ス
リ
ラ
ンカ
の民族 問題
と
仏教
サ
ンガ
遠
藤
敏
1
.は じめ に
ス リ ラン カの民 族 紛 争 は今新た な局 面を迎え ようと して い る。 シ ンハ ラ 仏教 徒を べ 一ス にす る二 大 政 党 「統
一国 民 党」 (UNP
)と「ス リラ ン カ
自由
党」 (SLFP )
は共に 独立後の 政策
の中
で, 当然な が ら大 多数シ ン ハ ラ人優先 政策を取っ て きた。 少 数 派 民 族に 対す る中央 政 府の政策は,7
割 近 く を 占 め る大多数 派 と しての 安心 感 も あ り , 対 応が遅れて きた。 その 結 果,民族 問 題が 日増
しに 深 刻化
し, タ ミール 人若 者の 武 装 化を生んで しまっ た と言え よ う。
2002 年 LTTE
(
Liberation
Tigers
ofTami1
Eelam
= タ ミール ・イ ーラ ム 解放の虎 ) と停 戦 協 約を結んで 以来, 和平 交渉は前政 権(
United
National
Front
=UNF )
の 時代に何 度か持た れた が ,昨年来
進 展 もな く中断 さ れて い る。 民族
紛争
で は6
万 人以上の 人命が失わ れ た とされ る が,問題の深刻さに 較べ政 治解決の決め手が無 く, ま た新しい提 案が出され る と必 ずアジテーシ ョ ン グル ー プ が 現 れ 交渉
を遅 らせ て来た。 今回の総
選挙
で はUPFA
(United
People
’sFreedorn
AIIiance
)
が 一応
勝 利をお さめ たが , 国 会議席 数225
の 半 分に も満た ない
105
席しか 獲得で きず ,少 数派 政権 となっ て しまっ た。 この よ うなス リ ラ ン カ の政 治情 勢は, 当然LTTE
との 和 平 交渉に も影響
が出て くる だ ろ う と予 測され る。ス リ ラ ン カ が仏教 国で あ り,仏 教の基 本 教義であ る寛容や慈 悲の精 神を持 っ てす れ ば ,当然 こ の 民族 問題に対する仏教サ ンガの 役
割
と対応に期 待が集 まりそ うだ が, 現実
は む しろ その 逆で, シ ン ハ ラ民族 主義
を助長す る結果 と な り, 民族 問題の 解 決を 遅 らせ て きた。 本 稿で は こ の民族問 題 と仏 教サ ン ガ2
パ ーリ学仏教 文 化学 の 関係を探 り,歴 史 的背 景や仏教サ ンガの 内情を指摘す るこ とで, ス リラ ン カ仏 教 サ ン ガの 現 状を見て み た い 。2
. シ ン 八 ラ民族 主
義
の歴
史的背景
ス リラ ン カの 民族紛 争 は,シ ンハ ラ人 と タ ミール 人の民族 思 想の 歴 史的形 成 と深 く関わ りが あ るこ と は
言
う まで も ない 。 こ の問題
は多
くの 学者
に よっ て研 究 されて来た。 こ こ で はその代 表 的な もの を通観
し,現在 の民族 紛争の 背 景を探っ て み た い。シ ン ハ ラ人の 民 族主義 形 成の 根 幹を 成す もの と し て , そ れ を仏 教 に求 め るの が 通 説 と な っ て い る。 その 役 割 を担っ たの が ス リ ラ ン カの 年 代 記
Mahavaipsa
(大 史)
であ ろ う。 こ の 「大 史 』 に は, シ ン ハ ラ仏 教 徒が好ん で 引用す るシ ンハ ラ人の 起 原, 仏 教の ス リラン カ伝 来 等に関
す る次 の よ う な説 話が記さ れて い る。 (1
)ブッ ダ 自身の3
度の 来 島 ( 『大 史 』第 1 章)
,(
2
)
シーバ バ ー フ 王(
ラ イ オ ン の 子 )の 王子 ヴ ィ ジャ ヤ (Vijaya
)の 来 島 ・即 位 (同第6
・7
章) とSihajadfpa
(シ ーハ ラディ ーパ )へ の 言及,(3
)ラン カ島に 仏 法が広ま るだ ろ う とい う ブ ッ ダ
自身
の 予言(
patitthissati
devinda
[Sakka
king1
LankEyarp
mama stisana!p
)(
同第7 章
v4)
, (4
)ヴ ィジャ ヤー行の護衛
・仏
教護 持をSakka
王 に委任 するこ と(
同第7
章 v4 ),(5
)Sakka
王 はその役
目 をUppalavanna
神 (後にHindu
教のViSnu
神
と同一され るω)
に託
す(
同第 7 章
v5 )こ と。 これ らの 説 話はシ ン ハ ラ民族 主 義の 根 源 を成す もの と して 通 説 にな っ て い る が, その 中で も特に次 の2
点が ス リ ラン カ の 民族 問題 と深い 関わ り が あ る と さ れ る。(
1
)
ヴ ィジャ ヤ が シ ン ハ ラ 人の 祖 先 と して描か れて い るこ と(
Sthaladipa
概念
の起 原(2り
, そ し て(
2
)
ス リラン カ が 仏法の確
立 す る地 とし て 予 言 されて い るこ と (Dhammadipa
の 起 原)
で あ る。 こ れ らの 伝 説に は歴 史 性が あ る と は言い難
い が,『大 史』 は仏 教護 持の役 割を担う サ ン ガの 歴 史書 で あ る以上,当然ラ ン カ島はシ ン ハ ラ人の 祖 先ヴ ィ ジ ャ ヤ に依っ て 確立 さ れ, 仏 教の聖 地 とし て描 か れてい て も不 思議で はない C3> 。 し か し こ の通説 はス リラ ンカの民族 問題と仏 教サン ガ 3 シ ン ハ ラ民 族 主義 と繋が る伝 説の み を強 調 し, 以下の 事 実を無 視 し て い る の で は なか ろ うか。 ヴィ ジャ ヤ は悪 質な性 格ゆえに イ ン ドか ら追放 され た こ と。 ブ ッ ダがその よ うな民族の 頭 領に仏 教
確
立の 夢を託した こ と。 ヴィ ジ ャ ヤ と ラン カ島の保 護を神々の 王 サッ カ に依頼す るこ と, そ してその役目 をUppalavanna
神に託す こ とで ある。 ま た これ らの 説話 以 上に重 要 と思わ れ る こ とは, ヴィ ジ ャ ヤの 王位授
与に欠か せ ない王妃娶 りに南イ ン ド・ マ ドゥ ラ ー (Madhura
)
か らパ ン ドゥ(
Papdu )
王の 娘を連れて きた とい う記述で あろ う (『大 史 』 第7 章
vv48
−50
(4))。 これ らは伝説 と は言え, ヴィ ジャ ヤ の 子孫(
ラ ン カ島
の住
民 ・シ ンハ ラ人の祖
