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北松炭田における炭鉱集落の形成と空間構成に関する事例研究 -大手2鉱が隣接して開発した猪調地区を対象として- [ PDF

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Academic year: 2021

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4-1 1.はじめに 1-1. 研究の目的  かつて北部九州一帯は,数多くの炭鉱が開発され, 北海道とともに日本の主要産炭地であった。北松炭田 のほぼ中央に位置する佐世保市江迎町猪いのつき調地区は,昭 和初期に 2 つの大手炭鉱が進出し,同炭田随一の出炭 量を誇る炭鉱都市が形成された地域である。  本研究は,隣接した大手 2 社による炭鉱集落を,史 資料をもとに復元することを通して,その形成過程と 空間構成を明らかにすることを目的とする。 1-2.猪調地区概要  猪調地区は南北を山に挟まれ,西流する江迎川によ る幅 300m 程の谷底平野上にある。元来,農村であっ て明治 7 年の人口は 145 戸 641 人であり,山麓に小 集落が点在し,谷底には水田が広がっていた(図 1)。  猪調における鉱業は明治に始まり,明治 25 年迄に 20 坑が稼行したが,いずれも個人経営による狸掘り程 度の小規模炭坑であり,廃坑と新規開坑を繰り返して いた。そのなか,昭和初期に住友鉱業,日窒鉱業1) 相次いで進出すると,炭鉱集落が建設され,両炭鉱を 繋ぐように市街地が形成された。昭和 14 年には石炭 運搬のため国鉄松浦線が開通している。昭和 30 年の 猪調地区の人口は 11,000 人を上回り,30 年たらずの 間に猪調は炭鉱都市へと変貌していった(図 2)。  両鉱の進出は昭和初期であったが,北松炭田におけ る大手の参入は,大正 6 年の大倉財閥と地元住人によ る鹿町炭鉱の創設を嚆矢としており,筑豊炭田などに 比べると遅い。これは,北松炭田が九州西北端に位置 し,炭層が薄く機械化採炭に適さない地域であったた め,明治期には大手資本の参入を見なかったが,本邦 唯一の製鉄用強粘結炭の産地であることから,大正期 以降の時局の推移とともに国家的な需要から注目され るようになったためである。 1-3.研究の方法  炭鉱集落の復元に際して,地形図,航空写真とあわ せて九州大学および九州工業大学が所蔵する「実習報 文」2)を参照した。これは,採鉱技術を学ぶ学生が実 際に鉱山に赴き実施した実習の結果をまとめたもので, 建築学の分野では,近年,池上ら3)によって紹介され ている。また,炭鉱集落内の施設名や位置などは,史 資料・ヒアリング調査・実測調査によっている。 2.住友鉱業潜龍炭鉱 2-1. 潜龍鉱の炭鉱集落形成  潜龍鉱の出炭成績を図 3 に示す。住友鉱業は北松炭

北松炭田における炭鉱集落の形成と空間構成に関する事例研究

大手 2 鉱が隣接して開発した猪調地区を対象として

野口 雄太 図 2 昭和 33 年頃の猪調地区(参考文献 1,3 より作成) 図 1 大正 13 年の猪調地区(1/25000 地形図「江迎」に加筆) 丸尾 大野 平野 猪調 田ノ元 江迎川 福井川 住友潜龍鉱 日窒江迎鉱 200m 鉱業用建物 ( 住友 ) その他 ボタ山 坑口 鉱区境 ※等高線は 25m 毎 鉱業用建物 ( 日窒 ) 猪調小学校 猪調中学校 潜龍駅

