簡潔に述べる ( 使 5 : 30)

次に

,

ぺ ト ロ は

.

スの復活

,

天における即位の事実を述べ

,

スラ

の悔い改めと罪の赦しを受ける機会の提供となったことを 強 調 す る ( ( 5 : 3 l )

。 

この額述部分の内容は

前回の弁明演説の中心内 容とほぼ同じである ( 使 4 :  10)

。 

同じ主題を演説において繰り返すこ と は

重要な事柄を聴衆と読者に対して強調して

注意を喚起する効 果を持つ

。 

ただし

前回の演説と違つて

この演説には論証の部分が な い ( 使 4 : l 1 を 参 照 )

結語は

使徒達と聖望がイ

ェ ス

に よ る 救 い

出来事の証人であることを述ぺる ( 使 5 : 3 2 )

(2)  修辞的種

2

l

ll

この演説は

,

最高法院における審問

の答弁としてなされている(使 5 : 2 7

-

2 9 ; さ ら に

,

4 : 5

-

7を参照)

この演説は

,

修辞法の種別で言え

,

弁明演説に属するのは明らかである ( ア リ ス ト テ レ ス

弁論術

l358b;キケロ

発想論

1 . 5 . 7 ; ク ウ ィ ン テ ィ リ ア ヌ ス

弁論家の教育

」 3.

4

.

1

-

16)27

今回間題になっている罪状は

,

最高法院が前回の審問の後 に与えた宣教禁止令の違反である(使5:27)28

ぺトロは使徒達が宣教 禁止令に違反して宣教活動を行つた事実を否定していない

実際に

,

彼 らは神殿で民を繰り返し

教えたのであった ( 使 5 : l 2

-

16,25

-

26)

。 

か し

スを復活

高挙させた神

の信実を根拠に

彼らの行為が

2 7 Kennedy,120; Barrett,287;Witherington 

m

,205,Fitzmyer,333

.

Haenchen,205;Weiser,l,l54;Barrett,I

.

28l;Witherington  III,229;

Fitzmyer,33l

-

332; Jervell,207.

-

28

-

(16)

使徒言行録におけるぺトロの弁明演説  15 正当であることを主張している(使5:29

-

3 1 ; さ ら に

,

使 4 : 1 9

-

20)

ぺトロの考えによれば

の信実は人間的な義務に優先する

。 

従つ て

この場合の争点は

宣教禁止令に違反したかどうかの事実認定を めぐる識論ではなく

法的評価をめぐる識論(genuslegale)である(ク ウ ィ ン テ ィ リ ア ヌ ス

弁論家の教育

」 3.6.83 -

85)2o

(3)  修辞的

メ ン ト

(5:29b)  この序言は

,

人よりも神に従うぺき原則を確認している

( 使 5 : 2 9 )

この原則的立場は

,

実際のところ

,

先の最高法院の審間の 際にぺトロらが明確にしていたのであった(使4:19を参照)

人 よ り も神に従うぺきであるという行動原理は

プ ラ ト ン が

ソクラテスの 弁明

」 

において報告している

ソクラテスの有名な言葉の内容に非常 に 近 い ( プ ラ ト ン

ソクラテスの弁明

29d)3o

使徒達がイ

スの死と

復活に

いて宣ぺ伝えるのは

神から託された宣教の務めを果たすた め で あ る と い う 論 理 が

その背後に存在している(ルカ24:48;使1:

8 , 2 2 ; 2 : 3 2 ; 3 : l 5 , 5 : 3 2 )

復活の主は

,

彼らが上よりの力を受けて

,

証 人 に な る こ と を 告 げ た の で あ っ た ( ル カ 2 4 : 4 8 ; 使 l : 8 , 2 2 )

( 5 : 3 0

-

31)  能 ( 陳 述 ) 部 分 に お い て ぺ ト ロ は

,

まず

,

ェ スの

死と復活の事実を天における即位として語る

。 

この短い部分は

初期 キリスト教の宣教内容の核心部分を端的に述ぺているが(使2:29

-

3 3 ; 3 : 1 3

-

1 4 ; 4 : l 0 ; 1 0 : 3 9

-

40)3

' ,

ルカ

使徒言行録の叙述の流れ

:a Martin,31

-

32; Volkmann,39; Lausberg,32(

S

6 1 ) ; 4 3 (S 8 4 ) ; 6 5 (S146)

.