先 )は南イ ン ドと繋
が りが あっ た こ とを 示唆し, ま た仏 教 護持の 役目は ヒ ン ドゥ ーの 神で あるヴィ シュ ヌ神
に託され た こ とな どを考 慮に入れ れ ば(5)t 宗 教 的にも互助 ・共 存の 精神
が働
い て いた こ とに なろ う。 過 去の こ と とはい え , こ のよ うな隠
され た伝説
を公平
に扱
う こ とが, 現存
す るス リ ラン カ の民族問
題の解
決に多
少な りとも貢献 するの で はな かろ うか と思 わ れる。 しか し現実はそ うはな らなか っ た とこ ろ に, シ ン ハ ラ人ア イ デン テ ィテ ィーの歴 史 的紆 余 曲折が伺える の で ある。紀 元 前
3
世 紀以 降の ス リ ラ ン カ は南イ ン ドの タ ミ ー ル 王 国か らの侵
略, そ し て その 反 撃の 繰 り返 し で あ っ た ことは歴 史が示す 所 で あ る。 そ し て, 所 謂 ラ ン カ島
はシ ーハ ラ人 の 島で あ り(
Sihaladipa
)
,仏法 が 栄 え る島
(Dhammadipa
)で あ る とい う概念
は民間伝
承,文学作
品に繰
り返し取
り上 げ ら れ語 り継が れ て きた とさ れ ,南イ ン ドの タ ミール 王 国の侵略 が ある度に 常 に想 起 され, そ の結 果シ ン ハ ラ人対タ ミ ール 人 とい う構 図が 出来 上が っ た(
Obesekere
【2001
】,358
)
と され る。 こ の概
念は植 民
地 化が始
ま る16
世 紀 頃 まで に既 に確立 さ れ た と も言わ れ , しか し そ れ 以降16
世紀か ら19
世紀 前 半 まで の300 年
問は影 を潜めた と言わ れて い る (Bond
[1992
亅,55
)。 もしこれ が事実
で あ れ ば, 後で 述べ るよ うに,16
世 紀以降ス リ ラン カ人の敵 対 者は ポル トガル , オ ラン ダ, 英国 と続 く統 治 者 と彼 等の 信 奉す る キ リス ト教
へ と移 行 し て い っ た 事実は ど う解 釈すれば良い の で あろ う。 シ ンハ ラ人 対 タ ミール 人 とい う構 図が一時影を潜め ,再
び19
世紀末
以降表 面 化 した とい う
4
パ ーリ学 仏 教文化学 解 釈 を取るこ とに 依っ て , 我々 は, タ ミ ール 人 は シ ン ハ ラの敵 とい う一つ の パ タ ー ン を作 り上 げて はい ない だ ろ うか。 ス リ ラン カの 仏 教徒は タ ミ ール 人 とい う特 定の人種 に 対 し て敵 対 したの で1
よな く, 「法 の 島」(
Dha
a a) とい う概 念が常に 「シ ーハ ラ人の 島亅(
Sthaladipa
)
の概
念 よ り先 行 して い た こ とは歴 史が示す とこ ろであ る。 仏 教護 持
者 と自認
す る シ ン ハ ラ人に は, ラ ン カ島住 民で 仏教を信 奉 し さ え す れ ば一正 確 に は仏 教へ の 加 害 者で な け れ ば, 如何なる民族もこ の 島の 住 民 とし て承認 ・共存 可能だ っ たの である。 事 実14
世 紀 頃まで の タ ミール 人の 中にもか な りの 仏教 徒が 存在 した こ とは 指摘 さ れ て い る (Pathmanathan
【1999
亅,2
−3
,Nesiah
[20011
,7
に よ る) (6) 。 ま た グナ ワ ル ダ ナ も9
・10
世 紀の碑
文 を も とに , チ ョ ー ラ王 統 治時代で さ え も タ ミール 人集
団に依
っ て仏
教関係
施設
が保護
さ れて い た こ と を強調 して い る(
Gunawardana
【1979
],203
)。 文学 的に も15
世 紀の パ ラ ー ク ラマ バ ー フ6
世 (Parakuramabahu
VI
在位1412
−1467
)の 時代に活 躍 した ラー フ ラ長老の 著 作とさ れ る
PaficikEpradTpaya
とい う文 法書の中に も,Demala
−Jfitaka
−Gtitapadaya
とい う タ ミール
語
で書
か れ た 「ジャ ー タ カ語彙
解説 集 」 へ の言 及 が あ りσ1, これ らの 事実 は タ ミール 人 ;仏 教 加 害者 ・破 壊 者= シ ンハ ラ人の 敵 とい う 単純な構図 が成 り立た ない 証 左に な ろ う。 ス リ ラン カ有 史来の 歴 史を見る と き,確かに南イ ン ドか らの 侵略が あ り,タ ミ ール 王の統 治 も繰 り返 しなさ れて き たが ,シ ンハ ラ人の反 撃は仏教へ の 弾圧・迫
害が あっ た時の み に限られてい る よ うに思わ れ る。 今はその 事例を 一 々検 証す る こ とは避け る が,シ ンハ ラ・ タ ミ ール 闘争の 思 想 的源 流を成す もの として 常に言 及 さ れ るDutthagamarpi
−Elara
エ ピソ ー ド (例え ばObesekere
[19971
,359
−362
)
〔s) は 『大史
』 に出
るよ う な形で は2000
年以上の 歴 史を持つ タ ミール 語の古 典に も 民話に も一度も語 られて い ない こ とが指摘
さ れて い る(
Nesiah
[2001
],7)
。 これは少な くとも タ ミール 人に は 「シ ン ハ ラ ・タ ミール敵
対関係
」 とい う構 図は歴 史性の ない ものだっ たの であろう。 こ う して 見て来る と,シ ンハ ラ人の 民族 的ア イ デ ン テ ィテ ィー と して 歴 史性 を持つ もの が ある とす れ ば , そ れは 「仏教護 持 者 」 と しての 民族 主 義が原初で , 「シ ン ハ ラ人の 島j とい う概
念は,後
で検
討すス リ ラ ンカの 民 族 問題と仏教 サン ガ
5
る が,後
世,特
に20 世紀
に 入 っ て か らの 政 治 的環 境に よっ て 作 ら れ た概 念 で あっ たように思われる。3
. イギ
リス植民
地 政策 と仏教
復
興運 動
こ こで はまず
19
世 紀以降の イ ギ リス植 民地 政 策 と仏 教, 特に仏教 対キ リ ス ト教に つ い て 簡単に考 察 して み た い。 植 民地 政 策 と切 り離せ な い の が キ リス ト教へ の 改 宗で あっ た 。 オ ラ ン ダ植 民地時代のロ ーマ ン ・カ ト リッ ク 教 (Roman