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4-2 田中に大瀬鉱,芳ノ浦鉱,潜龍鉱の 3 鉱を経営したが, 潜龍鉱は昭和 18 年に年産 34 万トンを記録し,北松一 の炭鉱となり,閉山の迫った昭和 32 年時点においても, 同炭田を稼行する 99 炭鉱中,第 5 位の出炭量であった。  住友潜龍鉱は,昭和 3 年に個人経営の旧潜龍坑,旧 吉井坑の鉱区を買収したことに始まる。昭和 6 年まで 旧坑を経営したが,昭和 10 年に独自の坑口を開坑し ている。炭鉱集落は,既存集落を取り込みつつ水田地 を塗り替えるように形成されており,開坑時に山麓部 を均して台地を造成し,その上に生産施設が配置され ていた(図 4)。坑口位置の選定に際して重要視された のは,当時,計画の段階にあった松浦線との距離であり, 昭和 14 年に鉄道が敷設されると,駅構内には専用の ポケットが設けられ,石炭が選炭場からベルトコンベ アによって直接運ばれた。生産施設の周辺には炭住が 整然と配置されているが,住友鉱業は昭和 5 年に,大瀬, 芳ノ浦の 2 鉱において納屋制度を廃止しており,その 後に開坑した潜龍鉱では,炭鉱の手により直接,炭住 が建設されたと考えられる。  戦後,潜龍鉱では,炭層が薄く採炭が困難となって いた第二坑を廃止し,第一坑に注力して坑内外の合理 化を図っている(図 5)。坑口を 1 つに絞り,生産施設 の再配置を行って,巻揚から積込までが一 本化されており,その間の石炭運搬に炭車 を効率よく利用できるよう軌道を複々線化 している。また,鉄道を直接鉱内に引き込 み,線路脇に貯木場を移し,軌道で各工場 や第一坑と連絡することで,資材運搬にか かる労力を減らしている。居住施設として は,新たに土地買収を行い,鉱員用二戸一 からなる松原町,住吉町を建設している。 また,若宮町では,鉱員用長屋が二戸一へ と建て替えられている。 2-2.炭鉱集落の内と外  炭鉱集落内の配置に着目すると,斜面地 帯田町 瀧見町 若葉町 岩上町 岩下町 若宮町 松原町 住吉町 松原町 川畠町 川久保町 川久保町 ガラ焼場 山神社 ボタ山 映画館 連卸坑 鉱員寮 第一坑 火薬庫 病院 貯木場 鉱員倶楽部 教会 駐在所 炭鉱事務所 結核療養所 弓道場 炭鉱市場 マーケット 労働会館 庭球場 住吉町へ 松原町へ プール 職員合宿・倶楽部 安全灯室 (繰込場) 潜龍駅 選炭場 職員用炭鉱住宅・寮 鉱員用炭鉱住宅・寮 生産施設・福利施設 共同浴場 運動場・遊園地など 配給所 200m 工場 倉庫 ポケット 潜龍鉱所有地 崖 図 5 昭和 30 年の潜龍鉱(参考文献 3 所収の「坑外機械配置図」より作成) 旧潜龍坑 S19∼S20 旧吉井坑 ∼S12 第一水平坑 (試掘坑道)S8∼S10 本坑 S9∼S17 第二坑 S10∼S20 第一坑 S12∼S36 8 10 15 20 25 30 35 100 500 400 300 200 (千 t) (人) 昭和 500 1000 1500 2000 年間出炭量 鉱員数 図 3 潜龍鉱の稼行坑の変遷と出炭量および鉱員数の推移 帯田町 瀧見町 若葉町 岩上町 岩下町 若宮町 川畠町 川久保町 川久保町 職員用炭鉱住宅 鉱員用炭鉱住宅・寮 生産施設・福利施設 共同浴場 配給所 工場 倉庫 連卸坑 第一坑 本坑 第二坑 選炭場 選炭場 ボタ捨て場 職員倶楽部 貯木場 既存集落 駐在所 炭鉱事務所 潜龍駅 山神社 映画館 鉱員寮 病院 図 4 昭和 20 年の潜龍鉱(参考文献 2 所収の「坑外図」より作成)