3Banlett,287,Witherington III,228;Fitzmyer,333

.

3

'

Conzelmann,47;Weiser,I

.

l60;Barrett,I,287;Witherington

m

,232;

Fitzmyer,333; Jerve1l,207.

-

29

-

(17)

l 6

の中では

ルカ福音書の受難

復活物語を

,

読者に再度思い起こさせ て い る ( ル カ 2 2 : 4 7

-

24,53)

使徒言行録に登場する聴衆に向かって

,

初期キリスト教の説教者達は

,

受難物語の核心を繰り返し述ぺる中で

,

スの十字架の死に対する

ダャ人達の責任を強調している ( 使 2 : 3 6 ; 3 : l 3

-

1 6 ; 5 : 3 0 ; 1 3 : 2 8

-

30)

従つて

,

この叙述部分は

ダャ人

指導者に対する告発の要素を含んでいる(使7:39

-

53)3 2

。 

先に述ぺた

よ う に

スの受難を物語りつつ

,

被告人であるぺトロらは

,

聴衆 である裁判官達を告発する者となるのである ( 使 7 : 3 9

-

53)

この叙述部分が

,

ルカ24:50

- 53

と同様にイ

スの

昇天に言及して

い る こ と は

,

注日に値する

スの復活

昇天は

,

弟子達に聖望が 下 さ れ

,

彼らを通して罪の赦しの福音が宣べ伝えられる前提である(ル カ 2 4 : 4 6

-

4 9 ; さ ら に

,

使 2 : 2 9

-

3 3 ; ヨ ハ l 4 : l 6 ; 1 6 : 7 )

この演説 の叙述部分においてぺトロは

聴衆である

ダヤ人指導者達がイ

ェ ス

を十字架に架けたのに対して

神がイ

スを死人のうちから復活させ た主体であることを強調している(使5:30

-

3 l )

さ ら に

,

復活の主は

使徒達に主の復活の事実を証言する務めを与えたのであった  (ルカ 22:47

-

2 4 , 5 3 ; さ ら に

,

使 8 : 2 2 ; 2 : 3 2 ; 3 : l 5 ; 5 : 3 2 )33

宣教の務 めは神が与えた職務であるのに対して

スの名によって語つては ならないという最高法院によって与えられた禁止命令は人間が与えた 義務である

従つて

スの死と復活に

いて宣教することは

人 よりもむしろ神に従う原則の実践であり

違法行為ではなく正当行為 なのである(使5:29を参照)

。 

このような論法は

修辞学的には法的

nSchille,162

.

3Pesl1・h,I,216;Weiser,I,160; Jervell,208

-

30

-

(18)

使徒言行録におけるぺトロの弁明演説  17 評価に

いての識論(genuslegale)と考えられる(クウィンティリア

ヌス

弁論家の教育

」 3.6.83 -

85)3

'

(5: 32)  この演説の結語部は

,

使徒達と聖1望がイ

スの死と復活に よる救いの出来事の証人であることを述べている

。 

スの死と復活 を語る使徒達の言葉は

彼らが直接の日撃者であることに負つている ( ル カ 2 4 : 4 8 ; 使 1 : 8 . 2 2 ; 2 : 3 2 ; 3 : 1 5 ; 5 : 3 2 )3 S

聖盡が共同の証 人 で あ る こ と は

使徒達の証言の真実性を高める効果を持ち(さらに

,

ヨハ15:26

-

27を参照)3 6

,

証言内容であるイ

スの復活と昇天の事実

の信憑性を高めている

ぺトロのこの弁明演説は

最高法院の指導者達が与えた宣教禁止令

を, 

使徒達が連守する気がないことを再度明らかにしている

。 

当時の ユダヤ教世界の権威者に対する非妥協的な態度表明は

彼らが使徒達 を殺害したいと考える程に

最高法院の議員達を債激させた  ( 使 5 : 33)