Catholicism
)に始ま り, キ リス ト教へ の改宗
は 日増
しに 強くなっ て行っ た。 キ リス ト教徒
になる こ とが社会 的地位の向上 ・経済 的特 権階級へ の 近 道 と思 わ れ る よ うに なっ た こ と や,それに反比例 して仏 教の 地位 ・影響 力が衰退 して 行っ た こ となど は,多 くの学者の 認め る とこ ろ である。 仏 教が 何 世 紀も享受 して 来た中央 政府の 擁 護政策は,敵 性国に依っ て剥奪
され , ま た仏教
へ の 弾圧の 方法と してキ リス ト教イ デ オ ロ ギ ー が利用されたの で あ る(
Malalgoda
f
19761
,28
)。 こ の よ うに キ リス ト教へ の 改宗はエ リ ー ト ・特権 階 級を 生み (De
Silva
[1984
亅 ,Bond
[1988
亅,21
に よ る),ス リラ ン カで の 階級差 を更に顕 著な もの とした。英国が
1815
年に全島を統治 するに 至 るまで, キャ ンデ ィー王 国(
Kandyan
Kingdom
)は独 自の 自治行政 区 を な して い た。 キリス ト教の迫 害を受け た比 丘 達が キャ ン デ ィ ーに逃れ た と言わ れ て い る が, その キ ャ ンデ ィー 王 国内
で は王 や貴 族か らの 寄 付によ る荘 園保 護の た め, 仏教
教 団組織 内
で の僧
院住職 世 襲 制が強 く な り,次 第に具足戒授与が手薄となる結果 を生 んで し まっ た。 そ の 結 果,18
世 紀 に は時の 仏 教 指導者
ヴァ リビタ ・サラ ナン カ ラ (Valivita
Sararpafikara
)は具足戒授
与の復
興の た めに尽 力
し, 王 の 支援
の も とタ イ か ら比 丘 を招きサ ンガ の 再建を 図っ た。 そ して1753
年に再び具 足 戒 授 与の 儀 式が行わ れ る に至 っ た (Malalgoda
l
976
:49
−69
>。 その 時出来たの が,現 在ス リラ ン カ仏 教の 最大宗派
で あ る シ ャ ム 派(
Siyam
NikAya
)
で あ る。 こ の 派は, 後に, シ ン ハ ラ社 会の 高地 (キ ャ ン デ ィ ー 王 国)上層 階級
で ある ゴ イ ガマ (Goyigama
一 農 民 )の み を得度
す る とい う非難を招 くこ6 パ ーリ学 仏 教 文 化 学 とに なる。 そ して キ ャ ン ディ ー王 国内で始ま っ た他カース ト所 属者に よる 対抗 は, サラーガマ
(
Salagama
)の学僧ア ン バ ガハ ピ テ ィヤエ ー ・ニ ャ ーナ ヴィ マ ラ テ ィ ッ サ (Ambagahapitiye
Napavimalatissa
)が1803
年アマ ラプラ派(
Amarapura
Nikaya)
を設立す る に至っ て 新た な展
開を迎え る。植
民地 時代
に 経済 的 ・社 会的地 位を得てき た低地(
特に西部海 岸地方 と南部 )の 別カース ト (
Salagama
,Karava
,Durava
)に属す るシ ンハ ラ人は,彼 等独 自の宗教 改 革を推進し,低地に は新た な仏教復 興運動が始まる。 これ がアマ ラプラ派 分 裂に
繋
が っ て 行 く。 更に, 既 成の サ ン ガ構成
態度に 不満を持
ち, 比丘 の 本来あるべ き姿を取 り戻そ う とす るグル ー プ が現れ , シ ャ ム派か ら離 脱 したア ンバ ガハ ヴァ ッ テー ・ サ ラナ ン カ ラ (Ambagahavatte
Sara
胆 血kara
)は 他の協 力者 と共に具足戒 (upasampad5)
儀式 を1864年
独自に挙行し,これが ス リ ラン カ仏教三大 宗派の 一つ で ある ラーマ ンニ ャ派 (REmafifia
Niktiya
)の 確立 と言わ れてい る。 これ らの 仏教復
興運 動特
に サ ン ガ内の改革
は低
地 エ リー ト階級の社 会 的進 出と無 関係で はない と思 わ れ る。 プラン テ ーシ ョ ン経営
が生み出した何種類かの関
連事業に は主に低地 シ ンハ ラ人が多 く携わ っ た とさ れ る。 特に カ ラーワ(
Karava)
階級に属する低地シ ン ハ ラ人の 経済 的躍進は目覚 しい ものが あっ た とい う (Roberts
[1982
】,10
(H
O2
, 大岩 【1992
〕,122
に よ る)。 他 方,エ リー ト層の 形成
に はもう 一つ の 要因があっ た とさ れ る。 そ れは教育
で あ り, 英語
教育 ・キ リス ト教へ の 改 宗に よるもの であ る (Malalgoda
【1976
]:193
ff
)。 行政 ・司法機 構及び専 門職に従事す る た め に は こ の 二 っ の条
件 が不 可欠と され た。19
世 紀末の 仏教復興運 動に も見 られ る よ う に, ス リ ラン カ社 会に根 強く残っ てい る伝 統 的 ・ 地域的階級性が,後 述する よ うに, 民族 問題を論じ る際
にいか に重要なウェ ー トを占め て い たか が解る。 し か し強調し な け ればな らない 点は, この仏 教復
興運動にもシ ンハ ラ人対 タミール 人 とい う民族間の問題を含む展 開は見られない こ とで あ る。 あ くまでも仏教復興を目的とす る運 動で あっ た。 そ して シ ンハ ラ ・タミ ール 関係は19
世紀 末まで の ス リ ラ ンカで は特 に問題 とはな らな かっ たの で ある (Nesiah
[2001
】,8)
。ス リ ラン カの民 族 問 題 と仏 教 サンガ 7
19
世 紀 末の ス リラ ン カ は大 き な変
動 期 を迎え よ う と して い た。 有 名な1815
年のKandyan
Convention
の中
で, イ ギ リス 植民地 政 府は仏
教の地 位 ・ 保 護を保 証 するか の よ うに謳
っ て い るが〔9),実 際に は仏 教弾
圧 の 政策を取 り続
けて来た。 こ れ は16
世 紀以降
の キ リス ト教 布 教 ・改宗の政 策 と無関 係 で はな い と考 え られ る。 仏教へ の 弾圧 は19
世 紀以降キ リス ト教 系 学 校の 台 頭か ら も伺え る。1831
年
のColebrooke
Commission
も比
丘の指導下
にあ る政府
系 学校 は問 題が あ り無 能で あ る とい い , ミ ッ シ ョ ン ス ク ール の ある地 区 で は不必要な仏 教系学 校廃 止 を推 して い る(