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4-3 結する計画が立案された。この際,三坑の脇に地下坑 道へ直接斜坑を繋ぐ新三坑を新たに開坑している。即 ち,1 つの採炭区域が独立した 3 つの坑口を持つこと となり,坑口の使い分けが可能となった。これにより, 一坑は出炭専用坑,三坑,新三坑は資材搬入と鉱員の 入手専用坑となり,用途に合わせて坑外施設が再編さ れている(図 8)。三坑周辺からは生産施設が排され, 居住施設を拡充している。一方で,一坑周辺では生産 施設が増補新築されている。また,一坑上部の山林を 拓いて鉱員寮を備えた桜町が,二坑周辺の斜面に丸尾 社宅が新たに建設されている。他の地区は,それぞれ 炭住を新築して拡大している。加えて,その周辺や国 道沿いに,勤続年数の長い鉱員や職員が自ら土地を購 入し,住戸を建設していた。 に建設された岩下町周辺の 5 地区は,各地区から伸び る集落内道路が一点で交わり,その角に駐在所が設け られるなど外部から隔離されており,戦後に建設され た 2 地区も,既存の炭鉱集落と連続して建設されてい るものの,集落外とは崖によって分断されていた。一 方で,既存集落と隣接した川久保町周辺の 3 地区は国 道沿いの低平地に建設され,川畠町には,戦後,民間 商店と連続して炭鉱市場が開設され,周辺住民にも開 放された病院や映画館前の道路を拡幅し行商人の露天 市に供するなど,市街地と連続した空間作りが行われ たことが伺える。しかし,炭鉱集落全体から見ると開 放された地区は限定的であったと言える。 3.日窒鉱業江迎炭鉱 3-1. 江迎鉱の炭鉱集落形成  江迎鉱の出炭成績を図 6 に示す。日窒鉱業は国内お よび朝鮮半島で金属鉱山開発を行った新興財閥企業で あるが,江迎鉱は同社にとって唯一の石炭鉱山であり, 主力事業所であった。北松炭田中では,昭和 32 年に おいて第 3 位の出炭量を誇った。  日窒江迎鉱は,明治 43 年に松島炭鉱関係者の手に よって合併された未開発鉱区を買い受けて昭和 10 年 に開坑している。その炭鉱集落は,一坑周辺の生産施 設と鉱員社宅が並ぶ東部と,居 住施設のみから構成される西部 からなる(図 7)。東部では,谷 間に突き出した斜面の中腹に一 坑を設け,炭住は川の合流地点 より上流側に建設され,西部と の間には水田が広がっている。 二坑坑口周辺に集落建設は見ら れず,一坑と連絡する軌道によっ て結ばれた。日窒鉱業は専用の積 出港を有し,石炭運搬のため,江 迎鉱との間 8km を繋ぐ索道を敷 設している。この索道の端部に選 炭場が置かれ,一坑,二坑から 産出される石炭が運び込まれた。 また,昭和 20 年に隣接する日満 鉱業江里鉱を買収,三坑と改称 し経営にあたった。  戦後,昭和 25 年になると,坑 道の合理化事業が行われた。3 坑 は同一炭層を稼行しており,地 下の水平坑道で一坑と三坑を連 200m 志戸氏社宅 平野社宅 大和町 川端町 常盤町 江里社宅 三坑(江里鉱) 上の手町 旭町 四坑 磐砥山坑 三坑 旧一坑 連卸坑 ボタ捨て場 ボタ捨て場 二坑 職員用炭鉱住宅 鉱員用炭鉱住宅 生産施設・福利施設 一坑 選炭場 架空索道 火薬庫 選炭場 映画館 炭業所長社宅 火薬庫 事務所 事務所 潜龍駅へ 吉井町市街へ 図 7 昭和 22 年の江迎鉱(参考文献 4 所収の「江迎鉱業所坑外図」より作成) 図 6 江迎鉱の稼行坑の変遷と出炭量および鉱員数の推移 一坑 S10∼S39 二坑 S16∼S25 三坑 / 新三坑 S20∼S39 砂盤坑 S26∼S41 開坑時期は不明だが これらの他に昭和 25 年頃まで 磐砥山坑,梅木坑,田口坑 四坑,五坑,鷲尾坑などを稼行した 七坑 S35∼S41 11 15 20 25 30 35 40 昭和 100 500 400 300 200 (千 t) (人) 500 1000 1500 2000 年間出炭量 鉱員数 職員数 三坑(江里鉱) 200m 新江里四坑 小迎一坑 砂盤坑 丸尾東坑 架空索道 磐砥山東坑 新江里一坑 三坑 新三坑 一坑 ボタ山 ボタ山 上の手町 平野社宅 志戸氏社宅 丸尾社宅 江里社宅 川端町 常盤町 桜町 幸和町 旭町 選炭場 事務所 鉱員寮 炭業所長社宅 表見張 映画館 ガラ焼場 炭鉱商店 労組本部 福祉会館 配給所 病院 江迎鉱業所幼稚園 職員用炭鉱住宅 鉱員用炭鉱住宅 租鉱区の坑口 生産施設・福利施設 図 8 昭和 33 年の江迎鉱(参考文献 1 より作成,建物の機能はヒアリングにより補った)