しかし

,

ぺトロの議論は

,

最高法院の議員の

人である律法学者

ガマリ

ルの冷静な論理的思考に対しては有効であった

。 

ガ マ リ

ル は立ち上がると発言し

, 一

つの助言演説を与えた(5:36

- 39a

)

ガマ

ルはこの審理における法的争点を正しく理解した

。 

間題は

神が

使徒達にイ

スの死と復活の福音宣教の務めを本当に与えたのかどう

か と い う こ と で あ る

。 

もし

,

本当にぺトロらの宣教活動が神の委託に 由来しているのであれば

誰もそれを妨げることは出来ない(5:39)

しかし

神の派遺の主張が偽りであれば

チゥダの乱やガリラヤの

ダの乱の首謀者達のように自ら滅びるであろう(5:36

-

38)

。 

それなら

3◆ Martin

.

3 l

-

32; Volkmann,39; Lausberg,32(S6l)

Fitzmyer,338

.

3Pesch,I,2l7.

-

3 l

-

4 3 (S 8 4 ) ; 6 5 (Sl46)

.

(19)

18

人為的に干渉するよりも

使徒達の宣教を黙認し

その行く末を 見守るのが良いという結論になる(5:39b)

最高法院の議員達はこの 議論に費成し

彼らは使徒達に標打ちを加えた後に釈放した

。 

その際 に

,

彼らは宣教禁止令を再度与えたが(5:39)

,

使徒達はひるむこと な く

,

神殿や家で宣教活動を統けた(使5:40

-

43)

ファリサイ派の律

法学者であるガマリ

ルによってなされた予想外の演説は

使徒達を 死の危険から救つたが

宣教活動を続ける使徒達に対する

ダヤ人指

導者達の故対は止むことなく

使徒言行録の物語の進展に つれて高 まっていく

ユダヤ人当局によるキリスト教宣教者に対する迫害の度 合いは高まり

,

ステファノの殉教の死と

, へ

レニスト達の離散の出来 事

と 至 る の で あ る ( 使 7 : 5 4

-

8,3)

第 3 節   使 l l , 5 - l7の修辞学的分析

( l )   修辞的状況

ぺ ト ロ はョッパの革なめし工シモンのもとに滞在していた(9:43)

ある日の午後のこと

,

ぺ ト ロ が 屋 上 で 析 り を し て い る と き に

,

天から 下 つ て く る 大 き な 布 の 幻 を 見 た ( l 0 : l 0

-

l l )

布の中には

,

ユダヤの

法で汚れているとされている動物や鳥が多くいたが(l0:12)

天から 声がして

それらを屠つて食ぺるように促した(10:13)

ぺ ト ロ が路 躇 し て い る と

,

天から再度声がして

,

神が創つた物を汚れていると言つ てはならないと告げた ( l 0 : l 4

-

l 5 )

。 

こ の よ う な こ と が 三 度 繰 り 返 さ れて

,

布は天

引き上げられた(10:16)

ぺトロがこの幻の意味に

いて恩い巡らしていると

カイサリアのローマ軍百人隊長

ル ネ リ ゥ

-

32

-

(20)

使徒言行録におけるぺトロの弁明演説  l 9 スのもとから派遺された使者がやって来た  (10: l 7

-

22)

。 

彼らはぺト

ロにカイサリアの主人の下に来てくれるようにという要請をした(10:

22)

翌日

,

ぺトロと使者達は

,

カイサリアに向けて出発した(10:23)

次 の 日 に 彼 ら は カ イ サ リ ア の コル ネ リ ウス の も と に 到 着 し た  ( l 0 : 24)

ぺトロは家の中に入りって(10:25

-

27)

,コ

ル ネ リ ゥ スに彼が

パで体験した幻に

い て 説 明 し た ( l 0 : 2 8

-

29)

これに対して

, コ

ル ネ リ ウスは神の言葉を進んで聞く姿勢を見せたのであった  ( l 0 : 3 0

-

33)