Malalgoda
[1976
],194
)。 こ のColebrooke
Commission
の報
告 を受け , 植民地 政府
は仏
教 系 学 校の 閉鎖 を強 行 する。 その間
,仏 教教
団が携
わ る教 育機 関 も ある程 度 続 くが, ミ ッ シ ョ ン ス クール とは比較にな ら なか っ た。 シ ンハ ラ仏 教徒
は社会的地位確立 の た め に は 当時
の不平等
な教育制度
を非難 す る とい うよ りは, む し ろ そ れ を利用 し たむ きが ある。19世 紀初頭
の仏教
徒の キ リス ト教へ の対 応は寛 容で あ り, 宣教 師が村々 を巡 回 した時で も,多 くは村の寺
に泊 め て も らっ た と言われて い る(
Malalgoda
l
1976
亅,208
−213)
。 しか し, こ の よ う なシン ハ ラ人の 民族 性 か ら来る寛容性
・親
和性
を無
能 と捉えたイ ギ リス植 民地 政 府と宣 教 師は, 頑 に仏教 批判 を続
ける。 こ の よ うな社 会 背景の中
で,つ い に仏 教徒 も立 ち上が らざる を得
な くなっ たの である。 しか しキ リス ト教
非 難が …・度に爆 発 したの で は ない 。1860
年以前の キ リス ト教へ の抗
議は組 織 だっ た もの で は な く, 例え ば1820
年に植 民 地 政 府に 提出
した抗 議 文に は, (1
}2000
年
以 上 の 歴史
を 持つ 仏 教の将来
を嘆
き,宣
教師
の使 用 する言 葉にい か に仏教徒が傷つ け ら れ て い るかを 示 し,(3
)
仏教徒
はその よ うな罵 言を宣 教師
に使
わ ない こと を理 解さ せ, そ して ,(4
)宗 教の寛容
性を強調 し, 非難
め い た印刷物
の撤 回及 び禁 止を訴えてい る(
Malalgoda
[1976
],213
−214)
。 しか しこの抗 議 文へ の 同意は 得られ なかっ た と言わ れ る。キ リス ト教 に対 する反発の ク ラ イマ ッ クス は
1849 年
発行
されたGogerly
の 「キ リス ト教の明証 と教
え 」(
Kristiyani
Prajfiapti
)
とい う著
書に依る とこ ろ が 大 きい と さ れ る。 こ の本の 発 刊に よ り, キ リス ト教 ・仏
教 間の 論 争が本 格8 パ ーり学 仏 教 文 化 学 的に な る。 こ れ に対
抗
して 仏 教 徒 も印刷 物の 発 行に 努め ,1855
年に は コ ロ ン ボ市内に仏教 プレ ス が 始 ま り, 次 い で1862
年に はス リ ラ ン カ南部
の ゴ ー ル とい う町に も仏 教プ レ ス が開かれ る (Malalgoda
[1976
),218
−219
)。 これ ら の 運動
も商業資本
家, シ ン ハ ラ ・ エ リー トの 援 助な くし て は 当然 な し得な か っ たで あろ う。 こ こ に 仏 教徒の 新たな 団結の 兆 し を見 るこ と が出来 るの で あ る。 ま た仏教復
興 の 一環 と して1873
年に はVidyodaya
Pirivena
が, そ し て1875
年に はVidyala
血kdra
Pirivena
が開 校す る。 仏 教 復興 運 動はこ の よ うに 徐々 に形を整え て い っ たの で ある。 当
初
キ リス ト教 側の 挑発に乗 り気で はなか っ た仏 教徒 も, や がて反撃
に出
る。 その 旗 手 となっ た の が, ゴ ール の ヒ ッ カ ド ゥ ヴ ェ ー ・ス マ ン ガ ラ(
Hikkaduve
Sumahg
…Ua
)
とコ ロ ン ボ の モ ホ テ ィ ヴ ァ ッ テー ・グナーナ ン ダ (Mohotivatte
Gupatianda
)で あっ た。 キ リス ト教 と仏 教の 論 争は1873
年8
月26
日と28
日の2
日間に わ た っ て コ ロ ン ボ郊 外の パ ー ナ ドゥ ラ で 開か れ た所 謂 「パ ーナ ドゥ ラ論 争」 が最も有 名だが, こ の主役を 務め た の がモ ヒテ ィ ヴァ ッ テ ー ・グナ ーナ ン ダで あ る。 こ の 「パ ーナ ドゥ ラ 論 争」 で の仏 教 側の勝 利 は, 仏教 復興運 動に大き な影 響を及ぼ した。 そ れ は まず,(1
)Olcott
大佐
やBlavatsky
女 史の 仏 教へ の 関心 を喚起 した こ とで あ り,(
2
)Edwin
Amold
のThe
Light
ofAsia
(1879
年 発行 )に代表
され る よ うに,時
同じ くし て西洋で の仏
教へ の関
心 が高ま りつ つ あっ た こ と,で ある。 こ の よ うに外部か らの賛
同者
を得
た こ とは仏 教復
興運 動に大 き な力となっ たであろ う。キ リス ト教の 布 教に は教 育,説法 , そ して
印
刷 物の 利 用 とい う3
つ の 方 法が取 られ た こ とは指摘
されて い るが ,仏
教側
は主に説 法, 印刷 物で対 抗 して き た。 しか し対 抗 し切れ な か っ た の が教 育であ る。 こ の 面で の 解 決に はOlcott
大佐
やBlavatsky
女 史の 力が大で あっ た。 そ して ア ナ ガ ー リ カ ・ダ ル マ パ ー ラ の 出 現に よっ て19
世紀末
以降仏教復
興運動
の 頂 点を迎え る。 こ の間題 に つ い て は多 くの 論 考が あ るの で こ こ で は詳述 は避 け ,二 ,三 の 重要
な点へ の 言 及に留め る。 ま ず , ダル マ パ ー ラ の シ ンハ ラ仏 教 徒の ア イ デ ン テ ィ テ ィ ー探 求に は大別 して2
つ の 目的意識
が あっ た 。(
1
)シ ン ハ ラ人ア イス リ ラン カの民族問題と仏 教サ ン ガ g デ ン テ ィテ ィ ーの
消
滅はス リ ラン カの植 民地化, 西洋化
, そ して キ リス ト教化
に よ る と し,仏
教を基 盤 と した民族の 伝 統 ・文
化へ の 覚醒を呼 びか け, 民族ア イ デ ン テ ィ テ ィ ー高 揚の 方法 とし て 『大史』 に 出 る ドゥ トゥギ ャ ム ヌ (DutthagalTiai
!i
)を フル に 活用 した こ とで あ る (Bond
[1992
】,55
)。 ダル マ パ ー ラの 敵は英 国植 民地政府