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4-4  江迎鉱は石炭生産にこうした下請企業を参加させ, 施設の運営を地区住民に任せるなど,市街地側と協業 して集落建設と運営を行っていたと言える。 4.まとめ  以上,隣接した大手 2 鉱による炭鉱集落を見てきた。 猪調地区は狭隘な山間部にあり,両鉱とも鉄道の敷設 される緩勾配の低平地の近くに生産施設を配置したた め,農地を塗り替えるように炭鉱集落を形成していた が,両鉱は対照的な空間構成を見せた。すなわち,潜 龍鉱が生産・居住が連続した一体の集落を建設したの に対し,江迎鉱は生産と居住を独立して計画し,分散 した集落を建設していた。両鉱は,戦後の増産策とし て,坑口の集約と増加という異なる方針を取っており, また,江迎鉱は鉱外の人員を積極的に活用したが,こ れが炭鉱集落と市街地を連続させた要因となっており, 経営方針の差が集落形態の違いに表れていると言える。  江迎鉱は昭和 26 年に上部層を採炭する砂盤坑を開 坑しているが,その坑口周辺には生産施設のみが配置 された。これはのちに開坑する七坑も同様で,石炭は トラックにより運搬され,鉱員たちは離れた炭住と坑 口間をバスで送迎された。 3-2.炭鉱集落と市街地の接点  江迎鉱の炭鉱集落は国道沿いに建設されたが,炭鉱 商店や共同浴場などの運営は,猪調で商店を経営する 地区住民に任せていた。そうした炭鉱の施設を中心に 個人商店が集積し,市街地が連続して形成された。  また,昭和 25 年の鉱業法制定により租鉱権が創設 されると,江迎鉱の鉱区内に累計 23 の租鉱区が設定 され,上部層の採炭を中小炭鉱が担うようになった。 はじめは,明治期の旧坑や江迎鉱の廃坑における残炭 掘が中心で,半年や 1 年程で再び廃坑するものが多かっ たが,昭和 32 年頃になると,未開発鉱区に開坑する ものへと変わっていった。租鉱権者を見ると,江迎鉱 の元幹部職員や開坑以来の下請企業であり,租鉱区か ら産出される石炭は江迎鉱に納入する契約が交わされ, 江迎鉱の人員を雇用し,江迎鉱の炭住を借りて住まわ せるなど,租鉱区の開発は,江迎鉱の新規坑口開発と しての側面を帯びていたと考えられる。  ここで租鉱区において 9 坑の経営を行った N 家を取 り上げる。N 家の家長は,松島炭鉱において大納屋頭 を務めた人物であったが,自身が開坑から請け負った 松島四坑が昭和 9 年に水没し廃坑となったため離職, 江迎鉱の開坑とともに猪調へと転居している。江迎鉱 の鉱区は,松島炭鉱の手で試掘を実施したのちに,日 窒鉱業が譲り受けており,開坑当初の江迎鉱には,所 長をはじめとして,松島四坑をおりた職員や鉱員が多 く就職していた。N 家の家長は直接雇用されてはいな いものの,一坑の開坑から着炭までの技術指導と土地 買収に協力していた。