ぺトロが伝道説教を行おうとすると(10:34

-

43)

,

彼が説教を終

え な い う ち に 聖望が

ル ネ リ ウスら異邦人聴衆の上に降つた 

(10:

44)

この奇跡的出来事を日の当たりにして

,

ぺトロは異邦人回心者達 に洗礼を授けることを決意した ( l 0 : 4 5

-

48)

ぺ ト 口 が

ルサレムに戻ると

ユダヤ人信徒達は

,

彼が異邦人の家 に入つて彼らと

結に食事をしたと非難した ( 1 l : 1

-

3)

。 

この非難の

言葉に応えて

ぺ ト ロ は

ルサレム教会のュ ダヤ人信徒達の前で

一 つ

の演説をし

ヨ ッ パ と カ イ サ リ ア で 起 こ った出来事に

いて説明を与 え る に 至 つ た ( l 1 : 4

-

17)

(2)  配列構成

l 1 : 5 a  

序 言 (

,

q

o o o

io v

;Exordium):ヨッバでの出来事 へ の

導入句

1 1 : 5 b

-

15 能 (

,

0l,i

r

y17ll

n

f・

;narratio ) : コ

ル ネ リ ウ

家の回

心と聖

降臨 v.5b

-

11  ぺ ト ロ が 見 た 幻

v.

12

-

14  使者の到着とカイサリアのコル ネ リ ウス の も と

-

33

-

(21)

の旅

v.

15  演説の開始と聴衆

の聖靈の降臨

11:16  論 証 (

,

f1

, n r ;probatio/argumentatio):聖館による洗

礼に

いてのイ

スの言葉の想起

1 1 : 1 7   結 語 (とn

a oyo

;

,

l

peroratio/conclusio

)

この短い演説は

,

四つの部分から構成されている(l1:5a序 言 ; l 1 :

5b -

1 5 級 述 ; 1 l : 1 6 論 証 ; 1 l : l 7 結 語 )

使徒言行録中のぺトロの演 説は

通常は聴衆

の語り掛けの言葉で始まっているが

この演説に は語り掛けの言葉が欠けている(使2:l4b;3:12a)

この演説の序言

においてぺトロは

ヨッパで幻を経験するに至つた周辺の事情を説明 して

,

銀述部の導入を与えている(使11:5b

-

15)

極 ( 陳 述 ) 部 に お い て ( 使 1 1 : 5 b

-

l5)

,

ぺ ト ロ は

ッ パ と カ イ サ リアで経験したことを順序通りに叙述している

。 

それぞれ僅か1節か ら 構 成 さ れ る 他 の 部 分 に 比 し て ( 1 l : 5 a 序 言 ; 1 1 : l 6 論 証 ; l l : 1 7 結語)

,

ll節から構成される級述部分はこの演説において

,

量的に最も 長 く

重要な位置を与えられている

論証部分は(11: 16)

復活の主によって語られた言葉の引用である ( 使 l : 5 ; さ ら に

,

ル カ 3 : l 6 )

初期のキリスト教において

,

主の言 葉が旧約聖書の言葉同様の権威を持ち始めていたことが

主の言葉が 論証部に援用されることの 背 景 に あ る ( I ク レ メ ン ス l 3 : 1 f ; 4 6 : 7 f . ; ポ リ ュ カ ル ポ ス 2 : 3 )3 7

修辞的な視点から言えば

,

主の言葉による論 証はロゴスと評価出来る3 8

ロゴスは

,

聴衆の論理的思考に訴えて説得

3 7Schille,253

.

u

祝福と現いの言業 第27卷(1999年)20買 

ガラテヤ書と

プ ラ イ 的 レ ト  リ ッ ク」 

新約学研究

-

34

-

(22)

使徒言行録におけるぺトロの弁明演説  2 l す る こ と を 試 み る 論 証 方 法 で あ る ( ア リ ス ト テ レ ス

弁論術』l377b

-

l378a;l395a -

l396a)

1 l : l 7 の 結 語 は

, 「

もし

,

神を妨げようとしたのな ら ば

,

私は

体何 者だったのだろうか?