で あ り, キ リス ト教で あ っ た こ とは彼の 著 作か らも伺える。 ま た 西 洋 かぶれ したシ ンハ ラ ・エ リー ト達の 生活様式
にも痛
烈 な非難
を浴びせ て い る。 ダル マ パ ー ラ は も う一つ 重 要な概念
を紹
介強調 した とい わ れてい る。 そ れは, 「シ ンハ ラ人アー リ ヤ系民 族」 説で あ る (Guruge
[1965
】,485
)。 こ の 概 念を ドゥ ラ ヴ ィ ダ系タ ミ ール 人 と対 比 させ る説もある よ うだ が, しか しこ の 「シ ン ハ ラ人アー リ ヤ祖先」 説 は , む しろシ ン ハ ラ人 は ブ ッダ と同系で ある こ とを強調す るた めに 使わ れた ようで ,その こ とは以 下の 論証か ら も明白に な る で あろう。王統 史が 示す よ うに, ス リラ ン カに はタ ミール 系の 王が
統
治 した時代
が 何代か ある。彼
の 著書の 中で 認め てい る よ うに, ダル マ パ ー ラも 「最後の シ ン ハ ラ王はSri
Narendra
Sinha
で こ の 王 の後継者
は マ ドゥ ラ 王族の 子 弟Kirti
Sri
である。 彼は ヴ ィ シ ュ ヌ神の 宗 教の中
で 育っ た が, しか し王位 継 承 後は 国の 宗 教を擁 護 し た」 (Guruge
[1965
],480 )
, とい う よ うなコ メ ン トを残 し て い る。 また彼が タミ ール 人に 言及す る場合
, イ ギ リス 植 民地政 府や 西 洋 文 化を徹底
的に排 斥 し て い るの とは完 全に トー ン が違 う。 例え ば ,「ベ ン ガル の ラ イ オ ン族の 末 裔(
シ ンハ ラ人)
はア ー リ ヤ 民 族の 性格 を保 持 しつ つ ,時に
Malabars
,Tarnils
,Malayans
達が そ れ ら を破壊
し よ う と試み たに も拘
わ らず ,灌 漑 池,橋,道 路,
病
院,寺
な ど を作っ た」 (Guruge
l
1965
],207)
と言 い , また 「民 族的 に 見て, シ ンハ ラ人 はユ ニ ーク で あ る 。 彼 らに は隷 属の 血 は流れて い ない し, 異教徒タ ミール 人 や,3
世紀 もこ の地 を荒廃 さ せ,由 緒ある古
い寺
を破壊
し,貴
重な図書 館 を焼き払
い , そ して こ の 歴 史的 民族を 潰滅 近 くまで追い やっ た野 蛮な ヨー ロ ッ パ 人のい ずれ に も征服 さ れた こ と は ない 亅(
Guruge
l
1965
],479
) と し て い る。 その 他 タ ミ ール 人に言及 し て い る箇所 として は,「タミール 侵 略
者 Elala
, _」(
Buddhism
,Past
10
パ ーリ学 仏 教 文 化 学 [19651
,488 )
, 「例えば , タ ミ ール , チ ョ ー ラ , ケ ーラ ラ,マ ーガ , ジャ ワ , ポル ト ガ ル , オ ラン ダ, イ ギ リス , と次々 と続い た侵
略者
, 云々 」(
Guruge
[1965
】,486
), 「最 後 の シ ンハ ラ 王Narendra
Singha
が1734
年に他 界す る と, その 後 国は南
イ ン ドの タ ミール 王 子の 手に渡っ た」(
Guruge
【i965
],494
), 「コ ロ ン ボ市は今 南イ ン ドの タ ミール 人 , ムス リ ム人, マ ラ ヤ 人で 一杯
で , イ ン ドの町の ようだ」(
Guruge
[1965
],697
), な ど が ある が , こ こで注意す べ きこ とは タ ミール 人へ の 言及は 歴 史的 記述の 中で 「異教 徒」 な どの 言葉を使 っ て はい るが, これ は歴 史の流れ の中
で の 記述で あっ て , 西 洋統 治者
へ の非
難
の 比で はない。 つ ま りダル マ パ ーラ の 思想の 中に は タ ミール 人 を全面
的に 排 除し よ うとす る意 図は全 く見受
け られ ない の で ある。 大岩 (大岩 [1992
],137)
も言及して い る が,オベ ーセ ー カラ(
Obesekere
[1997
],361
)
な どの よ うに ドゥ トゥ ガ ム ヌ王 の エ ピ ソー ドの み を取 り上 げ, ダル マ パ ー ラ は タ ミ ール 人 を仏教の 敵として捉えて い た と断
定す るこ と は早 計であろ う し,事実
ダル マ パ ー ラ自身 もシ ンハ ラ王朝に タ ミール 人 王 がい た こ とを認め て い る点 や,Ki
− rti舘R
勾asilpha (1747
−82
)を仏 教 擁 護に尽 力 した 人物 とし て描い て い るこ とな どを総 合 すると, ダル マ パ ー ラの時代
に は, シ ン ハ ラ人対 タ ミー ル とい う敵 対 関係は未だ明確 に は現れてい ない と言 え よ う。4
. シ ン 八ラ人
対 タ
ミー ル人
不
信 感
,疑
惑
の表面化
そ れ で は い つ 頃か らシ ンハ ラ人 対タ ミール 人 とい う民族 主 義 的 構図が表 面 化 するの で あろ うか。
19世 紀末
か ら20
世 紀 中 頃まで に 仏 教 復興運 動に拘 わ っ た人達に は,(
D
過去の 栄華
を取 り戻そ うとするキャ ン デ ィーの エ リー ト 達,(2
)ダル マ パ ーラ を慕 う革新 主義者 達, そ して(3
)ダル マ パ ー ラ の思想に 賛 同 し なが らも政 治 的に仏教復
興を模 索
したグル ー プ(
Bond
【1992
亅,61
−62
) が あ る と言 う。 こ の 間色
々 な仏 教 系の在 家 者 団 体が組織
さ れ る。1891年
の大 菩 提 会 (
Maha
Bodhi
Society
)
,1898
年 のYMBA
(Young
Men
’sBuddhist
Association
)
, そ し て こ のYMBA
の 支部
が 集 ま り,1919
年 に はAl1
Ceylon
ス リ ラン カの 民族問題 と仏教サン ガ
ll
と発
展 して行 く。 また 一つ 注 目 しな け れ ばな らない 点は , 「キ リ ス ト教 ・仏 教論
争」 な どに代表
され るよ うに, 仏 教復 興運 動 促進の 原 動 力 となっ たの が, ア マ ラプラ派を擁護 したサ ラーガ マ , カ ラー ワ に属す る階層