また,N 家は江迎鉱の正面入口 である表見張の向かいに居を構え(図 9),江迎鉱の石 炭運搬やガラ製造販売などを担う下請企業 3 社を経営 し,猪調地区を中心に 130 名前後の従業員を雇用した が,役員として日窒鉱業の元取締役らを迎えるなど, 江迎鉱と密接な関係を築いていた。一方で,従業員を 町議会議員に当選させ町政に意見し,猪調地区の商店 や工場に出資して経営に参加し,小学校や部落会に金 銭援助を行うなど,市街地側に対しても影響力をもっ ていた。こうした関係から,N 家は,江迎鉱関係者や 政治家,地区住民など,所属の異なる人々が寄合う場 として機能し,炭鉱と市街地を結んでいた(図 10)。 <註> 住友鉱業および日窒鉱業は財閥企業であり,新会社設立とそれに伴う 業務移管や,関連会社との合併により,炭鉱業にあたる会社の名称変 更が度々見られるが,本稿では一般的な名称としてこの 2 つを用いた。 参考文献 2-4 を含め,潜龍鉱については 12 冊,江迎鉱については 2 冊の実習報文が存在する。 参考文献 9 参照 <参考文献> 沢田秀穂『日本炭田図 II 北松炭田地質図』地質調査所,1958 山川昇『潜龍一坑実習報告』九州大学所蔵,1948 麻上幸徳『潜龍砿業所実習報告』九州大学所蔵,1957 園田忠彦『実習報告日窒江迎礦業所概要』九州工業大学所蔵,1947 須田順「江迎炭鉱深部採炭計画」『九州鉱山学会誌』18(12),pp.17-26 前川雅夫編『炭坑誌 長崎県石炭史年表』葦書房 1990 江迎町教育委員会編『江迎町郷土誌』1968 通商産業大臣官房調査統計部『全国炭鉱要覧』1958 池上重康ほか「日本近代鉱業系企業社宅街に関する基礎的研究 - 鉱山系 高等教育機関の実習報文を基礎資料に -」『住宅総合研究財団研究論文 集』33,pp.229-240 1) 2) 3) 1) 2) 3) 4) 5) 6) 7) 8) 9) 図 9 江迎鉱正面周辺の復元図(種別はヒアリング等による) 旭町 鉱員長屋 川端町 鉱員長屋 潜龍駅へ 交番 寿司 石炭輸 採 炭 車両整備場 駐車場 電気 電機 歯科 医院 薬局 パチンコ 酒 屋 消 防 団 役場 支所 猪調商店街 猪調商店 街 潜竜 銀行 時計 ガラ焼場へ N 家 江迎炭業所 の看板 日窒江迎炭業所 (事務所)へ 炭業所踏切 N 家の職員住宅 江友館 (映画館) 表見張 日窒輸送課 福祉会館 労働組合会館 家屋・付属屋 商店・事業所等 N 家の建物 江迎鉱の建物 選炭場 図 10 N 家周辺の様子(N 家所蔵の 8mm 映像より) [ 左 ]:N 家の初孫の初節句祝いの様子。親類や N 家の従業員に加え,江 迎鉱の課長級職員らや町議,その家族らが N 家の座敷に列席し,芸妓の 三味線の音と手拍子に合わせて踊りを披露するなど酒宴を楽しんだ。 [ 右 ]:正月の挨拶に N 家を訪れた人同士が玄関先で話す様子。左の人物 は地元の個人商店主,右は江迎鉱の採炭課長。この後,右の人物は家から 出てくる先客(N 家従業員)と肩を組んで潜龍駅の方へと繰り出した。

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