」 

という疑問文である

。 

この疑間文は

明 ら か に修辞的疑問文である3 9

ぺ ト ロ が 神 が な さ る こ と を 妨 げ る こ と な ど 出来なかっ た と い う こ と が

,

当然の前提となっている(使10:47

-

48)

ぺトロは実際のところ

,

神の指示に従つて

,

異邦人たちに洗礼を授け た(10:48)

。 

ここまで聞いた演説の聴衆は

,

神が異邦人を回心に 導 い た過程を受け入れる結果となった ( l l :  18)

(3)  修辞的種

1 e

l

1

ぺトロのこの演説は

,

異邦人との交わりについて

, エ

ルサレム教会 の

ダヤ人信徒が行つた非難

の応答としてなされている ( 使 l 1 :  l

-

4)

従つて

,

この演説は

, 一

つの弁明演説の機能を持つている(アリ ス ト テ レ ス

弁論術』l358b;キケロ

発想論

l.5. 7 ; ク ウ ィ ン テ ィ リ アヌス

弁論家の教育

」 3.

4

.

l

-

16)4

°

弁論演説は

,

法廷演説の

種 と し

,

過 去 の 事 実 を 取 り 上 げ る ( ア リ ス ト テ レ ス

弁論術

1358b;キケ ロ

発想論

l

.5.

7 ; ク ウ ィ ン テ ィ リ ア ヌ ス

弁論家の教育

」 3.

4

.

l

-

l6)

''

この弁明に

いて言えば

ぺトロは異邦人と交わりを持つた事実を争 う こ と な く

,

率直に認めている

'

2

しかし

,

彼は異邦人の回心の真正性

3Soards,77.

4Kennedy,l23;Schneider,II,82;Fitzmyer,470;Witherington  III,362

-

363,Soards,77; J.Roloff,Die Apostelgeschichte ( N T D 5 ; l 8. A ufl. ;GOttin

gen:Vandenhoeck&Ruprecht,l988)l74.

'

Martin,3l

-

32;Volkmann,38,57Lausberg,64(Sl44)

.

nRoloff,l75.

-

35

-

(23)

を主張することによって

,

自己の過去の行動の正当性を主張している

この識論法は

争点となっている行動の存否を争うのでなく

その法 的正当性を主張してぉり,  修辞学的には法的評価をめぐる議論(genus l e g a l e ) を 展 開 し て い る ( ク ウ ィ ン テ ィ リ ア ヌ ス

弁論家の教育

」 3.6.

83

-

85)

'

3

彼が自らのョ ッパとカイサリアでの体験を長

と物語つた のも

自分の行動の正当性を主張するための論拠を与えるためであっ た ( 使 1 1 : 5

-

17)

(4)  修辞的

メ ン ト

( l 1 : 5 a)  この演説には他の演説に見られる冒頭の聴衆

の語り

掛けがないが(使2:14b;3:12a)

,

聴衆が誰であるかは文脈上明確で

ある

ぺトロのこの演説を聞いているのは

,

ぺ ト ロ が カ イ サ リ ア で 異 邦人と交わりを持つたことを:省'める

,  エ

ルサレム教会の

ダャ人信徒 達であった ( 使 l 1 : 2

-

3)

最初期の

ルサレム教会の会員達はすぺて ユダャ人信徒達であったが

ぺトロのカイサリアでの行動を非難した のはそ

の 一

部であった推測される

'' 。 

彼 ら が

ぺトロが異邦人の家に 入つて食事をしたことを非難にするのは

根底に

ユダヤ人達に要求 されている食物規定の遵守の間題があるからである

。 

ユダヤ人は律法 によって不浄とされている動物を決して食ぺてはならず(レビ11:l

-

46;申14,3

-

2 l )

,

清いとされる動物に

いても

,

血を選けるために特

別なやり方で屠殺されたものしか口にしてはならない ( レ ビ l 7 : l 0

-

14;申12:16,23

-

24)

ぺトロや初代教会の

ダヤ人信徒達も従来は

'

3Martin,3l

-

32;Volkmann,39; Lausberg,32(

S

6 1 ) ;  4 3 (S84); 6 5 (Sl46)

.