の 人 達であ っ た こ と で あ る。19
世紀 末か ら20
世 紀 前 半期 に 西部及 び南部
海 岸 沿い に 建 て られ た寺の多 くは こ の 派に属す る。仏
教復興 運 動 に は植
民 地 政策に よ り出 現した商業資本
家の援
助 ・支援
が大で あっ た こ とは, ヒ ン ドゥー教復
興運 動 とは性 質を異に した 点 と して指 摘されてい る(
Bastin
[1997
】 ,392)
。仏
教復興運動 と殆
ん ど並行
して組織
され たの が , ヒ ン ドゥ ー教復
興運 動で あ る。19
世紀
の 代表的
な ヒ ン ドゥ ー教復
興 運 動 指導
者 はArumugam
Navalar
(1822
−79
) とい わ れ ,彼 の 活 動は1840
年 と1870
年代 とい う (Bastin
[1997
】,390)
。 しか し仏 教 とは敵対関 係にあっ た の で はな く, む しろ セ イ ロ ン ナ シ ョ ナ リズム の 旗印
の元, 互い に協 調 しあっ て い た と言わ れ る (Bastin
【1997
],391
)。 例えば, タ ミ ール 人の 指 導者Ponnambalam
Ramanathan
(1851
−1930
)と彼の 弟
Ponnambalan
Arunachalam
はVesak
を休日 にす る た め に尽力 し た と 言わ れ て い る (Bastin
[19971
,391
)。 又1915
年の 所 謂 シ ン ハ ラ ・ム ス リム 暴 動oo)の 時もシ ンハ ラの 言い分
に肩
入 れ した とい う。ヒ ン ドゥー 教復 興運動の
指導
者は, 前述 した よ うに, タ ミ ール 人 の上層 階層
に属
す るヴェ ラー ラ(
Vellala
)
カース トであっ た。 そ して復
興の 基 盤を な した もの は シ バ神信仰
を強調
す るサ イ ビズム(
Saivism)
,特
に サ イ ヴァ ・シ ッ ダ ーン タ(
Saiva
SiddliAnta確
立 され た真
理)
であっ た。 こ の 哲 学に は カー ス トが容
認さ れてい る と言わ れ る(
Bastin
[1997
】 ,395)
。 こ の ヒン ドゥ ー教復
興運
動に おい て は寺院
の建 立や学問
の 重視
な どが主な活 動 とさ れ た。 タミー ル 民族主義を語
る際,2
つ の 重要な ポイ ン トが あ るが, そ れは タ ミ ール 人社 会の カー ス ト制と教 育で ある。 カ ース ト は上 層 階層の ヴ ェ ラー ラ (Vellala
) と中 層階 層の カ ライヤール (Karaiyar)
で あ る。 こ の 階 層 区 別は ヒ ン ドゥ ー 教復 興 運 動や , タ ミール政 党内の 分 裂, そ して20
世紀 に表 面化す るタ ミー ル 民族ア イ デ ン ティ テ ィーに も影 響を及ぼ し た と さ れ る。 次に教 育の 問題だ が , ヒ ン ドゥー教復興 運 動の 中で, 教 育 が 重 要 視 され た事実は, タ ミール 人12 パ ーリ学 仏 教 文 化 学 の
社
会進 出の 大き な原 動 力となっ た。 英語教育
を受け た タ ミ ール 人若者
は こ ぞっ て イギリス植 民地 政 府の 行 政機 構の 中に職を求め る よ うにな る。 植民 地 政 府は ス リ ラン カ だ けで な く統治 下にあっ たマ レーシ アな どでの イ ギ リス 人 と現 地 人 との パ イプ役 とし て も タ ミール 人 を優
遇 した(
Bastin
[1997
],410 )
。 しか しこ の 教 育 問 題は,後に色々 な形 で シン ハ ラ人 の顰 蹙 を 買 う原 因 とな っ て行く。 イ ギ リス植 民統 治 下の こ の よ うな タ ミ ール 人の 進出 は, 過激シ ン ハ ラ民族 主 義者に依 っ て 不 公平 と糾 弾さ れ(
Arasaratnam
[1998
亅 ,307 )
,爾 来 こ の教 育の 不 平 等 さ を指摘す るシ ン ハ ラ民 族主義 者 は多
い 。 例え ば ,1961
年の
National
Education
Commission
は, シ ン ハ ラ人は
3212
人 に1
人の 割 合だっ たのが, タ ミ ール 人は320
人に1
人の割
合で大 学に 入学
した と報告
して い る(
Gunawardana
,P
S
.【2001
亅,13
)。 こ の 問題に は後で も触 れ るこ とにす る。先に見た よ う に, シ ン ハ ラ ・タ ミ ール 両民族の 各々 の 政 治 分 裂は イ デ オ ロ ギーの 違 い とい うよ り , カ ース ト ・社 会 的地
位
の 違い に依 る とこ ろ が大 きか っ た。 し か し20
世 紀 前 半の イ ギ リス 植民 地時代
に は 「独立 ・ 自治 権 獲 得」 の 大 前提が あ り, タ ミ ール 人 指 導 者 も, 当時の 特に隣国 イ ン ドの 独立 運動の影 響 も あ り, ま たシ ン ハ ラ人 と協
調し なが らイギ リス か ら独立 を勝ち 取る 目的意識を持つ よ う に なっ てい た こ と と相 俟 っ て, 一時 的に せ よ 「セ イ ロ ン 国家 至 上主義」 を打ち出 し てい た。 しか しこれ らの 政 治情 勢の 中で も, タ ミール 人の 中に は何か くすぶ る もの が あっ たの で あ ろ う。 ス リ ラ ン カ国 内で の その よ うな民 族 間 不 調 和 を察 した イ ギ リス 政府は,1924
年 施 行 憲 法 の実効性
と, もし行政上 の 問題 点が あ れば そ れに つ い て の推薦 ・提 案を調 査 ・報
告す る目的で ,1927
年 ドノ モ ー 男爵 (
Lord
Donoughrnore )
を ス リ ラ ンカに 派遣 し た。 報 告 書の 作 成に伴い ,140
人 以 上の ス リラ ン カ人が イ ン タ ビュ ー を受けた と言わ れ る。 タ ミール 側か らは,
Ceylon
Tamil
League
,
Tamil
Mahaj
anaSabha
,All
Ceylon
Tamil
Conference
の3 組織
が諮問
委 員 会に参加 した (
Rajasingham
〔2001D
。とこ ろ で, こ の諮 問委員会がシ ンハ ラ ・タ ミール 間の政 治 的 ・民 族 的 関 係
ス リ ラ ンカの 民 族問題 と仏教サ ン ガ
13