◆◆ Witherington 

m

, 3 6 2 ; B anlett,537.

-

36

-

(24)

使徒言行録におけるぺトロの弁明演説  23 こ の 規 定 を 守 つ て き て い た ( 使 l 0 : 1 4 ; 1 l : 8 )。ユダャ教の食物規定 を遵守することが期待されない異邦人達は

ユダヤ人の視点からする と 不 浄 で あ る と い う こ と に な る の で

ユダヤ人は異邦人との食卓の交 わ り を 選 け る 結 果 と な っ た ( ダ ニ l : 8

-

1 2 ; ト ビ l : l 0

-

1 1 ; ヨ ハ l 8 : 2 8 ; 使 1 l : 2 ; ガ ラ 2 : 1 l

-

1 4 ; ヨ セ フ ス

ユダヤ古代誌

l4,l37)4 S

ぺ トロは自分が異邦人と食卓の交わりを持つたことを否定せず

そもそ も伝統的な

ダヤの食物規定そのものが

新しい神の啓示によって無 効 と さ れ た こ と を

,

主 張 し よ う と す る ( 使 1 0 : l 5 ; l l : 9 )

ぺ ト ロ は 弁明演説の冒頭において

彼が経験した

ッ パ と カ イ サ リ ア で の

連 の出来事が起こり

自分が以前とは全く違う考えを持つに至つた状況 を説明するのである

( l l : 5 b

-

12)  叙述部分の前半部において

,

ぺ ト ロ は

ッパで経験 した

連の出来事を短く組めている(使l0:6

-

48)

過去の行動につい

て非難を受けている者として, 彼は自分の行動が正当であることを示 す過去の事実を列挙している(アリストテレス

弁論術』l416

-

l417b;

ク ウ ィ ン テ ィ リ ア ヌ ス

弁論家の教育』3.8.l 0

-

ll;4.2.3l)

'

6

ぺ ト ロ は

午後の析りの最中に忘我状態になり

多くの不浄とされる動物や鳥を 入 れ た 布 が 天 か ら 降 つ て く る の を 見 た ( 使 1 l : 5

-

6 ; さ ら に

,

l 0 : 1 1

-

l2を参照)

天からの声がして

,

ぺトロにそれらの動物を屠つて食べろ と 命 じ る ( l 1 : 7 ; さ ら に

,

l 0 : l 3 を 参 照 )

ユダヤ教の食物規定の遵

'

E

.

P.Sanders, Jewish Association with Gentiies and Galatians2: l l

-

l4,in

The Conversation Continues (eds.R

.

T.Fortna  and B.R.Gaventa;FS. J.L.

Martyn;Nashville:Abingdon,l990)S. l70

-

l88;Schneider,II,82; Jervell, 3l4

.

Volkmann,123

-

l27;Martin,57

-

58;Lausberg,S337.

-

37

-

(25)

24

守の間題があるので

ぺトロがこの指示の言葉に従うことを送巡して い る と ( l l : 8 ; さ ら に

,

1 0 : l 4 を 参 照 )

,

天からの声が再度聞こえて

,

神が造つた物を汚れていると言つてはならないと述ぺる ( 使 l 1 : 9

-

l 0 ; さ ら に

,

l 0 : 1 4.28を参照)

このようなことが三度線り返された 後

,

布は天に引き上げられ

,

幻は終わった

ぺトロが自分が見た幻の 意味に

いて思い巡らせていると

,  コ

ル ネ リ ウス が カ イ サ リ ア か ら

かわした三人の使者がぺトロのところに到着した(ll:1l)

聖靈の指 示を受けて

ぺトロは使者達と

結にカイサリアのコル ネ リ ウ

スの

と こ ろ

出 掛 け た ( 1 l : 1 2 ; さ ら に

,

l 0 : l 9

-

20を参照)

カ イ サ リ ア に 着 く と

,

ぺ ト ロ ら は 購 階 う こ と な く

, コ

ル ネ リ ゥ ス の 家 に 入 つ た ( 使 1 1 : 9 ; さ ら に

,

l0:14,28を参照)

神が造つた物を汚れていると言つ てはならない

という天からの言葉によって ( 使 1 l : 9

-

10; さ ら に

,

l 0 : 1 4.28を参照)

動物を浄不浄に分類することに依拠している

ダ ヤの食物規定は既に無効とされていることが

異邦人の家に入り

食 卓の交わりをすることが出来る根拠として考えられている ( l 0 : 4 8 )

そ こ で

食物規定のことで

ユダヤ人と異邦人との間を分け隔てして は な ら な い と

聖基はぺトロに語つたのであった ( l l : l 3 )

( 1 1 : l 3

-

l5)  叙述の後半部分は

,コ

ルネリゥス家での場面の描写で あ る ( 1 l : l 3

-

l4)

家が御言葉を聞いて救われるために

,

ヨツパに 滞 在 し て い る ぺ ト ロ を 連 れ て 来 る よ う に と い う

天使の指示を受けた と

, コ

ル ネ リ ウス は 語 る ( l l : l 3

-

14)

この言葉を受けて

,

ぺ ト ロ が

語 り 始 め る と 聖豊が

,  コ

ル ネ リ ウスら聴衆の上に降り

その演説は突 然中断された(l1:15)

彼らの聖望の受領は

,

実際のところ

,

ぺ ト ロ ら

ダヤ人信徒達がぺンテコステの日に体験した聖量の受領と同質で

-

38

-

(26)

使徒言行録におけるぺトロの弁明演説  25 あ

た ( l 1 : 5 b ; さ ら に

, 2 , l -

4を参照)

神が異邦人にも聖の賜物

を授けたという事実から

ぺトロは神が異邦人を回心に導いたという 結論を導き出したのだった(l1:l7)4 7

( 1 l : 1 6 )   この論証部分は

, 「

ヨハネは水で洗礼を授けたが

,

あなた がたは聖望で洗礼を受けるであろう

」 

と い う

復活の主によって語ら れた言葉の引用である(使1:5)

それは

, 「

私は水であなた方に洗礼 を授ける

しかし

,

私よりも力ある方がや っ て く る こ と に なってぉり

,

私がその靴の紐を解くに値しない

。 

その方はあなた方に聖なる藍と火 によって洗礼を授けるであろう

」 

と い う

洗礼者ヨハネの言葉を踏ま えた発言である(ルカ3:16)

この主の言葉は

,

異邦人聴衆が聖蓮を 受 領 す る と い う

,

予想を超えた出来事を解釈する鍵を与えている

'

8

邦人聴衆

の聖望降臨は

,

予め語られた主の言葉の成就なのである

ぺ トロがこの主の言葉の引用によって証明しようと努めているのは

洗 礼時の聖望の受領に関する主の言葉が

異邦人聴衆の回心の真正性を 確 証 し て い る と い う こ と で あ る  ( 使 1 5 : 8

-

9)

( 1 l : l 7 )   使 l 1 : 1 7にある序言は

,

話者であるぺトロと聴衆である エルサレム教会の信徒達の両方に向けられた間いである

。 

しかし

,  「

し,

神 を 妨 げ よ う と し た の な ら ば

,

私は

体何者だったのだろうか?」

と い う 問 い は

,

真実の間いではなく

,

修辞的疑間文である

'

9

この間い

,

ぺ ト ロ は 神 の 邪 魔 を す る こ と が 出 来 な か っ た と い う こ と が

当然 の前提となっている(使l0:47

-

48を参照)

実際のと こ ろ

,

ぺ ト ロ は

神がなす事を妨げることが出来ず

異邦人回心者達に洗礼を授けたの

◆7 Fitzmeyer

.

470; Jervell,316.

'

Tannehill,Il,l44; JerveIl,315.

'

9Soards,77.

-

39

-

参照

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