それ は こ の諮
問 委 員 会に初め て タ ミール側
か ら少数派
人権
保 証に関す る提 案 が な さ れ たこ とで ある。 席上
タ ミール 人代表 者
は議 会の 議 席 数を1924
年 憲 法に定め られ た シ ンハ ラ人に対して2
:1
の 比率
確保を訴え た。 こ の よ う な提 案が タ ミール側
か ら出さ れ た背 景に は, タ ミ ール 人 を直
接敵
対 視 して い なか っ た とはい え , ダル マ パ ー ラ ら に代 表さ れ る仏教復 興運動や ,一部の シ ン ハ ラ人指導
者の言 動が 多分に作
用 したの で は ない か と考え られる。1917
−20
年 代の ス リラ ン カで は, 愛 国セ イ ロ ン の も と民族
を越
え た 団 結 (Roberts
【1997
],446
)を両 民族 政 治 指 導 者は訴えて い る。 この 時 代の 政 治 的野 望が イ ギ リス か らの独立で あっ たこ とを考
え れ ば , シ ン ハ ラ ・ タ ミール 両民族の 歩 調が合
っ た と して も不 思議で は ない 。 しか し団結
を訴えるシ ンハ ラ人 指導者 の中
に は演 説やパ ン フ レ ッ トの 中で ,般 の シ ンハ ラ人が対 象だっ た こ と も あ り, 深
層
意 識の中にある自分達の 「 シ ン ハ ラ人」感
覚を捨て きるこ とは出 来なか っ た。 例え ば ,1917
年E
.T
.de
Silva
は , 「多分
,北部
が セ イロ ン タ ミ ール 人の 故 郷で あ り国で あ る よ うに, セ イロ ン はシ ン ハ ラ人の 故郷で あ り国 で あ る。 他の 住 民 も英 国直 轄領の も と疑い な くシ ンハ ラ人 ・ク ミール 人 と同 等の権利
を有
してい る。 し か し, こ の 事情
は歴 史 と地 理 を抹 消す る もの で は ない。 シ ン ハ ラ人は疑 い な く依 然 と して 国家であ る」(
Roberts
[1997
},450
) と言い , ま た1913
年 創 設の 「The
Sinhalese
」 とい う雑 誌の 第2
号に は, 厂こ れ ら(
色々 なシ ン ハ ラ人の 組織)
は かつ て偉
大だっ た国家 の再 建に そ れ ぞ れの役割を果 し て い る。 こ の 新 しい 熱 気に よっ て, ラ イ オ ン 民 族の 将 来 は確
実な もの と なっ た」(
Roberts
[1997
],451)
と論 じて い る。 つ ま りシ ンハ ラ 民族
主義とセ イ ロ ン 国家 至 上主義
が 並存
してい た(
Roberts
「1997
],451
−2)
時 代で あ っ た。 彼 らシ ン ハ ラ人の感情 表 現が 意図 的で は な か っ た こ とは, 当 時の 独立 に向けて の 異民族協
調 ・団 結 とい う政 治 情 勢 を考 慮す れば当
然で あ っ た が , しか し少 数 派とい う立 場 故に, タ ミール 人に は これ らシ ン ハ ラ 人の 言 動が, シ ン ハ ラ民 族 主義高
揚 と映っ た で あ ろ うこ と は理解に難 く な い。 ま た 少数派で あ り続け る以 上 ,セ イロ ン 独立 にあた っ て は 当然大 多数 派 の シ ン ハ ラ人に有利で あるこ とは火を見
る よ り明ら か で, こ れ らの事 情が シ
14
パーリ学 仏 教 文化学 ンハ ラ人 指導者
に対 する疑 惑 ・不信感を助長させ る原 因になっ て行
っ た と思 わ れる。 こ の よ う な政治 的 背景の 下で, ドノモ ー諮
問委 員会の タ ミール 人指導
者の役 割は理解
されるべ きで は な かろ う か 。 し か しシ ン ハ ラ人指導者の コ メン トが意図 的で なか っ た 所に悲
劇が見られる。 結局タミール 人の 言い分は 聞き入 れ られ ず ,加えて ドノ モ ー諮 問委員会の報 告書は民族 間の不
調 和を次 の ように指摘してい る。 「(
セイロ ン の)
国民は単
一で は な い ばか りか ,互い に不信 感 ・ 疑 惑を持
つ い くつ もの要素
か ら構成さ れてい る。 セ イロ ンで の愛 国主義 とい う概 念は国家に関す るこ と と同じく らい人種的で ある。 ま た最 大 の 国 益 と言うの は ある一部
の人達の 利益 と同義で ある」(
R
勾asingh [2001
,September
】)。年齢や社 会 的
背
景の 議論はあっ たに せ よ, シ ンハ ラ人 政治家が国 民の参政 権獲
得を支持 し, タ ミ ール 人は, こ の 参政権 授 与が少
数派タミール の 人権
を 更に悪化す る と言う理 由で反 対 し たの も, 実は,未だは っ き り とは具体性の もたない シ ンハ ラ人に よるタミール人排斥に対す る危機 感 ・ 不信
感か ら くる タミール 人の自
己防
衛 手段だっ た と言え よ う。 か くし て, ポン ナ ン バ ラン ・ ラーマ ナー ダン は, 「危機が 我々 を襲
うだろ う。 ドノ モ ー諮 問委 員 会は国の 破 滅に なる憲 法を作
成 して しまっ た。 何 も知 らない 大 衆 が 以後 国政 者を 選 ぶ よ うに なる。 … …タ ミール 人の 将来 は危 険に晒されて い る」(
Rajasingham
【2001
,SeptemberD
と演説 した とい う。 その 後,1931
年に施 行さ れ た ドノモ ー憲法は , 以来ス リ ラ ン カで の シ ン ハ ラ ・ タ ミール 間の不信 感を更に悪 化さ せ て行く ド地を作
っ て しまっ た と言われて い る。その 後,両民族の政治 的対立が表面化 し て い くが, タ ミール 人の
間
でも意 見の 相 違は避け られ なか っ た。 その中
で ス リ ラン カ独立の 少し前 ,1944
年GGPonnampalam
ら に依っ て結 成さ れ たAll
Ceylon
Tamil
Congress
(ACTC
一 全セ イ ロ ン タ ミール 会議
)
の 活躍に 注目し て み よ う。 その 年9
月に は, 憲法改革に関する報 告書を纏め るべ くソール ベ リー委 員会が来訪す る 。1945
年
の報
告 書 作成まで , 数 多 くの 人 達が こ の 諮 問委員 会 に提 案 ・苦情書 を 提 出し た。ACTC
か らは ポ ン ナ ン バ ラン らが意見を述べ た が, その 中で,セ イス リ ラ ンカの 民 族 問 題と仏 教サ ンガ
15
ロ ン は東 洋の 国で あ り,西 洋文
明 ・文化
とは異なっ た もの を持
っ て お り, 従っ て イ ギ リス 式議 会制度
はセ イ ロ ン で は存
在 し得ない こ と を進 言 し, そ して有 名
な 「50
:50
」(
平 等
代 表制
: シ ン ハ ラ人5
割 , 全 少 数 派5
割 )の代表
制を要 求 した。 しか しこ の 要 求 も却 下 さ れ, ソ ール ベ リー諮 問委 員 会 も, 「提出 さ れ た証 拠を詳 細に分析 した結果,少 数派 人 種に対す る差別
がセ イ ロ ン政 府の 一一般政 策に反 映 し てい る とい う十分な る証 拠は見出しえ ない」 (Rajasingham
[200
1
,October
])と結 論 してい る。民族 問題の 歴 史 的展 開を論じ る と き,
学者
の間
で も タ ミール側
の主張
とシ ンハ ラ人側の 主張に は食い 違い があ る よ うに 見受 け られ る 。 特に ソール ベ リ ー諮 問 委員会に お けるタ ミール側の 主 張(
「50
:50
」)
はシ ンハ ラ人に とっ て信
じ られ ない話であ り, タ ミール 人政 治家へ の 不信 感へ と繋が っ て 行 く 。 こ の機を境
に新 しい 政 治展開
が始まっ たよ うな気がす る。 その 気運は独立後 顕 著に なっ て 行 く。 民族 問題が存 在す る とい う意 識へ の 目覚め は多分に互い の 不 信 感に端
を発した の で あ ろ うが, 林 も指 摘 して い るよ うに隣 国イン ドの タ ミール 人分 離 独立運動の影響
も大きか っ たの で あろ う(
林
[n.d
」)
。 一旦植
え付けられ て しまっ た疑惑 ・不信 感は
1949
年 設立のTarnil
Federal
Party
(FP
)に依っ て表 面 化 する。 タ ミール 民
族
主義の歴史
の中
で , このFP
が独立分離
を前面
に打
ち出
した最
初 と言
わ れ るがt まず,51
年の 大 会の 採 択で は セ イ ロ ン の タ ミール 人はあ ら ゆ る 点に お い て シ ン ハ ラ人 と は区 別さ れ る民族で あると し, まず, こ の 国に おい て シ ン ハ ラ人の そ れ と同じ く らい 古くて 栄光 ある歴史
を有
し, 次に, シ ン ハ ラ 人 とは全く異な る言語を話 し , そ して こ の 国の3
分の1
以 上 を占め る特
定の 地 域 に居 住 して い る (林 【n.d
.D
と述べ て い る。 そ して ,1956年
のS
.WR
.D
,バ ンダ ー ラ ナ ーヤ カの 有 名な 「シ ン ハ ラ ・オ ン リー」(
シ ンハ ラ語
の み公 用 語 化 )が 国会に上程される と, コ ロ ン ボ市ゴ ール フ ェ ース でFP
の メ ン バ ーが座 り込みを し, シ ン ハ ラ人 暴徒 に よ る襲 撃に遭う。 ま た タ ミ ール人 地 域へ の シ ンハ ラ人 入植 政 策(
1953
年が最 初 )に反 対 し,FP
は こ の年,… つ 又 はそれ 以上の タ ミール 言語
州の 創設
, セ イ ロ ン の統一 ・治 安 を脅か さ ない 範囲で 自治権 を勝ち取 る (林 [n.d
.]) 採
16
パ ーリ学仏 教 文化学択
を して い る。 し か しこ のFP
の 考え も タ ミール 分離 国家 運動 とい うよ り , まだ タ ミール 民族 主義の 部 類に属 し,真
の 「分離
独 立 国家
」 イ デオ ロ ギー (タ ミール イー ラ ム)
が タ ミール 人大衆の 支持を得るの は1970
年代 以降とい う説もある (Nesiah
【2001
],16)
。 こ の 時代の イ ン ド・タ ミール ナ ー ドゥ州の 政 治情 勢 も含め た ス リ ラ ン カの 政治 事情 に つ い て は林 も述べ て い る が(
林 [n.d
.1
)
, シ ン ハ ラ人 ・ タ ミール 人 双方の , ほ んの 一部の 政 治 家の 権力 欲の た めに繰
り返されてきた セ クシ ョ ナ リズム が, 現在の よ うな民族 問題の 泥 沼化 を 助長して し まっ た と考え られ る。5
.仏 教 サ
ンガ
の役 割 と対 応
今まで 見て きた こ とか ら も わ か る よ うに, ス リ ラ ン カの 民族
問
題は政 治 に依っ て作 られて きた面が 多分に ある。 互い の 疑惑
不信 感, そ して 一部
の 政治家
の 近視 眼 的政 策が シ ン ハ ラ人で あ れ , タ ミ ール 人で あ れ、大 多数の 国 民 を 不幸に して き た原 因であ る。 事 実,1983
年7
月 の シ ンハ ラ人 に よ る タ ミール 人迫害 事件, 所謂
「7
月暴動 」 の 際も, 暴動化 した シ ン ハ ラ人の怖
さ に,一般 民衆は タ ミール 人が 殺害さ れて も見て 見ぬふ りをせ ざるを得なか っ たが , この 時 期に シ ンハ ラ人の 間で一般タ ミール 人 をか くま っ た り し た ケー ス が か な りあっ た こ とを筆 者も こ の 目で見て き た。 つ ま り, 一般民衆 の レ ベ ル で は,両民 族 は互い に協 調 ・共存 し てい るの で あ る、外
国な どで報 道さ れ るス リラ ン カの 民族
間題
は, あた か も全シ ンハ ラ人が タ ミール 人 に反 発 し て い る よ うな印象を与えてい る が,実 際に は, ス リラン カの 搬 国 民は寛容で 共 存の 精神が あ るの で あ る。 コ ロ ン ボ や キャ ン デ ィーな どの都市部
は勿論
北 部及 び東 部の , 所謂
伝統
的タ ミ ール 人地区以外の地 方で も , 多 くの タ ミ ー ル 人が シ ン ハ ラ人と共 存 して い る事実は, その 良い 例で あろ う 。 私 利 私欲を 貪 る一部の 政治家が民 族 問題を長 引か せ て 来た こ とは , ス リラ ン カ に とっ て不幸
な こ とだ が , この 傾向
は今で も続い て い る。 その 理 由と思わ れる もの の 一っ に , 前 述 した よ うに ,16
世紀
以降
450
年近 く続い たス リラ ン カの 植 民 地 時代の歴史が あ る。 この 時代に,英 語教 育を 受 け たエ リー ト対シ ン ハ ラ語教ス リラ ンカの民族問題と仏教サン ガ